2025年9月6日土曜日

モーツァルト レクイエムK.626

 かつて何度か寄稿させて頂いた雑誌『詩と音楽のための「洪水」』の或る特集で、「自分にとっての一曲」ということで寄稿のお誘いを主宰者・編集者の池田康さんから受けたことがあった。どういう理由に拠るものか、恐らくは一曲を選ぶことに困難を感じ、更に「自分が愛する対象について語り損じる」ことへの懼れもあってか、結果としてそのお誘いにお応えすることはできずにその特集号は刊行された。間もなくして『洪水』誌は刊行を終え、結局私は「自分にとっての一曲」について語る機会を逸することになった、

 だが、その後幾つかの記事を書いて顧みて、「自分が愛する対象について語り損じる」ことについては依然(否、恐らく永久に)乗り越え難いにしても、一曲を選ぶことについて限ってしまえば、自分の音楽との関わりを振り返ってみた時に、客観的には自ずと選択されるであろう作品があることに気づいた。それは私が音楽の聴き始めたばかりの時期に、出会った瞬間に心惹かれ、繰り返し繰り返し飽きることなくのめり込んだ作品、モーツァルトのレクイエムK.626である。

 記憶によれば、確かエレーヌ・グリモーがまだ少女だった頃に、この作品を毎晩のように聴いていたと自伝に記していたのを、これはずっと後になってから目にして、彼女が色聴を持っていることと相俟って、彼女への親近感が増したことがあった。だが彼女のような天才でなくても、また他にもいわゆるアドレッセンス前後(私の場合には少し早く、アドレッセンスの手前で接して、アドレッセンスへの参入の同伴者だったのだが)の子供に対して影響を与えた例があるのか寡聞にして知らないが、この音楽の持つ凄まじい力は、私のような平凡な市井の人間に対してさえも、その後の生き方を方向づけるような決定なものであったことを思えば、どうして池田さんよりお声がけ頂いた時に、この曲を取り上げた一文を以て応答しなかったのか、今更後悔しても仕方ないとは言え、斬鬼の念に堪えない。池田康さんへの遅ればせの応答、果たせなかった応答の償いとして、書かれたかも知れない小文を、改めて草して以下に書き留めておきたい。

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 そもそも私が音楽を熱心に聴くようになったきっかけは、モーツァルトの交響曲第39番をとある演奏会で聴いたことだったが、そうした私が初めてのめりこんだ音楽はモーツァルトのレクイエムK.626だった。父がFM放送をエアチェックしながら録音した演奏者不明の演奏に接したのがその出会いである。その後何十年も経過し、父も没した後しばらくしてから、ふとしたきっかけで、それがフリッチャイがベルリンRIAS放送交響楽団を指揮して1951年に録音した演奏であることに気付いて、そのことがモーツァルトについての別の小文を草する契機の一つとなったことは、当の小文の中で触れている通りである。

 今思えば、偶然の為せる業によりモーツァルトのレクイエムに接したのが他ならぬフリッチャイの演奏を通してであったことの幸運を私は感じずにはいられない。私見では、技巧的には容易に見えるけれども十全に弾くことの極めて困難なモーツァルトの音楽に生命を与えるために欠かせないフレージングに関して誰にも増して卓越しているだけでなく、疑いなく確かなものと感じられる音楽に対する彼の誠実さに触れることによって、音楽に対する聴き手の共感を呼び起こさずにはいないフリッチャイのモーツァルトの作品の演奏の記録は、この曲に限らず、時代と録音技術の制約を超えた貴重な遺産であると確信しているが故に、自分が決定的な影響を受けたレクイエムの演奏が他ならぬ彼のものであったことに気づいた時には、あまりの僥倖に深く感動して、目に見えぬ摂理の如きものに感謝の念を覚えた程であった。

 聴き始めて程なくして未完成の作品で後半が補筆されていることを知るが、そんなことにはお構いなく、また、些か強調される嫌いのある、作曲依頼に纏わるあまりに有名なエピソードもまた、それを知ったところで自分の中に響きわたる音楽が変わることもなく、45分のテープの録音時間の制限でCommunioが始まってまもなく音楽が切れてしまっていたその録音を、それを聴くことこそが私を「形成した」といっても誇張でないほど繰り返し聴いた。12歳くらいのある時期には、なけなしの小遣いをはたいて買ったヴォーカルスコアを手に毎晩必ず聴いていたのである。

 勿論、Communioの残りの部分が気にならない筈がなく、間もなく当時住んでいた地方都市にあったレコード屋さんで、これまた自分のお小遣いで買ったカラヤンの一度目の録音(1961年の、ベルリン・フィルとウィーンの楽友協会の合唱団と、ベルリンのイエス・キリスト教会で収録したもの)のレコード(それが選択された理由は、偶々在庫されていた幾つかのレコードの中で、単にそれが廉価盤であり、子供にとって入手が容易だったという理由だったと記憶している)を、こちらも貧弱な再生装置で擦り切れるまで聴いた。

 もともとモノラルの録音である上に、ポータブルの貧弱なラジカセでFM放送のエアチェックをテープに録音したものに比べれば、こちらもまた恐らくはオーディオマニアからの侮蔑を、事によったら怒りすら買うであろうような粗末な再生装置での再生であったとしてもなお、ステレオ録音のLPレコードの持つ響きのイメージは強烈である。このカラヤンの録音は数多あるこの作品の録音の中では寧ろネガティブな評価が付き纏い、聞くところによればその響きを酷評されたことさえあったようだが、勿論音楽を聴き始めたばかりの子供であった当時の私がそのような消息を知る筈もなく、この演奏の録音の特徴といって良い、特に冒頭に顕著に感じ取れる独特の雰囲気に只々圧倒されていたように思うし、そうした世評を知り、それが効果たっぷりの「演出」であるという意見も知った上で、今なお聴き直す度に、出会って熱中した当時の私がそこに聴き取っていた他に替え難い「音調」を聴き取ることができる。端的な言い方をすれば、それは「幽霊」性を帯びていたし、今でもそれを私は感じ取ることができる。もっと重厚な、もっと真摯な、或いはその演奏が置かれた特異な状況故にもっと切迫し、深い思いを湛えた演奏もあれば、特にピリオド・アプローチが一般的になるにつれて、もっとスマートであったり、爽やかであったり、軽やかであったりする演奏があるのを知った上で、だが子供の私が覗き込んだ深淵、私がその中に進んで入って行こうとした闇の深さを感じさせる演奏は他にないようである。

 フリッチャイの演奏もそうだがカラヤンの演奏もまた、(その事実に当時の私が気付いていなかったにせよ)それが自分の生まれる前の世界に属していて、テクノロジーの支えによって時と場所を隔てて再生されることも相俟って、恐らくそれは三輪眞弘さんの指摘する「録楽」の或る種の効果であるのだろうが、まるで異界から響いてくるかのようなその響きは、12歳のアドレッセンスを迎えようとする子供を魅了するに十二分な力を備えていた。未完成の作品は、客観的な意味合いでも一般に、存在論的に言って完成された作品のようにこの世に確固とした拠り所を持たないが、それだけではなく、その来歴(様々なエピソードは措いても、結果としてモーツァルト自身を弔う音楽になり、モーツァルト自身がその自覚を持っていたという事実は残るだろう)もそうだし、何よりも結果としてその音楽の音調自体が幽霊性を帯びているように私には感じられる。カラヤンの演奏の録音について言えば、それが意識的に「演出」されたものであるならば極めて巧妙なものということになるのだろうが、もしそうだとしても、この音調が実現された事実は残るし、そこには後に生涯に3度もセッション録音を行うことになるカラヤンのこの作品に対する深い思いも反映しているであろうし、最初のセッション録音ならではの鬼気迫るばかりの表現意欲があるのも間違いないだろう。

 今ならそれが残響豊かな教会で大規模な合唱団がソット・ヴォ―チェで歌うのを録音したことによって生じたものである(更に言えば、そこには合唱を支える管弦楽との絶妙のバランスについての演奏上、録音上の技術的な処理が介在していることもまた間違いない)ことに気づかずにいることはできないけれども、それを知らない子供でさえ、例えばAgnus Deiのdona eis requiemの章句につけられた音楽の、繰り返される度に少しずつ異なる和声進行に心を奪われることはできたし、その陶酔と没入の度合いは、寧ろかつての方が勝っていたに違いない。録音を聴くだけでは飽き足らずに私は、ヴォーカルスコアを開き、ここの部分の声部進行をピアノで弾いて確かめることを何度となく繰り返して、その響きに聴き入ったのを記憶している。

 それがモーツァルトが書いた部分ではなくジュスマイヤーの補筆部分であることを知ったからといって、そこに見出すものが変わるものでもない。この作品が未完成であるが故に、更には補筆の拙さ故に作品全体の価値を留保し、特に補筆部分を否定する人も少なくないが、当時の私にとってそんなことは問題外だった。最初に聴いた「刷り込み」の効果もあるだろうが、他の補筆案のこの箇所のヴァリアントと比較してもなお、私にはジュスマイヤーのそれが最も魅力あるものに今なお感じられる。(勿論、ジュスマイヤーの補筆を凡庸と断じる人からすれば、その補筆の和声進行に惹き付けられることそのものが、私の音楽的素養の無さの証であり、他の補筆と比べての評価もまた然りということになるのかも知れず、もしそうであるならば、この点については異論を唱えるつもりもなく、恐らくそうに違いないと甘受する他ないのだが。)

 今、改めて聴き返してみるならば、Agnus Deiのdona eis requiemの進行についてはカラヤンの演奏の方が印象的なのに対し、その後のIntroitusの音楽の回帰の瞬間の強度についてはフリッチャイの演奏の方がより強烈だと感じられるが、以降の音楽の運びは甲乙つけがなく、今なお聴く度にそれぞれに圧倒される。だがそもそも当時の私は2つの録音の「聴き比べ」をして優劣を論じることなど思いつきもしなかったし、今でもそんなことをしたいとは思わない。今でこそ、レクイエムの別の補筆の試み(例えばアーノンクールが取り上げたバイヤー版や、ノーリントンが取り上げたドルース版等)を知らない訳ではないし、そうした別の補筆のリアリゼーションの中に、同様に心を揺さぶられるものがあることを否定しようとも思わないが、それでもここに書き留めようとしている12歳の私固有の文脈においては、そうした別の補筆版を知らなかったこともあるし、その時に私が偶々出会った2つの演奏がジュスマイヤー版だったという偶然によって、版の問題もまた実際上存在しようがなかったのである。

 そして何より、当時の私にとっても今の私にとっても、dona eis requiemが三度繰り返された後、sempiternamのブリッジを経て、あろうことか冒頭のIntroitusの音楽がその途中から回帰する、その瞬間に自分の心に流れ込むものはかけがえのないものなのだ。この回帰は、(モーツァルトがそのように指示したものであるかどうかに依らず)、或る種の現実的な便法が採用された結果であって、本来このような回帰が為されることはなかったであろうに違いない。してみれば未完成であるということが当時の私にとって意味していたのは、ジュスマイヤー版の「怪我の功名」とでも言うべきものだったと言えるだろう。結果としてCommunioでIntroitusの音楽が回帰することの意義は、だが一般に言われるように(確かヴォーカルスコアの別宮貞雄さんの解説も、ジュスマイヤーの補筆を凡庸と断じた上でそう述べていたと記憶するのだが)単にモーツァルト自身の音楽で作品が閉じられるというだけではない。もともと意図されたものではないにせよ、或いはそれ故に、その再現が持つことになる独特の効果が問題になるのだ。

 同じ旋律、同じ和声付けだが、二度目には一度目とは異なる音調を帯びる。現象学的時間論の枠組みで言えば、第二次想起には、その想起された感受の生々しさの記憶と、現在の感受の効果が重層を成しており、このような再現においてはまさに聞いている「同じ」音楽の感受が二重化されるが故に起きる変容なのだが、そのことに加えて、ここでは更に歌詞の違いが加わる。これはこの作品の補筆に固有の偶然だが、Introitus(Requiem)で歌詞に対してきめ細かく反応するように作曲された音楽は、それ故にCommunioにおいて再現される時には歌詞に対して全く違った関係におかれることになるのは避け難い。一般には辻褄合わせと見做され、批判されるのが常で、価値を限定する要因となるであろうそうした側面が、だがこの作品全体に、不思議なこれ一度きりの雰囲気を与えているように私には感じられるのである。

 結果としてその回帰の持つ力は圧倒的なものとなる。Introitusにおいてはその冒頭の深淵の暗闇から浮かび上がってくる音楽(requiem aeternam)が頂点を迎えた後、et lux perpetuaで切り替わった音調がluceat eisで静まっていって、この上ない慰安に満ちた音調に転じる箇所に、その後の数十分の音楽の経過を経て、Agnus Deiが終わった後で帰ってくる。Introitusでは詩篇65番に由来する言葉を歌うソプラノソロが、Commnioの冒頭の祈りの言葉を歌うことでCommnioが始まり、音楽としては冒頭の再現が途中から始まることになるのだ。Introitusではあれ程歌詞の変化に敏感に反応して音調と表情を変えた音楽が、ここでは歌詞の違いにより、微妙にアクセントを変えて再現される。そしてAgnus Deiに続けて歌われるCommnioの歌詞はIntroitusに比べてずっと慰安に満ちたものであり、同じ音楽が二度目に湛える表情は、回顧がもたらす情動も交わって懐かしさや追憶のような情調を纏うことになる。そこで聴き手は、「戻って来た」という感情に圧倒され、自分が今いる場所がどこなのかがわからないことによる軽い恐慌状態に陥いりながら、同じ音楽が異なった歌詞を歌っていくのを聴くことになる。もともと死者のためのミサのCommnioの固有文には途中でIntroitusと同じ章句が登場するが、そこでようやく音楽もまた冒頭と同じ部分が充てられて、元の鞘に収まったかのように、一時文字通りの再現となる。だがその後に続く掉尾のフーガは最初はKyrieであったのが、Cum Sanctis tuis in æternum,quia pius es.の繰り返しに充てられて曲末に至る。

