2024年5月13日月曜日

アントン・ヴェーベルン(1883-1945):作品についてのある仮説

ある作曲者についての言説の圏内にいると、いつの間にか自明の前提というのが出来てしまって、必ずしも当然ではないことでも無意識的に通り過ぎてしまうということがしばしば起きる。勿論、そうした前提を準備しているのは作品自体でもあるわけだし、決してそれを不当なことであると言いたいわけではない。けれども、一歩身を退いて考えればそうした前提によって見過ごされてきたことで、少なくとも私の様な単なる音楽の享受者にとっては些かも自明でないことが結構あって愕然とすることも多い。

ヴェーベルンの音楽は20世紀のある時期の「前衛」、トータル・セリエリスムの視点から語られ、分析されることが多かった。そこではある作品の、更にある楽章の内部の構造が問題にされることが多かったように思われる。

ところで、ヴェーベルンの作品は、それが歌曲集のようなものであれ、晩年のカンタータや多くの器楽曲のようなものであれ、複数の楽章を1つの作品としてまとめて作品番号を付する場合が多かった、というより常であったと言って良いと思う。(なおここでは、ヴェーベルンが作品番号を付して出版した作品に限定して考えることにしたい。)勿論、その内実は様々で、歌曲集のようにグルーピングに便宜的な性質が強いものもあれば、明らかに楽章の選択・排列に意図が読み取れるものもある。だが、歌曲集なら一律便宜的かと言えばそうとは
言えないのは明らかだし、カンタータ第2番に至っては、典礼文を用いているわけではなくともミサ曲に類比する作曲者自身の発言があったりもする。一方で器楽曲は、プランの段階では3楽章のものが、結局2楽章になってしまったりということもしばしばあって、楽章の順序もまた最終形に到達するまでに入れ換えが行われた形跡もあるようだ。

一方で演奏と享受の相を眺めてみると、5つの小品などと命名された曲集でも、ではそれを入れ換えて演奏することが行われているかといえば決してそんなことはないようだし、作曲者自身も許容していたらしい、一部の抜粋演奏の方もあまりやられているようには見えない。最後の点についていえば、ヴェーベルンの作品の短さが、逆に今日のコンサートという社会的な制度の中で、かえってその作品の居場所を確保にしにくくしている側面も否定できない
だろうし、演奏者にしても聴き手しても、1分に満たないヴェーベルンの作品のある楽章を脈絡もなく突然演奏し受容するのは現実問題として困難なことだろう。

ところで、ではそうした、一見任意性が高いように見える―少なくとも楽章内の構造の厳格さに比すれば、その自由度の大きさは明らかに見える―、それでいて全く任意というわけでもないのもまた否定し難いヴェーベルンの楽章構成のあり方について、どれだけ議論がなされているかについて言えば、私が知らないだけなのかも知れないが、少なくともそれが「流行」のトピックになったことはないようだ。モダニスム後の近年の潮流において、ヴェーベルンの作曲における叙情的な側面が強調されたり、あるいは―これは非常に正当な観点であって、寧ろこれまでこうした議論がなされなかったことの方が私にとっては不思議なくらいだが―ヴェーベルンにおける「自然」とは何かについての議論が為されたりという傾向があって、それらは私にとって些かの違和感もないどころか、ようやく自分がそのように聴いてきたヴェーベルン像に近づくようなアプローチが専門の学者によって行われるようになってきたことに意を強くしているところも多いのだが、その一方で、上述のような楽章構成の問題が中心的に論じられているようには見えない。

いつもマーラーとの対比になるのだが、音楽の受容のトレンド上、ヴェーベルンの「セリー」からマーラーの「自然の音」、「層的作曲」という時代の流れもあってか、両者は両極にあるものとして捉えられることが多かった。勿論、ヴェーベルンの中でも作品6における葬送行進曲や、作品10におけるカウベルに代表されるような音色への拘りにマーラーからの影響を見出す指摘はあったが、それは結局のところ部分的なものであったり、一部のパラメータに限定されたものであったようだ。

だが、私にとっては風景は随分異なったものに見える。ヴェーベルンの楽章構成の任意性は、マーラーの交響曲の楽章構成の任意性とどれだけ隔たったものなのか。特に後期には顕著になる作品間での音列の「共有」と、マーラーにおける作品やジャンル(ここでは交響曲と歌曲)をまたいだ動機連関や「相互引用」とは、どれだけ異なったものなのか、些かも私には自明のこととは思われない。単なる創作時期の区分に留まらず、マーラーの作品を幾つか
まとめて「連作」として捉える見方はマーラーにあっては寧ろ自然で普通の発想で、果てはその交響曲全体を1つの総体として捉える議論すらある位だが、ヴェーベルンの作品間に、同様の見方を持ち込むことはそんなに乱暴なことだろうか。あるいはまた、歌曲と器楽曲との間の往還というのをヴェーベルンの場合に認めることはできないのか?晩年のカンタータを、例えばマーラーにおける第8交響曲や「大地の歌」のような試みと類比するのは不当なことだろうか。

残念ながら、これらの疑問は修辞的なもので、実はそれらについて説得力のある議論が展開できるだけの準備が既にあるわけでは決してなく、現時点の私にとって純粋に疑問のかたちを取っているのだが、その一方で、自分の聴経験に照らして考えるに、それらの疑問がそんなに破天荒なものであるとも思えない。要するに、マーラーとの並行性は、通常考えられている以上に徹底したものがあって、それを共通性と捉えるにせよ、マーラーからヴェーベルンへの影響と捉えるにせよ、ヴェーベルンがマーラーに見出していた共感は、決して皮相なものではなかったのでは、というのが私の「仮説」なのである。

そしてヴェーベルンにおける「自然」についての議論は、恐らくそうした楽章構成の問題と表裏一体の関係にあるように私には感じられる。ヴェーベルンがマーラーに影響されて、ゲーテの「原植物」を作品構成のメタファーとして用いたのは良く知られているが、通常そのメタファーが有効と考えられている―そして、恐らくヴェーベルン自身がそう考えていた―領域よりももう少し広い範囲で、しかもそうした「自然」概念についての音楽学的な議論が自ら課する、一つには実証性の要請に基づくのであろう、文化史的な視点や歴史主義的な視点の制限に囚われずに、ヴェーベルンにとって「作品」を作ることとは何であったのか、私にとってヴェーベルンの作品とは何なのかを考えてみたいと思う。そしてそれを考える際に、楽章構成に纏わる問題は有効な手がかりになるように感じているのである。(2008.3.1)

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