かくして私がフランツ・シュミットの名前を知ったのはまさに1980年代後半の頃、当時のマーラー・ブームの中で、マーラー周辺の作曲家として取り上げられたのではなかったか。若杉弘と東京都交響楽団がサントリー・ホールで行ったマーラーの交響曲全曲のツィクルスは、マーラーの作品と当時のマーラー周辺の作曲家の作品を組み合わせたプログラム構成によって、百花繚乱の様相を呈していたマーラー・ツィクルスの中で異彩を放っていたが、そこで取り上げられたのは、アドルノが取り上げた作曲家達、即ちシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンに3人に加えてツェムリンスキーとシュレーカーであって、フランツ・シュミットは含まれなかった。因みに私が実演に接したのは、第6交響曲と一緒に演奏されたシェーンベルク(作品16)、第7交響曲と一緒に演奏されたヴェーベルン(作品6、初稿)、交響詩「巨人」と一緒に演奏されたツェムリンスキーの「人魚姫」、そして交響詩「葬礼」と一緒に演奏されたツェムリンスキーの「詩篇23番」のみであった。
そういう訳で当時私がフランツ・シュミットに関して有していた情報は、ウィーンのLafiteとÖsterreichischer Bundesverlagが1972年に20世紀のオーストリアの作曲家の叢書の1冊として出版していたNorbert Tschulikの著作(最初は大学の図書館のものを借り、その後古書で入手して今でも手元にある)以外には、偶々入手することができたメータとウィーン・フィルによる第4交響曲の演奏、ネーメ・ヤルヴィとシカゴ交響楽団による第2交響曲の演奏、ペシェクとスロヴァキア・フィルによる第3交響曲の演奏のCDくらいのものであったと記憶する。
そうは言うものの、フランツ・シュミットの作品がそれまでの日本と全く無縁であった訳ではない。彼の代表作として先ず指を屈すべきヨハネの黙示録によるオラトリオ『七つの封印を有する書』のみは、1977年に日本初演されて以来、1979年、1983年と取り上げられてきたようだ。だがそうした情報もその当時は知るべくもなく、ことこの曲に関してだけ言えば、Preiserから出ていたCDを聴いても惹きつけられることのなかった私が作品に向き合えるようになるのは、ようやくアーノンクールとウィーン・フィルとの演奏のCDに接してからということになる(その演奏の録音については、記事「アーノンクールのフランツ・シュミット「7つの封印を有する書」」を参照されたい。)
それ以外の作品については、管見ではようやく近年になって、寺岡清高さんが大阪交響楽団と達成した全4交響曲の演奏をはじめとして、大野和士さんが第4交響曲を取り上げるというように、日本国内の演奏会でも取り上げられるようになってきているように窺える。『七つの封印を有する書』はどうかといえば、特にウィーンという土地と深い所縁を持つこの作品をウィーン出身の指揮者であるアルミンクが日本国内で取り上げるということが起きていたりもする。
また、アマチュア・オーケストラについて言えば、アマオケの情報サイトi-amabileによれば(https://i-amabile.com/composer/franz_schmidt)、1990年代以降、以前から知られていた歌劇『ノートルダム』の間奏曲・謝肉祭の音楽に加えて、第1交響曲と第4交響曲の演奏は既に行われているようである。珍しいのは歌劇『フレディグンディス』の王のファンファーレが取り上げられていることで、これは現時点においても『フレディグンディス』のまともなCDがなく(この作品の復権を訴えるサイト ”Fairness for Fredigundis!” によれば、メルツェンドルファーの指揮により、1979年9月27日にウィーンの楽友協会大ホールで行われた演奏会形式の上演の、必ずしも音質的に恵まれているとは言い難い録音記録は存在しているようであり、2022年12月現在では既に存在が確認できなくなった上記サイトでその一部を聴くこともできたものが、現時点ではYoutubeでその全体を聴くことができるようになったようだが)、それを除けば、辛うじてシュミット自身が王のファンファーレを主題にした変奏曲とフーガをオルガン向けに書いているのを通じて知ることができるくらいであることを思えば貴重であろう。
スコアを見ればただちにわかることだが、シュミットの交響曲は和声的に複雑である上にパートが入り組んでいて演奏が猛烈に難しく、上演にかかる労力は膨大で、およそ「割りに合わない」タイプの音楽であることを思えば、プロ、アマいずれのオーケストラでも敬遠されがちなのは仕方ない面もあるだろうと想像されるから、近年の状況は寧ろ活況を呈していると言っても良いのではなかろうか?
