2025年6月19日木曜日

ヴィチェスラフ・ノヴァーク

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。ここではそのことの分析を繰り返すことはしないが、そうした指摘に対して、CDが店頭で販売されるものから、インターネットを通じて購入できるものになったことは、そうした傾向を更に推し進める役割を果たしたことを付言することはできるだろう。

 例えば、極東の地方都市に生まれ育った人間が接することのできる演奏会の数を考えた時、いわゆる「名曲」がほとんどを占める演奏頻度のグラフのロングテイルの末端にようやく登場するような作曲家の作品に接することのできる確率は極めて低いものとなるのは避けがたく、CDという媒体に記録され、複製された流通することによってようやく接することができた作品を挙げたしたら切りがない。というより、結局、コンサートに行くだけの余裕がない私のような人間にとって、「音楽」は生演奏で接するものではなく、録音された媒体の再生によって接するものであるというのは紛れもない事実であり、寧ろ実演に接した作品は、全体の中のほんの一部を占めるに過ぎないのである。

 更に時代は移ろって、今やCDという物理媒体に記録された形で流通する形態から、各種のデータフォーマットの規格に準拠したファイルをダウンロードしたり、ストリーミングで再生したりといった形態が普通になっていて、そうした更なる変化が一層その傾向を助長している側面があるであろうことは理屈の上で当然だろうし、体感としても疑いないように思われる。そればかりか、今や腕に自信がある人であれば、コンサートを開かなくても、自分の気に入った曲を自分で演奏したものを公開してシェアすることさえ可能になっているのだが、ではそのことが「取り残された」作曲家の作品に接することに与える影響は?ということにフォーカスしてみると、影響があること自体は確実に言い得たとして、同時代に生み出され、演奏され、消費される音楽へのインパクトに比べた時、その影響は限定的で、CD普及の時期の変化には遥かに及ばないように感じられる。恐らく確実に言えることは、原理的な水準はさておき、事実上、ファイルのダウンロードやストリーミングという手段は、ライブの代補、リアルタイムな共有の代補という側面が強く永続性に欠けていて、寧ろ送り手と受け手の同時性を前提とせず、時間的な隔たりを通り抜けることができる「投壜通信」の媒体としては、CDのような物理的媒体の方が優っているのではなかろうか。

 ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。とはいえ、レーベルはLPレコード時代からお馴染のチェコのレーベル、スプラフォン。スプラフォンがCDを最初に製作したのは実は日本でのようで、1984年のことのようだが、そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。ちなみにまとまってリリースされたCDでその時に接することのできた『南ボヘミア組曲』以外の作品としては、初期のイ短調のピアノ四重奏曲(op.12)とト長調の弦楽四重奏曲(op.22)、おそらくノヴァークの音楽で最も人口に膾炙していると思われる『スロヴァツコ組曲』Slovácká svita, op.32(一般に流布する邦訳タイトルは不正確で、これはモラヴィアとスロヴァキアにまたがるスロヴァツコ地方に取材した作品である)に加え、2曲のバレー・パントマイムのための音楽(『ニコティナ』Nikotina, op.69,『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』Signorina Gioventu, op.58)があったと記憶する。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできる(例えば、この文章で後程参照することになる、INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK の Official Webが代表的なものとして挙げられよう)とはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、上記の作品中だと2曲のバレー音楽がそうであるようにフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、その後他のレーベルのCDで接することができた交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのは既述の通り、もともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。

 更に後年のマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。その彼がハンブルクに移って親交を結んだのは、くだんのボヘミア楽派の一人である作曲家・批評家のフェルステル(ちなみに妻のベルタはフェルスター=ラウテラーの名で知られたオペラ歌手であり、マーラーの下で歌ったこともあった)であり、彼には自分がボヘミア生まれであって、チェコ語を話せることをアピールしたようだ。何より興味を惹かれるのは、マーラーがウィーンの宮廷=王室歌劇場の監督を勤めていた時代に、スメタナのオペラ『ダリボル』Dalibor (1868) を1892年に取り上げたことで、15世紀末のプロスコヴィツェでの反乱に参加した騎士ダリボルの物語が、マーラーが得意とする『フィデリオ』と筋書きにおいて類似していることや、ワグナーの影響が顕著な音楽を持つことから、チェコで物議を醸したのと逆にウィーンでは取り上げやすかったのかも知れないが、当時の状況を考えるに、チェコの伝説に基づく歌劇を帝国の首都で取り上げることは何某かの政治的な意味合いを帯びてしまうことが避けられたなったであろうことを思えば、マーラーのこの作品への愛着がひとしおであったことが窺える。だがオペラ指揮者マーラーのお気に入り、十八番ということであれば『売られた花嫁』Prodaná nevěstaを挙げない訳にはいかないだろう。ローカル色豊かなこの作品は、オーストリア=ハンガリー帝国内では人気があり、それは今日に至るまでドイツ語によるこのオペラの上演が引きも切らない点にも窺える一方で、例えばアメリカでは受け入れられなかったらしいのだが、晩年のマーラーがニューヨークで上演した演目の一つとして『売られた花嫁』が含まれていて、マーラーの熱の入れようはアルマが回想でわざわざ記している程であって、こちらもまたこのチェコの国民的オペラへのマーラーの愛着を窺い知ることができるように思う。一方マーラーはドヴォルザークの交響曲をあまり評価していなかったらしいが、交響詩については別であり、『野鳩』Holoubek,op.110を取り上げている他、『英雄の歌』Píseň bohatýrská, op.111については初演者として名を残している。初演ということであれば、既述のフェルステルの第3交響曲の初演もまた、マーラーがタクトをとっている。

 彼が指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したのだが、彼の微分音音楽の実践を支持したのは、理論上で微分音音楽の可能性を示唆したブゾーニである。そしてブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは、出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。例えば中学生の私は合唱部に属していたが、(まさか当時私のマーラーへの熱中がその原因とも思えないので)どういう経緯でかコンクールの舞台で合唱指揮をすることになり、その時に選ばれたのが(というからには私が主体的に選曲する自由は与えられておらず、私に合唱指揮をするよう指示した教師による選曲だったのだが)スメタナの『モルダウ』を合唱用に短くアレンジしたものだった。後の私は、既述の「ビロード革命」後の「プラハの春」音楽祭での『我が祖国』に接したことが直接的なきっかけで、それまで腑に落ちなかった「国民楽派」の音楽に漸く自分なりの実感をもって接することができるようになるのだが、中学生の私はそうした思いを抱くこともなく、情けないことには『我が祖国』全曲を聴くことすらない儘、辛うじて原曲の交響詩『モルダウ』のみに接した限りで自分なりの解釈をもってコンクール本番に臨んだのであった。中学生の合唱部で中学生自身に指揮をさせることが珍しかったためか、偶々そのコンクールに審査員として立ち会っていたらしい作曲家の中田喜直さんが、中学生ながらそれなりの解釈を施しての指揮であったことを評価して下さり、指揮の勉強を続けるようにとの言葉を下さったというのを後日、音楽教師の伝言経由で聞いたのだったが、特段音楽的な環境にいるわけでもない地方都市に住む平凡な中学生にとって、間接的にであれ受け取った高名な(中学の音楽の教科書に必ず載っている合唱曲の作曲家だったから勿論、名前を知らない筈はない)作曲家の言葉は、自分の生きているちっぽけな生活世界の中でリアリティを持つことはなく、後に苦々しい思いとともに思い起こすエピソードの一齣となる他なかった。とまれ偶然の産物とはいえ、ここでもチェコの音楽との例外的な接触があって、私がマーラーへの熱中の背後で後年ノヴァークに出会うことになる背景を形成したことは間違いない。

 更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。この辺りの経緯は以下のノヴァークの作品と遺産の普及を目的とした協会のWebサイトの記事に語ってもらうのが適切だろう。

On the one hand, at the age of 60, he finally visited his hometown of Kamenice nad Lipou in 1930, and then he realized, as a subjectivist-based artist, his debt to his native region and to South Bohemia in general, where he liked to go. He created the South Bohemian Suite evoking a region of forests, ponds and a captivating pastoral with the catharsis of a quasi-quotation of the hymn at the end of the finale. The piece is also notable for its inventive change of titles to a Hussite chant in the third movement, which contrasts with the first two, which are naturally partially lyrically impressive.

(INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK - Official Web, VÍTĚZSLAV NOVÁK - Life and Work by Prof. PhDr. Miloš Schnierer, co-founder and long-time secretary of the V. Novák Society and chairman of the International V. Novák Society in 2007-2016. : https://www.vitezslavnovak.cz/zivot-a-dilo/d-1015/p1=1024)

 引用の末尾には、私が既にこの作品独自の特質として挙げたユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収で、スメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比についての指摘も見ることができ、この記述を偶々目にした折には我が意を得たりという思いを強くしたものである。と当時に、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更に第三次的なテクノロジーに補綴された把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。だが寧ろ、今やそのことをこうして確認したからには、かつての自分がノヴァークから明確に離れたという訳ではないにせよ、その後再びマーラーに立ち戻ったように、今度はマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。であるとするならば、私にとってノヴァークは「老い」について考えることに、それとなく誘ってくれた存在ということになるだろう。それ故そのことについての感謝の気持ちを込めて、ここで彼からの贈与に対する応答であるこの文章を結ぶこととしたい。

(2022.11.26 公開, 2024.12.23改稿, 2025.6.18 再公開)

2025年6月8日日曜日

アルベリク・マニャール

  録音・再生技術の発達とネットワークを介した流通の恩恵の一つに、通常、コンサート等で良く取り上げられる有名な作曲家の有名な作品以外に接する機会が増えたことがあるだろう。それは勿論、同時代の作品についても言えることだが、過去の、いわゆる忘れられた作曲家の再発見の機会が飛躍的に拡大したのは間違いあるまい。かつて永らく、そうした作品は楽譜を介して接する他なかったし、レコードやCDが普及しても、流通経路が限定されていた時代には、録音は着実に蓄積され、レパートリーは着実に増大していたであろうが、それに接する機会は遥かに限定されたものであった。今日では、かつては名前すら知らなかった作曲家、名のみ知られてもその作品に接することができなかった作曲家、コンサートのレパートリーに辛うじて残った極一部の作品しか知ることのできなかった作曲家の作品、或いは音楽史の年表に載るような有名な一部の作曲家の場合でも、膨大な作品のうちコンサートで取り上げられる頻度の低かった作品を知ることができるようになっていて、その恩恵は計り知れないものがあると感じられる。

 音楽史の年表に載るか否か、コンサートのレパートリーとして残るか否かが如何にして決まるかには様々な要因があって、勿論概ね、そうした社会的・集団的なレベルでの文化的淘汰の結果というのはそれなりの理由づけが可能な場合が多いだろうが、文化的生態系のニッチを占めて淘汰を逃れて生き延びることができるかどうかについていえば、少なくともモデルとなった生物学的な進化においてそうである程度には偶然が介在するものであろう。ある時期のちょっとした環境的条件、出来事の生じる順序のわずかなずれが、「バタフライ効果」と呼ばれるカオス力学系固有の挙動を引き起こす。音楽の場合には第一義的には演奏されることが伝承の条件だが、こと西洋音楽においては高度な記譜法のシステムが確立されたから、楽譜を媒介とした伝承というのが可能であるが(それがなければ演奏による継承が一旦喪われてしまった作品、或いはそもそもが演奏の機会がない作品が、時を経て(再)発見され、リバイバルすること自体が不可能である)、かつては来たるべき演奏の機会を待っている、いわば潜勢態のレベルにあったものが、近年の「忘れられた作曲家」「知られざる作曲家」の作品のCDを媒体とした、或いはネットワークを介した流通によって、作品が歴史に刻まれるためには一度演奏されるだけではなく演奏が反復される必要があるという条件もひっくるめて(CDにコピーされてであれ、直接各種のファイルフォーマットの形で交換されるのであれ、それらは反復して聴かれる可能性を潜在的に備えていて、もし誰かがそれを再生したならば、それは常に既に二回目であって、反復が成立したと見做しうる形式的な条件は満たしていることになるので)乗り越えることが可能となったかにさえ見える。

 アルベリク・マニャールはヴァンサン・ダンディに師事し、ギイ・ロパルツと親しく、スコラ・カントゥルムで教鞭をとるなど、人的交流の面からフランキストの一員として分類されることが多いようだが、フランキストは(セザール・フランク自身も含めても良いように思うが)第二次世界大戦前、或いは戦後しばらくまでの時期と比べると、その後すっかり凋落してしまった感があって、これは単なる感覚的なものだが、私の子供の頃にはそれでもなお一定の位置を占めていたものが、この30~40年の裡に忘却の淵に追いやられつつあるような印象さえ覚える程である。そしてそうしたフランキストの中でもダンディやショーソン、デュパルク、ヴィエルヌといった第一世代はそれでも辛うじて名前を知っていたのに対し、マニャールは永らく私にとっては未知の存在であった。同時代的には前衛の側、今日から見れば主流となったドビュッシーやラヴェルの周辺の作曲家達、或いはメシアンへの繋がるカテドラル・オルガニスト=作曲家の系譜の作曲家達(こちらにはフランク自身も含めて、フランキストの一部も含まれることなるが)に比べてもなお、同時代的に既に守旧派的に分類されてしまえば、その後の忘却の度合いが著しいのも仕方ないのかも知れない。例えばヴィエルヌの作品の全貌が広く知られるようになったのは極く近年のことだと思うが、彼のオルガン曲やミサ曲は、上記のような凋落とは無関係に、確固たる地位を占め続けて来たように見えるのに対し、そうした場を持たないマニャールの音楽は、コンサートホールやオペラハウスで取り上げられない以上、実質的には忘れ去られていたと言うべきなのだろう。

 だがマニャールの場合には、彼自身の気質やその気質が反映された作品の性格が、その忘却に与かった面も否定できないだろう。私がマニャールの名前を知ったのは、恐らくはジャンケレヴィッチの著作を通してであったのだが、いわば通りすがりに言及されたに過ぎない『音楽と筆舌に尽くせないもの』での参照(邦訳ではp.121とそれへのp.130の注釈)は措いて、実質的な言及のある『仕事と日々・夢想と夜々』におけるジャンケレヴィッチによる以下のような性格付けは、それが妥当であるとしたらそのことによってまさに忘却の理由の一端を説明しているという見方が可能だろう。

(…)フランスでは、峻厳な音楽家たちもほかの人びとと共に甘美の大祭典を祝い、いまだに音響の歓喜が歌うにまかせ、いまだに音色、ハーモニーそしてひそかな充全の幸福に身を委ねる。デオダ・ド・セヴラックと同じようにルーセルも、ルイ・オーベールやポール・ル・フレムと同じようにマニャールも…。私の愛する音楽は誇示癖がない。ここにすべてが仮面とヴェールで覆われている一頁がある。すべてが半濃淡で薄明りだ。これがフランス流の《熱情をこめて》だ。(…)

ジャンケレヴィッチ『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1982)、pp.298-99

この文章でマニャールと同格の位置に置かれているのはルーセルだが、同じダンディの弟子ではあっても、ルーセルは今日、マニャールとの比較においては遥かに著名な作曲家だろうし(寧ろフランキストの流れに属している事実の方が忘れられがちなくらいであろう)、その作品は今日のコンサート・レパートリーの中に確固とした地位を占めているのは誰の目にも明らかなことだろう(例えばアマチュア・オーケストラの情報サイトであるi-amabileの演奏会履歴を見れば、それは一目瞭然であろう)。オーベールやル・フレムが引き合いに出されている理由は措くとして(ちなみにマニャールに師事しているのはド・セヴラックの方である)、オーベールを除けばいずれもダンディ=スコラ・カントゥルムの人脈である点と、ルーセルを除けば、際立って中央集権的なフランスにあってパリを根拠にするのではなく、何れも地方に拠点を置いて活動をした点を挙げるべきだろうか。ジャンケレヴィッチの用いる「峻厳な」という形容と「誇示癖がない」という形容もまた、そうした点と相関する面もあろうが、ともあれ上記のジャンケレヴィッチの言葉は、マニャールの音楽がそれを知る決して多くはないであろう人間にどのように受け止められているかを物語る例にはなるであろうし、同時に忘却の原因の一端を示唆していることにもなるのではなかろうか。

 外面的な事実を挙げるなら、マニャールの名はパリ16区の通りの名前として記念されているという点を指摘しておくべきかも知れない。興味深いのは、それがパッシーと呼ばれてきた高級住宅街に位置していることよりも、その命名の由来の方であって、実はもともとは1904年の開設以来(途中1923年に延伸されたが)、当時流行の作曲家であったワグナーの名を冠していた通りの名前がマニャールの名を冠するようになったは戦間期の1927年のこと、敵国であったドイツの文化的アイコンであるワグナーの替りにマニャールが選ばれたのは、彼の死にまつわるエピソード、つまり第一次世界大戦時に、侵入してきたドイツ軍に対して屋敷に立て籠もって戦い、屋敷ごと焼かれて死亡したという事実によるらしい。焼き払われた後廃墟となった屋敷の写真は、今ならインターネットを介して見ることができるが、それが絵葉書の写真に選ばれたこともまた、通りの改名と同様の事情があったと考えるべきであろう。ベートーヴェンを尊敬し、ワグナーの影響が明確なその音楽にも関わらず、ここではマニャールには「愛国者」としてのコノテーションが付き纏っているようなのだ。

