2014年9月6日土曜日

ショスタコーヴィチを巡っての15の断章

ショスタコーヴィチが曲をつけた歌詞およびその解説については梅丘歌曲会館の ドミトリー・ショスタコーヴィチのページの 藤井さんの翻訳および解説を参照されることをお薦めする。(後述の理由により交響曲第13番は除く。) なお、梅丘歌曲会館ではW.ローリー、R.バーンズ、W.シェークスピアの詩による6つのロマンス 、交響曲第14番、 ミケランジェロ・ブオナローティの詩による組曲については、ショスタコーヴィチが作曲した訳詩ではなく、原詩を参照している点も注目される。 これらは一つには著作権の制限という現実的な問題に起因する。従って交響曲第13番の歌詞は著作権の制限から掲載されていない。 だがロシア語訳からの日本語訳はCDのリーフレットや楽譜などで参照可能であることを思えば、原詩を日本語訳つきで参照できる価値は大なるものがあるだろう。


1.

ショスタコーヴィチが受けた傷のあまりの大きさ、彼の繊細さと大胆さ、そして、幾度となく辱められ、精神的にも経済的にも 追いつめられながら、自分の作品の価値を信じ、自分の価値を信じ、誠実に生きようとした姿勢は、彼の音楽と、 声楽つきの曲であれば音楽と不可分に違いない歌詞の選択によって、更には書簡などに残された言葉によって窺い知ることができる。 私は言葉なしの音楽に外から言葉を押し付けようとは思わないし、言語的な意味を押し付けようとも思わない。 音楽はそもそも「意味」の水準に留まるものではないし、音楽そのものが持つ内容こそが私にとってショスタコーヴィチの音楽の魅力の源泉なのだから。 言葉によらずにと言いながら、一方で文脈から言葉を密輸して音楽にあてがうことで解読された「意味」とは、言葉によらないはずの 音楽にとって一体何だというのか。


音名象徴であるとか、引用といったものの存在を否定するわけではないし、特にショスタコーヴィチ自身の作品内でのいわゆる「自己引用」に限れば、 その意味を軽視するつもりもない。更にはこの種の問題におけるオーセンティシティの判断は微妙なものゆえ、そうした詮索の何が妥当で何が こじつけなのかを決定することの困難についても理解できなくはない。だが、それならいっそ歌曲そのものが何故直接に取り沙汰されないのか、 不思議でならない。まさか、あまりにあからさまなので「謎解きの面白み」がないという理由によるのでもなかろうに。だが、そんなことを言う資格はそもそも私には ないのだろう。例えば上に掲げた作品はショスタコーヴィチの作品の一部に過ぎず、私は多分、彼のすべてではなく一面にのみ拘りを持っていると いうことになってしまうのだろう。それをディレッタンティズムと呼ぶなら、そうなのだろうし、聴き手の気儘な簒奪行為で あるといって批難されればそれを甘受せざるを得まい。例えば歌曲に拘るにしても、なぜある作品のみを取り上げ、他の作品は取り上げないのか、 その「客観的な」基準を問われたら、私は沈黙するほかない。選択が主観的で恣意的なものであることを私は喜んで認めよう。 そもそも私は研究者ではなく、その音楽を研究対象としているわけではないのだ。


別のところに書いたように私は謎解きなどに興味はないし、幾重にもしくまれた意味のコードの解読によって「裏の意味」を 探ることなどに興味はない。あるいはまた私には、彼の音楽を聴くことを「楽しみ」と呼ぶのが適当だとはどうしても思えない。だがそもそも謎解きの 「楽しみ」など私は欲しくないのだ。そうした「楽しみ」は他の人達のためにあるのだろう。ショスタコーヴィチの生きた時代を「おもしろい」と 言える誰か他の人達のために。例えばプーシキンの詩や、イギリスの詩人の詩を反芻しつつ、その音楽に聴き入ること、 その重みを自分なりの仕方で引き受けることの方が私にとっては心惹かれるのだ。私はこれらの音楽を前に知的に、分析的に向き合うことができない。 その詩と音楽の持つ異様な力の前で私はしばしば涙を流す他ない。そのようなはしたない、品のない聴き方しかできないのだ。 それは「ミケランジェロ組曲」に至るまでの全ての作品に対して、同様に言えることだ。


私にとってそれは、彼が音楽を書くことで辿った自己の傷、他者の傷を辿る道程に、私もまたその音楽を聴き、歌詞を反芻することで関わること、 私自身の受けた傷と、他者の傷を私自身が辿ること。(「私の身体に残る釘痕」・・・「私は幾百万もの死者たちの絶えることなき無言の叫び」・・・ 「決してこのことは忘れまい」・・・「私の中にユダヤの血は流れていないが」・・・「激しい敵意をもって憎まれている」。 であれば、こうして聴いている私もまた、「真のロシア人」というわけか。) 彼の音楽を聴くことは、自己の信ずる価値の擁護そのものなのだ。"Забыты те, кто проклинали," (「罵った者たちは忘れさられた」) ― "но помият тех, кого кляли." (「しかし、罵られた者たちは記憶されている」) かくあれかし。そして微力であっても私もまた、そうした記憶の 継承に何がしか与らんことを。


2.

二重言語性について。文脈を全く共有しない子供が始めてdschの音楽を無心に聴いて受け取るもの。 多分、マーラーの場合とdschの場合とでは異なるかも知れない。 もっともdschの音楽とて一様ではなく、程度は色々だ。つまるところ、こうしたことは過度に一般化して語るべきではない。


二重言語性ではなくて、皮肉っぽい気分や諧謔は文脈なしでも感じられる。 皮肉や諧謔は音楽的語法として存在するから。別にmit Humorと書かれていなくても、わざと調子を外した旋律線、奇矯なアクセントなどから、そうした気分は感じ取ることができる。 要するに、この水準であれば、音名象徴などとは異なって、あるいは発達した形態におけるクラングレーデとは異なって、「通のみがわかっている」コード表なしでも、何某かは伝わる。 一方で、極端なケースでは二重言語であることを隠蔽するような在り方というのもあって、この場合にはさすがに文脈なしではわからないだろう。


しかしこうしたことであれば、別にdschだけが問題ではない。寧ろこうしたことはバロック期においてはごく普通だったろうし、もっと洗練され手の込んだ仕方で行われた例もあっただろう。 秘められたメッセージとその解読は、それが音楽の享受のすべてではないにせよ、あちこちで行われてきたことだ。(音楽だけではない。絵画もそうだし、言語を使ったジャンルでもそうだ。) もう一つ。マーラーとdschの語法は他人の空似ではなく、ユダヤ音楽の語法を用いているという点で共通しているようだ。だが、多分、こうしたことは件の子供の聴取にはあまり 関係がないだろう。勿論、ユダヤ音楽の語法に含まれる、或る種のアイロニカルな悲しい調子や、鋭さは伝わる。だかそれが何に由来するかは、少なくとも彼にとっては副次的なことだ。


3.

うたの問題。認知の問題として考えること。旋律なり動機なりが存在すること。旋律を分解せずにひとつの単位として扱うこと。 (分割が可能なのはいわゆるフレーズ、動機のレベルまで)旋律を変奏し、動機を展開すること。変化させ、場所を移し、あるいは組み合わせる。 dschの音楽を聴けば、そうした方法がどんなに豊かであるかがわかる。 戦略的にそれを否定することはあってもいいが、だからといって、そうした方法の豊かさは否定できない。 むしろそれが、合理的で強力で、ある程度の一般性があって、わかりやすいから、あえて否定するのだ。 それを利用することに伴う、危険を理由に。


テキストは素材、勿論、選択はある。 だがテキストがよければテキスト自体を検討すれば良い。 結局、音楽がすべてだ。テキストのみでも音楽のみでもない。 (テキストの選択が好みに合わない場合を考えよ。)


音楽の「意味」といって良い。意味の領野が成立しうる様な音楽、自我の音楽。 意味は目的であったり、方向であったりしなくても良い。意味と前意味のあわい、記号の持つ意味とは異なった。 だが、単純な感覚質に比べたらはるかに構造化されたものの構造。 それは創作の極における形式への批判的取り組みや、調性についての批判的な見直しでは直接にはない。 それらもまた、実現された音楽のうちに刻印されていなければ、単なる作者の意図と言う名の素材に過ぎない。


それが、行き過ぎた標題音楽の解釈に陥らないためには? 音楽的な経過を言語による物語に「翻訳」してしまうこと。近似的変換として、あっても良いが、 しかし、それでは恣意性が高すぎる(もっとも、劇音楽における描写のように、そのような翻訳がなされるべきであることも、正解が存在することもあるだろうが。) また、或る種の分析のように、結局のところ「~的」という特徴のリスト(しかもしばしば驚くほど短いものでありうる。)に 還元することにしかならない分析もまた、不毛であろう。そうしたリストは(それが数十から数百にもなれば、そして測度が適切に入るならば、 有効なものになりうる可能性だってあるのだが)一般には、印象批評と結果だけ見れば変わるところはない。


流用、転用の意味。例えばバレー音楽におけるそれは、やはり、バロック期や古典期のおかかえ作曲家のそれと同じ。(あるいはその後のフランスやイタリアなら、さしずめオペラ作家がそうか?) それが、いわゆる「絶対音楽」になると、様相が一変するのは面白い。いわゆる「深読み」に格好の材料を提供する。


音楽のもつ曖昧さを積極的に利用している。 これ自体を位置付けること。極めて例外的ではないか。 個人的な秘密の隠蔽は確かにあった。 「ないしょの手紙」だ。ベルクやヤナーチェク、、、


4.

