2024年5月23日木曜日

アンリ・デュパルク(2024.5.23更新)

 

...
O Duparc! Ton génie a su les situer,
Ces accents arrachés à des anges muets.
...
(extrait de : Francis Jammes, Chez Henri Duparc, dans Ma France Poétique, Mercule de France, 1926)


おおデュパルク!
君の天才は物言わぬ天使から奪い取った
あの抑揚(アクサン)を配置することを知っていた。

(フランシス・ジャム「アンリ・デュパルクの家にて」尾崎喜八訳より、「新訳ジャム詩集」弥生書房所収)
私がデュパルクの名を知ったのはフランシス・ジャムの上の詩を通してではなかっただろうか。自身も詩人である尾崎喜八の訳による弥生書房のジャム詩集には、ジャムがカトリックに回心して後の1920年代の詩集に含まれる詩も幾つか含まれていて、その中に1926年刊行の詩集「わが詩的フランス」 Ma France Poétique (Mercule de France, 1926, 私が参照しているのは第8版)に収められた「アンリ・デュパルクの家にて」が含まれていたのだった。けれども、その音楽に接する機会は限られていて、わずかに「旅へのいざない」だけをかろうじて知っているという期間がひどく長かった。その後デュパルクの作品をある程度まとめて聴くことができるようになった時には、ジャムの詩を通して知ったという経緯の方はすっかり忘れてしまっていた程だ。

良く知られているようにデュパルクは1884年にボードレールの詩による「前生」を完成させて後、創作活動を殆ど絶ってしまう。それだけではなく、それまでに作った作品のほとんどを破棄してしまい、破棄を免れた作品は17曲の歌曲以外には数曲の器楽曲、管弦楽曲、合唱曲があるのみである。(ただし、これらの全てがデュパルクが遺すことを「公認した」作品ではない。本人の意に反して公表された作品も含まれていることに、一定の留意をすべきだと個人的には思う。)デュパルクは、生まれ育った環境からすればそれが可能であったに違いない(作曲を生活の糧を得るためにする必要はなかった)にも関わらず、更に作品の破棄という行為自体も表面上はそのように理解することだって論理的には可能であるにも関わらず、現代的な作曲家の類型の一つであるスタイリッシュで確信犯的な寡作家であったわけではないようで、一説によると書いた歌曲の数は数百にのぼるらしい。

ただし1885年以降、全く音楽から離れてしまった訳ではない。歌曲のうち8曲は管弦楽伴奏版が存在するが、それらの多くは1885年以降にオーケストレーションが行われているし、現存する管弦楽曲「星たちへ」は1874年に書かれた3曲からなる作品のうちの1曲で、1911年に改訂が行われたもののようだ。また、その創作活動の末期にはプーシキンの詩「ルサルカ」によるオペラを構想していたらしく、破棄を免れた断片(Danse lente)を聴くことができるが、これもまた1910年くらいに現存するかたちになったようだ。

交響詩としてビュルガーのバラード「レノーレ」に基づくもの(1875年に初演)も残っているが、「ルサルカ」といい、「レノーレ」といい、あるいは曲が付けられたボードレールやルコント・ド・リール、ゴーティエらの詩といい、残された作品の背景をなす文学的環境は如何にも時代の好みにあったもので、作曲上のワグナーの影響とあわせて、デュパルクが時代の空気に敏感であったことは間違いがないように思われる。裕福な家に生まれたデュパルクはしばしばドイツを訪れているが、多くの場合それは当時流行のワグナーを聞くためであり、1869年にはヴァイマルのリストの許でワグナーに会ってもいるようだ。ちなみに「レノーレ」の題材というのは、マーラーが曲をつけた子供の魔法の角笛の「美しいトランペットが鳴り響くところ」や「起床合図」を思わせるもので、言われるところのゴシック趣味に通じるものがあるようだ(かのロセッティによる英訳がある)。ビュルガーの別のバラード「呪われた狩人」に取材して、デュパルクの師であるフランクがやはり交響詩を作曲しているのは興味深い。もっとも「レノーレ」の音楽は、明らかなワグナーの影響にも関わらずワグナーの音楽が時折示すあの陰惨なところはないし、素材に共通点のあるマーラーの音楽の持つ仮借なさや疎外への共感とも無縁のようで、寧ろ当惑してしまうほど夢見がちな音楽のように聴こえる。それはもしかしたら、彼の歌曲が一見して当時の時代の趣味に完璧に沿っているようでいて、その中に安住することができないかのような不安げな眼差しを秘めていることと表裏一体なのかも知れない。(ちなみに、普仏戦争、そして第一次大戦という状況下のフランスの多くの音楽家がそうであったように、ワグナーの強い影響と国粋主義的なナショナリズムに基づくドイツ音楽に対する皮相な見方との葛藤がデュパルクにも見られる。さらにまた名門の血筋から自然に予想されるように、デュパルクが反ユダヤ主義的な考えの持ち主であったことは確かで、ユダヤ人には天才はいないと言わんばかりの「偏見」が書かれたクラ宛ての書簡も残されている。マーラーの音楽に対する反応も残っているが、これまた当時のフランスの音楽家によく見られる極めて皮相なものであるようだ。)

