2025年7月16日水曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(2025.7.16改訂)

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。ここではそのことの分析を繰り返すことはしないが、そうした指摘に対して、CDが店頭で販売されるものから、インターネットを通じて購入できるものになったことは、そうした傾向を更に推し進める役割を果たしたことを付言することはできるだろう。

 例えば、極東の地方都市に生まれ育った人間が接することのできる演奏会の数を考えた時、いわゆる「名曲」がほとんどを占める演奏頻度のグラフのロングテイルの末端にようやく登場するような作曲家の作品に接することのできる確率は極めて低いものとなるのは避けがたく、CDという媒体に記録され、複製された流通することによってようやく接することができた作品を挙げたしたら切りがない。というより、結局、コンサートに行くだけの余裕がない私のような人間にとって、「音楽」は生演奏で接するものではなく、録音された媒体の再生によって接するものであるというのは紛れもない事実であり、寧ろ実演に接した作品は、全体の中のほんの一部を占めるに過ぎないのである。

 更に時代は移ろって、今やCDという物理媒体に記録された形で流通する形態から、各種のデータフォーマットの規格に準拠したファイルをダウンロードしたり、ストリーミングで再生したりといった形態が普通になっていて、そうした更なる変化が一層その傾向を助長している側面があるであろうことは理屈の上で当然だろうし、体感としても疑いないように思われる。そればかりか、今や腕に自信がある人であれば、コンサートを開かなくても、自分の気に入った曲を自分で演奏したものを公開してシェアすることさえ可能になっているのだが、ではそのことが「取り残された」作曲家の作品に接することに与える影響は?ということにフォーカスしてみると、影響があること自体は確実に言い得たとして、同時代に生み出され、演奏され、消費される音楽へのインパクトに比べた時、その影響は限定的で、CD普及の時期の変化には遥かに及ばないように感じられる。恐らく確実に言えることは、原理的な水準はさておき、事実上、ファイルのダウンロードやストリーミングという手段は、ライブの代補、リアルタイムな共有の代補という側面が強く永続性に欠けていて、寧ろ送り手と受け手の同時性を前提とせず、時間的な隔たりを通り抜けることができる「投壜通信」の媒体としては、CDのような物理的媒体の方が優っているのではなかろうか。

 ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。とはいえ、レーベルはLPレコード時代からお馴染のチェコのレーベル、スプラフォン。スプラフォンがCDを最初に製作したのは実は日本でのようで、1984年のことのようだが、そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1949年)

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。ちなみにまとまってリリースされたCDでその時に接することのできた『南ボヘミア組曲』以外の作品としては、初期のイ短調のピアノ五重奏曲(op.12)とト長調の弦楽四重奏曲(op.22)、おそらくノヴァークの音楽で最も人口に膾炙していると思われる『スロヴァツコ組曲』Slovácká svita, op.32(一般に流布する邦訳タイトルは不正確で、これはモラヴィアとスロヴァキアにまたがるスロヴァツコ地方に取材した作品である)に加え、2曲のバレー・パントマイムのための音楽(『ニコティナ』Nikotina, op.69,『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』Signorina Gioventu, op.58)があったと記憶する。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできる(例えば、この文章で後程参照することになる、INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK の Official Webが代表的なものとして挙げられよう)とはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、上記の作品中だと2曲のバレー音楽がそうであるようにフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、その後他のレーベルのCDで接することができた交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのは既述の通り、もともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。

 そしてマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。またマーラーが指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したのだが、彼の微分音音楽の実践を支持したのは、理論上で微分音音楽の可能性を示唆したブゾーニである。そしてブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは、出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。この辺りの経緯は以下のノヴァークの作品と遺産の普及を目的とした協会のWebサイトの記事に語ってもらうのが適切だろう。

On the one hand, at the age of 60, he finally visited his hometown of Kamenice nad Lipou in 1930, and then he realized, as a subjectivist-based artist, his debt to his native region and to South Bohemia in general, where he liked to go. He created the South Bohemian Suite evoking a region of forests, ponds and a captivating pastoral with the catharsis of a quasi-quotation of the hymn at the end of the finale. The piece is also notable for its inventive change of titles to a Hussite chant in the third movement, which contrasts with the first two, which are naturally partially lyrically impressive.

(INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK - Official Web, VÍTĚZSLAV NOVÁK - Life and Work by Prof. PhDr. Miloš Schnierer, co-founder and long-time secretary of the V. Novák Society and chairman of the International V. Novák Society in 2007-2016. : https://www.vitezslavnovak.cz/zivot-a-dilo/d-1015/p1=1024)

 引用の末尾には、私が既にこの作品独自の特質として挙げたユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収でスメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比についての指摘も見ることができ、この記述を偶々目にした折には我が意を得たりという思いを強くしたものである。と当時に、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。更には若き日にはチェコのモダニスムを代表していたノヴァークが晩年に至って音楽語法の上では寧ろ守旧的な姿勢となった点を、後の「社会主義的リアリズム」と結び付けて論じる向きもあるかも知れないが、私はそのようなものとしてノヴァークの音楽に接していないことは確かなことに思われる。何よりもその音楽自体が告げる消息が、そうした「公的」なイメージと背馳しているのだ。「愛国的」な系列の作品についても、その事情は変わらず、そこには「国民楽派」とか「社会主義リアリズム」のイデオロギーとは相容れいない契機が余りにもあからさまに刻印されているように感じられてならないのである。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更に第三次的なテクノロジーに補綴された把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。

 その一方でノヴァークその人の「老い」について言うならば、その創作のピークとされる1910年代の「パン」や「嵐」といった作品の後、オペラでの苦い経験を経て、敢えてモダニスムに与することから背を向けるように、後期ロマン派の様式に留まることを意識的に選んだその姿勢(これは寧ろ、アドルノの後継者たることを自任するサイードが『晩年のスタイル』において論じ、偶々ノヴァークと同じ1949年に踵を接するようにして世を去ったリヒャルト・シュトラウスに通じるのかも知れない)と「老い」との関わりをどう捉えるかという別の問いを開くことに通じるように思われる。更にラフなスケッチのみをしておくならば、モダニスムに背を向けた点では同様であるシベリウスが早くも第一次世界大戦後の1920年代に沈黙に入ってしまうのに対し、ノヴァークの方はナチスによる故国の蹂躙と解体に瀕して、音楽を通したレジスタンスを行ったというまさにそのことが、一見したところアドルノが批判する「反動」として捉えられそうであるにも関わらず、サイードが特徴づける「晩年のスタイル」の枠組みで捉えることができるのではないかという仮説を取り出すことができるのではなかろうか。そしてその展望の中に改めて「南ボヘミア組曲」を位置づけることが必要になるだろう。であるとするならば、私にとってノヴァークは、まずは「老い」について考えることに、それとなく誘ってくれた存在ということになるだろう。それ故そのことについての感謝の気持ちを込めて、だがいずれ再び、改めて彼の晩年について考えることになるであろう時が来ることを期して、ここで一旦、彼からの贈与に対する応答であるこの文章を結ぶこととしたい。

(2022.11.26 公開, 2024.12.23改稿, 2025.6.18 再公開, 2025.7.16改訂)

2025年7月14日月曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク 作品リスト:作品番号つきの作品

ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品目録は、ミロシュ・シュニエラーとルドミラ・ペジノヴァによって1999年に編纂され、目録には162の作品が含まれます。このうち作品番号が与えられたのは以下に掲げる79曲です。
  •  ピアノ三重奏曲第1番 ト短調 Op. 1 (1892)
  • バラードホ短調,  Op.2, ピアノ曲, パイロンの「マンフレッド」による

  • ヴァイオリンとピアノのための3つの小品), Op. 3 (1893)

  • シューマンの主題による変奏曲 ハ長調 Op.4(1892), ピアノ曲

  • バガテル, Op. 5 (1899), ピアノ曲

  • 回想, Op. 6 (1894), ピアノ曲

  • ピアノ四重奏曲 ハ短調, Op. 7 (1894, 1899年改訂)

  • 心の物語, Op. 8 (1896) - ソプラノとピアノ

  • セレナーデ, Op. 9 (1894-95, 1949年改訂) - 小管弦楽

  • 舟歌, Op. 10, ピアノ曲 (1896)

  • エクローグ, Op. 11, ピアノ曲 (1896)

  • ピアノ五重奏曲 イ短調) Op. 12 (1896, 1897年改訂)

  • たそがれに, Op. 13, ピアノ曲 (1896)

  • ボヘミアの旋律, Op. 14 (1897) ,  声とピアノ

  • 思い出, Op.15 (1897), ピアノ曲

  • モラヴィア民謡による歌 第1巻 Op. 16(1898), 声とピアノ

  • モラヴィア民謡による歌 第2巻 Op. 17(1898), 声とピアノ

  • 劇的序曲「マリシャ」, Op. 18 (1898), 声とピアノ

  • モラヴィア民謡の詩によるバラード), Op. 19 (1898) , 合唱とピアノ連弾 

  • 私の五月), Op. 20 (1899), ピアノ曲

  • モラヴィア民謡による歌 第3巻 Op. 21 (1898), 声とピアノ

  • 弦楽四重奏曲第1番 ト長調, Op. 22 (1899)

  • モラヴィア民謡に基づく2つの旋律 op. 23, 合唱とピアノ

  • ソナタ・エロイカ Op.24(1900), ピアノ曲

  • 憂鬱な歌曲集,  op. 25, メゾ・ソプラノとピアノ

  • 交響詩「タトラ山中で」, Op. 26 (1902)

  • ピアノ三重奏曲第2番 ニ短調「バラード風に」, Op. 27 (1902)

  • 「山のバラード」,  Op. 28, 合唱曲

  • 「魂のバラード」,  Op. 29  合唱曲,  J. ネルーダの詩による

  • 「冬の夜の歌」,  Op.30(1903), ピアノ曲

  • 「新しい王国の谷」,  Op. 31 (1903), 合唱曲

  • スロヴァツコ組曲 Op.32(1903), 管弦楽組曲(原曲はピアノ曲)

  • 交響詩「永遠の憧れについて」, Op. 33 (1903-05) ,  ハンス・クリスチャン・アンデルセンによる

  • 2つのヴァラキア舞曲,  Op. 34 (1904), ピアノ曲

  • 弦楽四重奏曲第2番 ニ長調, Op. 35 (1905)

  • セレナーデ, Op. 36 (1905) , 小管弦楽

  • 6つの男声合唱曲,  Op. 37

  • 愛についての憂鬱な歌, Op. 38 (1906) , ソプラノと管弦楽

  • 8つの夜想曲, Op.39(1906-08), 声とピアノ

  • 交響詩「トマンと森の精」, Op.40(1906–07), チェラコフスキーのバラードによる

  • 序曲「ゴディヴァ夫人」, Op. 41 (1907) , ヴルフリツキーの悲劇による

  • 「嵐」, Op. 42 (1908-10) . スヴァトプルク・チェフの詩による、ソリスト、合唱と管弦楽

  • 「パン」 Op.43(1910), ピアノのための交響詩(管弦楽版あり)

  • 「故郷の地で」, Op. 44 (1911) ,  男声合唱

  • エキゾティコン, Op. 45, ピアノ曲

  • エロティコン, Op. 46 (1912) , 声とピアノまたは管弦楽

  • オトカル・ブジェジナの4つの詩, Op. 47 (1912) ,  合唱

  • 「結婚のシャツ / 幽霊の花嫁」, Op. 48 (1912-13) ,  エルベンによる、ソリスト、合唱と管弦楽

  • 「ズヴィコフの小妖精」Op.49(1913–14), コミックオペラ

  • 「カルシュテイン」Op.50(1914–15), オペラ

  • 「力と反抗」, Op. 51 (1916-17) - 男声合唱

  • 「春」2つの子供の歌, Op. 52 (1918) ,  声とピアノ

  • 3つのチェコの歌, Op. 53 (1918) ,  男声合唱と管弦楽

  • 6つのソナチネ, Op. 54, ピアノ曲 (1919-20)

  • 「青春」Op.55, ピアノ曲(1920)

  • 「ランタン」Op.56(1919–22), 音楽童話オペラ

  • 「祖父の遺産」Op.57(1922–25), オペラ

  • 「シニョリーナ・ジョヴェントゥ」, Op. 58 (1926–28) - バレエ・パントマイム

  • 「ニコティナ」, Op. 59 (1929) - バレエ・パントマイム

  • 「ある人生より」男声合唱曲集, op. 60

  • 女声合唱のためのモラヴィア民謡に基づいた12の子守唄,  op. 61

  • 「秋の交響曲」Op.62(1931–34), 合唱付き交響曲

  • 2つのロマンス, Op. 63 (1934) , 声と管弦楽, ヤン・ネルーダの詩による

  • 「南ボヘミア組曲」Op.64(1936–37), 管弦楽組曲

  • 「イン・メモリアム」, Op. 65 (1936-37),  メゾソプラノ、弦楽オーケストラ、ハープ、タムタム

  • 弦楽四重奏曲第3番 ト長調, Op. 66 (1938)

  • 交響詩「デ・プロフンディス」Op.67(1941),管弦楽とオルガン

  • チェロ・ソナタ ト短調, Op. 68 (1941)

  • 「故郷」, op. 69, 合唱曲

  • 「聖ヴァーツラフの三連祭壇画」, Op. 70 (1941) , オルガンと管弦楽(オルガン独奏版あり)

  • 5つの混声合唱曲集, op. 71

  • 「5月」, op. 72, 児童合唱

  • 「五月の交響曲」Op.73(1943–45), ソリスト・合唱・オーケストラ

  • モラヴィアの民謡に基づいた歌第4集, op. 74, 声とピアノ

  • モラヴィアの民謡に基づいた歌第5集, op. 75, 声とピアノ

  • 2つの伝説 Op.76(1944), メゾ・ソプラノと管弦楽

  • 南ボヘミヤのモチーフ集 op. 77, 声とピアノ

  • 4つの子守歌 op. 78, 声とピアノ

  • ジシュカ:夜明け前の時間、風景音楽, Op. 79 (1948) - 劇付随音楽

(2025.7.14 公開)

