2014年9月6日土曜日

ラッヘンマン作品の2つの演奏会の感想

ヘルムート・ラッヘンマンの室内楽

2009年5月26日 東京オペラシティ リサイタルホール

弦楽四重奏曲第3番 "Grido" (2001/02)
辺見康孝(ヴァイオリン)
亀井庸州(ヴァイオリン)
安田貴裕(ヴィオラ)
多井智紀(チェロ)

Allegro Sostenuto (1986-88)
岡 静代(クラリネット、バスクラリネット)
多井智紀(チェロ)
菅原幸子(ピアノ)


ヘルムート・ラッヘンマン オーケストラ作品展「協奏二題」

2009年5月28日 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

Accanto オーケストラを伴う独奏クラリネットのための音楽(1975/76)[日本初演]
岡 静代(クラリネット、バスクラリネット)

Harmonica 独奏チューバを伴う大オーケストラのための音楽(1981/83)[日本初演]
橋本晋哉(チューバ)

飯森範親(指揮)
東京交響楽団
音響:宮沢正光


もし、CDでしかその作品に接していないとしたら、その音楽の同時代性は印刷された作品名に添えられた年号以外の一体どこにあるのか。その一方で、では演奏会で接するのであればどうなのか。上記の2つのコンサートはそうした点では申し分なく「同時代性」を証明する幾つかの特性を備えているように見える。だが何よりも、作曲者本人が演奏に先立ち自作を解説するということが他を圧して「同時代性」を何よりも雄弁に告げているのは間違いない。その場に作曲した本人がいるという事実の方ではなく、作曲者が自作を言葉で解説するという「習慣」について言えば、これは「現代音楽」では珍しいことではなく、演奏に先立って本人が舞台に上がって説明するというのもその延長にあるだろう。もっとも解説の類はマーラーの時代以来コンサートの必需品のようで、大抵は別途買わなくてもいいように配布されるプログラムには大抵解説が載っている。同時代の作品なら本人が自ら解説することもあろうが、それだけではなく、過去のどんな作品でも同時代の誰かの手になる解説が載っているのが普通のようだ。してみれば多分、そうした需要が少なくとも後期ロマン派の時代以来今日に至るまで、聴き手の側にあるに違いないのだ。

もっとも「現代音楽」の場合には多少事情が異なるのかも知れない。20世紀のある時期以降の或る種の音楽ジャンルとしての「現代音楽」でなくても、或る種の音楽(例えばそうした意味での「現代音楽」以前のマーラーの音楽)はそう(だった)かも知れず、だが「現代音楽」の場合にはそのジャンルの特質によって一層そうに違いないのだが、それらは同時代の人間になかなか聴いてもらえないというパラドクスを抱えている。もっともある時期までのラッヘンマンの作曲上の立場からすると、挑発するためにわざとそうしていたという側面が窺えるから、ある意味では自業自得、別の見方をすれば確信犯であって、解説行為自体も必ずしも必要に迫られて止む無くというより、周到に予め計画されていた側面もある筈であるが。

2日ともラッヘンマンの解説は、通訳を介してということもあってかなりの時間をとって行われた。特にオーケストラのコンサートでは、それが日本初演だからなのか、オーケストラがチューニングを済ませてから実際に曲の部分を演奏しつつ紹介しながらの解説という「啓蒙的」「教育的」という他ないスタイルで行われた。一方、室内楽のコンサートでは、Allegro Sostenutoの説明の時に、「マッチ売りの少女」に言及しつつ、ピアノの内部奏法を自分でやってみせた以外は言葉のみによる解説であった。特に、曲の一部を事前に紹介するスタイルの解説の是非については当然議論があっていいように思うが、解説そのものは大変に興味深いものだったし、解説する行為自体が作品そのものではなくてもラッヘンマンの活動の一部として有機的に(過去もそうだったし、その延長線上で今なお)機能していることを窺わせるものだった。