 これは追憶の反復が備える時間性そのものの音楽化ではないかとさえ感じられる。これは例えばソナタ形式の再現部ではないけれども、知る限りここ以上に音楽が回帰することの圧倒的な力を感じさせる作品を思いつくのは難しい。私個人として、ここに匹敵するものとして思いつくのは、マーラーの第8交響曲第2部の終わり近く、かつてグレートヒェンと呼ばれた女がファウストの復活を歌う部分で、第1部再現部で省略されてしまった第2主題が回帰する部分くらいである。マーラーがその再現を決定的な瞬間として非常に強く意識していたことは楽譜に書き込まれた指示から明らかだし(特にここでマーラーが、再現する音楽を最初と全く同じように演奏するのではなく、最初とは異なって演奏するように指示していることに注意しよう)、再現する音楽をどのような歌詞に充てたかについてもマーラーが明確に意図をもって選択したことは明らかで、そのことによって再現というよりは予告されたものの実現のような未来完了的な構造が意図されていることが窺える。一方モーツァルトのレクイエムの場合には、そうした芸術上の意図はなく、それが状況が引き起こした偶然の産物であることを思えば、それがもたらす効果に対する驚きはいや増すことになる。「怪我の功名」であるモーツァルトのレイクエムの場合には、もしかしたら、再現部分における歌詞と音楽との不一致が、ないものねだりとはいえ本来は正当な批判を呼び起こす筈のところで、結果として別種の時間性を実現しているのだ。

 その差異が「戻って来た」けれども「最早同じではない」という感覚を増幅する。だがここではマーラーの場合と異なって、時間性は未来完了的な徴を帯びる事はない。寧ろそれは過ぎ去ってしまい、喪われてしまったことが最早取り返しがつかず、決して戻ることができないという不可逆性が引き起こす痛切さを帯びて、残された主体の受動性と無力とを顕わにするかのようだ。ここでは何かが成就することはなく、ただ喪失のみがあり、残されたのは慈悲への祈りと、聖者とともにあることへの願いだけである。それは自らもまた限界を意識した主体の、「いずれ私もまた」でなくて何だろうか。ここでは死者に対して祈る主体もまた「末期の眼差し」をもって世界を眺める他ないかのようだ。それはアドレッセンスの入り口に立つ子供が、自らがか抱えてしまった「踏み外し」「破調」という意味での「デカダンス」を認識し、或いはまた自らの「老い」にそうとは気づかずに触れた瞬間でもあったのかも知れない。

 それが偶然の産物であり、この音楽の「生まれ損ない」の結果であるとして、そんな事情は今の私にとってもどうでも良いことだが、そもそもかつての子供であった私にとっては、そうした意識さえなく、それこそが「モーツァルトのレクイエム」そのものだったのだ。Agnus Deiのdona eis requiemの和声進行がそうであったように、ここの部分もまた、かつての私が聴くだけでは足らずに、ヴォーカルスコアを開いてピアノで弾いて確かめることを繰り返した箇所である。特にソプラノ独唱を支えて弦が織りなす対位法的な線の美しさは筆舌に尽くし難く、それが最後に瞬く間に短調に転化し、冒頭ではExaudi / ad te、ここではLux aeterna / Cum Sanctisの箇所に繋がるモーツァルトらしい変化、更には後続の、引きつり、喘ぐような弦の音型に縁どられたRequiem aeternamの歌詞に充てられた短調のゼクエンツの和声進行の悲痛さもまた子供の私を魅惑して止まないもので、それを聴いている者が居たとしたら、寧ろ、その自同症的な反復に病的なものを見出し、非音楽的な騒音と見做して苛立ったかも知れない程、それを繰り返し繰り返し辿ったことを今尚、鮮明に記憶している。私はひととき言葉を喪い、まるで「過渡的対象(移行対象)」(但し、本来の精神分析学のそれよりは、ASDにおけるこだわりの対象としてのそれに近いもの)のようにその音楽に魅入られたのではないかと、今思い返してみて思うのである。

 当時の私がしていたこと、そしてこのモーツァルトのレクイエムを聴くときに私が今なおそこに立ち戻らざるを得ない聴取の在り方は、補筆の版の相違を含めた音楽の出来栄えや演奏を比較し、批評し、評価して優劣を論じることとは全く無縁なのであって、音楽を楽譜に記譜された音に限定し、それのみを自律したものとして受容し論じることが「音楽の聴取」であるとする立場からするならば、今もかつても、とりわけてもかつての私がしていたことはそもそも「音楽の聴取」と呼べるようなものではなかったのかも知れない。

 それは当時の私にとって、それなしでは生きていくことができない、かけがえのない「自分だけの空間」であり、リアルなどんな人間よりも自分をさらけ出すことができる、かけがえのない「友人」だったのだ。ヴォーカルスコアの別宮貞雄さんの解説には、様式的に見た場合のこの作品のモーツァルトの作品としての特殊性について論じた部分があったり、作品委嘱のエピソードは勿論、これまたモーツァルトの生涯に関するエピソードとして決まって言及される「死は友人である」という彼の言葉が引かれていたように記憶するのだが、性急で視界狭窄に陥っていることなどものともしない夜郎自大な子供であった当時の私にとっては、自分が受け止めたものが全てであり、より様式的に妥当な補筆の可能性など眼中になかった一方で、「死は友人である」という言葉については、こちらも、その思想的な背景(フリーメイソンの教義に基づく)等知る筈もなく、或いはまた第二バチカン公会議以前のカトリックの儀礼についての知識は勿論、レクイエムの章句が背後に持っている文化的な背景や世界観も知らずに、悪しきディレッタンティズムの常として、客観的には噴飯物であろう仕方で、自分が気分的に共感できる部分だけをつまみ食いして、ひどく独りよがりにその章句とモーツァルトの言葉を引き合わせるのが関の山だったのだが、そうすることによって子供ながらに自分を取り囲む世界との葛藤多く、自分の世界に閉じこもることで自分を支えるのに精一杯であった自分が生き延びるためのマントラのようなものとして接していたというのが実態であったように思われる。

 それ故客観的にはそれがどんなに的外れで独りよがりなものであったとしても、子供ながらの性急さでその音楽に向かっていたのには、全く個人的な文脈によるものとは言え、それなりの切実さがあったのだということが今の私が為し得る唯一の弁護だろうか。結果的に私はその後、セザール・フランクの音楽に沈潜することで「自己」を発見し、そこからシベリウスの交響曲を経て、マーラーの音楽に至ってようやく自分がそこで自由に動き回ることができる「世界」を見つけることができたように思う。それ故その後の私にとってもセザール・フランクの音楽は「危機」に際して立ち返る場所となったのだが、モーツァルトのレクイエムはと言えば、それに先立つ「他者の痕跡」、所謂「アイデンティティー」の確立の証人の如きものなのかも知れない。

 恐らくは人格が形成される時期というのがあって、そうした時期に聴いた音楽というのは他の時期に出逢った場合とは質的に異なった意味を持つことになることがあるのではと思うのだが、私の場合について言えば、他にも幾つかの作品はあるにしても、後にも先にもこれ一度きりといったのめりこみ方で最も深く関わったのは、モーツァルトのレクイエムK.626であった。

[参考録音]

これも偶然だが、以下に掲げる録音の収録年を確認すると、私自身の生前の演奏・録音であり、この文章が扱う、子供の私が偶然に接した最初の2つの演奏・録音が丁度10年の隔たりを持っていて、その後20年隔てて(その間に私は生まれ、そしてこの作品と出会い、アドレッセンスを迎えることになるのだが)、所謂ピリオド・スタイル(とはいえ、いずれもかなり灰汁の強い、個性的な演奏だが)による残りの2つが、こちらも10年の間隔を経て、私が成人する時期を跨いでおり、全体としては40年間の時間が経過していることに気付く。

  • 指揮:フェレンツ・フリッチャイ
  • 管弦楽:ベルリンRIAS交響楽団
  • 合唱:RIAS室内合唱団、聖ヘトヴィヒ大聖堂聖歌隊
  • ソプラノ:エリザベート・グリュンマー
  • アルト:ゲルトルート・ピッツィンガー
  • テノール:ヘルムート・クレプス
  • バス:ハンス・ホッター
  • 使用楽譜:ジュスマイヤー版
  • 1951年3月5日

  • 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
  • 管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • 合唱:ウィーン楽友協会合唱団
  • ソプラノ:ヴィルマ・リップ
  • アルト:ヒルデ・レッセル=マイダン
  • テノール:アントン・デルモータ
  • バス:ヴァルター・ベリー
  • 使用楽譜:ジュスマイヤー版
  • 1961年10月5-12日、ベルリン:イエス・キリスト教会

  • 指揮:ニコラウス・アーノンクール
  • 管弦楽:ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
  • 合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
  • ソプラノ:ラケル・ヤカール
  • アルト:オルトルン・ヴェンケル
  • テノール:クルト・エクヴィルツ
  • バス:ロベルト・ホル
  • 使用楽譜:バイヤー版
  • 1981年10・11月、ウィーン:ムジークフェラインザール

  • 指揮:ロジャー・ノーリントン
  • 管弦楽:ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ 
  • 合唱:ロンドン・シュッツ合唱団、シュッツ・コンソート
  • ソプラノ:ナンシー・アージェンタ
  • アルト:キャサリン・ロビン
  • テノール:ジョン・マーク・エインズリー
  • バス:アラスティア・マイルズ
  • 使用楽譜:ドルース版
  • 1991年4月

(2025.8.31/9.1 初稿執筆・公開, 9.6加筆)


2025年9月1日月曜日

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

  モーツァルトの音楽について何かを言うのは私には不可能事に思われる。だが、それが何故不可能に感じられるのかを書くことはできるだろう。

 モーツァルトの音楽の美は無償のもの、現実的な観点から言えば何のためのものでもないものであり、あらゆる目的論的図式による説明を拒絶するかに見える。ただしそれはその美が人間的な尺度から出発していながらも、あまりに普遍的で、人間的なものを超えた過剰を孕んでいるからなのだが。それは人間を超えた秩序に奉仕するものであったり、崇高さの表現であることを目的とし、そうした意図の下に創られたものではないのだが、まさにそのことによって逆説的に人間が自己を超越した領域に到達する可能性を証言しているかに見える。それは最も個別的で主観的なクオリアの領域から出発して、普遍的なものへと自己を滅し、喪っていく過程そのものであり、無限への飛躍のシミュレーションなのではないか。それゆえにその音楽は、200年後の、「人間」という概念そのものが変貌しつつある時期にあっても決して古びることなく、文化遺産として博物館に陳列されて鑑賞される骨董と化することなく、自己の岸辺に漂着したそれを受け取った人間が壜を開けるや否や、その心の中に棲みついて響きわたることによって想像上の風景を一変させ、その人間を変えてしまう力を喪うことがないのではないだろうか。それについて語ることが不可能に感じられるのは、それがまさに人間の可能性そのものだからなのではないか。

 他の多くの場合とは異なって、モーツァルトの場合には、私は作曲者に対する関心が沸かない。勿論、それなりの伝記的事実を知らないわけではないし、実は私がここで何かを言うことに困難を感じる「モーツァルトの音楽」として想定しているのは、彼がその短い生涯における早すぎる晩年に書いた幾つかの作品に限られるのであって、私はそれらの作品が理解できる聴衆がほとんどいない状況で、貧困と病苦の中で作曲されだことを知ってしまっている。だが残った音楽は、そうした状況の痕跡を全くとどめていない。奇跡的にも、その音楽はそうした状況にあって逆説的にこの世ならぬ輝きを帯びて、まるでそうした現実には無関心であるかの如く響く。私はここに作曲家個人の声を聴き取るよりも寧ろ、西欧音楽が産み出した最高の作曲職人が、苛酷な状況の中で世の中からほとんど身を退くことによって作り出すことができた、人間の限界を超えてしまった響きを見出すのである。

 だが、こうした印象は、モーツァルトの音楽にー勿論、全くの制限がないということはありえないにせよ、後述するような事情からーほぼタブラ・ラサに近いかたちで接して以来の聴経験にその根拠を持つもので、他の作曲家の場合とは異なって、モーツァルトについては詳細を極める伝記的な著作や、膨大な批評的著作というものを読む気がしない。一例として、些か極端な例を挙げるならば、日本では小林秀雄の文章が強く、広範な影響力を持ってきたし、今でも持ち続けているのかも知れないが、私は何度読んでも、反撥や違和を覚えること夥しいばかりで、共感するところはほとんどない。寧ろ或る時この文章に関する高橋悠治さんのコメントを聞き及んで強く共感した程なのであって、結局のところ冒頭記したように、モーツァルトの音楽について何かを言うのは不可能なのではないかという認識に傾くのである。一言付言するならば、これは小林秀雄のいうところの「沈黙」とは全く異なる位相にあるのであって、寧ろ小林秀雄の文章において「沈黙」を枕にした饒舌な語りが展開されているという状況があるかと思えば、モーツァルトの音楽そのものとの関わりが些かも明らかでない個人的な体験が語られてしまうーそこで読者が受け取るのは、せいぜいが書き手の経験なり「理解」なるものの在り様であって、結局、そこで語られているのはモーツァルトの音楽であるよりは作者自身に過ぎず、なおかつそこで拘っているかに見える作者の「理解」なるものがモーツァルトの音楽の側の何を語るのかは、それがひどく陳腐な紋切型でないとしたならば、結局のところ些かも明らかにならないーことに対する苛立ちが、そうした認識に大きく与かっていることを指摘しておきたい。とはいうものの、勿論、全てがそうであるということではなく、一例を挙げるならば、後でも触れるカール・バルトの小論には例外的に永らく接して来たし、近年では、この稿の初稿よりも後に書かれたものになるが、岡田暁生さんの『よみがえる天才 モーツァルト』(ちくまプリマー新書, 2020)は、伝記的事実の詳細を追うよりも寧ろ、モーツァルトの天才の在り様を、彼が生きた時代の社会的・文化的な状況を踏まえた上で、オペラを中心とした作品そのものから読み解こうとするもので、これまで目にしてきたモーツァルトを巡る著作の中で、最も違和感無く読むことができたものであり、21世紀の日本でのモーツァルトへのアプローチとして申し分ないものと考える。客観的にモーツァルトが第一義的には空前絶後にして唯一無二のオペラの創作者であることに異論なく、岡田さんの著作を一読して寧ろ、私のこの文章が扱う対象がモーツァルトの人と作品の総体から見た時に如何に限定されたものであるか、のみならず偏ったものであるかを認識させられた点でも私にとって貴重な著作である。