 ところがマニャールその人の生の軌跡を辿る限りでは、彼は寧ろ、同時代の形容では「進歩的」と形容されたであろう思想の持ち主のようである。それは彼の作品にも刻印されていて、最も著名なのは、ドレフュス事件に因んでドレフュス派の立場で書かれた管弦楽曲「正義への讃歌」op.14であろう(ちなみにダンディは反ドレフュス派だった)。それ以外にも彼の作品の頂点を為す第4交響曲op.21が女性によるオーケストラ(l'Orchestre de l'Union des femmes professeurs et compositeurs )に献呈されていたりもする。その音楽の同時代において既に時代遅れと受け止められたかも知れない保守性と、こうした作曲者の思想的な進歩性との間に或る種の不整合を見出す向きがあっても不思議はなかろう。

 要するに「仮面とヴェールで覆われている」かどうか、「半薄明で薄明り」の裡にあるかどうかはともなく(私は個人的には、ことマニャールの音楽に対してはこのジャンケレヴィッチの形容は適当とは思わないが)、マニャールが置かれた状況というのは、マニャールの人と作品が寧ろくっきりとした明確な輪郭(それを「峻厳」と呼べば呼べるだろう)を帯びているにも関わらず、錯綜としているようなのである。

 因みに「誇示癖のなさ」の方は(上記の文脈ではジャンケレヴィッチは明らかに音楽について語っているので、それをあえて意図的に捻じ曲げて言うことなるが)確かにその通りであって、彼は社交的な人間ではなかったし、(これまたベートーヴェンを思わせるが)ある時期以降は難聴に悩まされて引きこもりがちであった上に、自己批判が非常に厳しく、創作に対する姿勢は、こちらはまさに「峻厳」と形容するに相応しいものであったようだ。作品の多くは自費出版、しかも初期の評価が定まらない時期のものがそうなのではなく、寧ろ中核的な作品群(作品8~20)がそうなのであって、それ故大手出版社の宣伝や販促活動の恩恵に浴することもなかった。というよりそれを拒絶したというべきで、そこにはフィガロ誌の編集主幹として著名であった父親の権威を結果としてであれ借りることへの反発が関わっていると見るのが自然だろう。(それが父親その人に対する反発ではなかったことは、「葬送の歌」op.9が父親への追憶のために書かれていることから窺える。)経済的にも彼は親に依存することを良しとせず、自立することを自らに課したようである。こんなことは、でも、音楽には関係ないと言うだろうか?一般論としては確かにその通りかも知れないし、そのようにすべきなのかも知れない。だが、ことマニャールに関して言えば、マーラーのような意味合いで作品を自伝的に読むことが可能であるという訳ではなくても、なぜこのような肌触りの作品群が遺されたのか(ちなみに上記の経緯で屋敷の消失により手元に存在したかも知れない草稿の多くが灰燼に帰した結果、彼の死後に遺された作品は、作品番号にして20をようやく超えるに過ぎない)を知ろうとするならば、作曲者のそうした気質の反映をそこに見るのは避け難い。何なら作品が産み出される環境の一部として作者を捉えても構わないが、いずれにせよマニャールその人の個性が作品に刻印されていることは否定できないだろう。

 それでもなおマニャールその人は一先ず措いて、遺された作品の方はどうなのかと言えば、こちらもまた「誇示癖がない」という形容については妥当であると見る向きが大方のようである。管弦楽曲のみならず、室内楽もまた構想は雄大で書法は念入りであるけれど、所謂ケレンのようなものが無いというのも衆目の一致するところのようである。色彩感に欠ける訳でもないし、内面に閉じこもった「主観」の音楽では決してなく、外に向かって開かれているし、低回趣味というわけでもないのだけれども、何か「新しい」風景が垣間見える瞬間といったものには欠けている。独自性に欠けるわけではないのは、彼の作品の音調がフランキストの中でも異色のものであることから明らかだし、例えばワグナーの影響一つとっても、多くのフランキスト、或いはスクリャービンの中期作品とかにあからさまな、あの温度の高い、噎せ返るような甘美さとは無縁である。だが一方で、フランス音楽としては例外的と感じられる程に《熱情がこめ》られているのにも関わらず、規範を尊重するあまり、それを打ち破り、アドルノ風に「唯名論的」に下から上へと作曲する衝動というのは感じられないし、何か未聞の響きが、未知の風景が地平の彼方から到来するといった瞬間は、マニャールの音楽の中にはないようだ。理知的と言えば、これもまた「フランス性」の記号ということになるのかも知れないが、ここでは熱情は放恣に走ることなく、意志の力で、時代遅れと受け止められかねない形式の枠の中にきっちりと収められているかのようなのだ。

 しかしその結果として生みだされる、転調を繰り返しつつ緊張感を孕み、時としてどんどんと白熱していく旋律線、更に、しばしばそうした旋律が対位法的に絡み合うことで生じる強烈な推進力、その一方で、緩み切ることは決してなく、どこかに凛として張り詰めたところを残しつつ、緊張が一時緩んだ時に示す、しなやかで優美で、時として、どこか夢見勝ちな一面すら示すこともある旋律には、単なる時代の趣味や流行の様式を超えた、他ならぬマニャールその人の個人的な声が確かに聞き取れ、それは作品のほんの一部を聴いたたけで聴き手を捉えて離さない強い誘引力を持っている。(この点はダンディを介して、寧ろフランクに近接すると私には感じられるが、)控えめで、外面的な効果に背を向け、自己を顕示することはないけれど、にもかからわず強靭で、かつ人によってはそこに独善的なまでの頑なさを見出すであろうその音楽の強烈な個性は、聴き手を選ぶものなのかも知れない。その音楽持つ価値というのは、寧ろ同時代よりも、時代を隔ててはいても、その音楽に同調し、共鳴する身体を備えた聴き手に向けて海に投じられた投壜通信の如きものに感じられる。マニャール没後間もなく書かれた評伝的な著述(例えば、Maurice Boucher,  ALBÉRIC MAGNARD,  Editon de la maison des deux-collines, 1919、あるいは Gaston  Carraud, La vie, l'oeuvre et la mort d'Albéric Magnard (1865-1914), Rounrt,  Lerolle  et  Cie  Éditeurs, 1921)において、既にマニャールが同時代のフランスにおいても知られておらず、その音楽が人口に膾炙した存在ではないことをそろいもそろって述べていることは、そうした消息を告げているように思えてならないのである。

 だが、だからといって「進歩」に資することのなかった或る作曲家の作品が、それゆえに後世にとって最早「用済み」であって、忘却の彼方に消え去っても仕方ないし、そうなっても構わないという考えには私は全く同意できない。否、寧ろ、時を隔てて、場所を違えて作品が甦るとき、それがもともと置かれていた文脈においては読み取ることができなかった部分、光が当たらなかった側面がようやく明らかになるということがどうして起きないと言えるのか?勿論、アプリオリに定まる「本来の」文脈が存在するという訳ではない。今、ここを特権化することなどできない。だけれども、もともと同時代にあって既にアナクロニックであったものは、時を超えてではなく、時を潜り抜けて、それを必要とする聴き手に辿り着くのを待っていたということはないだろうか?私が何某かを主張できるとしたら、それは偏に、それを必要とし待ち望んでいた(しかもそうであることは事後的にしかわからない。ベルクソンは『思想と動くもの』の「緒論第1部」および「可能性と事象性」において、そうした逆行的、転倒的な時間性を作品の創造に関して述べたのであったが、それは作品の受容に関してもまた成り立つと考えることはできないだろうか)という点に存しているのだ。

 誰の壜を誰が拾うかはそれぞれで、そこにも偶然が大きく関与していることだろうが、様々な環境の要因の複合により、とにかくマニャールが遺した「投壜通信」を私は拾ったのだ。それは声高に自分の存在を主張しはしないし、低回趣味に徹して、「日常」(そこには天変地異であったり病苦や死といった出来事からの恢復の過程、「生き続ける」ことも含めるが)を乗り切るためのよすがに徹するわけでもなければ、地平の彼方からの何かの到来の記録というわけでもない。聴き手に対して語りかけたり、手を差し伸べたりするわけでもない。だけれども、それらのいずれかでなければ価値がないということにはならないのではないか。寧ろそれは「生きる事を学ぶ」ことを、語りかけるでも強制するでもなく、自らの挙措によって、受け取り手に対して密やかに示唆し、そっと促すような存在なのだ。それが「効果」という点で如何に限定されたものであったとしても、否、仮に、或る具体的な場合においては「効果」としては無であって、あってもなくても同じことのようにしか見えなかったとしても、その結果だけを見て、それを不要のものと決めつけることはすべきではないだろう。生物学的な適者生存を文化的・社会的な次元に不当に拡張して敷衍することの危険は、まさにマニャールの同時代に明らかになりつつあった。にも拘わらず、文化的・社会的な領域でも、進化論的な適者生存というのは、今や恰もそれが「原理」であるかの如き様相を呈しつつある。否、それは最終審級においては正しいのであろう。だけれどもそうならそうで、生存のための戦略は、一見してみてわかる進歩を、目先の効用を備えていることとばかり限ったわけではないだろう。生物の生態系でも思わぬところにニッチが広がって、粗視的には想像がつかないような多様性が存在し、まさにそのことが生態系を支えているということが起きる。ましてや文化的・社会的な領域では、そうしたニッチを許容しない(例えば、それが受け手にとって「不愉快である」という理由で、存在する場すら奪ってしまおうとする)立場は、結果的に生態系を脆弱にしているのである。

 否、そうしたことはマニャールの音楽に向き合うにあたっては、最終的には副次的な事柄に過ぎないのだろう。音楽の持つ、共感を引き出し、共鳴させ、新たな行動に誘う力は、その一方で極めて個別的なものであり、多くの人に受容されるそれが私のうちに共鳴を惹き起こすことを保証するものはないし、その一方で、話題になることもなく、それまで一度も聞いたことはなく、だがほんのふとした偶然から接して見れば、一度聞いただけで、その音楽の風景の中に、あたかもずっと見慣れた風景であるかのように寛ぐ自分を見出すことを妨げるものはない。そしてマニャールの音楽は、私にとってはまさに後者に属するものなのだ。「波長が合う」という言い方がされることもあるし、メタファーとして或る種の受容体(レセプター)のようなものを思い浮かべてもいいだろう。そうした受容体は多数あるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない、特定の形状の鍵でしか開けられない錠のようなものだという。だとすれば私は、自分でもそうと知ることなく、マニャールの音楽がやってくるのを待っていたのだというように考えることもできるのだろう。それは壜を拾ったものが、その壜に封じ込められた手紙の名宛人であるという、マンデリシュタムの「投壜通信」の定義にも一致するようだ。

 世界の片隅に、100年前の異郷の、稍もすれば見失われがちな音楽が存続する領域があるということの価値を信じて、私はマニャールの音楽に対して「ウィ」と言って、それを歓待することを選ぶ。この文章を綴り、公開することはそのことを行為遂行的に証しするためのものである。どうかその「歓待」が、ひどく貧しくて慎ましい、他人が見たら歓待などと呼ぶに値しないものであることについては許して欲しい。そしてそれは拾った壜に対する遅ればせの「返答」であって、それは全くそうしなくても同じことではない、見た目は区別がつかなくても、そうではない、ましてや逆効果になることは(そういう可能性が常にあることに対して目を背けるつもりはないけれど)ないと私は信じたい。否、単純に、その音楽が湛える佇まい、その音楽が浮かび上がらせる風景、その音楽が聴き手に働きかける力の大きさに聴き手は圧倒されることになる。そればかりではなく、その音楽が垣間見せる風景に、「現実」のどこにも見いだせなかった、そこで自分がほっと一息つき、安らい、或いはそれに同調することで己を解き放ち、精神の働きの自在さを恢復することのできる空間を発見することになる。そして、斯くも質の高い作品がほとんど知られることなく、その価値が認められていないことに驚き、何か不当なことであるかのように感じから逃れられなくなる。そして私はそのことを事実として証言することを選ぶ他なくなるのだ。私は密やかに、そっと小声で、しかし誇らかに証言する。私は確かに「投壜通信」を拾ったのだと。何故ならそれは、壜を拾ったものの責務だからだ。遥かに遅れて、遠くからであっても、応答すること、それを証言することによる他、自分がコミットする価値を自分を超えて存続させることに寄与することはできないからだ。

(2019.11.2-3初稿・公開, 2023.10.15加筆, 4.13 加筆, 2025.6.8 再公開)

2024年5月23日木曜日

ブラームスと老い:「間奏曲」について

 ブラームスに関して言えば、「老い」に関して語ることは、その生涯と作品を語るに際して、従来より常に行われてきたと言って良いかも知れない。手元にある日本語で書かれた評伝を繙いて見れば、ブラームスの「晩年」について、独立の章立てをして語られていることが容易に確認できる。尤もここでの「晩年」の定義を確認すると、必ずしも一致せず、著作毎に少しづつ異なることにも気づく。例えば私が子供の頃に比較的容易にアクセスできた文献の一つである門馬直美『大音楽家・人と作品 ブラームス』(音楽之友社, 1965)の生涯扁は5章立てで、最後の第5章は「晩秋の活動」と題されており、その中は更に3つに分かれて、それぞれ「みのり多き秋」「精力集中の晩年」「重苦しい晩年」と題されている。最初の節の冒頭で確認できるように第5章はブラームスが53歳の誕生日を迎えた1886年のトゥーンへの避暑から開始され、2番目の節は1889年から始まり、最後の節は1894年以降に充てられている。21世紀になってから刊行された西原稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』(音楽之友社, 2006)では、生涯扁は6章立てで、最後の第6章が「静寂の晩年(1894年~97年)」と題されていて、題名に明示されている通り、最後の4年間が対象となっているから、これは丁度、門馬『ブラームス』では、第5章の最後の節「重苦しい晩年」のみを「晩年」としているのであり、他方、門馬が第5章の開始とする1886年は、西原においては一つ前の章である「内なる声の探求(1886年~13年)」と題された第5章の開始と一致する。従ってずれと見えたものは「晩年」という言葉を使うか否かの選択に起因するものに過ぎず、どこを画期とするかに関して言えば、稍々細かく見れば必ずしもそこに不一致がある訳ではないことがわかる。

 『吉田秀和作曲家論集・5 ブラームス』(音楽之友社, 2002)はその後2019年に河出文庫に収められて入手が容易になったが、その中には1974年に書かれた100ページを超える評伝「ブラームス ーHe aged fast but died slowlyー」が含まれていて、題名が告げている通り、ここでもブラームスにおける「老い」は主要なモチーフとなっている。全体は章分けはされずに番号のみが付された16節よりなっているのだが、その中で「老い」についての言及がされるのは、第14節の末尾においてであり、それは以下のように結ばれるのである。

(…)58歳で、彼は自分をもうすでに人生の創造から隠退するにふさわしい老人とみなしたのである。 

 ブラームスは早く年をとった。とりたかった。しかし死はなかなかやってこなかった。とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, p.126)

無論のこと、これは評伝全体のタイトルに付されたHe aged fast but died slowlyのパラフレーズであり、従って、この評伝の全体の焦点はここにあると考えて良いだろう。そしてここではブラームスの「晩年」は58歳から始まったと考えられていると見てよいだろう。では一体ここでの「晩年」の開始を告げるものは何だったのかと言えば、それは明らかに、上記引用の直前で言及される遺書の作成という出来事であった。それは弦楽五重奏曲第2番(ト長調、作品111)の完成にあたっての難渋がきっかけとなったとされていて、その傍証として、マンディチェフスキー宛ての手紙が参照され、更に翌年(1891年)のイシュルでの遺書の作成に言及されるのである。

「私は、最近、交響曲を含めていろいろと手をつけてみたが、どれもうまく進まない。もう年をとりすぎたと思うから、骨の折れるようなものは、これ以上書くまいと決心した。私は一生勤勉に働いてきたし、やることはもう十分にしつくしたと思う。今は、人に迷惑をかけずにすむ年になったのだから、平安を楽しんでもよかろうと考える」

 これは一時の気まぐれではなかった。翌年第58回目の誕生日を同じイシュルで迎えた彼は、遺言状を書いて、それを楽譜出版社で彼の管財人のジムロック宛送った。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, pp.125-126)

そしてこの後に既に引用したこの節の結びの文章が来るのである。要するに、後世の人間がどのように彼の生涯を区切るにせよ、彼自身の行為として、1891年のイシュルでの遺書作成というのが自ずと画期しているという訳である。そしてブラームスに関して「老い」にフォーカスした時には、既に参照した二つの評伝の区分には拠らず、この所謂「イシュル遺書」を画期とするのが適当のように思われる。

