2025年3月22日土曜日

フランツ・シュミット

  後世に回顧されることがあるとすれば、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった1980年代後半からの四半世紀弱の期間は、それまで聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になった時代として記憶されることになりはしないだろうか?再生技術の発達は、一回性であった演奏を記録し、後で再生可能なものにした一方で、時代の嗜好につれて変遷しながら、市場の規模に応じて限定されたコンサートのレパートリーから零れ落ちてしまう作品に接する機会をも提供することになる。著作権の保護期間の切れたかつての録音が掘り起こされ、永らく一部の人のみが接することのできた音源が再び江湖に供せられるようになった一方で、コンサートホール以上に限定された録音のレパートリーから漏れてきた膨大な作品が録音され、しかもそれがネットを通じて容易に入手できるようになった。

 かくして私がフランツ・シュミットの名前を知ったのはまさに1980年代後半の頃、当時のマーラー・ブームの中で、マーラー周辺の作曲家として取り上げられたのではなかったか。若杉弘と東京都交響楽団がサントリー・ホールで行ったマーラーの交響曲全曲のツィクルスは、マーラーの作品と当時のマーラー周辺の作曲家の作品を組み合わせたプログラム構成によって、百花繚乱の様相を呈していたマーラー・ツィクルスの中で異彩を放っていたが、そこで取り上げられたのは、アドルノが取り上げた作曲家達、即ちシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンに3人に加えてツェムリンスキーとシュレーカーであって、フランツ・シュミットは含まれなかった。因みに私が実演に接したのは、第6交響曲と一緒に演奏されたシェーンベルク(作品16)、第7交響曲と一緒に演奏されたヴェーベルン(作品6、初稿)、交響詩「巨人」と一緒に演奏されたツェムリンスキーの「人魚姫」、そして交響詩「葬礼」と一緒に演奏されたツェムリンスキーの「詩篇23番」のみであった。

 そういう訳で当時私がフランツ・シュミットに関して有していた情報は、ウィーンのLafiteとÖsterreichischer Bundesverlagが1972年に20世紀のオーストリアの作曲家の叢書の1冊として出版していたNorbert Tschulikの著作(最初は大学の図書館のものを借り、その後古書で入手して今でも手元にある)以外には、偶々入手することができたメータとウィーン・フィルによる第4交響曲の演奏、ネーメ・ヤルヴィとシカゴ交響楽団による第2交響曲の演奏、ペシェクとスロヴァキア・フィルによる第3交響曲の演奏のCDくらいのものであったと記憶する。

 そうは言うものの、フランツ・シュミットの作品がそれまでの日本と全く無縁であった訳ではない。彼の代表作として先ず指を屈すべきヨハネの黙示録によるオラトリオ『七つの封印を有する書』のみは、1977年に日本初演されて以来、1979年、1983年と取り上げられてきたようだ。だがそうした情報もその当時は知るべくもなく、ことこの曲に関してだけ言えば、Preiserから出ていたCDを聴いても惹きつけられることのなかった私が作品に向き合えるようになるのは、ようやくアーノンクールとウィーン・フィルとの演奏のCDに接してからということになる。その折の印象を、私は以下のように書き留めたのであった。

ウィーン・フィル、楽友協会合唱団との、このシュミットの大作の演奏は、これまで 聴いてきたアーノンクールの演奏の中でも、少し特殊なものであるような気がする。

この曲はアーノンクールのレパートリーの中では、そのローカリティの軸に最も 寄ったものに違いない。日本では滅多に演奏されず、ほとんど知られてさえいない この曲のこの演奏を聴いていて感じるのは、曲に対する演奏者の親近感のようなものだ。 ヨハネの黙示録に取材した大編成で長大な作品、しかも、それまでの数百年のヨーロッパの 音楽の語法の図書館と見紛うばかりの語法の多様性に富み、かつまたその同時代的な部分では、 調性音楽の限界すれすれにまで近づく複雑な音楽であるにもかかわらず、演奏から 受ける印象は、そうした曲のイメージから想像されるような複雑さや晦渋さからは 程遠い、親密で愉悦感に満ちた雰囲気である。

この演奏はしばしば、楽友協会合唱団という基本的にアマチュアのコーラスを起用して いるせいで、その技術的な限界故に留保がつけられているようだが、私のような単なる 聴き手にとっては、その演奏の精度が気になるより、自分達にとって身近な音楽を 演奏する親密さのようなものを感じてしまい、かえってこの演奏の価値を高めている ように思えるほどである。

恐らくは決して譜読みも楽ではないであろう曲を振っているというのに、 アーノンクールもいつもの透明感に満ちた解釈に加えて、いつも以上に自ら楽しんで、 生き生きとした表情の音楽を引き出しているように思える。アーノンクールの設計の 巧みさはいつもの事とはいえここでも舌を巻くばかりで、繰り広げられる物語に 耳を傾けているうちに2時間近い作品をいとも簡単に聴き通せてしまう。

ウィーン・フィルもこの難曲をやすやすとこなしているというだけでなく、 音楽に対して自然に向き合っているように感じられる。

それゆえこの演奏を聴くのは非常に楽しい経験である。 この演奏が、決して数が多いとはいえないこの曲のディスコグラフィーでどのような 位置づけを得ているのか、あるいは今後獲得していくのかはよくわからないが、 アーノンクールの演奏としては、それが最も現代に近い作品の演奏であるという だけではなく、アーノンクールをはじめとする演奏者達の作品に対する親密感という 点で最も際立った演奏の一つとして確固たる地位を占めるであろうと思われる。

 それ以外の作品については、管見ではようやく近年になって、寺岡清高さんが大阪交響楽団と達成した全4交響曲の演奏をはじめとして、大野和士さんが第4交響曲を取り上げるというように、日本国内の演奏会でも取り上げられるようになってきているように窺える。『七つの封印を有する書』はどうかといえば、特にウィーンという土地と深い所縁を持つこの作品をウィーン出身の指揮者であるアルミンクが日本国内で取り上げるということが起きていたりもする。

 また、アマチュア・オーケストラについて言えば、アマオケの情報サイトi-amabileによれば、1990年代以降、以前から知られていた歌劇『ノートルダム』の間奏曲・謝肉祭の音楽に加えて、第1交響曲と第4交響曲の演奏は既に行われているようである。珍しいのは歌劇『フレディグンディス』の王のファンファーレが取り上げられていることで、これは現時点においても『フレディグンディス』のまともなCDがなく(この作品の復権を訴えるサイト ”Fairness for Fredigundis!” によれば、メルツェンドルファーの指揮により、1979年9月27日にウィーンの楽友協会大ホールで行われた演奏会形式の上演の、必ずしも音質的に恵まれているとは言い難い録音記録は存在しているようであり、2022年12月現在では既に存在が確認できなくなった上記サイトでその一部を聴くこともできたものが、現時点ではYoutubeでその全体を聴くことができるようになったようだが)、それを除けば、辛うじてシュミット自身が王のファンファーレを主題にした変奏曲とフーガをオルガン向けに書いているのを通じて知ることができるくらいであることを思えば貴重であろう。

 スコアを見ればただちにわかることだが、シュミットの交響曲は和声的に複雑である上にパートが入り組んでいて演奏が猛烈に難しく、上演にかかる労力は膨大で、およそ「割りに合わない」タイプの音楽であることを思えば、プロ、アマいずれのオーケストラでも敬遠されがちなのは仕方ない面もあるだろうと想像されるから、近年の状況は寧ろ活況を呈していると言っても良いのではなかろうか?

 だが残念ながら数少ない貴重な実演に接する機会もなく四半世紀が経過し、未だに私は専ら再生技術の恩恵によりCDに記録された録音のみを通じてフランツ・シュミットの作品に接している。もっともCDに限れば、上記演奏を含むネーメ・ヤルヴィによる交響曲全集のみならず、3曲の五重奏曲、2曲の弦楽四重奏曲といった室内楽、CD4枚組のオルガン曲集、歌劇『ノートルダム』、オラトリオ『七つの封印を有する書』といった辺りまで、折に触れ聴き続けてきており、聴く頻度だけとれば、より有名な作曲家達に対して引けを取ることがない(か寧ろ勝るかも知れない)と言えるのである。近年ではファビオ・ルイジが中部ドイツ放送局のオーケストラと全交響曲・オラトリオ・協奏曲のCDを出した後、NAXOSでも各交響曲に管弦楽曲とを組み合わせて全交響曲を網羅するCD(シナイスキ指揮のマルメ交響楽団)が出た他、特に第4交響曲や『七つの封印を有する書』のCDは数が増えているし、それ以外の管弦楽作品を収めたCDも何点か入手できるようだし、youtubeではヘッセンの放送局のオーケストラを日本でもお馴染みになったパーヴォ・ヤルヴィが指揮して第4交響曲を演奏した記録や、ユーリ・シモノフがモスクワ・フィルを指揮した第2交響曲の演奏記録、更にはファビオ・ルイジがデンマーク放送交響楽団を指揮した『七つの封印を有する書』の演奏記録が視聴できるなど、少しずつではあるが着実にその音楽に接する機会は増えているように思われる。その後、パーヴォ・ヤルヴィがヘッセン放送のオーケストラを指揮した全4曲の交響曲の演奏はCD化されてリリースされた。それ以外にも、ウィーンフィルをビシュコフが指揮した第2交響曲の演奏の録音がある他、上述の大野さん、寺岡さんの第4交響曲の演奏も、アルミンクの『七つの封印を有する書』の演奏もCD化されている。

 その一方で、数は少ないけれども、シュミットの作品についても、著作権の保護期間の切れたかつての録音や、永らく一部の人のみが接することのできた音源がCD化されて身近に接することができるようになった例というのを幾つか挙げることができるだろう。まず第一に挙げるべきは、シュミットの弟子であり、第4交響曲の被献呈者にして初演の指揮者(1934年1月10日、ウィーン楽友協会大ホール、ウィーン交響楽団)、『七つの封印を有する書』の初演者(1938年6月15日)であり、ナチスへの協力者として戦後演奏を禁じられて服毒自殺を遂げたオスヴァルト・カバスタが1940年10月10日にウィーン交響楽団を指揮した演奏の記録が挙げられる。シュミットと同郷(かつてのプレスブルク、現在のスロヴァキア共和国の首都ブラティスラヴァの生まれ)で、シュミットに師事したルドヴィート・ライテルが晩年になって(1983年)地元ブラティスラヴァの放送局のオーケストラとシュミットの交響曲全4曲を録音していることも特筆されよう。ウィーン交響楽団には戦中から戦後にかけてウィーン国立歌劇場の首席指揮者であったルドルフ・モラルトが指揮した第4交響曲の演奏(1955年)も存在する。カバスタに師事したラインスドルフには、晩年になってからウィーン・フィルを指揮した第2交響曲の演奏記録があるし、今日ではアメリカにおけるマーラーの紹介者として記憶されているミトロプーロスには1958年にやはりウィーンフィルを指揮した第2交響曲の演奏記録が残されている。更にミトロプーロスにはウィーンフィルとの『七つの封印を有する書』の1959年8月23日の演奏の記録もある。第4交響曲について言えば、冒頭でも触れたメータがウィーンフィルを指揮したアルバムが有名だろうが、そのメータがウィーンの伝統の中に連なることを思い起こすべきだろうし、実際メータが師事したスワロフスキーにもケルンの放送局のオーケストラを指揮した1964年の演奏記録があるから、いわばそれは師匠譲りのレパートリーなのだと見做すこともできるのではなかろうか。

 『七つの封印を有する書』のウィーンでの上演の系譜に目を転じれば、日本でも良く知られたホルスト・シュタイン指揮によるウィーン交響楽団との圧倒的な演奏や、近年のアーノンクールによるウィーンフィルとの演奏がそれを継承していると言えるだろうが、それ以外にもオーストリア放送交響楽団をツァグロゼクが指揮したものや、バイエルン・オーストリア圏ということなら、私が最初に接した低地オーストリア・トンキュンストラ―管弦楽団による演奏記録が存在するし、リンツ出身のウェルザー=メストがバイエルン放送交響楽団やロンドン・フィルとシュミットの作品を取り上げているのもまた、そうした伝統に連なるものと見做すことができるだろう。

 一方、文献に関しても、Harold Truscott, "The Music of Franz Schmidt - 1: The Orchestral Music" (Toccata Press, London, 1984)が比較的容易に入手できるようになっており、更に幸いな事には、英訳ではあるが、この著作にはシュミット自身の自伝的スケッチや、シュミット晩年のナチスとの不幸な関係に起因する非難に対する反証によりシュミット復権に大きく寄与したケラーの回想が含まれており、重要な一次資料に触れることができるようになっている。

 更に2019年8月末にサイトウ・キネン・オーケストラと松本で第4交響曲を演奏したファビオ・ルイジは、NHK交響楽団に首席指揮者として招かれると、NHK交響楽団の2000回の定期公演のプログラムを一般からの投票によって決定するという企画において、候補となる作品の一つにマーラーの第8交響曲、シューマンの『楽園とペリ』とともに『七つの封印を有する書』を挙げたのであった。投票の結果、残念ながら『七つの封印を有する書』は選ばれなかったが、マーラーの半分、シューマンの倍にあたる700票近くを集めたことを見ると、ルイージの取り組みが日本においてもそれなりに浸透し、結果としてシュミットの存在感が着実に増していることが窺える。

 けれどもそれでは一体どういう理由でフランツ・シュミットを聴き続けるのかと考えてみると、その理由を一言で述べることが難しいことに気付く。ここではその理由を考えてみることにしたい。

 フランツ・シュミットが今日、過小評価されている理由の一つに、ナチスへの協力の嫌疑という不幸な経過があったことについては恐らく異論はないだろう。未完のカンタータ『ドイツの復活』の件や、ナチの党員となったことから戦後、占領軍から一切の演奏活動を禁止され服毒自殺を遂げたオズヴァルド・カバスタのような弟子の存在が影響したとはいえ、マックス・フォン・シリングスやハンス・プフィッツナーのようなケースと異なって、シュミットに関しては、単純なプロかコントラかの二分法が通用しないことは今や明らかであり、そうした表面的な「事実」なるものをもって、接すれば疑いようのない作品の価値までが軽んじられることの不当さはシュミットの場合には明らかなことと思われる。現実には問題の『ドイツの復活』は依然としてレパートリーからは除外されたまま、それ以外の作品がリバイバルを遂げているというのが現実だが、ことシュミットに関しては、そのことが「不都合な真実」から目を逸らすことには必ずしもなっておらず、逆にそのことをもって他の作品の価値判断が不当に歪められることがないことを評価すべきなのかも知れない。(あえてここで、上記のような一連の「事実」に言及するのも、単に「不都合な真実」として、あたかもなかったかの如く言い落としをして済ましてしまうことを回避するためである。)

 その一方で、上述の録音記録に刻みこまれた系譜から明らかなように、ウィーンにおけるオラトリオの伝統において『七つの封印を有する書』は、ハイドンの『天地創造』と対を為す作品、『天地創造』がアルファなら、『七つの封印を有する書』はオメガである、その伝統の掉尾を飾る作品というように私は考えている。さしづめ聖書の劈頭に置かれた創世記に取材したハイドンのオラトリオが、その伝統の開始に位置し、古典派様式の完成を告げるという点でアルファなら、聖書の末尾に位置する黙示録を取り上げたシュミットのオラトリオは、それまでの音楽の歴史を回顧するように、様々な様式が盛り込まれたという点で、その伝統における奥津城たるオメガであろう。だがそれよりもウィーン近傍に限って言うならば、何より(日本におけるベートーヴェンの第9交響曲以上に)この作品が彼の地の風土に根付いている度合いからいって、他のより有名な作曲家の作品に伍して遜色ないということが言えるだろうからである。

 だがそんなことはウィーンに住んでいたとかいう事情があればともかく、100年後の極東の島国で、その音楽が生まれ育った環境とは凡そ無縁の生活を送っている人間が、その音楽に惹かれる原因となりはすまい。しかも、これは個人的な文脈の話になるけれども、まずもってはっきりしているのは、フランツ・シュミットは、フランク、シベリウス、マーラーといった作曲家とは異なって、子供の頃に、音楽史的な位置づけであるとかは一切抜きにして、或る種無媒介にいきなりその作品に接してしまったタイプの作曲家ではないのである。