 また私はモーツァルトの同時代の音楽一般に関心があるわけでもない。否、そういう観点からすれば、200年以上前の異郷はあまりに遠く、それ以降の、自分にとってもっとずっと接近しやすく感じられる音楽に比べて、寧ろ自分にとっては理解し難く、無媒介に接することが困難なジャンルであると言って良い。同様にして、モーツァルトという作曲家の作品の総体というのに関心があるわけではなく、私は明らかにモーツァルティアンではない。モーツァルトはロマン派的な天才像、霊感の赴くままに自己の個性の刻印がされた作品を産み出す英雄からは程遠く、寧ろ音楽的能力におけるサヴァン、特定の能力に関する標準からの著しい逸脱としての天才なのであるけれど、彼の遺した音楽のうち、晩年に書かれた幾つかの作品は、それだけでは説明のつかない或る種のスティグマを帯びているように思われる。それは一回性の現象であり、偶然の、偏奇の産物であって、文化的・歴史的な因果に還元する説明を拒むところがある。

 外延的に定義することはずっと容易だから、そちらから先にしてしまえば、私にとっての「モーツァルトの音楽」というのは、レクイエムK.626、アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618、クラリネット協奏曲K.622、ピアノ協奏曲第27番K.595、交響曲第39番K.543、第38番K.504といった作品と、その周辺に、ピアノ協奏曲第20番K.466、第21番K.467、第23番K.488、第24番K.491、弦楽四重奏曲K.465「不協和音」、クラリネット五重奏曲K.581、交響曲第41番K.551、第40番K.550、アダージョK.540を加えた15作品に限定される。

 勿論この選択は、私の個人的な文脈に由来する恣意的なものであって、何ら客観的な分類によって抽出され限定されたものではない。上記の作品は客観的に見ても非の打ち所のない、いわゆる傑作・名作ばかりだとは思うが、かといって上記以外に傑作がないと考えているわけでもないし、上記の作品しか知らないという訳ではない。上記の一連の作品は特に幼少時に繰り返し繰り返し聴き、その結果として隅々まで記憶している作品であることは確かであって、或いは追加されても不思議はないその周辺の幾つかの作品は、 そうした基準に照らしたとき、上記のグループには含まれないのだ。上記に含めても些かも支障なかったけれども、単にそれを知るのが遅かったという偶然により恣意的にグループから除外された作品として、例えばピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503、歌劇「魔笛」K.620、或いはフリーメイソンのための葬送音楽ハ短調K.477、グラスハーモニカのためのアダージョハ長調K.356(K6=617a)、アダージョとロンドハ短調KV617を挙げることができる。実際問題として、現時点においては聴く頻度としてもグループに含まれる作品群と全く変わることがないし、その価値においても全く遜色ないと考える。

 だが例えば、ピアノ協奏曲第17番K.453や第18番K.456といった作品についてどうかということになれば、これは上記のグループには含まれない。とりわけても上記の一連の作品群の開始である弦楽四重奏曲「不協和音」K.465を分水嶺であるとした時ーそしてそれは単なる偶然ではなく、幾つかの点で、実質的にも転回点であるように思うのだがー、とりわけてもK.453の協奏曲はその手前にあって、まさにそれが手前にあるということによって、奇跡的な例外となっているように感じるし、メシアンがこの作品を、特に第2楽章を最大限に評価したのは全くもって正当であるように思われる。(ちなみに第2楽章のメシアンの評価については、後述する共感覚=色聴とという観点から、この楽章が際立って色彩の変化に富んでいることから、納得できるものがある。)だが、にも関わらず、それと分水嶺を手前に移動させること、例えばハイドン・セットの最初まで移動させるーこれは伝記的事実に照らしても一定の妥当性があるだろうーことになるかと言えば、そうはならないのだ。喩えて言えば、第17番の協奏曲はモーツァルトが頂上に登り詰めるほんの少し手前の上向きのベクトルを孕んでいて、私が「晩年」という言い方で些か強引に(というのも、それは伝記的な意味合いでは正当化できないだろうから)特徴づけた徴候、後述する「デカダンス」、或る種の破れの兆候が見られないという点で区別されるように思えるのだ。そしてK.453が奇跡的だというのは、これがまさに分水嶺の手前の、これ一度きりの輝きに満たされているという点に存しているのであって、だから寧ろこちらこそが頂点に相応しいという見方があってもそれに異を唱えるつもりはない。かてて加えて、更に、出会いが遅かったという事実が加わることによって、受容する場のベクトル性が加わることになる。私の側の生体の中で流れる時間の重層の中に含まれる「デカダンス」が、もし同様に幼少期に出会っていたのなら向いていたかも知れないベクトルに更に偏向をもたらすことになり、結果として私の「モーツァルトの音楽」からは除外されるというメカニズムが存在するようなのだ。だから上記の分水嶺というのは、モーツァルトの側に客観的に存在するものいうよりは、あくまでもベクトルの合成の結果として生じるものだと言うのが正しいのかも知れない。

 そういう訳で選択された作品は明らかに彼の晩年に集中しているが、かといって晩年の作品なら何でもというわけでもない。ジャンルの偏りも明らかで、室内楽や器楽曲はほとんどなく、歌劇は全く抜けている。そもそも私はモーツァルトの作品の全てを知っているわけではないから当然なのだが、勿論、知ってはいても含めていない作品もある。歌劇について言えば、それに接することは極東の異郷の地方都市に住む子供にとってはほぼ不可能事であったが、ことモーツァルトに限れば、遅ればせながらDVDのような媒体を通じて「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「女はみんなこうしたもの」「皇帝ティトの慈悲」「魔笛」には接していて、その経験を踏まえた上で、モーツァルトが第一義的にオペラの作曲家であることを認めるに吝かではないのは既に述べた通りであるし、器楽偏重ということでは一見共通してはいても、オペラに接するに目を瞑ってするだろうというような小林秀雄の発言に与するつもりは全くない。だがそれは上記の「モーツァルトの音楽」のリストの成立とは関係なく、実際にはこのリストは私という情報が集積する場においてはほとんど数十年も前に確定してしまっているようであって、今後変わることは恐らくないであろう。その選択は言ってみれば、その来歴も含め、私自身の一部に他ならないのである。

 確定してしまっているようだ、という書き方をするのは、それが私の自発的な選択によるものであるよりも、寧ろそのように私の脳の中に抽象的な音楽作品からなる空間が形成されたという方が、より事態の的確な記述になっていると思うからだ。その選択は偶然の産物であり、何が含まれて、何が含まれないについて、権利上の問題を持ち出されても何とも抗弁のしようがないのだ。それらは200年後の極東に済む1人の平凡な人間に複製されたミームたちの複合体、コロニーの一つなのである。文化的生態系の形成過程には幾つもの偶然的要因が介在するのは当然のことだろう。それは(ミーム自体が)それ自体でアプリオリに何か価値のあるものではない。その経緯を書けば、以下のようなことになるだろうか。

1.モーツァルトの交響曲第39番は私が演奏会で聴いたほぼ最初の音楽作品であったが、その経験こそ、私が音楽を熱心に聴くようになったきっかけなのである。生の演奏を聴いたあとで、家で父のコレクションに含まれる演奏者不明の録音があることを知って、それを繰り返し聴いた。

 その次にはレクイエムK.626、未完成の作品で後半が補筆されていることも知ってはいたがお構いなく、その些か強調される嫌いのある依頼に纏わるエピソードも知ったところで自分の中に響きわたる音楽が変わることもなく、これもまた父が録音していた演奏者不明(ただし、先日ふとしたきっかけで、フリッチャイがベルリンRIAS放送交響楽団を指揮して1951年に録音した演奏であるらしいことに気付いた、そしてそのことがこの文章を書く契機の一つとなった)で、かつ45分のテープの録音時間の制限でコンムニオが始まってまもなく音楽が切れてしまっている録音があって、それを聴くことこそが私を「形成した」といっても誇張でないほど繰り返し聴いた。勿論、コンムニオの残りの部分が気にならない筈がなく、間もなく当時住んでいた地方都市のレコード屋さんで、自分のお小遣いで買ったが故に廉価版になっていたカラヤンの一度目の録音のレコードを選んで買ってきて、こちらも貧弱な再生装置で擦り切れるまで聴いた。12歳くらいのある時期には、私は、更になけなしの小遣いをはたいて買ったヴォーカルスコアを手に、毎晩必ず聴いていたのだ。恐らくは人格が形成される時期というのがあって、そうした時期に聴いた音楽というのは他の時期に出逢った場合とは質的に異なった意味を持つことになることがあるのではと思うのだが、私の場合について言えば、他にも幾つかの作品はあるにしても、後にも先にもこれ一度きりといったのめりこみ方で最も深く関わったのは、モーツァルトのレクイエムK.626であった。

 その後もモーツァルトは(決して頻度は高くないが)ピアノ協奏曲や交響曲の実演に何度か接していて、三輪眞弘さんの言う、いわゆる「録楽」のみによる聴取に限定されているわけでもない。とはいえ私にとってのモーツァルトの音楽は、第一義的には演奏会場で演奏されるそれではなく、自宅で一人で聴くそれであるのは間違いないようだ。

 勿論それは演奏者の身体を介して私の身体に届くのだし、私はそのことを意識していないわけではなく、媒体を透明にし、音響に無媒介に接しているという意識を、ことモーツァルトの音楽については持つことができないのだが、人間を介しつつ、人間の身体を経由して生じる音楽が開示する風景は、にも関わらず、どこかでそうした公共的な演奏の場、集団的な聴取の場と断絶しているように思えてならない。

 私見によれば、その点において「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(これが、人間となって地上で受難に遭った子イエス・キリストの「まことのお身体」であることに留意されたい)に代表されるモーツァルトの音楽は、「フーガの技法」に代表されるようなJ.S.バッハの音楽の場合と明確に異なる。バッハの音楽がどこで人間とは別の秩序に拠ったリズムと息遣いを持っていて、人間を人間から超越した非人間的な秩序に従属させることを可能にするように感じられるのに対して、モーツァルトの音楽は、人間の息遣い、身体的な反応、情動と感情の移ろいに深く結びついていて、その和声とアーティキュレーションと音色の微細に目まぐるしく移ろう変化の悉くが、私の身体を楽器のように共鳴させ、そのまま心の絶えざる動きを惹き起こすのであって、キネティックで、生理的な身体性を介して、人間の心の秘められた次元を開示するように感じられる。結果としてバッハの音楽はそれがアリアであったとしても、機械仕掛けでありうるのだが、モーツァルトの音楽は、それが器楽曲であったとしても、機械仕掛けの再現というのはモーツァルトの音楽のもっとも繊細で微妙な領域を掬い取れないのではないかと感じられてしまうのである。(否、実は人間ですら、モーツァルトの音楽を「正しく」演奏することがどんなに難しいことであるかは、多くの名演奏者が語っていることでもあり、幾つかの演奏を聴き比べてみればわかることであり、更には自分で演奏してみればわかることでもある。)

 その音楽は寧ろ無意識の次元からおのずと湧き上がってくるようにさえ感じられるのであって、それは演奏会場のような公共の場でも、凡そ共有するということが考えられないほどに、自分の内部の深奥の次元へと降りていくタイプの音楽なのである。演奏者もそうだが、もしかしたら作曲者もまた、或る種の媒体に過ぎず、更に言えば聴いている私もまた私が聴いているのではなく、私が聴くことを通して音楽が現実に場を持つことで何かが開示されることが寧ろ重要であるかのような感覚すら覚える程である。そこでは音楽こそが主体であって、人は音が伝わり、通り抜ける通路のような、いわば作り手も奏者も聴き手もひっくるめて、楽器に過ぎないような印象がある。

2.モーツァルトの作品は技術的な難易度からいえばさほど高度な技巧が必要なものではないから、自分の楽しみのためにピアノで弾くことも多く、レクイエムなどもヴォーカル・スコアを入手して、繰り返し自分で弾いて確かめてその音楽を定着させていった側面があり、幾つかのディヴェルティメントでの弦楽合奏のアンサンブルの経験、リハーサルでの指揮の経験もあって、いわゆる身体性という点でも他の作曲家に比べて特殊な位置づけにあるし、和声の進行を取り出して確かめるといったことについてもやはり特殊な位置を占めている。

3.モーツァルトの作品はバロック以来の調性格論の枠組みが有効であり、短調であれば二短調(レクイエムと20番のピアノ協奏曲)、ハ短調(24番のピアノ協奏曲)、ロ短調(アダージョK.540)、ト短調(交響曲第40番)、長調の方も変ホ長調(第39番の交響曲)、変ロ長調(27番のピアノ協奏曲)、ハ長調(41番の交響曲と21番のピアノ協奏曲、「不協和音」)、ニ長調(38番の交響曲とアヴェ・ヴェルム・コルプス)、イ長調(クラリネット協奏曲とクラリネット五重奏曲、23番のピアノ協奏曲)とそれぞれ固有の性格を備えているのを明確に感じ取ることができる。主調から属調、あるいは平行調への色合いや光の加減、温度の変化もモーツァルトにおいては非常に鮮明である。

4.絶対音感や共感覚(この場合にはいわゆる「色聴」)というのはある程度は先天的な基盤があって後成的に形成されていくものではないかと思うが、私の場合には、39番の交響曲の変ホ調(眩い金色)と変二長調(トパーズのような暖色系の光の充溢)、レクイエムの二短調(非常に暗い紫がかった赤)、アダージョのロ短調(黒に近い紫)、23番のピアノ協奏曲のイ長調(明るい青)と嬰へ短調(暗い青)、41番の交響曲のハ長調(まばゆい白)とヘ長調(柔らかい乳白色)、27番のピアノ協奏曲の変ロ長調(柔らかで透明な象牙色)、38番の交響曲のニ長調(青緑)とト長調(緑)、24番のピアノ協奏曲のハ短調(鈍い灰色がかった暗赤色)、40番の交響曲のト短調(暗い灰褐色、だが第2楽章の変ロ長調の光のコントラストの印象の方が鮮明である)というように色彩と調性との対応はモーツァルトの作品において、他の作曲家の作品にも増して最も明確なのである。だがそうした色聴自体がまさにモーツァルトの作品の持つ性格によって条件付けされ、あるいはそれを繰り返し聴く事で強化されたものであることは疑いないように思える。なお、私の受容がいわゆるピリオドスタイルの歴史的アプローチの演奏が一般になる以前に始まっていることもあって、私の音感は特に色聴についてはモダン・ピッチで形成されていて、バロック・ピッチでは色彩を感じることが困難である。