だが残念ながら数少ない貴重な実演に接する機会もなく四半世紀が経過し、未だに私は専ら再生技術の恩恵によりCDに記録された録音のみを通じてフランツ・シュミットの作品に接している。もっともCDに限れば、上記演奏を含むネーメ・ヤルヴィによる交響曲全集のみならず、3曲の五重奏曲、2曲の弦楽四重奏曲といった室内楽、CD4枚組のオルガン曲集、歌劇『ノートルダム』、オラトリオ『七つの封印を有する書』といった辺りまで、折に触れ聴き続けてきており、聴く頻度だけとれば、より有名な作曲家達に対して引けを取ることがない(か寧ろ勝るかも知れない)と言えるのである。近年ではファビオ・ルイジが中部ドイツ放送局のオーケストラと全交響曲・オラトリオ・協奏曲のCDを出した後、NAXOSでも各交響曲に管弦楽曲とを組み合わせて全交響曲を網羅するCD(シナイスキ指揮のマルメ交響楽団)が出た他、特に第4交響曲や『七つの封印を有する書』のCDは数が増えているし、それ以外の管弦楽作品を収めたCDも何点か入手できるようだし、youtubeではヘッセンの放送局のオーケストラを日本でもお馴染みになったパーヴォ・ヤルヴィが指揮して第4交響曲を演奏した記録や、ユーリ・シモノフがモスクワ・フィルを指揮した第2交響曲の演奏記録、更にはファビオ・ルイジがデンマーク放送交響楽団を指揮した『七つの封印を有する書』の演奏記録が視聴できるなど、少しずつではあるが着実にその音楽に接する機会は増えているように思われる。その後、パーヴォ・ヤルヴィがヘッセン放送のオーケストラを指揮した全4曲の交響曲の演奏はCD化されてリリースされた。それ以外にも、ウィーンフィルをビシュコフが指揮した第2交響曲の演奏の録音がある他、上述の大野さん、寺岡さんの第4交響曲の演奏も、アルミンクの『七つの封印を有する書』の演奏もCD化されている。
その一方で、数は少ないけれども、シュミットの作品についても、著作権の保護期間の切れたかつての録音や、永らく一部の人のみが接することのできた音源がCD化されて身近に接することができるようになった例というのを幾つか挙げることができるだろう。まず第一に挙げるべきは、シュミットの弟子であり、第4交響曲の被献呈者にして初演の指揮者(1934年1月10日、ウィーン楽友協会大ホール、ウィーン交響楽団)、『七つの封印を有する書』の初演者(1938年6月15日)であり、ナチスへの協力者として戦後演奏を禁じられて服毒自殺を遂げたオスヴァルト・カバスタが1940年10月10日にウィーン交響楽団を指揮した演奏の記録が挙げられる。シュミットと同郷(かつてのプレスブルク、現在のスロヴァキア共和国の首都ブラティスラヴァの生まれ)で、シュミットに師事したルドヴィート・ライテルが晩年になって(1983年)地元ブラティスラヴァの放送局のオーケストラとシュミットの交響曲全4曲を録音していることも特筆されよう。ウィーン交響楽団には戦中から戦後にかけてウィーン国立歌劇場の首席指揮者であったルドルフ・モラルトが指揮した第4交響曲の演奏(1955年)も存在する。カバスタに師事したラインスドルフには、晩年になってからウィーン・フィルを指揮した第2交響曲の演奏記録があるし、今日ではアメリカにおけるマーラーの紹介者として記憶されているミトロプーロスには1958年にやはりウィーンフィルを指揮した第2交響曲の演奏記録が残されている。更にミトロプーロスにはウィーンフィルとの『七つの封印を有する書』の1959年8月23日の演奏の記録もある。第4交響曲について言えば、冒頭でも触れたメータがウィーンフィルを指揮したアルバムが有名だろうが、そのメータがウィーンの伝統の中に連なることを思い起こすべきだろうし、実際メータが師事したスワロフスキーにもケルンの放送局のオーケストラを指揮した1964年の演奏記録があるから、いわばそれは師匠譲りのレパートリーなのだと見做すこともできるのではなかろうか。
『七つの封印を有する書』のウィーンでの上演の系譜に目を転じれば、日本でも良く知られたホルスト・シュタイン指揮によるウィーン交響楽団との圧倒的な演奏や、近年のアーノンクールによるウィーンフィルとの演奏がそれを継承していると言えるだろうが、それ以外にもオーストリア放送交響楽団をツァグロゼクが指揮したものや、バイエルン・オーストリア圏ということなら、私が最初に接した低地オーストリア・トンキュンストラ―管弦楽団による演奏記録が存在するし、リンツ出身のウェルザー=メストがバイエルン放送交響楽団やロンドン・フィルとシュミットの作品を取り上げているのもまた、そうした伝統に連なるものと見做すことができるだろう。