 さりとてそういう点では私にとって特権的な位置を占めるマーラーとの関係というのもまた、既述のように、シュミットを知るようになった理由にはなりえても、その音楽をその後30年以上に亘って聴き続ける理由にはなり得ない。(尤も、30年の時を経てみれば、偶然の悪戯か、シュミットとはおよそ無縁で接点がないように思われた100年後の地球の反対側で生きる平凡な人間にも、微かな繋がりというものが生じることはあるようだ。ジャパン・グスタフマーラー・オーケストラの時代から微力ながら支援させて頂いているマーラー祝祭オーケストラの音楽監督の井上喜惟さんは、シュミットの弟子であるザイドルホーファーの弟子であり、シュミットの孫弟子とのことなので、所謂エルデシュ数のような最短仲介数を計算すれば、私とシュミットのそれは3ということになるようだ。上述のウィーンにおけるオラトリオの伝統におけるシュミットの位置づけに思い至ったのは、既述の通り、アーノンクールがウィーン・フィルとジングフェラインを指揮したアルバムをリリースしたのを入手して聴くことによってこの作品に馴染むようになるとともに、一見したところ意外とも感じられたその背景―ーそれを踏まえれば、ここでこの難曲の合唱を担当しているのが、プロの合唱団ではなくジングフェラインでなくてはならないことにも得心が行くのだがーーを知って以来だが、それが実感を伴ったのは、オルガン作品の主題にも転用されていることもあって私にとってハレルヤ・コーラスと言えば最初に思い浮かぶのはこれというくらいにまで馴染深いものになっている『七つの封印を有する書』のハレルヤ・コーラスが、ウィーンにおいては誰もが知っている程有名なことを、こちらも圧倒的な演奏記録が残っているホルスト・シュタインの指揮した『七つの封印を有する書』のウィーンでの上演の場に立ち会われた井上先生に教えて頂いた時のことだった。)

 確かにシュミットはマーラーを知っていた。シェーンベルクと同じ1874年生まれだから、1860年生まれのマーラーよりも一回り年下ということになるが、彼はマーラーが音楽監督を勤めたウィーンの宮廷歌劇場のオーケストラでチェロを弾いていたのである。マーラーはシュミットの才能を評価していたようだが、いわば部下として接したシュミットの上司マーラーに対する印象は、その回想から確認できる限りでは決して肯定的なものとは言い難かったようだ。一方で作曲家としての彼のキャリアは1899年の第1交響曲以降といって良く、その初演こそ1902年だが、彼の出世作といって良い『ノートルダム』はマーラーの没後の1914年になってウィーンの歌劇場で初演されているし、第2交響曲も同時期の1913年の作品であるから、マーラーの側の作曲家シュミットに対する評価を云々することはできないだろう。(尤も、マーラーが『ノートルダム』をその在任期間中に取り上げなかったという点は、それ自体がマーラーの作曲家シュミットに対する評価であり、要するにそれは「拒絶」ではなかったかという指摘に対して争うつもりはない。ここで私が言いたいのは、例えばシベリウスもそうだったが、シュミットの場合についても、事実としてマーラーが知り得た作品には限りがあって、従ってその評価は部分的なものに留まらざるを得なかっただろうというに過ぎない。)

 他方で、同年生まれの誼というわけでもなかろうが、シュミットの方からはシェーンベルクへの支援を惜しまなかったにも関わらず、或いはまた、楽式については保守的であったシェーンベルク自身のシュミットに対する留保ない賞賛(それは、ブラームスを「進歩主義者」として評価する姿勢と相通じるものがあるように私には思われる)にも関わらず、そしてそれゆえに彼とツェムリンスキーが主催した「私的演奏協会」の中では、1919年10月12日の第30回と1920年1月25日の第41回の演奏会において、ピアノ四手用に編曲された第2交響曲が演奏されたという事実(これは邦訳もある、ジョーン・アレン・スミス『新ヴィーン楽派の人々―同時代者が語るシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン』(邦訳は山本直広、音楽之友社)で確認することができる)にも関わらず、サークルとしての直接の交流はなかったようだし、サークル内での彼の作品の評価は必ずしも安定していたわけではないようだ。ベルクが高く評価していたらしいことは記録から窺えるとはいえ、ヴェーベルンの方は件の第2交響曲の演奏を聴いて酷評した回想も残されているようだし、彼らにとってアイドルであったマーラーの作品に対してシュミットは明確に否定的な意見を持っていたようだから、作曲の様式の面でも思想の面でも、シェーンベルクのサークルとはその方向性においてはっきりと袂を別っていたと見るべきだろう。冒頭で述べた通り、ベルクの弟子であったアドルノもまた、ツェムリンスキーとシュレーカーは取り上げても(そればかりか、ラヴェルすら取り上げているのに)、そしてストラヴィンスキーやヒンデミット、或いはシベリウスを批判的に取り上げても、シュミットに主題的に言及することはなかったようだ。

 勿論、同時代においては抜き差しならぬものであった「あれか、これか」も、現在において最早同じ意味を持つことはない。また、自分の中で異なった意味を持ち、価値を持つ複数のタイプの音楽を聴くことも、必ずしも一貫性の欠如を意味するとは限らない。特に職業として音楽に携わっているわけでもなく、同時代の音楽の動向については明確なプロとコントラがあったとしても、個人的に自宅の一室で聴く過去の異郷の音楽についてまでそれを延長する必然性もない。否、現実に、フランツ・シュミットの音楽はそうした領域の外側で、私の心の風景の中で、それなりに確固たる位置を占めているのである。

 恐らく、音楽的な能力、いわゆる才能と呼ばれるものにおいて、彼は並外れた存在であったであろう。一言で言えば優れて「音楽的」な人間であっただろうことは身近に接した人間の証言などから窺うことができる。かてて加えて彼が習得し、鍛錬して極めたその技術・技巧のレベルもまた、圧倒的なものであったろう。私は音楽の専門的な教育を受けたわけではないから、その凄味というのを実感できるとは到底言えないけれど、素人なりに彼の音楽において達成されているものが専門的に見て、些か衒学的なまでに高度なものであろうことくらいなら想像がつく。尤も、高度に対位法的で錯綜とした声部進行と、これまた非常に凝っていて意外さや大胆な不協和音をも厭わない複雑な和声進行に支えられ、技巧の限りを尽くした変奏技法や極めて息が長く徹底した楽曲の展開が時として飽和した感覚すら与えかねないという、結果的にシュミットの音楽が備えることになった相貌は、彼の出自を想起させる美しく歌謡的な旋律や、しばしばシュトラウスを思わせるような熟達した管弦楽法の絢爛たる効果にも関わらず、彼の音楽を聴きやすく人口に膾炙したものとすることの妨げになっている側面は否定できないだろうが。

 だが彼は、そうした才能や技術を、何か革新的なこと、例外的なこと、日常を離れたことの為には用いなかったように見える。とはいえ彼は先人が切り開いた領域の中でその遺産を単に消費して音楽を謂わば「再生産」するだけの、時代の中では存在価値があっても時代とともに忘れ去られてしまうタイプの音楽家でもなかった。彼の作品を聴いて直ちに感じられる保守性は、「進歩主義者」ブラームスが第4交響曲で殊更に復古的な身振りを示していたことの更なる徹底(しかもその程度たるや、マニエリスムを感じさせる程のものである)と見るべきだし、古い形式の上で淀みなく流動するロマン主義的な時間経過を実現してみせたブラームスよりも「歪んだ真珠」という言葉のもともとの意味合いにおいて、「バロックな」性格が際立っているように思われる。それは「移ろい行く相」のもとに「ヴァニタス」と「メメント・モリ」と同時に「カルペ・ディエム」を主要なモチーフとした嘗てのバロックの時代の衣鉢を、シュミット自身が直面することを余儀なくされた時代の破壊と変容の中で継承し、発展させたもののように感じられる。そしてそれは、まさに歴史の終焉、大きな物語の消滅が云々された時期を経た現在において、シュミットの音楽が少しずつであれ、ますます取り上げられるようになってきていることとも無関係ではあるまい。

 例えば寺岡清高さんと大阪交響楽団の企画は、一見そのように見えたとしても、過去の異郷の文化財を研究し、或いは鑑賞するという、高級ではあっても所詮は消費に過ぎない目的のためだけにフランツ・シュミットの作品を今日取り上げたというわけではないだろうし、シュミットの音楽を「今、ここ」で聴き続ける人達のほとんどはそうした(一般には、今や幸いに概ね死滅しつつあるように見える、だがマーラーの周辺、19世紀末ウィーンに関しては遺憾ながら未だに蔓延っているのをしばしば確認する)教養主義とは無縁だろう。繰り返しを厭わずに言えば、成長と進歩の時代が終焉し、大文字の物語が無効になったと言われる今日の時代の空気のようなものがシュミットの音楽を探し当てたといった側面があるに違いない。

 しかし一方で(否、寧ろだからこそ、というべきなのかも知れないが)、その音楽は人を日常性から引き離し、超越的なものへと誘い、或いは(否定的な意味ではなく)狂気に近づけるような質を備えているわけではないように私には感じられる。それはブラームスの音楽が時折結び付けられる文化的な概念としてではなく、より一般化された意味合いにおいて、だがブラームスの音楽とその点では類似して、ビーダーマイヤー的とでも呼べる志向を備えているように感じられる。いずれもファム・ファタルの造形を試みたとも見做せる2つの歌劇(『ノートルダム』のエスメラルダ、悪女として名高い『フレディグンディス』のタイトルロール)にも関わらず、或いはこれまた非日常的な黙示録に取材したオラトリオ『七つの封印を有する書』にも関わらず、室内楽や交響曲といった、いわば「外行き」ではない系列の作品に見られる彼の音楽の本来の居場所というのは、見慣れた風景の中での日常的なものへの視線の裡にあるように思われてならない。そしてこうした志向を備えた音楽をアドルノが無視したのは当然のことのように思われる。

 ちなみにこうした作品における不思議なコントラストと同型のものを、作曲者の生涯にも認めうると言えば牽強付会が過ぎるだろうか。公的にはその申し分ない才能に相応しいエリートコースを歩み続ける一方で、学生時代のパートナーとの間に子供が居たり、最初の結婚の相手が精神に異常を来たして精神病院に入院する(最後にはナチスの「安楽死」プログラムの犠牲になるのだが、それはシュミットの没した後のことだから、事実としてはシュミット自身の知る由のないことに属する)ことになるなど、私生活上は決して平穏無事とは言えず、そうした伝記的事実を知ってしまえば、そうした側面と例えば歌劇の題材の選択の間に結びつきがあるのではという深読みに誘われることを避けるのは難しい。その一方で特に交響曲や室内楽等に見られる一見したところ平凡で平穏な風景(シュミットの音楽の目立った特徴の一つは、「ノートルダム」間奏曲に代表されるような、ともすれば感傷に陥りかねないような甘美な節回しをもつ旋律だろう)も、シュミットの音楽にあっては、もともと部厚く付加音に富んだ和声に加えて頻繁に差し挟まれる不協和音と繰り返される突然の転調によって、その視界はいびつに歪み、輪郭もどこかでピントがずれて朧な暈のようなものを常に帯びることになる。更にその音楽の持続は概ね長大で、時折行く先を見失いかねない程錯綜とし、晦渋さやマニエリスムを感じさせる程に徹底した変奏や展開を行うものであるけれど、最後には型通りの結末に到達する。その時間性は、微視的には偏倚や逸脱を含み、時として断絶をも含みうるとしても、巨視的に見れば軌道は元に戻っていき、新たな場所に聴き手を誘うこともない。シュミットの音楽の時間方向の展開の原理は、マーラーに関してアドルノが指摘する(恐らくはベンヤミンに由来する)ような「変形」(ヴァリアンテ)ではなく、伝統的な「変奏」であり、それが技巧の限りを尽くした精緻なものであっても、性格的なコヒーレンスが保たれ、他者の声の侵入を受けることはないようだ。対位法の大家でもあるシュミットは、だが、バフチンのそれを思わせるようなマーラー的な意味でのポリフォニックな発想とは遂に無縁であったように思われる。そうした時間性の観点でシュミットの音楽の持つ性質を捉えて「保守的」と呼ぶのであれば、それはそれで一定の妥当性があるという見方もできるだろう。しかもその途中の偏倚や逸脱は、ひととき人を非日常的な風景に誘う訳でもなく、何かより大きな秩序を予感させるということもない。平凡には違いない日常が、だけれども常にどこかに不穏さを帯び、何かに脅かされた不安に満ちたものでありつつ、それでもなおカタストロフに見舞われることなく、奇妙な準平衡状態を保ちながらいつ果てるとも知れず続いていくといった感覚においてシュミットの音楽に見いだす風景は、私にとって奇妙に親密で、情態としては寧ろ馴染深いものにさえ感じられるー要するに、その音楽を聴いて「くつろぐ」ことができるーし、実際問題として、では同じような音調の音楽が他にあるかと問うても思い当たることのない、唯一無比の魅力を備えたものなのである。

 シュミットの音楽から聴こえてくる風景は確かに一種独特なもので、素朴さと優美を兼ね備えた甘美なウィーン風のしなやかな節回しは、新ウィーン楽派の理論的に尖った部分ではなく、寧ろその基層にある「風土」を感じさせるもので、例えばアルバン・ベルクがことにシュミットの室内楽を好んだという話には頷けるものがあるし、特に初期の作品の旋律に、ブラームスにおけるのと同様な意味合いでの(所謂「ジプシー音楽」風のテイストという意味で)ハンガリー風な色合いを感じ取るのは或る意味容易だが、私にとって寧ろ印象的なのは、特に後期のピアノ(と更に2曲ではクラリネットと)を伴う室内楽が垣間見せてくれる風景であり、私が思いつく限りそれは例えばバルトークの第3ピアノ協奏曲に聞かれるそれに近い雰囲気を湛えていることで、より都会的で、せいぜいが(シュミットの住まいがあったとされる)「郊外」のそれであるといった点で、バルトークのそれのような、そこで「他者」としての「自然」に遭遇するような「戸外」の音楽では必ずしもないのだが、それでも同様に色濃い「夜の気配」に満たされて、「戸外」の「風景」への予感を強く孕んだものに感じられる。それはブルックナーやシベリウスのような「木石の音楽」とは全く異なって、人間的なものが入り込む余地のない「自然」を映し出し、或いはすぐそこにある「風景」が(超越的であれ、神話的であれ)神的な存在の息吹を感じさせる瞬間を聴き手に提示するのではなく、平凡で日常的な(そういう意味では、1世紀後の極東の、全くかけな慣れた環境に身を置く私のような平凡な人間にも馴染のある、身近なものと感じられる)人間的な感情に満たされた「風景」を垣間見せてくれるように思うのである。それは音楽が流れているひとときに限って聴き手を日常とは異なる「何処か」に連れ去るような類の音楽ではなく、時として不穏さを帯び、不安に満ちたものであったとしても、それは寧ろ日常がしばしばそうした情態性に彩られたものであることの反映のように私には感じられる。その相貌は全く異なるとはいえ、それが映し出す時代の空気の共通性と、その高度な技巧と手法の革新が、何か理念とか世界観とかといったマクロなものに奉仕するのではなく、さりげない日常の情態を映し出すという点に関しては、こちらもまた、それを意外と捉える向きもあるだろうが、シュミットが高く評価していたらしいドビュッシーやラヴェルの音楽にも通じるような姿勢があるように思われる。もっともドビュッシーとラヴェルとの間に広がる懸隔と同じか、それに勝る懸隔が彼らとシュミットとの間に存在することは客観的には確かなことだろうが、私個人は、どちらかというとラヴェルにより近接するような姿勢を感じるのである。(そういえば、シュミットとラヴェルには、彼らがいずれも哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄で、戦傷により隻腕のピアニストとなったパウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱を受けて、左手ピアノのための作品を残しているという共通点もあった。ワルツへのオマージュを通じて、謂わば外からウィーンを賛美したラヴェルに対して、その点に関してはインサイダーであり、ウィトゲンシュタイン家との関わりもずっと密接で、文化的「ミリュー」の共有という点で謂わば「身内」であったシュミットは、左手ピアノのための作品を一つならず幾つも作曲しており、そのジャンルも管弦楽に留まらず室内楽にも及んでおり、特に2つのクラリネット五重奏曲を含む3曲のピアノ五重奏曲はいずれも左手ピアノのための作品だが、シュミットの代表作と言ってよい充実した作品群である。)