日本初演された2曲の管弦楽曲は、自ら知る過去とはいえ、あるいはそれだけに一層、その音楽が過去に書かれたものであることを強く感じさせるものだった。自分が生きてきた時代の音楽という点では、だから紛れもなく「同時代」のものなのだが、自分が生きてきた時代を振り返って、その距離を感じるといったことを音楽を通じて経験したのはあまりなく、そうした経験そのものが演奏された音楽とは別に非常に印象深かった。ラッヘンマン自身、各作品が書かれた時点からどれだけの年月が経過したかを律儀にも全てについて定量的に述べていたけれど、そしてそれゆえというわけではなく、Harmonicaの音楽に「あの」80年代の時代を、Accantoの音楽にそれに先立つ70年代を非常に強く感じた。Allegro SostenutoとGridoは、それをCDで頻繁に聴いているという文脈があってか、そういう時代の距離感を強く感じるよりも、端的に音楽に向かい合ってその充実に圧倒された印象が強いが、それでもなおあえて比較すれば、Gridoが如何にも近しく響いたのに比べれば、Allegro Sostenutoには既にフレームの中に収まったような、或る種の時代を超えた風格のようなものを感じることで、逆に距離感を確認したようにも思える。

もっともGridoとAllegro Sostenutoの違いは、演奏者と作品との間の緊張の度合いの差に由来したのかも知れない。若い4人の奏者によるGridoの演奏がとにかく新鮮で、まるでその場で響きが生まれていくような感じだったのに対し、Accantoのソロも担当された岡さん、ラッヘンマン夫人の菅原さんという、この曲を何度と無く演奏され、すっかり自分のものにされ、更にすでにスタンダードの地位を確立しているCDをリリースされている2人に、Gridoのチェロを弾いた多井さんという顔合わせによるAllegro Sostenutoは、明らかに作品を演奏者が掌握し、隅々まで知り尽くしているという感じに由来する或る種の安定感のようなものがあったと思う。勿論それは緊張感の欠如を些かも意味しない。その点では室内楽の2曲のみならず、2曲の管弦楽の演奏も含めて、今回の4曲の演奏は意欲的で高い集中力が持続し、ラッヘンマンの音楽が要求するエネルギーに満ちた演奏で、それぞれ作品が如何に高い質を備えたものであるかを十分にリアライズしたものだったと思う。ある意味では、皮肉にも自己解説という或る種の防衛反応が、あくまでも事後的にだが過剰防衛と感じられるほどの充実度で、こんなに素晴らしい音楽なんだから、勿論演奏者が信頼できるということが予めわかっているのであればという限定はつくが、今回についてはその条件は達成されているわけだから、音楽自体に語らさせるので十分ではないかという感覚を持ったほどである。

実際、室内楽のコンサートは本当にエキサイティングな経験だった。とりわけGridoはまだ書かれて10年経たない、21世紀の音楽である。こんな素晴らしい作品が産み出された時代に自分が居ることができることの僥倖を感じたほどである。分かり易いと言ってしまえば語弊があるかも知れないが、ある意味で理屈ぬきで「わかってしまう」部分が同時代の音楽にはあると私は思うのだけれど、そうした共感を感じることのできる音楽だった。繰り返しになるが、演奏もそうした共感を共有することができるようなものであったと思う。是非再演を、あるいは今度は第2番、第1番も、と思わずにはいられない。客席もそうした演奏に反応して、非常に集中力が高く、ホールが一体となったような素晴らしい時間を共有できたように思われた。特にラッヘンマンの作品は特殊奏法による微細な音響の効果が非常に重要な意味を持つが、弦楽器のフラウタートの空間自体を擦るような音や岡さんがクラリネットの吹き口をグランドピアノの弦が張られた内部に差し入れて演奏することによるピアノの弦の共鳴音をはじめとした様々な音が空気を振動させる様を知覚するのは魅惑的な経験だった。