2025年7月1日火曜日

アルベリク・マニャール

  録音・再生技術の発達とネットワークを介した流通の恩恵の一つに、通常、コンサート等で良く取り上げられる有名な作曲家の有名な作品以外に接する機会が増えたことがあるだろう。それは勿論、同時代の作品についても言えることだが、過去の、いわゆる忘れられた作曲家の再発見の機会が飛躍的に拡大したのは間違いあるまい。かつて永らく、そうした作品は楽譜を介して接する他なかったし、レコードやCDが普及しても、流通経路が限定されていた時代には、録音は着実に蓄積され、レパートリーは着実に増大していたであろうが、それに接する機会は遥かに限定されたものであった。今日では、かつては名前すら知らなかった作曲家、名のみ知られてもその作品に接することができなかった作曲家、コンサートのレパートリーに辛うじて残った極一部の作品しか知ることのできなかった作曲家の作品、或いは音楽史の年表に載るような有名な一部の作曲家の場合でも、膨大な作品のうちコンサートで取り上げられる頻度の低かった作品を知ることができるようになっていて、その恩恵は計り知れないものがあると感じられる。

 音楽史の年表に載るか否か、コンサートのレパートリーとして残るか否かが如何にして決まるかには様々な要因があって、勿論概ね、そうした社会的・集団的なレベルでの文化的淘汰の結果というのはそれなりの理由づけが可能な場合が多いだろうが、文化的生態系のニッチを占めて淘汰を逃れて生き延びることができるかどうかについていえば、少なくともモデルとなった生物学的な進化においてそうである程度には偶然が介在するものであろう。ある時期のちょっとした環境的条件、出来事の生じる順序のわずかなずれが、「バタフライ効果」と呼ばれるカオス力学系固有の挙動を引き起こす。音楽の場合には第一義的には演奏されることが伝承の条件だが、こと西洋音楽においては高度な記譜法のシステムが確立されたから、楽譜を媒介とした伝承というのが可能であるが(それがなければ演奏による継承が一旦喪われてしまった作品、或いはそもそもが演奏の機会がない作品が、時を経て(再)発見され、リバイバルすること自体が不可能である)、かつては来たるべき演奏の機会を待っている、いわば潜勢態のレベルにあったものが、近年の「忘れられた作曲家」「知られざる作曲家」の作品のCDを媒体とした、或いはネットワークを介した流通によって、作品が歴史に刻まれるためには一度演奏されるだけではなく演奏が反復される必要があるという条件もひっくるめて(CDにコピーされてであれ、直接各種のファイルフォーマットの形で交換されるのであれ、それらは反復して聴かれる可能性を潜在的に備えていて、もし誰かがそれを再生したならば、それは常に既に二回目であって、反復が成立したと見做しうる形式的な条件は満たしていることになるので)乗り越えることが可能となったかにさえ見える。


アルベリク・マニャール(1865年6月9日~1814年9月3日)

 アルベリク・マニャールはヴァンサン・ダンディに師事し、ギイ・ロパルツと親しく、スコラ・カントゥルムで教鞭をとるなど、人的交流の面からフランキストの一員として分類されることが多いようだが、フランキストは(セザール・フランク自身も含めても良いように思うが)第二次世界大戦前、或いは戦後しばらくまでの時期と比べると、その後すっかり凋落してしまった感があって、これは単なる感覚的なものだが、私の子供の頃にはそれでもなお一定の位置を占めていたものが、この30~40年の裡に忘却の淵に追いやられつつあるような印象さえ覚える程である。そしてそうしたフランキストの中でもダンディやショーソン、デュパルク、ヴィエルヌといった第一世代はそれでも辛うじて名前を知っていたのに対し、マニャールは永らく私にとっては未知の存在であった。同時代的には前衛の側、今日から見れば主流となったドビュッシーやラヴェルの周辺の作曲家達、或いはメシアンへの繋がるカテドラル・オルガニスト=作曲家の系譜の作曲家達(こちらにはフランク自身も含めて、フランキストの一部も含まれることなるが)に比べてもなお、同時代的に既に守旧派的に分類されてしまえば、その後の忘却の度合いが著しいのも仕方ないのかも知れない。例えばヴィエルヌの作品の全貌が広く知られるようになったのは極く近年のことだと思うが、彼のオルガン曲やミサ曲は、上記のような凋落とは無関係に、確固たる地位を占め続けて来たように見えるのに対し、そうした場を持たないマニャールの音楽は、コンサートホールやオペラハウスで取り上げられない以上、実質的には忘れ去られていたと言うべきなのだろう。

 だがマニャールの場合には、彼自身の気質やその気質が反映された作品の性格が、その忘却に与かった面も否定できないだろう。私がマニャールの名前を知ったのは、恐らくはジャンケレヴィッチの著作を通してであったのだが、いわば通りすがりに言及されたに過ぎない『音楽と筆舌に尽くせないもの』での参照(邦訳ではp.121とそれへのp.130の注釈)は措いて、実質的な言及のある『仕事と日々・夢想と夜々』におけるジャンケレヴィッチによる以下のような性格付けは、それが妥当であるとしたらそのことによってまさに忘却の理由の一端を説明しているという見方が可能だろう。

(…)フランスでは、峻厳な音楽家たちもほかの人びとと共に甘美の大祭典を祝い、いまだに音響の歓喜が歌うにまかせ、いまだに音色、ハーモニーそしてひそかな充全の幸福に身を委ねる。デオダ・ド・セヴラックと同じようにルーセルも、ルイ・オーベールやポール・ル・フレムと同じようにマニャールも…。私の愛する音楽は誇示癖がない。ここにすべてが仮面とヴェールで覆われている一頁がある。すべてが半濃淡で薄明りだ。これがフランス流の《熱情をこめて》だ。(…)

ジャンケレヴィッチ『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1982)、pp.298-99

この文章でマニャールと同格の位置に置かれているのはルーセルだが、同じダンディの弟子ではあっても、ルーセルは今日、マニャールとの比較においては遥かに著名な作曲家だろうし(寧ろフランキストの流れに属している事実の方が忘れられがちなくらいであろう)、その作品は今日のコンサート・レパートリーの中に確固とした地位を占めているのは誰の目にも明らかなことだろう(例えばアマチュア・オーケストラの情報サイトであるi-amabileの演奏会履歴を見れば、それは一目瞭然であろう)。オーベールやル・フレムが引き合いに出されている理由は措くとして(ちなみにマニャールに師事しているのはド・セヴラックの方である)、オーベールを除けばいずれもダンディ=スコラ・カントゥルムの人脈である点と、ルーセルを除けば、際立って中央集権的なフランスにあってパリを根拠にするのではなく、何れも地方に拠点を置いて活動をした点を挙げるべきだろうか。ジャンケレヴィッチの用いる「峻厳な」という形容と「誇示癖がない」という形容もまた、そうした点と相関する面もあろうが、ともあれ上記のジャンケレヴィッチの言葉は、マニャールの音楽がそれを知る決して多くはないであろう人間にどのように受け止められているかを物語る例にはなるであろうし、同時に忘却の原因の一端を示唆していることにもなるのではなかろうか。ちなみにマニャールその人も、パリの喧噪に堪え難さを感じ、1904年の初夏に、サンリスとナントゥイユ=ル=オドゥアンの間、オワーズ県バロン村の「マノワール・ド・ジャヴァンヌ」、あるいは「閉ざされた泉」と呼ばれる古い家(彼は後に別の泉を発見し、「マノワール・デ・フォンテーヌ」と改名することになるが)を購入し、その衝撃的な死に至る迄、そこを住処とすることになる。

 外面的な事実を挙げるなら、マニャールの名はパリ16区の通りの名前として記念されているという点を指摘しておくべきかも知れない。興味深いのは、それがパッシーと呼ばれてきた高級住宅街に位置していることよりも、その命名の由来の方であって、実はもともとは1904年の開設以来(途中1923年に延伸されたが)、当時流行の作曲家であったワグナーの名を冠していた通りの名前がマニャールの名を冠するようになったは戦間期の1927年のこと、敵国であったドイツの文化的アイコンであるワグナーの替りにマニャールが選ばれたのは、彼の死にまつわるエピソード、つまり第一次世界大戦時に、侵入してきたドイツ軍に対して屋敷に立て籠もって戦い、屋敷ごと焼かれて死亡したという事実によるらしい。焼き払われた後廃墟となった屋敷の写真は、今ならインターネットを介して見ることができるが、それが絵葉書の写真に選ばれたこともまた、通りの改名と同様の事情があったと考えるべきであろう。ベートーヴェンを尊敬し、ワグナーの影響が明確なその音楽にも関わらず、ここではマニャールには「愛国者」としてのコノテーションが付き纏っているようなのだ。


ドイツ兵により襲撃され焼き払われたマニャールの家(オワーズ県バロン)の絵葉書

 ところがマニャールその人の生の軌跡を辿る限りでは、彼は寧ろ、同時代の形容では「進歩的」と形容されたであろう思想の持ち主のようである。それは彼の作品にも刻印されていて、最も著名なのは、ドレフュス事件に因んでドレフュス派の立場で書かれた管弦楽曲「正義への讃歌」op.14であろう(ちなみにダンディは反ドレフュス派だった)。それ以外にも彼の作品の頂点を為す第4交響曲op.21が女性によるオーケストラ(l'Orchestre de l'Union des femmes professeurs et compositeurs )に献呈されていたりもする。その音楽の同時代において既に時代遅れと受け止められたかも知れない保守性と、こうした作曲者の思想的な進歩性との間に或る種の不整合を見出す向きがあっても不思議はなかろう。

 要するに「仮面とヴェールで覆われている」かどうか、「半薄明で薄明り」の裡にあるかどうかはともなく(私は個人的には、ことマニャールの音楽に対してはこのジャンケレヴィッチの形容は適当とは思わないが)、マニャールが置かれた状況というのは、マニャールの人と作品が寧ろくっきりとした明確な輪郭(それを「峻厳」と呼べば呼べるだろう)を帯びているにも関わらず、錯綜としているようなのである。

 因みに「誇示癖のなさ」の方は(上記の文脈ではジャンケレヴィッチは明らかに音楽について語っているので、それをあえて意図的に捻じ曲げて言うことなるが)確かにその通りであって、彼は社交的な人間ではなかったし、(これまたベートーヴェンを思わせるが)ある時期以降は難聴に悩まされて引きこもりがちであった上に、自己批判が非常に厳しく、創作に対する姿勢は、こちらはまさに「峻厳」と形容するに相応しいものであったようだ。作品の多くは自費出版、しかも初期の評価が定まらない時期のものがそうなのではなく、寧ろ中核的な作品群(作品8~20)がそうなのであって、それ故大手出版社の宣伝や販促活動の恩恵に浴することもなかった。というよりそれを拒絶したというべきで、そこにはフィガロ誌の編集主幹として著名であった父親の権威を結果としてであれ借りることへの反発が関わっていると見るのが自然だろう。(それが父親その人に対する反発ではなかったことは、「葬送の歌」op.9が父親への追憶のために書かれていることから窺える。)経済的にも彼は親に依存することを良しとせず、自立することを自らに課したようである。こんなことは、でも、音楽には関係ないと言うだろうか?一般論としては確かにその通りかも知れないし、そのようにすべきなのかも知れない。だが、ことマニャールに関して言えば、マーラーのような意味合いで作品を自伝的に読むことが可能であるという訳ではなくても、なぜこのような肌触りの作品群が遺されたのか(ちなみに上記の経緯で屋敷の消失により手元に存在したかも知れない草稿の多くが灰燼に帰した結果、彼の死後に遺された作品は、作品番号にして20をようやく超えるに過ぎない)を知ろうとするならば、作曲者のそうした気質の反映をそこに見るのは避け難い。何なら作品が産み出される環境の一部として作者を捉えても構わないが、いずれにせよマニャールその人の個性が作品に刻印されていることは否定できないだろう。

 それでもなおマニャールその人は一先ず措いて、遺された作品の方はどうなのかと言えば、こちらもまた「誇示癖がない」という形容については妥当であると見る向きが大方のようである。管弦楽曲のみならず、室内楽もまた構想は雄大で書法は念入りであるけれど、所謂ケレンのようなものが無いというのも衆目の一致するところのようである。色彩感に欠ける訳でもないし、内面に閉じこもった「主観」の音楽では決してなく、外に向かって開かれているし、低回趣味というわけでもないのだけれども、何か「新しい」風景が垣間見える瞬間といったものには欠けている。独自性に欠けるわけではないのは、彼の作品の音調がフランキストの中でも異色のものであることから明らかだし、例えばワグナーの影響一つとっても、多くのフランキスト、或いはスクリャービンの中期作品とかにあからさまな、あの温度の高い、噎せ返るような甘美さとは無縁である。だが一方で、フランス音楽としては例外的と感じられる程に《熱情がこめ》られているのにも関わらず、規範を尊重するあまり、それを打ち破り、アドルノ風に「唯名論的」に下から上へと作曲する衝動というのは感じられないし、何か未聞の響きが、未知の風景が地平の彼方から到来するといった瞬間は、マニャールの音楽の中にはないようだ。理知的と言えば、これもまた「フランス性」の記号ということになるのかも知れないが、ここでは熱情は放恣に走ることなく、意志の力で、時代遅れと受け止められかねない形式の枠の中にきっちりと収められているかのようなのだ。

