2024年5月15日水曜日

近藤譲

 2006.9.4 すみだトリフォニーホール・小ホール

シリーズ「作曲家の音」vol.4 「近藤譲の音」
企画・監修:川島素晴

「ボンジン」 声・太田真紀、アルトフルート・西沢幸彦、コントラバス・溝入敬三、指揮・川島素晴
「帖」 (日本初演)マリンバ・山本晶子、村居勲
「ダーディングトン・エアー」 (日本初演)オーボエ・宮村和宏、打楽器・山本晶子、村居勲、指揮・川島素晴
「撚り I」 フルート・西沢幸彦、イングリッシュホルン・宮村和宏、電子ピアノ・稲垣聡、スティールドラム・村居勲、バンジョー・佐藤紀雄、ヴィオラ・甲斐史子、コントラバス・溝入敬三、指揮・川島素晴
「彼此」 チェロ・寺井創、ピアノ・稲垣聡
「ロータス・ダム」 (日本初演)声・太田真紀、ヴァイオリン・花田和加子
「ルイス・ズコフスキーの4つの短詩」 (委嘱作品)声・太田真紀、アルトフルート・西沢幸彦、ヴィオラ・甲斐史子、打楽器・山本晶子、エレキギター・佐藤紀雄、指揮・川島素晴
「イン・メディア・レス」 ヴァイオリン・花田和加子、ヴィオラ・甲斐史子、チェロ・寺井創、ピアノ・稲垣聡、指揮・川島素晴


近藤譲の音楽を初めて聴いたときの印象は、それがこれまで聴いた音楽よりは、寧ろ抽象絵画に近いというものだった。 音による抽象的なコンポジションとしての作曲。 何かを表現しようとしたり模倣したりしようとするのではなく、構築することなく、音を並べ、組み合わせ、編み上げることによって生まれる 抽象的な質そのものを享受する経験。 西欧の音楽が蓄積してきた、それなりに強力な、いわば「手垢のついた」パターンに依拠することなく、音どうしの関係をオリジナルなやり方で作り上げていく。 それが目的であったのかどうかはともかく、音のパターンが感情や情緒、気分を表現するための記号として機能することは避けられる。 思想や人生観(なんなら、世界観でも宇宙観でも、、、)を伝えることもまた、意図されていない。 ある文化的な伝統への帰属や、東洋と西洋の出会いといったことも問題になっていない。 それらはある伝統の中で機能する語法なり、楽器なりを記号として使用することによって可能になるのだが、 ここではそうしたレディメイドの記号の体系を利用することは避けられていて、そのような場合には素材であったり媒体であったりする音の動きは、 余計な意味付けをされることなく聴き手の前に現れることができるし、自由に振舞うことができるようだ。

音と音の関係を見つける作業は、予め与えられた方法によらずにその都度手探りで行われるのだろう。 既存のパターンに従うことはないから、それは創作の過程においても、結果として出来上がった作品を聴取する過程においても、或る種の冒険であり、 新しさの経験が、発見がある。 だが、繰り返される冒険はあてのない彷徨ではなく、試行錯誤は局所的には極めて論理的に一貫した意図をもって行われるので、 結果的に、そうした試行を繰り返した後には確固とした方法が浮び上がることになる。 法則性も語法も、そうした冒険の軌跡を後から眺めたときに現れるのだ。

勿論、こうした方法論自体がある文化の産物であることは事実だし、完全に無色透明な立場というのはありえない。 近藤譲の音楽は、もしそれを音楽史的な観点で分類するのであれば、アメリカのケージ達の、なかんずくフェルドマンの実験主義の立場の 正当な継承と徹底として位置づけられるだろう。 だが、その立場が「実験的」なのは音と音の関係を扱う際のスタンスに限定されるようだ。 音響面についていえば、異化効果としてであれ単なる新奇な音響としてであれ、特殊奏法に対するこだわりはあまり感じられないし、 いわゆる電子音楽よりは伝統的な楽器を人間が演奏する際の奏者間の関係性への関心が勝っているようだ。 音楽が制作される現場の制度に対する態度についても、制度的な問題を主題とすることはなく、寧ろそうした制度を所与として その枠組みの中での可能性を追求する職業的な作曲家としての姿勢が意識的に選択されているようにうかがえる。 作品リストを見ればわかるとおり、その作品はほとんど何らかの委嘱に応えるかたちで作曲されていて、 おおむねコンサートホールという場所でコンサートという形態の枠組みの中で演奏されることを目的としており、 そのことは作品の長さや楽器編成に端的に現れている。 作品概念についての姿勢も含めて、結果としての作品のありようは実験音楽の中では寧ろ保守的といっても良いかもしれない。 絵画にたとえれば、普通の絵具を用いて普通のカンバスに描かれた作品で、その実験性は描かれた内容にある、といった感じか。