ラッヘンマンは自身の解説の中で作品の「内容」については語らない。端的に音について、音に対する姿勢について専ら語るのだが、室内楽のコンサートでは「別の楽器を作ること」というメタファーが、演奏された作品に、作品の演奏に見事に具現されていたことに特に感銘を受けた。冷静に冷ややかに見ればそのように「誘導された」のだという見方もできようが、「別の楽器を作ること」が、かくも見事に現実に為されているのに立ち会って驚かないのは不当であるとさえ思われる。そしてそうした印象は、弦楽四重奏という「伝統的な」媒体の新しい扱い方を提示するGridoもそうだが、それ以上に、特に異なる音色の混合が試みられたAllegro Sostenutoで一層強く感じられた。ラッヘンマンの音楽には、巨視的な「(西欧)音楽的な」構造の厳格さとミクロな(それ自体は必ずしも西欧音楽的とは言えないかも知れない、だがもちろん東洋的でも他のどの地域の伝統に基づくというわけでもない)音の生成のエネルギーの自在さのコントラストが基本的な構造としてあるように私は思っているが、そうしたモメント間の緊張と合力がある意味では理想的な均衡を保っている作品の一つがAllegro Sostenutoではなかろうか。CDで聴くと、ややもすると平板でコントラストに乏しいブロックの継起が「長大な」印象を与える場合があるようだが、実演に接すれば、その拮抗の激しさが、特にミクロな音の生成を現場で目の当たりにすることにより客席にも充分に伝わってきて、寧ろ簡潔で、ある意味で「古典的」ということばを使いたくなるような均衡、(おそらくは西欧的な意味合いで)「音楽的」と呼ぶほかない質が達成されていることがはっきりと感じられる。

些か突飛だが、ミクロな部分について言えば、これは私が普段親しんでいるもののなかでは、能の囃子と謡や義太夫節におけるような合奏のあり方に寧ろ近い感じすら覚えた。ラッヘンマンの顰に倣えば、優れた能の囃子は、囃方全体が「1つの別の楽器」になるのだし、義太夫節の三味線と大夫の関係にも似たようなところがあると思う。ラッヘンマンが通常の楽音だけではなく、特殊奏法によって実現されるものとしてイメージしている音響もまた、西欧的というよりは掛け声を楽器の音と併置し、音の「さわり」を重視し、音を聴きあうよりも、息や間合いを測りあうことで「音楽的時間」を生成していくものに近接しているようにさえ思える。逆に私にとっては、特殊奏法による音響は、西欧的な意味での「雑音」としての「異化作用」を充分に持っていないというべきなのかも知れない。そういう意味では私は、かつてのラッヘンマンの「楽器によるミュージックコンクレート」が備えていたはずの同時代的意義を、そうしたものとして感じ取る資格を欠いているのかも知れない。とはいえ一方で、単なる音色のパラメータの多様化としては捉えられないような質が私にとってのラッヘンマンの音楽の魅力の一つであって、だからこそ近年のラッヘンマンの方が私には違和感なく聴けるということなのだろう。そうした魅力が、こちらは西欧音楽固有の構成感、巨視的な時間の流れと組み合わさり拮抗する様相の密度の緊張の高さ、そしてそうした弁証法的といっていい対立物の併存の中から結局のところ最終的には西欧的な意味での「音楽的」としか言えないような時間の質が浮び上がってくることが、私にとってのラッヘンマンの音楽の魅力なのだと思う。