デュパルクの姓は本来はフーケ・デュパルク(Fouques-Duparc)、父親はノルマンディーの由緒ある名家の家系で鉄道会社の専務、母親はロレーヌ地方の貴族の出身で子供向けの宗教的著作のある人で、経済的にはめぐまれ、宗教的に厳格な家に作曲家マリー・ウジェーヌ・アンリ(Marie Eugène Henri)が誕生したのは、奇しくも革命の年であった。兄弟としては後年作曲者が「ギャロップ」を献呈している兄Arthurがいる。イエズス会士が運営する学校で教育を受けるが、その学校のピアノ教師が、かのセザール・フランクで、フランクはデュパルクの作曲の才能を認め、デュパルクはダンディ(「波と鐘」を献呈)、ショーソン(「フィディレ」を献呈)、ロパルツ(「前生」を献呈)などとともにフランキストに名を連ねることになる。デュパルクはその創作活動の出発点となるOp.1のピアノ曲にフランクへの献辞を書き込む。一方のフランクは彼の最も有名な作品の一つである交響曲(1889年出版)をデュパルクに献呈する。もっとも1889年にはデュパルクは創作を絶ち、すでに南仏にいるのだが。彼は音楽家になりたいが、音楽に理解のない厳格な父親はデュパルクに法律を修めるよう命じる。しかし広場恐怖に襲われたデュパルクは学位取得を断念することになる。フランクやフォーレ(「哀歌」を献呈)、シャブリエやダンディ等とともにビュシーヌとサン・サーンスによる国民音楽協会の発足に参加、以来書記の勤めを果たす。

1871年にデュパルクの妻となる人はアイルランド系でMacSwineyという姓を持つ。厳格な父親は彼女との結婚までに3年間の期間をおくことを命じたらしい。デュパルクは1870年に5つの歌曲を出版するが、そのうちの「悲しい歌」Chanson tristeは妻の兄弟であるLéon MacSwineyに献呈されているものの、実質的にはその後妻となるその女性への想いを載せた作品であったようだ。同じ曲集に含まれる「ためいき」Soupirを献呈された母親がその想いを汲み取り、父親にとりなしたというエピソードがあるようだ。デュパルクが曲をつけた詩の中には翻訳が2つある。一つはゲーテの有名なミニヨンの詩の翻案だが、もう一つはアイルランドに関連があって、トマス・ムア(Thomas Moore)がロバート・エメットの追悼に書いた「エレジー」である。これを訳したとされるE. MacSwineyというのは恐らく妻なのであろう。有名な「旅へのいざない」はやはり1870年あたりに書かれ、妻に献呈されている。デュパルクはその創作の末期である1884年頃からアイルランドに旅行をしているらしいが、それは妻の出身と無関係ではないのだろう。

