2024年5月15日水曜日

クセナキスを巡っての断章



クセナキスの言葉。ヴァルガとの対談のConversation 1980, I. Episode1(pp.10-11)。

「音楽ではなく、音楽外のものとの情緒的な結びつきが、人を感動させるとしたら、それは音楽を聴いているのではない。」

そして、そのクセナキスが「投壜通信」を考えていたのは驚きだった。(ibid., Conversation 1989, 9 Composer in Society (p.211),
"... you throw a bottle in the water and somebody picks it up.")

彼の音楽は、外部の秩序のミメシスにより近い分、文化的なもの、人間的なものの相対性に対して頑健、というわけか?
(ミシェル・セールが「音楽と暗騒音」において同様のことを指摘している。)

方法を作り上げ、信じて何かを作り上げるのは、その方法が厳密であればあるほど、ロマンティックで夢見がちが行為になる。
クセナキスはそういう意味では、あまりに人間的だ。

だから、かどうかはわからないが、クセナキスは、そこに入り込んで、味わいつくすために音を置かない。

音は人間のように、はかなく、とるにたらないものなのだ。
そうした音の集団は、すでに音ではない。

私は音ではなく、人間に関心がある。
だから音のテクノロジーには興味が無い。
結局、作り手と音楽、聴き手と、演奏者と音楽との関係にしか興味が無い。
意識のはかなさ、有限性を感じさせるような、そういう音楽にしか興味がない。
技法それ自体に関心があるのではない(クセナキスの場合を含めて。)
音ではなくNomosが問題なのだ。
Nomosと人間との関係が問題なのだ。

彼は手段を目的化しない。確かに、「聴き手の感情を揺さぶること」を彼は目指さない。
新たな認識のあり方を示すこと、知性に働きかけることを彼は心がける。
だが、そうであってみれば、やはり目的は音楽の外にある。音楽はそれ自体、手段なのだ。

クセナキスの音楽は私の内側では響かない。それは私にとって他者だ。でも他者というのも必要なのだ。外に向かって歩みだすには。



クセナキスの音楽への接近のし易さ。

技法の次元へのアクセスのし易さが大きな要因だろう。伝統的な音楽については、ときおり外部の人間からすると不自然に感じられないこともない、
伝統的な和声学や対位法、楽式論などの技法の次元での知識が要求される。対象の分析の意義とは別に、そうした知識なしには、そもそも
それを評価すること自体ができないのだ。とりわけそれらがむしろ実用的な「規範」としての側面をもっていて、それを外部からみてとりだした規則では
ないだけに、自分でそうした「規範」に従って曲を書くことをやってみた人間でなくては分析は困難だろう。外部の人間にとって、技術的な問題というのは、
ある意味では常に存在する。

クセナキスの音楽は難解だとしばしば言われるが、実はそれはクセナキスのみに固有ではない。(音楽の聴取上のわかりやすさ、というのは無関係ではないに
しても、とりあえずは別の問題だ。)いずれにせよ、どんなものでも外部の人間には近づくことが困難な側面というものが存在する。

だが、クセナキスの場合には、伝統に依拠するものが少ない分、アクセスしやすいとも言える。特にそれが数理に基づいているのであれば。
クセナキスは伝統的でない方法論で作曲しているは明らか(彼にとっての参照先としての伝統は、ビザンツの、ギリシアのそれを別とすればセリーなのだ。
そしてそれ以前にはさかのぼらない)だし、その方法論は、説明されている。(後は直観の部分だが、それは勿論、誰にでもある。)
要するに方法論的な伝統というのがない分、接近しやすい。

勿論、クセナキスもまた(公理論的なアプローチそれ自体も含めて)環境や文脈から自由ではありえない。周囲の様々な潮流、他人の音楽、様々な実験から
多くを学んでいったならば、そうした潮流を測る作業もまた、必要だろう。いわゆる文化史だ。だがクセナキスの音楽に向き合おうとした場合は、そういう意味での
文脈はあまり感じられない。その方法論はある意味では数学のように、誰にでもアクセスできる。無論、同時代の人間であればこそなのだ。(自然科学ですら、
歴史的文脈と独立ではありえない。)クセナキスの音楽は、自分にとって「近い」音楽だと言えるように感じられる。それは単純にクロノロジカルな問題ではない。
もっと自分に近い世代の音楽が、寧ろ自分にとって疎遠に感じられることは少なくない。だとすれば、これはあくまでも個人的な問題なのかも知れないが、
いずれにせよ、接近し易さというのは存在する。