しばしば創作が困難な状況からの逃避であったことの痕跡が、作品から読み取れるだろうか? 幾分かは聴き手である私の側の個人史的な視点から、他者の発見。 だが、そうした契機が音楽自体のうちに存在しなければ、それは不可能だ。 どちらが原因で結果とも、どちらが主で従とも言えないだろう。 要するに、ここには他者がいる。 抽象的な音楽においても、人間のいる社会が問題だ。 恐らく外部からの圧力がとても強い社会に生きたため、そうした外からの圧迫の痕跡が作品に見え隠れする。 それでもここでは音楽は、何かそうした気分の表現であることを止めない。 しかし、それもまた外部から強制されたものだったのか。 確かに、音楽がどのようなものであるべきかについて、強制的な力が外部から働いた、特殊な状況があった。 前衛音楽では可能であった、技術的な問題や、音あるいは、音響自体への関心の集中、抽象は、ここには存在しない。 だが、第4交響曲の延長か、第5交響曲の延長かの差はあったとしても、音楽が主観的な感情や気分、考えを表現する手段であるという立場は、 変わらなかったようにも思える。 そういう志向の音楽の持つ強みは、聴取の状況の具体性と広がりの大きさだ。 よりトータルな、様々なレベルが統合された聴取を求めている。 技法はそうした表現の手段として総動員される。状況に応じてあるものは意識的に節約され、あるものはふんだんに惜しみなく使われる。 ある意味では贅を尽くして(何しろ彼のような天才の才能がその目的に奉仕しているのだから)表現されるその内容といえば、ここにはすべてがあるが、 すべてが歪んでいる。人間の背丈にふさわしく、すべては限界づけられている。 その限界は、自ら設けたもの、ある種の自己言及性がもたらしているように感じられる。そうした自己言及的なレベルまでが表現の内実になっているのは実際には稀なことだ。 そして聴取ではそうした重層性をそのまま受け止めることになる。 あるいは聴取のあり方自体やはり特殊なものかも知れないが、それを否定的に考える理由は何もないように思える。 個性は、ここでは新しさによっていない。イデアルな完全性の模倣から、独創性、新しさへの近代の音楽の価値の軸は動いたが、そういう意味では、 この音楽は最早近代の音楽ではない。 基本的にはロマン主義的な立場だが、ここには無限なものへの憧れも、自我への信頼もない。自分の語りかける世界を普遍的なものだと勘違いすることもない。 メタレベルの認識が表現となる。それはマーラーから学んだものかも知れないが、偶然から恐らく望まずして、マーラーの後ではなく、後の後に位置することを余儀なくされたため、認識のレベルは更に上がる。 ただしそれは無限に上がるわけではない。理論上の限界があって、多分、その天井に、ここでは接してしまっている。 つまり、中でメタレベルの認識自体のシミュレーションができるような広がりが行き止まりだ。そして、ここは行き止まりだ。 ここを超えると、自己の声はもう聴き取れない。他者の声が反響する空間に身をおかなくてはならないことになる。


5.

職業として選択したものを侮ってはならない。 それが消極的な選択、あるいは次善の策であっても。 dschの場合には、それは自他ともに認めるように、唯一の選択であった。 だが、実際にはそれを職業として選ぶかどうかには直接には結びつかない。 マーラーのような夏の作曲家になることだってありえたし、ケクランのように、作曲を生活の糧を得る手段としない選択だってありえた。(ただし、彼の生きた社会がそれを許容したかどうかは個別の問題だ。) dschの場合には、それを職業としたために、映画音楽や劇音楽のような、生活のための仕事が作品目録に含まれたし、交響曲や合唱曲などのように公的な性質を持つ音楽もまた、含まれた。 作曲が作者のメッセージの発信である、という前提にたてば、不純な要素がついてまわることになる。また作品のリストもまた、膨大なものになっていく。


だが一方で、職業として選択したことに由来する、作曲の仕方、技術というものがある。 それはインスピレーションの導きにまかせたロマン派的な天才のイメージより、モーツァルト以前の職人的な技術に近い。 実際に自分で書かない人間にはわからない部分が存在する。 それはどんな技術でもそうだ。 ほとんど身体的と呼んでよい、習慣化された智慧があって、それは自分ではことばを発しないけれど、隠然とした力を持っている。


職業的な作曲家であった彼の場合、作曲の目的や動機、誰のために書いたか、何のために書いたか、というのは、あくまで「作者の神話」の圏内での限定つきではあるが、それないの意味を持つ。 社会がそれを強要したし、そうしたことに対して自覚的である知性を彼は備えていた。 だから、同じ作曲家の作品だからといって、例えば交響曲と弦楽四重奏曲を同じように扱うのは、彼の場合には間違いだ。 交響曲は、かつてのバロック期や古典期の音楽家がそうであったように、自分が帰属する社会制度に要請されて書いたものだ。 逆説的に、ブルジョワのサロンから解放された室内楽の方が、かつてのロマン主義の理念に忠実であるかのように、「自分」の領分がここには残っている。


6.

ジャンル別別分類をしてみる。機会音楽の割合。どれが機会音楽かも問題で、都度判断する必要がある。 dschの場合なら交響曲は境界例だ。 コンポーザー/パフォーマー(コンダクター含む)、専業の作曲家かどうか。 どちらに経済的な基盤があるか。 委嘱の問題も。旧ソ連の体制は特殊だったともいえるのだろうが、いずれにせよ、はっきりさせる必要がある。 そうした役割が、音楽の中に映り込むのは不可避だ。とりわけそれが意識の音楽であるならば。


「私的な交響曲」というのは、考えてみればおかしな現象だ。 だが、マーラーあたりを基準にしていると、おかしさの感覚が麻痺してしまう。 むしろdschにおける「公的な」交響曲のあり方の方が、そのありようにふさわしい。 もっとも、交響曲の前身たるシンフォニアは、そうした機能とはまた異なった機能を持っていた。それでも、いわゆる「私性」というのが無縁であったのは 同じだと言える。それはいわゆる公共の場で上演される劇に関係するもので、従って、基本的に「私性」とは関係がない。


考えてみれば、ロマン派の交響曲は、そういった矛盾を(ベートーヴェン以来、ベートーヴェンのせいで)抱え込むことになったのだ。(いや、ベートーヴェンは むしろdschの「公的」な交響曲のあり方を予告したと言えるかも知れない。 私的な側面ということであれば、むしろベルリオーズの方が適切かも知れない。 ただし、ベルリオーズの物語は、もとは私的なものであっても、充分劇化されているともいえ、そういう意味ではベートーヴェンの第5交響曲のような類型の方が 「私性」はまさっているといえるかも知れない。この曲と、この曲と一見したところ対照的な第6交響曲こそ、ロマン派交響曲の規範なのだ。)


dschは、時代に強いられて、交響曲に公的な性格を与えることを余儀なくされる。 勿論、その強制に対する復讐も用意されている。第10交響曲が、第4交響曲の遅ればせの初演が、そして第14,15交響曲が、その復讐だ。 第4交響曲がマーラー的といわれるのは、その音楽が交響曲という形式が抱える矛盾をそっくりしょいこんでいるという点では正しい。 その「私的」な性格ゆえ、この交響曲は上演を許されなかった。 マーラーの音楽が氾濫するような環境でなければ、その音楽は上演されるべきではないのだろう。


絶対音楽という理念の成立は、それと対となる標題音楽、プログラムを持つ音楽という考え方と不可分である。だが、絶対音楽にしてからが、結局、なんらかの情緒なり 気分なりを引き起こすものである、というレベルは否定されたとは言いがたい。 純粋に音の関係や運動に関心が行くのは、もっと後のこと、西欧音楽の伝統を否定するいわゆる実験音楽まで待たなくてはならない。トータル・セリエリスムすら、 音楽の経過においては伝統的な音楽の枠組みを踏襲している。(そういう意味では一面では伝統的な音楽への根本的な批判である実験音楽は、純粋音楽の 極限という点では、伝統の終端に位置づけられるのかもしれない。それは或る種の臨界点なのだ。だが、いずれにせよdschの場所はそこではない。)


