2024年11月20日水曜日

ヨハネス・ブラームス 死すべき者の音楽

 ブラームスについて、今更語るべきことが残されているとは思えない。時代を超えた大作曲家として、恰も時代と地理的な隔たりがないかの如くの伝記的解説から始まって、パウル・ベッカーによる中部ドイツ的な交響曲作家のトレンドに位置づける試み、更にはその音楽を19世紀のドイツ・オーストリアの 社会的・文化的文脈に位置づける試みは、小市民的な親密さを湛えた音楽、ロマン派時代に台頭した知識人たち、ブラームスがともに生きた人たちのための音楽としての特質を浮かび上がらせる。形式に対する保守的な姿勢、過去の音楽に対する明確な歴史主義的視線を共有するシェーンベルクによる「進歩主義者」としてのブラームス像は、シェーンベルクの側の文脈を寧ろ浮かび上がらせ、証言しはするが、だとしたらそのブラームス像は、それから更に1世紀が経過しようとしている21世紀の今日においては、最早徹底的に過去のもの、それ自体歴史のフレームに収まったものであるはずだ。

 そう、「大作曲家」ブラームスの人と作品は、彼自身がある側面においてそのように接したであろう、彼自身にとっての過去の「偉大な」音楽と同様、文化財として陳列され、鑑賞されるようになっている。今日的なコンサート、つまり同時代に作曲されたのではない、過去の作品を中心としてプログラミングされたコンサートのスタイルそのものの確立にブラームス自身、少なからず寄与しているし、自筆譜の収集、演奏用の楽譜の校訂といった今日では音楽学上の当たり前のプロセスとなっている作業もまた、ブラームス自身が行い、その確立に寄与したものであることを忘れてはなるまい。要するに、それまでも作曲家個々人の水準においては、過去の伝統への参照というのは為されてきたのではあるけれど、そしてメンデルスゾーンによるJ.S.バッハの「マタイ受難曲」蘇演のような出来事に先立たれているとはいえ、ブラームスこそ「歴史意識」というのを公の場に持ち込んだ張本人に他ならないのだ。良く知られるように、当時それは少なからぬ反響を喚起し、ブラームスは「進歩派」を自認する陣営から批難されるといったことも起きたが、現実にはブラームスが持ち込んだ姿勢・態度は今や当たり前のこと、或る種の前了解に属するものになっているという点を認識すべきであろう。そして、彼自身のひいたレールに乗るようにして、今日ブラームスの音楽が演奏される コンサートホールは、寧ろ美術館、博物館の類に似ているのかも知れない。嘗ては彼自身の友人達が時には彼自身ともに演奏したであろう室内楽や歌曲は、今日ではより多く、三輪眞弘さんの言う「録楽」として、室内で、一人きりで聴かれるに相応しい音楽であるかのようだ。そしてこれもまた、ブラームスがエジソンによる蝋管シリンダーによる蓄音機の発明に興味を持ち、発明から12年後というごく初期に自作自演の記録を試みたことを思い起こせば、彼自身がひいたレールに乗っているという見方ができるのではなかろうか。

*       *       *

 ブラームスの音楽は、歌詞を持つ作品、即ち独唱曲、重唱曲、合唱曲の数もまた膨大なものであり、全作品において大きな比重を占めるものの、基本的には標題音楽ではないし、描写的な要素が支配的であることもないけれど、そして同時代の美学者に「絶対音楽」の代表に奉られたにも関わらず、その器楽曲や管弦楽曲は、具体的な「風景」を非常に強く喚起する力を備えていると私には感じられる。尤もこの点については、まさに歌詞を持つ作品群の多くが今日等閑視されつつあること、更に言えば、歌詞を持つかどうかというよりは寧ろ、ブラームスが、コンサートホールでの公的な性格を持つ演奏ではなく、身近にいる人々との私的な演奏を想定して書いた作品が、しばしばビーダーマイヤー的で当時の社会的状況(「成り上がり者」のブラームスはまさにそこに自分の居場所を見つけたのだとされるのだが)に拘束され過ぎた過去の遺物として、今日顧みられることが少ないことの結果に過ぎないという見方もできるだろう。それらの作品は両義性を帯びていて、一方では商品として流通し、消費されるのに適していた。作曲だけで富を得ることに成功したブラームスは、王侯貴族の占有物であることをやめて市民社会で流通するようになった商品としての音楽、賞味期限付きの消費される音楽の製作者という観点でも先駆者であって、作品表の中で一定の分量を占めているそれらの作品は、或る意味では時代の経過とともに忘れ去られて当然という見方も成り立つのかも知れない。つまりブラームスが「絶対音楽」の作曲家だというのは、既に同時代に始まった見方であるにせよ、その後遺された作品が作曲者が属していた社会的・文化的環境から遠ざかるにつれてますますその傾向が強まった遠近法的な倒錯に過ぎず、その本来の文脈において、絶対音楽かどうかなどという議論とは別の次元でブラームスの音楽が強く結びついていた、具体的で個別的な契機が忘却されたことに拠るのだと考えれば、それは不思議なことでも何でもないだろう。

 ともあれ何れにしても、それが私の場合に固有の個別的なものなのか、一般的にそうであるかはわからないが、それらに聴き手が垣間見る風景の多くは屋外のもの、屋外への室内からの眺望、屋外から差し込む光、屋外の風景の幻覚や回想であり、それらは非常に強い五感に働きかける力を持つ。雨の音を聴くばかりではなく、明るさを、温度を、湿度を、立ち込める香りや匂いを生々しい程に 喚起する力を備えている。(その一方で、一般にそう考えられる程、色彩に乏しいわけでは決してなく、ただ、それが或る種抽象的な、例えば調性と結びつくような水準のものではなく、都度非常に具体的な風景のそれであることや、知覚よりはより強く情動に働きかける、その力の持つ特性が、色彩の次元を分離することを困難にしているかのように思われる。)そして、その風景、聴き手にとっては未知のものである筈なのに、懐かしさや或る種の親密さに強く彩られたそれは、だが、決定的に過去のものなのだ。例えばだが、道は舗装されているようには見えず、自動車は走っていないし、電柱や街灯が立っていることもない。飛行機雲というのは存在しないし、高層ビルが林立することもない。

 それはそうした風景を色付けする情動が懐旧的、回想的であることのみを意味するのではない。そもそもその風景は私がかつて実際に見て、記憶の底に留まっているものではないのだ。その風景は、三輪眞弘さんの言う「電力芸術」以前の時代、今日の聴き手が置かれている世界とは根本的に異質な、電力のない世界の風景なのである。現実にはブラームスの晩年の時代には、室内照明に電気が用いられ、それは成功した作曲家であり、最先端の技術を導入することのできる富を蓄えていたブラームス自身の住まいを照らしたようだし、新たな都市計画に基づいて相次いで新築された街路や建造物の照明も、ガス燈から電力へと移行しつつある時期にあった。また、既に触れたように、最初期の蓄音機の記録の一つに、 ブラームス自身のピアノ演奏を記録したものがあるのは良く知られているだろうし、電力以外でも、鉄道網の発達(彼自身の死の前年にクララ・ シューマンの葬儀に向かったブラームスが、どのような心理的機制によってか、あるいは単なる偶然によってか、列車の乗継に失敗して、葬儀に間に合わなかったエピソードはあまりに有名だろう)、リゾード開発、はたまたブラームス自身の風貌や、彼が見たはずの風景を今に告げる写真技術など、現代に繋がる技術革新はブラームスの最晩年には確実に風景を変えつつあった筈である。だが、にも関わらず、その音楽の喚起する風景はそうした技術以前のものである。音楽が喚起する仮想の風景が、外的な現実よりも心的な現実を証言するものであるとしたならば、ブラームスの音楽が生きる世界は、やはり電力以前のそれであり、今日、電力の大量消費に支えられたコンサートホールで演奏されるブラームスの音楽は、だが、それ自身は「非電力芸術」である。要するにそれは、端的に言って私とは無縁の、徹底的に過去の時代と場所に属する「遺物」に過ぎない筈なのだ。生物学的には変わっていなくても、異なる身体性を持ち、異なる知覚の様式を持ち、異なる情動の様態、異なる時間意識を持ち、異質の時間を生きる、かつての「人間」の音楽の筈である。

*       *       *

 それなら何故、私は今、ブラームスを聴くのだろうか。その理由はしかし、ごく個人的な仕方でしか語れないようだし、しかもそうした事情自体が何故ブラームスを聴くかについての消息を告げているようだ。父がFM放送をエアチェックしつつカセット・テープに録音した音楽の中にはブラームスの作品が少なからず含まれており、それ故それは私が幼少時からごく普通に慣れ親しんできた音楽であった。(父のコレクションの中では、特にヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」、第3番や弦楽六重奏曲第1番、更には4つの交響曲が該当するだろう。)しかも周辺にあった様々な音楽の中から、自分にとってとりわけ親密なものとして自ら選択した音楽だし、父のコレクションには含まれず、自分で発見した作品も少なくない。一例を挙げれば、「ドイツ・レクイエム」は父にとってはよくわからない作品だったようだが、自ら探り当てて後、或る時期以降の私にとって、精神的な支えとなるかけがえのない作品となった。恐らく父にとって躓きの石となったであろうその歌詞は、だが私にとっては時としてそれ故にこの曲を切実に求める契機となり、それ故に限りない慰藉を与えてくれる存在なのである。またブラームスが遺言状をしたためて後の、いわば「晩年」の作品、つまり作品116~119までのピアノ曲集、作品114,115,120のクラリネットを用いた作品、更に四つの厳粛な歌(作品121)とコラール前奏曲集(作品122)もまた、私が自ら見いだし、親しんでいった作品と言えるだろう。そしてこれまで様々な角度から述べてきたような反省的な距離の感覚なしにそれを無媒介に体内化してしまった私は、自分がその多くの時間を生きている環境とは異なる身体性、異なる知覚の様式、異なる情動の様態、異なる時間意識を体内化し、 異質の時間を自分の時間として自己自体を構築したのであり、だからそれは私の一部なのである。ある時期以降、その音楽は自分が意識的・主題的に扱う存在ではなくなり、一見したところ周縁的な存在になったかのようであったが、実際には或る種の無意識的・前意識的な基層として「自己」の一部になったに過ぎない。それは埋め込まれ、クリプト化され、完全に表層から姿を消してしまったという訳でもないし、自己の形成上の不可逆的な過程の痕跡というわけでもなく、常に意識的・意志的な活動の傍らにあり続けてきた。

 良い意味でも悪い意味でもそれは私にとっての「癒し」の音楽であるかも知れない。私に宛てられたのではない、自分にとって問題に富んでいるわけでも、解き明かすべき何かを提示するわけでもなく、寧ろ、滞った感情を解き放ち、緊張を解きほぐし、比喩的な意味で意識を麻痺させ、眠りに誘う音楽。その音楽を聴いてごく自然に涙を流すことができる音楽。 そこに時として確実に存在する途方もない、決して飼い馴らされることのない、強烈な、あてどのない絶望的な怒りの感情の噴出によってすら、その感情に一時同調し、ともに嗚咽することによってカタルシスを得ることができ、その後で日常にそっと自分を押し戻してくれる音楽。 どこにも連れて行かない退却の、休息の音楽。寧ろ見慣れたものであったはずの、懐かしい、だが平凡で、そこから特別な何かが生じるわけではない 「日常」の風景に連れ戻してくれる音楽。一見したところ崇高な何かに捧げられることのない、 寧ろ日々の平凡な、だが時として困難でありながら必ずしも稔りが約束されているわけでもない営みの同伴者。 ブラームスの音楽は、だからある一面において、あたかも演歌のようなものであるかも知れない。ただし、一見素材に見合わないほど緊密に織り上げられた、まるで絶望と怒りの深さが漏洩し飛散するのを避けるための堅固な格納容器のごとき構造がもたらす、他に比較するものが思いつかない程強烈な、時に形式を毀損するのではと思わせるような緊張の大きさは全く特異なものだ。「偉大な芸術音楽」にも関わらず、もしかしたら「ありえたかもしれない芸能」でしかない音楽。根無し草の、歴史も文化も異なる人間にとっての芸能。

 ブラームスが進歩主義者であるかどうかといった規定は、当事者であるシェーンベルクにとっては抜き差しならぬ価値を帯びていたかも知れないが、 進歩か保守かといった二分法が既に意味を喪った世界に生きている私にとってはどうでもいいことだ。しかしシェーンベルクが見出したブラームスの作曲技法の次元が持つ効果はまた別の問題である。ブラームスにあって技法は衒学趣味に留まらない。一見したところ民謡風の、親しみやすい旋律は、だが一見類似した他の音楽とはっきりと異なった徴を帯びているが、その差異のために技法が総動員されているのだ。結果が洗練され、高度であっても所詮は芸能に過ぎないのであれば、泰山鳴動して鼠一匹という見方もあるだろう。だが、そうした細部の彫琢こそがブラームスの音楽を単なる「癒し」の、単なる「美」の次元に留めず、「崇高」な何かの予感を、その親しみやすく日常的な表情の背後に忍び込ませるのだ。恐らく周到で知的であったブラームス自身の意図に従って、慎重に秘匿されて。だがそれはしばしば意図を超え、意図に反して浮かび上がる。否、聴取の表層においては気付かなくとも、その音楽が自分の身体に定着し、水路づけが行われるに従って、そうした背後の部分こそが機能していることに気付かざるを得なくなる。だからブラームスの場合、彼自身の幾つかの証言をおけば、 評伝や評論の類は私にとって無用なものだ。それよりは例えば池辺晋一郎さんが「同業者」の視点でその一部を示してくださっているような技術的な細部の方が余程重要だし、ブラームスの音楽の持つ特質を正しく言い当てていると思われる。私は勿論同業者ではないけれど、ブラームスの音楽が優れて「癒し」の音楽たりえているのは技術的な細部によるものだということは、私のような今や一方的な享受者に過ぎない、否、もしかしたら十分な享受者ですらたり得ないまでに音楽との関わりが縮退してしまった聴取の落伍者にとっても明白なことなのだ。