一方、文献に関しても、Harold Truscott, "The Music of Franz Schmidt - 1: The Orchestral Music" (Toccata Press, London, 1984)が比較的容易に入手できるようになっており、更に幸いな事には、英訳ではあるが、この著作にはシュミット自身の自伝的スケッチや、シュミット晩年のナチスとの不幸な関係に起因する非難に対する反証によりシュミット復権に大きく寄与したケラーの回想が含まれており、重要な一次資料に触れることができるようになっている。
更に2019年8月末にサイトウ・キネン・オーケストラと松本で第4交響曲を演奏したファビオ・ルイジは、NHK交響楽団に首席指揮者として招かれると、NHK交響楽団の2000回の定期公演のプログラムを一般からの投票によって決定するという企画において、候補となる作品の一つにマーラーの第8交響曲、シューマンの『楽園とペリ』とともに『七つの封印を有する書』を挙げたのであった。投票の結果、残念ながら『七つの封印を有する書』は選ばれなかったが、マーラーの半分、シューマンの倍にあたる700票近くを集めたことを見ると、ルイージの取り組みが日本においてもそれなりに浸透し、結果としてシュミットの存在感が着実に増していることが窺える。
けれどもそれでは一体どういう理由でフランツ・シュミットを聴き続けるのかと考えてみると、その理由を一言で述べることが難しいことに気付く。ここではその理由を考えてみることにしたい。
フランツ・シュミットが今日、過小評価されている理由の一つに、ナチスへの協力の嫌疑という不幸な経過があったことについては恐らく異論はないだろう。未完のカンタータ『ドイツの復活』の件や、ナチの党員となったことから戦後、占領軍から一切の演奏活動を禁止され服毒自殺を遂げたオズヴァルド・カバスタのような弟子の存在が影響したとはいえ、マックス・フォン・シリングスやハンス・プフィッツナーのようなケースと異なって、シュミットに関しては、単純なプロかコントラかの二分法が通用しないことは今や明らかであり、そうした表面的な「事実」なるものをもって、接すれば疑いようのない作品の価値までが軽んじられることの不当さはシュミットの場合には明らかなことと思われる。現実には問題の『ドイツの復活』は依然としてレパートリーからは除外されたまま、それ以外の作品がリバイバルを遂げているというのが現実だが、ことシュミットに関しては、そのことが「不都合な真実」から目を逸らすことには必ずしもなっておらず、逆にそのことをもって他の作品の価値判断が不当に歪められることがないことを評価すべきなのかも知れない。(あえてここで、上記のような一連の「事実」に言及するのも、単に「不都合な真実」として、あたかもなかったかの如く言い落としをして済ましてしまうことを回避するためである。)
その一方で、上述の録音記録に刻みこまれた系譜から明らかなように、ウィーンにおけるオラトリオの伝統において『七つの封印を有する書』は、ハイドンの『天地創造』と対を為す作品、『天地創造』がアルファなら、『七つの封印を有する書』はオメガである、その伝統の掉尾を飾る作品というように私は考えている。さしづめ聖書の劈頭に置かれた創世記に取材したハイドンのオラトリオが、その伝統の開始に位置し、古典派様式の完成を告げるという点でアルファなら、聖書の末尾に位置する黙示録を取り上げたシュミットのオラトリオは、それまでの音楽の歴史を回顧するように、様々な様式が盛り込まれたという点で、その伝統における奥津城たるオメガであろう。だがそれよりもウィーン近傍に限って言うならば、何より(日本におけるベートーヴェンの第9交響曲以上に)この作品が彼の地の風土に根付いている度合いからいって、他のより有名な作曲家の作品に伍して遜色ないということが言えるだろうからである。
だがそんなことはウィーンに住んでいたとかいう事情があればともかく、100年後の極東の島国で、その音楽が生まれ育った環境とは凡そ無縁の生活を送っている人間が、その音楽に惹かれる原因となりはすまい。しかも、これは個人的な文脈の話になるけれども、まずもってはっきりしているのは、フランツ・シュミットは、フランク、シベリウス、マーラーといった作曲家とは異なって、子供の頃に、音楽史的な位置づけであるとかは一切抜きにして、或る種無媒介にいきなりその作品に接してしまったタイプの作曲家ではないのである。