 しかしその結果として生みだされる、転調を繰り返しつつ緊張感を孕み、時としてどんどんと白熱していく旋律線、更に、しばしばそうした旋律が対位法的に絡み合うことで生じる強烈な推進力、その一方で、緩み切ることは決してなく、どこかに凛として張り詰めたところを残しつつ、緊張が一時緩んだ時に示す、しなやかで優美で、時として、どこか夢見勝ちな一面すら示すこともある旋律には、単なる時代の趣味や流行の様式を超えた、他ならぬマニャールその人の個人的な声が確かに聞き取れ、それは作品のほんの一部を聴いたたけで聴き手を捉えて離さない強い誘引力を持っている。(この点はダンディを介して、寧ろフランクに近接すると私には感じられるが、)控えめで、外面的な効果に背を向け、自己を顕示することはないけれど、にもかからわず強靭で、かつ人によってはそこに独善的なまでの頑なさを見出すであろうその音楽の強烈な個性は、聴き手を選ぶものなのかも知れない。その音楽持つ価値というのは、寧ろ同時代よりも、時代を隔ててはいても、その音楽に同調し、共鳴する身体を備えた聴き手に向けて海に投じられた投壜通信の如きものに感じられる。マニャール没後間もなく書かれた評伝的な著述(例えば、Maurice Boucher, ALBÉRIC MAGNARD, Editon de la maison des deux-collines, 1919、あるいは Gaston Carraud, La vie, l'oeuvre et la mort d'Albéric Magnard (1865-1914), Rounrt, Lerolle et Cie Éditeurs, 1921)において、既にマニャールが同時代のフランスにおいても知られておらず、その音楽が人口に膾炙した存在ではないことをそろいもそろって述べていることは、そうした消息を告げているように思えてならないのである。

 だが、だからといって「進歩」に資することのなかった或る作曲家の作品が、それゆえに後世にとって最早「用済み」であって、忘却の彼方に消え去っても仕方ないし、そうなっても構わないという考えには私は全く同意できない。否、寧ろ、時を隔てて、場所を違えて作品が甦るとき、それがもともと置かれていた文脈においては読み取ることができなかった部分、光が当たらなかった側面がようやく明らかになるということがどうして起きないと言えるのか?勿論、アプリオリに定まる「本来の」文脈が存在するという訳ではない。今、ここを特権化することなどできない。だけれども、もともと同時代にあって既にアナクロニックであったものは、時を超えてではなく、時を潜り抜けて、それを必要とする聴き手に辿り着くのを待っていたということはないだろうか?私が何某かを主張できるとしたら、それは偏に、それを必要とし待ち望んでいた(しかもそうであることは事後的にしかわからない。ベルクソンは『思想と動くもの』の「緒論第1部」および「可能性と事象性」において、そうした逆行的、転倒的な時間性を作品の創造に関して述べたのであったが、それは作品の受容に関してもまた成り立つと考えることはできないだろうか)という点に存しているのだ。

 誰の壜を誰が拾うかはそれぞれで、そこにも偶然が大きく関与していることだろうが、様々な環境の要因の複合により、とにかくマニャールが遺した「投壜通信」を私は拾ったのだ。それは声高に自分の存在を主張しはしないし、低回趣味に徹して、「日常」(そこには天変地異であったり病苦や死といった出来事からの恢復の過程、「生き続ける」ことも含めるが)を乗り切るためのよすがに徹するわけでもなければ、地平の彼方からの何かの到来の記録というわけでもない。聴き手に対して語りかけたり、手を差し伸べたりするわけでもない。だけれども、それらのいずれかでなければ価値がないということにはならないのではないか。寧ろそれは「生きる事を学ぶ」ことを、語りかけるでも強制するでもなく、自らの挙措によって、受け取り手に対して密やかに示唆し、そっと促すような存在なのだ。それが「効果」という点で如何に限定されたものであったとしても、否、仮に、或る具体的な場合においては「効果」としては無であって、あってもなくても同じことのようにしか見えなかったとしても、その結果だけを見て、それを不要のものと決めつけることはすべきではないだろう。生物学的な適者生存を文化的・社会的な次元に不当に拡張して敷衍することの危険は、まさにマニャールの同時代に明らかになりつつあった。にも拘わらず、文化的・社会的な領域でも、進化論的な適者生存というのは、今や恰もそれが「原理」であるかの如き様相を呈しつつある。否、それは最終審級においては正しいのであろう。だけれどもそうならそうで、生存のための戦略は、一見してみてわかる進歩を、目先の効用を備えていることとばかり限ったわけではないだろう。生物の生態系でも思わぬところにニッチが広がって、粗視的には想像がつかないような多様性が存在し、まさにそのことが生態系を支えているということが起きる。ましてや文化的・社会的な領域では、そうしたニッチを許容しない(例えば、それが受け手にとって「不愉快である」という理由で、存在する場すら奪ってしまおうとする)立場は、結果的に生態系を脆弱にしているのである。

 否、そうしたことはマニャールの音楽に向き合うにあたっては、最終的には副次的な事柄に過ぎないのだろう。音楽の持つ、共感を引き出し、共鳴させ、新たな行動に誘う力は、その一方で極めて個別的なものであり、多くの人に受容されるそれが私のうちに共鳴を惹き起こすことを保証するものはないし、その一方で、話題になることもなく、それまで一度も聞いたことはなく、だがほんのふとした偶然から接して見れば、一度聞いただけで、その音楽の風景の中に、あたかもずっと見慣れた風景であるかのように寛ぐ自分を見出すことを妨げるものはない。そしてマニャールの音楽は、私にとってはまさに後者に属するものなのだ。「波長が合う」という言い方がされることもあるし、メタファーとして或る種の受容体(レセプター)のようなものを思い浮かべてもいいだろう。そうした受容体は多数あるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない、特定の形状の鍵でしか開けられない錠のようなものだという。だとすれば私は、自分でもそうと知ることなく、マニャールの音楽がやってくるのを待っていたのだというように考えることもできるのだろう。それは壜を拾ったものが、その壜に封じ込められた手紙の名宛人であるという、マンデリシュタムの「投壜通信」の定義にも一致するようだ。

 世界の片隅に、100年前の異郷の、稍もすれば見失われがちな音楽が存続する領域があるということの価値を信じて、私はマニャールの音楽に対して「ウィ」と言って、それを歓待することを選ぶ。この文章を綴り、公開することはそのことを行為遂行的に証しするためのものである。どうかその「歓待」が、ひどく貧しくて慎ましい、他人が見たら歓待などと呼ぶに値しないものであることについては許して欲しい。そしてそれは拾った壜に対する遅ればせの「返答」であって、それは全くそうしなくても同じことではない、見た目は区別がつかなくても、そうではない、ましてや逆効果になることは(そういう可能性が常にあることに対して目を背けるつもりはないけれど)ないと私は信じたい。否、単純に、その音楽が湛える佇まい、その音楽が浮かび上がらせる風景、その音楽が聴き手に働きかける力の大きさに聴き手は圧倒されることになる。そればかりではなく、その音楽が垣間見せる風景に、「現実」のどこにも見いだせなかった、そこで自分がほっと一息つき、安らい、或いはそれに同調することで己を解き放ち、精神の働きの自在さを恢復することのできる空間を発見することになる。そして、斯くも質の高い作品がほとんど知られることなく、その価値が認められていないことに驚き、何か不当なことであるかのように感じから逃れられなくなる。そして私はそのことを事実として証言することを選ぶ他なくなるのだ。私は密やかに、そっと小声で、しかし誇らかに証言する。私は確かに「投壜通信」を拾ったのだと。何故ならそれは、壜を拾ったものの責務だからだ。遥かに遅れて、遠くからであっても、応答すること、それを証言することによる他、自分がコミットする価値を自分を超えて存続させることに寄与することはできないからだ。

(2019.11.2-3初稿・公開, 2023.10.15加筆, 2024.4.13 加筆, 2025.7.1 再公開, 7.2加筆)

アルベリク・マニャール 作品リスト

A.作品番号付き作品

Op.1 ピアノのための3つの小品 (1887-1888)
調性: 1. ハ短調、2. 変イ長調、3. ハ長調
楽章: 1. コラールとフゲッタ、2. アルバムの綴り(優しく)、3. 前奏曲とフーガ
演奏時間: 11分(4+3+4分)
出版: 1890年(シュダン社)

Op.2 古典様式による管弦楽組曲 (1888)
調性: ト短調
編成: 2.2.2.2. - 2.1.0.0. - ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器
楽章:1.フランセーズ、2.サラバンド、3.ガヴォット、4.メヌエット、5.ジーグ
演奏時間: 13分(4+2+2+3+2分)
出版: 1892年(フィリップ・マケ社)

Op.3 6つの詩の音楽 (1887-1889)
調性: 1. 嬰ヘ短調、2. 嬰ト短調、3. 変ロ短調、4. 変ホ短調、5. 変ホ長調、6. 変ホ短調
歌詞: 1,2,4. マニャール、3. ミュッセ、5. ホラティウス、6. ロパルツ
楽章: 1. 彼女に!、2. 祈祷、3. ドイツのライン、4. 夜想曲、5. バンドゥシアの泉に、6. 詩人に
演奏時間: 20分(5+3+4+3+2+3分)
出版: 1919年(シュダン社)

Op.4 交響曲第1番 ハ短調 (1889-1890)
編成: 3.3.3.4.(+3サックス) - 4.4.3.1. - 2ハープ、ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器(16.16.14.12.8)
楽章:1.Strepitato、2.Largo、3.Presto、4.Molto energico
演奏時間: 31分(10+9+4+8分)
出版: 1894年(E.ボードゥ社)

Op.5 歌劇「ヨランド」(1890-1891)
台本: 作曲者自身
演奏時間: 59分(1幕)
出版: 1892年(声楽スコア、シュダン社)
備考: 管弦楽スコア散逸

Op.6 交響曲第2番 ホ長調 (1892-1893、1896年改訂)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
楽章(改訂版):1.序曲、2.ダンス、3.歌と変奏、4.終曲
楽章(原版):1.序曲、2.フーガとダンス、3.歌と変奏、4.終曲
演奏時間: 改訂版40分(11+6+14+9分)
備考: 原版49分(11+13+16+9分)

Op.7 「散歩」ピアノ組曲 (1893)
調性: 1. 嬰ハ短調、2. ハ長調、3. ホ長調、4. ホ短調、5. 変ロ長調、6. 嬰ハ短調、7. 嬰ハ長調
楽章: 1. 献呈(優しく)、2. ブローニュの森(優雅に)、3. ヴィルボン(神秘的に)、4. サン=クルー(率直に)、5. サン=ジェルマン(愛らしく)、6. トリアノン(幅広く-美しく)、7. ランブイエ(結婚行進曲風に)
演奏時間: 26分(3+2+3+2+5+4+7分)
出版: 1894年(デュラン社)

Op.8 フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットとピアノのための五重奏曲 ニ短調 (1894)
演奏時間: 35分(11+8+6+10分)
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.9 葬送歌 変ロ短調 (1895)
編成: 2.2.2.2. - 4.1.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 15分
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.10 序曲 イ長調 (1894-1895)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.0.0. - ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 12分
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.11 交響曲第3番 変ロ短調 (1895-1896)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ティンパニ - 弦楽器
楽章:1.導入と序曲、2.ダンス、3.牧歌、4.終曲
演奏時間: 40分(14+5+11+9分)
出版: 1902年(マニャール自費出版)

Op.12 歌劇「ゲルクール」(1897-1899)
台本: 作曲者自身
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 184分(3幕)
出版: 1904年(声楽スコア、マニャール自費出版)
備考: 第1幕と第3幕の原オーケストラスコア散逸。ギィ・ロパルツが1915-1916年に復元

Op.13 ヴァイオリン・ソナタ ト長調 (1901)
演奏時間: 42分(13+12+4+13分)
出版: 1903年(マニャール自費出版)

Op.14 正義への讃歌 ロ短調 (1901-1902)
編成: 3.2.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 15分
出版: 1904年(ピアノ縮約版1903年、マニャール自費出版)

Op.15 4つの詩の音楽 (1902)
調性: 1. ヘ短調、2. 嬰ハ長調、3. 変ロ長調、4. ヘ短調
歌詞: すべてマニャール作詞
楽章: 1. 私は母の口づけを知らなかった、2. 愛のバラがあなたの頬に咲いた、3. 笑う子、生き生きとした子、4. 死が来る時
演奏時間: 18分(6+4+4+4分)
出版: 1903年(マニャール自費出版)

Op.16 弦楽四重奏曲 ホ短調 (1902-1903)
演奏時間: 41分(13+6+11+11分)
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.17 ヴィーナスへの讃歌 変ホ長調 (1903-1904)
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 14分
出版: 1906年(マニャール自費出版)

Op.18 ピアノ三重奏曲 ヘ短調 (1904-1905)
演奏時間: 36分(8+10+5+13分)
出版: 1906年(マニャール自費出版)

Op.19 歌劇「ベレニス」(1905-1908)
台本: ラシーヌの悲劇に基づく
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 138分(3幕)
出版: 1909年(声楽スコア、マニャール自費出版)

Op.20 チェロ・ソナタ イ長調 (1909-1910)
演奏時間: 25分(8+3+7+6分)
出版: 1911年(マニャール自費出版)

Op.21 交響曲第4番 嬰ハ短調 (1912-1913)
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
楽章:1. Modéré - Allegro、2.Vif、3.Sans lenteur et nuancé、4.Animé
演奏時間: 37分(11+5+13+8分)
出版: 1918年(ルアール・ルロル社)

B.作品番号なしの作品

En Dieu mon espérance et mon espée pour ma défense 変イ長調 (1888)
編成: ピアノ独奏
演奏時間: 5分
出版: 1889年(『フェンシング年鑑』)

A Henriette ホ短調 (1890-1891)
編成: 歌とピアノ
演奏時間: 4分
出版: 1892年(『フィガロ・ミュジカル』)