いや、古典派の音楽だって、情緒や気分の表現だとは考えられていたし、それも、バロック期以前のクラングレーデが縮退したものである。この点でいけば、 実験音楽のような発想と絶対音楽の理念とは根本的に異質で、音楽が何かを表現するものである、という点自体は、絶対音楽においても否定されているわけでは ない。少なくともある種の残滓として、絶対性の剰余としての表現というのはあった。 十二音音楽を準備する無調期が、いわゆる純粋な表現性というのを獲得しようとした時期であったのは興味深い。


私的な音楽といっても、それがプログラムとして与えられればベルリオーズのような標題交響曲になるし、プログラムがなければ、あれほど主観的な表出性を持つ マーラーの交響曲だって、絶対音楽なのである。否、純粋な表現性という点では、絶対音楽的な度合いが強い第6交響曲のような作品こそ、最も優れているという見方さえ成り立つだろう。


ではdschの場合にはどうか?彼の「私的な」作品は、やはりそういう意味では、マーラーばりの主観的な表出性を帯びている。 もし、音楽をそうした表出性と結びつけるのであれば、dschの音楽のある部分は、その最上のものだと思う。 第10交響曲や作品番号で100番以降の弦楽四重奏曲、そしてやはり晩年のヴァイオリンソナタや遺作のヴィオラソナタなどを思い浮かべればよい。


7.

未来というよりは過去を向いている点。 同時代に時代遅れと見なされがちであった点、ジャンルや様式の総合という点で、dschは、まさにバッハが占めていた位置をしめているということができるだろう。 普通に思われている以上に、dschとバッハの歴史的な位置付けは近いのではないか。 職人的な着実さで、手早く、次々と作品を仕上げ、後を顧みないこと(次に取り上げるときには、それは改作であり、最早別の作品だといって良い。)、ほとんどの作品を 具体的な演奏者や演奏する場所を想定して書いたこと(その意味では、映画音楽や劇音楽でなくても、広義の機会音楽なのだ。)なども、バロック期の音楽家を思わせる。


dschの音楽は、実験主義的な音楽がもつ原理的な思考の徹底からは距離をおいている。 ここでは音楽とは何か、あるいは音楽をすることとは何かという問いそのものが音楽家の営為を導くことは無い。


実験音楽の作曲家たちもまた、その多くは職業的な音楽家ではあるが、そういう意味では、dschはより古く、或いはありきたりの意味で、職業的な音楽家なのだ。 (ちょうどバロック期に宮廷に仕えた音楽家たちがそうであったように。) そこでは、音楽が何の役にたつか、どのような音楽を何のために書くのか、利用できる素材は何かについては、事前に決定されている部分が多い。 (この事前決定部分の量が、前衛性の尺度かも知れない。) 与えられた環境の中で最善を尽くすこと、与えられた素材を用いて、どのような実験が可能であるかを考え、そのような事前決定の空間の中に、自由で自律的な思考の領分を設けること。


dschは、(初期を除けばほぼ)与えられた器楽編成というのを基本的に踏襲する。 オーケストラというのは、社会的に存在するもので、彼にとっては所与なのだ。 弦楽四重奏もしかり。未知の音の探求の結果として、独特の編成や、新しい楽器に辿り着くということは彼の場合にはない。新奇な音色の探求といった側面もあまり強いとはいえない。


交響曲はdschの場合、弦楽器以外の「音色」にある。彼は音色を混ぜない。 各楽器の音色はむしろ鋭いコントラストを作る。 弦楽器の集合は、音色上、異なる楽器だ。(その逆をいったのが、マーラーの第4交響曲の「夢のオカリナ」だ。)


そもそも、作曲家にとって多くの場合、実現可能な編成で音楽を書く、というのはごく自然なことだ。自作を演奏してくれる、委嘱してくれる何か特定の媒体のために 音楽を書く。プログラムを組みこととは多少異なる。(実際にはプログラムだって、特定のHWを想定して書かれる。コンパイラが存在し、実際に実行することが可能なHWなしで、 プログラムを書くことはまず、ない。ただし、演奏とは異なって、コンパイラは実際には多少の最適化の効率の違いはあってももっと透明なもので、少なくとも 演奏者の個性に相当するものはないし、H/WにしてもCPUやメモリなどの資源は当然前提になるけれど、やはりそれは個性と呼ぶことはできないような制限だ。)


8.

形式的には変奏曲、しかもパッサカリアのような厳格なものへの嗜好、フーガをはじめとする対位法的な技法への嗜好が窺える。 様式的な多様性と、語彙の豊富さと並行するかのように、dschの場合にはカノンではなくて、フーガが優位だ。 (多作で速筆なことも含め、かのグールドが持ち出したヒンデミットとヴェーベルンの対比なら、明らかに前者に近いことになるだろう。)


古い皮袋に新しい酒という譬はdschの場合には当てはまらない。 注がれる酒の価値は新しさにあるのではない。 古い皮袋とはいうものの、管弦楽団、弦楽四重奏団、ピアニストといった演奏団体や演奏家は現実に社会に存在する。どのような媒体を選択するか という点に何らかの創意や知見のある音楽というものも確かにあるだろうが、必ずしもそれだけが作品の価値を決めるわけではない。 提供された媒体を如何に用いるかに創意や工夫がこらされる場合だってあるのだ。(例外は、社会制度としての演奏家というのに批判的な 考察を行う場合だろう。だが、なぜ演奏家なのか、作曲という行為はどうなるのか、あるいは聴き手は、、、勿論、誠実な音楽家はそうした点では一貫しているようだ。) 交響曲やオペラ、室内楽の形態の旧態依然を批判するより、そうした形態が安定している点を掘り下げても良いのではないか。 (勿論進化論的に袋小路である、というような捉え方だってあるだろうが。)


古い皮袋を使って何ができるか?だが、本当に古いのか? マーラーよりも古い。フーガ、厳格変奏曲形式(パッサカリア)。 ここでは形式に対する批判的な態度、形式を逸脱することで形式の力をよみがえらせようという態度よりも、使い古された形式の枠を自分の文脈で使い切ろうとす態度の 方が優勢なようだ。まるで、そのような形式に準拠することが、喪いたくない何かを守ることができる手段であるかのように。古きに従うこと自体が、ある種の態度表明で あるかのように。一方でソナタ形式は展開部を中心として対称的な構造を持つことで、展開の機能を麻痺させる。そして、寧ろ、それより更に古い形式の方を指し示す。 新古典主義の装いのもと、古くから使われてきた形式、型に従うことによって、救い出そうとしたものは何だったのだろう。


体制による批判が原因の、先祖がえり? 新しい革袋を求めるか、古い革袋を使って何ができるか考えるかは選択の問題だ。 dsch自身が望んだかどうかおくとして。(恐らく、望みはしなかっただろう。 だが、決められた制度の中で可能なことをするのを批判することができるだろうか?) 一方で、技法としてというよりは、寧ろ素材として取り込まれる十二音技法。彼は別の何かのために自分の技術を、天才を動員する。聴き手も、音楽が表現する といわれる別の何かを音楽に聴き取ろうとする。そうした態度自体だって古い革袋だ。だが、それは良く使い込まれて信頼性の高い革袋だ。 そして、その表現されたものは決して古くはない。それは技術の、方法の正しい使い方だ。技法の古さは、内容の陳腐さを意味しない。見かけの技法の 新規性は、内容の新しさを意味しない。そもそも内容の豊かさ自体が革袋の新しさとは基本的に独立だ。否、新しい革袋は豊かさの検証が 充分でないかもしれない。内容の豊かさを優先するのであれば、方法に拘るのは愚かなことだろう。dschはそれを証している。


あるパラダイムに対する態度。「目的は手段を正当化する」。パラダイムは手段であって目的は別にある。 dschの場合には、それははっきりしている。ある意味では多様式主義的な折衷は、最終目標を、ある体系により導かれる帰結を見届けること「以外」のところに置くことの 必然的な帰結であるともいえる。dschにすれば、前衛は手段と目的を履き違えているのだ。 (これは多分、本音であっただろう。)勿論、手段自体に関する興味というのは、或る種の技術が介在する以上、当然存在する。音楽であれば例えば、「聴いた者の 人格を変えてしまう音楽を生み出すこと」


勿論、色々な立場がありうる。手法を開拓することを目的とすることが間違いだということではない。それはいわゆる前衛的な立場だ。そして、 或る種の総合を志す、そうした様々な手法を用いて、訴求力の大きな作品を作り上げる立場もある。それは前衛ではありえない。 どちらが正しいということはない。多分、ミーム自身の戦略上は、どちらも必要で、そうした多様性は良いミームが誕生し、存続するのには有効なのだろう。


9.