親の権威に対するデュパルクの関係というのは恐らく心理学的には興味深い問題なのではなかろうか。その実際には豊かであったろう創作活動のエネルギーの備給、そしてその枯渇。宗教的に厳格な生育環境に対して、音楽の置かれた文学的環境はあからさまに世俗的であり、再び宗教的な環境に身をおいたデュパルクは、それをもはや不要なものと見做さざるを得ない。容易に思いつくのは、親への反抗としての作曲、反抗の挫折、屈服としての回心、創作の放棄、というストーリーだろう。音楽への想い、妻への想いを父が妨げたことは確かなことのようであるし。母との関係も、上述の「ためいき」の献呈に関する経緯(献辞が一時削除されたことがあるが、1911年版の「全集」では復活している。)に垣間見られる屈折をはじめ、精神分析的な深読みを誘う側面があるようだ。ただし、デュパルクの病は器質性のものであったかも知れないようなので、こうした「ストーリー」を安易に敷衍することには慎重であるべきだろうが。そもそも、ボードレールの詩に共感したとはいうものの、放蕩に身を持ち崩すような生活態度により反抗を示したわけでは全くない。それどころかデュパルクその人は、確かに過度に敏感であったり、繊細であったりしたようではあるが、ロレーヌ地方の貴族の家系の良家の子弟に相応しく、信心深く、礼儀正しく、情誼に厚い、率直な人であったらしい。信仰についても、その姿勢は幼少時から晩年に至るまで、寧ろ一貫していたというべきで、だから「回心」という言葉は不適切というべきかも知れない。もっとも、ルルドへの巡礼のように信仰に質的な飛躍をもたらした出来事というのはあったようだが。(こうした経緯を辿ろうと思えば、かなりの数にのぼるらしい書簡に直接あたる必要があるだろうが、主としてJammesに宛てられた書簡以外はそもそも出版されていないか、されていても入手が困難な状態にある。そもそも、Duparcに関する基本文献として必ずあげられるNancy Van der Elstの研究も博士論文であり、直接あたることは私にはできていない。従って、これらの記述は下述の文献を読み、音楽を聴いた限りでの「空想」でしかない。)

創作を絶つ1885年というのは、マルヌ・ラ・コケット(Marnes-La-Coquette)という町の町長を勤めていた時期にあたる。この町はいわゆる名士達の住むところであったようで、1880年以降1885年までデュパルク自身も夏の大半をこの町で過ごしている。この町の町長という役職もまたデュパルクの出自を思わせるものだが、翌年の1885年にはこの町を離れ、南仏Moneinに移ってしまう。その後世紀の変わり目あたりに一度パリに住んだりもするし、一時期スイス(レマン湖畔ベベイVeveyの近くのLa Tour de Peilzにある Villa Amélie)で過ごしたりもしたようだが、それ以外はほぼ南仏での暮らしを続ける。没するのは南仏のモン・ド・マルサン(Mont-de-Marsan)である。南仏と書いたが正確にはピレネーの麓、まさにフランシス・ジャムが生まれ暮らした地域がデュパルクの後半生の棲家だったのだ。地図を開くとすぐにわかることだが、ジャムゆかりのオルテズOrthez、タルブTarbes、モン・ド・マルサンMont-de-Marsan、そして有名な巡礼地であり、ジャムの詩にも頻繁に登場する聖地ルルドLourdesとはそんなに遠く離れている訳ではない。私がかつて読んだジャムの詩に以下のように詠まれたデュパルクの家というのはそうした棲家のうち、Moneinの時代のVilla Florenceのことのようである。(訳詩集では割愛されているようだが、原詩には地名の記載がある。1885年からこの地での生活を始めたデュパルクは、その同じ年にジャムと知り合いになったようである。)
...
Sur le coteau, semblables à quelque grappe blonde,
A l'ombre de sa feuille, et faisant face aux ondes
D'une terre d'azur se dressant dans l'azur;
Dominant le rempart, bien plutôt que les murs,
D'une église posée au milieu du village,
Comme par un berger un énorme fromage,
La villa de Duparc nous accueillait souvent.
...
(extrait de : Francis Jammes, Chez Henri Duparc, dans Ma France Poétique, Mercule de France, 1926)


何かのブロンドの房のような丘の上、
その木々の葉陰から
青空を打つ大地の波に顔を向けて、
羊飼の作った一塊りの大きなチーズのように
村のまんなかに立った教会堂の
塀というよりも寧ろ城壁のようなのを見おろしながら、
デュパルクの山荘がしばしば私たちを迎えたものだ。

