2024年5月23日木曜日

ブラームスと老い:「間奏曲」について

 ブラームスに関して言えば、「老い」に関して語ることは、その生涯と作品を語るに際して、従来より常に行われてきたと言って良いかも知れない。手元にある日本語で書かれた評伝を繙いて見れば、ブラームスの「晩年」について、独立の章立てをして語られていることが容易に確認できる。尤もここでの「晩年」の定義を確認すると、必ずしも一致せず、著作毎に少しづつ異なることにも気づく。例えば私が子供の頃に比較的容易にアクセスできた文献の一つである門馬直美『大音楽家・人と作品 ブラームス』(音楽之友社, 1965)の生涯扁は5章立てで、最後の第5章は「晩秋の活動」と題されており、その中は更に3つに分かれて、それぞれ「みのり多き秋」「精力集中の晩年」「重苦しい晩年」と題されている。最初の節の冒頭で確認できるように第5章はブラームスが53歳の誕生日を迎えた1886年のトゥーンへの避暑から開始され、2番目の節は1889年から始まり、最後の節は1894年以降に充てられている。21世紀になってから刊行された西原稔『作曲家・人と作品シリーズ ブラームス』(音楽之友社, 2006)では、生涯扁は6章立てで、最後の第6章が「静寂の晩年(1894年~97年)」と題されていて、題名に明示されている通り、最後の4年間が対象となっているから、これは丁度、門馬『ブラームス』では、第5章の最後の節「重苦しい晩年」のみを「晩年」としているのであり、他方、門馬が第5章の開始とする1886年は、西原においては一つ前の章である「内なる声の探求(1886年~13年)」と題された第5章の開始と一致する。従ってずれと見えたものは「晩年」という言葉を使うか否かの選択に起因するものに過ぎず、どこを画期とするかに関して言えば、稍々細かく見れば必ずしもそこに不一致がある訳ではないことがわかる。

 『吉田秀和作曲家論集・5 ブラームス』(音楽之友社, 2002)はその後2019年に河出文庫に収められて入手が容易になったが、その中には1974年に書かれた100ページを超える評伝「ブラームス ーHe aged fast but died slowlyー」が含まれていて、題名が告げている通り、ここでもブラームスにおける「老い」は主要なモチーフとなっている。全体は章分けはされずに番号のみが付された16節よりなっているのだが、その中で「老い」についての言及がされるのは、第14節の末尾においてであり、それは以下のように結ばれるのである。

(…)58歳で、彼は自分をもうすでに人生の創造から隠退するにふさわしい老人とみなしたのである。 

 ブラームスは早く年をとった。とりたかった。しかし死はなかなかやってこなかった。とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, p.126)

無論のこと、これは評伝全体のタイトルに付されたHe aged fast but died slowlyのパラフレーズであり、従って、この評伝の全体の焦点はここにあると考えて良いだろう。そしてここではブラームスの「晩年」は58歳から始まったと考えられていると見てよいだろう。では一体ここでの「晩年」の開始を告げるものは何だったのかと言えば、それは明らかに、上記引用の直前で言及される遺書の作成という出来事であった。それは弦楽五重奏曲第2番(ト長調、作品111)の完成にあたっての難渋がきっかけとなったとされていて、その傍証として、マンディチェフスキー宛ての手紙が参照され、更に翌年(1891年)のイシュルでの遺書の作成に言及されるのである。

「私は、最近、交響曲を含めていろいろと手をつけてみたが、どれもうまく進まない。もう年をとりすぎたと思うから、骨の折れるようなものは、これ以上書くまいと決心した。私は一生勤勉に働いてきたし、やることはもう十分にしつくしたと思う。今は、人に迷惑をかけずにすむ年になったのだから、平安を楽しんでもよかろうと考える」

 これは一時の気まぐれではなかった。翌年第58回目の誕生日を同じイシュルで迎えた彼は、遺言状を書いて、それを楽譜出版社で彼の管財人のジムロック宛送った。(吉田秀和『ブラームス』,河出文庫, 2019, pp.125-126)