*       *       *

 否、ブラームスの音楽が不要に思える瞬間というのも私には確かに存在する。ブラームスの音楽を聴くことは私にとって明らかに停滞、休止であり、出口のない感情の吐け口であり、時として或る種の退行であろう。マーラーはオペラ指揮者としての自分を高く評価してくれているブラームスについて、ブラームスと直接接触のあった時期には作曲家としての円熟をも評価する発言をしている(ナターリエ・バウアー=レヒナーの証言がある)一方で、後年の妻アルマへの1904年6月のマイアーニヒ発とされる手紙の中では、ワグナーやベートーヴェンと対比しつつ「うすっぺらな胸をした貧相な小男」(酒田健一訳、アルマ・マーラー『マーラーの思い出』, p.284)と批判もしているが、このマーラーの言葉には、私なりに同感できる部分がある。ブラームスの音楽は大言壮語をすることなく、日常のすぐ隣にあって、ひととき変貌して、あたかも奇跡が生じたかのように人の心を奪う不思議な風景の変容を垣間見せるような魔術はそこにはない。その一方で、その高度な技術は平凡な生を形作るひっそりとした細やかな心の動きを過たずに捉えることには用いられても、何か他のものを探索し、ありえたかも知れない世界を構築することに用いられることも、またない。結果としてブラームスの音楽は、私がこの場で立ち続けることを手助けしてくれることはあっても、私をどこか他の場所に誘うということをしない。端的な言い方をすれば、ザドラとスティックゴールドが『夢を見るとき脳は』(邦訳は藤井留美訳、紀伊国屋書店、 2021)で仮説として提示する「可能性理解のためのネットワーク探索」(NEXTUP:Network EXploration To Understand Possibilities)としての「夢」の役割に通じるような、ありえたかもしれない世界の構築としての音楽作品の創造という契機(それはブラームスをかくの如く批判するマーラーにおいては極めて明確であり、マーラー自身もまたそのことに自覚的であったし、1世紀以上が経過した今日の展望においては、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション」音楽の「命名」の相に関連して、自ら「…という夢をみた」という「由来」を必ず作品に付加することに本質的に関わる)がブラームスの音楽には希薄で、音楽の展開が厳しい自制によって堅固ではあるけれど抑制的に為されるのに応じてか、その探索範囲があまりに狭く、貧しいように感じられるのだ。だがしかし、こと私についていえば、それはブラームスの音楽の側ではなく、私の側の受容の姿勢の問題なのかも知れない。私は音楽自体ではなく、音楽によって惹き起こされる自分の中の反応様式を求め、それにひととき溺れることで癒しを得ているのかも知れない。 そうした姿勢は唾棄されるもので、ブラームスの音楽に対する冒涜と見做す人もいるだろう。自分の弱さを自己正当化する甘えでしかない情けない祈りしかそこにはないのかも知れない。

 だが、だからといって一体どうすれば良いというのか。そうした音楽なしにやっていけないとしたら。とりわけても3月11日以降。自分が弱っているときの同伴者がここにいる。 場所も時間も、文化の違いも超えて、傍らに、ほとんど無媒介にその音楽は私の隣に存在する。奉納ではないかも知れなくても、懐疑に蝕まれつつも、それだけに切実な、人間ならぬ何かへの祈りがそこには確実にある。「ドイツ・レクイエム」は、端的にレクイエムが不可能である状況の証言であり、そうした状況に陥った人間の声なのだ。だからその声は、そうした状況に陥った人間には全く異なって響く。それは美とか芸術とかとは、差し当たり無縁のものとさえ言えるかもしれない。枚挙に暇はないが一つだけ例を挙げるならば、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』の中の第25章「哀歌―音楽と狂気と憂鬱」において参照される事例においてブラームスが二度までも(最初は「アルト・ラプソディ」であり次は「ドイツ・レクイエム」だが)登場することは、そうした消息を証言しているように思われる。この音楽は、確実に何人もの人間を文字通り救ってきたし、きっとこれからも救うだろう。「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである。」という言葉は、音楽とともに歌われるその瞬間、あたかも成就したかのようではないか。それは既に死んだものたちの音楽であり、今からのち死すべきものの音楽である。それは優れて死すべきものの音楽である。だがしかし、そうでないような音楽があるのだろうか。だとしたら、これこそが「音楽」なのではないか。

 逆転が起きるのか否かは、しかし、この音楽が鳴り響く場ではどうでもいいことのように思える。それが一般的であるか、普遍的であるかもどうでもいいことだ。美学も芸術学も、「癒しを超えることが可能か」という問いもまた。それは感覚を超えた何かではなく、感覚の手前にあるものに対処しなければならないときの同伴者なのだから。個別の癒しを証言することは可能だが、癒しについて論じることは癒しそのものとは無関係だ。 冷静に、部外者の立場であることを宣言し、ある意味では全く正しい批判をしつつ(もっとも、その一方では極めて危険なものに思われる想像力の濫用としか思えない放恣な行使によって、それが担いえたであろう現実認識や気付きを毀損するようなことになってしまうのだが)、だがそれに終始することは、事後的な効果としてであれ、事実上「歓待」の拒絶ではないのか。それは「レクイエムなんか書けない」と言いながら、受け止めたものに限りなく忠実であるが故に異形のものである他ない作品(それは最早人間「だけ」のものでないが、それが「音楽」である以上、人間や動物たち、あるいはより広く生物のものであり続けているし、それゆえ人間のもの「でも」あり続けているのだし、そこには或る種の癒しを、冷徹な現実認識や気付きとともに見出すことすら可能である)を創りあげる作曲家の挙措とどんなに違って見えることか。現実に震災で傷ついた人に対して贈与されたブラームスの「録楽」があたえることができたもの(そう、これは個別的な「証言」であって、 条件法で語られる範例などでは断じてない)と比べて、どちらが同じ圏に属しているのかは、少なくとも私には明らかなことに思われる。「役に立つ」という言葉は確かに両義的だが、それでも、その両義性を引き受けた上でなければ「歓待」は不可能だし、私は危険を引き受けつつも「歓待」を選択するだろう。

*       *       *

 ブラームスについて今更語るべきことが残されているとは思えないというのは、だから、ブラームスについて多くのことが語られてきたからである一方で、ブラームスについて語られてきたことが、私が聴くブラームスの音楽とは疎遠であるからでもあって、それらの語りの地平が端的に不要のようにすら感じられるということでもある。少なくともブラームス自身は、傷つき、癒しを欲する人間とともにある。「ドイツ・レクイエム」や「アルト・ラプソディ」の歌詞は、ブラームスがまずもって自分のために探し求めた末に見出したものだし、音楽はそうした契機を裏切らない。この文章の初めの方で述べたことを繰り返せば、その音楽がもともと属していた具体的で個別的な契機、即ち「由来」を思えば、それは親しい他者に対する「応答」であり、「贈与」であり、「歓待」であったのであり、それは公的な音楽史における貢献であったり、音楽理論上の機能的特質といったものとは無縁のものだったのだから。それは敢てこういう言い方をするならば、美学的な要請とは裏腹に、優れて「機会音楽」であり、極めて私的な性質を帯びていたとはいえ、それでもなお「芸能」であり、「由来」なしで受容されることを拒絶する性質を備えているのではなかろうか。勿論「由来」は時代の移ろいとともに忘れ去られ、喪われていき、ブラームスの作品の方はそれを乗り越えて存続し続けてきたし、今後もそうであり続けるだろうけれど、だからといって、そのことによって作品が「純粋な」、「本来の」姿を現すと考えるのは誤りなのではないか。寧ろ、作品を演奏し、聴き続けること、聴くことを促すことは、その都度「由来」を再付与することによって、作品を甦らせることに他ならないのではないか。人付き合いが下手で、最も親しい友人に対してもしばしばうまく接することができず、その音楽にも幾重もの屈折と陰翳を持ち込まずにはいられなかったブラームスの音楽が力を持つとしたら、それは「純粋詩」の存在を否定したパウル・ツェランの言う「子午線」を通じて、孤独な「人間」同士が出会うような仕方でしかないのではないか。そして1世紀以上の歳月と地球半周分の隔たりにも関わらず、その後のテクノロジーの発達の結果、シンギュラリティを予感するようになりながらも尚、今、ここに生きる「人間」は、ブラームス自身やその周囲の人々がそうであった、かつての「人間」と変わるところがない。

 没後しばらくは追悼の場で必ずといって良い程に演奏されることでブラームス自身へのレクイエムともなった「4つの厳粛な歌」は、取材されたテキスト(「伝道の書(コヘレトの言葉)」「ベン・シラの知恵(シラ書)」と「コリント前書(コリント人への第一の手紙)」)から言っても、まさしくジュリアン・ジェインズの言う「二分心」(bicameral mind)崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」(technologiical singularity)以前の「神々の沈黙」「隠れたる神」の時代を生きる「人間」のものであるし、それは自作について「神を蔑ろにする」「キリスト教徒にあるまじき」ものと考えてさえいたブラームスその人のものであるのと同じように、レクイエムなき時代のレクイエムたる三輪眞弘さんの"Lux aeterna..."を自分の生きる時代に相応しいものと受け止める私のものでもあるのだ。そしてオピュールが『追憶のヨハネス・ブラームス』に記した、ブラームス自身によるこの作品の「弾き語り」の記録に接することで、この作品の「由来」を了解することができよう。オピュールは、自分が耳にしたものは「音でもって高められた言葉」であり「芸術歌曲とは全く別のものだった」と述べているのである。(ここで私は、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」の3つの相のことを思い浮かべずにはいられない。それは過去の音楽についても、それらを博物館の収蔵品か骨董品であるかのようにではなく、「投壜通信」を拾い上げた人間が、自分が受取人であることを引き受けつつ、壜の中の手紙を読むように、まさに「今、ここで」再び生成するものとして受容するために何が必要であるかを教えてくれているのではなかろうか。)

 それ故ブラームスの音楽は恐らく、語るに落ちた存在であり続けるのだろう。そしてそうであることによって、「今からのち、主にあって死ぬものは幸いである」と語りかけ続けるのだろう。死者のまなざしとともにあることは、己も死すべきものであるということを突きつけられるような事態におかれることが伴っているのではなかろうか。そしてそうした思いへの目くばせなき言葉は、私が彷徨う空間とは別の場で響いているようにしか感じられない。(2011.12.25/29初稿公開, 2012.1.9, 1.15, 1.21, 3.10, 5.6補筆, 2019.12.26,28改訂・決定稿, 2023.12.11-12,14加筆)

2024年5月23日木曜日

ブラームスと老い:「間奏曲」について

 ブラームスに関して言えば、「老い」に関して語ることは、その生涯と作品を語るに際して、従来より常に行われてきたと言って良いかも知れない。手元にある日本語で書かれた評伝を繙いて見れば、ブラームスの「晩年」について、独立の章立てをして語られていることが容易に確認できる。尤もここでの「晩年」の定義を確認すると、必ずしも一致せず、著作毎に少しづつ異なることにも気づく。例えば私が子供の頃に比較的容易にアクセスできた文献の一つである門馬直美『大音楽家・人と作品 ブラームス』(音楽之友社, 1965)の生涯扁は5章立てで、最後の第5章は「晩秋の活動」と題されており、その中は更に3つに分かれて、それぞれ「みのり多き秋」「精力集中の晩年」「重苦しい晩年」と題されている。最初の節の冒頭で確認できるように第5章はブラームスが53歳の誕生日を迎えた1886年のトゥーンへの避暑から開始され、2番目の節は1889年から始まり、最後の節は1894年以降に充てられている。21世紀になってから刊行された西原稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』(音楽之友社, 2006)では、生涯扁は6章立てで、最後の第6章が「静寂の晩年(1894年~97年)」と題されていて、題名に明示されている通り、最後の4年間が対象となっているから、これは丁度、門馬『ブラームス』では、第5章の最後の節「重苦しい晩年」のみを「晩年」としているのであり、他方、門馬が第5章の開始とする1886年は、西原においては一つ前の章である「内なる声の探求(1886年~13年)」と題された第5章の開始と一致する。従ってずれと見えたものは「晩年」という言葉を使うか否かの選択に起因するものに過ぎず、どこを画期とするかに関して言えば、稍々細かく見れば必ずしもそこに不一致がある訳ではないことがわかる。

 『吉田秀和作曲家論集・5 ブラームス』(音楽之友社, 2002)はその後2019年に河出文庫に収められて入手が容易になったが、その中には1974年に書かれた100ページを超える評伝「ブラームス ーHe aged fast but died slowlyー」が含まれていて、題名が告げている通り、ここでもブラームスにおける「老い」は主要なモチーフとなっている。全体は章分けはされずに番号のみが付された16節よりなっているのだが、その中で「老い」についての言及がされるのは、第14節の末尾においてであり、それは以下のように結ばれるのである。

(…)58歳で、彼は自分をもうすでに人生の創造から隠退するにふさわしい老人とみなしたのである。 

 ブラームスは早く年をとった。とりたかった。しかし死はなかなかやってこなかった。とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, p.126)

無論のこと、これは評伝全体のタイトルに付されたHe aged fast but died slowlyのパラフレーズであり、従って、この評伝の全体の焦点はここにあると考えて良いだろう。そしてここではブラームスの「晩年」は58歳から始まったと考えられていると見てよいだろう。では一体ここでの「晩年」の開始を告げるものは何だったのかと言えば、それは明らかに、上記引用の直前で言及される遺書の作成という出来事であった。それは弦楽五重奏曲第2番(ト長調、作品111)の完成にあたっての難渋がきっかけとなったとされていて、その傍証として、マンディチェフスキー宛ての手紙が参照され、更に翌年(1891年)のイシュルでの遺書の作成に言及されるのである。

「私は、最近、交響曲を含めていろいろと手をつけてみたが、どれもうまく進まない。もう年をとりすぎたと思うから、骨の折れるようなものは、これ以上書くまいと決心した。私は一生勤勉に働いてきたし、やることはもう十分にしつくしたと思う。今は、人に迷惑をかけずにすむ年になったのだから、平安を楽しんでもよかろうと考える」

 これは一時の気まぐれではなかった。翌年第58回目の誕生日を同じイシュルで迎えた彼は、遺言状を書いて、それを楽譜出版社で彼の管財人のジムロック宛送った。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, pp.125-126)

そしてこの後に既に引用したこの節の結びの文章が来るのである。要するに、後世の人間がどのように彼の生涯を区切るにせよ、彼自身の行為として、1891年のイシュルでの遺書作成というのが自ずと画期しているという訳である。そしてブラームスに関して「老い」にフォーカスした時には、既に参照した二つの評伝の区分には拠らず、この所謂「イシュル遺書」を画期とするのが適当のように思われる。