ことば。

クセナキスはことばで作曲はしない。それは作品の構造の記述なのだ。
伝統的な音楽なら、省略してしまうレベル、音楽分析によって反省されるレベルが、最初から説明される必要がある。
しかも彼の場合、説明すべき何かがある(どのように作品を書いたのか説明できない作曲家もたくさんいるだろう)のだ。
非情? 確かに自然現象に近いとは言いうるかもしれない。しかも、それは美的に選択された音ですらない。
これは手工業的な工芸品(例えばフェルドマン)ではなくて、寧ろシミュレーション、ライフゲーム、レムの「我は僕ならずや」のパーソネティクス等に近い。
それは情緒や感情「の」表現ではない。人間が「聴く」音でもなく、人間が歌う「うた」でもない。

クセナキスは音楽とは呼べない音のコンポジションを音楽と呼んだ。何と皮肉なことか。

ここではアドルノの自然史は通用しない。そのかわり、アドルノ的な意味ではここには音楽は存在しない。



人間のための音楽。

クセナキスが人間の演奏者のために書いた演奏不能な楽譜。それは寧ろかつてのプレイヤーズ・ピアノ、今ならMIDIでのプログラミングに
こそ相応しいのではないか。演奏者に課する苦行。不完全にしか実現できない非人間的な秩序のミメーシス。コンピュータが奏者になれば、
正確な演奏が、「楽譜どおり」の演奏がようやく可能になる。そしてここに大きなパラドクスがある。楽譜は音の客観的な秩序の発生手順の
処方を記載したものではない。楽譜は人間の演奏者へのコミュニケーションツールだったはずであり、記譜法のディティールに、そうした
伝達の伝統が介在していた。一見不合理な記法が或る意図の伝達である、ということだってありえたのだ。ところがクセナキスの音には
間合いも呼吸もないのではなかったか。勿論それは、楽器という媒体は意識しているし(例えばヘルマの集合論的な操作はピアノの鍵盤で
鳴らすことができる音の集合に対して行われる)、プレイヤーズ・ピアノのための或る種の作品と異なって、もともと人間の身体性を
全く無視したものではない。だがそれは人間の身体に合わせて調整することが許容されるような音達なのだろうか。その音は、同じ
記譜法で書かれていても、今度こそ、記譜された通りに弾かれるべきなのではないか。MIDIプログラミングによる演奏は、或る種の極限を
示している。人間には到達できない極限を。ここにクセナキスの音楽のパラドクスが集約された感がある。クセナキスの音楽は、
本質的にそうした極限を示しつつ、だが、それが「音楽」である以上、その極限を不在のものとして拒絶するようなものなのだろうか。
では聴く私はどうなる。それは聴き手を極限においては必要としていないのか。だが、そうした極限はまた、恐らく不在のものとして
封印されているのではなかろうか。MIDIプログラミングによる演奏は興味深いが、それは或る種の実験に過ぎない。それは「音楽」ではないのだろう。
そしてクセナキスの「音楽」は「音楽」の境界を彷徨う。そしてそれは人間の限界でもある。



あるいは「引用」。

クセナキスの音楽においては、他者の引用はありえない。「引用」はその音楽の水準で利用可能な手法ではない。方法論が拒絶するのだ。
同型・同相はあっても、それは自作の引用ではない。
偶々(確率的に?)同じ結果が得られた、というべきであって、過去の作品の持つ「文脈」を埋め込むということは生じない。
ただし、方法論上の公理主義的姿勢が薄れた晩年に、例外はある。クセナキスにおける引用とは何なのか。違う方法論によって書かれた、
例えばより伝統的な西欧音楽における引用と、それはどう違うのか?

恐らく、それが「引用」と感じられる、というのは、一体何によってなのか、というのを考える時に、クセナキス晩年の引用を題材にするのは興味深い。
別の「組織」の侵入?併置?おそらくそれだけでは不十分だ。そういう原理に基づく音楽が可能だから。だとしたら、それはその「組織」が
旧作であったから、偶々「引用」と呼ばれるのか?その旧作を知らない人間にとってはどうなのか?それが「異質」のものであるというのは
どういうことなのか?例えばマーラーやショスタコーヴィチでは起き勝ちなことだが、知っている人間にとっては恐らく容易なことなので、すぐに
引用を指摘したがる。だが、引用の機能の方はちっとも明らかにならない。それでは後期ヴェーベルンには引用はないのか?