5.三輪眞弘さんの言う、いわゆる「録楽」(媒体に録音され再生されて享受される音楽)としてのみならず、楽譜でも実演でも、自分で鳴らすという形態でもモーツァルトの音楽に接しているにも関わらず、あるいはこの場合にはそうした多様な媒体による接し方がそのような傾向にあるいは寄与しているのも知れないが、私にとってのモーツァルトの音楽は、ある意味では非常にイデアルな存在である。典礼のため教会で、あるいは演奏会場で特定の目的のための演奏される機会音楽として使用されることを否定するものではないが、こと上掲の作品群に関して言えば、例えば数学的なオブジェクトのように具体的な媒体とは独立の存在に感じられる。とはいえそれは特定の楽器の音色を備えていて、人間的な感情表現と密接に結びつくものであって、非人間的で超越的な秩序の啓示(例えば神の摂理の如きもの)であるわけではない。否、例えば交響曲や協奏曲の緩徐楽章を聴いたとき私が感じ取ることのできる風景に備わる具体性は生理的な生々しさを備えていて、色彩は勿論、光の加減、温度の変化や湿度、更には風のそよぎまで喚起させられるほどなのだが、それでいてその風景は、私が現実に見たものではないし、恐らくモーツァルトその人が見たそれでもないという点で、徹底的にヴァーチャルな、想像上の風景なのである。

 そうしたモーツァルトの音楽の中でもとりわけピアノ協奏曲第27番K.595、クラリネット協奏曲K.622はその音楽の持つ独特の質によって、まだ音楽を熱心に聴き始めて間もない小学生高学年くらいの私の心に確固たる位置を占めることになる。そしてその位置は人生の半ばを過ぎ、既に当時、予感するというよりは、既に子供なりの仕方で耐え忍んでいた世の成り行きに今や徹底的に翻弄され、しばしば一日一日を気息奄々、やっとの思いで乗り切り、時折はふと気を緩めてもいい筈の瞬間にすら、息を抜く仕方を忘れてしまって、緊張を解くことがなかなかできずにいるような毎日を過している現在においても全く変わることがない。それはますます絶え間なくなっている現実の侵食の中にあってしばしばその存在を見喪いがちになりこそすれ、ふとした折に自分の内側に降りていけば、そうした現実の侵食の影響を受けることなく、手付かずのままで存在している。

 それではそれは私が過去に生きた生を回想するためのマドレーヌケーキの如きものなのかと言えば、はっきりとそうでないと断言できる。例えばピアノ協奏曲第27番K.595について言えば、私が嘗てその音楽と出逢ったのは、これもまた父のコレクションに含まれていた、エミール・ギレリスがピアノを弾き、ベームが指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏した録音を聴く事によってだったが、その後聴いたルドルフ・ゼルキンのピアノとアバド指揮・ロンドン交響楽団の演奏の録音や、現時点でのリファレンスとなっているハスキルがフリッチャイ指揮のバイエルン国立管弦楽団をバックにピアノを弾いた古い演奏の録音を聴くことによっても、私は同じ風景に出会うことができる。そしてそれは私の過去の生に結びついたものではなく、寧ろ私の現実の生とは独立に存在している別の世界の風景であり、風景というものが同じ風景であっても日々異なって同一でありえないように、上に掲げたような素晴らしい演奏のそれぞれは、同じ風景の少しずつ異なった相を見せてくれているように感じられるのである。

 現実とのコントラストが強まるにつれ、その空間の持つ純度と光は眩いばかりのものとなり、私を圧倒するようにはなっているけれども。ふとした折に上記の作品を聴く(それは録楽であったとしても自分を物理的に揺すぶる身体的な働きかけのプロセスが必ず伴わなくてはならないのだが)とき、しばしばそのあまりの美しさに対して涙をこらえることができない。そしてこんなに現実に追い詰められてなお、まだ自分がそれほどまでに美しい風景を見ることを禁じられていないことに対して深い慰めを感じずにはいられない。そしてその通路を250年前の異郷の地で、やはり現実に追い詰められた極限においてなお、あるいはそうした状況であったからこそ啓く事ができた人間の創造力の偉大さに圧倒されずにはいられない。ヘルダーリンがその讃歌の頂点である「パトモス島」の冒頭において破格の自由律によって歌った、「危険のあるところにこそ救いの力が育つ」という言葉が、ほぼ同時代に、まさに同時性の相対論的な定義に従って全く独立に、別の場所で、別の仕方でも達成されていたことに対してもまた圧倒されずにはいられない。

 それは或る種の「末期の眼」とでも言うべきものなのではないか、と幼い私は感じたように記憶している。或る種のデタッチメントによって、現象から身を引き離すことによって、初めて世界はそのような相貌を人間に顕すのであろうと。それは(仮にもう一度眺めることが出来たとしても、その都度)常に最後の春の風景、いずれ自分がそこから消え去った後も存続し、循環することによって「永遠」である風景であり、自分がそこには属することのできない、だけれどもそれゆえに客体的不滅性を備えたヴァーチャルな場なのだ。それは現実からみれば存在せず、寧ろ端的に無い、どこでもない場所(だが、ユートピアというのは語源的にまさにそうした非場所のことに他ならない)なのだ。勿論、個別の時空にその生の領域を限定されている私は自分の経験を頼りに、そうした場所を想像するほかないのだが、それは決して経験されるものではなく、だからモーツァルトが作品を書いた時代と場所とをいくら調べても決して見つけることはできない、創造行為によって産み出され、聴き手の想像によって初めてこの世に像を結ぶ場所なのだ。聴き手が縛られる環境の個別性を恐らくは超えて、それは時空を超えた何か、自分より優りたる何かのヴィジョンなのだという感覚は、今も昔も変わることなく、寧ろ現実との葛藤がもたらす疲労と渇きとが激しくなって自分を圧倒しそうになればなるほど、そうした思いは確信に近いものになっていくことを感じる。

 そうしたヴァーチャリティに類例がないかどうかを探ってみると、全く同じではないにせよ、幾つかの点で非常に近いものを感じる例が、ほぼ同時代(実際には少し後、1800年という句切りを超えてからになるが)にあることに気付かされる。それはヘルダーリンが長い後半生に遺した最後期の詩篇群、その一部に彼が架空の日付とスカルダネリという仮名で署名した詩篇群である。それらはヘルダーリンの後期讃歌群のような自由律から離れ、再び韻律を厳密に守るようになっていて概ね一連からなる短いものだ。その多くは題名として、季節の名を冠するか、あるいは「眺望」といった題名を持つか、端的に宛名だけのものもある。詠まれるのはその題名の通り専ら風景であって、そこには人の影は薄い。詩人の「私」も大きく後退し、ほとんど詩節の表層に現れることはなく、非人称的な風景が描写されていく。その風景は勿論、彼の身近にあるありふれた風景に由来するのだろうが、詩に読み込まれた途端、一人の人間の尺度を超えた四季の循環や昼夜の交替といった秩序が優位にたち、そこから見下ろすように人間の営みが言及される。

 ヘルダーリンが晩年の薄明と寂静の中で記した詩篇をよりによってモーツァルトの音楽に比するのはあまりに突飛と受け止められるかも知れない。かつてモーツァルトを愛する友人の一人に対して、私自身に聴こえているがままに、モーツァルトの音楽に感じ取れる或る種の破調、カダンスの乱れという意味合いでの「デカダンス」について語ったことがあるが、「デカダンス」ということばの持つ文化的コノテーションに妨げられてか、強い違和感をもって拒絶されたことがあったのを思い出す。確かにそれは文化史等の文脈でのデカダンス、典型的には19世紀末の或る種の芸術の傾向とは全く異なるものであるし、それ自体の質について言えばそれは寧ろ、岡田暁生さんの「晴れた日のメランコリー」「晴れた青空の諦観」といった形容こそ正鵠を射ているように思うけれど、それでもなお、私がモーツァルトの音楽とヘルダーリンの詩篇に見出すのは、意図してか意図せずしてかはともかく、啓蒙の時代を自ら切り開きつつ、時代の様式を遥かに超えて、最早時代の嗜好とは無縁の地点に、もしかしたら過って抜け出して、留まることなく「踏み外し」てしまったかも知れない、時代の中に場所を持たない芸術作品なのである。そしてその音楽も詩篇も、いずれも時代の嗜好に合致するには余りに人間的な感情から超然としてしまっていて、その出自である多感様式や雄弁な饒舌さから完全に逸脱し、聴き手を快くさせるためには余りに多くの陰影と断絶と破格を孕みすぎている。その振幅は人間の感情のそれでは最早無く、寧ろかつては神話的な、あるいは宗教的な形象を借りて語られるような人間の尺度を超えた出来事に近く、寧ろ自然現象の変化に似て、聴き手は辛うじて自分の卑小な心の揺らぎをそれに同調させることができるばかりであるかのようだ。

 そんなことを言えば、勿論、モーツァルトの音楽が西欧の文化的な伝統に如何に根ざしているかを強調し、そしてそれを普遍的なものと考えることが西欧中心的な偏向に基づくものであるとの反論に遭うことになるのだろうが、200年後の異なる文化的伝統に属する極東の島国に生きる人間の脳の中に棲み付いたミームにいわば寄生された宿主である私は、そうした賢しらな、恐らくは良心的であり、客観的に見れば「正しく」すらある意見に対して、抗弁することなく沈黙はしても決して同意することはないだろう。そもそも西欧のある時代の産物である古典派音楽が「普遍的」かどうかなどどうでもいいことだし、実際、それ自体はそれがある文化を持つ社会のある時代に位置づけられる存在として定義されている以上、その定義自体によって決して「普遍的」である筈はない。せいぜいが、その当時のヨーロッパの内部における様々な地方の様式の統合の上に成り立った「国際様式」であるとは言えても、それはここでいう「普遍性」とは何の関わりもない。モーツァルトの音楽が「普遍的」であるとしたら、その理由はそうした定義を超えた部分にこそ存するのだし、だからこそ200年後の極東の子供を強く揺さぶり、毎日のようにその音楽を聴かせることが可能になるのだ。勿論せいせいそれは、音楽としてリアライズされる限りにおいては、同じ可聴域を備えた地球上の他の種にその範囲を拡げるくらいが限界だろうが、モーツァルトの音楽の抽象的な構造は、そうした媒体の制限すら超えたリーチを備えているかも知れない。強い人間原理を前提としなくても他の知的生命体にとっても何らかの価値を持つことに可能性について、否定しさることはできないだろう。

 勿論、この音楽がフランス革命の時代に書かれたもので、超越的な存在への奉納のための音楽から王侯や貴族のための娯楽としての役割を経て、ブルジョワジーに対して公共の場・私的な場の両面での娯楽や気晴らしを与えるものになり、聴きやすく快く、感情に訴える様式へと変遷していく時期にあたるという事実はモーツァルトの音楽の様式を規定するものではあるだろう。だが晩年のモーツァルトは既に同時代の趣味から逸脱しつつあり、私にとっての「モーツァルトの音楽」は、既にそれが産み出されたときには当時の聴き手の理解を超えるものであったこともまた無視してはなるまい。さりとてそれは、しばしば見られるような単に時代に先駆けた作品であったというわけでもない。例えばオペラに関してオペラの改革者グルックと比較したとき、或いは交響曲や弦楽四重奏曲といった器楽に関して絶えざる実験精神によって新しい様式を自ら作り出していったという点で前衛芸術家と見做しうるヨゼフ・ハイドンと比較したとき、モーツァルトが自分の学んだ様々な様式を自在に使いこなすことはできても、それらを更新するような新規な実験を試みるということはなく、寧ろ保守的であった。その一方で、フレーズの組み立ての自在さであったり、一瞬のうちに明暗が交替する和声進行の自在さであったり、不意打ちも厭わない鮮烈なコントラストへの嗜好といった点では全く独創的であり、見方によっては後のロマン派を予告するような側面を備えていたという見方をする人がいても不思議はない。だが、にも関わらず、このような音楽はその後も決して産まれることはなかった。まるでモーツァルトが社会的に孤立して場所を喪ったその地点で書かれたことを裏付けるかのように、その音楽は一方で作曲者の個人的な境遇や心境を語るようなところはほとんどなく、ロマン派の音楽の持つ親密さとは無縁であり、他方で聴き手をうっとりさせたり、感興を誘ったりすることにもまるで関心がないかのように、より上位の法則(それは過去の時代には神話における神々の振る舞いとして物語られたであろうものに相当する)の優位を物語るかのように超然としている。人間のために用意されたはずの様式が、人間を超えたものの息吹を伝えるための媒介になってしまっているのだ。それはもともとが人間を超えた秩序に従うハルモニア・ムンディであるところのバロック期以前の音楽とは異なって、人間のためのもの、人間的なものを媒介にしたものでありながら、同時に人間的なものが超え出て行く彼方を指し示しているかのようだ。それはいわゆるクラング・レーデの伝統に由来するものであるのだろうが、その音の身振りは、最早人形芝居の機械仕掛けでもなく、だが人間の身体ですらなく、人間のようでいて、人間を超えた来るべき何者かのそれであるかのようだ。それは歴史的・文化的な水準のものではなく、人間という知性を備え、意識を持つようになった生物の構造に根差す、より根元的な水準のもののように私には思われる。それが啓蒙の時代である古典期の音楽の一つに起きたというのは確かに理由のないことではないだろうが、そうした「踏み外し」がモーツァルトの音楽においてまるで突然変異のように発現してしまっているその様相の特異性は、決してその周辺では見られない例外的な事象であるには違いないだろう。

