2024年5月23日木曜日

アントン・ヴェーベルン 「外」の音楽

ヴェーベルンの音楽は私にとって、印象派的な「外」の音楽である。要するに私がはじめてヴェーベルンの音楽に接した時にその音楽に聴き取ったのは、抽象的な音の構造ではなく、光や空気の調子、風のそよぎや香りといった五感で感受される「風景」であったのだ。作品10は一時、ヴェーベルンがBBCに対してラジオ放送向きであると言って演奏を希望したことがあるらしい(1929.7.8のクラーク宛書簡)が、真意はともかくそのヴェーベルンの言葉通りFM放送でこの作品を聴いたのが、私のヴェーベルンとの出会いだった。アバドがヴィーンのオーケストラを指揮したその演奏は、自然で歌に満ちた瑞々しいもので、この1曲をもって、ヴェーベルンは私にとって最も重要な作曲家の一人になった。

けれども地方都市の子供にとって、ヴェーベルンの音楽に接する機会などありはしない。偶々レコード屋で入手した、ケーゲルの指揮するヴェーベルンの作品集(作品1, 5b, 6b, 10, 21が収められている)を繰り返し聴き、国内版のピアノピースで入手可能だった子供のための作品 (M.267)を弾くというのが、随分長いことヴェーベルン経験のすべてであった。(勿論、今思えばSONYの旧全集を入手することは時期的に可能だった筈だが、私は知らなかったし、仮に知っていても4枚組み、1万円はする全集を買えたかどうかはわからない。) しかし、 Non multa, sed multumの言葉どおり、そうした狭くはあっても強度に満ちた経験というのはヴェーベルンには相応しいのだと、DGの新全集で出版されたすべての作品は聴けるし、何種類もの演奏を聴き比べることだって可能な今、はっきりと言うことができる。

ヴェーベルンの受容は多く、かつての「前衛のアイドル」としてのものであったのだろうが、この点では寧ろ例外的に(寧ろ「今日的に」というべきかも知れないが)、ろくに「普通の」音楽を聴かないうちに虚心にその音楽に対してしまった私にとっては、ヴェーベルンは何よりもまず自分の波長にあった親密な音楽を書く作曲家であったし、その事情は今でも変わらない。親近感という点ではヴェーベルン以上の作曲家はいないのである。

そういう親近感を抱いていただけに、ことヴェーベルンに関しては、作曲家その人に対する興味というのもないわけではなかったのだが、当然のことながら、詳細な事実がわかればわかるほど、細かい「違い」というのが目につくようになるのは、ある意味では仕方ないことである。印象に残っているのがヴェーベルンの視力に関する事実で、残されている写真からも容易に想像されるように近視であったらしいのだが、その事実が(要するに裸眼で世界を眺めるときの景色のたち現れ方の違いが)その音楽にどういうふうに影響しているだろうかという疑問が、何故かヴェーベルンに関してだけはふと思い浮かんだのだった。例えばマーラーだって近視だったらしいが、不思議なことにマーラーに関してはそうした疑問は抱いたことがないのにふと思い当たってひどく驚いたことがある。ヴェーベルンの香りに対する敏感さについては良く知られているが、そうした五感のバランスのようなものが、その人の生み出す音楽にどのように関係するのか、あるいはしないのかは、単純な結論など出よう筈のない(もしかしたらほとんどナンセンスな)問いだろうが、ことヴェーベルンの音楽に限ってはそうしたことが気になるような側面があるように感じている。

マーラーといえば、ヴェーベルンのマーラーに対する熱狂も有名である。その対比が不思議がられることが多いようだが、私にとっては不思議でも何でもない、ヴェーベルンの音楽を聴くと、ヴェーベルンがマーラーに憧れたのはごく自然なことに思える。ただし、それはかなりの部分無いものねだりであると思うが。指揮者としての資質についてもそうだし、作曲家としてもそうだ。寧ろ自分にないものをマーラーに見出してそれに強く惹きつけられたのだと思う。もっとも、全く接点がないというわけではなく、性格はほとんど正反対と言っても良いのにも関わらず、その志向の点で、ある意味では非常に似ていて、それゆえヴェーベルン自身ももしかしたら最初は気付かずにマーラーになりたいと思ってしまったのではないだろうか。その勘違いはひどく高くついてヴェーベルンは30歳代に危機を迎えるが、一方でその後マーラー指揮者としての評価を確立しもする。職業的な作曲家ではなかった点でマーラーとヴェーベルンは共通しているが、その故か、作曲においては自分の生理に忠実で、結果的にはあれほどの対比が完成された作品において見られることになる。けれども、シェーンベルクが見抜いたように、ヴェーベルンの音楽の身振り一つには、マーラーの交響曲の経過と等価なものが含まれているのだと思う。sursum cordaというのは両者に共通する銘ではなかろうか。