そしてこの後に既に引用したこの節の結びの文章が来るのである。要するに、後世の人間がどのように彼の生涯を区切るにせよ、彼自身の行為として、1891年のイシュルでの遺書作成というのが自ずと画期しているという訳である。そしてブラームスに関して「老い」にフォーカスした時には、既に参照した二つの評伝の区分には拠らず、この所謂「イシュル遺書」を画期とするのが適当のように思われる。

 そして更にそれは「老い」の意識がその創作にどのように映り込んでいるかを確認する上でも妥当と思われる。なぜならば、何よりもまずブラームス本人の主観として、作品111の弦楽五重奏曲をもって「骨のおれる」大作の創作は終わりであり、その後の作品は、1曲毎の規模は小さく形式的にも簡素なピアノ作品を中心に、クラリネットのために書かれた室内楽を除けば、若干の声楽曲と最後の作品となったオルガンのためのコラール・プレリュード集よりなるからである。当然の反論として、ミュールフェルトとの出会いを契機として作られたクラリネット・トリオ、クラリネット五重奏曲、2つのクラリネットとピアノのためのソナタの存在を指摘し、なおかつ、吉田さんが「とても、作曲をやめて、隠退生活を楽しむようにはなれない。」と記しているのも、まさにそれを踏まえたものであるという指摘があるだろう。だが、その指摘の妥当性を認めた上でなお、「イシュル遺書」以降のクラリネットのための室内楽は、それなりの規模を備えた作品であるとはいえ、分水嶺となった作品111がそうであるようにはシンフォニックな志向を持った作品ではないし、例えばクラリネット協奏曲のような管弦楽曲が書かれることはなかった(実際、ミュールフェルト宛の書簡に、協奏曲を書くほど自分は不遜ではないという言葉が残されているらしい。門馬1965, p.136参照)ことを以て、ブラームスが必ずしも全面的に前言撤回したという訳ではない、と主張することもまた、可能なように思われる。勿論、「イシュル遺書」の作成は、不連続な心境の不可逆な変容といった出来事ではなく、万事において周到であったブラームスらしく、今風には、「終活」を開始した、ということなのだろうが。また、ことブラームスの場合にあって作品番号は、概ね出版の順序とみるべきで、必ずしも創作時期と一致するわけではない点に留意すべきであろう。従って作品番号が後であるからといってop.112, op.113が弦楽五重奏曲第2番よりも後に創作されたとは言えず、実際、op.112の四重唱曲に含まれるジプシーの歌こそ1892年作曲が確実であるにしても、op.112の他の曲の作曲時期は弦楽五重奏曲の手前に遡るらしいし、op.113の女声合唱のためのカノン集は、創作時期が同定できる作品は全て旧作に属し、偶々この時期に曲集として編まれて出版されたもののようである。それを言えば、作品116~119のピアノ曲集に含まれる作品の中には、他の曲と比べて若干雰囲気を異にするものがないとは言えず、旧作そのものとは言えなくても、旧作をベースにした作品である可能性もないとは言えないだろう。ブラームスの「終活」には草稿の破棄という作業も含まれていて、弦楽五重奏曲に取り掛かっていた1890年の10月にイシュルから自ジムロックに充てた手紙の中に、草稿の破棄を告げる言葉があるようだ。(門馬1965, p.123)そしてブラームスのこうした周到さは、後年の音楽学者がその創作のプロセスを追跡すべく、草稿を調べるという作業を不可能にするという結果をもたらすことになった。

