作曲家で誰の音楽が好きかと言われれば、躊躇することなくヴェーベルンである、と答えるだろう。それはヴェーベルンの音楽が偉大かどうか、影響力が大きいかどうかとはあまり関係がなく、寧ろ最も親密な音楽、音楽の出来不出来を超えて、どの曲であっても聴いていて無条件で親しみを覚えられるという意味で例外的なのである。
私はいわゆるセリエリズムの先駆として捉える解釈(と考えられてきた方向性みたいなもの)には馴染めない。作品の過半を占める声楽曲に注目すれば明らかなことだと思うが、ヴェーベルンは本質的にはロマン主義者で叙情家なのだと思う。
ヴェーベルンの嗜好が音列内の対称性にあったのは「心情的には」理解できるが、マーラーが好きで大規模様式への憧憬に無いものねだり的な部分があったのと丁度対称に、そうした収縮への志向はヴェーベルンの本来の性向であったとはいえ、それが本当に生産的に働いたかどうかについて、私は留保したい気持ちを持っている。これはさすがに安直過ぎて自分でも直接は信じる気になれないが、セリー的な志向はそれが作曲された状況、環境の閉塞性と相関しているのでは、と勘ぐりたくなるほどである。減衰する他ないピアノの持続音にクレシェンドを付けかねないヴェーベルンが、興味を持つことはあっても音響を完全に形式的に操作するという方向性を自己の作品の方向性として認めたとは思えない。鉱物的・植物的な自己組織化というのは数理を要求するものの、ヴェーベルンの眼差しそのものを消去するところまでは行き着かないで欲しいと思うのだ。それはホワイトヘッド的な連続主義には繋がるだろうし、還元主義的な探求をも妨げはしないだろうが、主体の行方は最後まで問題であり続けるだろう。(2002.4, 2009.11.7改稿)
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