クセナキスの確率分布。

クセナキスの音楽に「聴く」側面があるとしたら、それは理論にはない(たとえセリー批判に基づく自分の方法論の説明がそのようなやり方をとっていたとしても)。
確率分布にはない。その先の直感的な選択にこそある。
クセナキスの分布は、人が聴くことを欲していない。少なくとも前提としない。
(フェルドマンの音楽の持つ「ゆらぎ」と、それは何と違うことか。
多分事後的にフェルドマンの音楽の「法則」を見つけることはできるだろう。
だが、それは既に別の面へのprojectionなのだ。
クセナキスの場合には時間外構造が先にある。
projectionは実現された音楽の方だ。
だとしたら、これはプラトン主義なのか。
クセナキスにおける唯名論/実在論の論争は、恐らくそんなに単純ではない。
ひとつには、それは具体的な音響として、リアライズされるものだからだ。
もうひとつには、それは死すべき存在である、人間の営みだからだ。)
クセナキスの時間外構造や分布を決める式は、音楽の一部であって、それは別の面とは言えない。
勿論、それ「だけ」では音楽たりえないが。

だが、クセナキスの方法論の(主張される)一般性に比べたら―何しろ、それはありとあらゆる音楽を内包できると言われるのだから―
クセナキスの実現の方は、そこに「個性」を見出しうるほどに偏っている。勿論クセナキスの方法論は、それがコロンブスの卵のようなものとはいえ、
十分に独創的だった(事実、彼以前にそのように音楽を書き、成功した例というのはなかったのだろうから。)だが、その成功は、方法論だけに
よるのではないだろう。これは数学ではないから、こういう発想でなら、こういう音楽が可能なのです、の「こういう」の部分が常に問題なのだ。
その方法論は、実は「こういう」の部分の質(面白いかどうか)とは別なのだ。それゆえ、彼の方法論の不整合や不徹底を批判しても、
彼の試みと、その実現の質を否定することにはならないだろう。不正確さは、それを「理論」として考えれば致命的だろうが、
ここではせいぜい発想を跡付けたものくらいに考えるのが適当なのだ。「コロンブスの卵」について何を言っても後出しジャンケンになってしまうだろう。
ケチをつける人間は、寧ろ自分のやっていることを振り返るべきなのだ。

それにしても、だとしたら、彼の音楽の「面白さ」を説明するためには、彼の作曲の仕方の発想の理解のほかに、あと何が必要なのだろう。
何かが必要なのははっきりしているのだ。それが無ければ、結局は印象批評になってしまう。伝統音楽の分析における「形式」と「内容」の
分裂の繰り返しに過ぎない。



クセナキスの夢。人間的限界を超えた知性に辿り着こうとする。無神論的苦行。

けれどもこれは何と理想主義的なことか。
アプローチの違い(これは本質的なことだが)をおけば、その姿勢はヴェーベルンのNomosに対する考えに近づく。
ヴェーベルンがNomosと思ったものは実は自分の背中だったというのはありうる事だ。
ではクセナキスの企てはどうだったのか?

企ては明確だ。作曲の主体のスタンスもそうかも知れない。操作そのものも(或る種の公理主義的姿勢もヴェーベルンとクセナキスで
共通するか、、、)明らかになっている。だが、その結果のほうはさほど明らかではないのではないか?
勿論、理論も方法論も、結果を保証しているわけではないのは常に同じだ。



クセナキスは進化論を採用している。ユダヤ・キリスト教的な神はそこにはいない。(こうした「世界観」が音楽から聴き取れるように感じられるのは、
思えば不思議なことだ。日本人にとっての、西欧の伝統的な音楽に比べた場合のクセナキスの「わかりやすさ」の恐らくは一因だろう。)
そこには人間しかいない。だがそれは、いわゆるヒューマニズムではない。そこでの人間は、ロマン主義の終焉の後の音楽に相応しく、
ほとんど客観の暴力に対して無力なようだ。

クセナキスの音楽は人間であることへの相対化を含む。
ヴェーベルンの後期も確かに(ただし気づかずに)そちらへと近づいていったに違いない。
ある探求の姿勢において、両者には共通のものがある。
個性が全く異なるにも関わらず。