対象に近づきすぎるとかえって見えにくいというか、言い落としてしまう側面というのがある。 dschの場合には、グロテスクで皮肉な側面というのは、実際には様式の変化を超えて常に一貫している。ここでいうグロテスクというのは、 技術的には調性の取り扱い方、リズム面ではアクセントのずらし方や、拍の自在な短縮や引き延ばし、旋律面では突飛な跳躍進行などなどと いった要因の複合に違いない。ユダヤ的な音楽の影響というのも、そうした側面と関連していそうだ。


美/芸術―真・善との関係、超越性。→独創性、個性の表現:新しさ。

芸術は(イデアルな美の)模倣である→芸術は新しいものの制作である。(cf.ヒンティッカ)

dschの立場はいずれでもない。別種の美学。社会主義リアリズムと、それに対する抵抗が偶然産み出したかも知れない。一回性の美学。

美しくないモナド、星座。

ここに美がないわけではない。美は調和では最早ないが、美的価値とでも呼ぶほかないものがあるし、美的経験とでも言うべきものがあるのは確か。第1交響曲のグラズノフをあきれさせた響きのうちにもそれはある。 改めて美とは何か、「ここでの」美とは何か。 崇高性(カント)との比較?あるいは快という生理的レベルの反応への帰着? 寧ろ美の廃墟なのか、かつてあった調和と快さの輪郭を虚空に浮かび上がらせる働きをしているのか? 何しろここには調和を、美を取り戻そうとか、どこかからやってくるのを待ち望むという意識はない。 だが、完全な無秩序が、外在性があるわけでもない。 悲劇を美的価値に回収してしまい、口当たりのよいものに馴化してしまう芸術の危うさはここにもある。 作品として失敗しているものがよりよく事態を伝えるといったパラドクスがここでも議論されうるかも知れない。(私はそうは思わないが。)

違う。作品が現実の不条理をいわば償うのだ。勿論、何事もなかったことにはできない。 記憶は痕跡としてとどめられる。逃避は許されない。たとえ結局のところ美が馴化、回収だとしても、それはむしろ人間の秩序を超えた自然のサイクルの非情さが、時として慰めに、救いに転ずるのに 近いか?危険はいずれにしても残る。(でもそれは、救い主の危険ではない。ユダヤ音楽への共感があっても、ここではカバラは場違いだ。アドルノ・マーラーのラインは成立しない。) だがその危険なしには生きていくことは困難だ。 dschの音楽が残るということ自体、伝えられるということ自体、そうでない場合に比べて「良い」ことではないか。その事実が大いなる慰めになるのではないか。 少なくとも、この頼りなくはかない意識にとって。 (多分dschその人にとっても同じだったに違いない。特にその晩年については。)


そして、最早、(伝統的な意味での)美からは遠い。調和でもなく、新しさでもない。 何が問題になっている?倫理だろうか? 存在しない美について語ろうとはせずに、知的な遊びに過ぎない新しさについても語ろうとしない。人はここに何を聴くのか。 現実の暴力や醜さや混沌を写しとるために新しい言語を用いることはない。 言語が古いとき、認識もその言語に制約されないか? だが、その古さは批判の対象になるのだろうか? ここでは言語の古さは、具体的にどのように働いているのか? ある時期に止む無く選び取られた古い言葉遣いは、だが、音楽の内容を裏切っていないように思える。(それは外的な強制によるものであるだけに興味深い。 いわゆる新古典主義的な先祖がえりではないのだ。)


悪を醜さとして、音楽の中で表現すること。 人間的な音楽。思想や感情を音を使って表現するというロマン主義的姿勢。 一見、悪を表現する、醜を表現する、というのも普通に行われてきたように感じられる。 だが、例えばそれは、演劇的空間の中で、記号としての悪を表す修辞学が、クラングレーデがあったということではないか。


一方で二元論はソナタ形式を支える論理であり、ソナタ形式のアレグロ楽章のその動性の根拠だ。 だとしたら、ここで善と悪との葛藤が表現されてはいないのか? 運命との葛藤、困難や苦難との闘争が、ベートーヴェン以来の英雄的なソナタ形式が表現しているものだ。運命も、困難も、苦難も、原因は皆、外にある。 表現されているのは、悪との戦いであり、悪そのものではない。 そしてまた、ロマン派の音楽は美をその規範とする。それがフランス革命以降の、前古典期の音楽に要求された「快適さ」を起源としているのではないのかという問いは おくとして、絶対音楽は美を依拠する唯一の価値とする。だから醜いものを持ち込むことは、その規範からの逸脱だ。描写音楽なら、標題音楽という名目の下、限定つきで 認められていたに過ぎない。だが、それが社会的な要因であるかどうかはともかく、それは常に忍び込み、その都度指弾を受けながら、時代を追う毎にますます 幅を利かすようになったように見える。調的言語の拡大は、不安や恐怖を表現するために為されたかのようだ。


dschは、そうした傾向の延長にある。グロテスク、皮肉とともに、怒りも悪も、醜さもあちこちにある。 旋律は歪み、ねじれ、途切れ、アレグロは自分の走るスピードを自分で制御できないかのように荒れ狂う。 ここでは快適さの方が例外のようだ。不安にさいなまれつつの、自分の限界を意識しながらのつかの間の休息。


そして、悪は、醜さは外にはない。悪との戦いではなくて、そこにある他者としての悪を、醜さを、貧しさを、あるいは己の内側のそれらを描き出す。ここでは悪や醜さは、顔を持っているのだ。 こうした側面は、音楽に快適さを求める人間の顰蹙を買う。あるいは政治体制が要求する規範から逸脱した廉で非難を受ける原因となったに違いない。悪との戦いは結構だが、悪そのものは具合が悪いのだ。


いずれにせよ、悪や醜さについての表現を避けないのはdschの特徴の一つだろう。 あるいは死を浄化ととらえ美化することの拒否も含めて、ここには現実に対するどちらかといえば悲観的な、だが、決して感傷的ではなく醒めた認識がある。 それは諦観には違いないが、だからといって立ちすくんだり、立ち止まりすることはない。 ある時には卑屈ささえ懼れずに、生き延びる意志の音楽なのだ。 そしてこの点が、dschが共感を呼ぶ大きな理由であることは間違いないだろう。


dschの場合には、知的な深読みをゆるす一方で、そうしたレベルとは違ったレベルでの受容を可能にする何かがあって、そうした重層性の卓越性がdschの音楽の特徴を成しているのは、間違いがないだろう。


異化効果は喪われる。 ひきつった表情もいつしか見慣れたものになり、ひきつっていない状況を考えることは難しくなる。そういう姿勢をとることはもうできない。 弦楽四重奏曲第12番では、多分異化効果は意図されていない。 ひきつったなりの快活さ、限界を意識した上での自由やくつろぎがある。 これが現実であって、ひきつっていない表情はまやかし、空想に過ぎない。 「これが現実なんだよ。」というdschのことば、、、


10.


音の風景×

他者の存在○

人間や社会・歴史○

自然×

超越×

自己の内部状態の記述○

主体の感情・情態・気分○


世界と主体の関わり方

(能動・受動の度合い:受動。

調和的か対立的か:対立的。

闘争的か、諦観を伴う受容か:諦念を伴う受容。)


主体性の強さの度合い△

身体性の度合い×

内面への沈潜○

外部との同調×

対立×


時間の流れ方。

瞬間性・永遠性。円環的な循環、回帰か、直線的な流れか。回想か、未来への志向か、瞬間の直接性か。

→いずれでもない。日常の時間。社会的、共同主観的な時間。歴史の、叙事的な流れとしての時間。目的のない時間経過。


空間性(垂直軸と水平軸):水平。

音と主体との距離:近いが意識的に距離を測っている。

暴力性とその向き(外からか内からか)。外からは非常に強い。だが、内にもある。

日常性か非日常性か。:明らかに日常性。

明るさ、気温、湿度。:暗・底・底

室内と屋外。どちらかというと室内。

調和か矛盾か。:矛盾。

一様か多様か、単一のレヴェルか複数のレヴェルか。:多様。複数レベル。

自己言及性の様相(推論者の階層のどのレベルにいるか。):非常に高い。

求心的か遠心的か。:曲によるがやや遠心的。

反復か展開か。:展開。

秩序と混沌。:混沌への傾斜が強い。

神秘性・宗教や神話:一貫した拒絶。(制度・儀式・題材)。

聖なるものと世俗性。:強い世俗性

物語性の強さ。:強い。

物語の客観性:感情移入があるが、基本的には傍観者。同情的。

(主体の距離。自己が主人公。登場人物への感情移入。傍観者、語り手、同情的か批判的か、中立化。性格の客観的な描写。)