12の詩の音楽 (1913-1914、散逸)
歌詞: アンドレ・シェニエ(6曲)、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(6曲)
編成: 歌とピアノ
備考: 未出版、散逸

ギヤ・カンチェリ

  「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。ふとした偶然で2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK), PHP新書, 2012)を読み、「現代のロシア音楽」と著者の亀山郁夫さんが見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、カンチェリに関する記述を読んだ際に感じたことを、既に公開済の、主としてシルヴェストロフとの対比を介したそこでのマーラーの扱いに関する強い違和感を記した記事から抜き出して、その主旨とは別に取り上げる価値があると感じているカンチェリにフォーカスするように視点の変換を行った上で記録しておくことにする。

 そのことに対する認識が直接のきっかけとなったわけではないけれど、元の記事を書いた時点では、カンチェリは現役の同時代の作曲家であったのが、この記事を公開する時点では既に故人となってしまっている。彼はここ暫く世界を覆っている新型コロナ禍を知ることなく没したのだが、その後発生してこちらもまだ終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻は、元原稿の執筆に遡る南オセチア紛争を想起させずにはおかなかった。そうした変化の中で「音楽」について、そして「祈り」について考えていく中で、実は執筆当時は寧ろ疎遠であったカンチェリの音楽との距離は再び縮まり、今では、かつて出遭った時期以上に身近に感じるようになっていることがこの記事を起こすきっかけになっていることは間違いないだろう。またそうした距離の変化をもたらした出来事として、最近になって接することができたグルジア(現ジョージア)に関連した2つの書物との出会いがあることを付しておくことは、一旦過去の記事を再編するに留まるここでの作業をこの後継続するとしたら、それはどのような方向を目がけてのものになるかを標記することになるだろう。

 一つはジョーゼフ・ジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか?』(森田稔訳, アルク出版, 2017)で、これはグルジア民謡について知っている人には想像がつくことと思うが、人間の進化における「うた」の起源に関して、音楽は言語に先行しており、最初にまずポリフォニーがあり、モノフォニーは言語獲得の過程で生まれたという非常に魅力的な仮説を提示した著作である。

 もう一つは、兼本浩祐さんの『発達障害の内側から見た世界』(講談社, 2020)。第3章 了解するということ の末尾においてグルジアの「スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会」(p.123)についての説明が為されるのだが、それは以下の文章の内容と無関係ではない。というより私見では極めて密接な関係があるのだが、その点を論じるのはカンチェリの音楽にフォーカスした旧稿の再編集というスコープを大幅に超えることになるので、それについては稿を改めることとして、だが少なくともそれが、以下でカンチェリの音楽に関して検討している「世界」を含めた対象の意味づけの様態に密接に関わるのだということ、更にヤスパースの「了解」を導きの糸として検討されるさまざまな様態の中でも、記述や認識の対象とする仕方ではなく、「我々」としての了解でもなく、いわば「他者」として迎接するという様態に関わるが故に、以下で検討されるカンチェリの音楽のあり方と密接に関係しているということは指摘しておきたい。

 なお以下の記事中では「グルジア」という今や歴史的呼称となったロシア語風の呼び方をしているが、それもまた元記事が、「ジョージア」という呼称が正式なものとなる2015年4月以前に書かれたことに由来しており、その後の時間の経過の中で起きた変化を証言することになるだろう。いっそのこと自称である「サカルトヴェロ」を用いて書き換えることも考えたが、それは将来改めて取り上げる時のためにとっておくこととして、ここでは旧稿執筆時点の状態を残すことにした。

 2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」公式ガイドの著者は「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という規定をしているが、その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。そしてそこでカンチェリの音楽に対比されるのはシルヴェストロフの音楽なのだが、私個人について言えば、カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはない。さりとてカンチェリの音楽に対してさえ特段の強い拘りを持っているわけでもなく、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもなかったのだが、その一方でこのガイドブックの記述は私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、とりわけてもカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほどであり、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じた。シルヴェストロフの方は、「ガイドブック」の著者によってその音楽と「同類」であるとされたマーラーの捉え方に異を唱える(つまり同類ではないと私は考えるのだが、それは専らマーラーの側に関する異議申し立てであって、シルヴェストロフの側についてのそれではないが故に、そうした異議申し立て)という文脈の中に納まっているが、カンチェリについては必ずしもそうではなく、だからここで独立に扱うことに一定の意味があると考える。

 「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」というガイドブックの主張については、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という主張自体に異議があるわけではなかった。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではあった。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだという点が戸惑いの根源にあった。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。

 そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。

 文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。(ちなみに、よりツェランを主題的に取り上げ、彼をタイトルロールとする「オペラ」(と、その抜粋からなる交響曲)さえ書いているルジツカのような例を含めた上で、パウル・ツェランの詩を素材とした音楽作品として、カンチェリの作曲はほぼ唯一私にとって違和感のないものであったし、現時点でもこの点は変わらないようだ。)

 あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさと呼ばれるものとて、カンチェリによって自覚的・意識的に選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことはできないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。

 もっとも著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトがシュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。

 一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。

 だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統ではそうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説くレヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ支離滅裂にしか感じられない。

 ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品の間についてではなく、諸々の作品に共通する作者の世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているとは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションとYouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。

 典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように感じられる点、コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない点、内容においても、作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題としているのではなく、寧ろ世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものであるという点、総じて疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリとマーラーには一定の共通点があるだろう。

 だがその一方で、特に交響曲作家としてのカンチェリとの比較ということであるならば、西欧音楽の外縁において、非西欧的な論理を探求し、偶然にも同じ数の交響曲を残したシベリウスとの対比の方がより一層興味深いかも知れない。今一度、このガイドブックの「ミニマリスト・ブルックナー」という形容を思い浮かべた時、寧ろブルックナーに通じるのは、垂直方向の超越の運動の存在であり、シベリウスの音楽には空を仰ぐような視線があったとしても、その視線は水平線の彼方を目指すのでって、ほぼ水平方向の運動のみであって、その非宗教性という点で「西欧音楽」の一種としてみた場合に寧ろ異様でさえあるのに比べると、カンチェリの音楽に対して、ブルックナーに対してのように宗教性というラベルづけをすることに違和感がなさそうに感じられる。だがその音楽の時間的な構造、主題や動機というよりリズム細胞と呼ぶのが適切な非常に限定された素材を用いて長大で、シンフォニックと呼ぶに相応しい持続を編み上げていく点、ミクロには非常に長大なペダルへの嗜好やソノリティといった点においてカンチェリの音楽は、明らかに西欧音楽的なものから隔たっていて、寧ろシベリウスに近接するように思われる。その非構築的な契機の明白な存在だけとれば、ブルックナーにも或る種の「ミニマリスト」的な側面を認めることは可能であろうが、少なくとも長大なゼクエンツによって時間を押し広げていくブルックナーの音楽と時間性の観点ではほとんど接点はなく、「形容矛盾」と断った上で「ミニマリスト」という形容を付加するくらいならば、寧ろ西欧音楽が獲得してきた音楽的思考との断絶の廉でアドルノやレイポヴィッツにあれほど罵倒されたシベリウスこそを引き合いに出すべきだったのではなかろうか?

 ブルックナーもシベリウスも、その音楽における主観性が希薄であることを以って「木石の音楽」といった言われ方をするが、この点におけるカンチェリの音楽の相貌は両者とは明確に異なった独特なものであろう。既述の通り、そこでは非人間的な秩序としての「外部」が直截な仕方で提示されるのに対して、主観性の契機は(ノスタルジーなどではなく)「祈り」の「うた」というかたちで出現する。非対称な両者の間には「対話」は存在しないが、或る種の乖離したポリフォニーを認めることはできるだろう(そしてこの点については、特にマーラーの特に後期様式の或る側面との共通性を認めることができるのではないかと考える)。「私」が、「私たち」が、ではなく「風が」泣いている」という標題を持つ作品が「典礼」と規定されていることは、そのことをいわば外側から証言していると言って良いだろう。ブルックナーの場合とは異なって、ローカルな日常の風景が、何者かの息吹を受けて突如変容するというようなことはここでは生じない。だからといって主観が森の中に歩み入って消滅してしまい、後には森だけが残るというシベリウスでは起こり得たようなこともここでは生じない。ここでは「祈り」が残り、そしてそれは別の機会に、全く同じように「幽霊的に」反復されるのだ。その反復によって、「人間中心的な意味づけから解放されている」(かに見える)外部もまた変化を被ることなく「幽霊」のように再来する。「祈り」そのものは未来を持たないし、それ自体の時間性の裡に「成就」を含まない。シベリウスの場合には、外部の秩序(ノモス)の円環的な循環が示唆されるのに対して、ここでは「祈り」が備えている根源的な反復が示唆されているのではなかろうか。

 実は「人間中心的な意味づけから解放されている」というのは、他の生物にもその萌芽は見られるにしても、自らの有限性を認識するのみならず、言語を獲得し、自伝的自己を備えた「人間」の営みである限りにおいて、それ自体は極めて人間的という他ない「祈り」が備えている性格に他ならないのではなかろうか。そしてこの最後の点を批判的知性を以って構成主義的なやり方で提示しているのが、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする作品に他ならない。そこでは離散力学系によって決定論的に定められている作品の構造の外部に、人間が作り、人間が歌う「うた」があり、こちらもまた「儀礼」として行われる上演において、生成される音響に「暖かみ」が感じられる点において、カンチェリの作品との接点を見出すことができるように思われるのである。

(2012.4.30/5.1初稿, 2022.7.24改訂版公開, 2023.10.4 改題,2025.7.1 再公開, 7.2改題)

2024年5月23日木曜日

ブラームスと老い:「間奏曲」について

 ブラームスに関して言えば、「老い」に関して語ることは、その生涯と作品を語るに際して、従来より常に行われてきたと言って良いかも知れない。手元にある日本語で書かれた評伝を繙いて見れば、ブラームスの「晩年」について、独立の章立てをして語られていることが容易に確認できる。尤もここでの「晩年」の定義を確認すると、必ずしも一致せず、著作毎に少しづつ異なることにも気づく。例えば私が子供の頃に比較的容易にアクセスできた文献の一つである門馬直美『大音楽家・人と作品 ブラームス』(音楽之友社, 1965)の生涯扁は5章立てで、最後の第5章は「晩秋の活動」と題されており、その中は更に3つに分かれて、それぞれ「みのり多き秋」「精力集中の晩年」「重苦しい晩年」と題されている。最初の節の冒頭で確認できるように第5章はブラームスが53歳の誕生日を迎えた1886年のトゥーンへの避暑から開始され、2番目の節は1889年から始まり、最後の節は1894年以降に充てられている。21世紀になってから刊行された西原稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』(音楽之友社, 2006)では、生涯扁は6章立てで、最後の第6章が「静寂の晩年(1894年~97年)」と題されていて、題名に明示されている通り、最後の4年間が対象となっているから、これは丁度、門馬『ブラームス』では、第5章の最後の節「重苦しい晩年」のみを「晩年」としているのであり、他方、門馬が第5章の開始とする1886年は、西原においては一つ前の章である「内なる声の探求(1886年~13年)」と題された第5章の開始と一致する。従ってずれと見えたものは「晩年」という言葉を使うか否かの選択に起因するものに過ぎず、どこを画期とするかに関して言えば、稍々細かく見れば必ずしもそこに不一致がある訳ではないことがわかる。

 『吉田秀和作曲家論集・5 ブラームス』(音楽之友社, 2002)はその後2019年に河出文庫に収められて入手が容易になったが、その中には1974年に書かれた100ページを超える評伝「ブラームス ーHe aged fast but died slowlyー」が含まれていて、題名が告げている通り、ここでもブラームスにおける「老い」は主要なモチーフとなっている。全体は章分けはされずに番号のみが付された16節よりなっているのだが、その中で「老い」についての言及がされるのは、第14節の末尾においてであり、それは以下のように結ばれるのである。

(…)58歳で、彼は自分をもうすでに人生の創造から隠退するにふさわしい老人とみなしたのである。 

 ブラームスは早く年をとった。とりたかった。しかし死はなかなかやってこなかった。とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, p.126)

無論のこと、これは評伝全体のタイトルに付されたHe aged fast but died slowlyのパラフレーズであり、従って、この評伝の全体の焦点はここにあると考えて良いだろう。そしてここではブラームスの「晩年」は58歳から始まったと考えられていると見てよいだろう。では一体ここでの「晩年」の開始を告げるものは何だったのかと言えば、それは明らかに、上記引用の直前で言及される遺書の作成という出来事であった。それは弦楽五重奏曲第2番(ト長調、作品111)の完成にあたっての難渋がきっかけとなったとされていて、その傍証として、マンディチェフスキー宛ての手紙が参照され、更に翌年(1891年)のイシュルでの遺書の作成に言及されるのである。

「私は、最近、交響曲を含めていろいろと手をつけてみたが、どれもうまく進まない。もう年をとりすぎたと思うから、骨の折れるようなものは、これ以上書くまいと決心した。私は一生勤勉に働いてきたし、やることはもう十分にしつくしたと思う。今は、人に迷惑をかけずにすむ年になったのだから、平安を楽しんでもよかろうと考える」

 これは一時の気まぐれではなかった。翌年第58回目の誕生日を同じイシュルで迎えた彼は、遺言状を書いて、それを楽譜出版社で彼の管財人のジムロック宛送った。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, pp.125-126)

そしてこの後に既に引用したこの節の結びの文章が来るのである。要するに、後世の人間がどのように彼の生涯を区切るにせよ、彼自身の行為として、1891年のイシュルでの遺書作成というのが自ずと画期しているという訳である。そしてブラームスに関して「老い」にフォーカスした時には、既に参照した二つの評伝の区分には拠らず、この所謂「イシュル遺書」を画期とするのが適当のように思われる。