さりとてそういう点では私にとって特権的な位置を占めるマーラーとの関係というのもまた、既述のように、シュミットを知るようになった理由にはなりえても、その音楽をその後30年以上に亘って聴き続ける理由にはなり得ない。(尤も、30年の時を経てみれば、偶然の悪戯か、シュミットとはおよそ無縁で接点がないように思われた100年後の地球の反対側で生きる平凡な人間にも、微かな繋がりというものが生じることはあるようだ。ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの時代から微力ながら支援させて頂いているマーラー祝祭オーケストラの音楽監督の井上喜惟さんは、シュミットの弟子であるザイドルホーファーの弟子であり、シュミットの孫弟子とのことなので、所謂エルデシュ数のような最短仲介数を計算すれば、私とシュミットのそれは3ということになるようだ。上述のウィーンにおけるオラトリオの伝統におけるシュミットの位置づけに思い至ったのは、既述の通り、アーノンクールがウィーン・フィルとジングフェラインを指揮したアルバムをリリースしたのを入手して聴くことによってこの作品に馴染むようになるとともに、一見したところ意外とも感じられたその背景―ーそれを踏まえれば、ここでこの難曲の合唱を担当しているのが、プロの合唱団ではなくジングフェラインでなくてはならないことにも得心が行くのだがーーを知って以来だが、それが実感を伴ったのは、オルガン作品の主題にも転用されていることもあって私にとってハレルヤ・コーラスと言えば最初に思い浮かぶのはこれというくらいにまで馴染深いものになっている『七つの封印を有する書』のハレルヤ・コーラスが、ウィーンにおいては誰もが知っている程有名なことを、こちらも圧倒的な演奏記録が残っているホルスト・シュタインの指揮した『七つの封印を有する書』のウィーンでの上演の場に立ち会われた井上先生に教えて頂いた時のことだった。)
確かにシュミットはマーラーを知っていた。シェーンベルクと同じ1874年生まれだから、1860年生まれのマーラーよりも一回り年下ということになるが、彼はマーラーが音楽監督を勤めたウィーンの宮廷歌劇場のオーケストラでチェロを弾いていたのである。マーラーはシュミットの才能を評価していたようだが、いわば部下として接したシュミットの上司マーラーに対する印象は、その回想から確認できる限りでは決して肯定的なものとは言い難かったようだ。一方で作曲家としての彼のキャリアは1899年の第1交響曲以降といって良く、その初演こそ1902年だが、彼の出世作といって良い『ノートルダム』はマーラーの没後の1914年になってウィーンの歌劇場で初演されているし、第2交響曲も同時期の1913年の作品であるから、マーラーの側の作曲家シュミットに対する評価を云々することはできないだろう。(尤も、マーラーが『ノートルダム』をその在任期間中に取り上げなかったという点は、それ自体がマーラーの作曲家シュミットに対する評価であり、要するにそれは「拒絶」ではなかったかという指摘に対して争うつもりはない。ここで私が言いたいのは、例えばシベリウスもそうだったが、シュミットの場合についても、事実としてマーラーが知り得た作品には限りがあって、従ってその評価は部分的なものに留まらざるを得なかっただろうというに過ぎない。)
他方で、同年生まれの誼というわけでもなかろうが、シュミットの方からはシェーンベルクへの支援を惜しまなかったにも関わらず、或いはまた、楽式については保守的であったシェーンベルク自身のシュミットに対する留保ない賞賛(それは、ブラームスを「進歩主義者」として評価する姿勢と相通じるものがあるように私には思われる)にも関わらず、そしてそれゆえに彼とツェムリンスキーが主催した「私的演奏協会」の中では、1919年10月12日の第30回と1920年1月25日の第41回の演奏会において、ピアノ四手用に編曲された第2交響曲が演奏されたという事実(これは邦訳もある、ジョーン・アレン・スミス『新ヴィーン楽派の人々―同時代者が語るシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン』(邦訳は山本直広、音楽之友社)で確認することができる)にも関わらず、サークルとしての直接の交流はなかったようだし、サークル内での彼の作品の評価は必ずしも安定していたわけではないようだ。ベルクが高く評価していたらしいことは記録から窺えるとはいえ、ヴェーベルンの方は件の第2交響曲の演奏を聴いて酷評した回想も残されているようだし、彼らにとってアイドルであったマーラーの作品に対してシュミットは明確に否定的な意見を持っていたようだから、作曲の様式の面でも思想の面でも、シェーンベルクのサークルとはその方向性においてはっきりと袂を別っていたと見るべきだろう。冒頭で述べた通り、ベルクの弟子であったアドルノもまた、ツェムリンスキーとシュレーカーは取り上げても(そればかりか、ラヴェルすら取り上げているのに)、そしてストラヴィンスキーやヒンデミット、或いはシベリウスを批判的に取り上げても、シュミットに主題的に言及することはなかったようだ。