肯定と否定。:否定。

悪や醜さ。皮肉、自己韜晦。意味・解釈の二重性や曖昧さおよびその意図の有無。:すべてあり。

倫理性。:あり。

具体と抽象。:具体的。

理念性と個別性。:個別的。

官能性と精神性。:精神性優位。

現実と仮想。夢。空想。記憶。予期。:現実的。

単純・複雑。:複雑。

長さ。:概して長い。

内部構造、あるいは複数の部分の構成の仕方。:伝統的形式の使用。複合的。

部分の対比と統一の様相。:対比が強い。統一性は常に破綻している。

伝統的な形式や語法への態度。:伝統的な語法に依拠。ただし常に逸脱。

多声的か単旋律か。:多声的。

和声的か対位法的か。:対位法的。

静謐と騒音。:どちらといえば騒々しい。

音量。:大きい。

音色の多様性。:比較的単調。

異化効果の頻度。:あまり使われていない。

色彩感。:ない、モノクローム。

鮮明かくすんでいるか。:くすんでいる

中間色か原色か。:混ぜないという点では原色だが、色彩感はない。

コントラストと連続的な変化。:対比を好む。

重厚か軽快か。:両方。


総じて複合的で多面的。


「音楽の社会的機能(人類学における)」:道具としての音楽(cf.社会主義リアリズムの「理念」)


社会統合◎

感情表現△

美的経験を与える×

娯楽△

伝達×

象徴表現△

肉体的反応の喚起×

社会規範への従順を促す◎

社会制度や宗教儀式の妥当性を確認させる◎

文化の存続と安定への寄与○


情景、雰囲気や性格の「描写」◎

緊張―解決○

神秘主義×

科学主義×


「メッセージ」

感情○

雰囲気○

風景△

物語○

秩序性(形式○)

思想○

概念○

「自己」○

人間性○

聖性×

超越性×

美×

美的感覚×

時間×

空間×


11.

なぜ私はdschの音楽を聴くのか? なぜ(辛うじて生きる時代の一部を共有しはしていても)過去の、しかも文化的な環境も社会体制も全く異なる場所の作曲家の音楽を聴くのか? 何に惹かれ、何をそこから引き出そうとしてその音楽を繰り返し聴くのか?dschを聴くのは、知的な関心からではないし、娯楽としてでもない。 CDを買って聴く、(滅多にないことだが)コンサートに行く、というのは経済的な観点からいけば消費には違いない。 だが、それは暇つぶしではない。それを楽しみといってよいかどうかもわからない。


偉人伝のシリーズに収まった大作曲家の生涯は子供を欺く。 へーントヴァやファーイが明らかにする作曲家の生は、ちかよればちかよるほど、子供が心に描いた理想像から離れてゆく。 伝記を読み事実を知ることでわかるのは、自分が音楽の向こうに見出していた主体は、多少とも自分勝手な投影に過ぎないということだ。 社会的環境、選択された生き方、性格、思想を理解することは、自分が親しんでいる音楽が産み出された環境が、 実は自分とはどれだけかけ離れているのかという認識そのものだ。 (だからといって別に同時代性や、日本の作曲家であることが、距離感を塞ぐことを担保することもまた、ありえないのだが。) それでも音楽は残り、その音楽を聴き続ける。そして音楽を聴くことに触発されて文章を書き溜める。 dschの生きた時代、生き方、思想を正確に理解し、記述し、批判することに関心は無い。 作品のかくされた意味を読み取ることにも。それは音楽学者の仕事だ。 dschの音楽と私が出会った状況を思い起こすことにもたいした意味はない。 そもそも正確に想い出すことが困難なくらい散文的な出会いだったろう。


例えば日本人であること。ソ連に生きたロシア人であるdschとは世代が異なり、生活圏が異なる。 程度の問題とは言いながら、その違いを無視しうるというのはやはり少し安直に過ぎるだろう。 問題意識を共有することはさらに難しい。 同世代で、同じ生活圏だって、問題意識の共有は自明のことではない。 寧ろ、共有するためには何がしかの努力が必要なのだ。理解しようと努め、 自分なりの仕方で理解し、歩み寄る努力が。そして、何に、誰に歩み寄るかという選択が存在する。 様々な選択があり、それらにアプリオリに優劣をつけることはできないだろう。


日本の、あるいはアジアの音楽と、ヨーロッパの音楽と、どちらが近いか? 私は日本人だ。けれども、私が育った環境では、音楽とは寧ろ後者をさしているのは疑いない。 教養としてかどうかはおいて(というより、多分、教養としてではもはやなく)、端的に音楽に向かい合ったのだ。 それにヨーロッパの音楽というのはそんなに単純に一枚岩なわけではない。私が育った時代はまだ20世紀の「前衛」がそれなりに力を持っていた時代だ。 更に、前衛に先立って(か、それと並行して、か)ヨーロッパの辺縁の音楽の固有の力が認められ、それをどこか非ヨーロッパ的なものとして受容する 素地もまた、あった。例えばバルトークやヤナーチェク、あるいはシベリウスやロシアの作曲家たちの音楽は、そのような非ヨーロッパ的な感覚を 確かにもっていて、極東の私には、それを周縁的なものとしてより、むしろ固有の価値をもつものとして、多元的な受容の仕方をしたはずだ。 dschの音楽はそうした意味では微妙な位置をしめている。どれからも少しずつ距離をおいた、紛れもない個性的な様式があるのだ。 はっきりとしているのは、dschの音楽は、ある意味では外面的な様々な既定や分類を逃れて、そのまま自分には届くということだ。


勿論このことから、dschの音楽の「普遍性」などを言い立てようとしているのではない。 まずもってそうした普遍性には関心がないが、何より、自分にそのまま届くには、 自分の文脈が前提となっているわけだし、「そのまま」はこの場合主観的な言い方に 過ぎず、例えば同時代のロシア人が聴くのと、ほぼ孫の世代にあたり、極東の地に 住む私が聴くのとで、どちらが「そのまま」かを比較してみてもはじまらない。 子供が感じる無媒介で直接的な印象は、多分に思い込みに過ぎない。 だが、だからといってその主観的な印象自体を否定することはできないだろう。 そのようなものとして受け取ることができる音楽と、そうでない音楽というのが 多分あって、それらの間には優劣はないけれど、やはり両者を単純に一緒にすることはできない。


時間的な隔たりの方はどうだろう。 dschの音楽は現時点では高く評価されていると言ってよい。^ だが、彼が生きた時代には必ずしもそうではなかった。ソビエト体制の御用作曲家、 そして西欧の前衛からすれば過去の遺物である交響曲や弦楽四重奏といった ジャンルの枠組みの中で作られる音楽は、時代遅れのものと見なされたものだった。 勿論、その裏返しで「森の歌」のような音楽を顕揚する立場もまた存在した。 だがそれらは、私にとっては自分の生きた時代の話ではない。私にとってはdschは 同時代の作曲家ではなく、音楽史の年表に収まっている大作曲家、それは過去の 音楽というよりは、もっと素朴に時代を超えた音楽として受け止めていたように思う。


例えば進化論に対する立場。あるいは唯物論に対する立場。 19世紀の西欧の音楽では、この点で展望を共有することを期待するのは難しい。 日本にいれば、微妙に風景のピントの合い方はずれてみえる。西欧から眺めた場合と遠近感が異なるのだ。 こうした立場の違いを理由に、音楽そのものを拒絶することは一般には「筋違い」と見做される。 だが、そうだろうか?実際にはそうした態度はしばしば密輸されているのではないか。 教会で典礼に用いられる音楽を、そうした文脈を切り離して聴くのは実際には困難なはずだ。 今日の日本では、現実にはやってしまっている人は多いだろうが。 dschの場合には別のものだが、そうした文脈はよりあからさまだ。だから、文脈の切断はより意識的になる。 そして、これは悪いことではない。 国民楽派の建国伝説、神話の類が良くて、あるいは後期ロマン派的な宗教的な装いをもった神秘主義が良くて、 スターリンの個人崇拝が悪いというのはおかしい。 dschの場合には、その文脈の特異さもあって、そうした音楽を取り巻く様々な予断の密輸は難しくなっている。


12.