 そして更にそれは「老い」の意識がその創作にどのように映り込んでいるかを確認する上でも妥当と思われる。なぜならば、何よりもまずブラームス本人の主観として、作品111の弦楽五重奏曲をもって「骨のおれる」大作の創作は終わりであり、その後の作品は、1曲毎の規模は小さく形式的にも簡素なピアノ作品を中心に、クラリネットのために書かれた室内楽を除けば、若干の声楽曲と最後の作品となったオルガンのためのコラール・プレリュード集よりなるからである。当然の反論として、ミュールフェルトとの出会いを契機として作られたクラリネット・トリオ、クラリネット五重奏曲、2つのクラリネットとピアノのためのソナタの存在を指摘し、なおかつ、吉田さんが「とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。」と記しているのも、まさにそれを踏まえたものであるという指摘があるだろう。だが、その指摘の妥当性を認めた上でなお、「イシュル遺書」以降のクラリネットのための室内楽は、それなりの規模を備えた作品であるとはいえ、分水嶺となった作品111がそうであるようにはシンフォニックな志向を持った作品ではないし、例えばクラリネット協奏曲のような管弦楽曲が書かれることはなかった(実際、ミュールフェルト宛の書簡に、協奏曲を書くほど自分は不遜ではないという言葉が残されているらしい。門馬1965, p.136参照)ことを以て、ブラームスが必ずしも全面的に前言撤回したという訳ではない、と主張することもまた、可能なように思われる。勿論、「イシュル遺書」の作成は、不連続な心境の不可逆な変容といった出来事ではなく、万事において周到であったブラームスらしく、今風には、「終活」を開始した、ということなのだろうが。また、ことブラームスの場合にあって作品番号は、概ね出版の順序とみるべきで、必ずしも創作時期と一致するわけではない点に留意すべきであろう。従って作品番号が後であるからといってop.112, op.113が弦楽五重奏曲第2番よりも後に創作されたとは言えず、実際、op.112の四重唱曲に含まれるジプシーの歌こそ1892年作曲が確実であるにしても、op.112の他の曲の作曲時期は弦楽五重奏曲の手前に遡るらしいし、op.113の女声合唱のためのカノン集は、創作時期が同定できる作品は全て旧作に属し、偶々この時期に曲集として編まれて出版されたもののようである。それを言えば、作品116~119のピアノ曲集に含まれる作品の中には、他の曲と比べて若干雰囲気を異にするものがないとは言えず、旧作そのものとは言えなくても、旧作をベースにした作品である可能性もないとは言えないだろう。ブラームスの「終活」には草稿の破棄という作業も含まれていて、弦楽五重奏曲に取り掛かっていた1890年の10月にイシュルから自ジムロックに充てた手紙の中に、草稿の破棄を告げる言葉があるようだ。(門馬1965, p.123)そしてブラームスのこうした周到さは、後年の音楽学者がその創作のプロセスを追跡すべく、草稿を調べるという作業を不可能にするという結果をもたらすことになった。

*   *   *

 それでは、そうした資料調査の手法に拠らず、作品自体の分析によって創作時期を推定するような手法が可能であるかどうか、特に計算機を用いたデータ分析のような手法による推定が行われたという話は寡聞にして知らない。実は、ブラームスの作品のMIDIデータは割合とたくさん存在し、フリーで利用可能なので、マーラーの作品について行ったような、和音の出現頻度に関する分析をすべく予備的な調査をやったことがあるのだが、少なくとも和音のパレットといったテクスチュアレベルを対象とする限りにおいては、後期作品をそれ以前と区別し、特徴づけるような結果は獲られなかった。例えば室内楽ないしピアノ曲に限定しても、単純な特徴量のみからブラームスの「老い」に対応する特徴を抽出・同定することが難しいことについては既に確認済である。だがこの結果は、ブラームスの作品を聴いていれば或る程度予想がつくことであり、所謂「発展的」な作曲家ではないブラームスの場合には、そうした表層的なレベルでの時系列的な変化が簡単に検出できることを期待すべきではないのだろう。更に言えば、実際に分析対象となる作品と分析で使用する特徴量について具体的な確認作業を行えば、一見したところ後期作品の特徴に見えたものが、初期や中期の或るタイプの作品については当て嵌まってしまうといったようなことに直ちに気付くことになる。人間にわかることを跡付ける分析よりも人間が気付かないような発見的な価値を持ったデータ分析を行うというのが理想であるには違いないが、そもそも人間には手に負えない大量のデータが対象であればともかく、そもそも過去に創作された有限の作品のデータを対象とした時には、対象の作品に対する十分な(とまでは行かなくても、こと私の場合に限れれば、せめてマーラーの作品と同程度の、個別の作品の詳細に関するものも含む)知識がなければ意味ある分析は覚束ない。恐らくは、作品の構造上の特性として、形式的な複雑さ、更に言えば、シンフォニックであるかどうかといった特性のようなものを反映した特徴量を定義することができれば、そうした点で簡素化の傾向が見られることがデータ上からも確認できる可能性はあるだろうが、それはごく表面的にしかブラームスの作品に接していない私のような立場の人間にとっては荷が勝ち過ぎているように感じられる。

 とはいうものの、私の限られた聴取の経験からすれば、作品114以降、最後の作品である作品122に至るまでの作品を「イシュル遺書」以後の作品群として、一つのグループとしてまとめてしまえば、客観的には思い込みに過ぎないとしても、それらの作品に、それ以前の作品とは異なる「老い」の兆候を感じ取ってしまうこともまた避け難い。一方で、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもするのだが(そして後で触れることになるが、具体的にはそうした曲は、タイトルとして「間奏曲」とブラームスが呼ばなかったものに属しているようだが)、そうした一部の例外を除けば、その作品が浮かび上がらせる風景の持つ質は、やはりそれに先立つ時期に比べれば、遥かに深まった季節のそれであることは疑いないことのように感じられるのである。だが、それが一体何に起因するものであるかを、具体的に技術的な仕方で突き止めることができないからには、言葉を幾ら尽くしたとて、所詮は「私はそのように感じた」の同語反復を超えることは難しい。

*   *   *

 それでは、他の作曲家との比較においてブラームスと「老い」について、とりわけても吉田さんの言う「早く老いた」という言葉について考えてみてはどうだろうか。この言葉は既述の通り、「イシュル遺書」の作成に因んでのものだが、「早く老いた」という言葉そのものについて言えば、寧ろ円熟。実りの秋の訪れについてのものと捉え直すことが可能ではないだろうか。するとそれは、冒頭で触れた、「晩年」という言葉で指示される時期の評伝間のずれと関わっていることになるだろう。それどころか、それは「晩年」に先立っているとは言えないだろうか?例えばあの秋の気配に満ちた第四交響曲が、どの評伝においても「晩年」に先立つ円熟期の掉尾を飾る作品として扱われていることに気付いて、慌てて確認すると、それは1885年、ブラームス52歳の時の作品なのだ。更にもう一つだけ例を挙げるならば、あの「ドイツ・レイクエム」は1868年、30代半ばの作品なのだ。勿論、最初期のピアノ曲(例えば「4つのバラード」)や2つの弦楽六重奏曲、ピアノ協奏曲第1番といった作品を思い浮かべてみるならば、ブラームスにも「若々しい」作品がないわけではない。だが、これもしばしば言われる、意識としての、年齢に比しての「老成」ということを問題にするならば、これは遥かに遡って、もしかしたら子供の頃に家計を補うために酒場でピアノを弾いていた時の経験に遡るという見方さえできるのではないだろうか。

 それでは「ゆっくりと死ぬ」の方はどうか。すると、こちらに対しては違和感のようなものが湧き上がってくるのを抑えることが難しいことに気付く。いや、多分違うのではなかろうか。「死はなかなかやって来ない」とすれば、それは「老い」を長く生きるということに他ならない。そもそも円熟の最中で「実りの秋」を体現するような第四交響曲を完成させて交響曲の時代に区切りをつけたとはいえ、その後には充実した室内楽の傑作が陸続として生みだされるのではなかったか。「イシュル遺書」の後でも、ミュールフェルトとの出会いによって再びクラリネットのための室内楽が生み出されるが、それらについて、円熟の続き、晩秋の最後の実りであると言ってはいけないのか。ミュールフェルトとの出会いから、再び室内楽曲の創作に赴くことになる、その辺りの消息について、門馬さんは「このようなわけで、5月に遺言書を作成するころには、大曲への創作意欲がわきおこってきていたとみることができる。したがって創作と遺産整理と死への恐怖が当時みな心理的に密接に関連していたとは思えない。」と述べているが、それはその通りで、寧ろ遺書の作成は、言い方によっては「老い」に先立っての行動とみることだってできるだろう。

 だがそもそもブラームスにおいて「死はなかなかやって来なかった」という言い方は適切だろうか。72歳で没したブルックナーの葬儀の場に訪れながら、中に入ることなく「次は自分の番だ」と呟いたという言い伝えがあるが、その彼は70歳にならずに、それどころか、私のような今日の日本の給与生活者ならば年金を受け取れる年齢であるだけでなく、定年もまたそこに向けて延長されつつある65歳を前にして、64歳になる直前で没しているのだ。勿論時代の違いはあるが、58歳で引退を決意するのが仮に当時としても早い決断だったとして(だが、それとて「早く老いた」の意味するところでは勿論ないだろうが)、その後5年で没するのが「ゆっくり死んだ」というのは今日的な感覚からすれば当たらないだろう。かくいう吉田さんが全集を完結させたのは90歳を超えてからであり、吉田さん自身はその後更に98歳まで生きたではないか。(もっとも、吉田さんがこのブラームスについての評伝を書いたのは60歳を過ぎたばかり、丁度ブラームスが、西原さんのいう「静寂の晩年」にさしかかった年齢にあたることには気を留めておくべきかも知れない。吉田さんがそのことを意識していたかどうか、私には確認する術がないけれど、そして実年齢というのは、その人その人ひとりひとりの生の実質を基準にとるならば、所詮は相対的なものに過ぎないのだろうが、それでも吉田さんがこのことを意識して執筆に臨んだ可能性はあるのではなかろうか。)

*   *   *

  ともあれ、ふとした偶然から、そしてそれは後世の我々、特に平凡な生を生き、長い老いを生きることになる我々にとってこの上ない幸運であったのだが、ブラームスは引退を決意した後に、更にいわば余録のような形で作品を残すことになった。そしてそれは意識の上では、まさに「老い」の音楽そのものではなかろうか。多くの作曲家は引退を意識することなく書き続けて没するか、さもなくば自発的に断念するのではなく、何らかの理由で書き続けることができなくなって、いわば創作の上での死後を人生の上での「老い」として生きることになるのに対し、ブラームスの場合には、周到に、まるで用意されたように「老い」の最中の音楽が遺されることになった。その期間は決して長くはないけれど、そして作品番号にして10に満たない量ではあるけれど、そしていわゆる「大作」は、定義上あらかじめ排除されているという立場をここでは取りたい(つまり作品111を最後に「大作」は書かれなかった、その後の室内楽は、その規模と構成にも関わらず、実質において「大作」ではないとかいう捉え方をしてみたい)が、そのことごとくが珠玉の傑作であり、かけがえのない価値を有する「小品」であり、それはまさに「老い」の音楽であると考えたい。(繰り返しになるが、例えばあのクラリネット五重奏曲でさえ、その曲の持つ雰囲気の共通性もあって、敢えて小品と呼ぶことにしたいし、規模とは裏腹の大きさと重みを備え、音楽上の「遺言」に相応しい「四つの厳粛な歌」も、それが管弦楽と合唱を伴う2つ目のドイツ・レクイエムとはならなかったという点で、やはり敢えて「小品」と呼ぶことにしたいのである。つまり、ブラームスの晩年の、「老い」の音楽は、基本的には「小品」であるというように感じるのである。

 ブラームスにおける「老い」の音楽を「小品」ということで特徴づけるとするならば、直ちに思い浮かぶのは曲数からすれば多数を占めるピアノ小品だろう。だが、或る種のプロトタイプのようなものを取り出そうとした場合、それは単なるピアノ小品というよりは寧ろ、その中で少なからぬ割合を占める「間奏曲」によって特徴づけられるのではなかろうか。作品117は3曲とも間奏曲であり、「幻想曲集」と名付けられた作品116は3つのカプリッチョと4つの間奏曲で編まれている。6曲よりなる作品118はバラード、ロマンスが1曲づつで残り4曲は間奏曲、最後の作品119は掉尾を飾るラプソディーに先立つ3曲はいずれも間奏曲である。要するに20曲のうち、14曲が間奏曲であり、数の多寡が全てであるとは限らないとは言え、この場合には「間奏曲」こそが「老い」の音楽のプロトタイプ、典型であると言って差支えないのではないかと私は考える。上で既に、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもする、と記したが、それらは皆、カプリッチョ、ラプソディーと名付けられた作品であり、寧ろそれらは中期のピアノ曲との繋がりを感じさせるのである。ここでいう中期のピアノ曲とは、作品76の8曲と作品79の2つのラプソディーを指しているが、作品76は4曲のカプリッチョと4曲の間奏曲で構成されていて、作品79の2曲と併せてその割合が後期と異なる点が興味深い。これら中期作品を、それらがいずれも性格的小品であるという共通点を以て、所謂「後期作品」の嚆矢とみる立場もあるようだが、そして繰り返しになるが、「イシュル遺書」後の曲の中でも中期で優位を占めていたカプリッチョ、ラプソディーにはその反響が聴きとれるとはいえ、やはりそこには少なからぬ懸隔があるように思われて、それがラプソディー、カプリッチョと間奏曲の占める割合の変化と相関しているように思われてならないのである。その一方、バラードというタイトルを持つ作品には、遥かに時代を遡って、初期に標題性の強い4つのバラード(作品10)があるが、それと作品118の第3曲目のバラードとの懸隔は更に著しい。(詩を掲げるという点だけとれば、寧ろ作品117の第1曲が、標題性を示唆する作品であると言えるのかも知れない。)アレグロ・エネルジコとの指示通り、それはラプソディーのように始まるが、直ちにその力は弱まって、夢想の中で過去を回顧するような中間部が「語り」の実質であることに気付かされる。作品116の第4曲のロマンスは、タイトルの通り、甘美さを湛えた歌謡風の始まり方をするが、名残を惜しむような音調から夢見るような中間部が導かれ、その全体はやはり回顧的に感じられ、曲集の中ではバラードと対を為すような関係に置かれているように思われる。だが、それらのもたらすコントラストも他の間奏曲があってのものであり、基調となる響きはやはり「間奏曲」にあると感じられてならない。