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 それでは、そうした資料調査の手法に拠らず、作品自体の分析によって創作時期を推定するような手法が可能であるかどうか、特に計算機を用いたデータ分析のような手法による推定が行われたという話は寡聞にして知らない。実は、ブラームスの作品のMIDIデータは割合とたくさん存在し、フリーで利用可能なので、マーラーの作品について行ったような、和音の出現頻度に関する分析をすべく予備的な調査をやったことがあるのだが、少なくとも和音のパレットといったテクスチュアレベルを対象とする限りにおいては、後期作品をそれ以前と区別し、特徴づけるような結果は獲られなかった。例えば室内楽ないしピアノ曲に限定しても、単純な特徴量のみからブラームスの「老い」に対応する特徴を抽出・同定することが難しいことについては既に確認済である。だがこの結果は、ブラームスの作品を聴いていれば或る程度予想がつくことであり、所謂「発展的」な作曲家ではないブラームスの場合には、そうした表層的なレベルでの時系列的な変化が簡単に検出できることを期待すべきではないのだろう。更に言えば、実際に分析対象となる作品と分析で使用する特徴量について具体的な確認作業を行えば、一見したところ後期作品の特徴に見えたものが、初期や中期の或るタイプの作品については当て嵌まってしまうといったようなことに直ちに気付くことになる。人間にわかることを跡付ける分析よりも人間が気付かないような発見的な価値を持ったデータ分析を行うというのが理想であるには違いないが、そもそも人間には手に負えない大量のデータが対象であればともかく、そもそも過去に創作された有限の作品のデータを対象とした時には、対象の作品に対する十分な(とまでは行かなくても、こと私の場合に限れれば、せめてマーラーの作品と同程度の、個別の作品の詳細に関するものも含む)知識がなければ意味ある分析は覚束ない。恐らくは、作品の構造上の特性として、形式的な複雑さ、更に言えば、シンフォニックであるかどうかといった特性のようなものを反映した特徴量を定義することができれば、そうした点で簡素化の傾向が見られることがデータ上からも確認できる可能性はあるだろうが、それはごく表面的にしかブラームスの作品に接していない私のような立場の人間にとっては荷が勝ち過ぎているように感じられる。

 とはいうものの、私の限られた聴取の経験からすれば、作品114以降、最後の作品である作品122に至るまでの作品を「イシュル遺書」以後の作品群として、一つのグループとしてまとめてしまえば、客観的には思い込みに過ぎないとしても、それらの作品に、それ以前の作品とは異なる「老い」の兆候を感じ取ってしまうこともまた避け難い。一方で、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもするのだが(そして後で触れることになるが、具体的にはそうした曲は、タイトルとして「間奏曲」とブラームスが呼ばなかったものに属しているようだが)、そうした一部の例外を除けば、その作品が浮かび上がらせる風景の持つ質は、やはりそれに先立つ時期に比べれば、遥かに深まった季節のそれであることは疑いないことのように感じられるのである。だが、それが一体何に起因するものであるかを、具体的に技術的な仕方で突き止めることができないからには、言葉を幾ら尽くしたとて、所詮は「私はそのように感じた」の同語反復を超えることは難しい。

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 それでは、他の作曲家との比較においてブラームスと「老い」について、とりわけても吉田さんの言う「早く老いた」という言葉について考えてみてはどうだろうか。この言葉は既述の通り、「イシュル遺書」の作成に因んでのものだが、「早く老いた」という言葉そのものについて言えば、寧ろ円熟。実りの秋の訪れについてのものと捉え直すことが可能ではないだろうか。するとそれは、冒頭で触れた、「晩年」という言葉で指示される時期の評伝間のずれと関わっていることになるだろう。それどころか、それは「晩年」に先立っているとは言えないだろうか?例えばあの秋の気配に満ちた第四交響曲が、どの評伝においても「晩年」に先立つ円熟期の掉尾を飾る作品として扱われていることに気付いて、慌てて確認すると、それは1885年、ブラームス52歳の時の作品なのだ。更にもう一つだけ例を挙げるならば、あの「ドイツ・レイクエム」は1868年、30代半ばの作品なのだ。勿論、最初期のピアノ曲(例えば「4つのバラード」)や2つの弦楽六重奏曲、ピアノ協奏曲第1番といった作品を思い浮かべてみるならば、ブラームスにも「若々しい」作品がないわけではない。だが、これもしばしば言われる、意識としての、年齢に比しての「老成」ということを問題にするならば、これは遥かに遡って、もしかしたら子供の頃に家計を補うために酒場でピアノを弾いていた時の経験に遡るという見方さえできるのではないだろうか。