 そして更にそれは「老い」の意識がその創作にどのように映り込んでいるかを確認する上でも妥当と思われる。なぜならば、何よりもまずブラームス本人の主観として、作品111の弦楽五重奏曲をもって「骨のおれる」大作の創作は終わりであり、その後の作品は、1曲毎の規模は小さく形式的にも簡素なピアノ作品を中心に、クラリネットのために書かれた室内楽を除けば、若干の声楽曲と最後の作品となったオルガンのためのコラール・プレリュード集よりなるからである。当然の反論として、ミュールフェルトとの出会いを契機として作られたクラリネット・トリオ、クラリネット五重奏曲、2つのクラリネットとピアノのためのソナタの存在を指摘し、なおかつ、吉田さんが「とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。」と記しているのも、まさにそれを踏まえたものであるという指摘があるだろう。だが、その指摘の妥当性を認めた上でなお、「イシュル遺書」以降のクラリネットのための室内楽は、それなりの規模を備えた作品であるとはいえ、分水嶺となった作品111がそうであるようにはシンフォニックな志向を持った作品ではないし、例えばクラリネット協奏曲のような管弦楽曲が書かれることはなかった(実際、ミュールフェルト宛の書簡に、協奏曲を書くほど自分は不遜ではないという言葉が残されているらしい。門馬1965, p.136参照)ことを以て、ブラームスが必ずしも全面的に前言撤回したという訳ではない、と主張することもまた、可能なように思われる。勿論、「イシュル遺書」の作成は、不連続な心境の不可逆な変容といった出来事ではなく、万事において周到であったブラームスらしく、今風には、「終活」を開始した、ということなのだろうが。また、ことブラームスの場合にあって作品番号は、概ね出版の順序とみるべきで、必ずしも創作時期と一致するわけではない点に留意すべきであろう。従って作品番号が後であるからといってop.112, op.113が弦楽五重奏曲第2番よりも後に創作されたとは言えず、実際、op.112の四重唱曲に含まれるジプシーの歌こそ1892年作曲が確実であるにしても、op.112の他の曲の作曲時期は弦楽五重奏曲の手前に遡るらしいし、op.113の女声合唱のためのカノン集は、創作時期が同定できる作品は全て旧作に属し、偶々この時期に曲集として編まれて出版されたもののようである。それを言えば、作品116~119のピアノ曲集に含まれる作品の中には、他の曲と比べて若干雰囲気を異にするものがないとは言えず、旧作そのものとは言えなくても、旧作をベースにした作品である可能性もないとは言えないだろう。ブラームスの「終活」には草稿の破棄という作業も含まれていて、弦楽五重奏曲に取り掛かっていた1890年の10月にイシュルから自ジムロックに充てた手紙の中に、草稿の破棄を告げる言葉があるようだ。(門馬1965, p.123)そしてブラームスのこうした周到さは、後年の音楽学者がその創作のプロセスを追跡すべく、草稿を調べるという作業を不可能にするという結果をもたらすことになった。

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 それでは、そうした資料調査の手法に拠らず、作品自体の分析によって創作時期を推定するような手法が可能であるかどうか、特に計算機を用いたデータ分析のような手法による推定が行われたという話は寡聞にして知らない。実は、ブラームスの作品のMIDIデータは割合とたくさん存在し、フリーで利用可能なので、マーラーの作品について行ったような、和音の出現頻度に関する分析をすべく予備的な調査をやったことがあるのだが、少なくとも和音のパレットといったテクスチュアレベルを対象とする限りにおいては、後期作品をそれ以前と区別し、特徴づけるような結果は獲られなかった。例えば室内楽ないしピアノ曲に限定しても、単純な特徴量のみからブラームスの「老い」に対応する特徴を抽出・同定することが難しいことについては既に確認済である。だがこの結果は、ブラームスの作品を聴いていれば或る程度予想がつくことであり、所謂「発展的」な作曲家ではないブラームスの場合には、そうした表層的なレベルでの時系列的な変化が簡単に検出できることを期待すべきではないのだろう。更に言えば、実際に分析対象となる作品と分析で使用する特徴量について具体的な確認作業を行えば、一見したところ後期作品の特徴に見えたものが、初期や中期の或るタイプの作品については当て嵌まってしまうといったようなことに直ちに気付くことになる。人間にわかることを跡付ける分析よりも人間が気付かないような発見的な価値を持ったデータ分析を行うというのが理想であるには違いないが、そもそも人間には手に負えない大量のデータが対象であればともかく、過去に創作された有限の作品のデータを対象とした時には、対象の作品に対する十分な(とまでは行かなくても、こと私の場合に限れれば、せめてマーラーの作品と同程度の、個別の作品の詳細に関するものも含む)知識がなければ意味ある分析は覚束ない。恐らくは、作品の構造上の特性として、形式的な複雑さ、更に言えば、シンフォニックであるかどうかといった特性のようなものを反映した特徴量を定義することができれば、そうした点で簡素化の傾向が見られることがデータ上からも確認できる可能性はあるだろうが、それはごく表面的にしかブラームスの作品に接していない私のような立場の人間にとっては荷が勝ち過ぎているように感じられる。

 とはいうものの、私の限られた聴取の経験からすれば、作品114以降、最後の作品である作品122に至るまでの作品を「イシュル遺書」以後の作品群として、一つのグループとしてまとめてしまえば、客観的には思い込みに過ぎないとしても、それらの作品に、それ以前の作品とは異なる「老い」の兆候を感じ取ってしまうこともまた避け難い。一方で、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもするのだが(そして後で触れることになるが、具体的にはそうした曲は、タイトルとして「間奏曲」とブラームスが呼ばなかったものに属しているようだが)、そうした一部の例外を除けば、その作品が浮かび上がらせる風景の持つ質は、やはりそれに先立つ時期に比べれば、遥かに深まった季節のそれであることは疑いないことのように感じられるのである。だが、それが一体何に起因するものであるかを、具体的に技術的な仕方で突き止めることができないからには、言葉を幾ら尽くしたとて、所詮は「私はそのように感じた」の同語反復を超えることは難しい。

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 それでは、他の作曲家との比較においてブラームスと「老い」について、とりわけても吉田さんの言う「早く老いた」という言葉について考えてみてはどうだろうか。この言葉は既述の通り、「イシュル遺書」の作成に因んでのものだが、「早く老いた」という言葉そのものについて言えば、寧ろ円熟。実りの秋の訪れについてのものと捉え直すことが可能ではないだろうか。するとそれは、冒頭で触れた、「晩年」という言葉で指示される時期の評伝間のずれと関わっていることになるだろう。それどころか、それは「晩年」に先立っているとは言えないだろうか?例えばあの秋の気配に満ちた第四交響曲が、どの評伝においても「晩年」に先立つ円熟期の掉尾を飾る作品として扱われていることに気付いて、慌てて確認すると、それは1885年、ブラームス52歳の時の作品なのだ。更にもう一つだけ例を挙げるならば、あの「ドイツ・レイクエム」は1868年、30代半ばの作品なのだ。勿論、最初期のピアノ曲(例えば「4つのバラード」)や2つの弦楽六重奏曲、ピアノ協奏曲第1番といった作品を思い浮かべてみるならば、ブラームスにも「若々しい」作品がないわけではない。だが、これもしばしば言われる、意識としての、年齢に比しての「老成」ということを問題にするならば、これは遥かに遡って、もしかしたら子供の頃に家計を補うために酒場でピアノを弾いていた時の経験に遡るという見方さえできるのではないだろうか。

 それでは「ゆっくりと死ぬ」の方はどうか。すると、こちらに対しては違和感のようなものが湧き上がってくるのを抑えることが難しいことに気付く。いや、多分違うのではなかろうか。「死はなかなかやって来ない」とすれば、それは「老い」を長く生きるということに他ならない。そもそも円熟の最中で「実りの秋」を体現するような第四交響曲を完成させて交響曲の時代に区切りをつけたとはいえ、その後には充実した室内楽の傑作が陸続として生みだされるのではなかったか。「イシュル遺書」の後でも、ミュールフェルトとの出会いによって再びクラリネットのための室内楽が生み出されるが、それらについて、円熟の続き、晩秋の最後の実りであると言ってはいけないのか。ミュールフェルトとの出会いから、再び室内楽曲の創作に赴くことになる、その辺りの消息について、門馬さんは「このようなわけで、5月に遺言書を作成するころには、大曲への創作意欲がわきおこってきていたとみることができる。したがって創作と遺産整理と死への恐怖が当時みな心理的に密接に関連していたとは思えない。」と述べているが、それはその通りで、寧ろ遺書の作成は、言い方によっては「老い」に先立っての行動とみることだってできるだろう。

 だがそもそもブラームスにおいて「死はなかなかやって来なかった」という言い方は適切だろうか。72歳で没したブルックナーの葬儀の場に訪れながら、中に入ることなく「次は自分の番だ」と呟いたという言い伝えがあるが、その彼は70歳にならずに、それどころか、私のような今日の日本の給与生活者ならば年金を受け取れる年齢であるだけでなく、定年もまたそこに向けて延長されつつある65歳を前にして、64歳になる直前で没しているのだ。勿論時代の違いはあるが、58歳で引退を決意するのが仮に当時としても早い決断だったとして(だが、それとて「早く老いた」の意味するところでは勿論ないだろうが)、その後5年で没するのが「ゆっくり死んだ」というのは今日的な感覚からすれば当たらないだろう。かくいう吉田さんが全集を完結させたのは90歳を超えてからであり、吉田さん自身はその後更に98歳まで生きたではないか。(もっとも、吉田さんがこのブラームスについての評伝を書いたのは60歳を過ぎたばかり、丁度ブラームスが、西原さんのいう「静寂の晩年」にさしかかった年齢にあたることには気を留めておくべきかも知れない。吉田さんがそのことを意識していたかどうか、私には確認する術がないけれど、そして実年齢というのは、その人その人ひとりひとりの生の実質を基準にとるならば、所詮は相対的なものに過ぎないのだろうが、それでも吉田さんがこのことを意識して執筆に臨んだ可能性はあるのではなかろうか。)

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 ともあれ、ふとした偶然から、そしてそれは後世の我々、特に平凡な生を生き、長い老いを生きることになる我々にとってこの上ない幸運であったのだが、ブラームスは引退を決意した後に、更にいわば余録のような形で作品を残すことになった。そしてそれは意識の上では、まさに「老い」の音楽そのものではなかろうか。多くの作曲家は引退を意識することなく書き続けて没するか、さもなくば自発的に断念するのではなく、何らかの理由で書き続けることができなくなって、いわば創作の上での死後を人生の上での「老い」として生きることになるのに対し、ブラームスの場合には、周到に、まるで用意されたように「老い」の最中の音楽が遺されることになった。その期間は決して長くはないけれど、そして作品番号にして10に満たない量ではあるけれど、そしていわゆる「大作」は、定義上あらかじめ排除されているという立場をここでは取りたい(つまり作品111を最後に「大作」は書かれなかった、その後の室内楽は、その規模と構成にも関わらず、実質において「大作」ではないという捉え方をしてみたい)が、そのことごとくが珠玉の傑作であり、かけがえのない価値を有する「小品」であり、それはまさに「老い」の音楽であると考えたい。繰り返しになるが、例えばあのクラリネット五重奏曲でさえ、その曲の持つ雰囲気の共通性もあって、敢えて小品と呼ぶことにしたいし、規模とは裏腹の大きさと重みを備え、音楽上の「遺言」に相応しい「四つの厳粛な歌」も、それが管弦楽と合唱を伴う2つ目のドイツ・レクイエムとはならなかったという点で、やはり敢えて「小品」と呼ぶことにしたいのである。つまり、ブラームスの晩年の、「老い」の音楽は、基本的には「小品」であるというように感じるのである。

 ブラームスにおける「老い」の音楽を「小品」ということで特徴づけるとするならば、直ちに思い浮かぶのは曲数からすれば多数を占めるピアノ小品だろう。だが、或る種のプロトタイプのようなものを取り出そうとした場合、それは単なるピアノ小品というよりは寧ろ、その中で少なからぬ割合を占める「間奏曲」によって特徴づけられるのではなかろうか。作品117は3曲とも間奏曲であり、「幻想曲集」と名付けられた作品116は3つのカプリッチョと4つの間奏曲で編まれている。6曲よりなる作品118はバラード、ロマンスが1曲づつで残り4曲は間奏曲、最後の作品119は掉尾を飾るラプソディーに先立つ3曲はいずれも間奏曲である。要するに20曲のうち、14曲が間奏曲であり、数の多寡が全てであるとは限らないとは言え、この場合には「間奏曲」こそが「老い」の音楽のプロトタイプ、典型であると言って差支えないのではないかと私は考える。上で既に、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもする、と記したが、それらは皆、カプリッチョ、ラプソディーと名付けられた作品であり、寧ろそれらは中期のピアノ曲との繋がりを感じさせるのである。ここでいう中期のピアノ曲とは、作品76の8曲と作品79の2つのラプソディーを指しているが、作品76は4曲のカプリッチョと4曲の間奏曲で構成されていて、作品79の2曲と併せてその割合が後期と異なる点が興味深い。これら中期作品を、それらがいずれも性格的小品であるという共通点を以て、所謂「後期作品」の嚆矢とみる立場もあるようだが、そして繰り返しになるが、「イシュル遺書」後の曲の中でも中期で優位を占めていたカプリッチョ、ラプソディーにはその反響が聴きとれるとはいえ、やはりそこには少なからぬ懸隔があるように思われて、それがラプソディー、カプリッチョと間奏曲の占める割合の変化と相関しているように思われてならないのである。その一方、バラードというタイトルを持つ作品には、遥かに時代を遡って、初期に標題性の強い4つのバラード(作品10)があるが、それと作品118の第3曲目のバラードとの懸隔は更に著しい。(詩を掲げるという点だけとれば、寧ろ作品117の第1曲が、標題性を示唆する作品であると言えるのかも知れない。)アレグロ・エネルジコとの指示通り、それはラプソディーのように始まるが、直ちにその力は弱まって、夢想の中で過去を回顧するような中間部が「語り」の実質であることに気付かされる。作品116の第4曲のロマンスは、タイトルの通り、甘美さを湛えた歌謡風の始まり方をするが、名残を惜しむような音調から夢見るような中間部が導かれ、その全体はやはり回顧的に感じられ、曲集の中ではバラードと対を為すような関係に置かれているように思われる。だが、それらのもたらすコントラストも他の間奏曲があってのものであり、基調となる響きはやはり「間奏曲」にあると感じられてならない。

 そしてそうした「間奏曲」の音調を余さず捉え、子供の頃に知って以来、長きに亙り、今なお私を魅了してやまないのは、間奏曲ばかりを集めたグールドの弾いたアルバムである。グールドにはブラームスの作品の録音としてはピアノ五重奏と、有名なエピソードのあるバーンスタインとのピアノ協奏曲第1番もあるけれど、ピアノ・ソロの作品としては、ソナタや変奏曲といった大曲ではなく小品ばかりを録音している。ここで取り上げた「間奏曲集」は何と30歳にもならない1960年に録音しているのに対して、中期の2つのラプソディーと初期の4つのバラードをその没年である1982年に録音していることが印象的である。それを知った後で聴けば、「間奏曲集」の演奏に或る種の若々しさを感じとることもできるように思えるが、正直に言えば、子供の頃にこの演奏に接した時(記憶によれば、アルバム全体を知る前に、吉田秀和さんが解説をされていたFM放送の番組で、メインのプログラムの後に少し空いた放送時間枠を埋めるように、グールドの弾く作品117の第1と作品118の第6の2曲の間奏曲が放送されたのを聴いたのが最初だったのではないか)には、演奏しているグールドの年齢のことなど考えることすらなく、それまで知っていたブラームス、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」や第3番、4つの交響曲とヴァイオリン協奏曲に加えて弦楽六重奏曲第1番くらいしか知らなったブラームスに対して自分が勝手に作り上げていた、若くして老成し成熟した、内省的で打ち解けない孤独な音楽家の晩年に誠に相応しい音調を見出して、心の底から感動し、魅惑されたのであった。この時の吉田さんの選曲もまた卓抜と言うべきで、詩が銘として掲げられ、歌謡性が強くて具体的な海のイメージを喚起する強い力を持ち、若き日への、更には幼少期への「回顧」の趣が強い(但しそれは特定の具体的な、例えばブラームスその人の過去に遡るというよりは、或いはそのことを通じて更に、いわば「ありえたかもしれない」、実際には一度も経験されることのなかったかも知れない幸福に満たされた過去を追憶するのであって、それゆえそこに込められた感情的な負荷は耐え難い程の苦悩に満ちたものになる)作品117の最初の曲と、こちらはそうした回顧する意識の現在の場の沁みいってくるような寒気と荒涼の中において、その回顧を支配する「もう元には戻れない」という不可逆性の意識、否、その過去が「ありえたかもしれない」ものであるならば、「もはや辿り着くことのできない」という到達不可能性が意識にもたらす凍てつくような絶望感に満たされた作品118の最後の曲とは、いずれも「間奏曲」というタイトルを持つ作品群の持つベクトルが最も明確に、極端な形で表れた作品と言えるのではなかろうか。それらはそれぞれ、この曲を知ってしまえばもう元には戻れないというような強い力によって聴き手を捉えて止まない。だがその後、グールドのアルバム全体に接して特に私の心を惹きつけたのは、作品118の第2のイ長調の間奏曲で、この曲と最初に接した2曲とが私にとっての「間奏曲」のプロトタイプのようである。私見では作品118の第2の間奏曲は、間奏曲というよりは寧ろ後奏曲(所謂フィナーレ=終曲ではないことに注意)、最初から「終わり」「結び」の気配が漂い、曲集で先行する第1ではなく、実際には聴いていない、先行する時間的経過に対して回顧するような気配を強くもった音楽である。これもまた晩年の間奏曲「様式」とでも言うべきものの特徴と考えてもいいように思うのだが、音楽的散文の代表であるブラームスとしては整った楽節構造を持ち、楽式としてはシンプルな三部形式を持ちながら、その旋律は、言ってみれば終わりの結びの句から始めて、一旦少し前に戻った後、形を変えて短かく再現すると弾き収めの楽句が続くという具合に、名残を惜しみつつ、何かの終わりを確認しているように、もっと言えば、何かを終わらせるプロセスそのものであるように感じられるのである。それは勿論、自分の心境や感慨とは程遠く、寧ろ、理想の「老い」のかたちとでもいうべきものに感じられ、そこから慰藉を引き出す一方で、自分がそうした心境についぞ至れず、至ることがなさそうなことについて、苦々しい諦めを抱かせるような存在なのである。 