 従って寧ろ私がそこに見出すのは、文化的伝統や歴史的文脈といったものを遥かに超えて、ヴァーチャルな場を開示してみせる音楽作品の規格外の力であり、その音楽が描き出す風景の奇跡といって良い清澄さである。幼い日にそれを一旦見てしまった以上、最早それをなかったことにするわけにはいかない。「世の成り行き」の中で翻弄され、担いきれない程の重みに呻きつつ日々をやり過ごす中で、そうしたヴァーチャルな場の存在を知っていること、音楽を通してそこに辿り着くことができることを知っていること、自分がそうした稀有な存在を複製し、伝達していく媒体であること(そう、そのように「選ばれた」という言い方さえしてみたい気持ちになる)がどんなに大きな慰めであることか。それは無限への通路であり、個人的な嗜好を超えた「客観的な美」への漸近であり、能力の限られた、寿命が尽きれば流砂の中に埋もれて忘れ去られていくばかりのちっぽけな人間が、ほんの微細な一握りの部分に過ぎないとしても、そうした途方もないものをそれでもなお担いうるし、実際に担っているということの証でなくてなんであろう。量子コンピュータの発案者であるデイヴィッド・ドイチュが『無限の始まり』で述べている創造性や美や価値の客観性についての議論を読んでいて私がその例証として思い浮かべたのが、他ならぬ自分にとっての「モーツァルトの音楽」であった。それこそは啓蒙の申し子としての音楽史上の特異点であり、文化的進化における最も強力なミームであり、趣味判断としての主観的な美から普遍性な美への飛躍の試みの最高の達成ではなかろうか。多くの人がモーツァルトの音楽、それも彼の晩年の作品から限りない慰めを得ることができるのは、それが人間の心情に直接訴えるものでありながら、人間の持っている可能性の最高の例証であり、まさに「無限の始まり」を告げる存在だからではなかろうか。その音楽が開示する風景を見たものは、普遍的なものへと通じるヴァーチャルな次元が人間にとっては開かれていることを知り、そうした次元に対する畏怖と謙虚な姿勢とともに自分もまたそれに与ることへのいざないを感じ、如何に自分の能力が限られており、自分の生の展望が限定され、可能性が限られているように見えたとしても、その中で最善を尽くそうとする勇気を得るのではなかろうか。

 自分が生業としているモデルを創り、実際に(ヴァーチャルな仕方であれ)システムを組み立てて動かす営みの中で時折垣間見ることのできる風景とそれはどこかで通じているのだし、時間に追われ、様々な現実的な制約に囲まれて自分が創り出すものがどんなに不完全なものであったとしても、そうすることによって、モーツァルトの音楽によって開示される空間に通じていることは、自分のしたことが評価されることなく、非難にさらされ、あるいは嘲笑されても、自分がそのためにしたことが誤解され、あるいは半ば意図的に曲解されて誣告の材料とされ、誹謗されようとも、自分が垣間見ることのできるある抽象的な領域の価値をなおも信じることができるという点においてかけがえのない支えなのだ。そうした空間は、決して私の主観的な妄想の産物ではない。数理の世界の美も、モーツァルトの音楽の美と同様に、ヴァーチャルではあるけれど客観的に存在し、そこで私は、私よりも遥かに優れて、その世界を自在に動き回り、その美しさを示してくれる人たちに会うこともできるのだ。そしてそうした世界に一度は足を踏み入れ、すぐに息切れがしてしまうから遠くまでは辿り着けなくても、その風景に与ることができたことは、そうした風景の背後で、あたかもそんな風景などありはしないかのように進んでいく容赦ない現実の成り行きを耐え忍ぶための大きな慰めとなる。勿論、それは私の慰めのためにあるのではないけれど、そうした目的性や道具的な存在の様態とは無縁であることこそが、それ自体、ここでは大きな慰めになるのだ。

 否、たとえ自分の営みが全く無価値なものであったとしても、私は自分がモーツァルトの音楽に見たものを、私の寿命とともに墓の中にもって行きたくはないのだ。それは私を遥かに超えた価値を備えたものであり、そうした世界がヴァーチャルな様相であれ存在することは証言しなくてはならない。「何もお前のような人間がやらなくても、他のもっとそうするに相応しい能力を持ち、資格も立場も備えた人間がやるからお前がやることなどない。」という声が聞こえてこないわけではない。だが、その声の主は一体何を見たというのか?勿論、その声の言うことは正しく、そうするに相応しい能力を持ち、資格も立場も備えた人間は恐らく別のところにいて、私の投壜通信がどこの岸にも辿り着くことなく朽ち、誰にも届くことなく埋もれてしまったとしても、そんな些事は取るに足らないことなのもわかっている。ほんの一例を挙げれば、例えばカール・バルトのような人がモーツァルトについて書いているのを私とて知らないわけではない。けれども、それでもなお、私は最後の勇気を奮って投壜をすることをやめることができない。逆にカール・バルトのような人が見たものを、遥かに価値において劣る私もまた垣間見ることができたこと、私が見たものが私の主観的な幻想、妄想の産物などではなく、それが(現実のどこにも場所を持たないという意味で幽霊的であり、従って、或る流儀に従うならば消去記号(バレ)付きで記述するのが適当ということになるのかも知れないが、それでもなお)実在するのであろうということ、それを共有する人が、時空を隔てて他にもいるのだという事実が与えてくれる慰めもあるが、それにも増して、何よりもまず、音楽そのものがその相貌をもって私に命じたことだからだ。それが自分には担いきれない程の重みを持っていたとしても、そして自分に為し能うことがその重みに対して取るに足らないことであったとしても、そうせずには私は、私が出逢ったものに対する責任を果たせず、申し開きをすることができないし、そうせずに生き続けることもできない。「お前になど、生き続ける価値はない」という声に対しては、それでも私の許に、モーツァルトの音楽が届いた以上、その事実を伝えるだけの価値はあるはずだと抗弁するほかない。否、寧ろ私はかつて、それらの音楽を耳にしたことで、自分には担うに耐えないような大きな負債を負ったのであって、自分が受け取ったものを返すことなくしては自分であることを止めることすらできないのだと言うべきなのだろう。それは私が我有化しうるような何者かではありえない。寧ろ私は通路として、媒体としてそれを響かせ、伝達することしかできない。そして私の中に穿たれた私でないものが開示する、現実の何処にも属さない空間の「美」の客体的不滅性が、主観的な価値判断の相対性を超えて、より優りたるもの、普遍への飛躍であることを私は信じている。モーツァルトの音楽が開く抽象的な場の持つ「美」はそうしたものなのである。

(2014.3.9,10,13初稿, 2014,5.10/2019.1.13,14/2021.10.1,2,3,4改訂, 2025.8.31/9.1 再公開)

2025年7月16日水曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(2025.7.16改訂)

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。ここではそのことの分析を繰り返すことはしないが、そうした指摘に対して、CDが店頭で販売されるものから、インターネットを通じて購入できるものになったことは、そうした傾向を更に推し進める役割を果たしたことを付言することはできるだろう。

 例えば、極東の地方都市に生まれ育った人間が接することのできる演奏会の数を考えた時、いわゆる「名曲」がほとんどを占める演奏頻度のグラフのロングテイルの末端にようやく登場するような作曲家の作品に接することのできる確率は極めて低いものとなるのは避けがたく、CDという媒体に記録され、複製された流通することによってようやく接することができた作品を挙げたしたら切りがない。というより、結局、コンサートに行くだけの余裕がない私のような人間にとって、「音楽」は生演奏で接するものではなく、録音された媒体の再生によって接するものであるというのは紛れもない事実であり、寧ろ実演に接した作品は、全体の中のほんの一部を占めるに過ぎないのである。

 更に時代は移ろって、今やCDという物理媒体に記録された形で流通する形態から、各種のデータフォーマットの規格に準拠したファイルをダウンロードしたり、ストリーミングで再生したりといった形態が普通になっていて、そうした更なる変化が一層その傾向を助長している側面があるであろうことは理屈の上で当然だろうし、体感としても疑いないように思われる。そればかりか、今や腕に自信がある人であれば、コンサートを開かなくても、自分の気に入った曲を自分で演奏したものを公開してシェアすることさえ可能になっているのだが、ではそのことが「取り残された」作曲家の作品に接することに与える影響は?ということにフォーカスしてみると、影響があること自体は確実に言い得たとして、同時代に生み出され、演奏され、消費される音楽へのインパクトに比べた時、その影響は限定的で、CD普及の時期の変化には遥かに及ばないように感じられる。恐らく確実に言えることは、原理的な水準はさておき、事実上、ファイルのダウンロードやストリーミングという手段は、ライブの代補、リアルタイムな共有の代補という側面が強く永続性に欠けていて、寧ろ送り手と受け手の同時性を前提とせず、時間的な隔たりを通り抜けることができる「投壜通信」の媒体としては、CDのような物理的媒体の方が優っているのではなかろうか。

 ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。とはいえ、レーベルはLPレコード時代からお馴染のチェコのレーベル、スプラフォン。スプラフォンがCDを最初に製作したのは実は日本でのようで、1984年のことのようだが、そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1949年)

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。ちなみにまとまってリリースされたCDでその時に接することのできた『南ボヘミア組曲』以外の作品としては、初期のイ短調のピアノ五重奏曲(op.12)とト長調の弦楽四重奏曲(op.22)、おそらくノヴァークの音楽で最も人口に膾炙していると思われる『スロヴァツコ組曲』Slovácká svita, op.32(一般に流布する邦訳タイトルは不正確で、これはモラヴィアとスロヴァキアにまたがるスロヴァツコ地方に取材した作品である)に加え、2曲のバレー・パントマイムのための音楽(『ニコティナ』Nikotina, op.69,『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』Signorina Gioventu, op.58)があったと記憶する。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできる(例えば、この文章で後程参照することになる、INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK の Official Webが代表的なものとして挙げられよう)とはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、上記の作品中だと2曲のバレー音楽がそうであるようにフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、その後他のレーベルのCDで接することができた交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのは既述の通り、もともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。

 そしてマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。またマーラーが指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したのだが、彼の微分音音楽の実践を支持したのは、理論上で微分音音楽の可能性を示唆したブゾーニである。そしてブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは、出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。この辺りの経緯は以下のノヴァークの作品と遺産の普及を目的とした協会のWebサイトの記事に語ってもらうのが適切だろう。

On the one hand, at the age of 60, he finally visited his hometown of Kamenice nad Lipou in 1930, and then he realized, as a subjectivist-based artist, his debt to his native region and to South Bohemia in general, where he liked to go. He created the South Bohemian Suite evoking a region of forests, ponds and a captivating pastoral with the catharsis of a quasi-quotation of the hymn at the end of the finale. The piece is also notable for its inventive change of titles to a Hussite chant in the third movement, which contrasts with the first two, which are naturally partially lyrically impressive.

(INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK - Official Web, VÍTĚZSLAV NOVÁK - Life and Work by Prof. PhDr. Miloš Schnierer, co-founder and long-time secretary of the V. Novák Society and chairman of the International V. Novák Society in 2007-2016. : https://www.vitezslavnovak.cz/zivot-a-dilo/d-1015/p1=1024)

 引用の末尾には、私が既にこの作品独自の特質として挙げたユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収でスメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比についての指摘も見ることができ、この記述を偶々目にした折には我が意を得たりという思いを強くしたものである。と当時に、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。更には若き日にはチェコのモダニスムを代表していたノヴァークが晩年に至って音楽語法の上では寧ろ守旧的な姿勢となった点を、後の「社会主義的リアリズム」と結び付けて論じる向きもあるかも知れないが、私はそのようなものとしてノヴァークの音楽に接していないことは確かなことに思われる。何よりもその音楽自体が告げる消息が、そうした「公的」なイメージと背馳しているのだ。「愛国的」な系列の作品についても、その事情は変わらず、そこには「国民楽派」とか「社会主義リアリズム」のイデオロギーとは相容れいない契機が余りにもあからさまに刻印されているように感じられてならないのである。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更に第三次的なテクノロジーに補綴された把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。

 その一方でノヴァークその人の「老い」について言うならば、その創作のピークとされる1910年代の「パン」や「嵐」といった作品の後、オペラでの苦い経験を経て、敢えてモダニスムに与することから背を向けるように、後期ロマン派の様式に留まることを意識的に選んだその姿勢(これは寧ろ、アドルノの後継者たることを自任するサイードが『晩年のスタイル』において論じ、偶々ノヴァークと同じ1949年に踵を接するようにして世を去ったリヒャルト・シュトラウスに通じるのかも知れない)と「老い」との関わりをどう捉えるかという別の問いを開くことに通じるように思われる。更にラフなスケッチのみをしておくならば、モダニスムに背を向けた点では同様であるシベリウスが早くも第一次世界大戦後の1920年代に沈黙に入ってしまうのに対し、ノヴァークの方はナチスによる故国の蹂躙と解体に瀕して、音楽を通したレジスタンスを行ったというまさにそのことが、一見したところアドルノが批判する「反動」として捉えられそうであるにも関わらず、サイードが特徴づける「晩年のスタイル」の枠組みで捉えることができるのではないかという仮説を取り出すことができるのではなかろうか。そしてその展望の中に改めて「南ボヘミア組曲」を位置づけることが必要になるだろう。であるとするならば、私にとってノヴァークは、まずは「老い」について考えることに、それとなく誘ってくれた存在ということになるだろう。それ故そのことについての感謝の気持ちを込めて、だがいずれ再び、改めて彼の晩年について考えることになるであろう時が来ることを期して、ここで一旦、彼からの贈与に対する応答であるこの文章を結ぶこととしたい。

(2022.11.26 公開, 2024.12.23改稿, 2025.6.18 再公開, 2025.7.16改訂)

2025年7月14日月曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク 作品リスト:作品番号つきの作品

ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品目録は、ミロシュ・シュニエラーとルドミラ・ペジノヴァによって1999年に編纂され、目録には162の作品が含まれます。このうち作品番号が与えられたのは以下に掲げる79曲です。
  •  ピアノ三重奏曲第1番 ト短調 Op. 1 (1892)
  • バラードホ短調,  Op.2, ピアノ曲, パイロンの「マンフレッド」による

  • ヴァイオリンとピアノのための3つの小品), Op. 3 (1893)

  • シューマンの主題による変奏曲 ハ長調 Op.4(1892), ピアノ曲

  • バガテル, Op. 5 (1899), ピアノ曲

  • 回想, Op. 6 (1894), ピアノ曲

  • ピアノ四重奏曲 ハ短調, Op. 7 (1894, 1899年改訂)

  • 心の物語, Op. 8 (1896) - ソプラノとピアノ

  • セレナーデ, Op. 9 (1894-95, 1949年改訂) - 小管弦楽

  • 舟歌, Op. 10, ピアノ曲 (1896)

  • エクローグ, Op. 11, ピアノ曲 (1896)