 それでは「ゆっくりと死ぬ」の方はどうか。すると、こちらに対しては違和感のようなものが湧き上がってくるのを抑えることが難しいことに気付く。いや、多分違うのではなかろうか。「死はなかなかやって来ない」とすれば、それは「老い」を長く生きるということに他ならない。そもそも円熟の最中で「実りの秋」を体現するような第四交響曲を完成させて交響曲の時代に区切りをつけたとはいえ、その後には充実した室内楽の傑作が陸続として生みだされるのではなかったか。「イシュル遺書」の後でも、ミュールフェルトとの出会いによって再びクラリネットのための室内楽が生み出されるが、それらについて、円熟の続き、晩秋の最後の実りであると言ってはいけないのか。ミュールフェルトとの出会いから、再び室内楽曲の創作に赴くことになる、その辺りの消息について、門馬さんは「このようなわけで、5月に遺言書を作成するころには、大曲への創作意欲がわきおこってきていたとみることができる。したがって創作と遺産整理と死への恐怖が当時みな心理的に密接に関連していたとは思えない。」と述べているが、それはその通りで、寧ろ遺書の作成は、言い方によっては「老い」に先立っての行動とみることだってできるだろう。

 だがそもそもブラームスにおいて「死はなかなかやって来なかった」という言い方は適切だろうか。72歳で没したブルックナーの葬儀の場に訪れながら、中に入ることなく「次は自分の番だ」と呟いたという言い伝えがあるが、その彼は70歳にならずに、それどころか、私のような今日の日本の給与生活者ならば年金を受け取れる年齢であるだけでなく、定年もまたそこに向けて延長されつつある65歳を前にして、64歳になる直前で没しているのだ。勿論時代の違いはあるが、58歳で引退を決意するのが仮に当時としても早い決断だったとして(だが、それとて「早く老いた」の意味するところでは勿論ないだろうが)、その後5年で没するのが「ゆっくり死んだ」というのは今日的な感覚からすれば当たらないだろう。かくいう吉田さんが全集を完結させたのは90歳を超えてからであり、吉田さん自身はその後更に98歳まで生きたではないか。(もっとも、吉田さんがこのブラームスについての評伝を書いたのは60歳を過ぎたばかり、丁度ブラームスが、西原さんのいう「静寂の晩年」にさしかかった年齢にあたることには気を留めておくべきかも知れない。吉田さんがそのことを意識していたかどうか、私には確認する術がないけれど、そして実年齢というのは、その人その人ひとりひとりの生の実質を基準にとるならば、所詮は相対的なものに過ぎないのだろうが、それでも吉田さんがこのことを意識して執筆に臨んだ可能性はあるのではなかろうか。)

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  ともあれ、ふとした偶然から、そしてそれは後世の我々、特に平凡な生を生き、長い老いを生きることになる我々にとってこの上ない幸運であったのだが、ブラームスは引退を決意した後に、更にいわば余録のような形で作品を残すことになった。そしてそれは意識の上では、まさに「老い」の音楽そのものではなかろうか。多くの作曲家は引退を意識することなく書き続けて没するか、さもなくば自発的に断念するのではなく、何らかの理由で書き続けることができなくなって、いわば創作の上での死後を人生の上での「老い」として生きることになるのに対し、ブラームスの場合には、周到に、まるで用意されたように「老い」の最中の音楽が遺されることになった。その期間は決して長くはないけれど、そして作品番号にして10に満たない量ではあるけれど、そしていわゆる「大作」は、定義上あらかじめ排除されているという立場をここでは取りたい(つまり作品111を最後に「大作」は書かれなかった、その後の室内楽は、その規模と構成にも関わらず、実質において「大作」ではないとかいう捉え方をしてみたい)が、そのことごとくが珠玉の傑作であり、かけがえのない価値を有する「小品」であり、それはまさに「老い」の音楽であると考えたい。(繰り返しになるが、例えばあのクラリネット五重奏曲でさえ、その曲の持つ雰囲気の共通性もあって、敢えて小品と呼ぶことにしたいし、規模とは裏腹の大きさと重みを備え、音楽上の「遺言」に相応しい「四つの厳粛な歌」も、それが管弦楽と合唱を伴う2つ目のドイツ・レクイエムとはならなかったという点で、やはり敢えて「小品」と呼ぶことにしたいのである。つまり、ブラームスの晩年の、「老い」の音楽は、基本的には「小品」であるというように感じるのである。