そのことの裏づけになるかも知れない事実の一つとして、ヴェーベルンの歌曲における歌詞の選択の傾向がある。習作期における同時代の詩人、初期のゲオルゲやリルケといった詩人の詩への作曲はマーラーのそれとははっきりと異なっている。(ただしどちらがマージナルかといえばそれはマーラーの方で、ヴェーベルンの方がドイツ・ロマン派の歌曲の
伝統の本流なのだが。)ところが中期のヴェーベルンには、ストリンドベリやクラウス、トラークルとともに、ハンス・ベトゥゲの「中国の笛」に含まれるNachdichtungへの作曲や子供の魔法の角笛所収の民謡への作曲、ゲーテの詩への作曲、そしてラテン語の宗教的な詩への作曲がなされている。これらの系列にマーラーの影を見出すのはさほど困難なことではないだろう。更にその影は単に作家名の一致だけに限られない。選択されたベトゥゲの詩の一つ(Op.13-2 Die Einsame)は「大地の歌」の「秋に寂しき者」と同じ題材の詩だし(Op.13のもう一つはあの有名な李白の絶句「静夜思」の翻案である)、Op.15-2の子供の魔法の角笛によるMorgenliedとOp.16-2のDormi Jesuは、マーラーが第8交響曲第1部の歌詞に用いたVeni Creator, Spiritusの詩を書き付けた紙片の裏側に書き付けられたものであることが知られている。(ミッチェルのマーラー論の第8交響曲を扱った部分でその紙片の紹介がされている。)些かの詮索をすれば、Op.13-2のDie Einsameという女性形は、「大地の歌」のピアノ伴奏版での第2楽章の題名と響きあうし、ヴェーベルンがアルマの許しをえて大地の歌の草稿を読んだことがあることは、ベルク宛の書簡などで知られていることだし、Op.15-2,16-2の2編の選択も偶然とは思えない。恐らくは 件の紙片をヴェーベルンが見たか、あるいはその内容を(ミッチェルの推測によればその2編にも作曲する構想がマーラーにあったらしいから、その推測が正しければ、その構想とともに)アルマから聞かされていたか、いずれかであるに違いなく、いずれにしてもヴェーベルンのこれらの作品はマーラーの顰に倣ったものと私には思われる。

一方でマーラーとヴェーベルンの「違い」の例として、アドルノのマーラー論で言及されているドストエフスキーとストリンドベリに関するエピソードがある。これは(ヴェーベルンの名前は出てこないが)アルマの回想録でも出てくるエピソードで当事者達にとってもそれなりに印象に残る出来事であったらしい。マーラーがドストエフスキーを、その中でも特に「カラマーゾフの兄弟」を好んだのは良く知られているが、個人的には読んだことのあるストリンドベリのどの作品よりも「カラマーゾフの兄弟」の方が好きなので、この件は「違い」として印象に残っている。アドルノは、この件をマーラーの音楽を小説と類比することの傍証のように持ち出しているが、ヴェーベルンとストリンドベリとの関係の方はどうだろうか?アルマが感想として述べていること、作曲の主体というのが時代に何重にも拘束されている(この主張自体はアドルノの考え方と相反しないだろう)ことの一例ではあると思うが、ヴェーベルンにおける対応物は小説や劇ではなく、やはり叙情詩だったのだろうと思う。(ちなみにヴェーベルンはストリンドベリの戯曲「幽霊ソナタ」中の詩に作曲したものがあるし、ある種の神秘主義への凡そ科学的とは言いがたい傾倒など、ストリンドベリへの共感には何となく頷けるところがあり、それがおそらく晩年のヨーネの詩への共感に繋がっていくのだろう。哲学や当時勃興しつつあった自然科学への関心が強く批判精神に富んだマーラーとは好対照で、私がヴェーベルンよりもマーラーに親近感を覚える契機の一つになっているのは間違いない。)

要するに私にとっては、ヴェーべルンはロマン派の作曲家の一人、その人の個性と音楽に密接な関係があるという神話の圏内の人なのだ。勿論、馬齢を重ねるに従い、そうした考えがある種の虚構であることに気付かざるをえなくなってきてはいるが、それでもヴェーベルンに対して抱く親近感は、例外的なものである。