 そして更にそれは「老い」の意識がその創作にどのように映り込んでいるかを確認する上でも妥当と思われる。なぜならば、何よりもまずブラームス本人の主観として、作品111の弦楽五重奏曲をもって「骨のおれる」大作の創作は終わりであり、その後の作品は、1曲毎の規模は小さく形式的にも簡素なピアノ作品を中心に、クラリネットのために書かれた室内楽を除けば、若干の声楽曲と最後の作品となったオルガンのためのコラール・プレリュード集よりなるからである。当然の反論として、ミュールフェルトとの出会いを契機として作られたクラリネット・トリオ、クラリネット五重奏曲、2つのクラリネットとピアノのためのソナタの存在を指摘し、なおかつ、吉田さんが「とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。」と記しているのも、まさにそれを踏まえたものであるという指摘があるだろう。だが、その指摘の妥当性を認めた上でなお、「イシュル遺書」以降のクラリネットのための室内楽は、それなりの規模を備えた作品であるとはいえ、分水嶺となった作品111がそうであるようにはシンフォニックな志向を持った作品ではないし、例えばクラリネット協奏曲のような管弦楽曲が書かれることはなかった(実際、ミュールフェルト宛の書簡に、協奏曲を書くほど自分は不遜ではないという言葉が残されているらしい。門馬1965, p.136参照)ことを以て、ブラームスが必ずしも全面的に前言撤回したという訳ではない、と主張することもまた、可能なように思われる。勿論、「イシュル遺書」の作成は、不連続な心境の不可逆な変容といった出来事ではなく、万事において周到であったブラームスらしく、今風には、「終活」を開始した、ということなのだろうが。また、ことブラームスの場合にあって作品番号は、概ね出版の順序とみるべきで、必ずしも創作時期と一致するわけではない点に留意すべきであろう。従って作品番号が後であるからといってop.112, op.113が弦楽五重奏曲第2番よりも後に創作されたとは言えず、実際、op.112の四重唱曲に含まれるジプシーの歌こそ1892年作曲が確実であるにしても、op.112の他の曲の作曲時期は弦楽五重奏曲の手前に遡るらしいし、op.113の女声合唱のためのカノン集は、創作時期が同定できる作品は全て旧作に属し、偶々この時期に曲集として編まれて出版されたもののようである。それを言えば、作品116~119のピアノ曲集に含まれる作品の中には、他の曲と比べて若干雰囲気を異にするものがないとは言えず、旧作そのものとは言えなくても、旧作をベースにした作品である可能性もないとは言えないだろう。ブラームスの「終活」には草稿の破棄という作業も含まれていて、弦楽五重奏曲に取り掛かっていた1890年の10月にイシュルから自ジムロックに充てた手紙の中に、草稿の破棄を告げる言葉があるようだ。(門馬1965, p.123)そしてブラームスのこうした周到さは、後年の音楽学者がその創作のプロセスを追跡すべく、草稿を調べるという作業を不可能にするという結果をもたらすことになった。

*   *   *

 それでは、そうした資料調査の手法に拠らず、作品自体の分析によって創作時期を推定するような手法が可能であるかどうか、特に計算機を用いたデータ分析のような手法による推定が行われたという話は寡聞にして知らない。実は、ブラームスの作品のMIDIデータは割合とたくさん存在し、フリーで利用可能なので、マーラーの作品について行ったような、和音の出現頻度に関する分析をすべく予備的な調査をやったことがあるのだが、少なくとも和音のパレットといったテクスチュアレベルを対象とする限りにおいては、後期作品をそれ以前と区別し、特徴づけるような結果は獲られなかった。例えば室内楽ないしピアノ曲に限定しても、単純な特徴量のみからブラームスの「老い」に対応する特徴を抽出・同定することが難しいことについては既に確認済である。だがこの結果は、ブラームスの作品を聴いていれば或る程度予想がつくことであり、所謂「発展的」な作曲家ではないブラームスの場合には、そうした表層的なレベルでの時系列的な変化が簡単に検出できることを期待すべきではないのだろう。更に言えば、実際に分析対象となる作品と分析で使用する特徴量について具体的な確認作業を行えば、一見したところ後期作品の特徴に見えたものが、初期や中期の或るタイプの作品については当て嵌まってしまうといったようなことに直ちに気付くことになる。人間にわかることを跡付ける分析よりも人間が気付かないような発見的な価値を持ったデータ分析を行うというのが理想であるには違いないが、そもそも人間には手に負えない大量のデータが対象であればともかく、過去に創作された有限の作品のデータを対象とした時には、対象の作品に対する十分な(とまでは行かなくても、こと私の場合に限れれば、せめてマーラーの作品と同程度の、個別の作品の詳細に関するものも含む)知識がなければ意味ある分析は覚束ない。恐らくは、作品の構造上の特性として、形式的な複雑さ、更に言えば、シンフォニックであるかどうかといった特性のようなものを反映した特徴量を定義することができれば、そうした点で簡素化の傾向が見られることがデータ上からも確認できる可能性はあるだろうが、それはごく表面的にしかブラームスの作品に接していない私のような立場の人間にとっては荷が勝ち過ぎているように感じられる。

 とはいうものの、私の限られた聴取の経験からすれば、作品114以降、最後の作品である作品122に至るまでの作品を「イシュル遺書」以後の作品群として、一つのグループとしてまとめてしまえば、客観的には思い込みに過ぎないとしても、それらの作品に、それ以前の作品とは異なる「老い」の兆候を感じ取ってしまうこともまた避け難い。一方で、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもするのだが(そして後で触れることになるが、具体的にはそうした曲は、タイトルとして「間奏曲」とブラームスが呼ばなかったものに属しているようだが)、そうした一部の例外を除けば、その作品が浮かび上がらせる風景の持つ質は、やはりそれに先立つ時期に比べれば、遥かに深まった季節のそれであることは疑いないことのように感じられるのである。だが、それが一体何に起因するものであるかを、具体的に技術的な仕方で突き止めることができないからには、言葉を幾ら尽くしたとて、所詮は「私はそのように感じた」の同語反復を超えることは難しい。

*   *   *

 それでは、他の作曲家との比較においてブラームスと「老い」について、とりわけても吉田さんの言う「早く老いた」という言葉について考えてみてはどうだろうか。この言葉は既述の通り、「イシュル遺書」の作成に因んでのものだが、「早く老いた」という言葉そのものについて言えば、寧ろ円熟。実りの秋の訪れについてのものと捉え直すことが可能ではないだろうか。するとそれは、冒頭で触れた、「晩年」という言葉で指示される時期の評伝間のずれと関わっていることになるだろう。それどころか、それは「晩年」に先立っているとは言えないだろうか?例えばあの秋の気配に満ちた第四交響曲が、どの評伝においても「晩年」に先立つ円熟期の掉尾を飾る作品として扱われていることに気付いて、慌てて確認すると、それは1885年、ブラームス52歳の時の作品なのだ。更にもう一つだけ例を挙げるならば、あの「ドイツ・レイクエム」は1868年、30代半ばの作品なのだ。勿論、最初期のピアノ曲(例えば「4つのバラード」)や2つの弦楽六重奏曲、ピアノ協奏曲第1番といった作品を思い浮かべてみるならば、ブラームスにも「若々しい」作品がないわけではない。だが、これもしばしば言われる、意識としての、年齢に比しての「老成」ということを問題にするならば、これは遥かに遡って、もしかしたら子供の頃に家計を補うために酒場でピアノを弾いていた時の経験に遡るという見方さえできるのではないだろうか。

 それでは「ゆっくりと死ぬ」の方はどうか。すると、こちらに対しては違和感のようなものが湧き上がってくるのを抑えることが難しいことに気付く。いや、多分違うのではなかろうか。「死はなかなかやって来ない」とすれば、それは「老い」を長く生きるということに他ならない。そもそも円熟の最中で「実りの秋」を体現するような第四交響曲を完成させて交響曲の時代に区切りをつけたとはいえ、その後には充実した室内楽の傑作が陸続として生みだされるのではなかったか。「イシュル遺書」の後でも、ミュールフェルトとの出会いによって再びクラリネットのための室内楽が生み出されるが、それらについて、円熟の続き、晩秋の最後の実りであると言ってはいけないのか。ミュールフェルトとの出会いから、再び室内楽曲の創作に赴くことになる、その辺りの消息について、門馬さんは「このようなわけで、5月に遺言書を作成するころには、大曲への創作意欲がわきおこってきていたとみることができる。したがって創作と遺産整理と死への恐怖が当時みな心理的に密接に関連していたとは思えない。」と述べているが、それはその通りで、寧ろ遺書の作成は、言い方によっては「老い」に先立っての行動とみることだってできるだろう。

 だがそもそもブラームスにおいて「死はなかなかやって来なかった」という言い方は適切だろうか。72歳で没したブルックナーの葬儀の場に訪れながら、中に入ることなく「次は自分の番だ」と呟いたという言い伝えがあるが、その彼は70歳にならずに、それどころか、私のような今日の日本の給与生活者ならば年金を受け取れる年齢であるだけでなく、定年もまたそこに向けて延長されつつある65歳を前にして、64歳になる直前で没しているのだ。勿論時代の違いはあるが、58歳で引退を決意するのが仮に当時としても早い決断だったとして(だが、それとて「早く老いた」の意味するところでは勿論ないだろうが)、その後5年で没するのが「ゆっくり死んだ」というのは今日的な感覚からすれば当たらないだろう。かくいう吉田さんが全集を完結させたのは90歳を超えてからであり、吉田さん自身はその後更に98歳まで生きたではないか。(もっとも、吉田さんがこのブラームスについての評伝を書いたのは60歳を過ぎたばかり、丁度ブラームスが、西原さんのいう「静寂の晩年」にさしかかった年齢にあたることには気を留めておくべきかも知れない。吉田さんがそのことを意識していたかどうか、私には確認する術がないけれど、そして実年齢というのは、その人その人ひとりひとりの生の実質を基準にとるならば、所詮は相対的なものに過ぎないのだろうが、それでも吉田さんがこのことを意識して執筆に臨んだ可能性はあるのではなかろうか。)

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 ともあれ、ふとした偶然から、そしてそれは後世の我々、特に平凡な生を生き、長い老いを生きることになる我々にとってこの上ない幸運であったのだが、ブラームスは引退を決意した後に、更にいわば余録のような形で作品を残すことになった。そしてそれは意識の上では、まさに「老い」の音楽そのものではなかろうか。多くの作曲家は引退を意識することなく書き続けて没するか、さもなくば自発的に断念するのではなく、何らかの理由で書き続けることができなくなって、いわば創作の上での死後を人生の上での「老い」として生きることになるのに対し、ブラームスの場合には、周到に、まるで用意されたように「老い」の最中の音楽が遺されることになった。その期間は決して長くはないけれど、そして作品番号にして10に満たない量ではあるけれど、そしていわゆる「大作」は、定義上あらかじめ排除されているという立場をここでは取りたい(つまり作品111を最後に「大作」は書かれなかった、その後の室内楽は、その規模と構成にも関わらず、実質において「大作」ではないという捉え方をしてみたい)が、そのことごとくが珠玉の傑作であり、かけがえのない価値を有する「小品」であり、それはまさに「老い」の音楽であると考えたい。繰り返しになるが、例えばあのクラリネット五重奏曲でさえ、その曲の持つ雰囲気の共通性もあって、敢えて小品と呼ぶことにしたいし、規模とは裏腹の大きさと重みを備え、音楽上の「遺言」に相応しい「四つの厳粛な歌」も、それが管弦楽と合唱を伴う2つ目のドイツ・レクイエムとはならなかったという点で、やはり敢えて「小品」と呼ぶことにしたいのである。つまり、ブラームスの晩年の、「老い」の音楽は、基本的には「小品」であるというように感じるのである。

 ブラームスにおける「老い」の音楽を「小品」ということで特徴づけるとするならば、直ちに思い浮かぶのは曲数からすれば多数を占めるピアノ小品だろう。だが、或る種のプロトタイプのようなものを取り出そうとした場合、それは単なるピアノ小品というよりは寧ろ、その中で少なからぬ割合を占める「間奏曲」によって特徴づけられるのではなかろうか。作品117は3曲とも間奏曲であり、「幻想曲集」と名付けられた作品116は3つのカプリッチョと4つの間奏曲で編まれている。6曲よりなる作品118はバラード、ロマンスが1曲づつで残り4曲は間奏曲、最後の作品119は掉尾を飾るラプソディーに先立つ3曲はいずれも間奏曲である。要するに20曲のうち、14曲が間奏曲であり、数の多寡が全てであるとは限らないとは言え、この場合には「間奏曲」こそが「老い」の音楽のプロトタイプ、典型であると言って差支えないのではないかと私は考える。上で既に、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもする、と記したが、それらは皆、カプリッチョ、ラプソディーと名付けられた作品であり、寧ろそれらは中期のピアノ曲との繋がりを感じさせるのである。ここでいう中期のピアノ曲とは、作品76の8曲と作品79の2つのラプソディーを指しているが、作品76は4曲のカプリッチョと4曲の間奏曲で構成されていて、作品79の2曲と併せてその割合が後期と異なる点が興味深い。これら中期作品を、それらがいずれも性格的小品であるという共通点を以て、所謂「後期作品」の嚆矢とみる立場もあるようだが、そして繰り返しになるが、「イシュル遺書」後の曲の中でも中期で優位を占めていたカプリッチョ、ラプソディーにはその反響が聴きとれるとはいえ、やはりそこには少なからぬ懸隔があるように思われて、それがラプソディー、カプリッチョと間奏曲の占める割合の変化と相関しているように思われてならないのである。その一方、バラードというタイトルを持つ作品には、遥かに時代を遡って、初期に標題性の強い4つのバラード(作品10)があるが、それと作品118の第3曲目のバラードとの懸隔は更に著しい。(詩を掲げるという点だけとれば、寧ろ作品117の第1曲が、標題性を示唆する作品であると言えるのかも知れない。)アレグロ・エネルジコとの指示通り、それはラプソディーのように始まるが、直ちにその力は弱まって、夢想の中で過去を回顧するような中間部が「語り」の実質であることに気付かされる。作品116の第4曲のロマンスは、タイトルの通り、甘美さを湛えた歌謡風の始まり方をするが、名残を惜しむような音調から夢見るような中間部が導かれ、その全体はやはり回顧的に感じられ、曲集の中ではバラードと対を為すような関係に置かれているように思われる。だが、それらのもたらすコントラストも他の間奏曲があってのものであり、基調となる響きはやはり「間奏曲」にあると感じられてならない。