 ブラームスにおける「老い」の音楽を「小品」ということで特徴づけるとするならば、直ちに思い浮かぶのは曲数からすれば多数を占めるピアノ小品だろう。だが、或る種のプロトタイプのようなものを取り出そうとした場合、それは単なるピアノ小品というよりは寧ろ、その中で少なからぬ割合を占める「間奏曲」によって特徴づけられるのではなかろうか。作品117は3曲とも間奏曲であり、「幻想曲集」と名付けられた作品116は3つのカプリッチョと4つの間奏曲で編まれている。6曲よりなる作品118はバラード、ロマンスが1曲づつで残り4曲は間奏曲、最後の作品119は掉尾を飾るラプソディーに先立つ3曲はいずれも間奏曲である。要するに20曲のうち、14曲が間奏曲であり、数の多寡が全てであるとは限らないとは言え、この場合には「間奏曲」こそが「老い」の音楽のプロトタイプ、典型であると言って差支えないのではないかと私は考える。上で既に、作品116,119には、そうした先入観を裏切り、聴いていて場違いな感じを抱かせる曲が含まれたりもする、と記したが、それらは皆、カプリッチョ、ラプソディーと名付けられた作品であり、寧ろそれらは中期のピアノ曲との繋がりを感じさせるのである。ここでいう中期のピアノ曲とは、作品76の8曲と作品79の2つのラプソディーを指しているが、作品76は4曲のカプリッチョと4曲の間奏曲で構成されていて、作品79の2曲と併せてその割合が後期と異なる点が興味深い。これら中期作品を、それらがいずれも性格的小品であるという共通点を以て、所謂「後期作品」の嚆矢とみる立場もあるようだが、そして繰り返しになるが、「イシュル遺書」後の曲の中でも中期で優位を占めていたカプリッチョ、ラプソディーにはその反響が聴きとれるとはいえ、やはりそこには少なからぬ懸隔があるように思われて、それがラプソディー、カプリッチョと間奏曲の占める割合の変化と相関しているように思われてならないのである。その一方、バラードというタイトルを持つ作品には、遥かに時代を遡って、初期に標題性の強い4つのバラード(作品10)があるが、それと作品118の第3曲目のバラードとの懸隔は更に著しい。(詩を掲げるという点だけとれば、寧ろ作品117の第1曲が、標題性を示唆する作品であると言えるのかも知れない。)アレグロ・エネルジコとの指示通り、それはラプソディーのように始まるが、直ちにその力は弱まって、夢想の中で過去を回顧するような中間部が「語り」の実質であることに気付かされる。作品116の第4曲のロマンスは、タイトルの通り、甘美さを湛えた歌謡風の始まり方をするが、名残を惜しむような音調から夢見るような中間部が導かれ、その全体はやはり回顧的に感じられ、曲集の中ではバラードと対を為すような関係に置かれているように思われる。だが、それらのもたらすコントラストも他の間奏曲があってのものであり、基調となる響きはやはり「間奏曲」にあると感じられてならない。