 だがその日常と雖も勿論、他性の侵入と無縁ではあり得ない。寧ろそこには、或る意味では見慣れた、誰にでも馴染みのあって平凡ですらある経験として、例えば身近な、かけがえのない存在の死の経験が音楽化される。自らが死を予感し、この世に別れを告げる際の裂け目が顕れるのではない。そうではなくて、自分が生き延びているのに、自分のかけがえのない存在が最早永遠に喪われるという事態が自らの日常に出来するのだ。娘の死を契機に書かれたらしい彼の第4交響曲は、私の知る限り最も純粋な「喪の音楽」であるように感じられる。それは「喪の作業」の全過程を潜り抜けるタイプの音楽、即ち例えば子供の死を扱いつつ、或る瞬間にその子供の視線になりきってしまうようなタイプの音楽とは異なって、私を「喪」から解放することがない。ブラームスは、若き日にドイツ・レクイエムで、晩年になって4つの厳粛な歌で死を扱ったが、徹底して超越を拒絶した地上の音楽である点では共通していても、シュミットの第4交響曲はそのいずれとも似ていない。ブラームス自身は、傷つき、癒しを欲する人間とともにあって、「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである」と語りかけ続け、死者のまなざしとともにあることは、己も死すべきものであるということを突きつけられるような事態におかれることが伴っているという認識を告げているのに対し、第4交響曲のシュミットにあるのは、より端的な第二人称の死への対面であり、音楽はそこから目を逸らそうともしないし、そこから出て行こうともしない。寧ろ、その状況に意図的に留まろうとしているかにさえ見える。

 「喪の作業」が備えていると言われる4つの段階のうち最後の段階は、シュミットの第4交響曲においては音楽の外部にしかないようだ。そしてそうであるが故に、この音楽は、第4段階に至ろうとする、現実に人が体験することを余儀なくされる「喪の作業」のこの上ない同伴者となるのではないか。勿論、シュミットの音楽の全てが「喪の作業」であるわけではないけれど、対象は違えども、対象との関わりの様態において、シュミットの音楽には第4交響曲に典型的に示されている或る共通性があって、それが時代を隔てた異郷の人間を、今なお惹きつける力の源泉となっているのではなかろうか。もし必要なら、最初に戻ってもう一度、その過程を辿り直すことができるし、それを第一人称の死、己が死ぬまで繰り返すことだって可能なのだ。

 フランス革命の時代を経て、宗教的なバックグラウンドを喪失し、そのもともと備えていた機能と意味を長い時間をかけて喪失していった西洋の音楽史の末端に、2つのハ調の交響曲が位置づけられるだろう。一つはシュミットの第4交響曲であり、もう一つは、実はそれに10年先立って、既に1924年には書かれていたシベリウスの第7交響曲である。両者はソナタ形式が交響曲の範例における4つの楽章の全体を覆い、多層的であるよりは論理的に一貫し、有機的な統一を志向した結果として、単一楽章形式をとる点で共通性を持つ。一つは「主体」において反復されうる「喪」の音楽であり、もう一つは或る仕方で「主体」の消滅後を示した音楽であるだろう。前者の後に続くのは世界の終末を扱うオラトリオ(『七つの封印を有する書』)であり、後者の後に続くのは森の神を扱う交響詩(『タピオラ』)であった。一方には呪いや呼びかけのみが残り、他方には呪いや呼びかけの主体は最早ない。一方は西洋音楽の中心地の一つで、他方は西洋音楽の周縁部で書かれたのだったが、もうそれから100年近く経とうとしている今、そのいずれからも遠く離れたこの極東の島に相応しい音楽はどんなものだろうか?「人のきえさり」はどのようにして音楽化されるべきなのだろうか?幸いにして、私はそれが現実に実現されていることを知っていて、それに既に向き合うことができている。世上、メディア・アーティストにしてコンピュータを用いたアルゴリズミック・コンポジションを方法論とするとされる作曲家、三輪眞弘の「音楽」がそれである。だがそれは最早ここでのテーマとは別に論ずべきことだし、実際に既にこれまでもそのようにしてきているわけだから、ここでは一旦筆を擱くことにすべきだろう。

(2019.10.19公開、2021.1.26,27,28加筆, 2.8加筆, 2022.12.7,21加筆, 2023.10.20,21加筆, 2024.2.2,10,11加筆, 2025.3.22 再公開)

シャルル・ケクラン

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。そしてそうした「取り残された」作曲家の中で、私が是非とも取り上げておきたい思いながら、これまで果たせずにいた何人かの作曲家の中の筆頭は、シャルル・ケクランだということになるのだろう。別にそうするための準備が整い、機が熟したというわけではないのだが、寧ろ、いつなん時、果たそうと思ったことが果たせなくなってしまうことになるとも限らないという切迫感から、急ぎ足で「宿題」を果たすことにしたい。

 かつてのケクランは独自の作曲家というよりは、編曲者、さしづめドビュッシーの『カンマ』やフォレの『ペレアスとメリザンド』の管弦楽版の作者として、或いはその一部が『和声の変遷』という題名で邦訳された『和声学』をはじめとした理論的・教育的著作の著者として知られていたと記憶する。だが、ドビュッシーもフォレもほとんど聴かず、専門の音楽教育を受けたわけでもない私にとって、ケクランは第一義的に、CDという媒体を通してその作品を知ることが叶った作曲家であった。最初のCDは、セーゲルスタムとラインラント・プファルツ州立管弦楽団の演奏した『燃ゆる茂み』第1部・第2部と『遠くに』にヴィオラ・ソナタというやや変則的なカップリングが収録されたもの、次がヘルベルト・ヘンクのピアノ演奏による『ペルシャの時』を収録したものであった。

 『燃ゆる茂み』は、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に取材した作品で、『ジャン・クリストフ』の方はと言えば、今度は旧約聖書の「出エジプト記」において、出エジプトの召命をモーセが受ける、あのあまりにも有名なくだりを踏まえている。一方『ペルシャの時』はピエール・ロティの旅行記に触発されたもので、当時の私は、ロマン・ロランやピエール・ロティとは没交渉で、唯一旧約聖書の燃ゆる茂みの場面について大学時代に研究対象であったレヴィナスが「顔」の顕現について語る際に言及していたことによって鮮明な印象を持っていたことで辛うじて接点があったくらい。ケクランという人は、人によっては「趣味人」と呼ぶであろう、多面的な関心を持った人で、その範囲は文学だけではなく、天文学のような科学研究、更には写真・映画といった新しいメディアにも及んでいる。確かWergoレーベルから出ているヘンクのアルバムのカバー写真はケクランが自分で撮影したものではなかったか。文学作品ではキップリングの『ジャングル・ブック』に基づく連作群があるし、これも当時勃興期にあった映画に因んだ作品も数多い。しかもその後から今日に至るまで多くの作曲家がそうしたような、所謂「映画音楽」を作曲するという関わり方よりも寧ろ、映画の享受者として、所謂初期の「銀幕のスター」に因んだ作品を生み出すという関わり方の方が異彩を放っているように感じられた。

 音楽作品そのものについて言えば、特に『ペルシャの時』、『燃ゆる茂み』はケクランの中期から後期の作風を代表するものといって良いだろうが、理論家・教育者として和声学・対位法・管弦楽法のいずれについても該博な知識を持った人らしく、印象派からその後の現代音楽へと通じていく、旋法の使用や和声の拡大、しばしば小節線をほとんど持たない、漂うような自由な拍節感、構築的ではない、ブロックの並置であったり、小品の連鎖で作品を形作るといった点が特徴的に感じられたものである。『燃ゆる茂み』の管弦楽法上の特徴は、何といってもメシアンのトゥーランガリーラー交響曲で辛うじて一般的なクラシック・コンサートでの市民権を得ている感のある初期の電子楽器、オンド・マルトノを用いていることだろうが、その使われ方はまさにケクランらしさが充溢する、たゆとうような拍節感のほとんどない、拡大された和音のパレットの中を移ろってゆく部分で登場しており、私のケクランの作品の印象の中核にあると言ってよいように感じる。

 丁度、上述のCDを通じてケクランの作品に接した時期に踵を接するようにして、近代フランス音楽研究者として著名なRobert OrledgeのCharles Koechlin (1867-1950) が刊行された(刊行は1989年)のも、私が抱いているその時期の特権性の印象を強める契機であったに違いない。中央に髭面の老人のモノクロのポートレイトを収めた緑色のカバーのハードカバーの大冊の洋書を、今のようにネットで手軽に注文というわけには行かず、楽譜や音楽書の輸入を扱っている書店で入手したことをぼんやりと覚えている。当時としては破格に高価と感じられたその大著を、だが私自身はほどんと読むことがなく、ドビュッシーの研究をしている幼少の折よりの友人に譲ってしまい、伝記的な情報もほとんど知らず、辛うじてその後入手して、だがこれももはや手元にないAude Caillet , Charles Koechlin, 1867-1950 : L'art de la Liberté, (2001)を読んだのがほぼ唯一のリファレンスである。もっとも今ではWikipedia等で一通りの情報は得られるので、そのレベルで良ければわざわざ絶版になった書籍を探索するまでもないだろう。

 ケクランはアルザスの名門の生まれ、ルーセルやビーチャムがその苗字から想像される通りの製薬会社の創業家の出であることは良く知られているだろうが、ケクラン家は繊維業者であったようで、いわゆるブルジョワの子弟ということになるだろう。ポリテクニークに入学した翌年、結核に罹患して療養を強いられたことが契機で音楽院に入学したとのことだから、教養もあって寧ろ理系的な頭脳の持ち主であったものと思われ、その多彩な関心も、そうした理系的なフィーリングに根差した部分があると考えるべきだろう。彼はその後、自ら「象牙の塔」に籠って、自分の書きたい作品を書き続けるといった姿勢を終生貫いた人で、生活の糧は主として教育家としての活動で得ていたようだが、第二次世界大戦後も5年生きたという長命であったことも与り、結果として作品番号がついている作品だけで二百数十に及ぶ膨大な作品が遺された。伝統的に西洋の作曲家にとっては宗教曲と歌劇(やバレー)こそが所謂「花形」のジャンルであり、時代が下ってそれらは巨大なコンサートホールでの演奏を想定した大規模な管弦楽つき合唱曲などへと引き継がれていく一方で、市民社会の確立と期を一にしてコンサートホールで独立の楽曲として自立した地位を確立した交響曲と協奏曲がもう一方の柱となったのだが、ケクランの膨大な作品リストは、初期に集中して書かれた歌曲と中期の中核ジャンルであったピアノ曲を含む器楽曲、室内楽曲、そして概ね表題のついた管弦楽曲がほとんどで、そのこと自体が、外部の注文によって作品を書いて報酬を得るという意味でのプロの作曲家であることを拒否したケクランの姿勢の産物であると捉えるべきであろう。もっとも彼は、評価されない無名の作曲家であった訳ではなく、時代を画するスター作曲家でなくても、その音楽家としての実力を周囲に十分に認められてはいたから、その作品は演奏の機会を得られなかったわけではない。とはいうものの、コンサートのレパートリーとして生き残れた訳でもなく、若干は同時代の演奏の録音記録が残されているとは言い乍ら、どちらかと言えば「知る人ぞ知る」存在であり、一般には半ば「忘れられた作曲家」となってしまったことは否み難い。ましてや極東の日本での様々なリソースへのアクセスは困難で、例えば膨大な楽譜を架蔵し自らピアノを弾いてその作品群を探索していったであろうジャンケレヴィッチの著作の中でケクランへの言及に接しても、具体的にその音楽を思い浮かべることが困難という状況が続いていたのが、ようやく風向きが変わったのが、丁度私が上記のCDに接した時期だったということになるのだと思う。

 その後、ジンマンが指揮した『ジャングル・ブック』連作のアルバムが出たり、Accordレーベルからピアノ曲や室内楽のシリーズが出たりする周辺で、なかなかソロ楽器として取り上げられない楽器のための作品にも事欠かない膨大な器楽曲についても、一種の相転移が生じ一気にパーコレーションが進んだかのようにみるみる録音が増えていき、今日ではかなりの割合の作品に接することができるようになっているようである。

 だが私個人はと言えば、そうしたトレンドに反して、ケクランへの傾倒を深めていくことにはならなかったというのが偽らざる事実である。冒頭述べたように、是非とも取り上げておきたいと思いながら、これまで果たせずにいたというのは、結局、自分の風景の中にきちんと収まっていて欠くべからざるピースの一つではあっても、持続的な関心の中心に居続けることなく常に背景に留まってきたというごく個人的な文脈によるものであり、ケクランその人の価値とは別の理由に依ることは明白であって、そのことは十分に認識した上で、先に表面的な水準の理由について急いで触れてしまうと、例えばケクランの、理系的な方向も含めた多方面へのディレッタント的な関心の幅そのものは、性向的なものとしては寧ろ私にとって親和的なものかも知れなくとも、具体的な個別の関心の対象が自分のそれとほとんど全く接点がなく、嗜好の点で共感することがないことは、好き嫌い、合う合わないといった水準から逃れ難い音楽作品の場合には、その作品への共感を妨げてしまうようだ。より音楽作品そのものに即して水準では、ケクランと同時代の音楽に私が執着する理由の一つである物語的な時間性といった点で、ケクランの作品は私の好む叙事的な語りの構造を備えてないという点が最も大きいだろう。微視的な時間経過の上では、拍節にとらわれず、和声的な作品においては拡張された和声のパレットを持ち、伝統的な和声進行やカデンツの形成から自由な経過を持つ点で魅力に富んでいるし、ケクランの作品の中でそれなりの割合を占めるモノディーの作品が持つ自在さも、短い作品それぞれについてはそれなりに魅力的なのだが、一方で巨視的な語りの構造については、それに対する作曲者の関心自体がそもそも希薄なのだと感じる。

私にとってそれが最も目につくのは大規模な管弦楽作品で、それらは内部にはユニークな時間性を孕んだブロック状のユニットをただ並べただけに過ぎないような印象をどうしても持ってしまう。寧ろ小品の連鎖によって作品を構成する『ペルシャの時』のようなやり方の方がまだましで、賽の目で区切られたように、得も言われぬ雰囲気を湛えた部分が断ち切られて全く異なる曲調のブロックが突然始まると、CDであれば停止ボタンを押してしまうこともしばしばとなってしまう。ケクランの周辺の作曲家のほとんどがそうであったように、巨視的な楽式レベルでの叙事的な時間的構造というのは、寧ろ反撥と否定の対象だったろう(私の知る限り、フランクとマニャールは例外で、だから彼らの作品が私には好ましいのだと思う)から、これは無い物ねだりに違いないのだが、1,2分程度の小品ですらその時間性の違いは明らかで、そこに独自の価値を認めるにはやぶさかでなくとも、やはり私自身の中核的な関心の対象にはなり得ないのである。

モノディーに関しても同様で、私は基本的にはポリフォニックなものに惹かれるので、そのオリジナルな魅力を感じ取れないわけではなくても、それだけでは物足りなくなってしまうのだと思う。(尚、ケクランが対位法の大家でもあること、更には作品中に対位法的な技法を駆使したものがあることを等閑視しているわけでは決してない。だが私が惹かれるポリフォニックなものというのは、技法としての対位法とは別のもので、素朴な言い方をすれば、そこで複数の声が響いているのか、バフチン的な意味合いで対話的であるのか、ということとなのだと思う。複数の曲を並置する場合でも、それが単一の主体の感覚的な印象のきらめきを切り取って並べたものであるよりも、異なった声が侵入することによって全体として多層的になることが問題なのだ。)別に大見得を切って聴き手を熱狂させる必要はないけれど、他なるものが侵入して相転移が生じる瞬間がないとしたら、そこには安定した主体の繊細は状態変化の記録はあっても、他者の侵入を受けて新たな主体が立ち上がることはないし、主体が老化していったり没落して把持の客体となるような絶対的に受動的な瞬間というのもないことになる。同様にして、モーセに神が顕現した(但し彼は神と対面することはできず、その後姿を見ることしかない、顔の顕現は普通の意味合いでの対面ではない)という、その出来事そのものはケクランの音楽の中には存在しない。