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 音楽創作の上では、その後言葉を伴う「遺言」として、聖書をテキストにした「四つの厳粛な歌」を書き上げ、一番最後には自分の音楽的伝統の由来を確認するかのように、コラール前奏曲集を書き上げて、申し分なく完璧に「老い」を全うしたかに見えるブラームスだが、実生活の上では、同様に水も漏らさず完璧に、という訳には行かなかったようである。ここでは「イシュル遺書」作成後の「終活」の経過を辿ることで、その首尾を確認して、稿を閉じることにしたい。

 「イシュル遺書」の作成についてはどの文献でも等しく言及されているけれども、その後の経過については、文献により扱いは様々のようだ。大作曲家ブラームスの人と音楽を語るということが目的である以上、普通の人間であればそちらがメインである事柄が背後に退くのは仕方ないことだろうが、主として比較的詳しい門馬さんの語るところに従って集約すると、その後以下のような経過を辿ることになる。

 1891年5月に書かれた「イシュル遺書」は友人であり、財産管理人でもあるフリッツ・ジムロックに同年8月に送られる。だがその後、1892年の姉のエリーゼの死を機会に、変更を思い立ってジムロックから取り戻したようである。そして1895年5月には、新しい別の遺言書の送付についてジムロックに手紙で告げているという。更に没年である1897年2月7日にフェリンガー夫妻に対して遺言書の細部についての相談をし、それに基づいてフェリンガーが遺言書を作成、ブラームスに渡したのだが、ブラームスは直ちに署名をすることなく、遺言書を引き出しに入れたまま死の床に臥せることになり、そのまま死んでしまうのである。西原さんは「イシュル遺書」に言及した後直ちに「彼の遺書には不備があり」(西原2006, p.188)と簡潔に記しているが、その不備の実態というのは、門馬さんの記述によれば、「イシュル遺書」の撤回と、新しい遺言書の作成があり、だが新しい遺言書にブラームスが署名し、それが効力を発するようになる前に作業が永久に中断してしまった結果、「ブラームスの遺言書には、法律的には正当な効力のものがない」(門馬1965, p.126)ということらしい。

 良く知られているようにブラームスは生涯独身であり、子供がいなかったから、その遺産の相続に関しては、複雑な相続関係が生じることが容易に想定できるし、それに加えて法的な効力のない、内容の異なる遺言が複数存在するのだから、死後の相続についてトラブルが起きそうなこともまた想像できる。(推理小説が好きな向きには、さながら素材として格好の状況であろう)その顛末はもはや本人の没後の事柄に属するから、それについての詳細な記述を評伝に求めるのは無いものねだりというものかも知れないが、「彼の死後、遺産相続にかんして複雑な問題をひきこすことになる」(西原2006, p.188)、「(…)ブラームスの死後、遠い親戚まであらわれて、遺産の分配について訴訟問題さえおこったのだった。」(門馬1965, p.126)とまで書かれると、相続そのものは誰彼となく、平凡な市井の人間にも等しく起こることで、成功して資産のある子供のない独身の叔父が被相続人となった場合の厄介さは、孤独死が珍しいことではなくなった今日の日本では、寧ろありふれた事柄ですらあるかも知れないが故に他人事ではなく、その帰趨が気にならざるを得ない。さりとてブラームスの熱心なファンでもない私の手元にある文献は限られているし、他の文献を渉猟するだけの時間的なゆとりの持ち合わせもなく、Webで情報がないかを探してみると、2014年11月4日の日付のGeorg Predotaという研究者が執筆した記事、Estate Johannes BrahmsというのがInterlude(図らずも、Intermezzoそのものずばりではないが、これまた「間奏曲」であるのは奇しき偶然であろう)というWebサイトに掲載されていたので、それをご紹介してこの稿を終えることにしたい。恐らく参照している伝記上の出来事が異なるからであろうか、細かい日付や取り上げられている内容については微妙なずれがあるけれど、遺書の再作成に関するアウトラインは一致しており、更に遺言の具体的内容やその後の係争とその顛末について要領よくまとめられているので、大まかな状況を把握するには十分ではなかろうか。(2024.5.22/3初稿)


2023年6月7日水曜日

ブルックナーと老い:第9交響曲を巡って

 ブルックナーにおける「老い」ではなく、「死」についてであれば、既に多くのことが語られてきた。直ちに思い浮かぶのは、田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』(春秋社, 2005)の第9章、まさに「死の時計」と題された章で言及される第8交響曲についてのブルックナー自身のコメントだろうか。

「第一楽章には主題のリズムに基づく、トランペットとホルンの楽節がありますが、それは「死の告知」です。それは途切れがちながらしだいに強く、しまいには非常に強くなって姿を現します。終結部は「降伏」です。」(上掲書, p.272)

それをうけて、田代は「ブルックナー最晩年の『第八番』と『第九番』は、いわば死に憑かれた交響曲である」(同書, p.273)と述べる。

 だが「死」ではなく、問題となるのが「老い」である場合、「死」と区別される限りでの「老い」についての言及を見つけるのは容易なことではない。特にブルックナーに限って言えば、上掲書の冒頭いきなり「バロックの屍臭」と題された節が置かれて、そこで言及されて以降繰り返し指摘されるように、「死」との関りは、恐らく今日一般的な了解の地平を構成するのとはかなり異なった風景の下で条件づけが為されているのであってみれば、「死」と「老い」との関係もそれに応じて異なっていると考えるべきだろう。そしてここで「老い」固有の徴候に注目すべきということになれば、寧ろそれは「死」との関りにおいてではなく、発達や成長、あるいは進化といった言葉で語られる側面に関わる否定的なものとして捉えるべきものであるように思われる。少し先の部分(p297)では、ブルックナーにおける「人間的成長」の欠如と「作品の進化」の対比が指摘され、その矛盾を「天才」と呼ぶといった見解が示されていて、もしそうならば、生物学的な、生理的な「老い」はあったとして、精神的な意味合いでの「老い」をそこに見つけることがそもそもできるのかという問いかけが為されたとしても不思議はない。

 だがその点の評価は一先ず措いて、ここでは「老い」の徴候となる様々な事実を確認してみよう。「老い」に関する社会学的研究でしばしば「老い」との関りが深い出来事として挙げられるものの一つが退職だが、ブルックナーの場合について言えば、音楽院退職は1891年1月15日であり、宮廷オルガニスト退任は1892年10月のことである。その一方で1892年7月の最後のバイロイト訪問で体調を崩したことが記され、創作に専念できる環境が整いつつあるかと思えば、今度は衰えゆく健康との闘争が始まる。

 大学での講義の最終は1894年11月12日。但しこれは所謂、儀礼的な側面を持つ、事前にそのようにレイアウトされた「最終講義」ではなく、この回が最後の講義となったというに過ぎない。だが1895年より大学から年金が支給されたとのことなので、事実上の退官ということになるのだろうが、その後間もなく、1894年12月に再び体調が悪化し、9日には臨終の秘蹟を受けるまでになる。だがその後再び回復して、ブルックナーが没するのは更に2年近く先の1986年10月11日である。

 第8交響曲は初演こそ1892年12月のことだが、作品自体は一旦完成した後の3年に亘る改訂を経た第2稿が既に1890年3月10日に完成しているから、これは音楽院退職に先立つことになるので、ここでは第9交響曲の成立過程に関わる事実を確認しておくと以下の通りとなる。(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)の第9交響曲の項の記述(根岸一美執筆)に基づく。なお田代の記述は、第2稿の完成後ただちに為され1890年4月16日付で受理された第8交響曲の皇帝への献呈を、翌年の音楽院の退職に続く時期と混同しており、更にそれを第8交響曲「作曲中」(田代, 上掲書, p.264)の出来事とするなど微妙な混乱を示している。興味深いエピソードを散りばめた田代の叙述は、そのスタイルの性質上、厳密にクロノロジカルではなく、年代を前後するので、このような錯誤がどうしても生じやすく、読み手の方も、うっかりするとクロノロジーについて誤認しがちになるのは避け難い。私個人について言えば、マーラーの場合を唯一の例外として、ブルックナーについてはその生涯の出来事が頭の中に入っているわけではなく、今回、「老い」に関する個別事例として取り上げたに過ぎないため、事実関係について気付かぬままに思わぬ誤認をしていることを惧れる。)

  • 第3楽章まで:1887年8月~1894年11月30日
    • 最も早いスケッチは第1楽章のもので、1887年8月12日付
    • 1891年1月:第1楽章スケッチの手直し、1891年4月末:第1楽章総譜着手
    • 1892年10月14日:第1楽章総譜完成、1893年12月23日:再点検終了
    • 1893年2月27日:スケルツォ総譜完成、1894年2月15日:再点検終了
    • 1893年1月頃:アダージョ着手、1894年10月31日、11月30日:アダージョ総譜完成
  • フィナーレ:1895年5月24日~1986年10月11日

上述の第1楽章のスケッチの開始は第8交響曲の第1稿の完成後まもなくの時期にあたるが、その後、いわゆる第2次改稿の波による中断を経て、第1楽章スケッチの手直しが始まったのは音楽院退職に相前後してということになる。勿論、スケッチの開始時期を軽視するつもりはないが、こうしてみると第9交響曲こそが「晩年」の交響曲であったと言いうることになりそうだ。実年齢では67~68歳から没する1896年10月11日までの残り4,5年が彼の「晩年」ということになるのだろうか。特に目を惹くのはアダージョ総譜完成の日付で、大学での最後の講義と臨終の秘蹟を受けるに至る程の深刻な体調の悪化との間に位置していることが確認でき、アダージョの総譜完成までの集中とそれが完了したことによる緊張からの解放が影響しているのではないかと思わずにはいられない。

 第4楽章を完成できない場合に『テ・デウム』を終楽章に代用しても良いという、第9交響曲に関する余りにも有名な発言の記録を含むジャン・ルイ・ニコーデの回想は1891年3月のものだが、上記のクロノロジーに照らせば、音楽院退職後、再び第1楽章のスケッチに向き合って手直しを行っている最中のことになる。フィナーレそのものはおろか、まだアダージョの着手ですら2年近く先の時期に、第4楽章が完成できないかも知れないという予感をブルックナーは既に抱いていたことになる。従ってこの発言はブルックナーの「老い」と「死」についての自覚を証言したものと見做し得るだろうし、そうした自覚は、第9交響曲の本格的な創作の開始の時期から、その過程を覆っていたことを告げている。

 だが世俗的=公的に他の何よりも「老い」の自覚を証言するものは、1893年11月10日付の遺言書の作成であろう。それに先立って、ブルックナーは手稿の製本、封印を行っており、それら手稿の保管について遺言書の第四項で以下の通りに指示している。

「以下の作品の手稿譜を、ヴィーンの帝立・王立宮廷図書館に遺贈します。現在までの8つの交響曲(主が望まれるなら、『第九番』もほどなく完成)、三つの大ミサ曲、『弦楽五重奏』、『テ・デウム』、『詩篇・第百五十篇』、合唱曲『ヘルゴラント』、以上。同館管理者はこれらの手稿譜の保管につき、細心の注意を払われることを。またヨーゼフ・エーベレ社は同館より、出版予定作品の手稿を適当時間借り受ける権利を有するものとし、同館は同社にその手稿を、適当期間貸与する義務を有するものとします。」(田代, 上掲書, p.294による)

単なる保管ではなく、作品の出版・流通による普及についても配慮していることにも留意しよう。そしてブルックナーの遺言が数次に亙る全集の出版に繋がり、更に今日、オーストリア国立図書館音楽部門所蔵の自筆譜の画像をオンラインでいつでも参照できることに通じていることを確認する時、自己の作品のミームとしての存続に関するブルックナーのしたたかで周到な対策は実際にも有効であり、その意図は十二分に達成されたと言って良いだろう。

 だがブルックナーのそうした周到さをもってしても遂に如何ともし難かったのは、まさに遺言書作成の最中に現在進行中であり、従って、未だに製本も封印もできない状態にあり、かつその完成を本人が確信しえなかった作品、第9交響曲の行く末であった。この遺言書の日付である1893年11月10日は一旦第2楽章まで完成して第3楽章に取り掛かって後、平行して進めていたのであろう第1楽章の見直しがもうじき完了しようとする時期にあたる。遺言書で「ほどなく完成」と記したのは、勿論、既に着手していた第3楽章までに限定してのことであろう筈もなく、その時点では着手すらしていなかった、そして結果としては望みが叶うことなく未完成に終わったフィナーレを含めてのことであったに違いない。

 そして上述のクロノロジーにおいて確認できるのは、第9交響曲フィナーレこそは彼の生涯の最後の1年半のドキュメントであり、「老い」のプロセスの只中における創作のあり様を証言するものであるということだろう。田代は「ブルックナーは亡くなる最後の日まで手を加えていたが、終楽章はついて未完に終わった」(田代, 上掲書, p.302)と記しているが、「亡くなる最後の日まで」というのは、こうしたことの場合にしばしば用いられる修辞の類ではなく、紛れもない事実のようだ。だが田代の筆は、臨終の刻である1896年10月11日の午後の出来事を幾つかの資料に語らせるのみで、その点を確認することはできない。私が確認できた限りでは張源祥の『ブルックナー/マーラー』(音楽之友社, 1971)の生涯のパートの末尾、「最後の年」の節が描き出す、生涯最後の日の様子は以下の通りであって、ここでは文字通り最後の日まで第9交響曲フィナーレに取り組んでいたとされている。

「10月11日の朝、彼はことのほか良い気分であった。ピアノの前にすわって『第9交響曲』終曲の企画に従事した。それから散歩にでかけようとしたが医者に止められた。寒い風が吹いていたからである。午後3時少しすぎに彼は突然寒気を覚えた。彼はベッドに横たわり、長年付添いの家政婦カテリーナは茶を用意した。茶を飲みおえて、左の脇を下に身をころがしたとき、彼は最後の息を引きとった。偉大な創造的精神の外被は打ちくだかれたのである。」(張源祥の『ブルックナー/マーラー』, 音楽之友社, 1971, p.70~71)

 マーラーの第10交響曲もかつてはそうだったように、そして事によったらマーラーの第10交響曲以上に、ブルックナーの第9交響曲フィナーレの補作完成については疑問視する向きが多いかも知れない。最初はフラグメントの紹介だけであったものが、近年では欠落部分の補完(その最大の部分はコーダなのだが)を含めて、全曲を通して演奏できるような状態にまで到達した補作も出てきており、初期の成果については懐疑的にならざるを得なかったのが、ようやくその構想が感じ取れるような水準に達成しつつあるように思われる。そうした状況を踏まえた時、仮に第9交響曲第4楽章の補作の価値について最大限の留保をつけたとしても、現時点で補作により聴くことが可能になったそれに私が(誤解だろうが、思い込みだろうが)見出すことが出来る、 遥かに遅れて、しかも間接的な仕方で垣間見るに過ぎないにしても、「出会う」ことが出来ると感じるのは、ブルックナーの最晩年の姿、「老い」の最中にあるブルックナーの姿に他ならない。

 彼は自分の衰えを自覚し、今度は間に合わないかも知れないという思いに囚われつつ、それでもなお、神が彼を この世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。ここには彼の到達点(それは事前に定められたのではなく、突然、事後的に確定 してしまったのだが)において彼が探り当てた「姿」が書き留められている。自筆譜に書き留められたそれは、だがブルックナーの頭の中で 鳴っていたそれの不完全なコピーなどではないだろう。一旦完成した作品の改稿を繰り返したブルックナーの場合には異稿の問題がついて回るようだが、ここではそうした議論はそもそも起きよう筈がない。異稿のオーセンティシティや優劣に纏わる議論の前提からすれば、フィナーレは端的に未だ存在していないということになるのだろうから。

 しかし実演に至らず埋もれたままでさえなく完成すらしなかった作品を単純に「存在しない」ものと決め付けてしまうことに、私は非常に強い抵抗を覚える。更に言うならば、一般的な了解としては、それは事後的に未完成であることが確定したに過ぎず、そのことは偶然の産物であるということになるのだろうが、ことこの作品に関しては、もしかしたらそれがこの世に現れることを妨げるような何かを作品そのものが備えているのではないかという、一見するとナンセンスでさえある思いに私は避け難く捕らわれてしまう。要するにシェーンベルクが「プラハ講演」の中でマーラーの第10交響曲に関して述べたと言われる、人間的なものが超えることのできない一線を、この音楽もまた超えているように私には思われるのだ。人間がそのままの姿では通ることができない門。だが、まさに彼のために、 専ら彼だけのために設けられた門。己れの場をこの世には端的に持たない、ユートピアの音楽。予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽。

 だが彼はこの未完の自筆譜すら破棄することなく、まるでいつか続きの作業を再開することを予期するかのように遺した。残念ながら、それは この世においてはその価値への無理解から散逸してしまい、もしかしたら彼が見出した全てを現在の我々が見ているのではない可能性が高いことにも留意しておこう。要するにこの世というのは、そうした場所なのだ。ここで眺望を妨げる制約は、ありうべき、 来るべき「作品」の側ではなく、この世に生きる我々の側に専ら起因するものであることを銘記すべきであろう。この作品がこの世において 完成しないのは、「幽霊」たらざるを得ないのは、この世ゆえなのだとさえ言いうるのではなかろうか。だとしたらそうした世の成り行きに同様に流されつつ、それでも辛うじて私に出来ることと言えば、そうした 「幽霊」を決して厄払いすることなく、「幽霊」として歓待することしかない。