 そしてそうした「間奏曲」の音調を余さず捉え、子供の頃に知って以来、長きに亙り、今なお私を魅了してやまないのは、間奏曲ばかりを集めたグールドの弾いたアルバムである。グールドにはブラームスの作品の録音としてはピアノ五重奏と、有名なエピソードのあるバーンスタインとのピアノ協奏曲第1番もあるけれど、ピアノ・ソロの作品としては、ソナタや変奏曲といった大曲ではなく小品ばかりを録音している。ここで取り上げた「間奏曲集」は何と30歳にもならない1960年に録音しているのに対して、中期の2つのラプソディーと初期の4つのバラードをその没年である1982年に録音していることが印象的である。それを知った後で聴けば、「間奏曲集」の演奏に或る種の若々しさを感じとることもできるように思えるが、正直に言えば、子供の頃にこの演奏に接した時(記憶によれば、アルバム全体を知る前に、吉田秀和さんが解説をされていたFM放送の番組で、メインのプログラムの後に少し空いた放送時間枠を埋めるように、グールドの弾く作品117の第1と作品118の第6の2曲の間奏曲が放送されたのを聴いたのが最初だったのではないか)には、演奏しているグールドの年齢のことなど考えることすらなく、それまで知っていたブラームス、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」や第3番、4つの交響曲とヴァイオリン協奏曲に加えて弦楽六重奏曲第1番くらいしか知らなったブラームスに対して自分が勝手に作り上げていた、若くして老成し成熟した、内省的で打ち解けない孤独な音楽家の晩年に誠に相応しい音調を見出して、心の底から感動し、魅惑されたのであった。この時の吉田さんの選曲もまた卓抜と言うべきで、詩が銘として掲げられ、歌謡性が強くて具体的な海のイメージを喚起する強い力を持ち、若き日への、更には幼少期への「回顧」の趣が強い(但しそれは特定の具体的な、例えばブラームスその人の過去に遡るというよりは、或いはそのことを通じて更に、いわば「ありえたかもしれない」、実際には一度も経験されることのなかったかも知れない幸福に満たされた過去を追憶するのであって、それゆえそこに込められた感情的な負荷は耐え難い程の苦悩に満ちたものになる)作品117の最初の曲と、こちらはそうした回顧する意識の現在の場の沁みいってくるような寒気と荒涼の中において、その回顧を支配する「もう元には戻れない」という不可逆性の意識、否、その過去が「ありえたかもしれない」ものであるならば、「もはや辿り着くことのできない」という到達不可能性が意識にもたらす凍てつくような絶望感に満たされた作品118の最後の曲とは、いずれも「間奏曲」というタイトルを持つ作品群の持つベクトルが最も明確に、極端な形で表れた作品と言えるのではなかろうか。それらはそれぞれ、この曲を知ってしまえばもう元には戻れないというような強い力によって聴き手を捉えて止まない。だがその後、グールドのアルバム全体に接して特に私の心を惹きつけたのは、作品118の第2のイ長調の間奏曲で、この曲と最初に接した2曲とが私にとっての「間奏曲」のプロトタイプのようである。私見では作品118の第2の間奏曲は、間奏曲というよりは寧ろ後奏曲(所謂フィナーレ=終曲ではないことに注意)、最初から「終わり」「結び」の気配が漂い、曲集で先行する第1ではなく、実際には聴いていない、先行する時間的経過に対して回顧するような気配を強くもった音楽である。これもまた晩年の間奏曲「様式」とでも言うべきものの特徴と考えてもいいように思うのだが、音楽的散文の代表であるブラームスとしては整った楽節構造を持ち、楽式としてはシンプルな三部形式を持ちながら、その旋律は、言ってみれば終わりの結びの句から始めて、一旦少し前に戻った後、形を変えて短かく再現すると弾き収めの楽句が続くという具合に、名残を惜しみつつ、何かの終わりを確認しているように、もっと言えば、何かを終わらせるプロセスそのものであるように感じられるのである。それは勿論、自分の心境や感慨とは程遠く、寧ろ、理想の「老い」のかたちとでもいうべきものに感じられ、そこから慰藉を引き出す一方で、自分がそうした心境についぞ至れず、至ることがなさそうなことについて、苦々しい諦めを抱かせるような存在なのである。 