 繰り返して言うが、こうした指摘はケクランの音楽の持つ独自の質をいわば裏側から見ているのであって、欠点の指摘ではなく寧ろ無い物ねだりであり、ケクランの音楽とはそもそも両立し難いものなのだということを認めるに吝かではない。そもそもおそらく「知る人ぞ知る」存在であり、一般には半ば「忘れられた作曲家」となった理由は、ケクランその人とその作品自体の側に原因があるのだろう。その音楽は、コンサートホールとか劇場で、詰めかけた聴衆を熱狂させるようなタイプのアピールを全くといっていいほど欠いている。勿論このことは欠点というわけではなく、その慎ましやかで媚びない性格を得難いものとして評価する人が数多くいることを知らないでもないし、私自身もそうした評価に寧ろ与する側にいるのだと思う。そしてそういった性格は、それらの作品が「象牙の塔」の中で次々と生み出されたという事実と無関係ではありえないだろう。そして「象牙の塔」が、小さくても気の合った親密なサークルのゆったりとした心地よさともまた異なった、峻厳な孤独、自発的に選択された孤立であるとするならば、その中で生み出された音楽が他者に差し向けられたものではないモノローグのようなものになるのは避けがたく、そのことをもって非難するのはお門違いも甚だしいということになるだろう。

 モーセへの神の顕現の音楽化など不可能であり、そうした試みは聴き手に意外感を与えて驚かせる効果の追及に堕してしまうという言い分には傾聴すべきものがあると考える。だが私が聴きたいと思っている音楽は、モーセへの神の顕現という絶対的な出来事そのものの音楽化などではない。そんなものは端的に不可能なのだが、それならばそうした標題性や文脈を剝ぎ取ったところで、実はささやかなレベルであればかくも平凡な私自身にさえ訪れていて、だからこそ「私」が成り立っている、その根拠となる他者との出会い、対話の構造を抽象化したものを何等かの仕方で、どこかのレベルでシミュレートするような音楽こそが私が求めているものなのだと思う。実際ケクランの音楽は、一時期マーラーの音楽から遠ざかった時の拠点の一つであった。だがこれもはっきりと覚えているが、あるとき、「象牙の塔」を護るということが私自身の様々な拘束条件の下では端的に採用できないという現実的な理由もあるが、それ以上にまず、そもそも自分が望んでいるものが「象牙の塔」とは異なったものなのではないか、ということにふと思いあたったのであった。そしてその後結局、私はマーラーの音楽に立ち戻ることに繋がっていったのである。

 「象牙の塔」に敢えて閉じ籠るというケクランの生涯を賭した戦略は、それを貫いた結果として生み出された膨大な作品が、いくばくかの忘却の時を経て、コンサートホールで取り上げられることに関してはさほどではなくとも、録音メディアやデジタルネットワーク技術のもとで今日ますます多様な仕方で受容されるようになっていることを思えば、十二分な結果を生み出したというように評価できるかも知れない。峻厳な孤独、自発的に選択された孤立の中で生み出されたモノローグは、だが時を隔ててそれを受け取る相手を見出し、かくしてここでも「対話」が成立したというように捉えるべきなのだろう。

 だが結局のところそれは私の戦略ではないのだ。私が欲しているものは、その戦略では得られないものであり、ケクランの戦略を採用するということは、敢えて英雄的にそれを断念することに他ならないのだ。聡明なケクランは、恐らくはそのことに対して意識的であったのではないかと思うのだが、そうした雄々しさは、所詮私には無理なものであり、私はそれを断念せずに求めていくしかないのだ。かくしてケクランは私からは遠い存在であるけれど、私にとってはかけがえのない恩人のようなものなのである。そのことをこのようにして証言することで、私はようやく積年の「宿題」を果たしたことになる。

(2022.11.12, 2025.3.22 再公開)

ヴィチェスラフ・ノヴァーク

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。ここではそのことの分析を繰り返すことはしないが、そうした指摘に対して、CDが店頭で販売されるものから、インターネットを通じて購入できるものになったことは、そうした傾向を更に推し進める役割を果たしたことを付言することはできるだろう。

 例えば、極東の地方都市に生まれ育った人間が接することのできる演奏会の数を考えた時、いわゆる「名曲」がほとんどを占める演奏頻度のグラフのロングテイルの末端にようやく登場するような作曲家の作品に接することのできる確率は極めて低いものとなるのは避けがたく、CDという媒体に記録され、複製された流通することによってようやく接することができた作品を挙げたしたら切りがない。というより、結局、コンサートに行くだけの余裕がない私のような人間にとって、「音楽」は生演奏で接するものではなく、録音された媒体の再生によって接するものであるというのは紛れもない事実であり、寧ろ実演に接した作品は、全体の中のほんの一部を占めるに過ぎないのである。

 更に時代は移ろって、今やCDという物理媒体に記録された形で流通する形態から、各種のデータフォーマットの規格に準拠したファイルをダウンロードしたり、ストリーミングで再生したりといった形態が普通になっていて、そうした更なる変化が一層その傾向を助長している側面があるであろうことは理屈の上で当然だろうし、体感としても疑いないように思われる。そればかりか、今や腕に自信がある人であれば、コンサートを開かなくても、自分の気に入った曲を自分で演奏したものを公開してシェアすることさえ可能になっているのだが、ではそのことが「取り残された」作曲家の作品に接することに与える影響は?ということにフォーカスしてみると、影響があること自体は確実に言い得たとして、同時代に生み出され、演奏され、消費される音楽へのインパクトに比べた時、その影響は限定的で、CD普及の時期の変化には遥かに及ばないように感じられる。恐らく確実に言えることは、原理的な水準はさておき、事実上、ファイルのダウンロードやストリーミングという手段は、ライブの代補、リアルタイムな共有の代補という側面が強く永続性に欠けていて、寧ろ送り手と受け手の同時性を前提とせず、時間的な隔たりを通り抜けることができる「投壜通信」の媒体としては、CDのような物理的媒体の方が優っているのではなかろうか。

 ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。とはいえ、レーベルはLPレコード時代からお馴染のチェコのレーベル、スプラフォン。スプラフォンがCDを最初に製作したのは実は日本でのようで、1984年のことのようだが、そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。ちなみにまとまってリリースされたCDでその時に接することのできた『南ボヘミア組曲』以外の作品としては、初期のイ短調のピアノ四重奏曲(op.12)とト長調の弦楽四重奏曲(op.22)、おそらくノヴァークの音楽で最も人口に膾炙していると思われる『スロヴァツコ組曲』Slovácká svita, op.32(一般に流布する邦訳タイトルは不正確で、これはモラヴィアとスロヴァキアにまたがるスロヴァツコ地方に取材した作品である)に加え、2曲のバレー・パントマイムのための音楽(『ニコティナ』Nikotina, op.69,『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』Signorina Gioventu, op.58)があったと記憶する。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできる(例えば、この文章で後程参照することになる、INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK の Official Webが代表的なものとして挙げられよう)とはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、上記の作品中だと2曲のバレー音楽がそうであるようにフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、その後他のレーベルのCDで接することができた交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのは既述の通り、もともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。

 更に後年のマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。その彼がハンブルクに移って親交を結んだのは、くだんのボヘミア楽派の一人である作曲家・批評家のフェルステル(ちなみに妻のベルタはフェルスター=ラウテラーの名で知られたオペラ歌手であり、マーラーの下で歌ったこともあった)であり、彼には自分がボヘミア生まれであって、チェコ語を話せることをアピールしたようだ。何より興味を惹かれるのは、マーラーがウィーンの宮廷=王室歌劇場の監督を勤めていた時代に、スメタナのオペラ『ダリボル』Dalibor (1868) を1892年に取り上げたことで、15世紀末のプロスコヴィツェでの反乱に参加した騎士ダリボルの物語が、マーラーが得意とする『フィデリオ』と筋書きにおいて類似していることや、ワグナーの影響が顕著な音楽を持つことから、チェコで物議を醸したのと逆にウィーンでは取り上げやすかったのかも知れないが、当時の状況を考えるに、チェコの伝説に基づく歌劇を帝国の首都で取り上げることは何某かの政治的な意味合いを帯びてしまうことが避けられたなったであろうことを思えば、マーラーのこの作品への愛着がひとしおであったことが窺える。だがオペラ指揮者マーラーのお気に入り、十八番ということであれば『売られた花嫁』Prodaná nevěstaを挙げない訳にはいかないだろう。ローカル色豊かなこの作品は、オーストリア=ハンガリー帝国内では人気があり、それは今日に至るまでドイツ語によるこのオペラの上演が引きも切らない点にも窺える一方で、例えばアメリカでは受け入れられなかったらしいのだが、晩年のマーラーがニューヨークで上演した演目の一つとして『売られた花嫁』が含まれていて、マーラーの熱の入れようはアルマが回想でわざわざ記している程であって、こちらもまたこのチェコの国民的オペラへのマーラーの愛着を窺い知ることができるように思う。一方マーラーはドヴォルザークの交響曲をあまり評価していなかったらしいが、交響詩については別であり、『野鳩』Holoubek,op.110を取り上げている他、『英雄の歌』Píseň bohatýrská, op.111については初演者として名を残している。初演ということであれば、既述のフェルステルの第3交響曲の初演もまた、マーラーがタクトをとっている。

 彼が指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したのだが、彼の微分音音楽の実践を支持したのは、理論上で微分音音楽の可能性を示唆したブゾーニである。そしてブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは、出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。例えば中学生の私は合唱部に属していたが、(まさか当時私のマーラーへの熱中がその原因とも思えないので)どういう経緯でかコンクールの舞台で合唱指揮をすることになり、その時に選ばれたのが(というからには私が主体的に選曲する自由は与えられておらず、私に合唱指揮をするよう指示した教師による選曲だったのだが)スメタナの『モルダウ』を合唱用に短くアレンジしたものだった。後の私は、既述の「ビロード革命」後の「プラハの春」音楽祭での『我が祖国』に接したことが直接的なきっかけで、それまで腑に落ちなかった「国民楽派」の音楽に漸く自分なりの実感をもって接することができるようになるのだが、中学生の私はそうした思いを抱くこともなく、情けないことには『我が祖国』全曲を聴くことすらない儘、辛うじて原曲の交響詩『モルダウ』のみに接した限りで自分なりの解釈をもってコンクール本番に臨んだのであった。中学生の合唱部で中学生自身に指揮をさせることが珍しかったためか、偶々そのコンクールに審査員として立ち会っていたらしい作曲家の中田喜直さんが、中学生ながらそれなりの解釈を施しての指揮であったことを評価して下さり、指揮の勉強を続けるようにとの言葉を下さったというのを後日、音楽教師の伝言経由で聞いたのだったが、特段音楽的な環境にいるわけでもない地方都市に住む平凡な中学生にとって、間接的にであれ受け取った高名な(中学の音楽の教科書に必ず載っている合唱曲の作曲家だったから勿論、名前を知らない筈はない)作曲家の言葉は、自分の生きているちっぽけな生活世界の中でリアリティを持つことはなく、後に苦々しい思いとともに思い起こすエピソードの一齣となる他なかった。とまれ偶然の産物とはいえ、ここでもチェコの音楽との例外的な接触があって、私がマーラーへの熱中の背後で後年ノヴァークに出会うことになる背景を形成したことは間違いない。

 更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。この辺りの経緯は以下のノヴァークの作品と遺産の普及を目的とした協会のWebサイトの記事に語ってもらうのが適切だろう。

On the one hand, at the age of 60, he finally visited his hometown of Kamenice nad Lipou in 1930, and then he realized, as a subjectivist-based artist, his debt to his native region and to South Bohemia in general, where he liked to go. He created the South Bohemian Suite evoking a region of forests, ponds and a captivating pastoral with the catharsis of a quasi-quotation of the hymn at the end of the finale. The piece is also notable for its inventive change of titles to a Hussite chant in the third movement, which contrasts with the first two, which are naturally partially lyrically impressive.

(INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK - Official Web, VÍTĚZSLAV NOVÁK - Life and Work by Prof. PhDr. Miloš Schnierer, co-founder and long-time secretary of the V. Novák Society and chairman of the International V. Novák Society in 2007-2016. : https://www.vitezslavnovak.cz/zivot-a-dilo/d-1015/p1=1024)

 引用の末尾には、私が既にこの作品独自の特質として挙げたユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収で、スメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比についての指摘も見ることができ、この記述を偶々目にした折には我が意を得たりという思いを強くしたものである。と当時に、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更に第三次的なテクノロジーに補綴された把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。だが寧ろ、今やそのことをこうして確認したからには、かつての自分がノヴァークから明確に離れたという訳ではないにせよ、その後再びマーラーに立ち戻ったように、今度はマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。であるとするならば、私にとってノヴァークは「老い」について考えることに、それとなく誘ってくれた存在ということになるだろう。それ故そのことについての感謝の気持ちを込めて、ここで彼からの贈与に対する応答であるこの文章を結ぶこととしたい。

(2022.11.26 公開, 2024.12.23改稿. 2025.3.22再公開)

アルベリク・マニャール

  録音・再生技術の発達とネットワークを介した流通の恩恵の一つに、通常、コンサート等で良く取り上げられる有名な作曲家の有名な作品以外に接する機会が増えたことがあるだろう。それは勿論、同時代の作品についても言えることだが、過去の、いわゆる忘れられた作曲家の再発見の機会が飛躍的に拡大したのは間違いあるまい。かつて永らく、そうした作品は楽譜を介して接する他なかったし、レコードやCDが普及しても、流通経路が限定されていた時代には、録音は着実に蓄積され、レパートリーは着実に増大していたであろうが、それに接する機会は遥かに限定されたものであった。今日では、かつては名前すら知らなかった作曲家、名のみ知られてもその作品に接することができなかった作曲家、コンサートのレパートリーに辛うじて残った極一部の作品しか知ることのできなかった作曲家の作品、或いは音楽史の年表に載るような有名な一部の作曲家の場合でも、膨大な作品のうちコンサートで取り上げられる頻度の低かった作品を知ることができるようになっていて、その恩恵は計り知れないものがあると感じられる。

 音楽史の年表に載るか否か、コンサートのレパートリーとして残るか否かが如何にして決まるかには様々な要因があって、勿論概ね、そうした社会的・集団的なレベルでの文化的淘汰の結果というのはそれなりの理由づけが可能な場合が多いだろうが、文化的生態系のニッチを占めて淘汰を逃れて生き延びることができるかどうかについていえば、少なくともモデルとなった生物学的な進化においてそうである程度には偶然が介在するものであろう。ある時期のちょっとした環境的条件、出来事の生じる順序のわずかなずれが、「バタフライ効果」と呼ばれるカオス力学系固有の挙動を引き起こす。音楽の場合には第一義的には演奏されることが伝承の条件だが、こと西洋音楽においては高度な記譜法のシステムが確立されたから、楽譜を媒介とした伝承というのが可能であるが(それがなければ演奏による継承が一旦喪われてしまった作品、或いはそもそもが演奏の機会がない作品が、時を経て(再)発見され、リバイバルすること自体が不可能である)、かつては来たるべき演奏の機会を待っている、いわば潜勢態のレベルにあったものが、近年の「忘れられた作曲家」「知られざる作曲家」の作品のCDを媒体とした、或いはネットワークを介した流通によって、作品が歴史に刻まれるためには一度演奏されるだけではなく演奏が反復される必要があるという条件もひっくるめて(CDにコピーされてであれ、直接各種のファイルフォーマットの形で交換されるのであれ、それらは反復して聴かれる可能性を潜在的に備えていて、もし誰かがそれを再生したならば、それは常に既に二回目であって、反復が成立したと見做しうる形式的な条件は満たしていることになるので)乗り越えることが可能となったかにさえ見える。

 アルベリク・マニャールはヴァンサン・ダンディに師事し、ギイ・ロパルツと親しく、スコラ・カントゥルムで教鞭をとるなど、人的交流の面からフランキストの一員として分類されることが多いようだが、フランキストは(セザール・フランク自身も含めても良いように思うが)第二次世界大戦前、或いは戦後しばらくまでの時期と比べると、その後すっかり凋落してしまった感があって、これは単なる感覚的なものだが、私の子供の頃にはそれでもなお一定の位置を占めていたものが、この30~40年の裡に忘却の淵に追いやられつつあるような印象さえ覚える程である。そしてそうしたフランキストの中でもダンディやショーソン、デュパルク、ヴィエルヌといった第一世代はそれでも辛うじて名前を知っていたのに対し、マニャールは永らく私にとっては未知の存在であった。同時代的には前衛の側、今日から見れば主流となったドビュッシーやラヴェルの周辺の作曲家達、或いはメシアンへの繋がるカテドラル・オルガニスト=作曲家の系譜の作曲家達(こちらにはフランク自身も含めて、フランキストの一部も含まれることなるが)に比べてもなお、同時代的に既に守旧派的に分類されてしまえば、その後の忘却の度合いが著しいのも仕方ないのかも知れない。例えばヴィエルヌの作品の全貌が広く知られるようになったのは極く近年のことだと思うが、彼のオルガン曲やミサ曲は、上記のような凋落とは無関係に、確固たる地位を占め続けて来たように見えるのに対し、そうした場を持たないマニャールの音楽は、コンサートホールやオペラハウスで取り上げられない以上、実質的には忘れ去られていたと言うべきなのだろう。