勿論、同時代においては抜き差しならぬものであった「あれか、これか」も、現在において最早同じ意味を持つことはない。また、自分の中で異なった意味を持ち、価値を持つ複数のタイプの音楽を聴くことも、必ずしも一貫性の欠如を意味するとは限らない。特に職業として音楽に携わっているわけでもなく、同時代の音楽の動向については明確なプロとコントラがあったとしても、個人的に自宅の一室で聴く過去の異郷の音楽についてまでそれを延長する必然性もない。否、現実に、フランツ・シュミットの音楽はそうした領域の外側で、私の心の風景の中で、それなりに確固たる位置を占めているのである。
恐らく、音楽的な能力、いわゆる才能と呼ばれるものにおいて、彼は並外れた存在であったであろう。一言で言えば優れて「音楽的」な人間であっただろうことは身近に接した人間の証言などから窺うことができる。かてて加えて彼が習得し、鍛錬して極めたその技術・技巧のレベルもまた、圧倒的なものであったろう。私は音楽の専門的な教育を受けたわけではないから、その凄味というのを実感できるとは到底言えないけれど、素人なりに彼の音楽において達成されているものが専門的に見て、些か衒学的なまでに高度なものであろうことくらいなら想像がつく。尤も、高度に対位法的で錯綜とした声部進行と、これまた非常に凝っていて意外さや大胆な不協和音をも厭わない複雑な和声進行に支えられ、技巧の限りを尽くした変奏技法や極めて息が長く徹底した楽曲の展開が時として飽和した感覚すら与えかねないという、結果的にシュミットの音楽が備えることになった相貌は、彼の出自を想起させる美しく歌謡的な旋律や、しばしばシュトラウスを思わせるような熟達した管弦楽法の絢爛たる効果にも関わらず、彼の音楽を聴きやすく人口に膾炙したものとすることの妨げになっている側面は否定できないだろうが。
恐らく、音楽的な能力、いわゆる才能と呼ばれるものにおいて、彼は並外れた存在であったであろう。一言で言えば優れて「音楽的」な人間であっただろうことは身近に接した人間の証言などから窺うことができる。かてて加えて彼が習得し、鍛錬して極めたその技術・技巧のレベルもまた、圧倒的なものであったろう。私は音楽の専門的な教育を受けたわけではないから、その凄味というのを実感できるとは到底言えないけれど、素人なりに彼の音楽において達成されているものが専門的に見て、些か衒学的なまでに高度なものであろうことくらいなら想像がつく。尤も、高度に対位法的で錯綜とした声部進行と、これまた非常に凝っていて意外さや大胆な不協和音をも厭わない複雑な和声進行に支えられ、技巧の限りを尽くした変奏技法や極めて息が長く徹底した楽曲の展開が時として飽和した感覚すら与えかねないという、結果的にシュミットの音楽が備えることになった相貌は、彼の出自を想起させる美しく歌謡的な旋律や、しばしばシュトラウスを思わせるような熟達した管弦楽法の絢爛たる効果にも関わらず、彼の音楽を聴きやすく人口に膾炙したものとすることの妨げになっている側面は否定できないだろうが。
だが彼は、そうした才能や技術を、何か革新的なこと、例外的なこと、日常を離れたことの為には用いなかったように見える。とはいえ彼は先人が切り開いた領域の中でその遺産を単に消費して音楽を謂わば「再生産」するだけの、時代の中では存在価値があっても時代とともに忘れ去られてしまうタイプの音楽家でもなかった。彼の作品を聴いて直ちに感じられる保守性は、「進歩主義者」ブラームスが第4交響曲で殊更に復古的な身振りを示していたことの更なる徹底(しかもその程度たるや、マニエリスムを感じさせる程のものである)と見るべきだし、古い形式の上で淀みなく流動するロマン主義的な時間経過を実現してみせたブラームスよりも「歪んだ真珠」という言葉のもともとの意味合いにおいて、「バロックな」性格が際立っているように思われる。それは「移ろい行く相」のもとに「ヴァニタス」と「メメント・モリ」と同時に「カルペ・ディエム」を主要なモチーフとした嘗てのバロックの時代の衣鉢を、シュミット自身が直面することを余儀なくされた時代の破壊と変容の中で継承し、発展させたもののように感じられる。そしてそれは、まさに歴史の終焉、大きな物語の消滅が云々された時期を経た現在において、シュミットの音楽が少しずつであれ、ますます取り上げられるようになってきていることとも無関係ではあるまい。