(フランシス・ジャム「アンリ・デュパルクの家にて」尾崎喜八訳より、「新訳ジャム詩集」弥生書房所収)
デュパルクとジャムは連れ立ってルルドへの巡礼もしているようだし、二人の間で交わされた書簡を読むこともできるようである。(ただし、残っているのはデュパルクからジャムに宛てられた手紙のみのようだ。デュパルク宛てのジャムの手紙の方は、Maubourguet近郊のVillefranqueにあり、息子のCharles夫妻が住んでいたモンデグーラの城(château de Mondégouratの1935年の火事により―師Franckから献呈されたニ短調交響曲の自筆譜や、他の多くの友人の書簡もろとも―焼失してしまったとのこと。)また、ジャムの「野兎物語」の中にはデュパルクへの献辞を持つ作品が含まれるようだ。これは陰鬱なテーマを扱ったもので、これをデュパルクに献じたジャムの心情というのを推し量ることができるような気がする。

デュパルクが筆を絶った理由というのは「神経衰弱」という言われ方をするようだが、実際の原因はよくわからないらしい。(小脳の腫瘍が原因という記述を見かけたことがあるが、上述の広場恐怖を始めとする若き日の病跡をはじめとして恐らくFernand Merleの著書 ―残念ながら、これもまた私は未見である―の記述に基づくものと思われる。)晩年の失明(緑内障の悪化による)や身体の麻痺との関係についてもはっきりしないようだ。創作力の枯渇というのも或る日突然訪れたものではなく、緩慢なプロセスであったようだし、何かの出来事がきっかけとなって筆を折ったわけではないようだ。いずれにせよ他の大作曲家におけるような病跡学的な研究は、資料となる記録の欠如により壁にあたっているらしい。信仰についても、幼少時より一貫して信心深かったデュパルクに「回心」という言葉は似つかわしくないが、それでもデュパルクがジャムやクラといった友人や弟子にあてた手紙を読めば、ある種の質的な飛躍とでも言うべきものがあったのは確実のようだ。
« Après avoir vécu 25 ans dans un splendide rêve, toute idée de représentation m'était - je vous le répète - devenue odieuse. L'autre motif de cette destruction, que je ne regrette pas, c'est la complète transformation morale que Dieu a opéré en moi il y a 20 ans et qui en une seule minute a abolie toute ma vie passée. Dès lors, la Roussalka n'ayant aucun rapport avec ma vie nouvelle ne devait plus exister. »
「25年間、素晴らしい夢の裡に生きた後、作品を公表するということが―繰り返して言いますが―私には厭うべきものになったのです。この破棄を私は悔いていませんが、それには別の理由もあるのです。それは20年前に神が私に施した全き道徳的な変容で、それによって私の過去の人生は一瞬にして打ち捨てられたのです。それからというもの、「ルサルカ」は私の新たな人生とは無関係なものになってしまったわけで、それは最早存在すべきではなかったのです。」(1922年1月19日、クラ宛の手紙、翻訳は引用者)
残された作品を見る限り、ジャムの回心前の詩篇「暁の鐘から夕べの鐘まで」に比べてもなお、デュパルクの作品は、あまりに時代の空気に敏感すぎたのであろう。己が曲を付けた詩の価値自体について否定することはなかったけれども、意に満たなかった多くの歌曲とともに、ロマン主義の時代に繰り返し取り上げられた、「無心さ」ゆえに人を破滅させる「オンディーヌ」の物語(プーシキンには「ルサルカ」に取材した作品は2つある。1つは1819年作の詩で、これは修行僧が水の精に会って破滅する、より民話的な内容のもの、もう一つは1828年頃着手されたが未完に終わり、没後1932年に出版された劇詩であり、これは自分を裏切った王子への復讐が主題の物語である。デュパルクは自分で台本を書いたようで、その内容は音楽同様破棄されたため正確に知ることはできないようだが、いずれにせよ後者に基づいていることは確からしい。)に取材したオペラを破棄せずにはいられなかったデュパルクの心情について、私は否定的にコメントすることなどできない。数学者をやめて「パンセ」を書いたパスカルの回心同様、デュパルクの後半生の宗教的な隠遁を「不毛」とか「損失」と評価する声も理解できないではないにせよ。勿論、こと音楽の創作という観点から見た場合にはそれは評価というよりは事実なのだろうし、更に言えば、デュパルクの自作破棄がもっと徹底したもので、永らく破棄されたと思われてきた1870年出版の初期作(5つの歌曲)のうちの3曲のみならず、「旅へのいざない」も「前生」も「フィデレ」も遺さなかったとしたら、と考えたら(しかもそうした想定は決して極端なものではないだろう)、確かにそうした評価にも一定の価値は認めざるを得ないかも知れないとは思う。ミームというのも結局は存続したもの勝ちなのだ。デュパルクが作品を一つも残さなかったらジャムの件の詩は書かれただろうか。更に(ジャムはそういう人ではなかったが)ジャムが宗教的信念に基づき回心後の詩作を絶つようなことがあれば、私はデュパルクその人を知りえただろうか。(レムの「ビット文学の歴史」に情報量の観点から神秘主義者の著作を分析し、神の沈黙を証明するという(コンピュータ「が実施主体」の)プロジェクトがあったが、ここでは話はもっと極端なのだ。そもそも分析する著作すらないのだから。一方でデュパルクのことを考えていて、ふとアルヴォ・ペルトが修道僧に会った時のエピソードを想い出した。ペルトは祈りのために音楽を書いていると言ったのに対し、修道僧は、祈りのことばはもう用意されているから新たに何も付け加えることはない、と言ったらしい。だがペルトは作品を書くことを止めなかった。私はその話を読んだときにペルトの態度の方を不可解に感じたのだった。そう、デュパルクの態度の方が遥かに一貫していないだろうか?もっとも、あえてそうしたエピソードを明かしたからにはペルトは多分答えを持っているのだろうが。だが、私思うに件の修道僧はそのペルトの答えを決して認めないだろう。もう一つ。ジッドの「狭き門」で、アリサがパスカルを批判する件がある。数学者をやめたことを惜しむどころか、「パンセ」を遺したことすら問いに付されうる、というわけだ。「私は年をとってしまった」というアリサのジェロームへの言葉の意味は、要するに相転移の臨界のこちら側に来てしまった、という意味なのではないか。「ルサルカ」を破棄したデュパルクと同じ側にいる、ということなのではないか。)