  • ピアノ五重奏曲 イ短調) Op. 12 (1896, 1897年改訂)

  • たそがれに, Op. 13, ピアノ曲 (1896)

  • ボヘミアの旋律, Op. 14 (1897) ,  声とピアノ

  • 思い出, Op.15 (1897), ピアノ曲

  • モラヴィア民謡による歌 第1巻 Op. 16(1898), 声とピアノ

  • モラヴィア民謡による歌 第2巻 Op. 17(1898), 声とピアノ

  • 劇的序曲「マリシャ」, Op. 18 (1898), 声とピアノ

  • モラヴィア民謡の詩によるバラード), Op. 19 (1898) , 合唱とピアノ連弾 

  • 私の五月), Op. 20 (1899), ピアノ曲

  • モラヴィア民謡による歌 第3巻 Op. 21 (1898), 声とピアノ

  • 弦楽四重奏曲第1番 ト長調, Op. 22 (1899)

  • モラヴィア民謡に基づく2つの旋律 op. 23, 合唱とピアノ

  • ソナタ・エロイカ Op.24(1900), ピアノ曲

  • 憂鬱な歌曲集,  op. 25, メゾ・ソプラノとピアノ

  • 交響詩「タトラ山中で」, Op. 26 (1902)

  • ピアノ三重奏曲第2番 ニ短調「バラード風に」, Op. 27 (1902)

  • 「山のバラード」,  Op. 28, 合唱曲

  • 「魂のバラード」,  Op. 29  合唱曲,  J. ネルーダの詩による

  • 「冬の夜の歌」,  Op.30(1903), ピアノ曲

  • 「新しい王国の谷」,  Op. 31 (1903), 合唱曲

  • スロヴァツコ組曲 Op.32(1903), 管弦楽組曲(原曲はピアノ曲)

  • 交響詩「永遠の憧れについて」, Op. 33 (1903-05) ,  ハンス・クリスチャン・アンデルセンによる

  • 2つのヴァラキア舞曲,  Op. 34 (1904), ピアノ曲

  • 弦楽四重奏曲第2番 ニ長調, Op. 35 (1905)

  • セレナーデ, Op. 36 (1905) , 小管弦楽

  • 6つの男声合唱曲,  Op. 37

  • 愛についての憂鬱な歌, Op. 38 (1906) , ソプラノと管弦楽

  • 8つの夜想曲, Op.39(1906-08), 声とピアノ

  • 交響詩「トマンと森の精」, Op.40(1906–07), チェラコフスキーのバラードによる

  • 序曲「ゴディヴァ夫人」, Op. 41 (1907) , ヴルフリツキーの悲劇による

  • 「嵐」, Op. 42 (1908-10) . スヴァトプルク・チェフの詩による、ソリスト、合唱と管弦楽

  • 「パン」 Op.43(1910), ピアノのための交響詩(管弦楽版あり)

  • 「故郷の地で」, Op. 44 (1911) ,  男声合唱

  • エキゾティコン, Op. 45, ピアノ曲

  • エロティコン, Op. 46 (1912) , 声とピアノまたは管弦楽

  • オトカル・ブジェジナの4つの詩, Op. 47 (1912) ,  合唱

  • 「結婚のシャツ / 幽霊の花嫁」, Op. 48 (1912-13) ,  エルベンによる、ソリスト、合唱と管弦楽

  • 「ズヴィコフの小妖精」Op.49(1913–14), コミックオペラ

  • 「カルシュテイン」Op.50(1914–15), オペラ

  • 「力と反抗」, Op. 51 (1916-17) - 男声合唱

  • 「春」2つの子供の歌, Op. 52 (1918) ,  声とピアノ

  • 3つのチェコの歌, Op. 53 (1918) ,  男声合唱と管弦楽

  • 6つのソナチネ, Op. 54, ピアノ曲 (1919-20)

  • 「青春」Op.55, ピアノ曲(1920)

  • 「ランタン」Op.56(1919–22), 音楽童話オペラ

  • 「祖父の遺産」Op.57(1922–25), オペラ

  • 「シニョリーナ・ジョヴェントゥ」, Op. 58 (1926–28) - バレエ・パントマイム

  • 「ニコティナ」, Op. 59 (1929) - バレエ・パントマイム

  • 「ある人生より」男声合唱曲集, op. 60

  • 女声合唱のためのモラヴィア民謡に基づいた12の子守唄,  op. 61

  • 「秋の交響曲」Op.62(1931–34), 合唱付き交響曲

  • 2つのロマンス, Op. 63 (1934) , 声と管弦楽, ヤン・ネルーダの詩による

  • 「南ボヘミア組曲」Op.64(1936–37), 管弦楽組曲

  • 「イン・メモリアム」, Op. 65 (1936-37),  メゾソプラノ、弦楽オーケストラ、ハープ、タムタム

  • 弦楽四重奏曲第3番 ト長調, Op. 66 (1938)

  • 交響詩「デ・プロフンディス」Op.67(1941),管弦楽とオルガン

  • チェロ・ソナタ ト短調, Op. 68 (1941)

  • 「故郷」, op. 69, 合唱曲

  • 「聖ヴァーツラフの三連祭壇画」, Op. 70 (1941) , オルガンと管弦楽(オルガン独奏版あり)

  • 5つの混声合唱曲集, op. 71

  • 「5月」, op. 72, 児童合唱

  • 「五月の交響曲」Op.73(1943–45), ソリスト・合唱・オーケストラ

  • モラヴィアの民謡に基づいた歌第4集, op. 74, 声とピアノ

  • モラヴィアの民謡に基づいた歌第5集, op. 75, 声とピアノ

  • 2つの伝説 Op.76(1944), メゾ・ソプラノと管弦楽

  • 南ボヘミヤのモチーフ集 op. 77, 声とピアノ

  • 4つの子守歌 op. 78, 声とピアノ

  • ジシュカ:夜明け前の時間、風景音楽, Op. 79 (1948) - 劇付随音楽

(2025.7.14 公開)

2025年7月1日火曜日

アルベリク・マニャール

  録音・再生技術の発達とネットワークを介した流通の恩恵の一つに、通常、コンサート等で良く取り上げられる有名な作曲家の有名な作品以外に接する機会が増えたことがあるだろう。それは勿論、同時代の作品についても言えることだが、過去の、いわゆる忘れられた作曲家の再発見の機会が飛躍的に拡大したのは間違いあるまい。かつて永らく、そうした作品は楽譜を介して接する他なかったし、レコードやCDが普及しても、流通経路が限定されていた時代には、録音は着実に蓄積され、レパートリーは着実に増大していたであろうが、それに接する機会は遥かに限定されたものであった。今日では、かつては名前すら知らなかった作曲家、名のみ知られてもその作品に接することができなかった作曲家、コンサートのレパートリーに辛うじて残った極一部の作品しか知ることのできなかった作曲家の作品、或いは音楽史の年表に載るような有名な一部の作曲家の場合でも、膨大な作品のうちコンサートで取り上げられる頻度の低かった作品を知ることができるようになっていて、その恩恵は計り知れないものがあると感じられる。

 音楽史の年表に載るか否か、コンサートのレパートリーとして残るか否かが如何にして決まるかには様々な要因があって、勿論概ね、そうした社会的・集団的なレベルでの文化的淘汰の結果というのはそれなりの理由づけが可能な場合が多いだろうが、文化的生態系のニッチを占めて淘汰を逃れて生き延びることができるかどうかについていえば、少なくともモデルとなった生物学的な進化においてそうである程度には偶然が介在するものであろう。ある時期のちょっとした環境的条件、出来事の生じる順序のわずかなずれが、「バタフライ効果」と呼ばれるカオス力学系固有の挙動を引き起こす。音楽の場合には第一義的には演奏されることが伝承の条件だが、こと西洋音楽においては高度な記譜法のシステムが確立されたから、楽譜を媒介とした伝承というのが可能であるが(それがなければ演奏による継承が一旦喪われてしまった作品、或いはそもそもが演奏の機会がない作品が、時を経て(再)発見され、リバイバルすること自体が不可能である)、かつては来たるべき演奏の機会を待っている、いわば潜勢態のレベルにあったものが、近年の「忘れられた作曲家」「知られざる作曲家」の作品のCDを媒体とした、或いはネットワークを介した流通によって、作品が歴史に刻まれるためには一度演奏されるだけではなく演奏が反復される必要があるという条件もひっくるめて(CDにコピーされてであれ、直接各種のファイルフォーマットの形で交換されるのであれ、それらは反復して聴かれる可能性を潜在的に備えていて、もし誰かがそれを再生したならば、それは常に既に二回目であって、反復が成立したと見做しうる形式的な条件は満たしていることになるので)乗り越えることが可能となったかにさえ見える。


アルベリク・マニャール(1865年6月9日~1814年9月3日)

 アルベリク・マニャールはヴァンサン・ダンディに師事し、ギイ・ロパルツと親しく、スコラ・カントゥルムで教鞭をとるなど、人的交流の面からフランキストの一員として分類されることが多いようだが、フランキストは(セザール・フランク自身も含めても良いように思うが)第二次世界大戦前、或いは戦後しばらくまでの時期と比べると、その後すっかり凋落してしまった感があって、これは単なる感覚的なものだが、私の子供の頃にはそれでもなお一定の位置を占めていたものが、この30~40年の裡に忘却の淵に追いやられつつあるような印象さえ覚える程である。そしてそうしたフランキストの中でもダンディやショーソン、デュパルク、ヴィエルヌといった第一世代はそれでも辛うじて名前を知っていたのに対し、マニャールは永らく私にとっては未知の存在であった。同時代的には前衛の側、今日から見れば主流となったドビュッシーやラヴェルの周辺の作曲家達、或いはメシアンへの繋がるカテドラル・オルガニスト=作曲家の系譜の作曲家達(こちらにはフランク自身も含めて、フランキストの一部も含まれることなるが)に比べてもなお、同時代的に既に守旧派的に分類されてしまえば、その後の忘却の度合いが著しいのも仕方ないのかも知れない。例えばヴィエルヌの作品の全貌が広く知られるようになったのは極く近年のことだと思うが、彼のオルガン曲やミサ曲は、上記のような凋落とは無関係に、確固たる地位を占め続けて来たように見えるのに対し、そうした場を持たないマニャールの音楽は、コンサートホールやオペラハウスで取り上げられない以上、実質的には忘れ去られていたと言うべきなのだろう。

 だがマニャールの場合には、彼自身の気質やその気質が反映された作品の性格が、その忘却に与かった面も否定できないだろう。私がマニャールの名前を知ったのは、恐らくはジャンケレヴィッチの著作を通してであったのだが、いわば通りすがりに言及されたに過ぎない『音楽と筆舌に尽くせないもの』での参照(邦訳ではp.121とそれへのp.130の注釈)は措いて、実質的な言及のある『仕事と日々・夢想と夜々』におけるジャンケレヴィッチによる以下のような性格付けは、それが妥当であるとしたらそのことによってまさに忘却の理由の一端を説明しているという見方が可能だろう。

(…)フランスでは、峻厳な音楽家たちもほかの人びとと共に甘美の大祭典を祝い、いまだに音響の歓喜が歌うにまかせ、いまだに音色、ハーモニーそしてひそかな充全の幸福に身を委ねる。デオダ・ド・セヴラックと同じようにルーセルも、ルイ・オーベールやポール・ル・フレムと同じようにマニャールも…。私の愛する音楽は誇示癖がない。ここにすべてが仮面とヴェールで覆われている一頁がある。すべてが半濃淡で薄明りだ。これがフランス流の《熱情をこめて》だ。(…)

ジャンケレヴィッチ『仕事と日々・夢想と夜々 哲学的対話』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1982)、pp.298-99

この文章でマニャールと同格の位置に置かれているのはルーセルだが、同じダンディの弟子ではあっても、ルーセルは今日、マニャールとの比較においては遥かに著名な作曲家だろうし(寧ろフランキストの流れに属している事実の方が忘れられがちなくらいであろう)、その作品は今日のコンサート・レパートリーの中に確固とした地位を占めているのは誰の目にも明らかなことだろう(例えばアマチュア・オーケストラの情報サイトであるi-amabileの演奏会履歴を見れば、それは一目瞭然であろう)。オーベールやル・フレムが引き合いに出されている理由は措くとして(ちなみにマニャールに師事しているのはド・セヴラックの方である)、オーベールを除けばいずれもダンディ=スコラ・カントゥルムの人脈である点と、ルーセルを除けば、際立って中央集権的なフランスにあってパリを根拠にするのではなく、何れも地方に拠点を置いて活動をした点を挙げるべきだろうか。ジャンケレヴィッチの用いる「峻厳な」という形容と「誇示癖がない」という形容もまた、そうした点と相関する面もあろうが、ともあれ上記のジャンケレヴィッチの言葉は、マニャールの音楽がそれを知る決して多くはないであろう人間にどのように受け止められているかを物語る例にはなるであろうし、同時に忘却の原因の一端を示唆していることにもなるのではなかろうか。ちなみにマニャールその人も、パリの喧噪に堪え難さを感じ、1904年の初夏に、サンリスとナントゥイユ=ル=オドゥアンの間、オワーズ県バロン村の「マノワール・ド・ジャヴァンヌ」、あるいは「閉ざされた泉」と呼ばれる古い家(彼は後に別の泉を発見し、「マノワール・デ・フォンテーヌ」と改名することになるが)を購入し、その衝撃的な死に至る迄、そこを住処とすることになる。

 外面的な事実を挙げるなら、マニャールの名はパリ16区の通りの名前として記念されているという点を指摘しておくべきかも知れない。興味深いのは、それがパッシーと呼ばれてきた高級住宅街に位置していることよりも、その命名の由来の方であって、実はもともとは1904年の開設以来(途中1923年に延伸されたが)、当時流行の作曲家であったワグナーの名を冠していた通りの名前がマニャールの名を冠するようになったは戦間期の1927年のこと、敵国であったドイツの文化的アイコンであるワグナーの替りにマニャールが選ばれたのは、彼の死にまつわるエピソード、つまり第一次世界大戦時に、侵入してきたドイツ軍に対して屋敷に立て籠もって戦い、屋敷ごと焼かれて死亡したという事実によるらしい。焼き払われた後廃墟となった屋敷の写真は、今ならインターネットを介して見ることができるが、それが絵葉書の写真に選ばれたこともまた、通りの改名と同様の事情があったと考えるべきであろう。ベートーヴェンを尊敬し、ワグナーの影響が明確なその音楽にも関わらず、ここではマニャールには「愛国者」としてのコノテーションが付き纏っているようなのだ。