たが誰も、クセナキス程音を人間から引き離しはしない。
ヴェーベルンのも武満のも、結局、人間が観照し、夢想する自然なのであって、アドルノが原史に想定する野蛮としての自然ではない。
クセナキスの音はそうした疎外を、人間をおもちゃとしてしか見ない残酷な神を思わせる。(プラトンの「ノモス」の意識的誤読、曲解。
だが、本当にそれは誤読だろうか。プラトンの言葉には人間の限界についての、無力さについてのあきらめの様なものがないか。)
そうした非情さは、時と場合によってはなぐさめになる事もある、、、(クセナキスを「汎神論者」と呼ぶのは、だから適当ではないのだ。
寧ろ、彼自身の言葉に従って、しかもそれを日本ではなく、西欧において表明する場合の意味合い―それは当時もそうだったろうし、今日においてさえなお、
日本においてとは異なる―「無神論者」と呼ぶべきなのだ。こうした混同は控えめに言っても誤解を招くものだし、クセナキス自身の哲学的な混乱とは
独立の問題で、それを担保に許容される性質のものではないだろう。)

クセナキスの音楽は、或る種の現実認識を告げているように思える。一方では科学による現実の変革の可能性を信じながら、同時に、
人間の限界を認識するその姿勢は、音楽のたち現れ方にはっきりと刻印されている。遺伝子操作の可能性に言及しはしても、個体の限界が
忘れ去られることはない。そして、こういったレベルでの同時代性は、クセナキスの「わかりやすさ」の一因になっているのだろう。



外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。

そのように思われるのは、何によるのか?統一性、素材の節約の度合い。コヒーレンスのようなもの?世界のあらわれの度合い?
主観の受動性?

外在的な秩序を尊重するのは、シベリウスもヴェーベルンも武満も同じ。
そしてクセナキスもある意味では同じだ。
異なるのは、その秩序の「暴力性」「他性」の度合いだ。
ヴェーベルンの音楽は、主観の非暴力とともに、客観の側もそうであろうとしているようだ。
クセナキスの場合は、明確に「他性」を帯び、場合によっては敵対的な存在として客観が現れる。
クセナキスの音楽は、西欧的な「啓蒙」の枠組みでは収めきれないものを持っている。
一方でそれはギリシアの伝統に倣って合理的で、とことん主観がコントロールしようとする意志に充ちているにもかかわらず、
どことなく、主観の至上性に対する懐疑がある。

否、明確に、主体の有限性、不完全を意識しているのだ。その点が稀有なのだ。
人間を超えた知性の立場からの批判という視座を持つ作曲家はクセナキス以外にはいない。



他者(他人ではない)とともにある音楽?

逆説的にクセナキスこそそうだろうか?クセナキスの場合には、端的に暴力に満ちた客観がある。そこには他人(他者ではなく)はいないだろう。それは主観の
相関項なのだが、ここでは主観はないのだ(あるいは手前、あるいは向こう側にある)。そこには法則がある。だが、主体は安全ではない。
そして(連帯すべき?)他人は、やはり手前、あるいは向こう側にいるのだろう。主体は孤独で、自力で客観の暴力に立ち向かわなければならない。
まるでその都度賭けが行われているかのようだ。「世の成り行き」に対する「別の仕方で」の関わりとして、クセナキスを考えることができるだろう。

ヴェーベルン、フランク,、シベリウスは独我論的、武満も独我論的のように思える。
マーラーやショスタコーヴィチは両義的だろう。
一般に自我の音楽は独我論的だろう。
また自我の解消を目指す音楽も。
自我と世界との関係の記述であるような音楽においては、関係の破綻が楽曲において、あるレベルでの表現の対象たりうる。
破綻は形成自体には起こらない。
破綻が形式化されるのだ。
カオスや相転移が記述されるように。

だが、クセナキスにおいてはそれは「破綻」ではない。カオスも相転移も実在の「普通の」構造なのだ。印象主義の極北。表現主義の到達点。


クセナキスの沈黙恐怖。

ギリシア人の真空恐怖の例? パルメニデス的な存在の充溢? プラトン「ノモス」(法律)「人間は神の玩具」という言葉の両義性。

何ということだろう。こうした話題はクセナキスの周辺にしかないようだ。クセナキスは自分と自分の作品については、プラトン的な不滅性を拒否する。
死すべきものとしての人間、有限性、ギリシア的な?


(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.5.15過去の記事を復元して再公開。)


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