だが、そうした仮定を積み重ねることにさほど意味があるとは思えない。結局そうしたぎりぎりの均衡のところでデュパルクの作品は残った。否、より正確には後半生の「不毛な」デュパルクも全ての作品を破棄しようとしたわけではなく、ある作品は遺したのだ。1911年出版の13曲の歌曲はそうした作品たちだろう。そして何よりも大切でかけがえのないことに思えるのは、遺された作品のうち少なくとも幾つかは、そうした臨界的な状況に見合った実質を備えているように感じられることだ。状況のアウラというのがあるかも知れないとは思う。だが多分、そういうことを知らずに聴いても、そうした作品の持つ不思議な輝きの持つ例外性は感じ取れるのではないかとも思う。一見時代の好尚に合った「流行の」作品に見えて、実際にはそれらの作品は、それぞれが「行き止まり」なのだ。それがペルトの言う「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」を迎えたということなのかどうかについては、デュパルクの場合には慎重であるべきかもしれない。少なくともデュパルクの作品は、祈りの音楽ではないし、書かれた時にはペルトが考えていたような問題を意識していたわけではない。だが、だからこそ、逆説的に、もし「エデンの園」の音楽というのがあるのだとしたら、それに相応しい無邪気さがあるのだとしたら、それは寧ろデュパルクの場合こそ相応しいのではないかという気がしてならない。それを求めていたわけではないが故に、この音楽の裡には自己放棄と自己実現の弁証法のようなものはない。そうした弁証法を技法の次元であれ、創作の契機の次元であれ、音楽自体の素材として取り扱うという危険からこの音楽は偶然にも(奇跡的に、というべきだろうか)自由なのだ。あるのは一方通行の自己放棄だけだし、それは徹底して音楽の外(つまり音楽そのものの破棄)にしかない。(勿論、無意識にそうした自己放棄を手探りしていた痕跡が、その音楽に無いとは言えないだろう。もしかしたら、その音楽の持つ不思議な輝きこそ、その反映であると言うことが出来るかもしれないのだ。臨界的な状況は、時代の趣味に規定される素材としての詩の、あるいは作曲技法の選択を超えて、その音楽に痕跡を遺しているのだと思う。)いずれにしてもヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門前に相応しい音楽があるとすれば、それはデュパルクの作品なのではないだろうか。その向こう側には沈黙が広がる、相転移の地点のほんの手前の音楽、それがデュパルクの作品なのだと私には思えてならない。