率直な感想を言えば、室内楽のコンサートでのこれまで経験したことのないような経験からすると、2日目の馴れのせいもあってか、あるいは上述のラッヘンマンの解説の仕方のためか、オーケストラ曲の印象は、勿論、それが自分にとってある意味で「古典」と呼ぶべき非常に高い質を備えつつ、体質的な共感を感じることができる数少ない音楽の一つであることは間違いなくとも、やや焦点が拡散した感じがあったことは否めない。演奏はこちらもまた非常に質が高く、特に大オーケストラという1つの楽器が主体であるHarmonicaでは、マーラーであれば第7交響曲を思わせるような音のサーカスを、大オーケストラとしては驚異的な精度でリアライズしていたと思う。(東京交響楽団の演奏は、偶々先日のオペラハウスでの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に続けてということになったが、作品への共感が感じられる熱のこもった演奏で素晴らしかった。勿論これまでの「マッチ売りの少女」や「書」といったラッヘンマン作品の日本での演奏を重ねてきた上での達成であり、今後も是非、東京交響楽団によるラッヘンマンの作品が聴けることを期待したい。)

その一方で作品については、これも同じくマーラーであれば第5交響曲第2部のスケルツォにおけるホルンのような、寧ろオーケストラに対してオブリガート的な位置づけのチューバ・ソロも含めて、各楽器の弾き難い音域や音形を用いることで音に独特の質を付与するマーラーの器楽法からの長い影が射しているようで、これは寧ろ人によってはあまりに普通の「音楽」として響くことに、あるいは戸惑いを覚えることもありえそうな、そうした印象を覚えた(このこと自体は価値的には中立だと私は考えるが。)既に述べた独奏楽器の扱いや特殊奏法の件だけでなく、いわゆる「引用」やモチーフの変形、本人が「ジュークボックス」に喩えるような構造の存在、巨視的な複数のブロックの継起の存在、空間性(2階バルコニー席にオーケストラを囲むようにドラが配置される)、そしてなにより、ラッヘンマンが「旅」や「冒険」に喩える、出発点と異なった風景に到達するという多層的であって直線的ではないが結局のところ線的な方向性(マーラーなら手段の一つとして「発展的調性」や、遠隔調の楽章を組み合わせることなどが思いつく)の存在など、そうした印象の原因となったであろう点を挙げることは幾らでもできるだろう。「ジュークボックス」をこれまた「別の1つの楽器」のメタファーと考えれば、これまたマーラーのオーケストラがそうであったように、ここでもオーケストラは1つの別の楽器、しかも固定した構造を持つのではなく、まるで生き物のように時間の経過とともに姿と性質を変容させていく有機体であったと感じられた。

演奏順では先であったAccantoは、ある時期までのラッヘンマンの総決算のような、徹底した「非楽音」を素材に西欧の音楽ならではの構造が展開されていく、ある意味では典型的な作品だが、作品の題名とも密接に関わるモーツァルトのクラリネット協奏曲との連関が、例えばスピーカーから流れる(だから三輪眞弘さん風に言えば「録楽」である)音楽の断片というかたちで提示されるやり方が、伝統的なアコースティック楽器の扱いとの間に或る種のギャップを孕んでいるように感じられ、そうした点に、この音楽が書かれた時代との距離を感じずにはいられなかった。これは単なる素人の思いつきに過ぎないが、例えばモーツァルトの音楽を直接に音響として介入させなくても、Accantoたりえたのではないか、というような想像を思わずめぐらせてしまう。勿論、批判的な意図をもってそうしているのだとは思うし、例えば、オーケストラとスピーカーを、クラリネット独奏の奏者の位置からは等距離の(ただし、質においては正反対の性質を持った)或る種の「幽霊」として併置したのだ、
という見方も可能だろう。何といってもこの曲は「協奏二題」というコンサートのタイトルにも関わらず、決してコンチェルトではなく第一義的はソリストのための作品なのだ(それはHarmonicaが第一義的に管弦楽曲であるのと好対照である)。だがオーケストラ用のコンサートホールにスピーカを置いて、それをオーケストラの楽音と併置するという発想自体に或る種の劇場性に結びついたデジャ・ヴュを感じてしまうのである。