 そしてそうした「間奏曲」の音調を余さず捉え、子供の頃に知って以来、長きに亙り、今なお私を魅了してやまないのは、間奏曲ばかりを集めたグールドの弾いたアルバムである。グールドにはブラームスの作品の録音としてはピアノ五重奏と、有名なエピソードのあるバーンスタインとのピアノ協奏曲第1番もあるけれど、ピアノ・ソロの作品としては、ソナタや変奏曲といった大曲ではなく小品ばかりを録音している。ここで取り上げた「間奏曲集」は何と30歳にもならない1960年に録音しているのに対して、中期の2つのラプソディーと初期の4つのバラードをその没年である1982年に録音していることが印象的である。それを知った後で聴けば、「間奏曲集」の演奏に或る種の若々しさを感じとることもできるように思えるが、正直に言えば、子供の頃にこの演奏に接した時(記憶によれば、アルバム全体を知る前に、吉田秀和さんが解説をされていたFM放送の番組で、メインのプログラムの後に少し空いた放送時間枠を埋めるように、グールドの弾く作品117の第1と作品118の第6の2曲の間奏曲が放送されたのを聴いたのが最初だったのではないか)には、演奏しているグールドの年齢のことなど考えることすらなく、それまで知っていたブラームス、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」や第3番、4つの交響曲とヴァイオリン協奏曲に加えて弦楽六重奏曲第1番くらいしか知らなったブラームスに対して自分が勝手に作り上げていた、若くして老成し成熟した、内省的で打ち解けない孤独な音楽家の晩年に誠に相応しい音調を見出して、心の底から感動し、魅惑されたのであった。この時の吉田さんの選曲もまた卓抜と言うべきで、詩が銘として掲げられ、歌謡性が強くて具体的な海のイメージを喚起する強い力を持ち、若き日への、更には幼少期への「回顧」の趣が強い(但しそれは特定の具体的な、例えばブラームスその人の過去に遡るというよりは、或いはそのことを通じて更に、いわば「ありえたかもしれない」、実際には一度も経験されることのなかったかも知れない幸福に満たされた過去を追憶するのであって、それゆえそこに込められた感情的な負荷は耐え難い程の苦悩に満ちたものになる)作品117の最初の曲と、こちらはそうした回顧する意識の現在の場の沁みいってくるような寒気と荒涼の中において、その回顧を支配する「もう元には戻れない」という不可逆性の意識、否、その過去が「ありえたかもしれない」ものであるならば、「もはや辿り着くことのできない」という到達不可能性が意識にもたらす凍てつくような絶望感に満たされた作品118の最後の曲とは、いずれも「間奏曲」というタイトルを持つ作品群の持つベクトルが最も明確に、極端な形で表れた作品と言えるのではなかろうか。それらはそれぞれ、この曲を知ってしまえばもう元には戻れないというような強い力によって聴き手を捉えて止まない。だがその後、グールドのアルバム全体に接して特に私の心を惹きつけたのは、作品118の第2のイ長調の間奏曲で、この曲と最初に接した2曲とが私にとっての「間奏曲」のプロトタイプのようである。私見では作品118の第2の間奏曲は、間奏曲というよりは寧ろ後奏曲(所謂フィナーレ=終曲ではないことに注意)、最初から「終わり」「結び」の気配が漂い、曲集で先行する第1ではなく、実際には聴いていない、先行する時間的経過に対して回顧するような気配を強くもった音楽である。これもまた晩年の間奏曲「様式」とでも言うべきものの特徴と考えてもいいように思うのだが、音楽的散文の代表であるブラームスとしては整った楽節構造を持ち、楽式としてはシンプルな三部形式を持ちながら、その旋律は、言ってみれば終わりの結びの句から始めて、一旦少し前に戻った後、形を変えて短かく再現すると弾き収めの楽句が続くという具合に、名残を惜しみつつ、何かの終わりを確認しているように、もっと言えば、何かを終わらせるプロセスそのものであるように感じられるのである。それは勿論、自分の心境や感慨とは程遠く、寧ろ、理想の「老い」のかたちとでもいうべきものに感じられ、そこから慰藉を引き出す一方で、自分がそうした心境についぞ至れず、至ることがなさそうなことについて、苦々しい諦めを抱かせるような存在なのである。 

*   *   *

 音楽創作の上では、その後言葉を伴う「遺言」として、聖書をテキストにした「四つの厳粛な歌」を書き上げ、一番最後には自分の音楽的伝統の由来を確認するかのように、コラール前奏曲集を書き上げて、申し分なく完璧に「老い」を全うしたかに見えるブラームスだが、実生活の上では、同様に水も漏らさず完璧に、という訳には行かなかったようである。ここでは「イシュル遺書」作成後の「終活」の経過を辿ることで、その首尾を確認して、稿を閉じることにしたい。

 「イシュル遺書」の作成についてはどの文献でも等しく言及されているけれども、その後の経過については、文献により扱いは様々のようだ。大作曲家ブラームスの人と音楽を語るということが目的である以上、普通の人間であればそちらがメインである事柄が背後に退くのは仕方ないことだろうが、主として比較的詳しい門馬さんの語るところに従って集約すると、その後以下のような経過を辿ることになる。

 1891年5月に書かれた「イシュル遺書」は友人であり、財産管理人でもあるフリッツ・ジムロックに同年8月に送られる。だがその後、1892年の姉のエリーゼの死を機会に、変更を思い立ってジムロックから取り戻したようである。そして1895年5月には、新しい別の遺言書の送付についてジムロックに手紙で告げているという。更に没年である1897年2月7日にフェリンガー夫妻に対して遺言書の細部についての相談をし、それに基づいてフェリンガーが遺言書を作成、ブラームスに渡したのだが、ブラームスは直ちに署名をすることなく、遺言書を引き出しに入れたまま死の床に臥せることになり、そのまま死んでしまうのである。西原さんは「イシュル遺書」に言及した後直ちに「彼の遺書には不備があり」(西原2006, p.188)と簡潔に記しているが、その不備の実態というのは、門馬さんの記述によれば、「イシュル遺書」の撤回と、新しい遺言書の作成があり、だが新しい遺言書にブラームスが署名し、それが効力を発するようになる前に作業が永久に中断してしまった結果、「ブラームスの遺言書には、法律的には正当な効力のものがない」(門馬1965, p.126)ということらしい。

 良く知られているようにブラームスは生涯独身であり、子供がいなかったから、その遺産の相続に関しては、複雑な相続関係が生じることが容易に想定できるし、それに加えて法的な効力のない、内容の異なる遺言が複数存在するのだから、死後の相続についてトラブルが起きそうなこともまた想像できる。(推理小説が好きな向きには、さながら素材として格好の状況であろう)その顛末はもはや本人の没後の事柄に属するから、それについての詳細な記述を評伝に求めるのは無いものねだりというものかも知れないが、「彼の死後、遺産相続にかんして複雑な問題をひきこすことになる」(西原2006, p.188)、「(…)ブラームスの死後、遠い親戚まであらわれて、遺産の分配について訴訟問題さえおこったのだった。」(門馬1965, p.126)とまで書かれると、相続そのものは誰彼となく、平凡な市井の人間にも等しく起こることで、成功して資産のある子供のない独身の叔父が被相続人となった場合の厄介さは、孤独死が珍しいことではなくなった今日の日本では、寧ろありふれた事柄ですらあるかも知れないが故に他人事ではなく、その帰趨が気にならざるを得ない。さりとてブラームスの熱心なファンでもない私の手元にある文献は限られているし、他の文献を渉猟するだけの時間的なゆとりの持ち合わせもなく、Webで情報がないかを探してみると、2014年11月4日の日付のGeorg Predotaという研究者が執筆した記事、Estate Johannes BrahmsというのがInterlude(図らずも、Intermezzoそのものずばりではないが、これまた「間奏曲」であるのは奇しき偶然であろう)というWebサイトに掲載されていたので、それをご紹介してこの稿を終えることにしたい。恐らく参照している伝記上の出来事が異なるからであろうか、細かい日付や取り上げられている内容については微妙なずれがあるけれど、遺書の再作成に関するアウトラインは一致しており、更に遺言の具体的内容やその後の係争とその顛末について要領よくまとめられているので、大まかな状況を把握するには十分ではなかろうか。(2024.5.22/3初稿)


アントン・ヴェーベルン 「外」の音楽

ヴェーベルンの音楽は私にとって、印象派的な「外」の音楽である。要するに私がはじめてヴェーベルンの音楽に接した時にその音楽に聴き取ったのは、抽象的な音の構造ではなく、光や空気の調子、風のそよぎや香りといった五感で感受される「風景」であったのだ。作品10は一時、ヴェーベルンがBBCに対してラジオ放送向きであると言って演奏を希望したことがあるらしい(1929.7.8のクラーク宛書簡)が、真意はともかくそのヴェーベルンの言葉通りFM放送でこの作品を聴いたのが、私のヴェーベルンとの出会いだった。アバドがヴィーンのオーケストラを指揮したその演奏は、自然で歌に満ちた瑞々しいもので、この1曲をもって、ヴェーベルンは私にとって最も重要な作曲家の一人になった。

けれども地方都市の子供にとって、ヴェーベルンの音楽に接する機会などありはしない。偶々レコード屋で入手した、ケーゲルの指揮するヴェーベルンの作品集(作品1, 5b, 6b, 10, 21が収められている)を繰り返し聴き、国内版のピアノピースで入手可能だった子供のための作品 (M.267)を弾くというのが、随分長いことヴェーベルン経験のすべてであった。(勿論、今思えばSONYの旧全集を入手することは時期的に可能だった筈だが、私は知らなかったし、仮に知っていても4枚組み、1万円はする全集を買えたかどうかはわからない。) しかし、 Non multa, sed multumの言葉どおり、そうした狭くはあっても強度に満ちた経験というのはヴェーベルンには相応しいのだと、DGの新全集で出版されたすべての作品は聴けるし、何種類もの演奏を聴き比べることだって可能な今、はっきりと言うことができる。

ヴェーベルンの受容は多く、かつての「前衛のアイドル」としてのものであったのだろうが、この点では寧ろ例外的に(寧ろ「今日的に」というべきかも知れないが)、ろくに「普通の」音楽を聴かないうちに虚心にその音楽に対してしまった私にとっては、ヴェーベルンは何よりもまず自分の波長にあった親密な音楽を書く作曲家であったし、その事情は今でも変わらない。親近感という点ではヴェーベルン以上の作曲家はいないのである。

そういう親近感を抱いていただけに、ことヴェーベルンに関しては、作曲家その人に対する興味というのもないわけではなかったのだが、当然のことながら、詳細な事実がわかればわかるほど、細かい「違い」というのが目につくようになるのは、ある意味では仕方ないことである。印象に残っているのがヴェーベルンの視力に関する事実で、残されている写真からも容易に想像されるように近視であったらしいのだが、その事実が(要するに裸眼で世界を眺めるときの景色のたち現れ方の違いが)その音楽にどういうふうに影響しているだろうかという疑問が、何故かヴェーベルンに関してだけはふと思い浮かんだのだった。例えばマーラーだって近視だったらしいが、不思議なことにマーラーに関してはそうした疑問は抱いたことがないのにふと思い当たってひどく驚いたことがある。ヴェーベルンの香りに対する敏感さについては良く知られているが、そうした五感のバランスのようなものが、その人の生み出す音楽にどのように関係するのか、あるいはしないのかは、単純な結論など出よう筈のない(もしかしたらほとんどナンセンスな)問いだろうが、ことヴェーベルンの音楽に限ってはそうしたことが気になるような側面があるように感じている。

マーラーといえば、ヴェーベルンのマーラーに対する熱狂も有名である。その対比が不思議がられることが多いようだが、私にとっては不思議でも何でもない、ヴェーベルンの音楽を聴くと、ヴェーベルンがマーラーに憧れたのはごく自然なことに思える。ただし、それはかなりの部分無いものねだりであると思うが。指揮者としての資質についてもそうだし、作曲家としてもそうだ。寧ろ自分にないものをマーラーに見出してそれに強く惹きつけられたのだと思う。もっとも、全く接点がないというわけではなく、性格はほとんど正反対と言っても良いのにも関わらず、その志向の点で、ある意味では非常に似ていて、それゆえヴェーベルン自身ももしかしたら最初は気付かずにマーラーになりたいと思ってしまったのではないだろうか。その勘違いはひどく高くついてヴェーベルンは30歳代に危機を迎えるが、一方でその後マーラー指揮者としての評価を確立しもする。職業的な作曲家ではなかった点でマーラーとヴェーベルンは共通しているが、その故か、作曲においては自分の生理に忠実で、結果的にはあれほどの対比が完成された作品において見られることになる。けれども、シェーンベルクが見抜いたように、ヴェーベルンの音楽の身振り一つには、マーラーの交響曲の経過と等価なものが含まれているのだと思う。sursum cordaというのは両者に共通する銘ではなかろうか。

そのことの裏づけになるかも知れない事実の一つとして、ヴェーベルンの歌曲における歌詞の選択の傾向がある。習作期における同時代の詩人、初期のゲオルゲやリルケといった詩人の詩への作曲はマーラーのそれとははっきりと異なっている。(ただしどちらがマージナルかといえばそれはマーラーの方で、ヴェーベルンの方がドイツ・ロマン派の歌曲の
伝統の本流なのだが。)ところが中期のヴェーベルンには、ストリンドベリやクラウス、トラークルとともに、ハンス・ベトゥゲの「中国の笛」に含まれるNachdichtungへの作曲や子供の魔法の角笛所収の民謡への作曲、ゲーテの詩への作曲、そしてラテン語の宗教的な詩への作曲がなされている。これらの系列にマーラーの影を見出すのはさほど困難なことではないだろう。更にその影は単に作家名の一致だけに限られない。選択されたベトゥゲの詩の一つ(Op.13-2 Die Einsame)は「大地の歌」の「秋に寂しき者」と同じ題材の詩だし(Op.13のもう一つはあの有名な李白の絶句「静夜思」の翻案である)、Op.15-2の子供の魔法の角笛によるMorgenliedとOp.16-2のDormi Jesuは、マーラーが第8交響曲第1部の歌詞に用いたVeni Creator, Spiritusの詩を書き付けた紙片の裏側に書き付けられたものであることが知られている。(ミッチェルのマーラー論の第8交響曲を扱った部分でその紙片の紹介がされている。)些かの詮索をすれば、Op.13-2のDie Einsameという女性形は、「大地の歌」のピアノ伴奏版での第2楽章の題名と響きあうし、ヴェーベルンがアルマの許しをえて大地の歌の草稿を読んだことがあることは、ベルク宛の書簡などで知られていることだし、Op.15-2,16-2の2編の選択も偶然とは思えない。恐らくは 件の紙片をヴェーベルンが見たか、あるいはその内容を(ミッチェルの推測によればその2編にも作曲する構想がマーラーにあったらしいから、その推測が正しければ、その構想とともに)アルマから聞かされていたか、いずれかであるに違いなく、いずれにしてもヴェーベルンのこれらの作品はマーラーの顰に倣ったものと私には思われる。

一方でマーラーとヴェーベルンの「違い」の例として、アドルノのマーラー論で言及されているドストエフスキーとストリンドベリに関するエピソードがある。これは(ヴェーベルンの名前は出てこないが)アルマの回想録でも出てくるエピソードで当事者達にとってもそれなりに印象に残る出来事であったらしい。マーラーがドストエフスキーを、その中でも特に「カラマーゾフの兄弟」を好んだのは良く知られているが、個人的には読んだことのあるストリンドベリのどの作品よりも「カラマーゾフの兄弟」の方が好きなので、この件は「違い」として印象に残っている。アドルノは、この件をマーラーの音楽を小説と類比することの傍証のように持ち出しているが、ヴェーベルンとストリンドベリとの関係の方はどうだろうか?アルマが感想として述べていること、作曲の主体というのが時代に何重にも拘束されている(この主張自体はアドルノの考え方と相反しないだろう)ことの一例ではあると思うが、ヴェーベルンにおける対応物は小説や劇ではなく、やはり叙情詩だったのだろうと思う。(ちなみにヴェーベルンはストリンドベリの戯曲「幽霊ソナタ」中の詩に作曲したものがあるし、ある種の神秘主義への凡そ科学的とは言いがたい傾倒など、ストリンドベリへの共感には何となく頷けるところがあり、それがおそらく晩年のヨーネの詩への共感に繋がっていくのだろう。哲学や当時勃興しつつあった自然科学への関心が強く批判精神に富んだマーラーとは好対照で、私がヴェーベルンよりもマーラーに親近感を覚える契機の一つになっているのは間違いない。)