 もっとも今ならば、根気良い探索によって一旦散逸した草稿のうち、回収できたものに基づいて、既に長期に亘って為されてきた人間による補筆完成だけではなく、AIによる補完の試みが可能になりつつあるというべきなのかも知れない。勿論、現時点でのAIには「模倣」なり統計分布に基づく「補完」はできても「創造」はできない。マーラーの第10交響曲の場合とは異なって、コーダについてはスケッチの断片すら存在せず、アイデアについてブルックナーが語ったとされる証言のみに基づかざるを得ないのであってみれば、それは乗り越えることのできない壁に阻まれているというべきなのだろう。更にそれが予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽なのだとしたら、「人間」ならぬ存在には原理的に不可能な企てと言うべきであろう。ここで思い浮かぶのは、スタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」におけるカフカの『城』の補作の失敗の例だ。

 だがそれでもAIによる補完について考えることは、幾つかの点で興味深い視点を提供してくれはしないだろうか。人によっては皆同じに聞えるらしいその交響曲は、作曲の技法の次元ではなく、もう少し抽象度を上げた次元では、初期値こそ異なるが殆ど 同じアルゴリズムによるのかも知れない。否、あの「変てこなお年寄り」(マグダ・プライプシュによる1892年頃の回想による。田代の上掲書p.287~9に引用されている。)が本当にこの音楽を創ったのだろうか。そもそも音楽を書くというのはどういうことなのか。今日、アルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる、コンピュータによる自動作曲を用いた作曲手法における、初期値を与え、シミュレーションをし、結果を聴いては初期値を変え、という作業は100年前の「変てこなお年寄り」の営みとどこが違うのか。 勿論、全然違うではないかと人は言うだろう。だけれどもそもそも、あの「変てこなお年寄り」自体が神が用意したシミュレーション・プログラムではなかったかろうか。 「変てこなお年寄り」自ら、そのように自覚していたようなふしもあるではないか。(ここで内井惣七が『ライプニッツの情報物理学』で示唆しているモナドロジーと音楽の類比を思い浮かべてもいいだろう。結局のところあの「変てこなお年寄り」の無為な営みは、オートマトンの働きとして抽象化できるのではなかろうか。)

 創作に関するブルックナーの認識を窺わせる証言として、1890年頃、クロスターノイブルクの司祭ヨーゼフ・クルーガーに語ったとされる以下のものがあるが、彼はそこで自分「の」作品が、神から与えられた才能に負うているとはっきり述べている。

「連中は私に、もっと違った風に書けと言いよる。むろんその気になればできんことはない。だが私にはそれが許されとらんのだ。主は何千人もの中から、かたじけなくも私を選ばれ、この才能を与えられた。いずれは私も主の御前で、申し開きをせにゃならん時が来る。だが私がほかの者の言いなりになったら、どの面下げて主の御前に立たれよう。」(田代, 上掲書, p.162)

更に上の証言を紹介した田代は「ある時彼はこうも言った」と続ける。

「私は自分の作品を主に負うている。主がこの才能を与えられたのだ。(…)私はこれからも書き続けねばならない。いつか裁きの庭に立つ時、主が私をつかまえて、「このろくでなしめが、お前に授かった賜物をなぜ存分に使わなんだ」となじられることのないように。」(同書, 同頁)

 テ・デウムを神に捧げたのはそのことへの感謝の証だったし、それ故に彼は音楽を創り「続けなくてはならない」と感じていた。それが神からの贈与に対する義務だから。 そして彼は、自分の作品が受容されることを望み、拒絶に対して深く、神経を病むほどに傷ついた。けれども、にも関わらず彼は、どこかで自分の営みの「無益さ」を認識していたのでは ないだろうか。宗教音楽ならぬ「交響曲」はその「無益さ」に見合った容れ物だったのではないか。いずれにしても彼にとっては「創り続けること」が問題だった。

 だとしたら「ブルックナー・オートマトン」の構成要件として、それが「絶対的他者」との「対話」を行いうるような構造、つまり最低でもセカンドオーダー・サイバネティクス以上の構造を、「自己」を備えているという条件が課せられることになろう。勿論、より低次のオートマトンが偶然にそっくりの音響の系列を生み出すことはあり得るかも知れないが、現実にそれが実現する可能性は皆無に近く、「ブルックナー・オートマトン」自体の出力を己の入力とするという「反則」を前提としてもなお未だ困難であろう。だが差異はそれに留まらない。そのオートマトンは「老い」ることができなくてはならず、その「老い」が作品の創作という動作に何某かフィードバックされることなくして第9交響曲のような作品は成立しえない。そして「老い」を今日のシステム論的に捉えるならば、以下のようになることを思い起こしてみるべきなのだ。

「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)

 第9交響曲の長くて未完の創作史は、上記引用における「変移と崩壊」の過程、即ち病と衰弱との戦いでもあったが、それでもなお、上記の言葉を違えることなく、神が彼をこの世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。 彼にとっては最後の審判の時に、授けられた能力を充分に用いなかった怠慢を神に咎められることの方がよほど気にかかることだったに違いない。 そして第9交響曲は、有限の生命を持つ個体の「老い」のプロセスの中において初めて垣間見ることができる風景を定着させた稀有の事例となった。それは他の事例にあるような、創作力の頂点で突然訪れた病や死によって遺された未完成作品と異なって、「老い」そのものを素材とし、その時間性を音楽化したものであるとすら言い得るように思われる。

 そのような了解に立った時、まず思いつくのは、それがアドルノが後期のベートーヴェンやマーラーについて言及する「晩年様式」に該当するかどうかであろう。その問いは直ちに、大作曲家の多くがそうであるような、若き日より「神童」として作品を生み出したわけではなく、長い修行期間を経た後にようやく作曲活動を本格化させたブルックナーにおいて、「円熟」が何時達成され、更に何時から「晩年」が始まったのかという問いに繋がるだろうが、ここではそうした問いを迂回して、作曲者の人生における「老い」にまずは注目して、第9交響曲こそが「老い」に関わる作品であることを最初に確認したのだった。その際に触れたように、作品の内容面から、第8交響曲と第9交響曲を「死に憑かれた」作品として一括りにする見解もあるわけだが、様式的に見た場合に同じ結論に達するかと言う問いに対しては、私ははっきりと否であると思うし、典型的に合致するとまでは言えなくとも、アドルノの言う「晩年様式」の特徴のうち幾つかの面は、まさにブルックナーの第9交響曲についても該当するのではないかと考える。

「大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。それらは一般に円熟しているというより、切り刻まれ、引き裂かれてさえいる。おおむね甘みを欠き、渋く、棘があるために、ただ賞味さえすればよいというわけにはいかない。そこには古典主義の美学がつねづね芸術作品に要求している調和がすべて欠けており、成長のそれより、歴史の痕跡がより多くそこににじみ出ている。」(アドルノ, 『楽興の時』, 三光長治・川村二郎訳, 白水社, 新装版1994, p.15)

 人によっては第9交響曲が上記の特徴を備えているという見解には異論もあるかも知れないが、私見では、第7交響曲と第8交響曲こそが壮年期の均衡と調和に満たされた「円熟」と形容するに相応しい作品であるのに対して(それ故特に第8交響曲は第7交響曲の「二番煎じ」であるという批判さえ受けたのだと思うが)、第9交響曲はそこから更に一歩踏み出して、別の領域に足を踏み入れていることは、例えば巨視的な楽式上の革新からも、用いられている和声の斬新さからも明らかであるように思われるし、とりわけでもフィナーレの補作から垣間見られる特異な相貌は、寧ろ上記のアドルノの「晩年様式」の特徴づけを踏まえれば納得がいくものに感じられさえするのである。実は上記引用の後には「世上の見解」が示され、それをアドルノは覆していくのだが、ややもすればその「世上の見解」にこそフィナーレ草稿の状況ぴったり合致しそうに見えることさえも含めて、第9交響曲に「晩年様式」を認めることを肯ずることを促すかのようだ。だがアドルノの「晩年様式」を適用することの妥当性を論じることはここでの議論にとっては副次的なものに過ぎない。とりわけてもアドルノがベートーヴェンのそれについて論じる時、そこで掲げられる特徴のどれがベートーヴェンという個別の事例に固有のものであり、どれが一般的なものなのかは、例えばマーラーのそれを論じる時との比較をしてみれば簡単に決することができないように思われる。ベートーヴェンを論じる時には参照されることがなく(厳密を期するなら、「老ゲーテ」には「老シュティフター」ともども言及されるのだが…)、だがマーラーを論じる時には中心的な位置を占めるゲーテの「現象から身を退く」という言葉はジンメルのゲーテ論に依拠するもののようだが、逆に遡ってそれをジンメルが語っている文脈を確認するならば、人間的にはおよそ「成熟」とは無縁だったように見えるブルックナーにおいてすら、その作品について言えば、まさに第9交響曲において、ジンメルの述べた事態が実現していると見做し得るのではなかろうか?

「青年期にあつては主観的無形式は、歴史的乃至理念的に豫存する形式内に収容さるゝ必要がある。主観的無形式は此の形式に依って一客観相たるべく発展されるのである。けれども、老齢に於ては、偉大な創造的人物は―予は茲で勿論純粋の原理、理想に就いて述べるが―自己内に、自己自らに形式を具へてゐる。即ち、今や<絶対に彼自らのものである形式>を所有する。彼の主観は、時間空間に於ける規定が内外共に我々に添加する一切を無視すると共に、謂はゞ彼の主観性を離脱し了つたのである。-即ち、已に述べたゲーテの老齢の定義にいふ「現象からの漸次の退去」である。」(ジムメル『ゲーテ』, 木村謹治訳, 1949, 桜井書店, 第8章 発展 p.383~384)

 この音楽に一体人は何を見出すのだろう。或る種のdetachmentがあるのは確実だ。だが、それを単純に「天国的」という言葉で言ってしまっていいものか。 とりわけ未完成に終わったフィナーレを踏まえて完成された楽章を聴いたとき、その音楽は、寧ろ、作曲者自身が手探りで進むしかない、 全くの未聞の領域に踏み込んでいたのでは、という感じの方が強い。例えば第1楽章のコーダにおいて、音楽が一体どこで鳴っているのか、その経過の主体が何であるのかを適切にいうことは未だ私にはできない。 あるいは第2楽章の響く空間が、現実のどこかにあるとは思えない一方で、それが一個人の内面であるとも思えない。第3楽章もまた、この光に包まれた 風景が一体どこなのかを表現する言葉を持たない。「天国的」「神秘的」「宇宙的」などといった言葉はこうした音楽を前にしては陳腐で、最早なにも 言っていないに等しい。それは超越的なものとでも呼ぶほかのない、他者の息吹に充ちているのは確かだが、これが「愛する神」への語りかけなのだろうか。 いや、語りかける「私」が一体どこいるというのか。これはまだ、「意識の音楽」なのだろうか?「意識の音楽」はここで極限に達する。これはそのままの 姿では通り過ぎることの出来ない門に似ているように思われる。ここでのdetachmentの何とあてどの なく、よるべのないことか。別段標題的な要素を持ち出す必要はないのだが、それでもなおここには或る種の危機が刻印されているという感じは否定し難い。 その様態をもし「祈り」と呼ぶのであれば、ここには第8交響曲には窺えた意志的な闘争はもはやなく、 「祈り」の受動性があるばかりなのだが、その様態に対応して響いてくる音楽には、祈る者が抱いている不安がこだましているように思えてならない。

 人によってはこの音楽の―とりわけフィナーレ断片の―異様な相貌に、自己の有限性に直面した作曲家が闘うことになった「不安」や「懐疑」の痕跡を 見出すようだ。ここにあるのが同時代の知性が抱くことを謂わば宿命づけられた近代的な「懐疑」と同質のものなのかどうかについては、私はまだ確信をもって言うことができそうにないが、作曲者が個体としての限界に 向き合った時に、その信仰が素朴で無媒介であったがゆえに、作曲者の心の中で自己の有限性がどのように捉えられていたのか、 そうした問いかけをしたくなるような凄みがこの音楽にはあるのは確かなことに思われる。ブルックナーはこの曲を「神」に捧げるといったと伝えられるが、それは祈りの「ための」音楽を書くという意味ではないだろう。 ここでは音楽は瞑想の道具ではないし、音楽によって永遠の瞬間を定着させようなどといった 「意図」の賢しらさとは、この音楽は全く無縁なのだ。

 田代はブルックナーの音楽を「非人間的な音楽であり、いわば「木石の音楽」である。」(田代, 上掲書, 序, p.vii)と規定し、「ブルックナーの音楽を輪切りにすれば、赤い血のかわりに岩や氷がごろごろと転がり出る。」(ibid.)と述べていて、私も基本的にその見解に賛成なのだが、その一方で第9交響曲に限って言えば、完成した3楽章でさえも「木石の音楽」と言い切ってしまうわけには行かないものを感じずにはいられない。そこには祈りの主体の姿が存在するように感じるのだ。更にフィナーレに至って、特に初期のブルックナーにおいては堅固なものであった生活世界のローカリティのようなものが全く欠落してしまったように思われる。それでも最初の3楽章ではまだ見えたこの世ならぬ光に満ち溢れた風景すら、ここに至って消え去ってしまったかのようなのだ。

 第9交響曲に関する限り、私は吉田秀和の言葉には共感できるものが多いと感じているが、彼がアダージョの冒頭主題について指摘する「短9度の跳躍で始まるという異常な主題の提示にのぞきみられる不安と悲しみの表情」(吉田秀和, 「交響曲第九番」,『吉田秀和作曲家論集1 ブルックナー・マーラー』所収, p.107)すら、このフィナーレには欠けているように私には思える。それともこれは「老い」とそれによる「衰弱」の産物であり、未完成故に、「本来あるべき姿」ではないのだろうか?最早止まりかけた、いつ止まってもおかしくないオートマトンのエラー混じりの最後の不安定な動作の産物なのだろうか?

 絶対者の前に一人祈る単独者ゆえのもの、と一般的にはなるのだろうが、私がそこに感じるのは、先行する3楽章にも優る、普通には寂しさとか孤独感と呼ばれるものに近い寄る辺なさ、しんとした静寂のようなものだ。人間的なものからはかけ離れた、門の向こう側の生きたまま人間が覗き見ることができない風景が、何かの間違いでこの世に映り込んでいるような感じとでも言えばいいのだろうか。恐らくは全く別のところで「回心」後のデュパルクが晩年の沈黙のなかで手探りをしたあの道程が、ここでは奇跡的に音楽として定着されているのではないか。 相転移の向こう側の、常には沈黙が支配する領域が、何かの間違いでこちら側に音楽として結晶してしまったような、そうした感じを受けるのだ。

 自己放棄の弁証法は、ここに至って停止してしまっている、あるいは止揚は時間の外に延期されてしまい、実現しないのではないだろうかという感じを 否定するのは難しい。繰り返しになるが、シェーンベルクがマーラーの第9交響曲について言った「限界」は、寧ろ、ブルックナーの第9交響曲の アダージョとフィナーレの間に広がっていたのではないかと思われてならない。

 そしてそれは「老い」のプロセスの中を通過すること無しには生じ得なかったのではないかという感じを否み難く持つのである。勿論「老い」は必要条件に過ぎず、そうした閃きは決して「ただ」ではやってこない。後世の人にすら30年間同じことをずっとやっていると嘲笑われるような長い時間がその「閃き」を 可能にしたのに違いないのだ。結果を漫然と聴く人間はしばしば聞き流してしまいさえするのだが、 ブルックナーがそれまでの作品で辿ってきたプロセスを思い浮かべるとき、一例に過ぎないが、第1楽章コーダでの空虚5度、あるいは 第2楽章スケルツォの主部よりも早いトリオ、第3楽章の不思議な光を放つ和音、そして3楽章通してあちらこちらに響きわたる不協和音(その頂点は、第3楽章練習番号Uに至るまでの箇所のそれだろう)が、どれもこれも全くのオリジナルな 「結論」であることに驚愕せざるを得ない。ありていにいって奇跡の連続のような音楽ではないか。こうした音楽に対して 一体どのようなフィナーレが可能だというのか。