 だがマニャールの場合には、彼自身の気質やその気質が反映された作品の性格が、その忘却に与かった面も否定できないだろう。私がマニャールの名前を知ったのは、恐らくはジャンケレヴィッチの著作を通してであったのだが、いわば通りすがりに言及されたに過ぎない『音楽と筆舌に尽くせないもの』での参照(邦訳ではp.121とそれへのp.130の注釈)は措いて、実質的な言及のある『仕事と日々・夢想と夜々』におけるジャンケレヴィッチによる以下のような性格付けは、それが妥当であるとしたらそのことによってまさに忘却の理由の一端を説明しているという見方が可能だろう。

(…)フランスでは、峻厳な音楽家たちもほかの人びとと共に甘美の大祭典を祝い、いまだに音響の歓喜が歌うにまかせ、いまだに音色、ハーモニーそしてひそかな充全の幸福に身を委ねる。デオダ・ド・セヴラックと同じようにルーセルも、ルイ・オーベールやポール・ル・フレムと同じようにマニャールも…。私の愛する音楽は誇示癖がない。ここにすべてが仮面とヴェールで覆われている一頁がある。すべてが半濃淡で薄明りだ。これがフランス流の《熱情をこめて》だ。(…)

ジャンケレヴィッチ『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1982)、pp.298-99

この文章でマニャールと同格の位置に置かれているのはルーセルだが、同じダンディの弟子ではあっても、ルーセルは今日、マニャールとの比較においては遥かに著名な作曲家だろうし(寧ろフランキストの流れに属している事実の方が忘れられがちなくらいであろう)、その作品は今日のコンサート・レパートリーの中に確固とした地位を占めているのは誰の目にも明らかなことだろう(例えばアマチュア・オーケストラの情報サイトであるi-amabileの演奏会履歴を見れば、それは一目瞭然であろう)。オーベールやル・フレムが引き合いに出されている理由は措くとして(ちなみにマニャールに師事しているのはド・セヴラックの方である)、オーベールを除けばいずれもダンディ=スコラ・カントゥルムの人脈である点と、ルーセルを除けば、際立って中央集権的なフランスにあってパリを根拠にするのではなく、何れも地方に拠点を置いて活動をした点を挙げるべきだろうか。ジャンケレヴィッチの用いる「峻厳な」という形容と「誇示癖がない」という形容もまた、そうした点と相関する面もあろうが、ともあれ上記のジャンケレヴィッチの言葉は、マニャールの音楽がそれを知る決して多くはないであろう人間にどのように受け止められているかを物語る例にはなるであろうし、同時に忘却の原因の一端を示唆していることにもなるのではなかろうか。

 外面的な事実を挙げるなら、マニャールの名はパリ16区の通りの名前として記念されているという点を指摘しておくべきかも知れない。興味深いのは、それがパッシーと呼ばれてきた高級住宅街に位置していることよりも、その命名の由来の方であって、実はもともとは1904年の開設以来(途中1923年に延伸されたが)、当時流行の作曲家であったワグナーの名を冠していた通りの名前がマニャールの名を冠するようになったは戦間期の1927年のこと、敵国であったドイツの文化的アイコンであるワグナーの替りにマニャールが選ばれたのは、彼の死にまつわるエピソード、つまり第一次世界大戦時に、侵入してきたドイツ軍に対して屋敷に立て籠もって戦い、屋敷ごと焼かれて死亡したという事実によるらしい。焼き払われた後廃墟となった屋敷の写真は、今ならインターネットを介して見ることができるが、それが絵葉書の写真に選ばれたこともまた、通りの改名と同様の事情があったと考えるべきであろう。ベートーヴェンを尊敬し、ワグナーの影響が明確なその音楽にも関わらず、ここではマニャールには「愛国者」としてのコノテーションが付き纏っているようなのだ。

 ところがマニャールその人の生の軌跡を辿る限りでは、彼は寧ろ、同時代の形容では「進歩的」と形容されたであろう思想の持ち主のようである。それは彼の作品にも刻印されていて、最も著名なのは、ドレフュス事件に因んでドレフュス派の立場で書かれた管弦楽曲「正義への讃歌」op.14であろう(ちなみにダンディは反ドレフュス派だった)。それ以外にも彼の作品の頂点を為す第4交響曲op.21が女性によるオーケストラ(l'Orchestre de l'Union des femmes professeurs et compositeurs )に献呈されていたりもする。その音楽の同時代において既に時代遅れと受け止められたかも知れない保守性と、こうした作曲者の思想的な進歩性との間に或る種の不整合を見出す向きがあっても不思議はなかろう。

 要するに「仮面とヴェールで覆われている」かどうか、「半薄明で薄明り」の裡にあるかどうかはともなく(私は個人的には、ことマニャールの音楽に対してはこのジャンケレヴィッチの形容は適当とは思わないが)、マニャールが置かれた状況というのは、マニャールの人と作品が寧ろくっきりとした明確な輪郭(それを「峻厳」と呼べば呼べるだろう)を帯びているにも関わらず、錯綜としているようなのである。

 因みに「誇示癖のなさ」の方は(上記の文脈ではジャンケレヴィッチは明らかに音楽について語っているので、それをあえて意図的に捻じ曲げて言うことなるが)確かにその通りであって、彼は社交的な人間ではなかったし、(これまたベートーヴェンを思わせるが)ある時期以降は難聴に悩まされて引きこもりがちであった上に、自己批判が非常に厳しく、創作に対する姿勢は、こちらはまさに「峻厳」と形容するに相応しいものであったようだ。作品の多くは自費出版、しかも初期の評価が定まらない時期のものがそうなのではなく、寧ろ中核的な作品群(作品8~20)がそうなのであって、それ故大手出版社の宣伝や販促活動の恩恵に浴することもなかった。というよりそれを拒絶したというべきで、そこにはフィガロ誌の編集主幹として著名であった父親の権威を結果としてであれ借りることへの反発が関わっていると見るのが自然だろう。(それが父親その人に対する反発ではなかったことは、「葬送の歌」op.9が父親への追憶のために書かれていることから窺える。)経済的にも彼は親に依存することを良しとせず、自立することを自らに課したようである。こんなことは、でも、音楽には関係ないと言うだろうか?一般論としては確かにその通りかも知れないし、そのようにすべきなのかも知れない。だが、ことマニャールに関して言えば、マーラーのような意味合いで作品を自伝的に読むことが可能であるという訳ではなくても、なぜこのような肌触りの作品群が遺されたのか(ちなみに上記の経緯で屋敷の消失により手元に存在したかも知れない草稿の多くが灰燼に帰した結果、彼の死後に遺された作品は、作品番号にして20をようやく超えるに過ぎない)を知ろうとするならば、作曲者のそうした気質の反映をそこに見るのは避け難い。何なら作品が産み出される環境の一部として作者を捉えても構わないが、いずれにせよマニャールその人の個性が作品に刻印されていることは否定できないだろう。

 それでもなおマニャールその人は一先ず措いて、遺された作品の方はどうなのかと言えば、こちらもまた「誇示癖がない」という形容については妥当であると見る向きが大方のようである。管弦楽曲のみならず、室内楽もまた構想は雄大で書法は念入りであるけれど、所謂ケレンのようなものが無いというのも衆目の一致するところのようである。色彩感に欠ける訳でもないし、内面に閉じこもった「主観」の音楽では決してなく、外に向かって開かれているし、低回趣味というわけでもないのだけれども、何か「新しい」風景が垣間見える瞬間といったものには欠けている。独自性に欠けるわけではないのは、彼の作品の音調がフランキストの中でも異色のものであることから明らかだし、例えばワグナーの影響一つとっても、多くのフランキスト、或いはスクリャービンの中期作品とかにあからさまな、あの温度の高い、噎せ返るような甘美さとは無縁である。だが一方で、フランス音楽としては例外的と感じられる程に《熱情がこめ》られているのにも関わらず、規範を尊重するあまり、それを打ち破り、アドルノ風に「唯名論的」に下から上へと作曲する衝動というのは感じられないし、何か未聞の響きが、未知の風景が地平の彼方から到来するといった瞬間は、マニャールの音楽の中にはないようだ。理知的と言えば、これもまた「フランス性」の記号ということになるのかも知れないが、ここでは熱情は放恣に走ることなく、意志の力で、時代遅れと受け止められかねない形式の枠の中にきっちりと収められているかのようなのだ。

 だが、だからといって「進歩」に資することのなかった或る作曲家の作品が、それゆえに後世にとって最早「用済み」であって、忘却の彼方に消え去っても仕方ないし、そうなっても構わないという考えには私は全く同意できない。否、寧ろ、時を隔てて、場所を違えて作品が甦るとき、それがもともと置かれていた文脈においては読み取ることができなかった部分、光が当たらなかった側面がようやく明らかになるということがどうして起きないと言えるのか?勿論、アプリオリに定まる「本来の」文脈が存在するという訳ではない。今、ここを特権化することなどできない。だけれども、もともと同時代にあって既にアナクロニックであったものは、時を超えてではなく、時を潜り抜けて、それを必要とする聴き手に辿り着くのを待っていたということはないだろうか?私が何某かを主張できるとしたら、それは偏に、それを必要とし待ち望んでいた(しかもそうであることは事後的にしかわからない。ベルクソンは『思想と動くもの』の「緒論第1部」および「可能性と事象性」において、そうした逆行的、転倒的な時間性を作品の創造に関して述べたのであったが、それは作品の受容に関してもまた成り立つと考えることはできないだろうか)という点に存しているのだ。

 誰の壜を誰が拾うかはそれぞれで、そこにも偶然が大きく関与していることだろうが、様々な環境の要因の複合により、とにかくマニャールが遺した「投壜通信」を私は拾ったのだ。それは声高に自分の存在を主張しはしないし、低回趣味に徹して、「日常」(そこには天変地異であったり病苦や死といった出来事からの恢復の過程、「生き続ける」ことも含めるが)を乗り切るためのよすがに徹するわけでもなければ、地平の彼方からの何かの到来の記録というわけでもない。聴き手に対して語りかけたり、手を差し伸べたりするわけでもない。だけれども、それらのいずれかでなければ価値がないということにはならないのではないか。寧ろそれは「生きる事を学ぶ」ことを、語りかけるでも強制するでもなく、自らの挙措によって、受け取り手に対して密やかに示唆し、そっと促すような存在なのだ。それが「効果」という点で如何に限定されたものであったとしても、否、仮に、或る具体的な場合においては「効果」としては無であって、あってもなくても同じことのようにしか見えなかったとしても、その結果だけを見て、それを不要のものと決めつけることはすべきではないだろう。生物学的な適者生存を文化的・社会的な次元に不当に拡張して敷衍することの危険は、まさにマニャールの同時代に明らかになりつつあった。にも拘わらず、文化的・社会的な領域でも、進化論的な適者生存というのは、今や恰もそれが「原理」であるかの如き様相を呈しつつある。否、それは最終審級においては正しいのであろう。だけれどもそうならそうで、生存のための戦略は、一見してみてわかる進歩を、目先の効用を備えていることとばかり限ったわけではないだろう。生物の生態系でも思わぬところにニッチが広がって、粗視的には想像がつかないような多様性が存在し、まさにそのことが生態系を支えているということが起きる。ましてや文化的・社会的な領域では、そうしたニッチを許容しない(例えば、それが受け手にとって「不愉快である」という理由で、存在する場すら奪ってしまおうとする)立場は、結果的に生態系を脆弱にしているのである。

 世界の片隅に、100年前の異郷の、稍もすれば見失われがちな音楽が存続する領域があるということの価値を信じて、私はマニャールの音楽に対して「ウィ」と言って、それを歓待することを選ぶ。この文章を綴り、公開することはそのことを行為遂行的に証しするためのものである。どうかその「歓待」が、ひどく貧しくて慎ましい、他人が見たら歓待などと呼ぶに値しないものであることについては許して欲しい。そしてそれは拾った壜に対する遅ればせの「返答」であって、それは全くそうしなくても同じことではない、見た目は区別がつかなくても、そうではない、ましてや逆効果になることは(そういう可能性が常にあることに対して目を背けるつもりはないけれど)ないと私は信じたい。否、単純に、その音楽が湛える佇まい、その音楽が浮かび上がらせる風景、その音楽が聴き手に働きかける力の大きさに聴き手は圧倒されることになる。そればかりではなく、その音楽が垣間見せる風景に、「現実」のどこにも見いだせなかった、そこで自分がほっと一息つき、安らい、或いはそれに同調することで己を解き放ち、精神の働きの自在さを恢復することのできる空間を発見することになる。そして、斯くも質の高い作品がほとんど知られることなく、その価値が認められていないことに驚き、何か不当なことであるかのように感じから逃れられなくなる。そして私はそのことを事実として証言することを選ぶ他なくなるのだ。私は密やかに、そっと小声で、しかし誇らかに証言する。私は確かに「投壜通信」を拾ったのだと。何故ならそれは、壜を拾ったものの責務だからだ。遥かに遅れて、遠くからであっても、応答すること、それを証言することによる他、自分がコミットする価値を自分を超えて存続させることに寄与することはできないからだ。

(2019.11.2-3初稿・公開, 2023.10.15加筆, 2025.3.22 再公開)

2025年3月18日火曜日

モリス・ラヴェル

 いつもそんなに身近に感じているわけでもない。ある時期にその音楽に熱中し、そればかりを聴いていたということもない。にもかかわらず、ふと振り返ってみると随分と長いこと、しかもコンスタントに聴き続けている。しかもその作品のかなりの部分をくまなく聴いていて、その割合たるや数少ないお気に入りの作曲家に比べて勝るとも劣らない。私にとってはラヴェルの音楽はまさにこうした例外的な位置を占めている。 それだけではなく、ラヴェルの人と音楽との関わりに対する関心はますます大きくなっていて、これまで周縁的であり続けてきた存在ではあるのだが、今後は徐々に興味の中心に移ってきそうな気がしている。

ラヴェルは自己を語らない、と言われる。印象主義から新古典主義へといった潮流のような環境からも、壮大な身振り、やりすぎを忌避する本人の気質からも、芸術家であるよりは職人であろうとする作曲上の姿勢からも、ラヴェルの音楽はロマン主義的な作者と作品の関係からはほど遠いのだろう。模倣の、イロニーの、仮面の大家、完璧主義と引き換えの人工臭といった評価もまた、その作品と人との関係に存在する屈折を告げている。 にも関わらず、そうした身振りもひっくるめて、ラヴェルの音楽には作曲家の姿がはっきりと刻印されているのだと私には感じられる。自意識にまつわる逆説をラヴェルのケースは鮮やかに示しているのだ。

そしてまたラヴェルについては、なんと多くの証言が残されていることか。音楽学者ならば主観的なバイアスを気にするのかもしれないが、後世の人間の無遠慮で無礼ですらある詮索をよそに、ラヴェルに直接接した人たちそれぞれの主観のフィルターを通して捉えられた ラヴェルの姿はくっきりとした印象を残す。概説的な評伝を読んだ後でそうした一次資料に遡った人は、ある意味では逆説的ともいえるような意外感に満ちた経験をすることになる。そして私見では、その印象はその音楽と些かも齟齬をきたしているようには見えない。

私がその作品に見出すのは、自分の感情を押し売りしない節度、仕事に対する誠実さ、モラルに対する厳格さ、親しい人間に対する信頼、「大人」の世界に対する懐疑と怒り、そして運命に対する深い悲しみ。ある意味では芸術家のイメージには相応しからぬ、ごく普通の、等身大の人間だ。確かにちょっとエキセントリックなところはあるけれど、人によっては「小市民的」と呼ぶかもしれないような常識人。 それでは夜のガスパールにおけるような怪奇趣味はどうなるのかといえば、若い時期に或る種の極端さに惹かれることは、別に大芸術家でなくても起きることだし、心の奥底にある衝動というのは、芸術家の偉大さを担保するわけではない。ダンディスム、あるいはおもちゃや紛い物への嗜好もまた、そこにあたかも彼の芸術の謎を解く決定的な鍵を見出したかのように取り立てるのは、滑稽にみえる。 要するにラヴェルの人と音楽には或る種の低徊趣味があって、何か新奇なもの、偉大なもの、時代に先駆けたものを探そうとする人間の期待をはぐらかすかのようなのだ。