要するに私にとっては、ヴェーべルンはロマン派の作曲家の一人、その人の個性と音楽に密接な関係があるという神話の圏内の人なのだ。勿論、馬齢を重ねるに従い、そうした考えがある種の虚構であることに気付かざるをえなくなってきてはいるが、それでもヴェーベルンに対して抱く親近感は、例外的なものである。

そしてそれゆえか、その「欠点」のようなものを、あまりにむきになって擁護するような主張が鬱陶しく感じられることもある。私見では(自分の嫌いな作曲家に対してとは異なって、ヴェーべルンに対してはさすがに)アドルノの見方は、その批判も含めて概ね的を獲ていると思う。作品21以降の作品に対する留保は、特にかつての私も強く感じたことで、端的にいって、無調時代のミニアチュール様式の作品ほどには、琴線に響かないと感じられたのだ。丁度、歌曲ではヨーネの詩を選択する時期と同期しているが、この変化は勿論、無関係ではないと思う。率直に言ってヴェーベルンの初期の詩の選択の「趣味の良さ」こそ、時代の影響、そしてヴェーベルンの属したシェーンベルクのサークルの影響であって、ヴェーベルン自身の地金としては、ややもすると文学的な価値よりも、ある種の観念的な嗜好の合致を優先させてしまう傾向があったのではないかと思う。

また12音音楽が歴史の必然であるとする、講演などで残されているその主張は、音楽史を専攻した人の記述であるだけに興味深くはあるが、ヴェーベルン自身の信念ほどには自明のこととは思えない。不遜な言い方になるが「気持ちはわかるけど、、、」というのが率直な感想である。

またもやマーラーとの関係を持ち出すが、ゲーテの「原植物」に関する件も興味深いもので、皮肉なことにそれを引いたマーラーは実際には言行不一致で、自らが批判した反形式主義的な志向により、結果的には形式を再び批判的に賦活させるのに成功したのに対して、そのマーラーの言葉に寧ろ忠実であったヴェーベルンは、ある種の「貧困」に陥ってしまったのだ、という感じを拭うことは困難であるように感じている。ヴェーベルンの愛した高山のように、あるいはセガンティーニの描く風景のように、それは純度の高い稀有なものではあると思うし、またもや不遜な言い方を覚悟で言えば、個人的にそっちに行きたいのは「よくわかる気がする」ものの、それが唯一の途であったかどうかには疑問が残る。既に過去に属することとはいえ、一時その後の西欧音楽の主流がヴェーベルンの後期を範にとったことの得失を算定するのは困難だろうが、少なくとも喪ったものの大きさは明らかであるように思える。

しかし、こういえば身もふたもないのではあるが、そうした音楽の発展の功罪は個人的にヴェーベルンに接する私にとっては、副次的な問題である。その欠点も含め、私にとってヴェーベルンの音楽は、親密でわかりやすくて、貴重な音楽であることには変わりないのだ。心をかき乱されるほど強い訴求力を持つ初期作品、それを遡る習作期、試行錯誤の傷跡が垣間見える中期の歌曲群同様、もしかしたら、その狭さとある種の媒介の消失ゆえに批判されるかもしれない後期の作品も、そのほとんど非人間的な純度の高さ、音楽であるが故に感覚的な仕方ではあるが、逆説的に普通の意味ではほとんど感覚に訴えるところのないその響きゆえに、私にとってはかけがえの無い音楽である。寧ろその音楽の内実は、その後誰によっても引き継がれなかった。それは一回性の孤立した、芸術作品に相応しい現象だったのだと思う。そしてその非感覚性は、西欧の音楽においては例外的で、アドルノ的な音楽社会学的な視点からは批判の対象になるのかも知れないが、僻遠の極東の地にいる私にとっては、そうした見方とは別の見方だって可能なのだ。主観が消えて風景だけが残る、というのは、別に不思議なことでもないし、ましてや批判されるべきことでもない。そうした瞬間というのは、確かに日常的とは言えなくても、ある瞬間に到来するかも知れないのだ。そして、そういう領域を介して、例えば武満の音楽とヴェーベルンの音楽に響きあうものがあるように私には感じられる。武満はそのようにヴェーベルンの音楽を聴いたのではないだろうか?否、要するに私はそのようにヴェーベルンも武満も聴いているのだ、ということに過ぎないのだろう。西欧の音思考の極限にそうしたものが出てくるのは、興味深いことには違いないが、少なくとも単なる享受者の私にとっては、その結果を通して、時代も場所も隔たったヴェーベルンその人を感じ取ることができれば、それで充分なのである。

関連記事

(2005.6, 2009.9.13加筆, 2021.9.8資料編を再公開, 2024.5.13旧Webページのコンテンツを復元, 5.23 記事「後期ヴェーベルンはニヒリズムか」(旧題:「後期ヴェーベルンはデカダンスか」)についてお詫びの追記とともに改題・改訂したことを追記)

アントン・ヴェーベルン(1883-1945):後期ヴェーベルンはニヒリズムか (2024.5.23改題・改訂)

(2024.5.23 お詫びと訂正の追記)「後期ヴェーベルンはデカダンスか」というこの小文の旧タイトルは、「後期ヴェーベルンはニヒリズムである」という、2008年10月11日の三輪眞弘さんの新作演奏会での鼎談での西村朗さんの発言を、私が聞き違えて記憶したものに基づいています。(ふとしたきっかけで、この鼎談を収録した2009年冬刊行の『洪水 第3号 特集 三輪眞弘の方法』の当該記事を再確認したところ、西村さんは「ニヒリズム」という言葉は繰り返し使っていますが、「デカダンス」とは言っていないことがわかり、大慌てでこの文章を記している次第です。)
 元の文章では、こうした場での発言を前後の文脈から切り離して論じることには危険が伴うといったことを書いていますが、お恥ずかしいことに、それ以前の問題としてそもそもが私の記憶はどうやら不正確であったらしく、誤認に基づくタイトルの記事を書いて公開した儘、ずっと気付かずに、訂正もお詫びもなく掲載し続けていたことについては弁解の余地がありません。ところが直接それを西村さんにお知らせしようと思っても、誤認に気付いた時には、西村さんは既に逝去されていており、お詫びのしようがなく、この場にお詫びと訂正の追記をすることしかできないのは大変に遺憾です。
 その一方で、この小文の主旨を踏まえた時、「ニヒリズム」を「デカダンス」と聞き違えたことが、どの程度大きく影響しているかという問題が別にあります。ここでは西村さんの発言に合わせて、タイトルを「後期ヴェーベルンはニヒリズムか」に改め、文中の「デカダンス」を「ニヒリズム」に置き換えても、主旨には大きく影響しない、それどころか、特定のある時期の西欧の思想的傾向に限定され、より一般に「人間」の解体、「ひとのきえさり」が問題になっているのだとすれば、寧ろより適切であると判断し、そのような修正をすることにしました。
 実は執筆時点で私の念頭にあったのは所謂思想的な傾向としての「ニヒリズム」というより、個人的な創作のプロセスにおける「踏み外し(faux-pas)」としての「デカダンス」(この言葉は俗ラテン語のdecadereに由来していて、「カダンス」からの逸脱、破調、破格のようなニュアンスを含むものとして、従って、通常、文化史で用いられる特定の時代(19世紀末)の特定の思潮を指すものとしてではなく用いたものでしたが)の方で、ヴェーベルンについて言えば、後期に至って、道を踏み外し(この見方に立てば、作品23のヨーネ歌曲集が、ヨーネの詩集「道なき道」に所収の詩によるものであるのは偶然にしては出来すぎているということになるでしょうが)、或る種の袋小路、行き止まりに陥ったのではないか、という疑問を取り上げたものであって、それが「ニヒリズム」といったような思想的な傾向に属するものであるかどうかを問題視していたわけではありませんでした。そのことを踏まえれば「デカダンス」という言葉に独自の意味合いとニュアンスを持たせて使っていることについて元の小文で一切の注記をしなかったことも問題で、「後期ヴェーベルンはデカダンスである」という言葉が独り歩きすれば、それは後期ヴェーベルンを、例えばボードレールやワイルドと一緒にするという、とんでもない混同をしていると受け止められてしまい、かつ、それを西村朗さんの発言であると記したのは、大きな誤解を招きかねないミスであったことになります。この点も含めて、遅ればせではありますが、重ねて西村朗さんに対してお詫びを申し上げます。

*   *   *

「後期ヴェーベルンはニヒリズムである」とは西村朗さんの発言で、先日(2008年10月11日)の三輪眞弘さんの新作演奏会での鼎談でのものである。こうした場での発言を前後の文脈から切り離して論じることには危険が伴うのだが、ここではその発言の真意を探ることが目的ではなく、くだんの発言をきっかけに、自分がどのように「後期ヴェーベルン」を受け止めているかを再度確認してみたくなっただけのことである。事実としてきっかけはかくの如くであったのだからそれは書き留めておくことにしよう。もし西村さんの発言に寄り添うならば、「後期ヴェーベルン」とは一体何時から始まるのかという点についても検討が必要に違いないが、ここでは私が常日頃漠然とそう感じているように、Op.21の交響曲からOp.31の第2カンタータまでを指すものとする。この区分は別に奇を衒ったものではなく、ごく一般的なものだとは思うし、別段楽曲分析などしなくてもOp.21からはっきりと作品の雰囲気が変わることは聴けば明らかなことだとは思うが。

例えば私がずっと聴いてきたケーゲルのヴェーベルン作品集にはOp.21が含まれている。ヴェーベルンは中期にはほとんど歌曲ばかりを書き続けていたから、このような管弦楽曲集ではOp.21だけ明らかに雰囲気が違っていて、それが一応調性のあるOp.1といわゆる無調期のOp.5,6,10との間の差よりも遙かに大きいように感じられるというのは考えてみれば不思議なことかも知れない。だが近年人気があるらしいヴェーベルンの習作期のはっきりと調性のある作品群とOp.1を比べると、こちらはこちらで無調期の作品に寧ろ近いものに感じられるのだ。習作期のヴェーベルンを聴いてヴェーベルンが捨ててしまったものを惜しむ声があるのは理解できないではないが、けれどもこの点については私の嗜好ははっきりしていて、私は最初にはOp.10の、ついでOp.3,4のヴェーベルンに魅惑されたのだから、私にとって調性がないことは壁であるどころか、寧ろ魅力の源泉であったのだ。調性がない「にも関わらず」魅力ある作品ではない。ヴェーベルンが選んだ手法はその音楽の実質に見事に見合っている。結局、恐らくOp.1以前の様式の範囲で熟達が達成されても、私にとってはさほど魅力的な作品にはならないに違いない。

だがその一方で、それら初期の無調の作品の控えめだけれどもしなやかで強い表出性への傾倒は、後期の作品群への距離感と裏腹なものであったことは否み難い。そうはいってもそれがヴェーベルンの作品であることは間違いなく、他の同じ技法による作品とははっきりと異なって響きはするけれど、それでも後期作品の佇まいには何か近寄り難いものを感じていたのは事実である。一般には主観的なものから客観的なものへの移行があった、否、そこには或る種の弁証法的な逆転、相転移があったとされるようだ。素材の透明化を進めていくヴェクトルが、素材への主体の強制の忌避となり、かえって主観の透明化を招来した、などなどといった説明が可能で、そこでの主体の没落が、そもそも無調期の表現主義的なヴェクトルのある意味では自然な帰結でありえる(没落を予感する主体の叫びが、無調期の強い表出性をもたらしているとするわけだ)が故に、ここにニヒリズムを見ることも確かに可能かもしれない。12音技法をファシズムと短絡させることに批判はあるけれど、そうした連関への嫌疑を惹き起こすだけのものが文脈の側には備わっている、というわけだ。

だが、同様に(もちろん実際の具体的な様相は異なっているが)やはり些かの距離を感じていた中期歌曲が「わかって」しまうようになり、しばらくするうちに後期作品の聴き方も随分と変わってきた。勿論それが初期の無調作品のように主観的に響くということはないし、後期作品の持つ或る種の客観性、情緒的なものをほとんど受け付けないような、鉱物的とでもいえるような透明感の印象は変わらない。変わったのはその音楽から受ける印象がずっと具体的で生き生きとしたものに感じられるようになったこと、そして作品を見つめるヴェーベルンの視線のようなものが感じられるようになったことである。歌詞のある作品についても音楽と歌詞との間にギャップがほとんど感じられなくなってきたのである。印象派的ではないけれど、そこには風景が存在する。光の調子や空気の感じが伝わってくる。それは作品の内容とは直接関係ないかも知れないが、少なくともヴェーベルンが一体何にインスピレーションを得てこのような作品を作ったのかがわかるような気がする。もっと言えばヴェーベルンが何故このような作品を作りたかったのかがとてもよく分かるような気がしてきたのである。それをニヒリズムと呼ぶかどうかは、少なくとも私にとってはどうでもいいことだ。ニヒリズムならきっとわかるようになってきた私もニヒリズムに陥りつつあるのかも知れないが、それでも別に構わないように思われる。

ヴェーベルンは恐らくここで作品を自分が恣意的にでっちあげたものだという考えを持たなかったろうし、それはヴェーベルンがまさに目指していたことに違いない。だとすればこれはうまくいっているのだ。例えばOp.21の第1楽章はマーラーの第9交響曲の第1楽章のすぐ隣にあるのは間違いない。でもここにはマーラーにあった主観的なものが根こそぎ取り払われていて、自我が抱え込んでいる自己の有限性故の葛藤は端的に存在しない。でも、この音楽は抽象的な音の戯れなどでは全くない。ヴェーベルンが多くの時間を過ごした山の風景が、その空気や光が一杯に後期の作品群の中に閉じ込められている。そしてその輝きを、生気を、清々しさを私はその作品を通じて一杯に浴び、吸い込むことができる。感受の感受、感受の伝達はここでも起きている。

ヴェーベルンは後期に至って、若き日に研究したフランドル楽派の音楽と、自分の音楽とを突き合わせるということをしているし、ゲーテの原植物や、法則という意味でのノモスについて言及してもいる。(これらは翻訳もあるヴィリ・ライヒ宛書簡で読むことができる。)フランドル楽派のような音楽への接し方は、果たして退行なのか。そこにはニヒリズムを認めるべきなのか。主観性を超えた秩序、法則の反映として音楽を考えるという、ピタゴラス派的と言って良い姿勢(ただし、それは主知主義的であるとは限らない)もまた、ニヒリズムなのだろうか。それぞれの具体的なありようは異なるが、各自の仕方でそうした客観の側の秩序(無秩序でも構わないが、とにかく一般にイメージされるロマン派的な「主観性」とは対極にあるそれ)と自らの音楽との関係を探求した人たち、例えば後期のシベリウスは、クセナキスは、三輪眞弘のアルゴリズミック・コンポジションは、これらもやはりニヒリズムなのか。勿論、それらを単純にひとくくりにすることはできないが、それなら再びヴェーベルンの場合に戻って、その生成の文脈を離れて、今、ここで私が向き合っているその作品にニヒリズムを認めなくてはならないのだろうか。