 だからそれらの達成を僥倖と呼ぶのは間違っている。その一方でその「閃き」はトルンスタムの言う「老年的超越」が可能にするdetachmentともまた不可分に違いなく、一定の期間一定の労力をかければ確実に得られる対価の如きものではない。更に言えば、ブルックナー自身にもその自覚はあったようなのだが、 それは「誰のもとにも」起きることでもないのだ。既述の能力と技術の問題もそうだが、それだけではない。「老年的超越」もまた、全ての人に必ず生じるものでもなければ、ある年齢に達したら自動的に生じるものでもなく、時として年齢とは関係なくその境地に到達する人さえいるとされている点を想起されたい。ここでは「変てこなお年寄り」であるブルックナーその人のアナクロニックと言うべき「変てこ」さ=特異性が寄与しているかも知れないのである。そして自分にはそれが起きることを知っていればこそ、彼は作曲を止めなかった。それは神からの授かり物で あって、決してぞんざいに扱ってはならないものだから。おそらくブルックナーは日々刻苦しつつ、やはりフィナーレにおいても「待っていた」のだろうと思う。 それがこの世においては最後まで到来しないかも知れないという予感を持ちながら。トルンスタムは「基本的に、青年期以降の老年的超越へと向かうプロセスは、一生涯連綿と続いていくものであると仮定することができるだろう。」(トーンスタム『老年的超越』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, p.41)と述べているが、してみればそのプロセスは一見そう取られてしまうような「悟り=覚り」ではなく、寧ろ「他者」との開かれた、終わりなき「対話」の如きものであろう。ここで「終わりなき」というのは、比喩や誇張などではない。その対話のプロセスが文字通りに「終わりなき」ものであるとしたら、作品の完成は構造上「生」の連続性の側には存在しないことになり、仮に「生」が限りなく引延ばされたとしても、その分「完成」の地点もまた、先に繰り延べられることになる。勿論、先行する楽章がそうであったように、一旦、総譜が完成し、日付が書き込まれることはあったかも知れないとして、再点検が終わって全曲の完成が宣言されることがありえただろうか。「老い」と「死」についての標題音楽などではなく、部分的には作曲する主体の「生との別れ」を含む「音楽的遺言」としての性質を持つとしても、それのみに留まるものはでない、「変移と崩壊」の時間性自体が定着されているシミュレーション結果としてのそれは、結果的に、有限の生命を運命づけられた生物の或る個体の上で、構造的に一度切りしか実現しないようなものなのではないか。そしてブルックナーの最晩年の作曲の営みというのは、まさにそのようなトポロジーを備えたものではなかったかと思えてならないのである。(2023.6.7)


2023年2月20日月曜日

「架空の島の唄」としてのシベリウスの音楽について―新保祐司『シベリウスと宣長』を巡って―

  マーラーの音楽が根無し草の「ありえたかもしれない民謡」だとして、では「国民楽派」として従来括られてきた彼らの音楽を、異邦人である私が聴くとき、一体何を聴いていることになるのでしょうか。マーラーとの関りということなら直接にはチェコの音楽ということになりますが、同じような事情はシベリウスについてもあるかもしれません。例えば国文学者で優れた透谷についての研究のある新保祐司さんに『シベリウスと宣長』というのがあって、タイトルから想像した通りの私にとっては非常に気味の悪い、シベリウスの音楽は「清潔」であって、それが宣長に通じるという話――政治的にナイーブすぎてナチシンパだったヴェーベルンが日本参戦を聞いて「純粋な民族」といった、とんでもない発言をしているのを思い出してしまいます――になっているのです。新保さんは『海道東征』の復活上演に深く関わっているようで、信時についての著作もあるので、『シベリウスと宣長』への違和感という形で取り上げた方がいいのでしょうし、それはそれでやればいいのでしょうが、そもそも私はシベリウスを「国民楽派」として聴いていないー演奏者としてはベルクルントがはっきりそう言っていて、その演奏と一貫してもいて、ともども共感できますーので、そもそも話がかみ合わないのです。そういえば、透谷についても新保さんのようなアプローチは基本的に違和感があって、私は透谷に対して明治の精神とかはなしで接しているので、透谷に関しても一緒にプロテストができてしまうかも知れません。

 本当は「架空の島」と言うとき、それが例えばフィン族、フィンランドという民族なり国家なりの文化的場なのか、もっと個人的なものなのか、という点に辿り着きたかったのですが、結局時間切れのようです。なんでそんなことが問題になるのかと言えば、マーラーの場合、故郷とか風土的なものは徹底的に疎外されて「ありけたかも知れない」ものであることがはっきりしているので、寧ろ当惑することがないし、三輪眞弘さんの場合にも、マーラーの場合とは理由は違うけれど、それが柴田南雄さん的には(あるいは民謡採集者、民俗学者、人類学者にとっては)日本民謡の「音楽の骸骨」であっても、常に・既に「ありえたかも知れない」日本だし、それをMIDIアコーディオンの誰でもない声が「歌う」という前提があるから「海ゆかば」を聴くことが可能になるので、やはり当惑はないのですが、そうでない場合に向き合ったときに、それが自分が子供の頃から慣れ親しんだ音楽にも関わらず、というか寧ろそうであればあるだけ猶更、どう向き合ったらいいのか困ってしまうからなのです。

 ということで、新保祐司さんの『海道東征』に関する著作2つ、取り寄せてざっと目を通して感じたことを以下に記しておこうと思います。敢えて読みました、とは言いません。忌憚ない言い方をすれば、読むに堪えない内容なので。先行して信時についての著作もあるようで、これも取り寄せましたが、後続する『海道東征』本で自己参照しているのを読んで想像していた通り、これも読むのがつらかったです。新保祐司さんも取り上げていたと思いますが、透谷と同じく没落した士族の子弟で、徳富蘇峰と並んで、キリスト教に接近して後帝国主義者に「変節」した人に山路愛三という人がいて、新保さんお気に入りの内村鑑三に「余は何故に帝国主義の信者たる乎」と題する(当然これは内村の「余は如何にして基督信徒となりし乎」のもりじなわけですが)公開状を突き付けたりしています。内村にすれば、徳富蘇峰と山路愛三は同じ穴の狢、「君子豹変の実例」と返したのですが、私にすれば、内村が肯定した日清戦争に対して既に反戦を唱え(なので、反戦運動の先駆けとされることがあるようですが)、でもそれからすら落伍して縊れて自死して果てた透谷が見ていたものは、内村とも更に別の何かだったに違いなく、だけれどもそこここで新保さんが参照しては賞揚する内村よりも、新保さん自身は寧ろ愛三に近しくなってしまっているのではないかという危惧を抱かざるを得ません。そんなことを言おうものなら、素人が何を言うかと一蹴されてしまうのでしょうが。

 小林秀雄の「モオツァルト」がきっかけで評論家を志したと述べる新保さんの評論なるものは、新保さんが小林秀雄を評価する点、つまり自分の実感なるものを恃むことから、結局ちっとも対象を語らず己の感興を語るに終始するように思えて、対象が『海道東征』だからというわけではなく、『シベリウスと宣長』や、(唯一マーラーの第3交響曲のアダージョについての文章を含むということで、それを読むためだけに取り寄せた)『詩情のスケッチ』なる評論集において既に相容れいないものを感じます。嗜好が合わない、立場が異なるというのもあるのですが、寧ろ、その批評のスタイルが私にとっては耐え難いもののようです。新保さんの別の本のアマゾンのカスタマレビューで以下のように言う人がいて、私だけの思い込みというわけでもないらしいとわかって安堵したような次第です。曰く、

「本書では、和洋の様々な詩人、批評家、音楽家と結びつけて、その崇高さを盛んに言うのだが、類似性を言われたからといってなんなんだろう。いったいどこが現代社会への根源的問なんだろう。さっぱり分からない。批評とは思わずに気楽なエッセイとして読めばいいんだろうが、それにしても著者自身の思いをつらつらと述べているように思えて面白くなかった。まあ、こちらの頭が悪いだけかもしれない。」

 とはいうものの、ここで報告したいのはスタイルの問題ではなく、主張の実質の方で(とはいえ小林秀雄の場合と同様、両者はどこかで共犯関係にある筈ですが)、新保さんは、山田耕筰と信時の二人を取り上げてロシアの五人組、スメタナやドヴォルザーク、シベリウス同様の「国民楽派」「日本楽派」なのだと言います。そして信時は個人的天才ではなく、民族的天才なのだという。上に書いたような次第で、もちろん民族性とは何か、民族的天才とは何かの説明などありません。天才概念と民族性がどうしたら共存しうるのかとか、実は「国民楽派」というのはフィクションに過ぎないのではないかとかもないし、シベリウス本人が自分が国民楽派だとは思っていなかったという事実(を知っているかどうかすら怪しいですが。何しろ菅野浩和さんの紹介以来、既に半世紀以上の年月が経っているというのに、相変わらず言及するのはもっぱらセシル・グレイだし…)もそっちのけ。本の帯に「私たちは、なぜこの曲に心打たれるのか」とあるけれど、実はそれは反語的でしかなく、「私はこの曲に心打たれた」「この曲に心打たれないない輩はわかっていない」ということをひたすら繰り返しているに過ぎない。戦前の復活などということをいうのは浅はかだというけれど、なぜそう断言できるかの説明はなく、結局「私はこの曲に心打たれた」に行き着く他ない。これは或る意味では無敵です。同語反復、AだからAなのだで済ませるのは、論理の停止なので。

(さらに付け加えると、新保さんは諸井三郎さんの第3交響曲について、秀才の書いた大変立派な交響曲だけれども、「日本人がその交響曲で表現したもの、歌ったものはあるかというと、諸井三郎は何を歌いたかったというのはないんです。」と断定します。もちろんこれは嗜好の問題に過ぎないかも知れないけれど、私には信じ難い意見です。それはあなたには聞きとれないだけだとは思わないのですか?と聞きたくなります。しかも、上記の引用は、新保さんのレトリックの或る意味での典型を示している。日本人として何かを歌うのでなければ、作曲者が歌うことになど価値はない、という恐ろしい論理が透けて見えるように思います。そしてその論理の下では、後期の交響曲などではなく「フィンランディア」こそが顕揚の対象になっている。そこから『シベリウスと宣長』に逆に線を引き直すとどうなるか?後期の交響曲に新保さんが聴きとっているらしい「純粋さ」その他の一連の形容詞は、私が同じ形容詞を使うときにそこに見ているものとは全く異なるのだろうな、と思うほかありません。)

 ということで、一つ宿題を抱えてしまったように感じています。シベリウスについては、新保さんとは異なって私は「国民楽派」という枠組みは不要だと思うし、そのように対して来ました。勿論、彼の音楽の持つ周縁性というのは確実にあって、しかもそれが三輪眞弘さんの「新調性主義」とは異なる仕方で、三輪さんがそこで仰るところの「接続」を試みたものとしてとらえることができると思っています。だけれどもそれは宿題のうちの半分だけで、残りの半分として、「国民楽派」と呼ばれている作曲家の作品に異邦人の自分が聴きとっているものは何なのかについても、正確に言い当てなくては片手落ちのように感じています。

 それらに関して、素朴で、もしかしたら下らないかも知れないけれど、否定することができないアイデアが浮かんで来ています。ものすごく乱暴に言えば、「我が祖国」は、それが成就した、あるいは成就しつつあることへの賛美・賞揚ではない、そのようなものとしては受け取っていないのではないか?「我が祖国」は「ブラニーク」で終わりますが、「ブラニーク」は、現実には白山の戦いでフス教徒たちは壊滅してしてしまったという事実から出た黙示録的なビジョンとしての「物語」に過ぎません。それは「…という夢をみた」という構造を備えているのです。それは「古事記」や特に「日本書紀」がそうであるような、支配の正当化の道具として「歴史」ではなく、ついに「歴史」になることができなかった敗北者のバラードであって、だからこそ、私のような異邦人が自分の居場所を見つけることができるように感じるのではないか?

 実はこの点では、フィンランドにおける『カレワラ』の位置づけはずっと微妙ですが、シベリウスとの関りにおいてなら、私にとって彼のいわゆる「標題音楽的」な作品は『カレワラ』に取材したものも含めて私にとっては疎遠であって、辛うじて「タピオラ」のみが例外で、私はそれを破棄された交響曲第8番の代補として、寧ろ交響曲として聴いているので、そのような形での問題は起こらないのですが、だからといって全く問題がないということにはならない。逆に一世紀後の異国で「タピオラ」と同じようにして彼の交響曲を聴くという時、結局そこで私が聴きとっているものは何なのかという問い自体は依然として残り続けます。シベリウスが『カレワラ』の、森の神タピオに関する一節を引いた時、そこに見ていたのはフィンランドの国家や民族としての歴史でもなく、それに近いものとしては「風土」のようなもの、だがそれも風土論として一般化できるようなそれではなく、もっと彼自身の世界との関りの様態の構造のような個別的なものの消息ではなかったか、そして子供の頃の私は、西洋音楽の歴史やそこに存在してきた規範といったものを抜きにして無媒介にそれを感受し、それに同調するような自己の在り方を無意識的に選び取ったのではないかと思うのです。

 新保さんの信時の方の規定、つまり彼は山田耕筰とともに「国民楽派」「日本楽派」であり、彼個人は個人的天才ではなく、民族的天才なのだという規定の当否は一旦措いても(というのもそれには私は端的に関心がないからで、寧ろ私は新保さんが価値を措かない諸井三郎の作品に見られる「反応」の方に共感するからですが)、ことシベリウスの側については、彼は(同時代の彼の周辺の人たちがそう看做したとしても尚、彼個人としては)フィンランドの「国民楽派」ではないし、彼は民族的天才であるより個人的天才であったというのが私の了解です。(稍々話が逸れてしまいますが、フィンランドという国家について言えば、ラップランド地方を中心にサーミ語話者がいるだけではなく、歴史的事情から寧ろかつての支配的階層であったスウェーデン語話者がいて、シベリウスは実は後者に属するという点を指摘していくのは意味のないことではないでしょう。チェコの「国民楽派」を代表するスメタナやフィビフの母語がチェコ語ではなくドイツ語であったように、シベリウスの母語はフィンランド語ではなくスウェーデン語で、フィンランド語は「後から」習得したものであるそうです。それ故か、彼の声楽曲では歌曲はスウェーデン語の詩に曲をつけたものが大半を占めるようですし、唯一の歌劇もスウェーデン語、フィンランド語は合唱曲が多いという話を聞いたことがあります。)彼の後のフィンランドに、私がわずかでも接したことがある限りでも、例えばコッコネンのような優れた作品を書いた作曲家がいることを知らないではありませんし、その作品を支える論理について、ユニークなもの――それは再び「周縁性」の特権によるものかも知れません――が感じられるのは確かなことに感じられます。そしてコッコネンの音楽にシベリウスと共通する風土的な何かを見出すことも可能でしょうし、そうした風土的なものに惹かれる側面もあるけれど、それがツーリスティックな関心のレベルをどこまで超えるものであるかは、もう少しきちんと作品に向き合って調べてみたいと思いながら時間が取れずに来たこともあり、判断を下すことは未だできないように思います。唯一コッコネンについてもそのような状況ですから、他の作曲家について言えば、例えばあの余りに有名になってしまった「カントゥス・アルクティクス」を書いたラウタヴァーラのような場合も含めて、フィンランドの音楽なら何でも好きといったようなことにならないのは勿論ですが、音楽に限らず、フィンランドの様々な文化に接するにつれ、それに応じて戸惑いを感じたり直観的な理解に困難を感じる場面もあって、結果として私が惹かれるのはシベリウスの音楽、しかもその総体ではなく、特に「国民楽派」的な作品ではない一部の交響的作品に限られていて、それは勿論フィンランドの風土と不可分に関わっているけれどシベリウスという個人が見出した世界との関りの様態が、意識的な水準における文化的・教養的な媒介抜きで刻印されている作品なのだということになりそうです。私がフィンランドに惹かれるとして、それはあくまでもシベリウスを媒介として感じ取れるそれであって、寧ろ「個別的なもの」であると言うべきなのかも知れません。

 ドヴォルザークの「新世界」と「アメリカ」は、私がシベリウスやマーラーより前から知っていて、同時に最初から、ドイツ音楽の亜流とか、構成よりも旋律重視であるがゆえに親しみやすくはあっても、規範となったドイツ音楽からすれば劣っていて高級でない、通俗的な音楽であるというネガティブなレッテルに侵食された存在で、結果として聴くときにも、何となくそうした雰囲気に常に付きまわれてしまって、そうした前了解から逃れるのが困難な存在です。「亜流」という言葉には、そこには独創性とか革新的なものがないこと、規範とか伝統に従属して、そこから逸脱したり、新しい規範を生み出したりする前衛性に欠けるといった含意があって、さしづめロシアであればチャイコフスキー、チェコならドヴォルザークがそうしたクリシェの典型とされている傾向があるのだと思いますが、シベリウスについてもそうしたことが言われるようで、その最も苛烈なものは、レイポヴィツのパンフレットと、それに呼応したようなアドルノの批判でしょう。ここで試みるべきは、そうした価値を逆転させるのではなく(それは、それこそ「つつましい」音楽の顕揚、インティメイトでロハスであることに価値を置くといったことにつながっていくように思えますが、そういったトレンドの話をしたいわけでは勿論ありませんし、アドルノのかわりにジャンケレヴィッチをもってくればよいというような話でもありません)、それらとは異なったもの、そしてもちろん国家主義や民族主義とは別の次元で受け止めることのできる何かがあるように思えて、それを正確に、構造的な仕方で把握して言い当てることではないかと思います。そしてそれができたときに、新保さんのような聴き方に対するプロテストが根拠あるものになるように感じているのです。

 そう、三輪眞弘さんの村松ギヤ・エンジンによるボレロは、「…という夢を見た」というフレーム中では、ギヤック族の民族主義者による音楽、ギヤック国民楽派の音楽ですよね?新保さんのような仕方でなく、シベリウスの音楽をその横に置き直すことができないかということに他なりません。

(2022.9.18私信として執筆, 2023.2.20最低限の編集の上公開, 2024.2.25, 4.8,12加筆修正して更新, 2024.5.16編集の上改題, 12.15, 19 更新)

2011年12月31日土曜日

アイヒホルンのブルックナー交響曲選集についての覚書

クルト・アイヒホルンがリンツ・ブルックナー管弦楽団を指揮したブルックナーの交響曲選集は、私にとって少なくとも3つの理由で 関心を惹くものであった。

1.最初はこの録音の企画に起因するもの。(1)第9交響曲の終楽章つきバージョンが収録されていること。 ここではサマーレ、フィリップス、マッツーカ校訂の「現存手稿譜による自筆スコア復元の試み」演奏会用バージョン(1992年12月)が 採用されている。(2)第2交響曲のキャラガン校訂による2種の初期稿(1872年稿, 1873年稿)が収録されていること。 私はブルックナーの残した様々な稿態そのものに別段の関心はなく、寧ろ改稿が行われた作品とそうでない作品との間にありえる かも知れない違いに関心がある。そしてどちらかと言えば改訂が行われなかった作品をより好む傾向がある。例外はこの第2交響曲 ということになるのだろう。