デュパルクの歌曲は、他の大作曲家の場合とは異なって、それ自体がデュパルクの名を音楽史に遺し、かつ人口に膾炙させる根拠をなすものであるから、その価値を改めて云々する必要性はないだろう。一般に優れた詩に曲をつけるのは困難で、歌曲の名曲はしばしば詩自体を取り上げれば必ずしも際立って優れているとは言いがたいものに付曲されたものが多いように思われるが、デュパルクの場合には、その作品の中で最も優れていると言われているものは、ボードレールの詩作の中でも白眉と言われている「旅へのいざない」であり、「前生」であり、あるいは高踏派の領袖ルコント・ド・リールの「フィディレ」であったりと、詩自体も際立って優れている点が印象的だと思う。

それだけに、デュパルクが創作を絶った後、1904年にジャムに宛てた書簡のうちで以下のように述べているのは、衝撃的であり、痛ましくもある。そうした批判的な意識が、遺された作品の例外的な質を支えていると同時に、創作の断念や作品の破棄とも通じていることを思うにつけ、その作品の貴重さを強く感じずにはいられない。
« j'ai fait quelques mélodies dans lesquelles j'ai simplement mis mon âme  avec sincérité : c'est leur seul mérite. Maintemant la petite source est arie,  (...) pour moi, la musique inspirée par une poésie n'a de raison  d'être que si elle ajoute quelque chose à cette poésie, si elle la rend plus  touchante pour les âme qu'émeut l'expression musicale ; mais il y a des  poésies parfaites, et qui sont tellement ... pleines, dirai-je, que la musique  --  même la plus belle, même celle que je ne peux pas faire --  ne peut que les  diminuer.»
「私は幾つかの歌曲を作りました。その中にただ誠実に自分の魂を込めただけのものです。そのことにしか価値はありません。今や小さな泉は涸れてしまいました。...(中略)...私にとっては詩に触発された音楽というのは、音楽がその詩に何かを付け加えるのでなければ、音楽の表現に感動することにより、魂がその詩に一層寄り添うことができるようにならなければ、存在理由がありません。しかし完璧な詩というのがあって、それはあまりに自足していると言ったらよいのでしょうか、そのために、私には為しえないほど音楽が美しいものであったとしても、詩を貶めることにしかならないのです。」(1904年6月27日、ジャム宛の手紙、翻訳は引用者)
そしてまた、デュパルクについては、歌曲が創作の中心的なジャンルであることについては疑う余地はないと考えられる。作品のほとんどを破棄してしまったと伝えられるデュパルクの場合には遺された作品の絶対数が圧倒的に少ないので、その中での割合を問題にしても仕方ないかも知れないが、そのほとんどを占める17曲が歌曲(ただし1曲は重唱曲)であるし、デュパルクが創作を絶って後に2回にわたって刊行されたのはいずれも歌曲集であった。一度目は1894年、二度目は1911年刊行で「全集」と銘打たれていて13曲の歌曲を含んでいる。ちなみにデュパルクは、そのうちの8曲については更に管弦楽伴奏版を作成している。管弦楽伴奏の歌曲というのはある意味では厄介なジャンルで、創作の極における表現上の必要性と同時に、社会学的なコンサートホールでの公演プログラムの構成上のニーズの点からも、作曲された時代の要請に合致したものであったのであろうが(デュパルクの場合には、さしづめリストとワグナーがその範例となったことであろう)、少なくとも今日、僻遠のこの地で実演に接するのには困難が伴うだろう。CD等で聴けるのも圧倒的にピアノ伴奏が多く、しかもデュパルクの場合には、管弦楽伴奏であることの意義が、一例を挙げればマーラーにおけるそれと釣り合うようなものであるかどうかについては議論があるかも知れないが、私個人は、管弦楽伴奏版がある作品については、ピアノ伴奏版と管弦楽伴奏版のそれぞれが一方が他方の編曲というのではなく、独立し固有の価値をもった作品であるという考え方に共感する。また特にデュパルクの場合には、管弦楽伴奏が作られた8曲というのは、デュパルクがいわば「公認した」13曲の中でも更に特別なグループを作るのではなかろうか。何も作曲者の主観がすべてだと主張するわけではないし、埋もれてしまった作品を発掘する音楽学者の努力を否定するつもりは全くないが、ことデュパルクの場合には、現在聴くことのできる17曲のすべてがデュパルクが遺すことを認めた作品ではないことに留意すべきであると思う。そして更に、管弦楽伴奏版を作った8曲についても作曲者の選択というのを私は感ぜずにはいられないのである。もしかしたら今後更にデュパルクの「未知の傑作」が発掘されることがあるかも知れないが、私個人としては、それらはオペラ「ルサルカ」に関する「たられば」同様、ほとんど関心をひくことではない。そもそも私は、勿論作品自体の価値はまた別の問題であるということは認めた上で、一度は出版されたにも関わらず、デュパルクその人があれほど破棄を願い、それがほとんど成功したかにみえた作品2のうちの3曲が後世の努力により「再発見」されてしまったことに何かしら皮肉なものを感ぜずにはいられないのである。勿論そうした作業は、正規の手続きを踏み、デュパルクの子孫の許可を得た作業であって、道義的に批判すべき点はないだろうし、寧ろそれは、デュパルクもまた、己の意図を超えて自分の生み出した作品が独自の生命を主張する稀有な例である証と考えるべきなのかも知れないが。