ここで私はヘルダーリンの最晩年の断片の幾つかを思い浮かべる。ヘルダーリン伝を書いたホイサーマンが「(...)生は次第に主観的な色調と緊張を失う。さまざまな現われは客観的なもの、幻影のようなものになる。」(野村一郎訳)と書いたような断片たちのことを。例えば「冬」Der Winter、あるいは、ヘルダーリンの絶筆となった「眺望」Die Aussichtといった作品の背後にある認識をまた、ヴェーベルンの後期作品同様ニヒリズムと呼ぶかどうかは最早どうでもいいことのように思える。私にとってはいずれもかけがえのない作品であること、否、それどころか、慎ましいものではあるけれども、私の生命よりもそれらの作品達の方がずっとずっと永い生命を持ち、これからも受け継がれていくこと、遙かに大きな価値を有するものであるということを確信できるだけで私には充分である。(2008.11.2,3, 2009.11.8改訂, 2024.5.23 西村朗さんの発言に関する誤認についてのお詫びと訂正を冒頭に付記し、内容を一部修正して改題した上で改訂版として公開)

アンリ・デュパルク(2024.5.23更新)

 

...
O Duparc! Ton génie a su les situer,
Ces accents arrachés à des anges muets.
...
(extrait de : Francis Jammes, Chez Henri Duparc, dans Ma France Poétique, Mercule de France, 1926)


おおデュパルク!
君の天才は物言わぬ天使から奪い取った
あの抑揚(アクサン)を配置することを知っていた。

(フランシス・ジャム「アンリ・デュパルクの家にて」尾崎喜八訳より、「新訳ジャム詩集」弥生書房所収)
私がデュパルクの名を知ったのはフランシス・ジャムの上の詩を通してではなかっただろうか。自身も詩人である尾崎喜八の訳による弥生書房のジャム詩集には、ジャムがカトリックに回心して後の1920年代の詩集に含まれる詩も幾つか含まれていて、その中に1926年刊行の詩集「わが詩的フランス」 Ma France Poétique (Mercule de France, 1926, 私が参照しているのは第8版)に収められた「アンリ・デュパルクの家にて」が含まれていたのだった。けれども、その音楽に接する機会は限られていて、わずかに「旅へのいざない」だけをかろうじて知っているという期間がひどく長かった。その後デュパルクの作品をある程度まとめて聴くことができるようになった時には、ジャムの詩を通して知ったという経緯の方はすっかり忘れてしまっていた程だ。

良く知られているようにデュパルクは1884年にボードレールの詩による「前生」を完成させて後、創作活動を殆ど絶ってしまう。それだけではなく、それまでに作った作品のほとんどを破棄してしまい、破棄を免れた作品は17曲の歌曲以外には数曲の器楽曲、管弦楽曲、合唱曲があるのみである。(ただし、これらの全てがデュパルクが遺すことを「公認した」作品ではない。本人の意に反して公表された作品も含まれていることに、一定の留意をすべきだと個人的には思う。)デュパルクは、生まれ育った環境からすればそれが可能であったに違いない(作曲を生活の糧を得るためにする必要はなかった)にも関わらず、更に作品の破棄という行為自体も表面上はそのように理解することだって論理的には可能であるにも関わらず、現代的な作曲家の類型の一つであるスタイリッシュで確信犯的な寡作家であったわけではないようで、一説によると書いた歌曲の数は数百にのぼるらしい。

ただし1885年以降、全く音楽から離れてしまった訳ではない。歌曲のうち8曲は管弦楽伴奏版が存在するが、それらの多くは1885年以降にオーケストレーションが行われているし、現存する管弦楽曲「星たちへ」は1874年に書かれた3曲からなる作品のうちの1曲で、1911年に改訂が行われたもののようだ。また、その創作活動の末期にはプーシキンの詩「ルサルカ」によるオペラを構想していたらしく、破棄を免れた断片(Danse lente)を聴くことができるが、これもまた1910年くらいに現存するかたちになったようだ。

交響詩としてビュルガーのバラード「レノーレ」に基づくもの(1875年に初演)も残っているが、「ルサルカ」といい、「レノーレ」といい、あるいは曲が付けられたボードレールやルコント・ド・リール、ゴーティエらの詩といい、残された作品の背景をなす文学的環境は如何にも時代の好みにあったもので、作曲上のワグナーの影響とあわせて、デュパルクが時代の空気に敏感であったことは間違いがないように思われる。裕福な家に生まれたデュパルクはしばしばドイツを訪れているが、多くの場合それは当時流行のワグナーを聞くためであり、1869年にはヴァイマルのリストの許でワグナーに会ってもいるようだ。ちなみに「レノーレ」の題材というのは、マーラーが曲をつけた子供の魔法の角笛の「美しいトランペットが鳴り響くところ」や「起床合図」を思わせるもので、言われるところのゴシック趣味に通じるものがあるようだ(かのロセッティによる英訳がある)。ビュルガーの別のバラード「呪われた狩人」に取材して、デュパルクの師であるフランクがやはり交響詩を作曲しているのは興味深い。もっとも「レノーレ」の音楽は、明らかなワグナーの影響にも関わらずワグナーの音楽が時折示すあの陰惨なところはないし、素材に共通点のあるマーラーの音楽の持つ仮借なさや疎外への共感とも無縁のようで、寧ろ当惑してしまうほど夢見がちな音楽のように聴こえる。それはもしかしたら、彼の歌曲が一見して当時の時代の趣味に完璧に沿っているようでいて、その中に安住することができないかのような不安げな眼差しを秘めていることと表裏一体なのかも知れない。(ちなみに、普仏戦争、そして第一次大戦という状況下のフランスの多くの音楽家がそうであったように、ワグナーの強い影響と国粋主義的なナショナリズムに基づくドイツ音楽に対する皮相な見方との葛藤がデュパルクにも見られる。さらにまた名門の血筋から自然に予想されるように、デュパルクが反ユダヤ主義的な考えの持ち主であったことは確かで、ユダヤ人には天才はいないと言わんばかりの「偏見」が書かれたクラ宛ての書簡も残されている。マーラーの音楽に対する反応も残っているが、これまた当時のフランスの音楽家によく見られる極めて皮相なものであるようだ。)

デュパルクの姓は本来はフーケ・デュパルク(Fouques-Duparc)、父親はノルマンディーの由緒ある名家の家系で鉄道会社の専務、母親はロレーヌ地方の貴族の出身で子供向けの宗教的著作のある人で、経済的にはめぐまれ、宗教的に厳格な家に作曲家マリー・ウジェーヌ・アンリ(Marie Eugène Henri)が誕生したのは、奇しくも革命の年であった。兄弟としては後年作曲者が「ギャロップ」を献呈している兄Arthurがいる。イエズス会士が運営する学校で教育を受けるが、その学校のピアノ教師が、かのセザール・フランクで、フランクはデュパルクの作曲の才能を認め、デュパルクはダンディ(「波と鐘」を献呈)、ショーソン(「フィディレ」を献呈)、ロパルツ(「前生」を献呈)などとともにフランキストに名を連ねることになる。デュパルクはその創作活動の出発点となるOp.1のピアノ曲にフランクへの献辞を書き込む。一方のフランクは彼の最も有名な作品の一つである交響曲(1889年出版)をデュパルクに献呈する。もっとも1889年にはデュパルクは創作を絶ち、すでに南仏にいるのだが。彼は音楽家になりたいが、音楽に理解のない厳格な父親はデュパルクに法律を修めるよう命じる。しかし広場恐怖に襲われたデュパルクは学位取得を断念することになる。フランクやフォーレ(「哀歌」を献呈)、シャブリエやダンディ等とともにビュシーヌとサン・サーンスによる国民音楽協会の発足に参加、以来書記の勤めを果たす。

1871年にデュパルクの妻となる人はアイルランド系でMacSwineyという姓を持つ。厳格な父親は彼女との結婚までに3年間の期間をおくことを命じたらしい。デュパルクは1870年に5つの歌曲を出版するが、そのうちの「悲しい歌」Chanson tristeは妻の兄弟であるLéon MacSwineyに献呈されているものの、実質的にはその後妻となるその女性への想いを載せた作品であったようだ。同じ曲集に含まれる「ためいき」Soupirを献呈された母親がその想いを汲み取り、父親にとりなしたというエピソードがあるようだ。デュパルクが曲をつけた詩の中には翻訳が2つある。一つはゲーテの有名なミニヨンの詩の翻案だが、もう一つはアイルランドに関連があって、トマス・ムア(Thomas Moore)がロバート・エメットの追悼に書いた「エレジー」である。これを訳したとされるE. MacSwineyというのは恐らく妻なのであろう。有名な「旅へのいざない」はやはり1870年あたりに書かれ、妻に献呈されている。デュパルクはその創作の末期である1884年頃からアイルランドに旅行をしているらしいが、それは妻の出身と無関係ではないのだろう。

親の権威に対するデュパルクの関係というのは恐らく心理学的には興味深い問題なのではなかろうか。その実際には豊かであったろう創作活動のエネルギーの備給、そしてその枯渇。宗教的に厳格な生育環境に対して、音楽の置かれた文学的環境はあからさまに世俗的であり、再び宗教的な環境に身をおいたデュパルクは、それをもはや不要なものと見做さざるを得ない。容易に思いつくのは、親への反抗としての作曲、反抗の挫折、屈服としての回心、創作の放棄、というストーリーだろう。音楽への想い、妻への想いを父が妨げたことは確かなことのようであるし。母との関係も、上述の「ためいき」の献呈に関する経緯(献辞が一時削除されたことがあるが、1911年版の「全集」では復活している。)に垣間見られる屈折をはじめ、精神分析的な深読みを誘う側面があるようだ。ただし、デュパルクの病は器質性のものであったかも知れないようなので、こうした「ストーリー」を安易に敷衍することには慎重であるべきだろうが。そもそも、ボードレールの詩に共感したとはいうものの、放蕩に身を持ち崩すような生活態度により反抗を示したわけでは全くない。それどころかデュパルクその人は、確かに過度に敏感であったり、繊細であったりしたようではあるが、ロレーヌ地方の貴族の家系の良家の子弟に相応しく、信心深く、礼儀正しく、情誼に厚い、率直な人であったらしい。信仰についても、その姿勢は幼少時から晩年に至るまで、寧ろ一貫していたというべきで、だから「回心」という言葉は不適切というべきかも知れない。もっとも、ルルドへの巡礼のように信仰に質的な飛躍をもたらした出来事というのはあったようだが。(こうした経緯を辿ろうと思えば、かなりの数にのぼるらしい書簡に直接あたる必要があるだろうが、主としてJammesに宛てられた書簡以外はそもそも出版されていないか、されていても入手が困難な状態にある。そもそも、Duparcに関する基本文献として必ずあげられるNancy Van der Elstの研究も博士論文であり、直接あたることは私にはできていない。従って、これらの記述は下述の文献を読み、音楽を聴いた限りでの「空想」でしかない。)

創作を絶つ1885年というのは、マルヌ・ラ・コケット(Marnes-La-Coquette)という町の町長を勤めていた時期にあたる。この町はいわゆる名士達の住むところであったようで、1880年以降1885年までデュパルク自身も夏の大半をこの町で過ごしている。この町の町長という役職もまたデュパルクの出自を思わせるものだが、翌年の1885年にはこの町を離れ、南仏Moneinに移ってしまう。その後世紀の変わり目あたりに一度パリに住んだりもするし、一時期スイス(レマン湖畔ベベイVeveyの近くのLa Tour de Peilzにある Villa Amélie)で過ごしたりもしたようだが、それ以外はほぼ南仏での暮らしを続ける。没するのは南仏のモン・ド・マルサン(Mont-de-Marsan)である。南仏と書いたが正確にはピレネーの麓、まさにフランシス・ジャムが生まれ暮らした地域がデュパルクの後半生の棲家だったのだ。地図を開くとすぐにわかることだが、ジャムゆかりのオルテズOrthez、タルブTarbes、モン・ド・マルサンMont-de-Marsan、そして有名な巡礼地であり、ジャムの詩にも頻繁に登場する聖地ルルドLourdesとはそんなに遠く離れている訳ではない。私がかつて読んだジャムの詩に以下のように詠まれたデュパルクの家というのはそうした棲家のうち、Moneinの時代のVilla Florenceのことのようである。(訳詩集では割愛されているようだが、原詩には地名の記載がある。1885年からこの地での生活を始めたデュパルクは、その同じ年にジャムと知り合いになったようである。)
...
Sur le coteau, semblables à quelque grappe blonde,
A l'ombre de sa feuille, et faisant face aux ondes
D'une terre d'azur se dressant dans l'azur;
Dominant le rempart, bien plutôt que les murs,
D'une église posée au milieu du village,
Comme par un berger un énorme fromage,
La villa de Duparc nous accueillait souvent.
...
(extrait de : Francis Jammes, Chez Henri Duparc, dans Ma France Poétique, Mercule de France, 1926)


何かのブロンドの房のような丘の上、
その木々の葉陰から
青空を打つ大地の波に顔を向けて、
羊飼の作った一塊りの大きなチーズのように
村のまんなかに立った教会堂の
塀というよりも寧ろ城壁のようなのを見おろしながら、
デュパルクの山荘がしばしば私たちを迎えたものだ。

(フランシス・ジャム「アンリ・デュパルクの家にて」尾崎喜八訳より、「新訳ジャム詩集」弥生書房所収)
デュパルクとジャムは連れ立ってルルドへの巡礼もしているようだし、二人の間で交わされた書簡を読むこともできるようである。(ただし、残っているのはデュパルクからジャムに宛てられた手紙のみのようだ。デュパルク宛てのジャムの手紙の方は、Maubourguet近郊のVillefranqueにあり、息子のCharles夫妻が住んでいたモンデグーラの城(château de Mondégouratの1935年の火事により―師Franckから献呈されたニ短調交響曲の自筆譜や、他の多くの友人の書簡もろとも―焼失してしまったとのこと。)また、ジャムの「野兎物語」の中にはデュパルクへの献辞を持つ作品が含まれるようだ。これは陰鬱なテーマを扱ったもので、これをデュパルクに献じたジャムの心情というのを推し量ることができるような気がする。

