2024年5月15日水曜日

クセナキス作品の実演に接した記録:eX. 5 大井浩明ピアノリサイタル

eX. 5 大井浩明ピアノリサイタル
2007年8月23日(木)19時~ 原宿 アコスタディオ

クセナキス ヘルマ


eX. というのは川島素晴さんと山根明季子さんが企画する演奏会のシリーズでこれはその5回目、実はこの前の6月10日には松平敬さんと大井さんによるシェーンベルクの歌曲のリサイタルがあって、その時に予定されていながらも初演が延期された川島さん編曲のモーゼとアロンの黄金の仔牛の踊りのピアノ編曲版がこの演奏会で、今度はシェーンベルクのOp.23のピアノ曲集ともども演奏されたので、どちらかといえば本来のシリーズとしての連続性とは異なった文脈で私はこのコンサートに足を運んだ。この他には企画者のお二人の作品や物故された佐藤慶次郎さん(このコンサートの客席にはおられた)の作品、シュトックハウゼンというプログラムだったが、私がこの演奏会に足を運んだのは、未だ実演に接することができてないクセナキスの作品を聴けるというのが動機の大半を占めていたというのが正直なところだ。三輪眞弘さん言うところの「録楽」でしかクセナキスを聴いていなかった私にとり、実演に接するというのは非常に貴重な機会だし、あくまでも相対的にであれクセナキスの音楽の受容層が一定数確実に存在して着実な受容が行われている日本においても、クセナキスの作品を実演で聴く機会は多くはない。自分のスケジュールと合う割合をそれに加味してみれば、これは聴けるなら聴いておきたいと思ったわけである。

それゆえここでは私は専らヘルマについてだけ述べることにして、他については割愛する。主催者の企画には敬意を表したいが、それは私の問題意識とは恐らくほとんど重ならず、ここでヘルマ1曲をもって交差したに過ぎないのだから、それらについてはそれを書く資格のある人に委ねたい。私は如何なる意味においてもいわゆる「現代音楽」の専門家でないのは勿論だが、「現代音楽」のファンですらない。単に拒絶反応がないだけで、そんなに色々な音楽を聞いてきたわけではないし、現時点ではせいぜいが10人くらいの作曲家に(しかも間歇的に、かわるがわるに)向き合うのが限界という状況にまでなっている。クセナキスはその中の一人なのであって、「現代音楽」というジャンル自体が大した意味を持っているわけではない。そしてこれは「現代音楽」に限った話ではなく、コンサートという制度においては、個展」として企画されない限りは様々な「音楽」を聞かなくてはならない約束になっているから、正直なところヘルマ一曲でいいんだが、できればエヴリアリや霧やらが一緒に並んでいた方がいいのだが、と内心思ってはいても贅沢は言えない。平日の夜、原宿に出かけるのは苦痛以外の何物でもないけれど仕方ない。いかに経済的な側面を無視しようとしても、「存在の一般経済」からは自由にはなれない。ここで言っているのはチケット代といったレベルの問題ではなく、端的に言えばその行動の選択が「割に合うか」「元が取れるか」といったレベルの話で、「音楽」はかくも高コストなものなのだということなのである。それを負担できない人間は断念せざるを得ない。かくしてますます「録楽」が蔓延るということになる。

だが勿論、このコンサートでのヘルマの実演は、そうした「投資」を上回る素晴らしいものだった。クセナキスが伝統的なコンサートピアノとそれを弾く人間のために作品を書いたことの意義や是非はおくとして、楽器を人間が弾くというやり方でリアライズされる作品としてヘルマは圧倒的な作品であるということを体感できた。分析的に考えれば、大井さんの替わりにプレイヤーズ・ピアノが演奏したらどうかとか、アコースティックなピアノではない別の媒体(厳密を期せば、例えば高橋アキさんの演奏したヘルマが録音されたCDは、まさに別の媒体であると見做せるだろう)であったらどうなのか、というのは考えてもいいし、ことクセナキスに関しては、それらを比較することには一定の意義があると私は考えるが、そうしたパースペクティブとは別のレヴェルで、この「実演」が疑いのない価値を備えていることを私は身をもって確認したし、今でもその確信は些かも揺るがない。否、クセナキスのような音楽であるからなお一層、これをわざわざ伝統的な楽器で人力でリアライズする現場に立ち会うことの持つ意義は測り知れないと私は考える。

どういうべきか、私には以下のように思われてならないのだ。クセナキスの伝統的な楽器と人間の奏者のために書かれた作品は、人間が演奏しなくては無価値だとア・プリオリに言いうるとは思えない。そういう意味でクセナキスの作品は「音楽」ですらないのかもしれないと思う一方で、それは「音楽でもありうる」、音楽としても成立するし、それは機械による完璧なリアリゼーションの不完全な代補なのではなく、全く別の固有の意義を備えているのだと思う。音楽でもあり、そうでもないような作品とはいっても、クセナキスの作品は通常流布している意味合いではコンセプチュアルな訳ではなく、その様態は全くユニークだと思う。そしてまさにそのことがクセナキスの音楽に私が強く惹き付けられる理由の一つであると感じている。方法論がそれを担保しているのではないのは最早明白だろう。無論のこと方法論は必要条件ではあろうけれど、クセナキスの選んだ音群の操作の具体的なあり方を、人間がピアノで開示すること、そしてそれをその場で直接聴く人間が存在すること、そういう条件でしか生起しえない何かがあるし、私はそれに高い価値を認める立場を選択する。このコンサートで大井さんの演奏でヘルマを聴いたことは、それを身をもって確認した貴重な機会であったと思う。(2009.7.11)

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