確立された権威、文化財としての音楽?作品が作られた状況や環境とは切り離して 残された作品と向き合う姿勢?だが、必ずしもそうでもない。なぜなら、dschの音楽に 関して言えば、その音楽に刻印された状況とそれに対する主体の反応の刻印が、 その音楽に惹きつけられる原因となっているからだ。勿論、こうした見方は、 音楽家なら持ちえたであろう制作の現場の視点を取りえない。だが、dschの 音楽を聴くのは、それと結びついた自分の経験を反芻するためではない。 きしみ、奇妙に歪んではいるけれど、時折はくつろいだ表情も見せるその音楽は、 私にとっては他者であり、そこからある種の姿勢であるとか、態度であるとかを 感じ取り、それに自分を同調させたりずらしたりしながら、何かを受け取っているのは 確かなのだ。


音楽の表現するものは、言葉の側から見れば本質的に曖昧だ。 一方で、音楽の表現するものを言葉が正確に言い当てることはできない。 音楽は容易にある体験、ある情態、ある雰囲気を探り当てる。 だから、人はしばしば音楽よりも音楽を聴いた時に我が身に起きた事を書いてしまう。 それが本当にその音楽でなくては不可能であったのかどうかを検証することは難しい。


悲しみを、怒りを、感情や気分を読み取るというとき、実際に悲しんでいるのか。 だが確かに悲しみの構え、枠のようなものは構成される。 悲しみが表現されている、というのはどういうことか? 志向的対象は明らかでない。悲しみを引き起こす原因は不定のまま。 悲しみの志向的な構えはある。が充実されるべき対象はない。 ある意味では逆向きの流れ、「型から入る」―文脈に応じて対象が見つかるかも知れない。 ある旋律を聴いてしかじかの感情や気分になる、というのは、タブララサではなくて、文化的伝統の枠組みの中で起きている。 幾分かは生理的基盤を持つが、概ね文化的なもの。 幾分かは記号なのだ。慣習的なコード。共有されている場が存在する。例えばdschと私の間にそれは実在する。 それの如何にして、の部分はある種の模倣に基づいている。 喚起される感情と、表現されているとされる感情、ここでは専ら前者が問題。 形式や構造の把握―完全に知的なもの。だが、期待―充足のような図式がある。 期待―充足は行為に関わる構えのこと クオリアは機能主義的に考えると、随伴的なものと言っても良い。 運動感覚、時間意識も結局そこで生じる構えのある側面に過ぎない。 感情や気分、情動の側面を抑制すると浮かび上がる。 要するに構えのどの側面を強調するかの問題。


背景を知ることによって音楽的イベントとそれにより生じる構えについて、ある解釈を することができ、それは作者の側で意図されたり、あるいは実際に生じていたものの モデルとなりうる。だがそれは副次的で二次的な構成に過ぎない。


悲しみの原因が(対象が)認知主体の側にあれば、悲しみの枠を用意する音楽が 本当の悲しみを惹き起こすかもしれない。 だがこのとき悲しみの原因は曲ではない、曲は対象ではない。 表現された怒りは怒りの指向のみが結晶して残っていて、対象は落ちている。 音楽とは空虚な志向、感情の抜け殻なのだ。


或る種のスタンス、呼吸やリズム、反応様式に同調すること。それを思想と呼ぶのは適切ではない。もっと身体的で具体的なもの。 記号としての感情ではなく、情態や気分の反映を聴き取ること。 あるいは、これもひねくれた快楽なのかも知れない。だが、それは無くてもいいものではない。 社会的な機能という観点ではなく、個人が、ちっぽけな意識が生き延びるために必要な糧。 もしかしたら、そうした切実さが、創作の極においてもあったのではないか、だからこそ、それを欲する聴き手にとって、 他に代え難い価値を持つのではないか?


dschについてなら、私は自分がその音楽をどのように捉えているか、なぜその音楽が自分にとって重要なのかを説明することができる。 それどころか、積極的にそれを説明することに対する衝動が自分の中に存在していることがわかっている。そしてその音楽には確固たる風景がある。 (そうでない音楽を聴きつづけることは私にはできないようだ。)しばしば極端な不安定ささえ示す拡大された和声法はその風景に陰影を落とさずにはいないが、 その陰影はそれ自体、ある意味では「見慣れた」ものとさえ言えるかも知れない。一方で、例えばそれ以前の音楽は勿論のこと、 低回趣味で小市民的な意識が色濃く刻印されたブラームスの音楽でさえ、その風景に素直に共感するのは今日に生きる私にとって最早難しいように 感じられるのだ。歪で病的とさえ言われるマーラーや後期のdschの音楽の風景の方が、ずっと身近で違和感のないものに感じられてならないのである。


遠い異郷の過去の音楽ではあるが、そうした音楽の持つ、ちょっと歪んだ風景こそが丁度良い、違和感のないものに感じられるのかも知れない。 そして、dschの室内楽作品の場合には、そこに常に解くべき謎がある訳ではないし、追求すべき何かの契機が垣間見える訳でもない。 歌曲におけるように、歌詞の選択によって明確なプロテストや反逆が告げられているわけでもない。交響曲においては時折そうであるように、 一過性の感情に支配された錯覚を現実と取り違える愚を犯すこともない。丁度信頼できる冷静な相談相手のように、 私にとってそうした音楽は、現実の受容の或る仕方をさりげなく示してくれているかのようなのである。


13.

dschについてもう一度。今度はもっと個別の音楽に寄り添って。


ピアノ曲、室内楽、特に弦楽四重奏曲。 前奏曲とフーガの社会的機能?弦楽四重奏や室内楽の社会的機能? ニコラーエワが、ベートーヴェンカルテットのメンバーが、オイストラフが弾くという、名指しできる他者の存在。 これはある種の「親密さ」といってよいかも知れない。


(そもそも私はフーガが、対位法的な線の重ね合わせが好きなのだ。 子供の頃の作曲、訓練なしに、規則を知らずに書いた、複数の楽器のための、それぞれが独立して、でも性格は類似した線が並行する音楽。 変動する拍子。奇数拍子への嗜好と、加法的に伸縮するフレーズ、、、)


24の前奏曲とフーガ。 かすかな雨の予感。今外に降っている雨の、また、過去のこの音楽を聞き始めて以降のある日の、さらにまた、まだこの曲を知らない、かつての子供の頃の 記憶のうちの、そしてあるいは、ロシアのdschが暮らしたある日の。


何か、とても具体的で個別的な経験が背景に存在するという感じ。 住んでいた部屋の広がり、あるいは外の天気。雨?雪? 空気の感じ。 そして、どこかにあるロシアの田園風景(のようなもの)。 それは、とても限定されてはいても、私もまた共有できているもの。 思い込みかも知れないが、そうした思い込みを可能にするもの。


24の前奏曲とフーガの素敵なところは、まるで日記のように、各曲の風景や空気や気分が変わっていくことだ。 多分、現代の音楽のあり方としては些か古風なことに(初期のアヴァンギャルドであった彼の音楽はおくとしても)、中期以降のdschの音楽には、彼自身を聴き取ることができるし、彼も、 ほぼ疑いなく、音楽を、そのようなものとして捉えていた。 特にここで問題にしている室内楽やピアノ曲の場合は。


逆説的に、dschにおける「自然」。勿論、存在しないわけではない。 カルテットの表現の細部に立入ってみると、寧ろ、こちらの方がより「近い」もののように思われる。文脈が個人的で歴史的、社会的広がりがない分、かえって受容しやすい。 抽象的な音楽の方が好まれるのは、体験の質の伝達という点では、文脈が自由な分、容易だからに違いない。 だが、それだけではない。時代的な近さだろうか? 前世紀の、生活世界のレベルでの信仰や思想的な前提が異なる環境で生まれた音楽よりも、しっくりくることが多いように感じられるようになってきた。 より一層心理的に聴けてしまう、ということだろうか。 現代的な、ほとんど同時代(だが、実際には自分の「知っている」過去)の空気を共有できる音楽。 かつて私の友人の一人はディアベリ変奏曲にベートーヴェンの喜怒哀楽を見出し、感嘆していた。彼の聴き方の、何と正しかったことか。 今、私はかろうじてdschに対してそうした接し方をする。 dschは私にとって、尊敬すべき他者だ。距離感が異なる。能力は勿論だが、気質の違いを感じる。 ずれは感じるが、それでいて、ある部分では共感できる部分がある。他者ではあるが、その他者の、人間というのを感じ取ることができる。 ここに感受の伝達が存在する。