デュパルクが筆を絶った理由というのは「神経衰弱」という言われ方をするようだが、実際の原因はよくわからないらしい。(小脳の腫瘍が原因という記述を見かけたことがあるが、上述の広場恐怖を始めとする若き日の病跡をはじめとして恐らくFernand Merleの著書 ―残念ながら、これもまた私は未見である―の記述に基づくものと思われる。)晩年の失明(緑内障の悪化による)や身体の麻痺との関係についてもはっきりしないようだ。創作力の枯渇というのも或る日突然訪れたものではなく、緩慢なプロセスであったようだし、何かの出来事がきっかけとなって筆を折ったわけではないようだ。いずれにせよ他の大作曲家におけるような病跡学的な研究は、資料となる記録の欠如により壁にあたっているらしい。信仰についても、幼少時より一貫して信心深かったデュパルクに「回心」という言葉は似つかわしくないが、それでもデュパルクがジャムやクラといった友人や弟子にあてた手紙を読めば、ある種の質的な飛躍とでも言うべきものがあったのは確実のようだ。
« Après avoir vécu 25 ans dans un splendide rêve, toute idée de représentation m'était - je vous le répète - devenue odieuse. L'autre motif de cette destruction, que je ne regrette pas, c'est la complète transformation morale que Dieu a opéré en moi il y a 20 ans et qui en une seule minute a abolie toute ma vie passée. Dès lors, la Roussalka n'ayant aucun rapport avec ma vie nouvelle ne devait plus exister. »
「25年間、素晴らしい夢の裡に生きた後、作品を公表するということが―繰り返して言いますが―私には厭うべきものになったのです。この破棄を私は悔いていませんが、それには別の理由もあるのです。それは20年前に神が私に施した全き道徳的な変容で、それによって私の過去の人生は一瞬にして打ち捨てられたのです。それからというもの、「ルサルカ」は私の新たな人生とは無関係なものになってしまったわけで、それは最早存在すべきではなかったのです。」(1922年1月19日、クラ宛の手紙、翻訳は引用者)
残された作品を見る限り、ジャムの回心前の詩篇「暁の鐘から夕べの鐘まで」に比べてもなお、デュパルクの作品は、あまりに時代の空気に敏感すぎたのであろう。己が曲を付けた詩の価値自体について否定することはなかったけれども、意に満たなかった多くの歌曲とともに、ロマン主義の時代に繰り返し取り上げられた、「無心さ」ゆえに人を破滅させる「オンディーヌ」の物語(プーシキンには「ルサルカ」に取材した作品は2つある。1つは1819年作の詩で、これは修行僧が水の精に会って破滅する、より民話的な内容のもの、もう一つは1828年頃着手されたが未完に終わり、没後1932年に出版された劇詩であり、これは自分を裏切った王子への復讐が主題の物語である。デュパルクは自分で台本を書いたようで、その内容は音楽同様破棄されたため正確に知ることはできないようだが、いずれにせよ後者に基づいていることは確からしい。)に取材したオペラを破棄せずにはいられなかったデュパルクの心情について、私は否定的にコメントすることなどできない。数学者をやめて「パンセ」を書いたパスカルの回心同様、デュパルクの後半生の宗教的な隠遁を「不毛」とか「損失」と評価する声も理解できないではないにせよ。勿論、こと音楽の創作という観点から見た場合にはそれは評価というよりは事実なのだろうし、更に言えば、デュパルクの自作破棄がもっと徹底したもので、永らく破棄されたと思われてきた1870年出版の初期作(5つの歌曲)のうちの3曲のみならず、「旅へのいざない」も「前生」も「フィデレ」も遺さなかったとしたら、と考えたら(しかもそうした想定は決して極端なものではないだろう)、確かにそうした評価にも一定の価値は認めざるを得ないかも知れないとは思う。ミームというのも結局は存続したもの勝ちなのだ。デュパルクが作品を一つも残さなかったらジャムの件の詩は書かれただろうか。更に(ジャムはそういう人ではなかったが)ジャムが宗教的信念に基づき回心後の詩作を絶つようなことがあれば、私はデュパルクその人を知りえただろうか。(レムの「ビット文学の歴史」に情報量の観点から神秘主義者の著作を分析し、神の沈黙を証明するという(コンピュータ「が実施主体」の)プロジェクトがあったが、ここでは話はもっと極端なのだ。そもそも分析する著作すらないのだから。一方でデュパルクのことを考えていて、ふとアルヴォ・ペルトが修道僧に会った時のエピソードを想い出した。ペルトは祈りのために音楽を書いていると言ったのに対し、修道僧は、祈りのことばはもう用意されているから新たに何も付け加えることはない、と言ったらしい。だがペルトは作品を書くことを止めなかった。私はその話を読んだときにペルトの態度の方を不可解に感じたのだった。そう、デュパルクの態度の方が遥かに一貫していないだろうか?もっとも、あえてそうしたエピソードを明かしたからにはペルトは多分答えを持っているのだろうが。だが、私思うに件の修道僧はそのペルトの答えを決して認めないだろう。もう一つ。ジッドの「狭き門」で、アリサがパスカルを批判する件がある。数学者をやめたことを惜しむどころか、「パンセ」を遺したことすら問いに付されうる、というわけだ。「私は年をとってしまった」というアリサのジェロームへの言葉の意味は、要するに相転移の臨界のこちら側に来てしまった、という意味なのではないか。「ルサルカ」を破棄したデュパルクと同じ側にいる、ということなのではないか。)

だが、そうした仮定を積み重ねることにさほど意味があるとは思えない。結局そうしたぎりぎりの均衡のところでデュパルクの作品は残った。否、より正確には後半生の「不毛な」デュパルクも全ての作品を破棄しようとしたわけではなく、ある作品は遺したのだ。1911年出版の13曲の歌曲はそうした作品たちだろう。そして何よりも大切でかけがえのないことに思えるのは、遺された作品のうち少なくとも幾つかは、そうした臨界的な状況に見合った実質を備えているように感じられることだ。状況のアウラというのがあるかも知れないとは思う。だが多分、そういうことを知らずに聴いても、そうした作品の持つ不思議な輝きの持つ例外性は感じ取れるのではないかとも思う。一見時代の好尚に合った「流行の」作品に見えて、実際にはそれらの作品は、それぞれが「行き止まり」なのだ。それがペルトの言う「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」を迎えたということなのかどうかについては、デュパルクの場合には慎重であるべきかもしれない。少なくともデュパルクの作品は、祈りの音楽ではないし、書かれた時にはペルトが考えていたような問題を意識していたわけではない。だが、だからこそ、逆説的に、もし「エデンの園」の音楽というのがあるのだとしたら、それに相応しい無邪気さがあるのだとしたら、それは寧ろデュパルクの場合こそ相応しいのではないかという気がしてならない。それを求めていたわけではないが故に、この音楽の裡には自己放棄と自己実現の弁証法のようなものはない。そうした弁証法を技法の次元であれ、創作の契機の次元であれ、音楽自体の素材として取り扱うという危険からこの音楽は偶然にも(奇跡的に、というべきだろうか)自由なのだ。あるのは一方通行の自己放棄だけだし、それは徹底して音楽の外(つまり音楽そのものの破棄)にしかない。(勿論、無意識にそうした自己放棄を手探りしていた痕跡が、その音楽に無いとは言えないだろう。もしかしたら、その音楽の持つ不思議な輝きこそ、その反映であると言うことが出来るかもしれないのだ。臨界的な状況は、時代の趣味に規定される素材としての詩の、あるいは作曲技法の選択を超えて、その音楽に痕跡を遺しているのだと思う。)いずれにしてもヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門前に相応しい音楽があるとすれば、それはデュパルクの作品なのではないだろうか。その向こう側には沈黙が広がる、相転移の地点のほんの手前の音楽、それがデュパルクの作品なのだと私には思えてならない。

デュパルクの歌曲は、他の大作曲家の場合とは異なって、それ自体がデュパルクの名を音楽史に遺し、かつ人口に膾炙させる根拠をなすものであるから、その価値を改めて云々する必要性はないだろう。一般に優れた詩に曲をつけるのは困難で、歌曲の名曲はしばしば詩自体を取り上げれば必ずしも際立って優れているとは言いがたいものに付曲されたものが多いように思われるが、デュパルクの場合には、その作品の中で最も優れていると言われているものは、ボードレールの詩作の中でも白眉と言われている「旅へのいざない」であり、「前生」であり、あるいは高踏派の領袖ルコント・ド・リールの「フィディレ」であったりと、詩自体も際立って優れている点が印象的だと思う。

それだけに、デュパルクが創作を絶った後、1904年にジャムに宛てた書簡のうちで以下のように述べているのは、衝撃的であり、痛ましくもある。そうした批判的な意識が、遺された作品の例外的な質を支えていると同時に、創作の断念や作品の破棄とも通じていることを思うにつけ、その作品の貴重さを強く感じずにはいられない。
« j'ai fait quelques mélodies dans lesquelles j'ai simplement mis mon âme  avec sincérité : c'est leur seul mérite. Maintemant la petite source est arie,  (...) pour moi, la musique inspirée par une poésie n'a de raison  d'être que si elle ajoute quelque chose à cette poésie, si elle la rend plus  touchante pour les âme qu'émeut l'expression musicale ; mais il y a des  poésies parfaites, et qui sont tellement ... pleines, dirai-je, que la musique  --  même la plus belle, même celle que je ne peux pas faire --  ne peut que les  diminuer.»
「私は幾つかの歌曲を作りました。その中にただ誠実に自分の魂を込めただけのものです。そのことにしか価値はありません。今や小さな泉は涸れてしまいました。...(中略)...私にとっては詩に触発された音楽というのは、音楽がその詩に何かを付け加えるのでなければ、音楽の表現に感動することにより、魂がその詩に一層寄り添うことができるようにならなければ、存在理由がありません。しかし完璧な詩というのがあって、それはあまりに自足していると言ったらよいのでしょうか、そのために、私には為しえないほど音楽が美しいものであったとしても、詩を貶めることにしかならないのです。」(1904年6月27日、ジャム宛の手紙、翻訳は引用者)
そしてまた、デュパルクについては、歌曲が創作の中心的なジャンルであることについては疑う余地はないと考えられる。作品のほとんどを破棄してしまったと伝えられるデュパルクの場合には遺された作品の絶対数が圧倒的に少ないので、その中での割合を問題にしても仕方ないかも知れないが、そのほとんどを占める17曲が歌曲(ただし1曲は重唱曲)であるし、デュパルクが創作を絶って後に2回にわたって刊行されたのはいずれも歌曲集であった。一度目は1894年、二度目は1911年刊行で「全集」と銘打たれていて13曲の歌曲を含んでいる。ちなみにデュパルクは、そのうちの8曲については更に管弦楽伴奏版を作成している。管弦楽伴奏の歌曲というのはある意味では厄介なジャンルで、創作の極における表現上の必要性と同時に、社会学的なコンサートホールでの公演プログラムの構成上のニーズの点からも、作曲された時代の要請に合致したものであったのであろうが(デュパルクの場合には、さしづめリストとワグナーがその範例となったことであろう)、少なくとも今日、僻遠のこの地で実演に接するのには困難が伴うだろう。CD等で聴けるのも圧倒的にピアノ伴奏が多く、しかもデュパルクの場合には、管弦楽伴奏であることの意義が、一例を挙げればマーラーにおけるそれと釣り合うようなものであるかどうかについては議論があるかも知れないが、私個人は、管弦楽伴奏版がある作品については、ピアノ伴奏版と管弦楽伴奏版のそれぞれが一方が他方の編曲というのではなく、独立し固有の価値をもった作品であるという考え方に共感する。また特にデュパルクの場合には、管弦楽伴奏が作られた8曲というのは、デュパルクがいわば「公認した」13曲の中でも更に特別なグループを作るのではなかろうか。何も作曲者の主観がすべてだと主張するわけではないし、埋もれてしまった作品を発掘する音楽学者の努力を否定するつもりは全くないが、ことデュパルクの場合には、現在聴くことのできる17曲のすべてがデュパルクが遺すことを認めた作品ではないことに留意すべきであると思う。そして更に、管弦楽伴奏版を作った8曲についても作曲者の選択というのを私は感ぜずにはいられないのである。もしかしたら今後更にデュパルクの「未知の傑作」が発掘されることがあるかも知れないが、私個人としては、それらはオペラ「ルサルカ」に関する「たられば」同様、ほとんど関心をひくことではない。そもそも私は、勿論作品自体の価値はまた別の問題であるということは認めた上で、一度は出版されたにも関わらず、デュパルクその人があれほど破棄を願い、それがほとんど成功したかにみえた作品2のうちの3曲が後世の努力により「再発見」されてしまったことに何かしら皮肉なものを感ぜずにはいられないのである。勿論そうした作業は、正規の手続きを踏み、デュパルクの子孫の許可を得た作業であって、道義的に批判すべき点はないだろうし、寧ろそれは、デュパルクもまた、己の意図を超えて自分の生み出した作品が独自の生命を主張する稀有な例である証と考えるべきなのかも知れないが。

その一方でとりわけ、この極東の僻遠の地でデュパルクを知ろうとする人は、その情報の少なさに戸惑うことになる。とはいえ、今や何種類もの録音を聴き比べることもできるし、権利が切れた楽譜はリプリントが安く入手できるようになっている。(1911年の全集の出版社であり、更に他の作品の出版社でもあるRouart et Lerolleは1941年にSalabertに買収されたため、Duparcの楽譜の多くはSalabertより購入することができるが、それに加えて、Doverより1995年に歌曲全集としてデュエットを含む17曲のピアノ伴奏版が出版されている。)実演に接する機会は限られているとはいえ、歌曲という基本的には異なる文化に属する、しかも恐らくはすでに過去のジャンルそれ自体の今日におけるこの国でのプレゼンスを考えれば、ことさらデュパルクのみが冷遇されているとは言い難い。100年以上も前の異国の伝統に連なる歌曲というジャンルが果たしうる社会的機能が今日のこの地ではあまりに乏しいというのが現実なのだろう。

フランスでも、デュパルクその人を知る人たちが回想を語った時代が過ぎ、上述のモンデグーラの城(château de Mondégouratの1935年の火事が、その生涯を証言する数多くの資料を、―まるでデュパルク本人が自分の作品のほとんどに対して行った「アウト・ダ・フェ」をもう一度反復するかのように―永久にこの世から消し去った後、しばらくはごく限られた研究者の研究対象である時代が続いたように見える。恐らくは今も続く名門の家柄ゆえの、資料公開にまつわる曲折もあったことと想像される。そして没後50年を過ぎたあたりから―恐らくは作曲家の孫娘にあたるアルマニャック伯爵夫人La Comtesse d'Armagnac de Castenet の決断に与るところが大きいと想像されるが―再び楽譜の校訂や出版、研究の成果を世に問う動きが活発になっているように見受けられる。あるいは専門の音楽学者からすれば、ようやく本格的な研究が可能な時期に達したということになるのかも知れない。