だからラヴェルは学者にとっては扱いにくい対象だろう。彼を研究対象として扱い、彼を利用して何か気の利いたことを言うのは難しい。発展と進歩を暗黙のうちに前提としている音楽史の中では彼は厄介者で、せいぜい(もしかしたら揶揄を込めて)有名ではあるが、二流の価値しかない作曲家ということで済まされてしまう。彼を取り巻く環境が興味深いものであったが故に、その時代の空気を描き出す作業は、人によっては興味をそそられるものであるのだろうが、そうした群像の中で、彼をひきたたせようとすれば、その些かエキセントリックな言動や趣味にでも言及するしかない。そしてそうした言動や趣味自体が時代に影響されたものであるゆえ、時代を描こうとすれば、彼は欠かせぬ味付けになるのだろう。時代の証人、「趣味」の体現者、というわけだ。そして勿論、彼を「楽聖」として扱い、その生涯を偉大な芸術家の伝説として飾り立てることはひどく場違いなことに違いない。

彼の作曲職人としての技術は例外的なものだった。多くの作曲家が、演奏家がラヴェルの秘密を、それぞれなりに、かつまた実践的な仕方で見出している。そしてまた、彼の音楽は疑いようのないポピュラリティを獲得していて、一言あるような「通」を自認する人間や、専門家を自称する人間なら顔をしかめるような聴き方をも含めて、いわゆるクラシック音楽の境界を超えて、多くの聴き手がラヴェルの音楽を聴くことに歓びを見出している。 私もまた、ラヴェルに関しては、そうしたフランス音楽に造詣の深い「通」の聴き方からは遠く、その音楽に対して距離をおいて、どちらかといえば斜に構えた接し方をしてきたし、それは今後もあまり変わることはないだろう。それでいてラヴェルの音楽が私を捉えて離さない、そのありようも変わることがないように感じている。例えば晴朗で均整のとれた、古典的な清澄さをもった「クープランの墓」や「ソナチネ」にこめられた深い悲しみは、私にとってかけがえのないもの、あるときにふとそこに立ち戻らざるをえないような貴重なものなのだ。

その一方で、その人間と音楽との関係に対する興味もまた、尽きることはない。 ジャンケレヴィッチが鮮やかに、このうえもない的確さで描き出した様々な主題系は、その華麗な修辞に埋もれさせてしまうにはもったいない問題を含んでいる。(個人的に興味深いのは、音楽と本質的に関わったもう一人の哲学者、アドルノとジャンケレヴィッチがほぼ一度きり交差するのが、まさにラヴェルを介してであることだ。一般には無調の哲学者アドルノがラヴェルに言及することの方が意外に思われるかも知れない。だが、非本来性の哲学者にとっては、イロニーと仮面、意識のパラドクスを体現するようなラヴェルの姿勢は寧ろ親和的と言ってもいいだろう。しかし私見では実はそれ以上に、身近に接した弟子のロザンタールが見事に言い当てた、ラヴェルの音楽に滲み出た「優しさ」こそが、アドルノの心を捉えたのではないかという気がしてならない。言われるところのマンダリン的文化保守主義の姿勢に由来するアドルノのペシミズムがラヴェルに同調者を見出した、というのは些か一面的な捉え方であるように思われる。)

(...) Aber vielleicht wird man später, in einer anderen Ordnung der Dinge, doch noch hören, wie schön man einmal, im Menuett der Sonatine, fünf Uhr des Nachmittags komponiert hat. Es ist zum Tee gedeckt, die Kinder werden hereingerufen, schon schallt der Gong, sie vernehmen ihn und spielen noch eine Runde, ehe sie sich mit dem Kreis auf der Veranda vereinen. Bis sie von dort loskommen, ist es draußen kühl geworden, sie müssen drinnen bleiben.

Adornoの1930年のラヴェル論の末尾(Th. W. Adorno, Moments musicaux, 1964, Taschenbuch版全集17巻p.65, 三光・川村訳, 1979, pp.95)

21世紀の今日の人間は、1964年の「楽興の時」に収められたこのラヴェル論の初出が1930年の「アンブルッフ」第12巻第4/5号であることに留意して読むべきであろう。つまりこれはラヴェルの生前に書かれた文章なのだ。ボレロは書かれていたが、双子のような(これは似ているという意味ではない) 2曲のピアノ協奏曲はまだ書かれていない。ラヴェルが病のために頭にある音楽を書き留められなくなるまでには、わずかだが時間が残されている、そんな時期に書かれたことを考えて読むべきなのだ。アドルノの方は、ラヴェルが晩年の沈黙に入るのを追うように、1933年のナチスの政権掌握の翌年、ロンドンに亡命する。

シェーンベルクの音楽を研究し、高く評価していたラヴェルその人がシェーンベルクの一派の論客の書いたこの文章を知っていたかどうか、私は知らない。アドルノは30年後に再びこの文章を論集に編むにあたって加筆をしたとの記述があるが、それがどの部分であるかは―初出誌との比較をすればわかることなのだろうが、私にはそれができないので―これまた詳らかでない。またとりわけ、この末尾の一節を、すでにeiner anderen Ordnung der Dingeにあって読み返したアドルノが、自身どのような思いに捉われたであろうかもまた知る由もない。 だが、更に40年以上の歳月が経過した極東の異邦でこの文章を読み、ラヴェルの音楽に耳を澄ませる人間は、それぞれがこのアドルノの言葉を自分に向けられたものとして反芻することになる。

ラヴェルにおけるジャンケレヴィッチの視点の再検討はいずれにせよ必要だろうし、その際には、アドルノの視点をあわせて考える必要があるだろう。仮面についても然り、子供についてもまた然りだと思われる。 ラヴェルの音楽が幼児性への退行の音楽だというのは、あまりに単純化した見方で、作品の多様性を全く扱い得ない。それは寧ろ、大人の、痛みの音楽なのだ。ロマン主義的とはいえなくても実存的ではあるし、鋭さにも欠けていない。だからここでもまた観相学が必要なのだ。語られた素材ではなく、語り方に。クープランの墓、ソナチネ、2つのピアノ協奏曲、 2つのワルツ、そしてマダガスカルとマラルメ、、、

意識のあわられについて語りうる音楽は限定される。だが、ラヴェルの音楽はまさに意識のあらわれの音楽なのだ。高度な推論者の要件は満たしているが、記述という点では屈折や韜晦が大きいから、よく言われるように、その内容について直接語ることは難しいのだろう。だが、例えば死についての意識が、基底の響きとしてラヴェルの音楽に存在するのはほぼ確実なことのように思われる。あるときには一見、素材として扱っている身振りの影に、あるいはレティサンスによって、あるときにはもっとはっきりと素直に(クープランの墓)。そして、最後にはより直截な仕方で(ラ・ヴァルスから、左手のための協奏曲へ。) ラヴェルの音楽もまた、意識の音楽として捉えることができる。擬古典的なたたずまいや技術的な完全主義も単なる「見かけ」ではないが、ラヴェルの音楽にはそれだけでは収まらないものがある。しかもそれは、晩年になってよりはっきりとしてきたとはいえ、ずっとあったのだ。だから著名な研究家の口から、晩年になってロマン主義に到達した時に、心因的なものによって創作が堰き止められてしまった、というような言葉を聞けば、その不可解さに驚きを禁じえない。並外れた感性と趣味に関する正しい感覚に基づき、さらに綿密な調査と緻密な論理によって構築された立派な研究の蓄積に裏打ちされた一流の先生の発言だから、私の見方が間違っているに違いないのだが。

(...) Et une question commençait, monotone : -- Comment allez-vous ? ... -- Mal. -- Avez-vous bien dormi ?... Il faisait non avec la tête... -- Avez-vous bon appétit ?... Il disait : Oui... -- Avez-vous un peu travaillé ?... Il secouait mélancoliquement la tête, et un brusque flot de larmes cachait son regard brun... -- Pourquoi est-ce arrivé à moi ? disait-il. Pourquoi ?... Et, après un silence : J'avais écrit des choses pas mal, n'est-ce pas ? Je le rassurais, de mon mieux, sur son oeuvre de diamant qui défierait l'injure du temps et l'outrage des hommes. Et le lendemain, à l'heure habituelle, je revenais, avec angoisse, poser les mêmes questions. (......)

J. de Zoghebが回想する最晩年のラヴェルとの対話(E. Jourdan-Morhange, Ravel et nous, 1945, pp.250-251, 安川・嘉乃海訳, 1968, pp.298-299)

「隣人」であったZoghebとのこの痛ましい対話は、Jean Echenozの小説(Minuit, 2006)にも変形を受けた上で組み込まれている(p.119)。だが、そこではZoghebはラヴェルの問いに答えないことになっている。Echenozの小説も悪くはないが、個人的にはJourdan-Morhangeの回想に収められた Zoghebのこの回想の方が印象に残っている。「ラヴェルと私たち」は翻訳も丁寧なもので、著者の気持ちの流れのようなものを汲み取った訳文になっていると感じられる。ラヴェルの人を知るには欠かせないと感じられるだけに、現在入手が困難なのが残念である。

まずもって、晩年ラヴェルの創作を不可能にした病ははっきりと器質的なものであって(それだけに一層、晩年の彼の姿は実に痛ましい)、彼が書けなくなった理由をそれ以外のところに求めることは、よほどの空想の裡でない限りはできないだろう。彼の頭の中にあった音楽を知る術はないけれど、彼はそれを書き止めたくて仕方なかったに違いない。一体それがどういう道筋で心因的なものによる創作の放棄になるのか、私には理解できない。勿論、はっきりとした徴候が現れる以前から恐らくはゆっくりと進行していったであろう病の経過が、どこかで作風の変化に繋がっていた、という見方を否定することはできないだろう。だが、これは心因的なものによる創作の堰き止めとは別の話である。結局、心因的なものによって、創作自体が堰き止められる理由がどこにあるのか、やはり私にはわからないのだ。否、晩年のラヴェルがそうした主張を聴いたら、一体どういう気持ちになったかを思えば、やりきれない気持ちにすらなってくる。そうした断定が「学問研究」の結果だというのなら、私個人としては、沈黙を選んだほうが良いかとさえ思えるほどである。

(...) A la fin de sa vie pourtant, malade, contraint à l'inaction dans le travail, il aimait réentendre ses premiers ouvrages : la dernière fois qu'il écouta Daphnis (Ingelbrecht conduisant l'Orchestre national), il fut extrêmement ému, sortit vivement de la salle, m'entraîna vers la voiture et pleura silencieusement : « C'était beau tout de même! J'avais encore tant de musique dans la tête! » Et, comme je tâchais de le consoler en lui disant que son oeuvre était splendide et complet, il se fâcha : « Mais non, mais non, j'ai tout à dire encore... » On ne peut penser sans une grave émotion à ce martyre enduré pendant ces dernières années : lutte incessante du génie et de l'homme terrassé en plein épanouissement créateur.

Jourdan-Morhangeが回想する最晩年のラヴェルとの対話(E. Jourdan-Morhange, Ravel et nous, 1945, pp.50-51, 安川・嘉乃海訳, 1968, pp.56-57)

この悲痛なやりとりはJourdan-Morhangeの回想の導入をなす第1章の末尾におかれている。彼女は、このラヴェルの言葉を、その時に彼女が見た ラヴェルの表情―彼女以外には知るものがいない―を、是が非でも伝えたかったのだと思う。 自分自身、病のためにキャリアを中断しなければならなかったJourdan-Morhangeにとって、晩年のラヴェルの苦しみは勿論、他人事ではなかっただろう。特に最後の一文の重みを感ぜずにはいられない。 勿論、こうした一次資料に記された「主観的な」コメントに異を唱え、ラヴェルの場合には心因的なものによって創作自体が堰き止められたのだ、と主張されてしまっても、―私には、何を根拠にそんなことが言えるのか、全く理解できないのだが―原理的に反証不可能な事柄である以上、完全に反駁することはできないだろう。だが―腹は立つから、あえてこうして書いているのだが―机の叩き合いなどしても仕方ない。そうした主張が学問なり評論なりとしては意義あるものだとしても、そんなものは単なるラヴェルの「ファン」である私には結局不要なものなのだ。

ジャンケレヴィッチの周囲をうろうろし続け、レトリックにレトリックを重ねて深遠そうな表現を振り回して見せたり、海外の研究者の言葉を引きながら、批評に批評を重ねたり、もってまわったような言い回しで気の利いたことを言って見せ、自分の「趣味」の押し売りをやって通ぶって見せるよりは、そうした主題系を現代的な文脈で展開していく方が余程興味深い。一つだけ例を挙げれば三輪眞弘のような作曲家がラヴェルを素材として引用することが持つ意味合いを考えることは、そうした主題系の現代的な捉えなおしをするための格好の手がかりであるように思える。

(2006.7.22, 2007.1.13, 6.13, 23加筆修正,2025.3.18 再公開)

2025年3月17日月曜日

ギヤ・カンチェリ 「儀礼=祈り」としての「うた」について

  「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。ふとした偶然で2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK), PHP新書, 2012)を読み、「現代のロシア音楽」と著者の亀山郁夫さんが見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、カンチェリに関する記述を読んだ際に感じたことを、既に公開済の、主としてシルヴェストロフとの対比を介したそこでのマーラーの扱いに関する強い違和感を記した記事から抜き出して、その主旨とは別に取り上げる価値があると感じているカンチェリにフォーカスするように視点の変換を行った上で記録しておくことにする。

 そのことに対する認識が直接のきっかけとなったわけではないけれど、元の記事を書いた時点では、カンチェリは現役の同時代の作曲家であったのが、この記事を公開する時点では既に故人となってしまっている。彼はここ暫く世界を覆っている新型コロナ禍を知ることなく没したのだが、その後発生してこちらもまだ終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻は、元原稿の執筆に遡る南オセチア紛争を想起させずにはおかなかった。そうした変化の中で「音楽」について、そして「祈り」について考えていく中で、実は執筆当時は寧ろ疎遠であったカンチェリの音楽との距離は再び縮まり、今では、かつて出遭った時期以上に身近に感じるようになっていることがこの記事を起こすきっかけになっていることは間違いないだろう。またそうした距離の変化をもたらした出来事として、最近になって接することができたグルジア(現ジョージア)に関連した2つの書物との出会いがあることを付しておくことは、一旦過去の記事を再編するに留まるここでの作業をこの後継続するとしたら、それはどのような方向を目がけてのものになるかを標記することになるだろう。

 一つはジョーゼフ・ジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか?』(森田稔訳, アルク出版, 2017)で、これはグルジア民謡について知っている人には想像がつくことと思うが、人間の進化における「うた」の起源に関して、音楽は言語に先行しており、最初にまずポリフォニーがあり、モノフォニーは言語獲得の過程で生まれたという非常に魅力的な仮説を提示した著作である。

 もう一つは、兼本浩祐さんの『発達障害の内側から見た世界』(講談社, 2020)。第3章 了解するということ の末尾においてグルジアの「スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会」(p.123)についての説明が為されるのだが、それは以下の文章の内容と無関係ではない。というより私見では極めて密接な関係があるのだが、その点を論じるのはカンチェリの音楽にフォーカスした旧稿の再編集というスコープを大幅に超えることになるので、それについては稿を改めることとして、だが少なくともそれが、以下でカンチェリの音楽に関して検討している「世界」を含めた対象の意味づけの様態に密接に関わるのだということ、更にヤスパースの「了解」を導きの糸として検討されるさまざまな様態の中でも、記述や認識の対象とする仕方ではなく、「我々」としての了解でもなく、いわば「他者」として迎接するという様態に関わるが故に、以下で検討されるカンチェリの音楽のあり方と密接に関係しているということは指摘しておきたい。

 なお以下の記事中では「グルジア」という今や歴史的呼称となったロシア語風の呼び方をしているが、それもまた元記事が、「ジョージア」という呼称が正式なものとなる2015年4月以前に書かれたことに由来しており、その後の時間の経過の中で起きた変化を証言することになるだろう。いっそのこと自称である「サカルトヴェロ」を用いて書き換えることも考えたが、それは将来改めて取り上げる時のためにとっておくこととして、ここでは旧稿執筆時点の状態を残すことにした。