その一方でとりわけ、この極東の僻遠の地でデュパルクを知ろうとする人は、その情報の少なさに戸惑うことになる。とはいえ、今や何種類もの録音を聴き比べることもできるし、権利が切れた楽譜はリプリントが安く入手できるようになっている。(1911年の全集の出版社であり、更に他の作品の出版社でもあるRouart et Lerolleは1941年にSalabertに買収されたため、Duparcの楽譜の多くはSalabertより購入することができるが、それに加えて、Doverより1995年に歌曲全集としてデュエットを含む17曲のピアノ伴奏版が出版されている。)実演に接する機会は限られているとはいえ、歌曲という基本的には異なる文化に属する、しかも恐らくはすでに過去のジャンルそれ自体の今日におけるこの国でのプレゼンスを考えれば、ことさらデュパルクのみが冷遇されているとは言い難い。100年以上も前の異国の伝統に連なる歌曲というジャンルが果たしうる社会的機能が今日のこの地ではあまりに乏しいというのが現実なのだろう。

フランスでも、デュパルクその人を知る人たちが回想を語った時代が過ぎ、上述のモンデグーラの城(château de Mondégouratの1935年の火事が、その生涯を証言する数多くの資料を、―まるでデュパルク本人が自分の作品のほとんどに対して行った「アウト・ダ・フェ」をもう一度反復するかのように―永久にこの世から消し去った後、しばらくはごく限られた研究者の研究対象である時代が続いたように見える。恐らくは今も続く名門の家柄ゆえの、資料公開にまつわる曲折もあったことと想像される。そして没後50年を過ぎたあたりから―恐らくは作曲家の孫娘にあたるアルマニャック伯爵夫人La Comtesse d'Armagnac de Castenet の決断に与るところが大きいと想像されるが―再び楽譜の校訂や出版、研究の成果を世に問う動きが活発になっているように見受けられる。あるいは専門の音楽学者からすれば、ようやく本格的な研究が可能な時期に達したということになるのかも知れない。