2.結果的に生じた曲の「選択」に起因するもの。「選集」と銘打って販売されているが、実際には「選択」が行われたというのは 事態を正確に言い表していないだろう。1990年4月に第7番から開始された録音は、1994年3月の第6番でいわば永久に 中断された、と寧ろ言うべきだろう。1994年6月29日、ミュンヘン郊外のムルナウでアイヒホルンは86年に及ぶ生涯を終える。 その結果、企画されていたらしい、第0,1,3,4番の録音は行われることがなかった。いわば企画は「未完成」に終わったのである。 だが私の嗜好からすれば、遺された録音が図らずも私が好きで、よく聴きもする作品とほぼ一致するような結果になった。

3.演奏の傾向に起因するもの。私はブルックナーの音楽の「ローカルな風景」といったものに惹かれる傾向があるので、 ブルックナーにとって「地元」であったに違いないリンツのオーケストラをミュンヘン生まれの指揮者が振った演奏の録音は 大層好ましい。必ずしも機能的に一流とは言い難いかも知れないが、独特の間合い、呼吸から生み出されるフレージングの 自然さは、いわゆる「即物的」で「客観的」と言われるであろうアプローチとは全く異質でありながら、この上なく「自然」であると 私には感じられる。オーケストラ自体の響きは(あくまで私にとって、だが)理想的と言ってよく、金管楽器群・木管楽器群・ 弦楽器群の間のバランスも大層好ましい。

*   *   *

上記の3点を参照点に、個別の作品の解釈について幾つか書き留めておくことにすると、まず印象的なのが、最も小節数の多い 最初の構想を示す1872年稿を用いていることもあって70分に近づく演奏時間を持つ第2交響曲へのアプローチで、これは 第2と第3の間に相転移があったと見做す立場ではなく、第1(あるいは第0)と第2の間に相転移があり、第2から第5までが いわばツィクルスを為すとする立場に近い。いわば前哨的な小品と見做される傾向さえあるこの作品が、ようやく第8番に至って 再び採用される緩徐楽章をフィナーレの手前に置く構想を備え、しかもいわゆる「フィナーレ交響曲」でもあることを闡明する 演奏であると私には思われる。

第2からのツィクルスの棹尾を飾る第5交響曲と第6からのツィクルスで第5の位置に来る筈であった第9交響曲がまるで対を 為すように、非常に構えの大きな(だが決して巨大趣味で威圧するのではない)解釈を与えられていること、それと対照的に 常には最も雄大に演奏されることの多い第8交響曲が、あたかも第7交響曲と対を為す作品、同じ風景の変奏であるかのように、 一貫して壮大さを拒絶した解釈で提示されているのも興味深い。総じてこうした作品間の解釈づけの変化のベクトル自体が、 多くの演奏のそれとは異なって、私が考えるそれに近いように感じられ、我が意を得たりという気がする。

ブルックナーの改訂作業は、その作品が初演されるまでの紆余曲折と少なくとも無関係ではない。だが個別に見れば単純な図式化 には慎重にならざるを得ない。いわゆる第1次改訂の波と第2次改訂の波の間にも改訂のポリシーについての無視できない差がある。 この第2交響曲の改訂は、第1次改訂の波に含まれ、第2次改訂の対象にはならなかったが、事後的には改訂がなかったように 見える第5交響曲の成立のプロセスの只中にこの第2交響曲の改訂が挟み込まれるようなプロセスになっていることは留意されて いいだろう。しかしアイヒホルンがここで演奏しているのはそれに先立つ、初演に至るまでのプロセスに含まれる異稿である。 即ち1782年稿が試演の結果キャンセルされることになった最初の形態であり、1873年稿は初演された形態である。

留意すべきは、現実の改訂のプロセスは明確に区分できるようなリズムをもっておらず、例えば「最初の形態」と呼ばれるものが 各楽章毎にそれぞれ独立に設定しえて、時系列のある断面において1872年稿の形態が存在していたわけではないということである。 このような事情もあって私は、第2交響曲については、現在提示されている稿態のどれかにオーセンシティを認めるといった姿勢 自体に懐疑的である。寧ろ各稿態は、例えて言えば植物の生育のプロセスのスナップショットのようなものであり、かつ(ここは 非常に重要な点だが)そのスナップショットは、時系列の観点から言えば事後的に編集されたものなのだ。だが、意識された 時間流自体が事後的に編集されたものである(というか、時間意識の構成は、そうした編集作業そのものなのであり、しかも 意識があとから振り返っても編集のプロセスは消去されている。つまり編集の主体は意識ではなく、意識は結果を受け取る だけなのだ)から、時間のスケールは異なるとはいえ、それとここでの改訂とは同型のプロセスと見做すことができよう。 だが、であるとしたら、ここで「意識」に相当するもの、結果を受け取るものは「誰」なのだろう。作品の「完成」の条件は 「何」なのか。それが「演奏」されることを想定して書かれたということとは別に、(だから「作者」にとってではなく)「作品」の ある稿態にとってそれが「演奏」されたという事実の持つ意義はどこにあるのか。ここで演奏されている第2交響曲のヴァリアントは そうした問いを聴き手に差し向けているように思われる。

*   *   *

しかしこの「選集」が最も異彩を放ち、存在感を示すのは何といっても第9交響曲が、勿論完全とは言えないまでも、本来構想された 形態に近づいた形でリアライズされた点にあるだろう。勿論、フィナーレの補完作業は既に長い歴史を持っているし、その過程の 折節に成果をリアライズする試みも行われてきた。例えば、初期稿による全集として話題になったインバルの全集では、まるで それが初期稿の延長線、クロノロジカルには寧ろ初期稿の更に手前に位置づけられるかのように、このアイヒホルンの演奏で使用された それに先立つ別のバージョンで収録されていた。ただし私の記憶では、リリース時には第9交響曲の一部としてではなく、第5交響曲の いわばフィルアップとして、あたかも「参考資料」であるかのような形態で提示されたのではなかったか。そしてそのリアライズの結果もまた、 ここではまさに「参考資料」でしかないものに留まっているように感じられた。

だが、このサマーレ、フィリップス、マッツーカ校訂の1992年12月版のアイヒホルンの演奏によってようやくこのフィナーレが本来あるべき 姿を、控えめに言っても「予見」させるような質を備えて提示されたように思う。勿論、稿態自体の完成度が完成された先行3楽章に 比較して大きく落ちるのは明らかであるし、構造的にも細部のテクスチュアにおいてもまだ、これまた先行3楽章が辿ったような変遷を 辿ったに違いないことは想像に難くない。マーラーの第10交響曲の場合と比べると、その作曲法の違い(それは作品の構成法の違い と極めて密接な関係にあるのだが)に起因するハンディは拭いがたい。コーダはインバルの演奏のバージョンのそれに比べれば遥かに 出来の良いものであるとはいえ、そしてその素材は証言に基づき慎重に推定されたもの(アレルヤのモチーフ)に基づいているとはいえ、 補作であることは否定すべくもない。だがそれでもなお、この演奏そのものが先行3楽章に釣り合ったこのフィナーレの構想を予見させるに 充分な質を備えていると私には感じられる。端的に言ってしまえば、この演奏によって初めて4楽章通して聴くことができる、否、 聴きたくなる水準が達成されたと感じられるのである。マーラーの第10交響曲について、それが如何に不充分なものであったとしても尚、 第2楽章以降を知っているのと、アダージョのみしか知らないのとでは作品についての理解が全く異なるように、この演奏に至ってようやく、 第9交響曲において目指されていた方向が浮かび上がったのであり、第3楽章のアダージョの終りをもって「完結した」と見做す理解と 根本的に異なった作品理解への手がかりが与えられたといって良いと思う。

否、仮にこの第4楽章の価値について最大限の留保をつけたとしても、しかもこれを私は録音で聴いているという制限を考慮して尚、 私はここにブルックナーの最晩年の姿を見出す思いがする。私はここであえて「姿」と言い、「心境」とか「心理状態」とかいう言葉を使うのを 避けておきたい。彼は自分の衰えを自覚し、今度は間に合わないかも知れないという思いに囚われつつ、それでもなお、神が彼を この世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。私が(誤解だろうが、思い込みだろうが)ここに見出すことが出来る、 遥かに遅れて、しかも間接的な仕方で垣間見るに過ぎないにしても、「出会う」ことが出来ると感じるのは、そうした彼の「あり方」の総体 であって、決して「内面」とか「心境」といった言葉で矮小化してしまえるような類のものではないのだ。既に別のところで書いた思いを私は 再びここで書き付けずにはいられない。シェーンベルクがマーラーの第10交響曲に関して述べたと言われる、人間的なものが超えることのできない 一線を、この音楽もまた超えているように私には思われる、と。人間がそのままの姿では通ることができない門。だが、まさに彼のために、 専ら彼だけのために設けられた門。その場をこの世には端的に持たない、ユートピアの音楽。予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽。自筆譜に書き留められたそれは、だがブルックナーの頭の中で 鳴っていたそれの不完全なコピーなどではないだろう。ここには彼の到達点(それは事前に定められたのではなく、突然、事後的に確定 してしまったのだが)において彼が探り当てた「姿」が書き留められている。しかしその一方で、こうしたケースにおいて「実演」に至らなかった ばかりか、「完成」すらしなかったかも知れない「作品」を単純に「存在しない」ものと決め付けてしまうことに、私は非常に強い抵抗を覚える。 彼はこの未完の自筆譜すら破棄することなく、まるでいつか続きの作業を再開することを予期するかのように遺した。(残念ながら、それは この世においてはその価値への無理解から散逸してしまい、もしかしたら彼が見出した全てを現在の我々が見ているのではない可能性が 高いことにも留意しておこう。)要するにこの世というのは、そうした場所なのだ。ここで眺望を妨げる制約は、ありうべき、 来るべき「作品」の側ではなく、この世に生きる我々の側に専ら起因するものであることを銘記すべきであろう。この作品がこの世において 完成しないのは、「幽霊」たらざるを得ないのは、この世ゆえなのだとさえ言いうるのではなかろうか。だとしたら私に出来ることは、そうした 「幽霊」を決して厄払いすることなく、「幽霊」として歓待することしかない。それゆえ私はこの演奏を今後も聴き続けるであろう。

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2011年12月29日木曜日

ヨハネス・ブラームス 死すべき者の音楽

 ブラームスについて、今更語るべきことが残されているとは思えない。時代を超えた大作曲家として、恰も時代と地理的な隔たりがないかの如くの伝記的解説から始まって、パウル・ベッカーによる中部ドイツ的な交響曲作家のトレンドに位置づける試み、更にはその音楽を19世紀のドイツ・オーストリアの 社会的・文化的文脈に位置づける試みは、小市民的な親密さを湛えた音楽、ロマン派時代に台頭した知識人たち、ブラームスがともに生きた人たちのための音楽としての特質を浮かび上がらせる。形式に対する保守的な姿勢、過去の音楽に対する明確な歴史主義的視線を共有するシェーンベルクによる「進歩主義者」としてのブラームス像は、シェーンベルクの側の文脈を寧ろ浮かび上がらせ、証言しはするが、だとしたらそのブラームス像は、それから更に1世紀が経過しようとしている21世紀の今日においては、最早徹底的に過去のもの、それ自体歴史のフレームに収まったものであるはずだ。

 そう、「大作曲家」ブラームスの人と作品は、彼自身がある側面においてそのように接したであろう、彼自身にとっての過去の「偉大な」音楽と同様、文化財として陳列され、鑑賞されるようになっている。今日的なコンサート、つまり同時代に作曲されたのではない、過去の作品を中心としてプログラミングされたコンサートのスタイルそのものの確立にブラームス自身、少なからず寄与しているし、自筆譜の収集、演奏用の楽譜の校訂といった今日では音楽学上の当たり前のプロセスとなっている作業もまた、ブラームス自身が行い、その確立に寄与したものであることを忘れてはなるまい。要するに、それまでも作曲家個々人の水準においては、過去の伝統への参照というのは為されてきたのではあるけれど、そしてメンデルスゾーンによるJ.S.バッハの「マタイ受難曲」蘇演のような出来事に先立たれているとはいえ、ブラームスこそ「歴史意識」というのを公の場に持ち込んだ張本人に他ならないのだ。良く知られるように、当時それは少なからぬ反響を喚起し、ブラームスは「進歩派」を自認する陣営から批難されるといったことも起きたが、現実にはブラームスが持ち込んだ姿勢・態度は今や当たり前のこと、或る種の前了解に属するものになっているという点を認識すべきであろう。そして、彼自身のひいたレールに乗るようにして、今日ブラームスの音楽が演奏される コンサートホールは、寧ろ美術館、博物館の類に似ているのかも知れない。嘗ては彼自身の友人達が時には彼自身ともに演奏したであろう室内楽や歌曲は、今日ではより多く、三輪眞弘さんの言う「録楽」として、室内で、一人きりで聴かれるに相応しい音楽であるかのようだ。そしてこれもまた、ブラームスがエジソンによる蝋管シリンダーによる蓄音機の発明に興味を持ち、発明から12年後というごく初期に自作自演の記録を試みたことを思い起こせば、彼自身がひいたレールに乗っているという見方ができるのではなかろうか。

*       *       *

 ブラームスの音楽は、歌詞を持つ作品、即ち独唱曲、重唱曲、合唱曲の数もまた膨大なものであり、全作品において大きな比重を占めるものの、基本的には標題音楽ではないし、描写的な要素が支配的であることもないけれど、そして同時代の美学者に「絶対音楽」の代表に奉られたにも関わらず、その器楽曲や管弦楽曲は、具体的な「風景」を非常に強く喚起する力を備えていると私には感じられる。尤もこの点については、まさに歌詞を持つ作品群の多くが今日等閑視されつつあること、更に言えば、歌詞を持つかどうかというよりは寧ろ、ブラームスが、コンサートホールでの公的な性格を持つ演奏ではなく、身近にいる人々との私的な演奏を想定して書いた作品が、しばしばビーダーマイヤー的で当時の社会的状況(「成り上がり者」のブラームスはまさにそこに自分の居場所を見つけたのだとされるのだが)に拘束され過ぎた過去の遺物として、今日顧みられることが少ないことの結果に過ぎないという見方もできるだろう。それらの作品は両義性を帯びていて、一方では商品として流通し、消費されるのに適していた。作曲だけで富を得ることに成功したブラームスは、王侯貴族の占有物であることをやめて市民社会で流通するようになった商品としての音楽、賞味期限付きの消費される音楽の製作者という観点でも先駆者であって、作品表の中で一定の分量を占めているそれらの作品は、或る意味では時代の経過とともに忘れ去られて当然という見方も成り立つのかも知れない。つまりブラームスが「絶対音楽」の作曲家だというのは、既に同時代に始まった見方であるにせよ、その後遺された作品が作曲者が属していた社会的・文化的環境から遠ざかるにつれてますますその傾向が強まった遠近法的な倒錯に過ぎず、その本来の文脈において、絶対音楽かどうかなどという議論とは別の次元でブラームスの音楽が強く結びついていた、具体的で個別的な契機が忘却されたことに拠るのだと考えれば、それは不思議なことでも何でもないだろう。

 ともあれ何れにしても、それが私の場合に固有の個別的なものなのか、一般的にそうであるかはわからないが、それらに聴き手が垣間見る風景の多くは屋外のもの、屋外への室内からの眺望、屋外から差し込む光、屋外の風景の幻覚や回想であり、それらは非常に強い五感に働きかける力を持つ。雨の音を聴くばかりではなく、明るさを、温度を、湿度を、立ち込める香りや匂いを生々しい程に 喚起する力を備えている。(その一方で、一般にそう考えられる程、色彩に乏しいわけでは決してなく、ただ、それが或る種抽象的な、例えば調性と結びつくような水準のものではなく、都度非常に具体的な風景のそれであることや、知覚よりはより強く情動に働きかける、その力の持つ特性が、色彩の次元を分離することを困難にしているかのように思われる。)そして、その風景、聴き手にとっては未知のものである筈なのに、懐かしさや或る種の親密さに強く彩られたそれは、だが、決定的に過去のものなのだ。例えばだが、道は舗装されているようには見えず、自動車は走っていないし、電柱や街灯が立っていることもない。飛行機雲というのは存在しないし、高層ビルが林立することもない。