まさかこうしたメタレヴェルのデジャ・ヴュもまた意図されたもので、或る種の脱構築が意図されているのだとするわけにもいくまい。あるいはラッヘンマンは、自分が作り出そうと企図した繊細な「別の1つの楽器」を、アコースティックな楽器のことを想定して音響設計されているはずのコンサートホールに持ち込まれた異物であるスピーカという「他者」と併置することよって更に解体しようと試みたとでも言うのだろうか。あるいはそうした対比によって複製技術によって変容させられた聴取のあり方の方を批判しようとして、あえてブリュットな仕方での併置を行ったのだろうか。あるいはまた、例えばそれは繊細な音響のソロ・パートを大管弦楽の音量に拮抗させるために利用される増幅と、どういう関係にあるのだろうか。かつてカラヤンが日本でやったように、マーラーの第6交響曲のカウベルだけをスピーカから再生させれば、それは全く違う風景(勿論、ラッヘンマンの言葉遣いにおけるそれも含めて!)を浮び上がらせる。もう一つ、少し異なる例を挙げれば、かつて三輪眞弘さんのThinking Machineと箜篌の合奏による作品の演奏で、Thinking Machineの音はスピーカーから流すということが行われたが、これを主催者が「ライヴ・エレクトロニクス」と紹介して作曲者に同意を求めたのは言い訳にしか聴こえなかった。全てがアコースティクに響くのとは勿論、全てがスピーカから再生されるのとも異なる。スピーカーから聴こえてくるのが
自動機械の発する音であったとしても、である。一方で、マーラーの第7交響曲のマンドリンやギターの(その場での)増幅は別のことだということに(多分)なっている。更に、もう一方の極限ではミュージック・コンクレートとマーラーの交響曲のCDはどちらもすべてスピーカから再現される「録楽」という点では同一だが、だからといってマーラーの交響曲のCDをCDという媒体ゆえにミュージック・コンクレートと呼ぶことはできまい。(マーラーの交響曲自体をラッヘンマンの音楽がそうであるような「楽音によるミュージック・コンクレート」の先駆と見なすのは別の話である。)それではAccantoにおけるスピーカは一体、そうした文脈のどこに立っている筈で、実際はどうだったのか。もしかしたらわかる人にとってはわかりきったことなのかも知れないが、少なくとも、実演に接した限りでは、私にとっては判然としなかった。

勿論理屈は幾らでもつけられるが、そうした理屈は作品そのものからだんだんと遊離していってしまう。コンセプト倒れで実現される音響の貧困、要するに音楽としてのつまらなさ、下らなさを自己正当化するような「現代音楽」にありがちな自己中毒とはラッヘンマンは無縁であり、既に述べたように音楽自体が何かを伝えてしまう(もしかしたら作者の説明を裏切るような仕方すら含めて)わけだから、素直に、その時々の環境に対して的確に、力を持った
音楽を産み出すことができる、しかも数十年の長きに渉ってそれを継続することができることに敬意を表するべきなのだと思う。繰り返しになるが、ラッヘンマン自身、時代の隔たりについて明示的に言及していたし、今なら同じ音楽にはならないとも言っていた。2度のコンサートのスピーチで、2度ともフェルドマンの作品のタイトルであるViola in my lifeを引いて、それが自分の作品にも当て嵌まると語っていたが、そうであれば一層、ラッヘンマン自身の変化も含めて、音楽作品というのはその時々の必然性に応じて産み出されるものなのだ。マーラーのように「抜け殻」とこそ言わないけれど、要するにそういうことなのだ。こうした距離の感覚はラッヘンマンが同時代の人間であれば、そしてその都度、充実した作品を産み出せる稀有な存在であればこそ、私のような熱心とは言えない聴き手にすら伝わるものなのだろう。逆にマーラーのような、すっかり過去の音楽であれば例えば第1交響曲と第9交響曲の間の距離を感じることに同じように意識的であることは難しい。裏返せばそれが「古典」たる所以なのだということになるのだろうが、だとしたら、そうした同時代ならではの逆説的な距離感を超えて、今日なお聴き手を圧倒することができるラッヘンマンの音楽は、少なくとも私にとっては「古典」と同列の存在なのである。