音と音との関係を、伝統的な型によらずに探求する姿勢から産み出される音響は、ややもすれば現代音楽にありがちな、 貧血症におちいった無味乾燥で退屈なものに聴こえてしまうかも知れない。 しばしばアイデアの新規性に大きな価値をおかれがちで方法論やコンセプトで差別化しようとする前衛音楽の行きかたは、 結果としての音楽の貧しさをどうすることもできない場合が多い。 あるいは行為自体に価値がおかれ、あまつさえ失敗自体に価値を見出す立場すらありうるだろう。 だが私見では、近藤譲の音楽はそれらには該当しない。 寧ろ結果としての作品に定着された音楽の疑いようのない豊かさ、作品を聴く経験の新鮮さと興味深さが、 その冒険の成功を告げている稀有な例であるように思われる。 それを完成度と呼ぶこともできるかもしれないし、そういう言い方をするのであれば、完成度は高いのだろうが、 時折、職業的な作曲家が大量の注文をこなす際に陥いるとして非難されるある種の自己模倣と似たような 印象を覚えることもあっても、いわゆるマニエリスムとは無縁で、行き止まりの感じを受けることはない。 それぞれの作品はその都度のとりあえずの結論であり、どこか安定し、定着しきれないような動性を帯びているように見える。 その点は実験という言葉にいかにも似つかわしいが、それでいて決して中途半端な感じを受けることはなく、 寧ろ、風通しの良さに通じているように感じられる。 1曲聴けば後は同じの金太郎飴ではなく、紛れの無い個性の刻印はあるけれど1曲1曲がすこしずつ異なっていて、次がどうなるのかが楽しみなのだ。 まるで、予想もつかない何かが起きることはないが、どこに行くかはわからないという、作品の内部構造におけるの音と音の間の関係に似たような関係が 作品と作品の間にも働いているかのようだ。 それゆえ私には、近藤譲の音楽が今後どのように展開していくのか、興味が尽きることはなさそうに思える。

一方で、もしその姿勢を批判するとしたら、どのような立場からが考えうるだろうか。
例えば以下のような見方が可能だろうか。

近藤は美を再定義して、作曲する己自身にとっても「謎」であるものを美と呼ぼうとする。 彼の音楽の抽象的な音の空間は、本人にとってもそれ以外の聴き手にとっても「謎」だ。 しかもそれは通常音楽の持つ音楽外的なものへの参照、行為へのいざないの側面を、あえて遮断したものだ。 ここでは音を手段とするのではなく、自由に振舞わせよう、音固有の価値を尊重しようという精神が存在する。 だがそれは、ある種の自閉ではないか。音を手段とすることの拒否は、音を目的とする、芸術の自己崇拝によくにた構造をもたないか? もっともここには神秘主義もなければ、超越への衝迫もない。 音楽を啓示の媒体であり高度な認識への道、手段と見做しつつ、同時に、啓示される超越的なものの表現、認識されるべき当の対象そのものの現れと見做す自己中毒もないのだが。 そしてまた彼は美的な判断を作品以外のものに拡張することの危険を説く。 確かにそれは危険だし、倫理的に許されないという主張は正しそうに見える。 だが、それは結局美的なものの囲い込みではないのか? 本当に、音楽は、美は倫理と独立の価値を持つのか。 ここでは音楽をする行為の倫理性を問うこともまた禁じられているのではないか。 その姿勢は美を自閉させ、結果的に倫理的に不適切な場面で美的な価値判断がなされてしまうような倫理と美学の分離の補強をしていることにはならないのか。

近藤の音が響く空間には、音の自律性を尊重する聴き手しかいない。 そしてその聴き手というのは、トータルな意味での人間ではない。 それは人間のある一部分。断片化された耳だ。 世の成り行きの喧騒から遮断された防音室で響く音楽。 だから、あるとき聴き手は、退屈する。 それは近藤の音楽が退屈だからではない。 人間は気が散りやすい動物なのだ。 常に、自分が埋め込まれた環境のあれこれに意識を向けてしまう。 もともと彼は音だけが存在する世界に生きているわけではない。 だから遮断は時折うまくいかない。 知覚はもともと環境世界についての情報を与えるものであり、反応を引き起こす信号の如きものではないのに、そうした側面を遮断するためにわざわざ環境を設定しているように見える。 その環境の枠が曲であり、だからこれは認知実験に似る。 それを聴く人間も抽象化されて「耳」に、あるいは実験の効果を測定する装置に還元されるかのようだ。 実験音楽という呼称もむべなるかな。

確かにそれは、近藤の音楽だけの問題ではない。 いわゆる西欧のクラシック音楽はコンサートホールで聴くようにほぼ決まっていて、結局のところ近藤の音楽はそうした伝統に属している。 コンサートホールはいわば公的な防音室だ。 そこでは演奏者がステージの上で作曲者の指示に従い音楽を演奏する。 聴き手はそこに入るためにはお金を払い、音楽が始まって終わるまで沈黙を守り、身じろぎせずに狭い座席で己れを耳に還元し、終われば拍手をするきまりになっている。 そこでは様々な時代の色々な美的価値観に基づく音楽が演奏されるが、結局のところ、音楽が提供される場の性格が、そうした多様性を超えてその音楽を性格づけてしまう。 そうした防音室の中の経験が、その外の成り行きとどう関わるというのだろう。 そこで提示されるのが「謎」であるのは、それが文脈をはぎとられ、外部の環境から遮断され、意味を剥ぎ取られていることの裏返しではないのか。 (実際には私が「謎」に向き合うのは、コンサートホールよりは寧ろ、自宅で、CDに収められた録音を聴きながらの方が遥かに多いのだけれど。) その「謎」はスフィンクスとは異なって、謎を突きつけられた人間を脅かすこともない。 美術は美術館の中に、音楽はコンサートホールの中に隔離されて純粋培養される。 それらは独自で固有の価値を持つものとされる。 そうした考え方の極北が、抽象化された音や色彩、形態の組み合わせ。 それは別に何かを変えるわけではない。 いつもの風景の中に収まる。

だが、批判はある意味ではたやすく、制作の営みの行く末を見極めることは困難だ。 また、こうした批判が想定できるにも関わらず、私にとってその音楽を聴き続けることを促す何かが、その音楽にあるのは確かだ。 そして、結局のところ私もまたそれを、さしあたり「謎」と呼ぶほかないのである。

(2006.4.3-8, 2024.5.15過去の記事を復元して再公開)

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