例えば寺岡清高さんと大阪交響楽団の企画は、一見そのように見えたとしても、過去の異郷の文化財を研究し、或いは鑑賞するという、高級ではあっても所詮は消費に過ぎない目的のためだけにフランツ・シュミットの作品を今日取り上げたというわけではないだろうし、シュミットの音楽を「今、ここ」で聴き続ける人達のほとんどはそうした(一般には、今や幸いに概ね死滅しつつあるように見える、だがマーラーの周辺、19世紀末ウィーンに関しては遺憾ながら未だに蔓延っているのをしばしば確認する)教養主義とは無縁だろう。繰り返しを厭わずに言えば、成長と進歩の時代が終焉し、大文字の物語が無効になったと言われる今日の時代の空気のようなものがシュミットの音楽を探し当てたといった側面があるに違いない。
しかし一方で(否、寧ろだからこそ、というべきなのかも知れないが)、その音楽は人を日常性から引き離し、超越的なものへと誘い、或いは(否定的な意味ではなく)狂気に近づけるような質を備えているわけではないように私には感じられる。それはブラームスの音楽が時折結び付けられる文化的な概念としてではなく、より一般化された意味合いにおいて、だがブラームスの音楽とその点では類似して、ビーダーマイヤー的とでも呼べる志向を備えているように感じられる。いずれもファム・ファタルの造形を試みたとも見做せる2つの歌劇(『ノートルダム』のエスメラルダ、悪女として名高い『フレディグンディス』のタイトルロール)にも関わらず、或いはこれまた非日常的な黙示録に取材したオラトリオ『七つの封印を有する書』にも関わらず、室内楽や交響曲といった、いわば「外行き」ではない系列の作品に見られる彼の音楽の本来の居場所というのは、見慣れた風景の中での日常的なものへの視線の裡にあるように思われてならない。そしてこうした志向を備えた音楽をアドルノが無視したのは当然のことのように思われる。
しかし一方で(否、寧ろだからこそ、というべきなのかも知れないが)、その音楽は人を日常性から引き離し、超越的なものへと誘い、或いは(否定的な意味ではなく)狂気に近づけるような質を備えているわけではないように私には感じられる。それはブラームスの音楽が時折結び付けられる文化的な概念としてではなく、より一般化された意味合いにおいて、だがブラームスの音楽とその点では類似して、ビーダーマイヤー的とでも呼べる志向を備えているように感じられる。いずれもファム・ファタルの造形を試みたとも見做せる2つの歌劇(『ノートルダム』のエスメラルダ、悪女として名高い『フレディグンディス』のタイトルロール)にも関わらず、或いはこれまた非日常的な黙示録に取材したオラトリオ『七つの封印を有する書』にも関わらず、室内楽や交響曲といった、いわば「外行き」ではない系列の作品に見られる彼の音楽の本来の居場所というのは、見慣れた風景の中での日常的なものへの視線の裡にあるように思われてならない。そしてこうした志向を備えた音楽をアドルノが無視したのは当然のことのように思われる。
ちなみにこうした作品における不思議なコントラストと同型のものを、作曲者の生涯にも認めうると言えば牽強付会が過ぎるだろうか。公的にはその申し分ない才能に相応しいエリートコースを歩み続ける一方で、学生時代のパートナーとの間に子供が居たり、最初の結婚の相手が精神に異常を来たして精神病院に入院する(最後にはナチスの「安楽死」プログラムの犠牲になるのだが、それはシュミットの没した後のことだから、事実としてはシュミット自身の知る由のないことに属する)ことになるなど、私生活上は決して平穏無事とは言えず、そうした伝記的事実を知ってしまえば、そうした側面と例えば歌劇の題材の選択の間に結びつきがあるのではという深読みに誘われることを避けるのは難しい。その一方で特に交響曲や室内楽等に見られる一見したところ平凡で平穏な風景(シュミットの音楽の目立った特徴の一つは、「ノートルダム」間奏曲に代表されるような、ともすれば感傷に陥りかねないような甘美な節回しをもつ旋律だろう)も、シュミットの音楽にあっては、もともと部厚く付加音に富んだ和声に加えて頻繁に差し挟まれる不協和音と繰り返される突然の転調によって、その視界はいびつに歪み、輪郭もどこかでピントがずれて朧な暈のようなものを常に帯びることになる。更にその音楽の持続は概ね長大で、時折行く先を見失いかねない程錯綜とし、晦渋さやマニエリスムを感じさせる程に徹底した変奏や展開を行うものであるけれど、最後には型通りの結末に到達する。その時間性は、微視的には偏倚や逸脱を含み、時として断絶をも含みうるとしても、巨視的に見れば軌道は元に戻っていき、新たな場所に聴き手を誘うこともない。シュミットの音楽の時間方向の展開の原理は、マーラーに関してアドルノが指摘する(恐らくはベンヤミンに由来する)ような「変形」(ヴァリアンテ)ではなく、伝統的な「変奏」であり、それが技巧の限りを尽くした精緻なものであっても、性格的なコヒーレンスが保たれ、他者の声の侵入を受けることはないようだ。