 2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」公式ガイドの著者は「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という規定をしているが、その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。そしてそこでカンチェリの音楽に対比されるのはシルヴェストロフの音楽なのだが、私個人について言えば、カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはない。さりとてカンチェリの音楽に対してさえ特段の強い拘りを持っているわけでもなく、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもなかったのだが、その一方でこのガイドブックの記述は私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、とりわけてもカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほどであり、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じた。シルヴェストロフの方は、「ガイドブック」の著者によってその音楽と「同類」であるとされたマーラーの捉え方に異を唱える(つまり同類ではないと私は考えるのだが、それは専らマーラーの側に関する異議申し立てであって、シルヴェストロフの側についてのそれではないが故に、そうした異議申し立て)という文脈の中に納まっているが、カンチェリについては必ずしもそうではなく、だからここで独立に扱うことに一定の意味があると考える。

 「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」というガイドブックの主張については、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という主張自体に異議があるわけではなかった。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではあった。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだという点が戸惑いの根源にあった。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。

 そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。

 文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。(ちなみに、よりツェランを主題的に取り上げ、彼をタイトルロールとする「オペラ」(と、その抜粋からなる交響曲)さえ書いているルジツカのような例を含めた上で、パウル・ツェランの詩を素材とした音楽作品として、カンチェリの作曲はほぼ唯一私にとって違和感のないものであったし、現時点でもこの点は変わらないようだ。)

 あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさと呼ばれるものとて、カンチェリによって自覚的・意識的に選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことはできないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。

 もっとも著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトがシュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。

 一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。

 だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統ではそうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説くレヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ「支離滅裂」にしか感じられない。

 ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品の間についてではなく、諸々の作品に共通する作者の世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているとは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションとYouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。

 典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように感じられる点、コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない点、内容においても、作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題としているのではなく、寧ろ世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものであるという点、総じて疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリとマーラーには一定の共通点があるだろう。

 だがその一方で、特に交響曲作家としてのカンチェリとの比較ということであるならば、西欧音楽の外縁において、非西欧的な論理を探求し、偶然にも同じ数の交響曲を残したシベリウスとの対比の方がより一層興味深いかも知れない。今一度、このガイドブックの「ミニマリスト・ブルックナー」という形容を思い浮かべた時、寧ろブルックナーに通じるのは、垂直方向の超越の運動の存在であり、シベリウスの音楽には空を仰ぐような視線があったとしても、その視線は水平線の彼方を目指すのでって、ほぼ水平方向の運動のみであって、その非宗教性という点で「西欧音楽」の一種としてみた場合に寧ろ異様でさえあるのに比べると、宗教性というラベルづけをすることに違和感がなさそうに感じられる。

 だがその音楽の時間的な構造、主題や動機というよりリズム細胞と呼ぶのが適切な非常に限定された素材を用いて長大で、シンフォニックと呼ぶに相応しい持続を編み上げていく点、ミクロには非常に長大なペダルへの嗜好やソノリティといった点においてカンチェリの音楽は、明らかに西欧音楽的なものから隔たっていて、寧ろシベリウスに近接するように思われる。その非構築的な契機の明白な存在だけとれば、ブルックナーにも或る種の「ミニマリスト」的な側面を認めることは可能であろうが、少なくとも長大なゼクエンツによって時間を押し広げていくブルックナーの音楽と時間性の観点ではほとんど接点はなく、形容矛盾」と断った上で「ミニマリスト」という形容を付加するくらいならば、寧ろ西欧音楽が獲得してきた音楽的思考との断絶の廉でアドルノやレイポヴィッツにあれほど罵倒されたシベリウスこそを引き合いに出すべきだったのではなかろうか?

 ブルックナーもシベリウスも、その音楽における主観性が希薄であることを以って「木石の音楽」といった言われ方をするが、この点におけるカンチェリの音楽の相貌は両者とは明確に異なった独特なものであろう。既述の通り、そこでは非人間的な秩序としての「外部」が直截な仕方で提示されるのに対して、主観性の契機は(ノスタルジーなどではなく)「祈り」の「うた」というかたちで出現する。非対称な両者の間には「対話」は存在しないが、或る種の乖離したポリフォニーを認めることはできるだろう(そしてこの点については、特にマーラーの特に後期様式の或る側面との共通性を認めることができるのではないかと考える)。「私」が、「私たち」が、ではなく「風が」泣いている」という標題を持つ作品が「典礼」と規定されていることは、そのことをいわば外側から証言していると言って良いだろう。ブルックナーの場合とは異なって、ローカルな日常の風景が、何者かの息吹を受けて突如変容するというようなことはここでは生じない。だからといって主観が森の中に歩み入って消滅してしまい、後には森だけが残るというシベリウスでは起こり得たようなこともここでは生じない。ここでは「祈り」が残り、そしてそれは別の機会に、全く同じように「幽霊的に」反復されるのだ。その反復によって、「人間中心的な意味づけから解放されている」(かに見える)外部もまた変化を被ることなく「幽霊」のように再来する。「祈り」そのものは未来を持たないし、それ自体の時間性の裡に「成就」を含まない。シベリウスの場合には、外部の秩序(ノモス)の円環的な循環が示唆されるのに対して、ここでは「祈り」が備えている根源的な反復が示唆されているのではなかろうか。

 実は「人間中心的な意味づけから解放されている」というのは、他の生物にもその萌芽は見られるにしても、自らの有限性を認識するのみならず、言語を獲得し、自伝的自己を備えた「人間」の営みである限りにおいて、それ自体は極めて人間的という他ない「祈り」が備えている性格に他ならないのではなかろうか。そしてこの最後の点を批判的知性を以って構成主義的なやり方で提示しているのが、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする作品に他ならない。そこでは離散力学系によって決定論的に定められている作品の構造の外部に、人間が作り、人間が歌う「うた」があり、こちらもまた「儀礼」として行われる上演において、生成される音響に「暖かみ」が感じられる点において、カンチェリの作品との接点を見出すことができるように思われるのである。

(2012.4.30/5.1初稿, 2021.6.24,29加筆修正のマーラーに関する旧稿の一部を、再編集・加筆の上、2022.7.24公開, 2022.8.18加筆, 2023.10.4 改題, 2025.3.17 再公開)

2024年5月23日木曜日

ブラームスと老い:「間奏曲」について

 ブラームスに関して言えば、「老い」に関して語ることは、その生涯と作品を語るに際して、従来より常に行われてきたと言って良いかも知れない。手元にある日本語で書かれた評伝を繙いて見れば、ブラームスの「晩年」について、独立の章立てをして語られていることが容易に確認できる。尤もここでの「晩年」の定義を確認すると、必ずしも一致せず、著作毎に少しづつ異なることにも気づく。例えば私が子供の頃に比較的容易にアクセスできた文献の一つである門馬直美『大音楽家・人と作品 ブラームス』(音楽之友社, 1965)の生涯扁は5章立てで、最後の第5章は「晩秋の活動」と題されており、その中は更に3つに分かれて、それぞれ「みのり多き秋」「精力集中の晩年」「重苦しい晩年」と題されている。最初の節の冒頭で確認できるように第5章はブラームスが53歳の誕生日を迎えた1886年のトゥーンへの避暑から開始され、2番目の節は1889年から始まり、最後の節は1894年以降に充てられている。21世紀になってから刊行された西原稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』(音楽之友社, 2006)では、生涯扁は6章立てで、最後の第6章が「静寂の晩年(1894年~97年)」と題されていて、題名に明示されている通り、最後の4年間が対象となっているから、これは丁度、門馬『ブラームス』では、第5章の最後の節「重苦しい晩年」のみを「晩年」としているのであり、他方、門馬が第5章の開始とする1886年は、西原においては一つ前の章である「内なる声の探求(1886年~13年)」と題された第5章の開始と一致する。従ってずれと見えたものは「晩年」という言葉を使うか否かの選択に起因するものに過ぎず、どこを画期とするかに関して言えば、稍々細かく見れば必ずしもそこに不一致がある訳ではないことがわかる。

 『吉田秀和作曲家論集・5 ブラームス』(音楽之友社, 2002)はその後2019年に河出文庫に収められて入手が容易になったが、その中には1974年に書かれた100ページを超える評伝「ブラームス ーHe aged fast but died slowlyー」が含まれていて、題名が告げている通り、ここでもブラームスにおける「老い」は主要なモチーフとなっている。全体は章分けはされずに番号のみが付された16節よりなっているのだが、その中で「老い」についての言及がされるのは、第14節の末尾においてであり、それは以下のように結ばれるのである。

(…)58歳で、彼は自分をもうすでに人生の創造から隠退するにふさわしい老人とみなしたのである。 

 ブラームスは早く年をとった。とりたかった。しかし死はなかなかやってこなかった。とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, p.126)

無論のこと、これは評伝全体のタイトルに付されたHe aged fast but died slowlyのパラフレーズであり、従って、この評伝の全体の焦点はここにあると考えて良いだろう。そしてここではブラームスの「晩年」は58歳から始まったと考えられていると見てよいだろう。では一体ここでの「晩年」の開始を告げるものは何だったのかと言えば、それは明らかに、上記引用の直前で言及される遺書の作成という出来事であった。それは弦楽五重奏曲第2番(ト長調、作品111)の完成にあたっての難渋がきっかけとなったとされていて、その傍証として、マンディチェフスキー宛ての手紙が参照され、更に翌年(1891年)のイシュルでの遺書の作成に言及されるのである。

「私は、最近、交響曲を含めていろいろと手をつけてみたが、どれもうまく進まない。もう年をとりすぎたと思うから、骨の折れるようなものは、これ以上書くまいと決心した。私は一生勤勉に働いてきたし、やることはもう十分にしつくしたと思う。今は、人に迷惑をかけずにすむ年になったのだから、平安を楽しんでもよかろうと考える」

 これは一時の気まぐれではなかった。翌年第58回目の誕生日を同じイシュルで迎えた彼は、遺言状を書いて、それを楽譜出版社で彼の管財人のジムロック宛送った。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, pp.125-126)

そしてこの後に既に引用したこの節の結びの文章が来るのである。要するに、後世の人間がどのように彼の生涯を区切るにせよ、彼自身の行為として、1891年のイシュルでの遺書作成というのが自ずと画期しているという訳である。そしてブラームスに関して「老い」にフォーカスした時には、既に参照した二つの評伝の区分には拠らず、この所謂「イシュル遺書」を画期とするのが適当のように思われる。

 そして更にそれは「老い」の意識がその創作にどのように映り込んでいるかを確認する上でも妥当と思われる。なぜならば、何よりもまずブラームス本人の主観として、作品111の弦楽五重奏曲をもって「骨のおれる」大作の創作は終わりであり、その後の作品は、1曲毎の規模は小さく形式的にも簡素なピアノ作品を中心に、クラリネットのために書かれた室内楽を除けば、若干の声楽曲と最後の作品となったオルガンのためのコラール・プレリュード集よりなるからである。当然の反論として、ミュールフェルトとの出会いを契機として作られたクラリネット・トリオ、クラリネット五重奏曲、2つのクラリネットとピアノのためのソナタの存在を指摘し、なおかつ、吉田さんが「とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。」と記しているのも、まさにそれを踏まえたものであるという指摘があるだろう。だが、その指摘の妥当性を認めた上でなお、「イシュル遺書」以降のクラリネットのための室内楽は、それなりの規模を備えた作品であるとはいえ、分水嶺となった作品111がそうであるようにはシンフォニックな志向を持った作品ではないし、例えばクラリネット協奏曲のような管弦楽曲が書かれることはなかった(実際、ミュールフェルト宛の書簡に、協奏曲を書くほど自分は不遜ではないという言葉が残されているらしい。門馬1965, p.136参照)ことを以て、ブラームスが必ずしも全面的に前言撤回したという訳ではない、と主張することもまた、可能なように思われる。勿論、「イシュル遺書」の作成は、不連続な心境の不可逆な変容といった出来事ではなく、万事において周到であったブラームスらしく、今風には、「終活」を開始した、ということなのだろうが。また、ことブラームスの場合にあって作品番号は、概ね出版の順序とみるべきで、必ずしも創作時期と一致するわけではない点に留意すべきであろう。従って作品番号が後であるからといってop.112, op.113が弦楽五重奏曲第2番よりも後に創作されたとは言えず、実際、op.112の四重唱曲に含まれるジプシーの歌こそ1892年作曲が確実であるにしても、op.112の他の曲の作曲時期は弦楽五重奏曲の手前に遡るらしいし、op.113の女声合唱のためのカノン集は、創作時期が同定できる作品は全て旧作に属し、偶々この時期に曲集として編まれて出版されたもののようである。それを言えば、作品116~119のピアノ曲集に含まれる作品の中には、他の曲と比べて若干雰囲気を異にするものがないとは言えず、旧作そのものとは言えなくても、旧作をベースにした作品である可能性もないとは言えないだろう。ブラームスの「終活」には草稿の破棄という作業も含まれていて、弦楽五重奏曲に取り掛かっていた1890年の10月にイシュルから自ジムロックに充てた手紙の中に、草稿の破棄を告げる言葉があるようだ。(門馬1965, p.123)そしてブラームスのこうした周到さは、後年の音楽学者がその創作のプロセスを追跡すべく、草稿を調べるという作業を不可能にするという結果をもたらすことになった。

*   *   *

 それでは、そうした資料調査の手法に拠らず、作品自体の分析によって創作時期を推定するような手法が可能であるかどうか、特に計算機を用いたデータ分析のような手法による推定が行われたという話は寡聞にして知らない。実は、ブラームスの作品のMIDIデータは割合とたくさん存在し、フリーで利用可能なので、マーラーの作品について行ったような、和音の出現頻度に関する分析をすべく予備的な調査をやったことがあるのだが、少なくとも和音のパレットといったテクスチュアレベルを対象とする限りにおいては、後期作品をそれ以前と区別し、特徴づけるような結果は獲られなかった。例えば室内楽ないしピアノ曲に限定しても、単純な特徴量のみからブラームスの「老い」に対応する特徴を抽出・同定することが難しいことについては既に確認済である。だがこの結果は、ブラームスの作品を聴いていれば或る程度予想がつくことであり、所謂「発展的」な作曲家ではないブラームスの場合には、そうした表層的なレベルでの時系列的な変化が簡単に検出できることを期待すべきではないのだろう。更に言えば、実際に分析対象となる作品と分析で使用する特徴量について具体的な確認作業を行えば、一見したところ後期作品の特徴に見えたものが、初期や中期の或るタイプの作品については当て嵌まってしまうといったようなことに直ちに気付くことになる。人間にわかることを跡付ける分析よりも人間が気付かないような発見的な価値を持ったデータ分析を行うというのが理想であるには違いないが、そもそも人間には手に負えない大量のデータが対象であればともかく、過去に創作された有限の作品のデータを対象とした時には、対象の作品に対する十分な(とまでは行かなくても、こと私の場合に限れれば、せめてマーラーの作品と同程度の、個別の作品の詳細に関するものも含む)知識がなければ意味ある分析は覚束ない。恐らくは、作品の構造上の特性として、形式的な複雑さ、更に言えば、シンフォニックであるかどうかといった特性のようなものを反映した特徴量を定義することができれば、そうした点で簡素化の傾向が見られることがデータ上からも確認できる可能性はあるだろうが、それはごく表面的にしかブラームスの作品に接していない私のような立場の人間にとっては荷が勝ち過ぎているように感じられる。

 とはいうものの、私の限られた聴取の経験からすれば、作品114以降、最後の作品である作品122に至るまでの作品を「イシュル遺書」以後の作品群として、一つのグループとしてまとめてしまえば、客観的には思い込みに過ぎないとしても、それらの作品に、それ以前の作品とは異なる「老い」の兆候を感じ取ってしまうこともまた避け難い。一方で、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもするのだが(そして後で触れることになるが、具体的にはそうした曲は、タイトルとして「間奏曲」とブラームスが呼ばなかったものに属しているようだが)、そうした一部の例外を除けば、その作品が浮かび上がらせる風景の持つ質は、やはりそれに先立つ時期に比べれば、遥かに深まった季節のそれであることは疑いないことのように感じられるのである。だが、それが一体何に起因するものであるかを、具体的に技術的な仕方で突き止めることができないからには、言葉を幾ら尽くしたとて、所詮は「私はそのように感じた」の同語反復を超えることは難しい。