 そしてそうした「間奏曲」の音調を余さず捉え、子供の頃に知って以来、長きに亙り、今なお私を魅了してやまないのは、間奏曲ばかりを集めたグールドの弾いたアルバムである。グールドにはブラームスの作品の録音としてはピアノ五重奏と、有名なエピソードのあるバーンスタインとのピアノ協奏曲第1番もあるけれど、ピアノ・ソロの作品としては、ソナタや変奏曲といった大曲ではなく小品ばかりを録音している。ここで取り上げた「間奏曲集」は何と30歳にもならない1960年に録音しているのに対して、中期の2つのラプソディーと初期の4つのバラードをその没年である1982年に録音していることが印象的である。それを知った後で聴けば、「間奏曲集」の演奏に或る種の若々しさを感じとることもできるように思えるが、正直に言えば、子供の頃にこの演奏に接した時(記憶によれば、アルバム全体を知る前に、吉田秀和さんが解説をされていたFM放送の番組で、メインのプログラムの後に少し空いた放送時間枠を埋めるように、グールドの弾く作品117の第1と作品118の第6の2曲の間奏曲が放送されたのを聴いたのが最初だったのではないか)には、演奏しているグールドの年齢のことなど考えることすらなく、それまで知っていたブラームス、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」や第3番、4つの交響曲とヴァイオリン協奏曲に加えて弦楽六重奏曲第1番くらいしか知らなったブラームスに対して自分が勝手に作り上げていた、若くして老成し成熟した、内省的で打ち解けない孤独な音楽家の晩年に誠に相応しい音調を見出して、心の底から感動し、魅惑されたのであった。この時の吉田さんの選曲もまた卓抜と言うべきで、詩が銘として掲げられ、歌謡性が強くて具体的な海のイメージを喚起する強い力を持ち、若き日への、更には幼少期への「回顧」の趣が強い(但しそれは特定の具体的な、例えばブラームスその人の過去に遡るというよりは、或いはそのことを通じて更に、いわば「ありえたかもしれない」、実際には一度も経験されることのなかったかも知れない幸福に満たされた過去を追憶するのであって、それゆえそこに込められた感情的な負荷は耐え難い程の苦悩に満ちたものになる)作品117の最初の曲と、こちらはそうした回顧する意識の現在の場の沁みいってくるような寒気と荒涼の中において、その回顧を支配する「もう元には戻れない」という不可逆性の意識、否、その過去が「ありえたかもしれない」ものであるならば、「もはや辿り着くことのできない」という到達不可能性が意識にもたらす凍てつくような絶望感に満たされた作品118の最後の曲とは、いずれも「間奏曲」というタイトルを持つ作品群の持つベクトルが最も明確に、極端な形で表れた作品と言えるのではなかろうか。それらはそれぞれ、この曲を知ってしまえばもう元には戻れないというような強い力によって聴き手を捉えて止まない。だがその後、グールドのアルバム全体に接して特に私の心を惹きつけたのは、作品118の第2のイ長調の間奏曲で、この曲と最初に接した2曲とが私にとっての「間奏曲」のプロトタイプのようである。私見では作品118の第2の間奏曲は、間奏曲というよりは寧ろ後奏曲(所謂フィナーレ=終曲ではないことに注意)、最初から「終わり」「結び」の気配が漂い、曲集で先行する第1ではなく、実際には聴いていない、先行する時間的経過に対して回顧するような気配を強くもった音楽である。これもまた晩年の間奏曲「様式」とでも言うべきものの特徴と考えてもいいように思うのだが、音楽的散文の代表であるブラームスとしては整った楽節構造を持ち、楽式としてはシンプルな三部形式を持ちながら、その旋律は、言ってみれば終わりの結びの句から始めて、一旦少し前に戻った後、形を変えて短かく再現すると弾き収めの楽句が続くという具合に、名残を惜しみつつ、何かの終わりを確認しているように、もっと言えば、何かを終わらせるプロセスそのものであるように感じられるのである。それは勿論、自分の心境や感慨とは程遠く、寧ろ、理想の「老い」のかたちとでもいうべきものに感じられ、そこから慰藉を引き出す一方で、自分がそうした心境についぞ至れず、至ることがなさそうなことについて、苦々しい諦めを抱かせるような存在なのである。 

*   *   *

 音楽創作の上では、その後言葉を伴う「遺言」として、聖書をテキストにした「四つの厳粛な歌」を書き上げ、一番最後には自分の音楽的伝統の由来を確認するかのように、コラール前奏曲集を書き上げて、申し分なく完璧に「老い」を全うしたかに見えるブラームスだが、実生活の上では、同様に水も漏らさず完璧に、という訳には行かなかったようである。ここでは「イシュル遺書」作成後の「終活」の経過を辿ることで、その首尾を確認して、稿を閉じることにしたい。

 「イシュル遺書」の作成についてはどの文献でも等しく言及されているけれども、その後の経過については、文献により扱いは様々のようだ。大作曲家ブラームスの人と音楽を語るということが目的である以上、普通の人間であればそちらがメインである事柄が背後に退くのは仕方ないことだろうが、主として比較的詳しい門馬さんの語るところに従って集約すると、その後以下のような経過を辿ることになる。

 1891年5月に書かれた「イシュル遺書」は友人であり、財産管理人でもあるフリッツ・ジムロックに同年8月に送られる。だがその後、1892年の姉のエリーゼの死を機会に、変更を思い立ってジムロックから取り戻したようである。そして1895年5月には、新しい別の遺言書の送付についてジムロックに手紙で告げているという。更に没年である1897年2月7日にフェリンガー夫妻に対して遺言書の細部についての相談をし、それに基づいてフェリンガーが遺言書を作成、ブラームスに渡したのだが、ブラームスは直ちに署名をすることなく、遺言書を引き出しに入れたまま死の床に臥せることになり、そのまま死んでしまうのである。西原さんは「イシュル遺書」に言及した後直ちに「彼の遺書には不備があり」(西原2006, p.188)と簡潔に記しているが、その不備の実態というのは、門馬さんの記述によれば、「イシュル遺書」の撤回と、新しい遺言書の作成があり、だが新しい遺言書にブラームスが署名し、それが効力を発するようになる前に作業が永久に中断してしまった結果、「ブラームスの遺言書には、法律的には正当な効力のものがない」(門馬1965, p.126)ということらしい。

 良く知られているようにブラームスは生涯独身であり、子供がいなかったから、その遺産の相続に関しては、複雑な相続関係が生じることが容易に想定できるし、それに加えて法的な効力のない、内容の異なる遺言が複数存在するのだから、死後の相続についてトラブルが起きそうなこともまた想像できる。(推理小説が好きな向きには、さながら素材として格好の状況であろう)その顛末はもはや本人の没後の事柄に属するから、それについての詳細な記述を評伝に求めるのは無いものねだりというものかも知れないが、「彼の死後、遺産相続にかんして複雑な問題をひきこすことになる」(西原2006, p.188)、「(…)ブラームスの死後、遠い親戚まであらわれて、遺産の分配について訴訟問題さえおこったのだった。」(門馬1965, p.126)とまで書かれると、相続そのものは誰彼となく、平凡な市井の人間にも等しく起こることで、成功して資産のある子供のない独身の叔父が被相続人となった場合の厄介さは、孤独死が珍しいことではなくなった今日の日本では、寧ろありふれた事柄ですらあるかも知れないが故に他人事ではなく、その帰趨が気にならざるを得ない。さりとてブラームスの熱心なファンでもない私の手元にある文献は限られているし、他の文献を渉猟するだけの時間的なゆとりの持ち合わせもなく、Webで情報がないかを探してみると、2014年11月4日の日付のGeorg Predotaという研究者が執筆した記事、Estate Johannes BrahmsというのがInterlude(図らずも、Intermezzoそのものずばりではないが、これまた「間奏曲」であるのは奇しき偶然であろう)というWebサイトに掲載されていたので、それをご紹介してこの稿を終えることにしたい。恐らく参照している伝記上の出来事が異なるからであろうか、細かい日付や取り上げられている内容については微妙なずれがあるけれど、遺書の再作成に関するアウトラインは一致しており、更に遺言の具体的内容やその後の係争とその顛末について要領よくまとめられているので、大まかな状況を把握するには十分ではなかろうか。(2024.5.22/3初稿)


2023年6月7日水曜日

ブルックナーと老い:第9交響曲を巡って

 ブルックナーにおける「老い」ではなく、「死」についてであれば、既に多くのことが語られてきた。直ちに思い浮かぶのは、田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』(春秋社, 2005)の第9章、まさに「死の時計」と題された章で言及される第8交響曲についてのブルックナー自身のコメントだろうか。

「第一楽章には主題のリズムに基づく、トランペットとホルンの楽節がありますが、それは「死の告知」です。それは途切れがちながらしだいに強く、しまいには非常に強くなって姿を現します。終結部は「降伏」です。」(上掲書, p.272)

それをうけて、田代は「ブルックナー最晩年の『第八番』と『第九番』は、いわば死に憑かれた交響曲である」(同書, p.273)と述べる。

 だが「死」ではなく、問題となるのが「老い」である場合、「死」と区別される限りでの「老い」についての言及を見つけるのは容易なことではない。特にブルックナーに限って言えば、上掲書の冒頭いきなり「バロックの屍臭」と題された節が置かれて、そこで言及されて以降繰り返し指摘されるように、「死」との関りは、恐らく今日一般的な了解の地平を構成するのとはかなり異なった風景の下で条件づけが為されているのであってみれば、「死」と「老い」との関係もそれに応じて異なっていると考えるべきだろう。そしてここで「老い」固有の徴候に注目すべきということになれば、寧ろそれは「死」との関りにおいてではなく、発達や成長、あるいは進化といった言葉で語られる側面に関わる否定的なものとして捉えるべきものであるように思われる。少し先の部分(p297)では、ブルックナーにおける「人間的成長」の欠如と「作品の進化」の対比が指摘され、その矛盾を「天才」と呼ぶといった見解が示されていて、もしそうならば、生物学的な、生理的な「老い」はあったとして、精神的な意味合いでの「老い」をそこに見つけることがそもそもできるのかという問いかけが為されたとしても不思議はない。

 だがその点の評価は一先ず措いて、ここでは「老い」の徴候となる様々な事実を確認してみよう。「老い」に関する社会学的研究でしばしば「老い」との関りが深い出来事として挙げられるものの一つが退職だが、ブルックナーの場合について言えば、音楽院退職は1891年1月15日であり、宮廷オルガニスト退任は1892年10月のことである。その一方で1892年7月の最後のバイロイト訪問で体調を崩したことが記され、創作に専念できる環境が整いつつあるかと思えば、今度は衰えゆく健康との闘争が始まる。

 大学での講義の最終は1894年11月12日。但しこれは所謂、儀礼的な側面を持つ、事前にそのようにレイアウトされた「最終講義」ではなく、この回が最後の講義となったというに過ぎない。だが1895年より大学から年金が支給されたとのことなので、事実上の退官ということになるのだろうが、その後間もなく、1894年12月に再び体調が悪化し、9日には臨終の秘蹟を受けるまでになる。だがその後再び回復して、ブルックナーが没するのは更に2年近く先の1986年10月11日である。

 第8交響曲は初演こそ1892年12月のことだが、作品自体は一旦完成した後の3年に亘る改訂を経た第2稿が既に1890年3月10日に完成しているから、これは音楽院退職に先立つことになるので、ここでは第9交響曲の成立過程に関わる事実を確認しておくと以下の通りとなる。(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)の第9交響曲の項の記述(根岸一美執筆)に基づく。なお田代の記述は、第2稿の完成後ただちに為され1890年4月16日付で受理された第8交響曲の皇帝への献呈を、翌年の音楽院の退職に続く時期と混同しており、更にそれを第8交響曲「作曲中」(田代, 上掲書, p.264)の出来事とするなど微妙な混乱を示している。興味深いエピソードを散りばめた田代の叙述は、そのスタイルの性質上、厳密にクロノロジカルではなく、年代を前後するので、このような錯誤がどうしても生じやすく、読み手の方も、うっかりするとクロノロジーについて誤認しがちになるのは避け難い。私個人について言えば、マーラーの場合を唯一の例外として、ブルックナーについてはその生涯の出来事が頭の中に入っているわけではなく、今回、「老い」に関する個別事例として取り上げたに過ぎないため、事実関係について気付かぬままに思わぬ誤認をしていることを惧れる。)

  • 第3楽章まで:1887年8月~1894年11月30日
    • 最も早いスケッチは第1楽章のもので、1887年8月12日付
    • 1891年1月:第1楽章スケッチの手直し、1891年4月末:第1楽章総譜着手
    • 1892年10月14日:第1楽章総譜完成、1893年12月23日:再点検終了
    • 1893年2月27日:スケルツォ総譜完成、1894年2月15日:再点検終了
    • 1893年1月頃:アダージョ着手、1894年10月31日、11月30日:アダージョ総譜完成
  • フィナーレ:1895年5月24日~1986年10月11日