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 音楽創作の上では、その後言葉を伴う「遺言」として、聖書をテキストにした「四つの厳粛な歌」を書き上げ、一番最後には自分の音楽的伝統の由来を確認するかのように、コラール前奏曲集を書き上げて、申し分なく完璧に「老い」を全うしたかに見えるブラームスだが、実生活の上では、同様に水も漏らさず完璧に、という訳には行かなかったようである。ここでは「イシュル遺書」作成後の「終活」の経過を辿ることで、その首尾を確認して、稿を閉じることにしたい。

 「イシュル遺書」の作成についてはどの文献でも等しく言及されているけれども、その後の経過については、文献により扱いは様々のようだ。大作曲家ブラームスの人と音楽を語るということが目的である以上、普通の人間であればそちらがメインである事柄が背後に退くのは仕方ないことだろうが、主として比較的詳しい門馬さんの語るところに従って集約すると、その後以下のような経過を辿ることになる。

 1891年5月に書かれた「イシュル遺書」は友人であり、財産管理人でもあるフリッツ・ジムロックに同年8月に送られる。だがその後、1892年の姉のエリーゼの死を機会に、変更を思い立ってジムロックから取り戻したようである。そして1895年5月には、新しい別の遺言書の送付についてジムロックに手紙で告げているという。更に没年である1897年2月7日にフェリンガー夫妻に対して遺言書の細部についての相談をし、それに基づいてフェリンガーが遺言書を作成、ブラームスに渡したのだが、ブラームスは直ちに署名をすることなく、遺言書を引き出しに入れたまま死の床に臥せることになり、そのまま死んでしまうのである。西原さんは「イシュル遺書」に言及した後直ちに「彼の遺書には不備があり」(西原2006, p.188)と簡潔に記しているが、その不備の実態というのは、門馬さんの記述によれば、「イシュル遺書」の撤回と、新しい遺言書の作成があり、だが新しい遺言書にブラームスが署名し、それが効力を発するようになる前に作業が永久に中断してしまった結果、「ブラームスの遺言書には、法律的には正当な効力のものがない」(門馬1965, p.126)ということらしい。

 良く知られているようにブラームスは生涯独身であり、子供がいなかったから、その遺産の相続に関しては、複雑な相続関係が生じることが容易に想定できるし、それに加えて法的な効力のない、内容の異なる遺言が複数存在するのだから、死後の相続についてトラブルが起きそうなこともまた想像できる。(推理小説が好きな向きには、さながら素材として格好の状況であろう)その顛末はもはや本人の没後の事柄に属するから、それについての詳細な記述を評伝に求めるのは無いものねだりというものかも知れないが、「彼の死後、遺産相続にかんして複雑な問題をひきこすことになる」(西原2006, p.188)、「(…)ブラームスの死後、遠い親戚まであらわれて、遺産の分配について訴訟問題さえおこったのだった。」(門馬1965, p.126)とまで書かれると、相続そのものは誰彼となく、平凡な市井の人間にも等しく起こることで、成功して資産のある子供のない独身の叔父が被相続人となった場合の厄介さは、孤独死が珍しいことではなくなった今日の日本では、寧ろありふれた事柄ですらあるかも知れないが故に他人事ではなく、その帰趨が気にならざるを得ない。さりとてブラームスの熱心なファンでもない私の手元にある文献は限られているし、他の文献を渉猟するだけの時間的なゆとりの持ち合わせもなく、Webで情報がないかを探してみると、2014年11月4日の日付のGeorg Predotaという研究者が執筆した記事、Estate Johannes BrahmsというのがInterlude(図らずも、Intermezzoそのものずばりではないが、これまた「間奏曲」であるのは奇しき偶然であろう)というWebサイトに掲載されていたので、それをご紹介してこの稿を終えることにしたい。恐らく参照している伝記上の出来事が異なるからであろうか、細かい日付や取り上げられている内容については微妙なずれがあるけれど、遺書の再作成に関するアウトラインは一致しており、更に遺言の具体的内容やその後の係争とその顛末について要領よくまとめられているので、大まかな状況を把握するには十分ではなかろうか。(2024.5.22/3初稿)


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