対位法の大家でもあるシュミットは、だが、バフチンのそれを思わせるようなマーラー的な意味でのポリフォニックな発想とは遂に無縁であったように思われる。そうした時間性の観点でシュミットの音楽の持つ性質を捉えて「保守的」と呼ぶのであれば、それはそれで一定の妥当性があるという見方もできるだろう。しかもその途中の偏倚や逸脱は、ひととき人を非日常的な風景に誘う訳でもなく、何かより大きな秩序を予感させるということもない。平凡には違いない日常が、だけれども常にどこかに不穏さを帯び、何かに脅かされた不安に満ちたものでありつつ、それでもなおカタストロフに見舞われることなく、奇妙な準平衡状態を保ちながらいつ果てるとも知れず続いていくといった感覚においてシュミットの音楽に見いだす風景は、私にとって奇妙に親密で、情態としては寧ろ馴染深いものにさえ感じられるー要するに、その音楽を聴いて「くつろぐ」ことができるーし、実際問題として、では同じような音調の音楽が他にあるかと問うても思い当たることのない、唯一無比の魅力を備えたものなのである。
シュミットの音楽から聴こえてくる風景は確かに一種独特なもので、素朴さと優美を兼ね備えた甘美なウィーン風のしなやかな節回しは、新ウィーン楽派の理論的に尖った部分ではなく、寧ろその基層にある「風土」を感じさせるもので、例えばアルバン・ベルクがことにシュミットの室内楽を好んだという話には頷けるものがあるし、特に初期の作品の旋律に、ブラームスにおけるのと同様な意味合いでの(所謂「ジプシー音楽」風のテイストという意味で)ハンガリー風な色合いを感じ取るのは或る意味容易だが、私にとって寧ろ印象的なのは、特に後期のピアノ(と更に2曲ではクラリネットと)を伴う室内楽が垣間見せてくれる風景であり、私が思いつく限りそれは例えばバルトークの第3ピアノ協奏曲に聞かれるそれに近い雰囲気を湛えていることで、より都会的で、せいぜいが(シュミットの住まいがあったとされる)「郊外」のそれであるといった点で、バルトークのそれのような、そこで「他者」としての「自然」に遭遇するような「戸外」の音楽では必ずしもないのだが、それでも同様に色濃い「夜の気配」に満たされて、「戸外」の「風景」への予感を強く孕んだものに感じられる。それはブルックナーやシベリウスのような「木石の音楽」とは全く異なって、人間的なものが入り込む余地のない「自然」を映し出し、或いはすぐそこにある「風景」が(超越的であれ、神話的であれ)神的な存在の息吹を感じさせる瞬間を聴き手に提示するのではなく、平凡で日常的な(そういう意味では、1世紀後の極東の、全くかけな慣れた環境に身を置く私のような平凡な人間にも馴染のある、身近なものと感じられる)人間的な感情に満たされた「風景」を垣間見せてくれるように思うのである。それは音楽が流れているひとときに限って聴き手を日常とは異なる「何処か」に連れ去るような類の音楽ではなく、時として不穏さを帯び、不安に満ちたものであったとしても、それは寧ろ日常がしばしばそうした情態性に彩られたものであることの反映のように私には感じられる。その相貌は全く異なるとはいえ、それが映し出す時代の空気の共通性と、その高度な技巧と手法の革新が、何か理念とか世界観とかといったマクロなものに奉仕するのではなく、さりげない日常の情態を映し出すという点に関しては、こちらもまた、それを意外と捉える向きもあるだろうが、シュミットが高く評価していたらしいドビュッシーやラヴェルの音楽にも通じるような姿勢があるように思われる。もっともドビュッシーとラヴェルとの間に広がる懸隔と同じか、それに勝る懸隔が彼らとシュミットとの間に存在することは客観的には確かなことだろうが、私個人は、どちらかというとラヴェルにより近接するような姿勢を感じるのである。(そういえば、シュミットとラヴェルには、彼らがいずれも哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄で、戦傷により隻腕のピアニストとなったパウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱を受けて、左手ピアノのための作品を残しているという共通点もあった。ワルツへのオマージュを通じて、謂わば外からウィーンを賛美したラヴェルに対して、その点に関してはインサイダーであり、ウィトゲンシュタイン家との関わりもずっと密接で、文化的「ミリュー」の共有という点で謂わば「身内」であったシュミットは、左手ピアノのための作品を一つならず幾つも作曲しており、そのジャンルも管弦楽に留まらず室内楽にも及んでおり、特に2つのクラリネット五重奏曲を含む3曲のピアノ五重奏曲はいずれも左手ピアノのための作品だが、シュミットの代表作と言ってよい充実した作品群である。)