 それはそうした風景を色付けする情動が懐旧的、回想的であることのみを意味するのではない。そもそもその風景は私がかつて実際に見て、記憶の底に留まっているものではないのだ。その風景は、三輪眞弘さんの言う「電力芸術」以前の時代、今日の聴き手が置かれている世界とは根本的に異質な、電力のない世界の風景なのである。現実にはブラームスの晩年の時代には、室内照明に電気が用いられ、それは成功した作曲家であり、最先端の技術を導入することのできる富を蓄えていたブラームス自身の住まいを照らしたようだし、新たな都市計画に基づいて相次いで新築された街路や建造物の照明も、ガス燈から電力へと移行しつつある時期にあった。また、既に触れたように、最初期の蓄音機の記録の一つに、 ブラームス自身のピアノ演奏を記録したものがあるのは良く知られているだろうし、電力以外でも、鉄道網の発達(彼自身の死の前年にクララ・ シューマンの葬儀に向かったブラームスが、どのような心理的機制によってか、あるいは単なる偶然によってか、列車の乗継に失敗して、葬儀に間に合わなかったエピソードはあまりに有名だろう)、リゾード開発、はたまたブラームス自身の風貌や、彼が見たはずの風景を今に告げる写真技術など、現代に繋がる技術革新はブラームスの最晩年には確実に風景を変えつつあった筈である。だが、にも関わらず、その音楽の喚起する風景はそうした技術以前のものである。音楽が喚起する仮想の風景が、外的な現実よりも心的な現実を証言するものであるとしたならば、ブラームスの音楽が生きる世界は、やはり電力以前のそれであり、今日、電力の大量消費に支えられたコンサートホールで演奏されるブラームスの音楽は、だが、それ自身は「非電力芸術」である。要するにそれは、端的に言って私とは無縁の、徹底的に過去の時代と場所に属する「遺物」に過ぎない筈なのだ。生物学的には変わっていなくても、異なる身体性を持ち、異なる知覚の様式を持ち、異なる情動の様態、異なる時間意識を持ち、異質の時間を生きる、かつての「人間」の音楽の筈である。

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 それなら何故、私は今、ブラームスを聴くのだろうか。その理由はしかし、ごく個人的な仕方でしか語れないようだし、しかもそうした事情自体が何故ブラームスを聴くかについての消息を告げているようだ。父がFM放送をエアチェックしつつカセット・テープに録音した音楽の中にはブラームスの作品が少なからず含まれており、それ故それは私が幼少時からごく普通に慣れ親しんできた音楽であった。(父のコレクションの中では、特にヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」、第3番や弦楽六重奏曲第1番、更には4つの交響曲が該当するだろう。)しかも周辺にあった様々な音楽の中から、自分にとってとりわけ親密なものとして自ら選択した音楽だし、父のコレクションには含まれず、自分で発見した作品も少なくない。一例を挙げれば、「ドイツ・レクイエム」は父にとってはよくわからない作品だったようだが、自ら探り当てて後、或る時期以降の私にとって、精神的な支えとなるかけがえのない作品となった。恐らく父にとって躓きの石となったであろうその歌詞は、だが私にとっては時としてそれ故にこの曲を切実に求める契機となり、それ故に限りない慰藉を与えてくれる存在なのである。またブラームスが遺言状をしたためて後の、いわば「晩年」の作品、つまり作品116~119までのピアノ曲集、作品114,115,120のクラリネットを用いた作品、更に四つの厳粛な歌(作品121)とコラール前奏曲集(作品122)もまた、私が自ら見いだし、親しんでいった作品と言えるだろう。そしてこれまで様々な角度から述べてきたような反省的な距離の感覚なしにそれを無媒介に体内化してしまった私は、自分がその多くの時間を生きている環境とは異なる身体性、異なる知覚の様式、異なる情動の様態、異なる時間意識を体内化し、 異質の時間を自分の時間として自己自体を構築したのであり、だからそれは私の一部なのである。ある時期以降、その音楽は自分が意識的・主題的に扱う存在ではなくなり、一見したところ周縁的な存在になったかのようであったが、実際には或る種の無意識的・前意識的な基層として「自己」の一部になったに過ぎない。それは埋め込まれ、クリプト化され、完全に表層から姿を消してしまったという訳でもないし、自己の形成上の不可逆的な過程の痕跡というわけでもなく、常に意識的・意志的な活動の傍らにあり続けてきた。

 良い意味でも悪い意味でもそれは私にとっての「癒し」の音楽であるかも知れない。私に宛てられたのではない、自分にとって問題に富んでいるわけでも、解き明かすべき何かを提示するわけでもなく、寧ろ、滞った感情を解き放ち、緊張を解きほぐし、比喩的な意味で意識を麻痺させ、眠りに誘う音楽。その音楽を聴いてごく自然に涙を流すことができる音楽。 そこに時として確実に存在する途方もない、決して飼い馴らされることのない、強烈な、あてどのない絶望的な怒りの感情の噴出によってすら、その感情に一時同調し、ともに嗚咽することによってカタルシスを得ることができ、その後で日常にそっと自分を押し戻してくれる音楽。 どこにも連れて行かない退却の、休息の音楽。寧ろ見慣れたものであったはずの、懐かしい、だが平凡で、そこから特別な何かが生じるわけではない 「日常」の風景に連れ戻してくれる音楽。一見したところ崇高な何かに捧げられることのない、 寧ろ日々の平凡な、だが時として困難でありながら必ずしも稔りが約束されているわけでもない営みの同伴者。 ブラームスの音楽は、だからある一面において、あたかも演歌のようなものであるかも知れない。ただし、一見素材に見合わないほど緊密に織り上げられた、まるで絶望と怒りの深さが漏洩し飛散するのを避けるための堅固な格納容器のごとき構造がもたらす、他に比較するものが思いつかない程強烈な、時に形式を毀損するのではと思わせるような緊張の大きさは全く特異なものだ。「偉大な芸術音楽」にも関わらず、もしかしたら「ありえたかもしれない芸能」でしかない音楽。根無し草の、歴史も文化も異なる人間にとっての芸能。

 ブラームスが進歩主義者であるかどうかといった規定は、当事者であるシェーンベルクにとっては抜き差しならぬ価値を帯びていたかも知れないが、 進歩か保守かといった二分法が既に意味を喪った世界に生きている私にとってはどうでもいいことだ。しかしシェーンベルクが見出したブラームスの作曲技法の次元が持つ効果はまた別の問題である。ブラームスにあって技法は衒学趣味に留まらない。一見したところ民謡風の、親しみやすい旋律は、だが一見類似した他の音楽とはっきりと異なった徴を帯びているが、その差異のために技法が総動員されているのだ。結果が洗練され、高度であっても所詮は芸能に過ぎないのであれば、泰山鳴動して鼠一匹という見方もあるだろう。だが、そうした細部の彫琢こそがブラームスの音楽を単なる「癒し」の、単なる「美」の次元に留めず、「崇高」な何かの予感を、その親しみやすく日常的な表情の背後に忍び込ませるのだ。恐らく周到で知的であったブラームス自身の意図に従って、慎重に秘匿されて。だがそれはしばしば意図を超え、意図に反して浮かび上がる。否、聴取の表層においては気付かなくとも、その音楽が自分の身体に定着し、水路づけが行われるに従って、そうした背後の部分こそが機能していることに気付かざるを得なくなる。だからブラームスの場合、彼自身の幾つかの証言をおけば、 評伝や評論の類は私にとって無用なものだ。それよりは例えば池辺晋一郎さんが「同業者」の視点でその一部を示してくださっているような技術的な細部の方が余程重要だし、ブラームスの音楽の持つ特質を正しく言い当てていると思われる。私は勿論同業者ではないけれど、ブラームスの音楽が優れて「癒し」の音楽たりえているのは技術的な細部によるものだということは、私のような今や一方的な享受者に過ぎない、否、もしかしたら十分な享受者ですらたり得ないまでに音楽との関わりが縮退してしまった聴取の落伍者にとっても明白なことなのだ。

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 否、ブラームスの音楽が不要に思える瞬間というのも私には確かに存在する。ブラームスの音楽を聴くことは私にとって明らかに停滞、休止であり、出口のない感情の吐け口であり、時として或る種の退行であろう。マーラーはオペラ指揮者としての自分を高く評価してくれているブラームスについて、ブラームスと直接接触のあった時期には作曲家としての円熟をも評価する発言をしている(ナターリエ・バウアー=レヒナーの証言がある)一方で、後年の妻アルマへの1904年6月のマイアーニヒ発とされる手紙の中では、ワグナーやベートーヴェンと対比しつつ「うすっぺらな胸をした貧相な小男」(酒田健一訳、アルマ・マーラー『マーラーの思い出』, p.284)と批判もしているが、このマーラーの言葉には、私なりに同感できる部分がある。ブラームスの音楽は大言壮語をすることなく、日常のすぐ隣にあって、ひととき変貌して、あたかも奇跡が生じたかのように人の心を奪う不思議な風景の変容を垣間見せるような魔術はそこにはない。その一方で、その高度な技術は平凡な生を形作るひっそりとした細やかな心の動きを過たずに捉えることには用いられても、何か他のものを探索し、ありえたかも知れない世界を構築することに用いられることも、またない。結果としてブラームスの音楽は、私がこの場で立ち続けることを手助けしてくれることはあっても、私をどこか他の場所に誘うということをしない。端的な言い方をすれば、ザドラとスティックゴールドが『夢を見るとき脳は』(邦訳は藤井留美訳、紀伊国屋書店、 2021)で仮説として提示する「可能性理解のためのネットワーク探索」(NEXTUP:Network EXploration To Understand Possibilities)としての「夢」の役割に通じるような、ありえたかもしれない世界の構築としての音楽作品の創造という契機(それはブラームスをかくの如く批判するマーラーにおいては極めて明確であり、マーラー自身もまたそのことに自覚的であったし、1世紀以上が経過した今日の展望においては、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション」音楽の「命名」の相に関連して、自ら「…という夢をみた」という「由来」を必ず作品に付加することに本質的に関わる)がブラームスの音楽には希薄で、音楽の展開が厳しい自制によって堅固ではあるけれど抑制的に為されるのに応じてか、その探索範囲があまりに狭く、貧しいように感じられるのだ。だがしかし、こと私についていえば、それはブラームスの音楽の側ではなく、私の側の受容の姿勢の問題なのかも知れない。私は音楽自体ではなく、音楽によって惹き起こされる自分の中の反応様式を求め、それにひととき溺れることで癒しを得ているのかも知れない。 そうした姿勢は唾棄されるもので、ブラームスの音楽に対する冒涜と見做す人もいるだろう。自分の弱さを自己正当化する甘えでしかない情けない祈りしかそこにはないのかも知れない。

 だが、だからといって一体どうすれば良いというのか。そうした音楽なしにやっていけないとしたら。とりわけても3月11日以降。自分が弱っているときの同伴者がここにいる。 場所も時間も、文化の違いも超えて、傍らに、ほとんど無媒介にその音楽は私の隣に存在する。奉納ではないかも知れなくても、懐疑に蝕まれつつも、それだけに切実な、人間ならぬ何かへの祈りがそこには確実にある。「ドイツ・レクイエム」は、端的にレクイエムが不可能である状況の証言であり、そうした状況に陥った人間の声なのだ。だからその声は、そうした状況に陥った人間には全く異なって響く。それは美とか芸術とかとは、差し当たり無縁のものとさえ言えるかもしれない。枚挙に暇はないが一つだけ例を挙げるならば、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』の中の第25章「哀歌―音楽と狂気と憂鬱」において参照される事例においてブラームスが二度までも(最初は「アルト・ラプソディ」であり次は「ドイツ・レクイエム」だが)登場することは、そうした消息を証言しているように思われる。この音楽は、確実に何人もの人間を文字通り救ってきたし、きっとこれからも救うだろう。「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである。」という言葉は、音楽とともに歌われるその瞬間、あたかも成就したかのようではないか。それは既に死んだものたちの音楽であり、今からのち死すべきものの音楽である。それは優れて死すべきものの音楽である。だがしかし、そうでないような音楽があるのだろうか。だとしたら、これこそが「音楽」なのではないか。

 逆転が起きるのか否かは、しかし、この音楽が鳴り響く場ではどうでもいいことのように思える。それが一般的であるか、普遍的であるかもどうでもいいことだ。美学も芸術学も、「癒しを超えることが可能か」という問いもまた。それは感覚を超えた何かではなく、感覚の手前にあるものに対処しなければならないときの同伴者なのだから。個別の癒しを証言することは可能だが、癒しについて論じることは癒しそのものとは無関係だ。 冷静に、部外者の立場であることを宣言し、ある意味では全く正しい批判をしつつ(もっとも、その一方では極めて危険なものに思われる想像力の濫用としか思えない放恣な行使によって、それが担いえたであろう現実認識や気付きを毀損するようなことになってしまうのだが)、だがそれに終始することは、事後的な効果としてであれ、事実上「歓待」の拒絶ではないのか。それは「レクイエムなんか書けない」と言いながら、受け止めたものに限りなく忠実であるが故に異形のものである他ない作品(それは最早人間「だけ」のものでないが、それが「音楽」である以上、人間や動物たち、あるいはより広く生物のものであり続けているし、それゆえ人間のもの「でも」あり続けているのだし、そこには或る種の癒しを、冷徹な現実認識や気付きとともに見出すことすら可能である)を創りあげる作曲家の挙措とどんなに違って見えることか。現実に震災で傷ついた人に対して贈与されたブラームスの「録楽」があたえることができたもの(そう、これは個別的な「証言」であって、 条件法で語られる範例などでは断じてない)と比べて、どちらが同じ圏に属しているのかは、少なくとも私には明らかなことに思われる。「役に立つ」という言葉は確かに両義的だが、それでも、その両義性を引き受けた上でなければ「歓待」は不可能だし、私は危険を引き受けつつも「歓待」を選択するだろう。

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 ブラームスについて今更語るべきことが残されているとは思えないというのは、だから、ブラームスについて多くのことが語られてきたからである一方で、ブラームスについて語られてきたことが、私が聴くブラームスの音楽とは疎遠であるからでもあって、それらの語りの地平が端的に不要のようにすら感じられるということでもある。少なくともブラームス自身は、傷つき、癒しを欲する人間とともにある。「ドイツ・レクイエム」や「アルト・ラプソディ」の歌詞は、ブラームスがまずもって自分のために探し求めた末に見出したものだし、音楽はそうした契機を裏切らない。この文章の初めの方で述べたことを繰り返せば、その音楽がもともと属していた具体的で個別的な契機、即ち「由来」を思えば、それは親しい他者に対する「応答」であり、「贈与」であり、「歓待」であったのであり、それは公的な音楽史における貢献であったり、音楽理論上の機能的特質といったものとは無縁のものだったのだから。それは敢てこういう言い方をするならば、美学的な要請とは裏腹に、優れて「機会音楽」であり、極めて私的な性質を帯びていたとはいえ、それでもなお「芸能」であり、「由来」なしで受容されることを拒絶する性質を備えているのではなかろうか。勿論「由来」は時代の移ろいとともに忘れ去られ、喪われていき、ブラームスの作品の方はそれを乗り越えて存続し続けてきたし、今後もそうであり続けるだろうけれど、だからといって、そのことによって作品が「純粋な」、「本来の」姿を現すと考えるのは誤りなのではないか。寧ろ、作品を演奏し、聴き続けること、聴くことを促すことは、その都度「由来」を再付与することによって、作品を甦らせることに他ならないのではないか。人付き合いが下手で、最も親しい友人に対してもしばしばうまく接することができず、その音楽にも幾重もの屈折と陰翳を持ち込まずにはいられなかったブラームスの音楽が力を持つとしたら、それは「純粋詩」の存在を否定したパウル・ツェランの言う「子午線」を通じて、孤独な「人間」同士が出会うような仕方でしかないのではないか。そして1世紀以上の歳月と地球半周分の隔たりにも関わらず、その後のテクノロジーの発達の結果、シンギュラリティを予感するようになりながらも尚、今、ここに生きる「人間」は、ブラームス自身やその周囲の人々がそうであった、かつての「人間」と変わるところがない。

 没後しばらくは追悼の場で必ずといって良い程に演奏されることでブラームス自身へのレクイエムともなった「4つの厳粛な歌」は、取材されたテキスト(「伝道の書(コヘレトの言葉)」「ベン・シラの知恵(シラ書)」と「コリント前書(コリント人への第一の手紙)」)から言っても、まさしくジュリアン・ジェインズの言う「二分心」(bicameral mind)崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」(technologiical singularity)以前の「神々の沈黙」「隠れたる神」の時代を生きる「人間」のものであるし、それは自作について「神を蔑ろにする」「キリスト教徒にあるまじき」ものと考えてさえいたブラームスその人のものであるのと同じように、レクイエムなき時代のレクイエムたる三輪眞弘さんの"Lux aeterna..."を自分の生きる時代に相応しいものと受け止める私のものでもあるのだ。そしてオピュールが『追憶のヨハネス・ブラームス』に記した、ブラームス自身によるこの作品の「弾き語り」の記録に接することで、この作品の「由来」を了解することができよう。オピュールは、自分が耳にしたものは「音でもって高められた言葉」であり「芸術歌曲とは全く別のものだった」と述べているのである。(ここで私は、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」の3つの相のことを思い浮かべずにはいられない。それは過去の音楽についても、それらを博物館の収蔵品か骨董品であるかのようにではなく、「投壜通信」を拾い上げた人間が、自分が受取人であることを引き受けつつ、壜の中の手紙を読むように、まさに「今、ここで」再び生成するものとして受容するために何が必要であるかを教えてくれているのではなかろうか。)

 それ故ブラームスの音楽は恐らく、語るに落ちた存在であり続けるのだろう。そしてそうであることによって、「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである」と語りかけ続けるのだろう。死者のまなざしとともにあることは、己も死すべきものであるということを突きつけられるような事態におかれることが伴っているのではなかろうか。そしてそうした思いへの目くばせなき言葉は、私が彷徨う空間とは別の場で響いているようにしか感じられない。(2011.12.25/29初稿公開, 2012.1.9, 1.15, 1.21, 3.10, 5.6補筆, 2019.12.26,28改訂・決定稿, 2023.12.11-12,14加筆)