上述の第1楽章のスケッチの開始は第8交響曲の第1稿の完成後まもなくの時期にあたるが、その後、いわゆる第2次改稿の波による中断を経て、第1楽章スケッチの手直しが始まったのは音楽院退職に相前後してということになる。勿論、スケッチの開始時期を軽視するつもりはないが、こうしてみると第9交響曲こそが「晩年」の交響曲であったと言いうることになりそうだ。実年齢では67~68歳から没する1896年10月11日までの残り4,5年が彼の「晩年」ということになるのだろうか。特に目を惹くのはアダージョ総譜完成の日付で、大学での最後の講義と臨終の秘蹟を受けるに至る程の深刻な体調の悪化との間に位置していることが確認でき、アダージョの総譜完成までの集中とそれが完了したことによる緊張からの解放が影響しているのではないかと思わずにはいられない。

 第4楽章を完成できない場合に『テ・デウム』を終楽章に代用しても良いという、第9交響曲に関する余りにも有名な発言の記録を含むジャン・ルイ・ニコーデの回想は1891年3月のものだが、上記のクロノロジーに照らせば、音楽院退職後、再び第1楽章のスケッチに向き合って手直しを行っている最中のことになる。フィナーレそのものはおろか、まだアダージョの着手ですら2年近く先の時期に、第4楽章が完成できないかも知れないという予感をブルックナーは既に抱いていたことになる。従ってこの発言はブルックナーの「老い」と「死」についての自覚を証言したものと見做し得るだろうし、そうした自覚は、第9交響曲の本格的な創作の開始の時期から、その過程を覆っていたことを告げている。

 だが世俗的=公的に他の何よりも「老い」の自覚を証言するものは、1893年11月10日付の遺言書の作成であろう。それに先立って、ブルックナーは手稿の製本、封印を行っており、それら手稿の保管について遺言書の第四項で以下の通りに指示している。

「以下の作品の手稿譜を、ヴィーンの帝立・王立宮廷図書館に遺贈します。現在までの8つの交響曲(主が望まれるなら、『第九番』もほどなく完成)、三つの大ミサ曲、『弦楽五重奏』、『テ・デウム』、『詩篇・第百五十篇』、合唱曲『ヘルゴラント』、以上。同館管理者はこれらの手稿譜の保管につき、細心の注意を払われることを。またヨーゼフ・エーベレ社は同館より、出版予定作品の手稿を適当時間借り受ける権利を有するものとし、同館は同社にその手稿を、適当期間貸与する義務を有するものとします。」(田代, 上掲書, p.294による)

単なる保管ではなく、作品の出版・流通による普及についても配慮していることにも留意しよう。そしてブルックナーの遺言が数次に亙る全集の出版に繋がり、更に今日、オーストリア国立図書館音楽部門所蔵の自筆譜の画像をオンラインでいつでも参照できることに通じていることを確認する時、自己の作品のミームとしての存続に関するブルックナーのしたたかで周到な対策は実際にも有効であり、その意図は十二分に達成されたと言って良いだろう。

 だがブルックナーのそうした周到さをもってしても遂に如何ともし難かったのは、まさに遺言書作成の最中に現在進行中であり、従って、未だに製本も封印もできない状態にあり、かつその完成を本人が確信しえなかった作品、第9交響曲の行く末であった。この遺言書の日付である1893年11月10日は一旦第2楽章まで完成して第3楽章に取り掛かって後、平行して進めていたのであろう第1楽章の見直しがもうじき完了しようとする時期にあたる。遺言書で「ほどなく完成」と記したのは、勿論、既に着手していた第3楽章までに限定してのことであろう筈もなく、その時点では着手すらしていなかった、そして結果としては望みが叶うことなく未完成に終わったフィナーレを含めてのことであったに違いない。

 そして上述のクロノロジーにおいて確認できるのは、第9交響曲フィナーレこそは彼の生涯の最後の1年半のドキュメントであり、「老い」のプロセスの只中における創作のあり様を証言するものであるということだろう。田代は「ブルックナーは亡くなる最後の日まで手を加えていたが、終楽章はついて未完に終わった」(田代, 上掲書, p.302)と記しているが、「亡くなる最後の日まで」というのは、こうしたことの場合にしばしば用いられる修辞の類ではなく、紛れもない事実のようだ。だが田代の筆は、臨終の刻である1896年10月11日の午後の出来事を幾つかの資料に語らせるのみで、その点を確認することはできない。私が確認できた限りでは張源祥の『ブルックナー/マーラー』(音楽之友社, 1971)の生涯のパートの末尾、「最後の年」の節が描き出す、生涯最後の日の様子は以下の通りであって、ここでは文字通り最後の日まで第9交響曲フィナーレに取り組んでいたとされている。

「10月11日の朝、彼はことのほか良い気分であった。ピアノの前にすわって『第9交響曲』終曲の企画に従事した。それから散歩にでかけようとしたが医者に止められた。寒い風が吹いていたからである。午後3時少しすぎに彼は突然寒気を覚えた。彼はベッドに横たわり、長年付添いの家政婦カテリーナは茶を用意した。茶を飲みおえて、左の脇を下に身をころがしたとき、彼は最後の息を引きとった。偉大な創造的精神の外被は打ちくだかれたのである。」(張源祥の『ブルックナー/マーラー』, 音楽之友社, 1971, p.70~71)

 マーラーの第10交響曲もかつてはそうだったように、そして事によったらマーラーの第10交響曲以上に、ブルックナーの第9交響曲フィナーレの補作完成については疑問視する向きが多いかも知れない。最初はフラグメントの紹介だけであったものが、近年では欠落部分の補完(その最大の部分はコーダなのだが)を含めて、全曲を通して演奏できるような状態にまで到達した補作も出てきており、初期の成果については懐疑的にならざるを得なかったのが、ようやくその構想が感じ取れるような水準に達成しつつあるように思われる。そうした状況を踏まえた時、仮に第9交響曲第4楽章の補作の価値について最大限の留保をつけたとしても、現時点で補作により聴くことが可能になったそれに私が(誤解だろうが、思い込みだろうが)見出すことが出来る、 遥かに遅れて、しかも間接的な仕方で垣間見るに過ぎないにしても、「出会う」ことが出来ると感じるのは、ブルックナーの最晩年の姿、「老い」の最中にあるブルックナーの姿に他ならない。

 彼は自分の衰えを自覚し、今度は間に合わないかも知れないという思いに囚われつつ、それでもなお、神が彼を この世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。ここには彼の到達点(それは事前に定められたのではなく、突然、事後的に確定 してしまったのだが)において彼が探り当てた「姿」が書き留められている。自筆譜に書き留められたそれは、だがブルックナーの頭の中で 鳴っていたそれの不完全なコピーなどではないだろう。一旦完成した作品の改稿を繰り返したブルックナーの場合には異稿の問題がついて回るようだが、ここではそうした議論はそもそも起きよう筈がない。異稿のオーセンティシティや優劣に纏わる議論の前提からすれば、フィナーレは端的に未だ存在していないということになるのだろうから。

 しかし実演に至らず埋もれたままでさえなく完成すらしなかった作品を単純に「存在しない」ものと決め付けてしまうことに、私は非常に強い抵抗を覚える。更に言うならば、一般的な了解としては、それは事後的に未完成であることが確定したに過ぎず、そのことは偶然の産物であるということになるのだろうが、ことこの作品に関しては、もしかしたらそれがこの世に現れることを妨げるような何かを作品そのものが備えているのではないかという、一見するとナンセンスでさえある思いに私は避け難く捕らわれてしまう。要するにシェーンベルクが「プラハ講演」の中でマーラーの第10交響曲に関して述べたと言われる、人間的なものが超えることのできない一線を、この音楽もまた超えているように私には思われるのだ。人間がそのままの姿では通ることができない門。だが、まさに彼のために、 専ら彼だけのために設けられた門。己れの場をこの世には端的に持たない、ユートピアの音楽。予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽。

 だが彼はこの未完の自筆譜すら破棄することなく、まるでいつか続きの作業を再開することを予期するかのように遺した。残念ながら、それは この世においてはその価値への無理解から散逸してしまい、もしかしたら彼が見出した全てを現在の我々が見ているのではない可能性が高いことにも留意しておこう。要するにこの世というのは、そうした場所なのだ。ここで眺望を妨げる制約は、ありうべき、 来るべき「作品」の側ではなく、この世に生きる我々の側に専ら起因するものであることを銘記すべきであろう。この作品がこの世において 完成しないのは、「幽霊」たらざるを得ないのは、この世ゆえなのだとさえ言いうるのではなかろうか。だとしたらそうした世の成り行きに同様に流されつつ、それでも辛うじて私に出来ることと言えば、そうした 「幽霊」を決して厄払いすることなく、「幽霊」として歓待することしかない。

 もっとも今ならば、根気良い探索によって一旦散逸した草稿のうち、回収できたものに基づいて、既に長期に亘って為されてきた人間による補筆完成だけではなく、AIによる補完の試みが可能になりつつあるというべきなのかも知れない。勿論、現時点でのAIには「模倣」なり統計分布に基づく「補完」はできても「創造」はできない。マーラーの第10交響曲の場合とは異なって、コーダについてはスケッチの断片すら存在せず、アイデアについてブルックナーが語ったとされる証言のみに基づかざるを得ないのであってみれば、それは乗り越えることのできない壁に阻まれているというべきなのだろう。更にそれが予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽なのだとしたら、「人間」ならぬ存在には原理的に不可能な企てと言うべきであろう。ここで思い浮かぶのは、スタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」におけるカフカの『城』の補作の失敗の例だ。

 だがそれでもAIによる補完について考えることは、幾つかの点で興味深い視点を提供してくれはしないだろうか。人によっては皆同じに聞えるらしいその交響曲は、作曲の技法の次元ではなく、もう少し抽象度を上げた次元では、初期値こそ異なるが殆ど 同じアルゴリズムによるのかも知れない。否、あの「変てこなお年寄り」(マグダ・プライプシュによる1892年頃の回想による。田代の上掲書p.287~9に引用されている。)が本当にこの音楽を創ったのだろうか。そもそも音楽を書くというのはどういうことなのか。今日、アルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる、コンピュータによる自動作曲を用いた作曲手法における、初期値を与え、シミュレーションをし、結果を聴いては初期値を変え、という作業は100年前の「変てこなお年寄り」の営みとどこが違うのか。 勿論、全然違うではないかと人は言うだろう。だけれどもそもそも、あの「変てこなお年寄り」自体が神が用意したシミュレーション・プログラムではなかったかろうか。 「変てこなお年寄り」自ら、そのように自覚していたようなふしもあるではないか。(ここで内井惣七が『ライプニッツの情報物理学』で示唆しているモナドロジーと音楽の類比を思い浮かべてもいいだろう。結局のところあの「変てこなお年寄り」の無為な営みは、オートマトンの働きとして抽象化できるのではなかろうか。)

 創作に関するブルックナーの認識を窺わせる証言として、1890年頃、クロスターノイブルクの司祭ヨーゼフ・クルーガーに語ったとされる以下のものがあるが、彼はそこで自分「の」作品が、神から与えられた才能に負うているとはっきり述べている。

「連中は私に、もっと違った風に書けと言いよる。むろんその気になればできんことはない。だが私にはそれが許されとらんのだ。主は何千人もの中から、かたじけなくも私を選ばれ、この才能を与えられた。いずれは私も主の御前で、申し開きをせにゃならん時が来る。だが私がほかの者の言いなりになったら、どの面下げて主の御前に立たれよう。」(田代, 上掲書, p.162)

更に上の証言を紹介した田代は「ある時彼はこうも言った」と続ける。

「私は自分の作品を主に負うている。主がこの才能を与えられたのだ。(…)私はこれからも書き続けねばならない。いつか裁きの庭に立つ時、主が私をつかまえて、「このろくでなしめが、お前に授かった賜物をなぜ存分に使わなんだ」となじられることのないように。」(同書, 同頁)

 テ・デウムを神に捧げたのはそのことへの感謝の証だったし、それ故に彼は音楽を創り「続けなくてはならない」と感じていた。それが神からの贈与に対する義務だから。 そして彼は、自分の作品が受容されることを望み、拒絶に対して深く、神経を病むほどに傷ついた。けれども、にも関わらず彼は、どこかで自分の営みの「無益さ」を認識していたのでは ないだろうか。宗教音楽ならぬ「交響曲」はその「無益さ」に見合った容れ物だったのではないか。いずれにしても彼にとっては「創り続けること」が問題だった。

 だとしたら「ブルックナー・オートマトン」の構成要件として、それが「絶対的他者」との「対話」を行いうるような構造、つまり最低でもセカンドオーダー・サイバネティクス以上の構造を、「自己」を備えているという条件が課せられることになろう。勿論、より低次のオートマトンが偶然にそっくりの音響の系列を生み出すことはあり得るかも知れないが、現実にそれが実現する可能性は皆無に近く、「ブルックナー・オートマトン」自体の出力を己の入力とするという「反則」を前提としてもなお未だ困難であろう。だが差異はそれに留まらない。そのオートマトンは「老い」ることができなくてはならず、その「老い」が作品の創作という動作に何某かフィードバックされることなくして第9交響曲のような作品は成立しえない。そして「老い」を今日のシステム論的に捉えるならば、以下のようになることを思い起こしてみるべきなのだ。

「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)