ドイツ兵により襲撃され焼き払われたマニャールの家(オワーズ県バロン)の絵葉書

 ところがマニャールその人の生の軌跡を辿る限りでは、彼は寧ろ、同時代の形容では「進歩的」と形容されたであろう思想の持ち主のようである。それは彼の作品にも刻印されていて、最も著名なのは、ドレフュス事件に因んでドレフュス派の立場で書かれた管弦楽曲「正義への讃歌」op.14であろう(ちなみにダンディは反ドレフュス派だった)。それ以外にも彼の作品の頂点を為す第4交響曲op.21が女性によるオーケストラ(l'Orchestre de l'Union des femmes professeurs et compositeurs )に献呈されていたりもする。その音楽の同時代において既に時代遅れと受け止められたかも知れない保守性と、こうした作曲者の思想的な進歩性との間に或る種の不整合を見出す向きがあっても不思議はなかろう。

 要するに「仮面とヴェールで覆われている」かどうか、「半薄明で薄明り」の裡にあるかどうかはともなく(私は個人的には、ことマニャールの音楽に対してはこのジャンケレヴィッチの形容は適当とは思わないが)、マニャールが置かれた状況というのは、マニャールの人と作品が寧ろくっきりとした明確な輪郭(それを「峻厳」と呼べば呼べるだろう)を帯びているにも関わらず、錯綜としているようなのである。

 因みに「誇示癖のなさ」の方は(上記の文脈ではジャンケレヴィッチは明らかに音楽について語っているので、それをあえて意図的に捻じ曲げて言うことなるが)確かにその通りであって、彼は社交的な人間ではなかったし、(これまたベートーヴェンを思わせるが)ある時期以降は難聴に悩まされて引きこもりがちであった上に、自己批判が非常に厳しく、創作に対する姿勢は、こちらはまさに「峻厳」と形容するに相応しいものであったようだ。作品の多くは自費出版、しかも初期の評価が定まらない時期のものがそうなのではなく、寧ろ中核的な作品群(作品8~20)がそうなのであって、それ故大手出版社の宣伝や販促活動の恩恵に浴することもなかった。というよりそれを拒絶したというべきで、そこにはフィガロ誌の編集主幹として著名であった父親の権威を結果としてであれ借りることへの反発が関わっていると見るのが自然だろう。(それが父親その人に対する反発ではなかったことは、「葬送の歌」op.9が父親への追憶のために書かれていることから窺える。)経済的にも彼は親に依存することを良しとせず、自立することを自らに課したようである。こんなことは、でも、音楽には関係ないと言うだろうか?一般論としては確かにその通りかも知れないし、そのようにすべきなのかも知れない。だが、ことマニャールに関して言えば、マーラーのような意味合いで作品を自伝的に読むことが可能であるという訳ではなくても、なぜこのような肌触りの作品群が遺されたのか(ちなみに上記の経緯で屋敷の消失により手元に存在したかも知れない草稿の多くが灰燼に帰した結果、彼の死後に遺された作品は、作品番号にして20をようやく超えるに過ぎない)を知ろうとするならば、作曲者のそうした気質の反映をそこに見るのは避け難い。何なら作品が産み出される環境の一部として作者を捉えても構わないが、いずれにせよマニャールその人の個性が作品に刻印されていることは否定できないだろう。

 それでもなおマニャールその人は一先ず措いて、遺された作品の方はどうなのかと言えば、こちらもまた「誇示癖がない」という形容については妥当であると見る向きが大方のようである。管弦楽曲のみならず、室内楽もまた構想は雄大で書法は念入りであるけれど、所謂ケレンのようなものが無いというのも衆目の一致するところのようである。色彩感に欠ける訳でもないし、内面に閉じこもった「主観」の音楽では決してなく、外に向かって開かれているし、低回趣味というわけでもないのだけれども、何か「新しい」風景が垣間見える瞬間といったものには欠けている。独自性に欠けるわけではないのは、彼の作品の音調がフランキストの中でも異色のものであることから明らかだし、例えばワグナーの影響一つとっても、多くのフランキスト、或いはスクリャービンの中期作品とかにあからさまな、あの温度の高い、噎せ返るような甘美さとは無縁である。だが一方で、フランス音楽としては例外的と感じられる程に《熱情がこめ》られているのにも関わらず、規範を尊重するあまり、それを打ち破り、アドルノ風に「唯名論的」に下から上へと作曲する衝動というのは感じられないし、何か未聞の響きが、未知の風景が地平の彼方から到来するといった瞬間は、マニャールの音楽の中にはないようだ。理知的と言えば、これもまた「フランス性」の記号ということになるのかも知れないが、ここでは熱情は放恣に走ることなく、意志の力で、時代遅れと受け止められかねない形式の枠の中にきっちりと収められているかのようなのだ。

 しかしその結果として生みだされる、転調を繰り返しつつ緊張感を孕み、時としてどんどんと白熱していく旋律線、更に、しばしばそうした旋律が対位法的に絡み合うことで生じる強烈な推進力、その一方で、緩み切ることは決してなく、どこかに凛として張り詰めたところを残しつつ、緊張が一時緩んだ時に示す、しなやかで優美で、時として、どこか夢見勝ちな一面すら示すこともある旋律には、単なる時代の趣味や流行の様式を超えた、他ならぬマニャールその人の個人的な声が確かに聞き取れ、それは作品のほんの一部を聴いたたけで聴き手を捉えて離さない強い誘引力を持っている。(この点はダンディを介して、寧ろフランクに近接すると私には感じられるが、)控えめで、外面的な効果に背を向け、自己を顕示することはないけれど、にもかからわず強靭で、かつ人によってはそこに独善的なまでの頑なさを見出すであろうその音楽の強烈な個性は、聴き手を選ぶものなのかも知れない。その音楽持つ価値というのは、寧ろ同時代よりも、時代を隔ててはいても、その音楽に同調し、共鳴する身体を備えた聴き手に向けて海に投じられた投壜通信の如きものに感じられる。マニャール没後間もなく書かれた評伝的な著述(例えば、Maurice Boucher, ALBÉRIC MAGNARD, Editon de la maison des deux-collines, 1919、あるいは Gaston Carraud, La vie, l'oeuvre et la mort d'Albéric Magnard (1865-1914), Rounrt, Lerolle et Cie Éditeurs, 1921)において、既にマニャールが同時代のフランスにおいても知られておらず、その音楽が人口に膾炙した存在ではないことをそろいもそろって述べていることは、そうした消息を告げているように思えてならないのである。

 だが、だからといって「進歩」に資することのなかった或る作曲家の作品が、それゆえに後世にとって最早「用済み」であって、忘却の彼方に消え去っても仕方ないし、そうなっても構わないという考えには私は全く同意できない。否、寧ろ、時を隔てて、場所を違えて作品が甦るとき、それがもともと置かれていた文脈においては読み取ることができなかった部分、光が当たらなかった側面がようやく明らかになるということがどうして起きないと言えるのか?勿論、アプリオリに定まる「本来の」文脈が存在するという訳ではない。今、ここを特権化することなどできない。だけれども、もともと同時代にあって既にアナクロニックであったものは、時を超えてではなく、時を潜り抜けて、それを必要とする聴き手に辿り着くのを待っていたということはないだろうか?私が何某かを主張できるとしたら、それは偏に、それを必要とし待ち望んでいた(しかもそうであることは事後的にしかわからない。ベルクソンは『思想と動くもの』の「緒論第1部」および「可能性と事象性」において、そうした逆行的、転倒的な時間性を作品の創造に関して述べたのであったが、それは作品の受容に関してもまた成り立つと考えることはできないだろうか)という点に存しているのだ。

 誰の壜を誰が拾うかはそれぞれで、そこにも偶然が大きく関与していることだろうが、様々な環境の要因の複合により、とにかくマニャールが遺した「投壜通信」を私は拾ったのだ。それは声高に自分の存在を主張しはしないし、低回趣味に徹して、「日常」(そこには天変地異であったり病苦や死といった出来事からの恢復の過程、「生き続ける」ことも含めるが)を乗り切るためのよすがに徹するわけでもなければ、地平の彼方からの何かの到来の記録というわけでもない。聴き手に対して語りかけたり、手を差し伸べたりするわけでもない。だけれども、それらのいずれかでなければ価値がないということにはならないのではないか。寧ろそれは「生きる事を学ぶ」ことを、語りかけるでも強制するでもなく、自らの挙措によって、受け取り手に対して密やかに示唆し、そっと促すような存在なのだ。それが「効果」という点で如何に限定されたものであったとしても、否、仮に、或る具体的な場合においては「効果」としては無であって、あってもなくても同じことのようにしか見えなかったとしても、その結果だけを見て、それを不要のものと決めつけることはすべきではないだろう。生物学的な適者生存を文化的・社会的な次元に不当に拡張して敷衍することの危険は、まさにマニャールの同時代に明らかになりつつあった。にも拘わらず、文化的・社会的な領域でも、進化論的な適者生存というのは、今や恰もそれが「原理」であるかの如き様相を呈しつつある。否、それは最終審級においては正しいのであろう。だけれどもそうならそうで、生存のための戦略は、一見してみてわかる進歩を、目先の効用を備えていることとばかり限ったわけではないだろう。生物の生態系でも思わぬところにニッチが広がって、粗視的には想像がつかないような多様性が存在し、まさにそのことが生態系を支えているということが起きる。ましてや文化的・社会的な領域では、そうしたニッチを許容しない(例えば、それが受け手にとって「不愉快である」という理由で、存在する場すら奪ってしまおうとする)立場は、結果的に生態系を脆弱にしているのである。

 否、そうしたことはマニャールの音楽に向き合うにあたっては、最終的には副次的な事柄に過ぎないのだろう。音楽の持つ、共感を引き出し、共鳴させ、新たな行動に誘う力は、その一方で極めて個別的なものであり、多くの人に受容されるそれが私のうちに共鳴を惹き起こすことを保証するものはないし、その一方で、話題になることもなく、それまで一度も聞いたことはなく、だがほんのふとした偶然から接して見れば、一度聞いただけで、その音楽の風景の中に、あたかもずっと見慣れた風景であるかのように寛ぐ自分を見出すことを妨げるものはない。そしてマニャールの音楽は、私にとってはまさに後者に属するものなのだ。「波長が合う」という言い方がされることもあるし、メタファーとして或る種の受容体(レセプター)のようなものを思い浮かべてもいいだろう。そうした受容体は多数あるが、それぞれの受容体は特定の構造をもつリガンドとしか結合しない、特定の形状の鍵でしか開けられない錠のようなものだという。だとすれば私は、自分でもそうと知ることなく、マニャールの音楽がやってくるのを待っていたのだというように考えることもできるのだろう。それは壜を拾ったものが、その壜に封じ込められた手紙の名宛人であるという、マンデリシュタムの「投壜通信」の定義にも一致するようだ。

 世界の片隅に、100年前の異郷の、稍もすれば見失われがちな音楽が存続する領域があるということの価値を信じて、私はマニャールの音楽に対して「ウィ」と言って、それを歓待することを選ぶ。この文章を綴り、公開することはそのことを行為遂行的に証しするためのものである。どうかその「歓待」が、ひどく貧しくて慎ましい、他人が見たら歓待などと呼ぶに値しないものであることについては許して欲しい。そしてそれは拾った壜に対する遅ればせの「返答」であって、それは全くそうしなくても同じことではない、見た目は区別がつかなくても、そうではない、ましてや逆効果になることは(そういう可能性が常にあることに対して目を背けるつもりはないけれど)ないと私は信じたい。否、単純に、その音楽が湛える佇まい、その音楽が浮かび上がらせる風景、その音楽が聴き手に働きかける力の大きさに聴き手は圧倒されることになる。そればかりではなく、その音楽が垣間見せる風景に、「現実」のどこにも見いだせなかった、そこで自分がほっと一息つき、安らい、或いはそれに同調することで己を解き放ち、精神の働きの自在さを恢復することのできる空間を発見することになる。そして、斯くも質の高い作品がほとんど知られることなく、その価値が認められていないことに驚き、何か不当なことであるかのように感じから逃れられなくなる。そして私はそのことを事実として証言することを選ぶ他なくなるのだ。私は密やかに、そっと小声で、しかし誇らかに証言する。私は確かに「投壜通信」を拾ったのだと。何故ならそれは、壜を拾ったものの責務だからだ。遥かに遅れて、遠くからであっても、応答すること、それを証言することによる他、自分がコミットする価値を自分を超えて存続させることに寄与することはできないからだ。

(2019.11.2-3初稿・公開, 2023.10.15加筆, 2024.4.13 加筆, 2025.7.1 再公開, 7.2加筆)

アルベリク・マニャール 作品リスト

A.作品番号付き作品

Op.1 ピアノのための3つの小品 (1887-1888)
調性: 1. ハ短調、2. 変イ長調、3. ハ長調
楽章: 1. コラールとフゲッタ、2. アルバムの綴り(優しく)、3. 前奏曲とフーガ
演奏時間: 11分(4+3+4分)
出版: 1890年(シュダン社)

Op.2 古典様式による管弦楽組曲 (1888)
調性: ト短調
編成: 2.2.2.2. - 2.1.0.0. - ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器
楽章:1.フランセーズ、2.サラバンド、3.ガヴォット、4.メヌエット、5.ジーグ
演奏時間: 13分(4+2+2+3+2分)
出版: 1892年(フィリップ・マケ社)

Op.3 6つの詩の音楽 (1887-1889)
調性: 1. 嬰ヘ短調、2. 嬰ト短調、3. 変ロ短調、4. 変ホ短調、5. 変ホ長調、6. 変ホ短調
歌詞: 1,2,4. マニャール、3. ミュッセ、5. ホラティウス、6. ロパルツ
楽章: 1. 彼女に!、2. 祈祷、3. ドイツのライン、4. 夜想曲、5. バンドゥシアの泉に、6. 詩人に
演奏時間: 20分(5+3+4+3+2+3分)
出版: 1919年(シュダン社)