総じてラッヘンマンの管弦楽曲は、室内楽よりも強く、既存のオーケストラという媒体、コンサートホールという空間といったものを意識していて、視点が変わった現在から見た時には皮肉にもその分だけ逆に素材に拘束されている感じが否めないのである。勿論、そうした印象は作品の持つ質の高さといった尺度とは基本的に独立のもののはずで、些かも作品の価値を損ねるものではないけれど、私個人の感想を言えば、ラッヘンマンの資質がより直截に端的に発揮されるのは寧ろ室内楽などのより小編成の作品においてなのではないかという印象は拭い難く、今回の2日にわたる実演を聴いた結果も、そうした印象を否定するものではなかった。

全体として、この2つのコンサートを体験できたのは、私にとって非常に貴重な、価値ある経験だった。「音楽を聴くことは或る種の旅である」というラッヘンマンの言葉は私なりの仕方でよくわかるし、その顰に倣って、それは素晴らしい「旅」だったとここに書き付けることに些かの躊躇いも感じない。演奏のレヴェルの高さも含めて、これだけ質の高い音楽に接する経験ができるのなら、もっとコンサートに通っても構わないと感じた。(大袈裟かも知れないが、将来「古典」の歴史的なコンサートして語られるような、そんな場に立ち会えたのかも知れないとさえ思っている。)もっとも実のところ、週に2度夜の時間を確保するのは困難だし、今回は幸い確保はできたけれども代償は小さくなかった。招待したラッヘンマンへの敬意にもとづき集客を慮ってか、開演後に解説を入れた結果、室内楽演奏会は21時、オーケストラ演奏会は21時20分くらいの終演だったと思う。相対的には私にとって便利な場所にあるホールでの演奏とはいえ翌日のある平日の晩だと、プレトークにするなどして、もう30分でも早くしてもらえたらと思わずにはいられない。心配には及ばない。ラッヘンマンのファンはちゃんと開場前に列を為して訪れていたし、室内楽の方は満席、オーケストラの方も現代音楽のコンサートとしては驚異的な入りだったと思う。特にオーケストラ演奏会の日は生憎の天候で当日券で聴こうと考えていた聴き手にとってはハードルが上がってしまったはずである。もっとも、30分早くするのは一般論としては逸失利益の方がきっと大きいのだろう。特に現代音楽の場合は聴き手が私のような「部外者」の、単なる愛好家である割合はぐっと下がるだろうし、能のようにそれはそれで客層を読んで平日の昼間にやられても困るのだが。あるいはまた、これも色々な事情で難しいだろうが、ラッヘンマンならレクチャー単独でも集客は問題なく見込めるのではなかろうか。作品を聴きに来るくらいの人なら恐らくはラッヘンマンの話だって聴きたいだろうし、多分今回の解説も、質疑応答があればなおいいなと思った人だって少なくないのではなかろうか、、、

幸か不幸か、ラッヘンマンの音楽の実演の頻度が急に高くなるとも思えない。特にオーケストラの場合は、通常のプローべの回数ではまず充分な演奏はできないだろうから、コスト的にも割に合わないことが容易に予想でき、今回のような企画の内部でなければ大きな困難が伴うだろう。であれば寧ろ、同時代の音楽としてのアクチュアリティの大きさと、その辿ってきた足跡の一つ一つが既に「古典」として受容するだけの完成度の高さを備えた稀有な存在を経験する機会が今後もあれば、可能な限りそれに接して行きたいと考えている。だがまずは、かくも素晴らしい(そう、私にとっては、あなたの音楽「こそ」"wunderbar"なんですよ、ラッヘンマンさん、、、)「旅」をすることを可能にしてくれたラッヘンマンさんと奏者の方々に感謝の気持ちと敬意を表したい。素晴らしい「旅」をありがとうございました。(2009.5.30 初稿 31加筆)

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