 第9交響曲の長くて未完の創作史は、上記引用における「変移と崩壊」の過程、即ち病と衰弱との戦いでもあったが、それでもなお、先に確認した言葉を違えることなく、神が彼をこの世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。 彼にとっては最後の審判の時に、授けられた能力を充分に用いなかった怠慢を神に咎められることの方がよほど気にかかることだったに違いない。 そして第9交響曲は、有限の生命を持つ個体の「老い」のプロセスの中において初めて垣間見ることができる風景を定着させた稀有の事例となった。それは他の事例にあるような、創作力の頂点で突然訪れた病や死によって遺された未完成作品と異なって、「老い」そのものを素材とし、その時間性を音楽化したものであるとすら言い得るように思われる。

 そのような了解に立った時、まず思いつくのは、それがアドルノが後期のベートーヴェンやマーラーについて言及する「晩年様式」に該当するかどうかであろう。その問いは直ちに、大作曲家の多くがそうであるような、若き日より「神童」として作品を生み出したわけではなく、長い修行期間を経た後にようやく作曲活動を本格化させたブルックナーにおいて、「円熟」が何時達成され、更に何時から「晩年」が始まったのかという問いに繋がるだろうが、ここではそうした問いを迂回して、作曲者の人生における「老い」にまずは注目して、第9交響曲こそが「老い」に関わる作品であることを最初に確認したのだった。その際に触れたように、作品の内容面から、第8交響曲と第9交響曲を「死に憑かれた」作品として一括りにする見解もあるわけだが、様式的に見た場合に同じ結論に達するかと言う問いに対しては、私ははっきりと否であると思うし、典型的に合致するとまでは言えなくとも、アドルノの言う「晩年様式」の特徴のうち幾つかの面は、まさにブルックナーの第9交響曲についても該当するのではないかと考える。

「大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。それらは一般に円熟しているというより、切り刻まれ、引き裂かれてさえいる。おおむね甘みを欠き、渋く、棘があるために、ただ賞味さえすればよいというわけにはいかない。そこには古典主義の美学がつねづね芸術作品に要求している調和がすべて欠けており、成長のそれより、歴史の痕跡がより多くそこににじみ出ている。」(アドルノ, 『楽興の時』, 三光長治・川村二郎訳, 白水社, 新装版1994, p.15)

 人によっては第9交響曲が上記の特徴を備えているという見解には異論もあるかも知れないが、私見では、第7交響曲と第8交響曲こそが壮年期の均衡と調和に満たされた「円熟」と形容するに相応しい作品であるのに対して(それ故特に第8交響曲は第7交響曲の「二番煎じ」であるという批判さえ受けたのだと思うが)、第9交響曲はそこから更に一歩踏み出して、別の領域に足を踏み入れていることは、例えば巨視的な楽式上の革新からも、用いられている和声の斬新さからも明らかであるように思われるし、とりわけでもフィナーレの補作から垣間見られる特異な相貌は、寧ろ上記のアドルノの「晩年様式」の特徴づけを踏まえれば納得がいくものに感じられさえするのである。実は上記引用の後には「世上の見解」が示され、それをアドルノは覆していくのだが、ややもすればその「世上の見解」にこそフィナーレ草稿の状況ぴったり合致しそうに見えることさえも含めて、第9交響曲に「晩年様式」を認めることを肯ずることを促すかのようだ。だがアドルノの「晩年様式」を適用することの妥当性を論じることはここでの議論にとっては副次的なものに過ぎない。とりわけてもアドルノがベートーヴェンのそれについて論じる時、そこで掲げられる特徴のどれがベートーヴェンという個別の事例に固有のものであり、どれが一般的なものなのかは、例えばマーラーのそれを論じる時との比較をしてみれば簡単に決することができないように思われる。ベートーヴェンを論じる時には参照されることがなく(厳密を期するなら、「老ゲーテ」には「老シュティフター」ともども言及されるのだが…)、だがマーラーを論じる時には中心的な位置を占めるゲーテの「現象から身を退く」という言葉はジンメルのゲーテ論に依拠するもののようだが、逆に遡ってそれをジンメルが語っている文脈を確認するならば、人間的にはおよそ「成熟」とは無縁だったように見えるブルックナーにおいてすら、その作品について言えば、まさに第9交響曲において、ジンメルの述べた事態が実現していると見做し得るのではなかろうか?

「青年期にあつては主観的無形式は、歴史的乃至理念的に豫存する形式内に収容さるゝ必要がある。主観的無形式は此の形式に依って一客観相たるべく発展されるのである。けれども、老齢に於ては、偉大な創造的人物は―予は茲で勿論純粋の原理、理想に就いて述べるが―自己内に、自己自らに形式を具へてゐる。即ち、今や<絶対に彼自らのものである形式>を所有する。彼の主観は、時間空間に於ける規定が内外共に我々に添加する一切を無視すると共に、謂はゞ彼の主観性を離脱し了つたのである。-即ち、已に述べたゲーテの老齢の定義にいふ「現象からの漸次の退去」である。」(ジムメル『ゲーテ』, 木村謹治訳, 1949, 桜井書店, 第8章 発展 p.383~384)

 この音楽に一体人は何を見出すのだろう。或る種のdetachmentがあるのは確実だ。だが、それを単純に「天国的」という言葉で言ってしまっていいものか。 とりわけ未完成に終わったフィナーレを踏まえて完成された楽章を聴いたとき、その音楽は、寧ろ、作曲者自身が手探りで進むしかない、 全くの未聞の領域に踏み込んでいたのでは、という感じの方が強い。例えば第1楽章のコーダにおいて、音楽が一体どこで鳴っているのか、その経過の主体が何であるのかを適切にいうことは未だ私にはできない。 あるいは第2楽章の響く空間が、現実のどこかにあるとは思えない一方で、それが一個人の内面であるとも思えない。第3楽章もまた、この光に包まれた 風景が一体どこなのかを表現する言葉を持たない。「天国的」「神秘的」「宇宙的」などといった言葉はこうした音楽を前にしては陳腐で、最早なにも 言っていないに等しい。それは超越的なものとでも呼ぶほかのない、他者の息吹に充ちているのは確かだが、これが「愛する神」への語りかけなのだろうか。 いや、語りかける「私」が一体どこいるというのか。これはまだ、「意識の音楽」なのだろうか?「意識の音楽」はここで極限に達する。これはそのままの 姿では通り過ぎることの出来ない門に似ているように思われる。ここでのdetachmentの何とあてどの なく、よるべのないことか。別段標題的な要素を持ち出す必要はないのだが、それでもなおここには或る種の危機が刻印されているという感じは否定し難い。 その様態をもし「祈り」と呼ぶのであれば、ここには第8交響曲には窺えた意志的な闘争はもはやなく、 「祈り」の受動性があるばかりなのだが、その様態に対応して響いてくる音楽には、祈る者が抱いている不安がこだましているように思えてならない。

 人によってはこの音楽の―とりわけフィナーレ断片の―異様な相貌に、自己の有限性に直面した作曲家が闘うことになった「不安」や「懐疑」の痕跡を 見出すようだ。ここにあるのが同時代の知性が抱くことを謂わば宿命づけられた近代的な「懐疑」と同質のものなのかどうかについては、私はまだ確信をもって言うことができそうにないが、作曲者が個体としての限界に 向き合った時に、その信仰が素朴で無媒介であったがゆえに、作曲者の心の中で自己の有限性がどのように捉えられていたのか、 そうした問いかけをしたくなるような凄みがこの音楽にはあるのは確かなことに思われる。ブルックナーはこの曲を「神」に捧げるといったと伝えられるが、それは祈りの「ための」音楽を書くという意味ではないだろう。 ここでは音楽は瞑想の道具ではないし、音楽によって永遠の瞬間を定着させようなどといった 「意図」の賢しらさとは、この音楽は全く無縁なのだ。

 田代はブルックナーの音楽を「非人間的な音楽であり、いわば「木石の音楽」である。」(田代, 上掲書, 序, p.vii)と規定し、「ブルックナーの音楽を輪切りにすれば、赤い血のかわりに岩や氷がごろごろと転がり出る。」(ibid.)と述べていて、私も基本的にその見解に賛成なのだが、その一方で第9交響曲に限って言えば、完成した3楽章でさえも「木石の音楽」と言い切ってしまうわけには行かないものを感じずにはいられない。そこには祈りの主体の姿が存在するように感じるのだ。更にフィナーレに至って、特に初期のブルックナーにおいては堅固なものであった生活世界のローカリティのようなものが全く欠落してしまったように思われる。それでも最初の3楽章ではまだ見えたこの世ならぬ光に満ち溢れた風景すら、ここに至って消え去ってしまったかのようなのだ。

 第9交響曲に関する限り、私は吉田秀和の言葉には共感できるものが多いと感じているが、彼がアダージョの冒頭主題について指摘する「短9度の跳躍で始まるという異常な主題の提示にのぞきみられる不安と悲しみの表情」(吉田秀和, 「交響曲第九番」,『吉田秀和作曲家論集1 ブルックナー・マーラー』所収, p.107)すら、このフィナーレには欠けているように私には思える。それともこれは「老い」とそれによる「衰弱」の産物であり、未完成故に、「本来あるべき姿」ではないのだろうか?最早止まりかけた、いつ止まってもおかしくないオートマトンのエラー混じりの最後の不安定な動作の産物なのだろうか?

 絶対者の前に一人祈る単独者ゆえのもの、と一般的にはなるのだろうが、私がそこに感じるのは、先行する3楽章にも優る、普通には寂しさとか孤独感と呼ばれるものに近い寄る辺なさ、しんとした静寂のようなものだ。人間的なものからはかけ離れた、門の向こう側の生きたまま人間が覗き見ることができない風景が、何かの間違いでこの世に映り込んでいるような感じとでも言えばいいのだろうか。恐らくは全く別のところで「回心」後のデュパルクが晩年の沈黙のなかで手探りをしたあの道程が、ここでは奇跡的に音楽として定着されているのではないか。 相転移の向こう側の、常には沈黙が支配する領域が、何かの間違いでこちら側に音楽として結晶してしまったような、そうした感じを受けるのだ。

 自己放棄の弁証法は、ここに至って停止してしまっている、あるいは止揚は時間の外に延期されてしまい、実現しないのではないだろうかという感じを 否定するのは難しい。繰り返しになるが、シェーンベルクがマーラーの第9交響曲について言った「限界」は、寧ろ、ブルックナーの第9交響曲の アダージョとフィナーレの間に広がっていたのではないかと思われてならない。

 そしてそれは「老い」のプロセスの中を通過すること無しには生じ得なかったのではないかという感じを否み難く持つのである。勿論「老い」は必要条件に過ぎず、そうした閃きは決して「ただ」ではやってこない。後世の人にすら30年間同じことをずっとやっていると嘲笑われるような長い時間がその「閃き」を 可能にしたのに違いないのだ。結果を漫然と聴く人間はしばしば聞き流してしまいさえするのだが、 ブルックナーがそれまでの作品で辿ってきたプロセスを思い浮かべるとき、一例に過ぎないが、第1楽章コーダでの空虚5度、あるいは 第2楽章スケルツォの主部よりも早いトリオ、第3楽章の不思議な光を放つ和音、そして3楽章通してあちらこちらに響きわたる不協和音(その頂点は、第3楽章練習番号Uに至るまでの箇所のそれだろう)が、どれもこれも全くのオリジナルな 「結論」であることに驚愕せざるを得ない。ありていにいって奇跡の連続のような音楽ではないか。こうした音楽に対して 一体どのようなフィナーレが可能だというのか。

 だからそれらの達成を僥倖と呼ぶのは間違っている。その一方でその「閃き」はトルンスタムの言う「老年的超越」が可能にするdetachmentともまた不可分に違いなく、一定の期間一定の労力をかければ確実に得られる対価の如きものではない。更に言えば、ブルックナー自身にもその自覚はあったようなのだが、 それは「誰のもとにも」起きることでもないのだ。既述の能力と技術の問題もそうだが、それだけではない。「老年的超越」もまた、全ての人に必ず生じるものでもなければ、ある年齢に達したら自動的に生じるものでもなく、時として年齢とは関係なくその境地に到達する人さえいるとされている点を想起されたい。ここでは「変てこなお年寄り」であるブルックナーその人のアナクロニックと言うべき「変てこ」さ=特異性が寄与しているかも知れないのである。そして自分にはそれが起きることを知っていればこそ、彼は作曲を止めなかった。それは神からの授かり物で あって、決してぞんざいに扱ってはならないものだから。おそらくブルックナーは日々刻苦しつつ、やはりフィナーレにおいても「待っていた」のだろうと思う。 それがこの世においては最後まで到来しないかも知れないという予感を持ちながら。トルンスタムは「基本的に、青年期以降の老年的超越へと向かうプロセスは、一生涯連綿と続いていくものであると仮定することができるだろう。」(トーンスタム『老年的超越』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, p.41)と述べているが、してみればそのプロセスは一見そう取られてしまうような「悟り=覚り」ではなく、寧ろ「他者」との開かれた、終わりなき「対話」の如きものであろう。ここで「終わりなき」というのは、比喩や誇張などではない。その対話のプロセスが文字通りに「終わりなき」ものであるとしたら、作品の完成は構造上「生」の連続性の側には存在しないことになり、仮に「生」が限りなく引延ばされたとしても、その分「完成」の地点もまた、先に繰り延べられることになる。勿論、先行する楽章がそうであったように、一旦、総譜が完成し、日付が書き込まれることはあったかも知れないとして、再点検が終わって全曲の完成が宣言されることがありえただろうか。「老い」と「死」についての標題音楽などではなく、部分的には作曲する主体の「生との別れ」を含む「音楽的遺言」としての性質を持つとしても、それのみに留まるものはでない、「変移と崩壊」の時間性自体が定着されているシミュレーション結果としてのそれは、結果的に、有限の生命を運命づけられた生物の或る個体の上で、構造的に一度切りしか実現しないようなものなのではないか。そしてブルックナーの最晩年の作曲の営みというのは、まさにそのようなトポロジーを備えたものではなかったかと思えてならないのである。(2023.6.7)