だが、それだけだろうか? デュパルクが己の歌曲に課したあまりに過大な要求、ほとんど不可能な要求がもたらす重みが、それを実際に響かせる機会を、その作品が拍手喝采を浴び、華々しい脚光を浴びることを自ら制限しているという側面も否定できないのではなかろうか。たとえその価値を確信したとしても、それゆえに意義を声高に説き、己の嗜好の押し売りをするような態度を聴き手がとることを作品自体が拒んでいるように感じられる。否、私の書くこの貧しく、不完全な文章こそ、以下のようなデュパルクの意思に反して、不躾に、その価値に相応しからぬ仕方で作品をかえって損なっているということがないことを祈るばかりだ。
« C'est pour les rares amis seuls (plusieurs même inconnus) que j'ai écrit mes mélodies sans aucun souci d'applaudissement ou de notoriété. Bien que courtes, elles sont (et c'est leur seul mérite) le fond de moi-même, et c'est du fond du coeur que je remercie ceux qui l'ont compris. C'est à leur âme que s'adresse mon âme : tout le reste m'est indifférent.»
「数少ない、しかもその多くは私の知らない友達のために、私は歌曲を書いたのです。拍手喝采や名声を思ってのことではありません。たとえ短いものであっても、これらの歌曲は―そしてそのことにしか価値はないのですが―私自身の奥底なのですし、それを理解してくれる人に私は心の底から感謝したい。そういう方々の魂にこそ私の魂は向けられているのです。それ以外のことはどうでもいい。」(翻訳は引用者)
ご存知の方ももしかしたらいらっしゃるかも知れないが、実は私もまたこの文章を公開した際に一度撤回し、再び公開してしばらくしてから再度撤回し、一度は破棄し、また復元し、という作業を繰り返した経験がある。対象であるデュパルクの行動が伝染したということでもないのだが、そもそもデュパルクについて書こうという心の動きのうちには、無意識のうちにそうした逡巡を引き起こした自分の状態に対する反応が含まれていたと考えるほうが自然であろう。残念ながら、こちらの場合には寧ろ黙って書き溜めて、燃やしてしまったほうが良かったかも知れないような、取るに足らない価値のものではあるのだが。しかし、それでもなお、ふとした折にメールでのやりとりのなかで、さる方が書かれた一言がきっかけとなって、どんなに拙いものであっても全く意義がないということはないのだ、自分の書くものの価値とは別に、デュパルクについて語ること、デュパルクについての文章が存在し、その内容がそれなりに流通することには一定の意味があるのだと思えるようになり、こうして、折をみて加筆をし、修正しながら―それもまた、デュパルクのあの彫琢の苦心を思えば、遠く及ばないものではあっても、相応しいものであると思いたい―公開を続けることにしたのである。己の受け取ったものに相応しい十全な表現ではないにしても、あるいは一面的で勝手な思い込みがそこに含まれているとしても、私は確かにデュパルクの音楽から何かを受け止めたと思うし、そこにデュパルクその人を見つけることができるように感じている。100年以上後の、地理的にも文化的にも全く懸け離れた地に住み、生まれも育ちも異なる、気質も異なる人間ではあるけれど、私がそこに見つけたものは私にとってはかけがえのないものだし、私は己の受け止めたものに忠実でありたいと思う。言うまでもないことだが、この文章は客観的にデュパルクの価値を記述することを意図しているのではなく、それゆえ、何故、他ならぬデュパルクなのかという問いに対する答えは、客観的にみて他のものに価値がないと考えているからではなく、自分の貧しい感性と能力と情報処理量の限界の中で、偶々自分が出会い、多くのものを―受け止めきれないほど豊かなものを―自分に与えてくれたものについて語りたいだけなのだ、ということになるのだろう。音楽史的な位置づけや当時の「趣味」について知りたい方のためには、そうした知識をお持ちの方のWebページが存在するし、ご自分で文献を紐解かれても良いだろう。私は結局、隔たった時間と空間を越えて、一体何が伝達されうるのか、文脈の拘束を超えて残るものは何なのかの方に、より多く関心があるのだ。

関連記事

(2005.12.11公開,13,14,15,17,24,28,2006.1.3,6補筆修正,2007.1.12修正,2007.04.20プーシキン「ルサルカ」についての記述を訂正、参考文献を追加。4.21補筆修正。4.22作品表再公開。 5.6加筆, 5.18コメント追加, 5.19加筆および仏語原文追加, 6.19修正, 2021.9.8資料編を再公開, 2024.5.16旧Webページのコンテンツを復元し、若干の編集の上、関連記事へのリンクを追加して再公開。5.23追記)

アンリ・デュパルク(1848-1933):参考文献

  • Oulmont, Charles. Musique de l'Amour. Tome I. Ernest Chausson et la "bande à Franck", Tome II. Henri Duparc ou de "L'Invitation au Voyage" à la Vie Eternelle. Coll. Temps et Visages. Paris. Desclée de Brouwer. 1935
  • Duparc, Henri. Une Amitié mystique, révélée par ses lettres à Francis Jammes, à Charles de Bordeu et à sa filleule suivi de la prière de tous les jours après la communion, préface et remarque de Guy Ferchault, Mercure de France, 1944
  • Srticker, Rémy, Les mélodies de Duparc. Actes Sud, 1996
  • Fabre, Michel. Henri Duparc 1848-1933 - Musicien de l'émotion, Atlantica / Séguier, 2001
  • Northcode, Sydney, The Songs of Henri Duparc. D. Dobson, 1949
  • Lethel, Philippe, L'énigme Duparc, dans Henri Duparrc (1848-1933), Salabert, 1993 ((2024.5.23追記) Salabertの出しているデュパルクについてのパンフレットに収録されている。パンフレットにはSalabertが出版している作品のリスト、ディスコグラフィー、文献リストが含まれる。このパンフレットは現在でもSalabertのWebサイトのパンフレットのページからダウンロード可能。)
  • Noske, Frits, French Song from Berlioz to Duparc : The Origin and Development of the Melodie, 2nd Edition, translated by Rita Benton, Dover, 1988
  • 霜山徳爾, アンリ・デュパルクの病跡, 「心と社会」第9巻第2号(日本精神衛生会, 1978), 後に「黄昏の精神病理学―マーヤの果てに」(産業図書, 1985)および「霜山徳爾著作集2 天才と狂気 人間の限界」(学樹書院, 2000)に収録。
なお、研究をするのであれば、私は未読だが以下の文献や、多くの雑誌記事(ここに挙げた文献から辿ることができる筈である)にもあたるべきだろう。
  • Merle, Fernand, Psychologie et pathologie d'un artiste, Henri Duparc, Imprimerie-Librairie de l'Université, Bordeaux, 1933
  • Stricker, Rémy, Henri Duparc et ses mélodies, (thèse). Paris, Conservatoire National de musique 1961
  • Van der Elst, Nancy, Henri Duparc, l'homme et son oeuvre, thèse de doctrat ès lettres, Paris Sorbonne, 1972
  • Sérieyx, M-L. (ed.), Vincent d'Indy, Henri Duparc, Albert Roussel : lettres à Auguste Sérieyx, Lausanne, 1961
(2024.5.16追記)本稿執筆後、以下の文献が刊行されたことを確認している。
  • Besingrand, Franck,  Henri Duparc, Blue Nuit, 2019

(2005.12.11公開,13,14,15,17,24,28,2006.1.3,6補筆修正,2007.1.12修正,2007.04.20プーシキン「ルサルカ」についての記述を訂正、参考文献を追加。4.21補筆修正。4.22作品表再公開。 5.6加筆, 5.18コメント追加, 5.19加筆および仏語原文追加, 6.19修正, 2024.5.16再公開, 5.23 Salabertが1993年に出したパンフレットについて追記)

アンリ・デュパルク(1848-1933):作品表

主要作品

標題テキスト・題材献呈調性編成作曲初演出版編曲備考
Chanson triste詩:Jean LahorLéon MacSwiney変ホ長調高声, ピアノ18681878.3.2 EugénieVergin(Sp.) ピアノ伴奏版5つの歌曲作品2(Flaxland, 1870), 全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1912)
Le galop詩:Sully Prudhomme作曲者の兄弟Arthurト短調バリトン, ピアノ18685つの歌曲作品2(Flaxland, 1870), Durand(1948)
Romance de Mignon原詩:Johann Wolfgang von Goethe, "Kennst du das Land", 翻案:Victor WilderArthur Coquardホ長調高声, ピアノ18695つの歌曲作品2(Flaxland, 1870)
Sérénade詩:Gabriel Marcト長調中声, ピアノ18695つの歌曲作品2(Flaxland, 1870)
Soupir詩:Jean Lahor作曲者の母ニ短調高声, ピアノ18695つの歌曲作品2(Flaxland, 1870), 全集(Rouart et Lerolle, 1911)改訂1902, 弦楽四重奏伴奏版(Gustave Samazeuilh)
Au pays où se fait la guerre詩:Théophile GautierEugénie Verginへ短調中声, ピアノ18701872.3.9 ピアノ伴奏版, 1912.10.17 管弦楽伴奏版全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1876)決定版1913
L'invitation au voyage詩:Charles Baudelaire作曲者の妻ハ短調高声, ピアノ18701872.3.9 ピアノ伴奏版, 1897.5.18 管弦楽伴奏版全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1895)
La fuite詩:Théophile Gautierホ短調ソプラノとテノールの重唱, ピアノ1871Demest(Eschig)(1903),
La vague et la cloche詩:François CoppéeVincent d'Indyホ短調中声, ピアノ18711873.2.8ピアノ伴奏版、1877.5.13管弦楽伴奏版初期形全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版最終形(1913)
Elégie原詩:Thomas Moore, 翻訳:E. MacSwiney(作曲者の妻)Henri de Lassusの思い出にヘ短調高声, ピアノ18741876.12.30 Edmond Vergnet (Tn.)Journal de musique (1878.1.2), 全集(Rouart et Lerolle, 1911)改訂1902
Extase詩:Jean LahorCamille Benoitニ長調高声, ピアノ1878全集(Rouart et Lerolle, 1911)改訂1884, 管弦楽伴奏版(Pierre de Bréville), 弦楽四重奏伴奏版(Gustave Samazeuilh)
Le manoir de Rosemonde詩:Robert de BonnièreRobert de Bonnièreニ短調高声, ピアノ1879全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1912)
Sérénade florentine詩:Jean LahorHenri Cochinヘ長調高声, ピアノ1881全集(Rouart et Lerolle, 1911)
Phidylé詩:Leconte de LisleErnest Chausson変イ長調高声, ピアノ18821889.1.5 ピアノ伴奏版全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1894)
Lamento詩:Théophile GautierGabriel Fauréニ短調高声, ピアノ1883全集(Rouart et Lerolle, 1911)
Testament詩:Armand SilvestreHenri de Lassus夫人ハ短調高声, ピアノ18831901.3.16 管弦楽伴奏版全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1901)
La vie antérieure詩:Charles Baudelaire最初はVillier de l'Isle-Adam, 最終的にGuy Ropartz変ホ長調高声, ピアノ18841903.3.5 ピアノ伴奏版, 1912.10.17 管弦楽伴奏版全集(Rouart et Lerolle, 1911)管弦楽伴奏版(1913)
Feuilles volantsCésar Franckピアノ作品1(Flaxland, 1869)
Aux étoiles管弦楽18731874.4.11国民音楽協会Rouart et Lerolle(1911)3曲よりなるPoème nocturneの第1曲として。2手ピアノ版(Duparc, 1911),4手ピアノ版(Gustave Samazeuilh, 1911), 4手ピアノ版(Gustave Samazeuilh / Duparc, 1914), オルガン編曲版(Paul Fournier)
交響詩LénoreBürgerの同名のバラードに基づく管弦楽18741875.5.15国民音楽協会Leuckart(Salabert)2台ピアノ版(Saint-Saëns, 1876)
4手ピアノ版(César Franck)
Benedicat vobis Dominusモテット当初Gabriel Fauré、後に息子Charles混声三部合唱,オルガン伴奏1882Rouart et Lerolle(1920)結婚式のための「機会音楽」として作曲、改訂、都度の献呈が行われた。
Danse lenteプーシキンの劇詩によるオペラRousalkaの断片ハ長調管弦楽1892未出版1912-17改訂, 一時はValse lenteとも。

上記以外の作品(未出版・未完・破棄)
  • Suite de valses (Laendler), 2台ピアノ, 1872-1873, 未出版、下記のSuite d'orchestreの一部の編曲。
  • 6 Rêveries, ピアノ, 1864-1865, 印刷はされたが出版されず。Imprimerie Parent, 49, rue Rodier, Paris (1865)
  • Beaulieu, ピアノ, 1869, 未出版
  • Sonate イ短調, チェロとピアノ, 1867-1869, Coda-France, SARL
  • Oremus pro Pontifica nostra Leone, Anntienne pour le pape (Léon XIII), 合唱, 未出版
  • Suite d'orchestre, 管弦楽, 1872-1873, 破棄, Suite de valses (Laendler)の2台ピアノ版のみ残存
  • Poème nocturne : 1- Aux étoiles ; 2- Lutins et follets ; 3- Duo : L’aurore, 管弦楽, 1874, 第1曲のみ残存
  • Roussalka, プーシキンの劇詩による3幕のオペラ, 1879-1912, 破棄, 断片がDanse lenteとして残存
  • Recueillement, 1885, 未完, 破棄
  • Ave Maria, 1886, 破棄

編曲
  • バッハ 前奏曲とフーガホ短調 BWV533, 管弦楽, 1894
  • バッハ コラール「喜びは汝のうちにあり」 BWV615, 管弦楽, 1894, 未出版
  • バッハ 前奏曲とフーガニ短調 BWV543, 2台ピアノ, 1903以前
  • バッハ 前奏曲とフーガホ短調 BWV533, 2台ピアノ, 1903以前, Demets, 1903
  • フランク 幻想曲ハ長調, 2台ピアノ, 1908
  • フランク 幻想曲ニ長調, 2台ピアノ, 1908
  • フランク カンタービレ, 2台ピアノ, 1908, Durand, 1908
  • フランク 3つのコラール, 2台ピアノ, 1908

上記以外の編曲(破棄)
  • バッハ 前奏曲ロ短調 BWV533, 管弦楽, 1894, 破棄
  • フォーレ パヴァーヌ, 2台ピアノ, 破棄

(2024.5.23 後記) 本作品表作成にあたっては、Fabre, Michel. Henri Duparc 1848-1933 - Musicien de l'émotion, Atlantica / Séguier, 2001 に含まれる作品表を主たる典拠とし、出版社Salabertによるデュパルクのパンフレット等を適宜参照しました。但し、どれを主要作品の表に含めるかについては独自の判断に基づいていますし、一部情報について他の典拠の情報と矛盾が生じている場合があり、そうした場合については個別に判断をしています。

(2005.12.11公開,13,14,15,17,24,28,2006.1.3,6補筆修正,2007.1.12修正,2007.04.20プーシキン「ルサルカ」についての記述を訂正、参考文献を追加。4.21補筆修正。4.22作品表再公開。 5.6加筆, 5.18コメント追加, 5.19加筆および仏語原文追加, 6.19修正, 2024.5.16一部修正の上、再公開, 5.23後記を追記)