だが、それだけだろうか? デュパルクが己の歌曲に課したあまりに過大な要求、ほとんど不可能な要求がもたらす重みが、それを実際に響かせる機会を、その作品が拍手喝采を浴び、華々しい脚光を浴びることを自ら制限しているという側面も否定できないのではなかろうか。たとえその価値を確信したとしても、それゆえに意義を声高に説き、己の嗜好の押し売りをするような態度を聴き手がとることを作品自体が拒んでいるように感じられる。否、私の書くこの貧しく、不完全な文章こそ、以下のようなデュパルクの意思に反して、不躾に、その価値に相応しからぬ仕方で作品をかえって損なっているということがないことを祈るばかりだ。
« C'est pour les rares amis seuls (plusieurs même inconnus) que j'ai écrit mes mélodies sans aucun souci d'applaudissement ou de notoriété. Bien que courtes, elles sont (et c'est leur seul mérite) le fond de moi-même, et c'est du fond du coeur que je remercie ceux qui l'ont compris. C'est à leur âme que s'adresse mon âme : tout le reste m'est indifférent.»
「数少ない、しかもその多くは私の知らない友達のために、私は歌曲を書いたのです。拍手喝采や名声を思ってのことではありません。たとえ短いものであっても、これらの歌曲は―そしてそのことにしか価値はないのですが―私自身の奥底なのですし、それを理解してくれる人に私は心の底から感謝したい。そういう方々の魂にこそ私の魂は向けられているのです。それ以外のことはどうでもいい。」(翻訳は引用者)
ご存知の方ももしかしたらいらっしゃるかも知れないが、実は私もまたこの文章を公開した際に一度撤回し、再び公開してしばらくしてから再度撤回し、一度は破棄し、また復元し、という作業を繰り返した経験がある。対象であるデュパルクの行動が伝染したということでもないのだが、そもそもデュパルクについて書こうという心の動きのうちには、無意識のうちにそうした逡巡を引き起こした自分の状態に対する反応が含まれていたと考えるほうが自然であろう。残念ながら、こちらの場合には寧ろ黙って書き溜めて、燃やしてしまったほうが良かったかも知れないような、取るに足らない価値のものではあるのだが。しかし、それでもなお、ふとした折にメールでのやりとりのなかで、さる方が書かれた一言がきっかけとなって、どんなに拙いものであっても全く意義がないということはないのだ、自分の書くものの価値とは別に、デュパルクについて語ること、デュパルクについての文章が存在し、その内容がそれなりに流通することには一定の意味があるのだと思えるようになり、こうして、折をみて加筆をし、修正しながら―それもまた、デュパルクのあの彫琢の苦心を思えば、遠く及ばないものではあっても、相応しいものであると思いたい―公開を続けることにしたのである。己の受け取ったものに相応しい十全な表現ではないにしても、あるいは一面的で勝手な思い込みがそこに含まれているとしても、私は確かにデュパルクの音楽から何かを受け止めたと思うし、そこにデュパルクその人を見つけることができるように感じている。100年以上後の、地理的にも文化的にも全く懸け離れた地に住み、生まれも育ちも異なる、気質も異なる人間ではあるけれど、私がそこに見つけたものは私にとってはかけがえのないものだし、私は己の受け止めたものに忠実でありたいと思う。言うまでもないことだが、この文章は客観的にデュパルクの価値を記述することを意図しているのではなく、それゆえ、何故、他ならぬデュパルクなのかという問いに対する答えは、客観的にみて他のものに価値がないと考えているからではなく、自分の貧しい感性と能力と情報処理量の限界の中で、偶々自分が出会い、多くのものを―受け止めきれないほど豊かなものを―自分に与えてくれたものについて語りたいだけなのだ、ということになるのだろう。音楽史的な位置づけや当時の「趣味」について知りたい方のためには、そうした知識をお持ちの方のWebページが存在するし、ご自分で文献を紐解かれても良いだろう。私は結局、隔たった時間と空間を越えて、一体何が伝達されうるのか、文脈の拘束を超えて残るものは何なのかの方に、より多く関心があるのだ。

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(2005.12.11公開,13,14,15,17,24,28,2006.1.3,6補筆修正,2007.1.12修正,2007.04.20プーシキン「ルサルカ」についての記述を訂正、参考文献を追加。4.21補筆修正。4.22作品表再公開。 5.6加筆, 5.18コメント追加, 5.19加筆および仏語原文追加, 6.19修正, 2021.9.8資料編を再公開, 2024.5.16旧Webページのコンテンツを復元し、若干の編集の上、関連記事へのリンクを追加して再公開。5.23追記)

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