そしてそれゆえか、その「欠点」のようなものを、あまりにむきになって擁護するような主張が鬱陶しく感じられることもある。私見では(自分の嫌いな作曲家に対してとは異なって、ヴェーべルンに対してはさすがに)アドルノの見方は、その批判も含めて概ね的を獲ていると思う。作品21以降の作品に対する留保は、特にかつての私も強く感じたことで、端的にいって、無調時代のミニアチュール様式の作品ほどには、琴線に響かないと感じられたのだ。丁度、歌曲ではヨーネの詩を選択する時期と同期しているが、この変化は勿論、無関係ではないと思う。率直に言ってヴェーベルンの初期の詩の選択の「趣味の良さ」こそ、時代の影響、そしてヴェーベルンの属したシェーンベルクのサークルの影響であって、ヴェーベルン自身の地金としては、ややもすると文学的な価値よりも、ある種の観念的な嗜好の合致を優先させてしまう傾向があったのではないかと思う。

また12音音楽が歴史の必然であるとする、講演などで残されているその主張は、音楽史を専攻した人の記述であるだけに興味深くはあるが、ヴェーベルン自身の信念ほどには自明のこととは思えない。不遜な言い方になるが「気持ちはわかるけど、、、」というのが率直な感想である。

またもやマーラーとの関係を持ち出すが、ゲーテの「原植物」に関する件も興味深いもので、皮肉なことにそれを引いたマーラーは実際には言行不一致で、自らが批判した反形式主義的な志向により、結果的には形式を再び批判的に賦活させるのに成功したのに対して、そのマーラーの言葉に寧ろ忠実であったヴェーベルンは、ある種の「貧困」に陥ってしまったのだ、という感じを拭うことは困難であるように感じている。ヴェーベルンの愛した高山のように、あるいはセガンティーニの描く風景のように、それは純度の高い稀有なものではあると思うし、またもや不遜な言い方を覚悟で言えば、個人的にそっちに行きたいのは「よくわかる気がする」ものの、それが唯一の途であったかどうかには疑問が残る。既に過去に属することとはいえ、一時その後の西欧音楽の主流がヴェーベルンの後期を範にとったことの得失を算定するのは困難だろうが、少なくとも喪ったものの大きさは明らかであるように思える。

しかし、こういえば身もふたもないのではあるが、そうした音楽の発展の功罪は個人的にヴェーベルンに接する私にとっては、副次的な問題である。その欠点も含め、私にとってヴェーベルンの音楽は、親密でわかりやすくて、貴重な音楽であることには変わりないのだ。心をかき乱されるほど強い訴求力を持つ初期作品、それを遡る習作期、試行錯誤の傷跡が垣間見える中期の歌曲群同様、もしかしたら、その狭さとある種の媒介の消失ゆえに批判されるかもしれない後期の作品も、そのほとんど非人間的な純度の高さ、音楽であるが故に感覚的な仕方ではあるが、逆説的に普通の意味ではほとんど感覚に訴えるところのないその響きゆえに、私にとってはかけがえの無い音楽である。寧ろその音楽の内実は、その後誰によっても引き継がれなかった。それは一回性の孤立した、芸術作品に相応しい現象だったのだと思う。そしてその非感覚性は、西欧の音楽においては例外的で、アドルノ的な音楽社会学的な視点からは批判の対象になるのかも知れないが、僻遠の極東の地にいる私にとっては、そうした見方とは別の見方だって可能なのだ。主観が消えて風景だけが残る、というのは、別に不思議なことでもないし、ましてや批判されるべきことでもない。そうした瞬間というのは、確かに日常的とは言えなくても、ある瞬間に到来するかも知れないのだ。そして、そういう領域を介して、例えば武満の音楽とヴェーベルンの音楽に響きあうものがあるように私には感じられる。武満はそのようにヴェーベルンの音楽を聴いたのではないだろうか?否、要するに私はそのようにヴェーベルンも武満も聴いているのだ、ということに過ぎないのだろう。西欧の音思考の極限にそうしたものが出てくるのは、興味深いことには違いないが、少なくとも単なる享受者の私にとっては、その結果を通して、時代も場所も隔たったヴェーベルンその人を感じ取ることができれば、それで充分なのである。

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(2005.6, 2009.9.13加筆, 2021.9.8資料編を再公開, 2024.5.13旧Webページのコンテンツを復元, 5.23 記事「後期ヴェーベルンはニヒリズムか」(旧題:「後期ヴェーベルンはデカダンスか」)についてお詫びの追記とともに改題・改訂したことを追記)

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