弦楽四重奏曲や24の前奏曲とフーガ、その他の室内楽を聴くと、私は時折くつろいだ気分にさえなる。 それは、かつてロマン主義の時代の音楽が備えていた「親密さ」とは全く異なる(私は、そうした「親密さ」があまり好きではないのだろう)。 もっと不安やストレスに縁取られた、ある意味ではせせこましく、慎ましいくつろぎの時間と空間。 前世紀の音楽は寧ろ、外からは見えない他人の庭に近い。中に入ってみると、そこは「非日常」である、といった側面がある。それに対してdschのカルテットの音楽は、まさに「日常」ではないか。 だから美ではない。グロテスクも、イロニーも、従来の規範から見れば逸脱であったとしても、むしろそれは「日常」の様態なのだ。 そしてdschの醒めた意識は、非日常的な経験そのものを疑いの目で見る。 (機会音楽の類は除く。)超越の、形而上学的な救済のビジョンの拒否。 一方では、自然への帰依の感情の拒否。 人間であることに「とどまる」。他者の間にとどまる。 だから風景は奇跡的な輝きを帯びることはない。


dschの稀有なところは、そうした親密さを絶対視することが、結局はできないこと、「意識」にとっては仮に絶対的なものと感じられるにしても、その 「意識」の方は、実に頼りなく、はかないものであることを鋭く意識していたこと、そして音楽にそうした意識がはっきりと表れていることだ。 実際、そうした音楽というのを私は他にあまり知らない。 例えば信仰のような「意識」にとってのつっかえ棒(少なくともdschはそのように考えていたようだ)を取り払ったらどうなるのか、ということに思いを巡らすことができた点で、彼と私の距離はとても近い。 (その信仰は別に、「公的な」ものでなくても良い。要するに、例えば死を浄化と捉える考え方でも良いのだ。例えばマーラーの音楽では、 そうした側面は確かに残っていて、それが聴くものにとって「救い」になっている側面があるだろう。)


だが、遺伝子の搬送体に過ぎない生物の一個体に、進化の偶然(ただしエルゴード過程を考えなくてはならないから、「偶然」の ニュアンスには注意すべきだ。)の結果生じた二次的な機能に過ぎない意識にとってのパースペクティヴは、意識がどう騒ごうとちっぽけなものに過ぎない。 ドーキンスのように、ミームがそれに対する反乱なのかも知れないが、ミームとて、意識に忠実なわけではないのは、レヴィナスの作品論をまつまでもないだろう。


もちろん、くつろぎも息抜きもないことはない。快活さだって見つけ出すこともできる。


こんなに意識的な音楽が、驚くほどの速筆で、自分でも制御できないような白熱のうちに生み出されたというのは、不思議な気がする。 だが、これは多分、「気分」の反映なのだ。ある種の構え、スタンスの反映なのだ。 「意識的」という言い方は、だから適切ではないかも知れない。


いずれにせよ、はっきりの過去の異国の音楽なのに、私の生活世界の延長として違和感無く捉えることができるようなのだ。 要するに、同時代の音楽と言っても良い。「気分」のレベルでなら。 生活世界レベルでの物の見方、感じ方のレベルでなら。


14.

彼の音楽は徹底して人間の音楽だ、音の自然は勿論、自然の音すらここでは問題になっていない。 人間の音楽、ということになれば、たとえ伝記主義を標榜しなくても、作曲者その人を無視することはできない。 実際に、私はdschその人に対しても一定の興味を持っていて、音楽さえあればあとはどうでもいい、というわけではない。 (別にそれはdschに限らないのだが、、、)だが、それでも最初にはマーラーに関して浮かび上がった疑問が、更に広がってゆく。 それは結局dschの場合にも同じことだ。結局なぜ音楽を聴くのかということになってしまう。 並外れた才能の持ち主の生の軌跡を辿ることが、私にとって何の意味を持つのか? 天才的な芸術家の創造の秘密を解き明かすとの大義名分のもと、プライヴァシーは踏みにじられ、 私生活の隅々までが衆人環視の下に晒される。例えばサッカーへの熱中を物語る書簡やノートの類を読むことが、その音楽を 聴くこととどのように関わるのか。作品をよりよく理解するためには、その作品を産み出す背景となった事実についての正確な情報を持つことが必要なのか。音楽学者を職業と するのであれば、それは生活の糧を得るための営みだ。とりわけ有名なイソップ言語、二重言語の解読競争が話題になるという固有の事情もあり、秘められた新事実は、 とりわけ価値あるものなのだろう。だが、私にとってそれが何だというのだろう。 音楽に少しでもかかわりがある職業にでもついていればまだしも、全くの門外漢にとって本当に必要な音楽というのがあるのか?どういった接点があり、どういう切実な事情があって、 繰り返しその音楽を聴こうというのだろう。


勿論、作品は作者ではない。作曲家の伝記を紐解いたところで、音楽自体は変わることがない。だが、その音楽はいわゆる「個性」の刻印を紛れもなく帯びている。 技術的に言い当てることができなくても、その「個性」を認めることは難しくない。 そして、その「個性」に惹かれて、ある作曲家の作品を聴くのであれば、作者なしの作品自体というものを考えるのは、少なくともdschの場合にはナンセンスだ。 作品自体が、作者を指し示している、その限りでの作者はここには確実に存在するのだ。


音と主体。主体とは、結局(自)意識のこと。自覚的システムのこと。 実験音楽が音を問題にするとき、そこでは(自)意識は問題になっていない。 ある抽象的な状態が問題。抽象的形式的な枠のみ与える。 そこから自意識への作用は聴き手にまかされている。表現の断念、拒否。


ある構えの呼び起こし―知覚を考えたとき、その呼び起こしの中に、自己言及的なレベルを含むか?記憶の問題?ある相互作用自体の呼び起こし?


暮れなずむ夕暮れ。ただし長閑さだけではなく、超現実主義の絵画のように不安に満ちた薄暮。 不安の濃淡は曲によりあるけれど、決して幸福感に充たされることはないかのよう。 落ち着いて、やすらってはいても、意識は覚醒している。 その覚醒は、夜になっても続く。 夜の祈り、祈りが止んだあとの沈黙、沈黙の向こうからやってくるものの予感。 それは決して未知のものではない。 夜の闇は不安に染め上げられているわけではない。奇妙な安らぎがそこにはいつも共存している。


意識という存在の宿命なのだ。意識とは目覚めであり、見張ることなのだ。 不思議なことに、意識は眠りの安らぎを我が事のように思い、望みもする。 だが、眠りは意識には属していない。意識は己からはみ出すものを、知っているだけではなく、 それに対する情態をも備えるようになっている。 だが意識は、定義上それ自身は眠らない。夢見る意識に覚醒時の意識との連続性が あるとしたら、眠りの幕を抜けて、こちら側に移動するだけ。意識は夢の中で、 目覚めている。眠っている自分を見ている意識は眠っていない。


意識のようなちっぽけで不完全なものに、祈り、語りかける相手、見守り、道を示す存在があるだろうか? ヴォルテールが主張した必要性ではない。(必要などうかでいけば、それは「主観的には」必要なのだ。だが、視点を替えて、それだけのことをする価値が 意識の側にあるのかを問えば、その必要性は途端に怪しくなる。) 統計的な蓋然性でも多分ない。(その線ではかなり絶望的だろう。) だが、そうした存在を否定することもできない。実際に意識は時に祈り、語りかける。 だから、それは存在しているのだ。少なくとも「主観的」には。 そして、主観的に慎ましく存在するそうした領域を否定することはできないだろう。 dschに、クセナキスに、ラヴェルに、彼らの姿勢に全く共感しながら、けれども、マーラー、ヴェーベルンにある何かに対して否定しきれないのは、そのためだ。 それを非合理だとか、弱さのゆえに否定することは多分できない。 なぜなら、それは存在しているからだ。それが思いなしであり、客観的には無であったとしても。意識というのはそうしたものなのだ。厄介な存在。


dschは常に自意識が働いている、目覚めている。 意識の音楽、自我の音楽を定式化すること。 単なる気分や情緒でなない、メタレベルの自己言及性が表現されている。 ここには皮肉、韜晦、二重言語、パロディが成立するレベルがある。これは文化的な方向付けの上での解釈とは別次元で保証されている。 そういったレベルは実在するし、論理的な仕方で記述もできるだろう。 非言語的な可能世界意味論。態度の帰属が問題である限りでの。 それゆえ、可能性としては聴くことの中に行為を持ち込める。単なる受動ではない。娯楽でも気晴らしでも、知的な遊びでもない。


自分自身を見る、という構え、そして覚醒。この2つが意識の定義であることを、 dschの13番のカルテットは告げている。二重化、その一方は常に醒めていること。 意識は必ずしも、知性とは等しくない。少なくともdschにおいてはそうだ。 アイロニーと己を見つめる視線の鋭さを備えていながら、この音楽は、人間の限界を 超えようなどとはしない。寧ろ、その限界を引き受けようとする決意と意志の音楽。