だがその日常と雖も勿論、他性の侵入と無縁ではあり得ない。寧ろそこには、或る意味では見慣れた、誰にでも馴染みのあって平凡ですらある経験として、例えば身近な、かけがえのない存在の死の経験が音楽化される。自らが死を予感し、この世に別れを告げる際の裂け目が顕れるのではない。そうではなくて、自分が生き延びているのに、自分のかけがえのない存在が最早永遠に喪われるという事態が自らの日常に出来するのだ。娘の死を契機に書かれたらしい彼の第4交響曲は、私の知る限り最も純粋な「喪の音楽」であるように感じられる。それは「喪の作業」の全過程を潜り抜けるタイプの音楽、即ち例えば子供の死を扱いつつ、或る瞬間にその子供の視線になりきってしまうようなタイプの音楽とは異なって、私を「喪」から解放することがない。ブラームスは、若き日にドイツ・レクイエムで、晩年になって4つの厳粛な歌で死を扱ったが、徹底して超越を拒絶した地上の音楽である点では共通していても、シュミットの第4交響曲はそのいずれとも似ていない。ブラームス自身は、傷つき、癒しを欲する人間とともにあって、「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである」と語りかけ続け、死者のまなざしとともにあることは、己も死すべきものであるということを突きつけられるような事態におかれることが伴っているという認識を告げているのに対し、第4交響曲のシュミットにあるのは、より端的な第二人称の死への対面であり、音楽はそこから目を逸らそうともしないし、そこから出て行こうともしない。寧ろ、その状況に意図的に留まろうとしているかにさえ見える。
「喪の作業」が備えていると言われる4つの段階のうち最後の段階は、シュミットの第4交響曲においては音楽の外部にしかないようだ。そしてそうであるが故に、この音楽は、第4段階に至ろうとする、現実に人が体験することを余儀なくされる「喪の作業」のこの上ない同伴者となるのではないか。勿論、シュミットの音楽の全てが「喪の作業」であるわけではないけれど、対象は違えども、対象との関わりの様態において、シュミットの音楽には第4交響曲に典型的に示されている或る共通性があって、それが時代を隔てた異郷の人間を、今なお惹きつける力の源泉となっているのではなかろうか。もし必要なら、最初に戻ってもう一度、その過程を辿り直すことができるし、それを第一人称の死、己が死ぬまで繰り返すことだって可能なのだ。
フランス革命の時代を経て、宗教的なバックグラウンドを喪失し、そのもともと備えていた機能と意味を長い時間をかけて喪失していった西洋の音楽史の末端に、2つのハ調の交響曲が位置づけられるだろう。一つはシュミットの第4交響曲であり、もう一つは、実はそれに10年先立って、既に1924年には書かれていたシベリウスの第7交響曲である。両者はソナタ形式が交響曲の範例における4つの楽章の全体を覆い、多層的であるよりは論理的に一貫し、有機的な統一を志向した結果として、単一楽章形式をとる点で共通性を持つ。一つは「主体」において反復されうる「喪」の音楽であり、もう一つは或る仕方で「主体」の消滅後を示した音楽であるだろう。前者の後に続くのは世界の終末を扱うオラトリオ(『七つの封印を有する書』)であり、後者の後に続くのは森の神を扱う交響詩(『タピオラ』)であった。一方には呪いや呼びかけのみが残り、他方には呪いや呼びかけの主体は最早ない。一方は西洋音楽の中心地の一つで、他方は西洋音楽の周縁部で書かれたのだったが、もうそれから100年近く経とうとしている今、そのいずれからも遠く離れたこの極東の島に相応しい音楽はどんなものだろうか?「人のきえさり」はどのようにして音楽化されるべきなのだろうか?幸いにして、私はそれが現実に実現されていることを知っていて、それに既に向き合うことができている。世上、メディア・アーティストにしてコンピュータを用いたアルゴリズミック・コンポジションを方法論とするとされる作曲家、三輪眞弘の「音楽」がそれである。だがそれは最早ここでのテーマとは別に論ずべきことだし、実際に既にこれまでもそのようにしてきているわけだから、ここでは一旦筆を擱くことにすべきだろう。(2019.10.19公開、2021.1.26,27,28加筆, 2.8加筆, 2022.12.7,21加筆, 2023.10.20,21加筆, 2024.2.2,10,11加筆)
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