*   *   *

 それでは、他の作曲家との比較においてブラームスと「老い」について、とりわけても吉田さんの言う「早く老いた」という言葉について考えてみてはどうだろうか。この言葉は既述の通り、「イシュル遺書」の作成に因んでのものだが、「早く老いた」という言葉そのものについて言えば、寧ろ円熟。実りの秋の訪れについてのものと捉え直すことが可能ではないだろうか。するとそれは、冒頭で触れた、「晩年」という言葉で指示される時期の評伝間のずれと関わっていることになるだろう。それどころか、それは「晩年」に先立っているとは言えないだろうか?例えばあの秋の気配に満ちた第四交響曲が、どの評伝においても「晩年」に先立つ円熟期の掉尾を飾る作品として扱われていることに気付いて、慌てて確認すると、それは1885年、ブラームス52歳の時の作品なのだ。更にもう一つだけ例を挙げるならば、あの「ドイツ・レイクエム」は1868年、30代半ばの作品なのだ。勿論、最初期のピアノ曲(例えば「4つのバラード」)や2つの弦楽六重奏曲、ピアノ協奏曲第1番といった作品を思い浮かべてみるならば、ブラームスにも「若々しい」作品がないわけではない。だが、これもしばしば言われる、意識としての、年齢に比しての「老成」ということを問題にするならば、これは遥かに遡って、もしかしたら子供の頃に家計を補うために酒場でピアノを弾いていた時の経験に遡るという見方さえできるのではないだろうか。

 それでは「ゆっくりと死ぬ」の方はどうか。すると、こちらに対しては違和感のようなものが湧き上がってくるのを抑えることが難しいことに気付く。いや、多分違うのではなかろうか。「死はなかなかやって来ない」とすれば、それは「老い」を長く生きるということに他ならない。そもそも円熟の最中で「実りの秋」を体現するような第四交響曲を完成させて交響曲の時代に区切りをつけたとはいえ、その後には充実した室内楽の傑作が陸続として生みだされるのではなかったか。「イシュル遺書」の後でも、ミュールフェルトとの出会いによって再びクラリネットのための室内楽が生み出されるが、それらについて、円熟の続き、晩秋の最後の実りであると言ってはいけないのか。ミュールフェルトとの出会いから、再び室内楽曲の創作に赴くことになる、その辺りの消息について、門馬さんは「このようなわけで、5月に遺言書を作成するころには、大曲への創作意欲がわきおこってきていたとみることができる。したがって創作と遺産整理と死への恐怖が当時みな心理的に密接に関連していたとは思えない。」と述べているが、それはその通りで、寧ろ遺書の作成は、言い方によっては「老い」に先立っての行動とみることだってできるだろう。

 だがそもそもブラームスにおいて「死はなかなかやって来なかった」という言い方は適切だろうか。72歳で没したブルックナーの葬儀の場に訪れながら、中に入ることなく「次は自分の番だ」と呟いたという言い伝えがあるが、その彼は70歳にならずに、それどころか、私のような今日の日本の給与生活者ならば年金を受け取れる年齢であるだけでなく、定年もまたそこに向けて延長されつつある65歳を前にして、64歳になる直前で没しているのだ。勿論時代の違いはあるが、58歳で引退を決意するのが仮に当時としても早い決断だったとして(だが、それとて「早く老いた」の意味するところでは勿論ないだろうが)、その後5年で没するのが「ゆっくり死んだ」というのは今日的な感覚からすれば当たらないだろう。かくいう吉田さんが全集を完結させたのは90歳を超えてからであり、吉田さん自身はその後更に98歳まで生きたではないか。(もっとも、吉田さんがこのブラームスについての評伝を書いたのは60歳を過ぎたばかり、丁度ブラームスが、西原さんのいう「静寂の晩年」にさしかかった年齢にあたることには気を留めておくべきかも知れない。吉田さんがそのことを意識していたかどうか、私には確認する術がないけれど、そして実年齢というのは、その人その人ひとりひとりの生の実質を基準にとるならば、所詮は相対的なものに過ぎないのだろうが、それでも吉田さんがこのことを意識して執筆に臨んだ可能性はあるのではなかろうか。)

*   *   *

 ともあれ、ふとした偶然から、そしてそれは後世の我々、特に平凡な生を生き、長い老いを生きることになる我々にとってこの上ない幸運であったのだが、ブラームスは引退を決意した後に、更にいわば余録のような形で作品を残すことになった。そしてそれは意識の上では、まさに「老い」の音楽そのものではなかろうか。多くの作曲家は引退を意識することなく書き続けて没するか、さもなくば自発的に断念するのではなく、何らかの理由で書き続けることができなくなって、いわば創作の上での死後を人生の上での「老い」として生きることになるのに対し、ブラームスの場合には、周到に、まるで用意されたように「老い」の最中の音楽が遺されることになった。その期間は決して長くはないけれど、そして作品番号にして10に満たない量ではあるけれど、そしていわゆる「大作」は、定義上あらかじめ排除されているという立場をここでは取りたい(つまり作品111を最後に「大作」は書かれなかった、その後の室内楽は、その規模と構成にも関わらず、実質において「大作」ではないという捉え方をしてみたい)が、そのことごとくが珠玉の傑作であり、かけがえのない価値を有する「小品」であり、それはまさに「老い」の音楽であると考えたい。繰り返しになるが、例えばあのクラリネット五重奏曲でさえ、その曲の持つ雰囲気の共通性もあって、敢えて小品と呼ぶことにしたいし、規模とは裏腹の大きさと重みを備え、音楽上の「遺言」に相応しい「四つの厳粛な歌」も、それが管弦楽と合唱を伴う2つ目のドイツ・レクイエムとはならなかったという点で、やはり敢えて「小品」と呼ぶことにしたいのである。つまり、ブラームスの晩年の、「老い」の音楽は、基本的には「小品」であるというように感じるのである。

 ブラームスにおける「老い」の音楽を「小品」ということで特徴づけるとするならば、直ちに思い浮かぶのは曲数からすれば多数を占めるピアノ小品だろう。だが、或る種のプロトタイプのようなものを取り出そうとした場合、それは単なるピアノ小品というよりは寧ろ、その中で少なからぬ割合を占める「間奏曲」によって特徴づけられるのではなかろうか。作品117は3曲とも間奏曲であり、「幻想曲集」と名付けられた作品116は3つのカプリッチョと4つの間奏曲で編まれている。6曲よりなる作品118はバラード、ロマンスが1曲づつで残り4曲は間奏曲、最後の作品119は掉尾を飾るラプソディーに先立つ3曲はいずれも間奏曲である。要するに20曲のうち、14曲が間奏曲であり、数の多寡が全てであるとは限らないとは言え、この場合には「間奏曲」こそが「老い」の音楽のプロトタイプ、典型であると言って差支えないのではないかと私は考える。上で既に、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもする、と記したが、それらは皆、カプリッチョ、ラプソディーと名付けられた作品であり、寧ろそれらは中期のピアノ曲との繋がりを感じさせるのである。ここでいう中期のピアノ曲とは、作品76の8曲と作品79の2つのラプソディーを指しているが、作品76は4曲のカプリッチョと4曲の間奏曲で構成されていて、作品79の2曲と併せてその割合が後期と異なる点が興味深い。これら中期作品を、それらがいずれも性格的小品であるという共通点を以て、所謂「後期作品」の嚆矢とみる立場もあるようだが、そして繰り返しになるが、「イシュル遺書」後の曲の中でも中期で優位を占めていたカプリッチョ、ラプソディーにはその反響が聴きとれるとはいえ、やはりそこには少なからぬ懸隔があるように思われて、それがラプソディー、カプリッチョと間奏曲の占める割合の変化と相関しているように思われてならないのである。その一方、バラードというタイトルを持つ作品には、遥かに時代を遡って、初期に標題性の強い4つのバラード(作品10)があるが、それと作品118の第3曲目のバラードとの懸隔は更に著しい。(詩を掲げるという点だけとれば、寧ろ作品117の第1曲が、標題性を示唆する作品であると言えるのかも知れない。)アレグロ・エネルジコとの指示通り、それはラプソディーのように始まるが、直ちにその力は弱まって、夢想の中で過去を回顧するような中間部が「語り」の実質であることに気付かされる。作品116の第4曲のロマンスは、タイトルの通り、甘美さを湛えた歌謡風の始まり方をするが、名残を惜しむような音調から夢見るような中間部が導かれ、その全体はやはり回顧的に感じられ、曲集の中ではバラードと対を為すような関係に置かれているように思われる。だが、それらのもたらすコントラストも他の間奏曲があってのものであり、基調となる響きはやはり「間奏曲」にあると感じられてならない。

 そしてそうした「間奏曲」の音調を余さず捉え、子供の頃に知って以来、長きに亙り、今なお私を魅了してやまないのは、間奏曲ばかりを集めたグールドの弾いたアルバムである。グールドにはブラームスの作品の録音としてはピアノ五重奏と、有名なエピソードのあるバーンスタインとのピアノ協奏曲第1番もあるけれど、ピアノ・ソロの作品としては、ソナタや変奏曲といった大曲ではなく小品ばかりを録音している。ここで取り上げた「間奏曲集」は何と30歳にもならない1960年に録音しているのに対して、中期の2つのラプソディーと初期の4つのバラードをその没年である1982年に録音していることが印象的である。それを知った後で聴けば、「間奏曲集」の演奏に或る種の若々しさを感じとることもできるように思えるが、正直に言えば、子供の頃にこの演奏に接した時(記憶によれば、アルバム全体を知る前に、吉田秀和さんが解説をされていたFM放送の番組で、メインのプログラムの後に少し空いた放送時間枠を埋めるように、グールドの弾く作品117の第1と作品118の第6の2曲の間奏曲が放送されたのを聴いたのが最初だったのではないか)には、演奏しているグールドの年齢のことなど考えることすらなく、それまで知っていたブラームス、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」や第3番、4つの交響曲とヴァイオリン協奏曲に加えて弦楽六重奏曲第1番くらいしか知らなったブラームスに対して自分が勝手に作り上げていた、若くして老成し成熟した、内省的で打ち解けない孤独な音楽家の晩年に誠に相応しい音調を見出して、心の底から感動し、魅惑されたのであった。この時の吉田さんの選曲もまた卓抜と言うべきで、詩が銘として掲げられ、歌謡性が強くて具体的な海のイメージを喚起する強い力を持ち、若き日への、更には幼少期への「回顧」の趣が強い(但しそれは特定の具体的な、例えばブラームスその人の過去に遡るというよりは、或いはそのことを通じて更に、いわば「ありえたかもしれない」、実際には一度も経験されることのなかったかも知れない幸福に満たされた過去を追憶するのであって、それゆえそこに込められた感情的な負荷は耐え難い程の苦悩に満ちたものになる)作品117の最初の曲と、こちらはそうした回顧する意識の現在の場の沁みいってくるような寒気と荒涼の中において、その回顧を支配する「もう元には戻れない」という不可逆性の意識、否、その過去が「ありえたかもしれない」ものであるならば、「もはや辿り着くことのできない」という到達不可能性が意識にもたらす凍てつくような絶望感に満たされた作品118の最後の曲とは、いずれも「間奏曲」というタイトルを持つ作品群の持つベクトルが最も明確に、極端な形で表れた作品と言えるのではなかろうか。それらはそれぞれ、この曲を知ってしまえばもう元には戻れないというような強い力によって聴き手を捉えて止まない。だがその後、グールドのアルバム全体に接して特に私の心を惹きつけたのは、作品118の第2のイ長調の間奏曲で、この曲と最初に接した2曲とが私にとっての「間奏曲」のプロトタイプのようである。私見では作品118の第2の間奏曲は、間奏曲というよりは寧ろ後奏曲(所謂フィナーレ=終曲ではないことに注意)、最初から「終わり」「結び」の気配が漂い、曲集で先行する第1ではなく、実際には聴いていない、先行する時間的経過に対して回顧するような気配を強くもった音楽である。これもまた晩年の間奏曲「様式」とでも言うべきものの特徴と考えてもいいように思うのだが、音楽的散文の代表であるブラームスとしては整った楽節構造を持ち、楽式としてはシンプルな三部形式を持ちながら、その旋律は、言ってみれば終わりの結びの句から始めて、一旦少し前に戻った後、形を変えて短かく再現すると弾き収めの楽句が続くという具合に、名残を惜しみつつ、何かの終わりを確認しているように、もっと言えば、何かを終わらせるプロセスそのものであるように感じられるのである。それは勿論、自分の心境や感慨とは程遠く、寧ろ、理想の「老い」のかたちとでもいうべきものに感じられ、そこから慰藉を引き出す一方で、自分がそうした心境についぞ至れず、至ることがなさそうなことについて、苦々しい諦めを抱かせるような存在なのである。 

*   *   *

 音楽創作の上では、その後言葉を伴う「遺言」として、聖書をテキストにした「四つの厳粛な歌」を書き上げ、一番最後には自分の音楽的伝統の由来を確認するかのように、コラール前奏曲集を書き上げて、申し分なく完璧に「老い」を全うしたかに見えるブラームスだが、実生活の上では、同様に水も漏らさず完璧に、という訳には行かなかったようである。ここでは「イシュル遺書」作成後の「終活」の経過を辿ることで、その首尾を確認して、稿を閉じることにしたい。

 「イシュル遺書」の作成についてはどの文献でも等しく言及されているけれども、その後の経過については、文献により扱いは様々のようだ。大作曲家ブラームスの人と音楽を語るということが目的である以上、普通の人間であればそちらがメインである事柄が背後に退くのは仕方ないことだろうが、主として比較的詳しい門馬さんの語るところに従って集約すると、その後以下のような経過を辿ることになる。

 1891年5月に書かれた「イシュル遺書」は友人であり、財産管理人でもあるフリッツ・ジムロックに同年8月に送られる。だがその後、1892年の姉のエリーゼの死を機会に、変更を思い立ってジムロックから取り戻したようである。そして1895年5月には、新しい別の遺言書の送付についてジムロックに手紙で告げているという。更に没年である1897年2月7日にフェリンガー夫妻に対して遺言書の細部についての相談をし、それに基づいてフェリンガーが遺言書を作成、ブラームスに渡したのだが、ブラームスは直ちに署名をすることなく、遺言書を引き出しに入れたまま死の床に臥せることになり、そのまま死んでしまうのである。西原さんは「イシュル遺書」に言及した後直ちに「彼の遺書には不備があり」(西原2006, p.188)と簡潔に記しているが、その不備の実態というのは、門馬さんの記述によれば、「イシュル遺書」の撤回と、新しい遺言書の作成があり、だが新しい遺言書にブラームスが署名し、それが効力を発するようになる前に作業が永久に中断してしまった結果、「ブラームスの遺言書には、法律的には正当な効力のものがない」(門馬1965, p.126)ということらしい。

 良く知られているようにブラームスは生涯独身であり、子供がいなかったから、その遺産の相続に関しては、複雑な相続関係が生じることが容易に想定できるし、それに加えて法的な効力のない、内容の異なる遺言が複数存在するのだから、死後の相続についてトラブルが起きそうなこともまた想像できる。(推理小説が好きな向きには、さながら素材として格好の状況であろう)その顛末はもはや本人の没後の事柄に属するから、それについての詳細な記述を評伝に求めるのは無いものねだりというものかも知れないが、「彼の死後、遺産相続にかんして複雑な問題をひきこすことになる」(西原2006, p.188)、「(…)ブラームスの死後、遠い親戚まであらわれて、遺産の分配について訴訟問題さえおこったのだった。」(門馬1965, p.126)とまで書かれると、相続そのものは誰彼となく、平凡な市井の人間にも等しく起こることで、成功して資産のある子供のない独身の叔父が被相続人となった場合の厄介さは、孤独死が珍しいことではなくなった今日の日本では、寧ろありふれた事柄ですらあるかも知れないが故に他人事ではなく、その帰趨が気にならざるを得ない。さりとてブラームスの熱心なファンでもない私の手元にある文献は限られているし、他の文献を渉猟するだけの時間的なゆとりの持ち合わせもなく、Webで情報がないかを探してみると、2014年11月4日の日付のGeorg Predotaという研究者が執筆した記事、Estate Johannes BrahmsというのがInterlude(図らずも、Intermezzoそのものずばりではないが、これまた「間奏曲」であるのは奇しき偶然であろう)というWebサイトに掲載されていたので、それをご紹介してこの稿を終えることにしたい。恐らく参照している伝記上の出来事が異なるからであろうか、細かい日付や取り上げられている内容については微妙なずれがあるけれど、遺書の再作成に関するアウトラインは一致しており、更に遺言の具体的内容やその後の係争とその顛末について要領よくまとめられているので、大まかな状況を把握するには十分ではなかろうか。(2024.5.22/3初稿)