私が私がと語る音楽と、己を語るに控えめな音楽があるとすれば、dschは、どうやら後者なのか?マーラーやベルクの影響にも関わらず? 本心を明かせなかった、というのは本当だろう。 だが、音楽はここで生活のことを、人生の悲劇のことを、悲惨な最期を遂げた受難者たちのことを思い起こさせる、ともいわれる。 それは彼自身のことではない、ということか? いや、そうではあるまい。 「本心を明かせない」と語る音楽。曖昧さが生き方であることを示す音楽。 「夢見てはいけない。現実を見て生き延びるんだ。」というのはきっと本音だろう。 本心を明かさないという姿勢はメタではあるが、それも一つの姿勢だし、その姿勢には固有の情態性が伴う。 本心を明かさず、曖昧さのなかでようやく息をつくような生き方は、音楽のリズムと呼吸に刻み込まれる。 本心を明かさない姿勢の背後に、彼が関わらなくてはならなかった世の成り行きのありさまが浮び上がる。 そうした世界への関わりようは音楽に刻印される。 (これだとアドルノ的な観相学(―ただしその社会的・歴史的性格をあえてぎりぎりまで弱めたもの―になる。)


コミットメントの重視。主体性。倫理。ここでは命題的とはいえないかも知れないが、音楽を通じて表現された態度の帰属が問題になっているといえる。 (デイヴィドソンの根源的解釈を考えてみよ。) 勿論こうした考え方は、作品を表現の媒体として捉える立場を前提としている。 そして作品には意味がある、という立場を。 だが、dschの場合には、そうした立場をとることが問題になることはないだろう。



dschの音楽には他者が居るだろうか?多分、居る。シベリウス、ヴェーベルン、フランクの音楽は独我論だ。 けれどもdschの音楽は、多分、そうではない。マーラーの音楽は多分丁度dschと彼らの更に中間だ。 マーラーの音楽では、独我論が破綻しているのだ。 dschの音楽では、他者はそこに居る。(家族と「共に」etc.という意味での他者との共在ではない) 私を脅かす者、私が歓待すべきもの、倫理的な次元での他者がそこに居るのだ。 「社会」に対する機能を担わされてしまった交響曲よりも(その叙事性は独我論からは遠く、マーラー的なそれに近く、もっと徹底して「客観的」だ。 だが、ここでの他者は叙事的な語りの外部に在る者なのだ。)弦楽四重奏曲の方がわかりやすいだろう。 そこでは「客観性」を強いられることがないので。 少なくとも他者に対して行為する、他者が自分の領域に踏み込んで来るといった社会性の次元がその音楽には存在する。 他者は夢見られるのでも、憧憬の対象でもなく、そこに居て場合によっては私を脅かす。 マーラーにおいてはせいぜい「私の身に起きる経験」の強度―ただし、それは皮膚のレベルで捉えられているが―だったものが、ここではもっと社会的な次元に近づく。 これはもう独我論ではない。 恐らく音楽を書くことは、何らかの仕方で他者への行為だったのだ。 匿名の秩序や神、自然に対するのではなく、他者のいる空間で他者に、社会に対しているのだ。 (交響曲の「公的な」機能とは別の話だ。弦楽四重奏曲のようなジャンルでもそうた、ということだ。)


ベクトル場としての音楽。

運動(行為)が新たな場を引き起こす。

「世の成り行き」との関係の転送?感受の伝達? 例えば、dschにおける世界の暴力的な相貌は、自我の、主体の側の態度のエコーではないのか? dschの場合は、世界は、彼が世界に対して暴力的な分だけ暴力的なのではないか? (だが多分、これは言いすぎだ。常に世界の方が主体より強く、主体は敗北するのだから。) dschはヴェーベルンとは異なって、暴力的な客観が入り込んでくる。 しかも主体をそっちのけで、主体はあるところでは、―シベリウス同様―消滅する。だが、風景はシベリウスとは異なって、暗く、暴力に満ちている。 他者とともにある音楽?dschは両義的だろう。 主体が消滅した後に一体何が残るのか?永遠の大地や自然ではなく、愚行に満ちた人間の歴史が残るということなのか。


墓碑銘としての、あるいは墓碑としての音楽。 いずれにせよ、それはWebサイトもそうだ。(主が突然この世を去って、ある日付のまま更新が止まったWebページ、、、) ジャンケレヴィッチ風のハエッケイタスによる気休めは、電子的な不滅性へと回収されるのだろうか。 だが、それはディスクが破壊されれば無くなってしまうし、停電で見ることはできなくなる。 いかなる墓碑も風化し、崩れ去り、流砂に埋もれていく。 それは結局、意識のように儚い。唯物論とは、ここでは不滅性の否定なのだ。


15.

dschの姿勢は、やはり強者の、天才の論理ではないか?と問うてみる事は可能だ。 彼には武器があったし、自分の作品が己を越えて生きのびることを確信できた。 限られた生に「目的」を見出しえた。 けれども生が有限である、という認識に対して、残された生が意味あるものだ、といいうる人間が何人いるだろうか? (そう信じ込む人間はあるいはいるかも知れない。自分がひとかどの者と思い込めるデリカシーの欠如した厚かましい人間はたくさんいるから。) 己れに対して謙虚でありながら、そうあれる人間がどれだけいるのか? 「詩人の死」をdschが語るのは、パラドクスだ。それ自体がイロニーだ。


永遠に回帰するもの、より大きな秩序としての大地もある(cf. ヘルダリンの後期断片)、そうした秩序に対する絶望?

利己的な遺伝子に対する認識と、それへの反逆?


実際にはdschの晩年は病との闘いだったようだ。要するに今日的には要介護者だったようだから。 その中で音楽を書き、更に続けるつもりでいたことは驚異的ですらある。断筆などということはない。 本当に、死の間際まで書きつづけていたのだ。


芸術を求めているのか、モラルを求めているのか? これを二者択一にすることは難しい。 ちなみに芸術の方は、学問なり知識なりに置き換えても良い。 もっともこれは、例えばキリスト教文化圏と仏教的な文化の圏とではことなるだろう。 一方が他方に比べて優位ということはない、というのは多分、半分は間違いだ。 文化も進化論的な視点から見れば生存競争をしている。


だが、個人的には多分、モラルのない芸術や知識は受け入れることができない。 ならば逆は?美的な観点から、あるいは知的な観点からは全く凡庸だが、モラルの観点から見たら非の打ち所の無いもの。 それを受け入れることはできるだろうが、我が物とすることには多分抵抗がある。 だが、それが実際には両立しえないとしたらどうなのか?


結局、個人的な問題を言えば、なぜ私は音楽を聴くのか、音楽を聴くことで何を得ているのか、ということになるだろう。そしてそれが何故音楽でなくてはならないのか。 端的に言えば、私は生きる姿勢のようなものをそこに求めている。 出来上がった作品も、その姿勢の中に含まれるから、作品はどうでもいい、というようには考えない。作品は抜け殻に過ぎない、という考え方もあるだろうし、作品と演奏の間の問題が 「向こう側の事情として」あるのも理解しているが、私は、作品を作り上げること、をその生き方の姿勢の不可欠の要素として考えている。 もし、倫理的な振る舞いだけを考えれば、偉大と呼ばれる音楽家ですら、極めて不徹底な存在になるだろう。欠点のない聖者を求めているのではない。だが、それでも作品だけで 作者はどうでもいい、とは考えない。 作品は作者の主観の表現であるといったたぐいのロマン主義的な発想に作品が基づくか(少なくとも作者の主観的意図として)どうかによらず、やはり作品と作者を切り離して考えたくはない。 それはやはり生き物の行動とその結果に違いなく、そういう視点を放棄することは考えたくない。 行為だけで結果はどうでもいいわけでもなく、結果がよければ意図はどうでもいいわけでもない。


そしてできればその音楽は音楽自体が、私の感じ方や考え方、生きる姿勢にアフェクトをもって欲しいのだ。そういう意味では、ロマン主義的な音楽は、私の場合という個別のケースでは 少なくとも結果的に、優位にある。そのように感受が組織されてしまっているという結果論であっても、仕方ない。少なくとも、実験的な音楽は、dschの音楽が与えてくれるものと 等価なものを与えてくれない(し、それはないものねだりなのである。そのかわり別のものを与えてくれる。)そして、私にはdschの音楽のようなタイプの音楽が必要なのだ。


意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。 だが、意識の「何を」解けばよい。 音楽は無力。だが、信仰もまた。 それは「私」しか救えない。 音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。 作ること、演じることは、役に立つ。 だが、聴取は他人には働きかけない。 それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。 信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。 だが、二人称の問題に対しては無力だ。 無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。 委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度がなくても、存在するし、意識することができる。 意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。 二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。 ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで扱わなくてはならない。


(2006.4--2008.10 / 2008.11.7/8/9, 2009.8.15, 11.15)


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