Op.4 交響曲第1番 ハ短調 (1889-1890)
編成: 3.3.3.4.(+3サックス) - 4.4.3.1. - 2ハープ、ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器(16.16.14.12.8)
楽章:1.Strepitato、2.Largo、3.Presto、4.Molto energico
演奏時間: 31分(10+9+4+8分)
出版: 1894年(E.ボードゥ社)

Op.5 歌劇「ヨランド」(1890-1891)
台本: 作曲者自身
演奏時間: 59分(1幕)
出版: 1892年(声楽スコア、シュダン社)
備考: 管弦楽スコア散逸

Op.6 交響曲第2番 ホ長調 (1892-1893、1896年改訂)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
楽章(改訂版):1.序曲、2.ダンス、3.歌と変奏、4.終曲
楽章(原版):1.序曲、2.フーガとダンス、3.歌と変奏、4.終曲
演奏時間: 改訂版40分(11+6+14+9分)
備考: 原版49分(11+13+16+9分)

Op.7 「散歩」ピアノ組曲 (1893)
調性: 1. 嬰ハ短調、2. ハ長調、3. ホ長調、4. ホ短調、5. 変ロ長調、6. 嬰ハ短調、7. 嬰ハ長調
楽章: 1. 献呈(優しく)、2. ブローニュの森(優雅に)、3. ヴィルボン(神秘的に)、4. サン=クルー(率直に)、5. サン=ジェルマン(愛らしく)、6. トリアノン(幅広く-美しく)、7. ランブイエ(結婚行進曲風に)
演奏時間: 26分(3+2+3+2+5+4+7分)
出版: 1894年(デュラン社)

Op.8 フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットとピアノのための五重奏曲 ニ短調 (1894)
演奏時間: 35分(11+8+6+10分)
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.9 葬送歌 変ロ短調 (1895)
編成: 2.2.2.2. - 4.1.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 15分
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.10 序曲 イ長調 (1894-1895)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.0.0. - ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 12分
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.11 交響曲第3番 変ロ短調 (1895-1896)
編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ティンパニ - 弦楽器
楽章:1.導入と序曲、2.ダンス、3.牧歌、4.終曲
演奏時間: 40分(14+5+11+9分)
出版: 1902年(マニャール自費出版)

Op.12 歌劇「ゲルクール」(1897-1899)
台本: 作曲者自身
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 184分(3幕)
出版: 1904年(声楽スコア、マニャール自費出版)
備考: 第1幕と第3幕の原オーケストラスコア散逸。ギィ・ロパルツが1915-1916年に復元

Op.13 ヴァイオリン・ソナタ ト長調 (1901)
演奏時間: 42分(13+12+4+13分)
出版: 1903年(マニャール自費出版)

Op.14 正義への讃歌 ロ短調 (1901-1902)
編成: 3.2.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 15分
出版: 1904年(ピアノ縮約版1903年、マニャール自費出版)

Op.15 4つの詩の音楽 (1902)
調性: 1. ヘ短調、2. 嬰ハ長調、3. 変ロ長調、4. ヘ短調
歌詞: すべてマニャール作詞
楽章: 1. 私は母の口づけを知らなかった、2. 愛のバラがあなたの頬に咲いた、3. 笑う子、生き生きとした子、4. 死が来る時
演奏時間: 18分(6+4+4+4分)
出版: 1903年(マニャール自費出版)

Op.16 弦楽四重奏曲 ホ短調 (1902-1903)
演奏時間: 41分(13+6+11+11分)
出版: 1904年(マニャール自費出版)

Op.17 ヴィーナスへの讃歌 変ホ長調 (1903-1904)
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 14分
出版: 1906年(マニャール自費出版)

Op.18 ピアノ三重奏曲 ヘ短調 (1904-1905)
演奏時間: 36分(8+10+5+13分)
出版: 1906年(マニャール自費出版)

Op.19 歌劇「ベレニス」(1905-1908)
台本: ラシーヌの悲劇に基づく
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
演奏時間: 138分(3幕)
出版: 1909年(声楽スコア、マニャール自費出版)

Op.20 チェロ・ソナタ イ長調 (1909-1910)
演奏時間: 25分(8+3+7+6分)
出版: 1911年(マニャール自費出版)

Op.21 交響曲第4番 嬰ハ短調 (1912-1913)
編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
楽章:1. Modéré - Allegro、2.Vif、3.Sans lenteur et nuancé、4.Animé
演奏時間: 37分(11+5+13+8分)
出版: 1918年(ルアール・ルロル社)

B.作品番号なしの作品

En Dieu mon espérance et mon espée pour ma défense 変イ長調 (1888)
編成: ピアノ独奏
演奏時間: 5分
出版: 1889年(『フェンシング年鑑』)

A Henriette ホ短調 (1890-1891)
編成: 歌とピアノ
演奏時間: 4分
出版: 1892年(『フィガロ・ミュジカル』)

12の詩の音楽 (1913-1914、散逸)
歌詞: アンドレ・シェニエ(6曲)、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(6曲)
編成: 歌とピアノ
備考: 未出版、散逸

ギヤ・カンチェリ

  「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。ふとした偶然で2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK), PHP新書, 2012)を読み、「現代のロシア音楽」と著者の亀山郁夫さんが見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、カンチェリに関する記述を読んだ際に感じたことを、既に公開済の、主としてシルヴェストロフとの対比を介したそこでのマーラーの扱いに関する強い違和感を記した記事から抜き出して、その主旨とは別に取り上げる価値があると感じているカンチェリにフォーカスするように視点の変換を行った上で記録しておくことにする。

 そのことに対する認識が直接のきっかけとなったわけではないけれど、元の記事を書いた時点では、カンチェリは現役の同時代の作曲家であったのが、この記事を公開する時点では既に故人となってしまっている。彼はここ暫く世界を覆っている新型コロナ禍を知ることなく没したのだが、その後発生してこちらもまだ終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻は、元原稿の執筆に遡る南オセチア紛争を想起させずにはおかなかった。そうした変化の中で「音楽」について、そして「祈り」について考えていく中で、実は執筆当時は寧ろ疎遠であったカンチェリの音楽との距離は再び縮まり、今では、かつて出遭った時期以上に身近に感じるようになっていることがこの記事を起こすきっかけになっていることは間違いないだろう。またそうした距離の変化をもたらした出来事として、最近になって接することができたグルジア(現ジョージア)に関連した2つの書物との出会いがあることを付しておくことは、一旦過去の記事を再編するに留まるここでの作業をこの後継続するとしたら、それはどのような方向を目がけてのものになるかを標記することになるだろう。

 一つはジョーゼフ・ジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか?』(森田稔訳, アルク出版, 2017)で、これはグルジア民謡について知っている人には想像がつくことと思うが、人間の進化における「うた」の起源に関して、音楽は言語に先行しており、最初にまずポリフォニーがあり、モノフォニーは言語獲得の過程で生まれたという非常に魅力的な仮説を提示した著作である。

 もう一つは、兼本浩祐さんの『発達障害の内側から見た世界』(講談社, 2020)。第3章 了解するということ の末尾においてグルジアの「スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会」(p.123)についての説明が為されるのだが、それは以下の文章の内容と無関係ではない。というより私見では極めて密接な関係があるのだが、その点を論じるのはカンチェリの音楽にフォーカスした旧稿の再編集というスコープを大幅に超えることになるので、それについては稿を改めることとして、だが少なくともそれが、以下でカンチェリの音楽に関して検討している「世界」を含めた対象の意味づけの様態に密接に関わるのだということ、更にヤスパースの「了解」を導きの糸として検討されるさまざまな様態の中でも、記述や認識の対象とする仕方ではなく、「我々」としての了解でもなく、いわば「他者」として迎接するという様態に関わるが故に、以下で検討されるカンチェリの音楽のあり方と密接に関係しているということは指摘しておきたい。

 なお以下の記事中では「グルジア」という今や歴史的呼称となったロシア語風の呼び方をしているが、それもまた元記事が、「ジョージア」という呼称が正式なものとなる2015年4月以前に書かれたことに由来しており、その後の時間の経過の中で起きた変化を証言することになるだろう。いっそのこと自称である「サカルトヴェロ」を用いて書き換えることも考えたが、それは将来改めて取り上げる時のためにとっておくこととして、ここでは旧稿執筆時点の状態を残すことにした。

 2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」公式ガイドの著者は「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という規定をしているが、その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。そしてそこでカンチェリの音楽に対比されるのはシルヴェストロフの音楽なのだが、私個人について言えば、カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはない。さりとてカンチェリの音楽に対してさえ特段の強い拘りを持っているわけでもなく、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもなかったのだが、その一方でこのガイドブックの記述は私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、とりわけてもカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほどであり、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じた。シルヴェストロフの方は、「ガイドブック」の著者によってその音楽と「同類」であるとされたマーラーの捉え方に異を唱える(つまり同類ではないと私は考えるのだが、それは専らマーラーの側に関する異議申し立てであって、シルヴェストロフの側についてのそれではないが故に、そうした異議申し立て)という文脈の中に納まっているが、カンチェリについては必ずしもそうではなく、だからここで独立に扱うことに一定の意味があると考える。

 「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」というガイドブックの主張については、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という主張自体に異議があるわけではなかった。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではあった。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだという点が戸惑いの根源にあった。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。

 そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。

 文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。(ちなみに、よりツェランを主題的に取り上げ、彼をタイトルロールとする「オペラ」(と、その抜粋からなる交響曲)さえ書いているルジツカのような例を含めた上で、パウル・ツェランの詩を素材とした音楽作品として、カンチェリの作曲はほぼ唯一私にとって違和感のないものであったし、現時点でもこの点は変わらないようだ。)

 あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさと呼ばれるものとて、カンチェリによって自覚的・意識的に選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことはできないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。

 もっとも著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトがシュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。

 一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。

 だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統ではそうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説くレヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ支離滅裂にしか感じられない。

 ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品の間についてではなく、諸々の作品に共通する作者の世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているとは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションとYouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。

 典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように感じられる点、コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない点、内容においても、作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題としているのではなく、寧ろ世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものであるという点、総じて疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリとマーラーには一定の共通点があるだろう。

 だがその一方で、特に交響曲作家としてのカンチェリとの比較ということであるならば、西欧音楽の外縁において、非西欧的な論理を探求し、偶然にも同じ数の交響曲を残したシベリウスとの対比の方がより一層興味深いかも知れない。今一度、このガイドブックの「ミニマリスト・ブルックナー」という形容を思い浮かべた時、寧ろブルックナーに通じるのは、垂直方向の超越の運動の存在であり、シベリウスの音楽には空を仰ぐような視線があったとしても、その視線は水平線の彼方を目指すのでって、ほぼ水平方向の運動のみであって、その非宗教性という点で「西欧音楽」の一種としてみた場合に寧ろ異様でさえあるのに比べると、カンチェリの音楽に対して、ブルックナーに対してのように宗教性というラベルづけをすることに違和感がなさそうに感じられる。だがその音楽の時間的な構造、主題や動機というよりリズム細胞と呼ぶのが適切な非常に限定された素材を用いて長大で、シンフォニックと呼ぶに相応しい持続を編み上げていく点、ミクロには非常に長大なペダルへの嗜好やソノリティといった点においてカンチェリの音楽は、明らかに西欧音楽的なものから隔たっていて、寧ろシベリウスに近接するように思われる。その非構築的な契機の明白な存在だけとれば、ブルックナーにも或る種の「ミニマリスト」的な側面を認めることは可能であろうが、少なくとも長大なゼクエンツによって時間を押し広げていくブルックナーの音楽と時間性の観点ではほとんど接点はなく、「形容矛盾」と断った上で「ミニマリスト」という形容を付加するくらいならば、寧ろ西欧音楽が獲得してきた音楽的思考との断絶の廉でアドルノやレイポヴィッツにあれほど罵倒されたシベリウスこそを引き合いに出すべきだったのではなかろうか?

 ブルックナーもシベリウスも、その音楽における主観性が希薄であることを以って「木石の音楽」といった言われ方をするが、この点におけるカンチェリの音楽の相貌は両者とは明確に異なった独特なものであろう。既述の通り、そこでは非人間的な秩序としての「外部」が直截な仕方で提示されるのに対して、主観性の契機は(ノスタルジーなどではなく)「祈り」の「うた」というかたちで出現する。非対称な両者の間には「対話」は存在しないが、或る種の乖離したポリフォニーを認めることはできるだろう(そしてこの点については、特にマーラーの特に後期様式の或る側面との共通性を認めることができるのではないかと考える)。「私」が、「私たち」が、ではなく「風が」泣いている」という標題を持つ作品が「典礼」と規定されていることは、そのことをいわば外側から証言していると言って良いだろう。ブルックナーの場合とは異なって、ローカルな日常の風景が、何者かの息吹を受けて突如変容するというようなことはここでは生じない。だからといって主観が森の中に歩み入って消滅してしまい、後には森だけが残るというシベリウスでは起こり得たようなこともここでは生じない。ここでは「祈り」が残り、そしてそれは別の機会に、全く同じように「幽霊的に」反復されるのだ。その反復によって、「人間中心的な意味づけから解放されている」(かに見える)外部もまた変化を被ることなく「幽霊」のように再来する。「祈り」そのものは未来を持たないし、それ自体の時間性の裡に「成就」を含まない。シベリウスの場合には、外部の秩序(ノモス)の円環的な循環が示唆されるのに対して、ここでは「祈り」が備えている根源的な反復が示唆されているのではなかろうか。

 実は「人間中心的な意味づけから解放されている」というのは、他の生物にもその萌芽は見られるにしても、自らの有限性を認識するのみならず、言語を獲得し、自伝的自己を備えた「人間」の営みである限りにおいて、それ自体は極めて人間的という他ない「祈り」が備えている性格に他ならないのではなかろうか。そしてこの最後の点を批判的知性を以って構成主義的なやり方で提示しているのが、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする作品に他ならない。そこでは離散力学系によって決定論的に定められている作品の構造の外部に、人間が作り、人間が歌う「うた」があり、こちらもまた「儀礼」として行われる上演において、生成される音響に「暖かみ」が感じられる点において、カンチェリの作品との接点を見出すことができるように思われるのである。

(2012.4.30/5.1初稿, 2022.7.24改訂版公開, 2023.10.4 改題,2025.7.1 再公開, 7.2改題)