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2010年7月10日土曜日

戦前のフランク受容と私-私の父と、『洪水』誌の池田康さんに-

セザール・フランクは、私がマーラーより前に、シベリウスより前に聴きはじめ、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであった。 私は別段音楽的な 環境に育ったわけではないが、それでも若い頃にはフルートを嗜んだらしい父親が祖父から継いだ家業をやめ、 会社に就職して郊外の田園地帯で借家住まいを始めると同時に楽器は止めてしまい、 その代わりにポータブルのラジカセでFM放送をエアチェックしつつ カセット・テープに録音したクラシック音楽を聴き返すのを耳にしながら育った。 そして父のライブラリに含まれる音楽で今尚、間歇的ではありながら継続して、特定の作曲家に対する関心をもって私が聴き続けているのは唯一セザール・フランクのみなのである。
 
父親のコレクションの中に含まれていたフランクの作品は、交響曲二短調(エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団)、ヴァイオリン・ソナタ(イツァク・パールマンのヴァイオリン、ヴラディミル・アシュケナージのピアノ)、ピアノ五重奏曲(サムソン・フランソワのピアノ、ベルネード弦楽四重奏団)の3曲に過ぎない。 父のコレクションにフランクの音楽が含まれていたことは、 その3曲が選択されたことも含めて、父個人の嗜好の問題に還元してしまえるものかも知れないが、 それでもなお、事実問題として過去への辿る経路が存在したことは確かなことである。 そもそも父の音楽の嗜好は、どのようにして水路づけられたのであろうか。父亡き今はそれを確認する術もないし、生前とて寡黙で自分のことを語ることのほとんどなかった父からそうした話を聞き出せたとも思えないが、そこには選択が働いていたに違いなく、その背景には父が生きた時代の音楽観のなかの或る種のもの、父が共感したタイプのものの反映があるに違いない。 そしてそうした音楽観の影は、例えば私がそのようにしてフランクの音楽を知るようになった時期の日本の公立学校における音楽の初等教育におけるフランクの位置づけにまで伸びていると考えるべきだろう。 フランクの音楽が学校の音楽室に響くことはなくても、音楽史の中でフランクは確固たる存在だった。
 
勿論フランクについての情報は今もそうだが、その当時も極めて乏しいもので、 辛うじてビュアンゾのフランク伝を田辺保が訳したもの(エマニュエル・ビュアンゾ, 『フランク』,田辺保訳, 音楽之友社, 1971)が読めたくらいだった (ちなみにこの本は何度再読を試みても 私には訴えてくることのない著作であり、 さりとてリファレンスとしては不充分であって、私のフランクへの熱中に水を差す役割しかしなかった)のだが、 それとて過去への遡行を妨げるものでは決してない。 実際に調べてみれば寧ろ最近よりも戦前の方がフランクの音楽は真摯に受容されていたらしい節すら窺われるのだ。 例えば何かの偶然で視聴する機会のあった戦時中のニュース映画のBGMが フランクの二短調交響曲の第1楽章であることに気付いて、戸惑いを覚えたことがある(注1)。 フランクがベルギー生まれで実は寧ろゲルマン系の血をひいていることは知っていたものの、それでも一応は敵国であったフランスの音楽の筈であって、 もしかしたらヴィシー政権などとの関連で微妙な部分があったのかも知れないし、ナチスの同盟国ではあっても、シュトラウスの皇紀2600年祝典の音楽が響いた同じ時期にすらユダヤ人マーラーの音楽がこれまたユダヤ人であるローゼンシュトックの指揮で演奏されるような極東の特殊性があったのかも知れないが、そんなことは知りもしない子供には不思議に感じられた訳である。

(注1)確認できた限りでは、第二次世界大戦中、所謂国策会社としてニュース映画を製作した日本映画社のニュース映画「日本ニュース」(1940年~1945年)のうち、以下のもののBGMとして交響曲ニ短調第1楽章が用いられていることがわかっている。(リンクを踏むとNHKのアーカイブに移動します。)
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そうしたどちらかといえば断片的な例ではなく、より直接的な受容の裏づけを求めても、戦前のフランク受容を裏付ける素材には事欠かない。 例えばダンディのフランク伝が(一部抄訳とはいえ)翻訳されたのは昭和7年のことだし(谷口知平・河野通一訳、三才社、昭和8年6月1日には再版されており、 昭和7年11月11月10日印刷、11月15日発行だから1年を経ずして再版されたことになる)、 フランクの音楽のうちの何曲かはすでに昭和の初期に来日した演奏家のリサイタルで、 あるいはレコードによって日本で聞くことができたようだ(注3)。 例えば昭和10年9月号の「レコード音楽」という雑誌(名曲堂発行)(注2)はセザール・フランク特集で、  後書きに「一部には極めて名声が高いにも拘らず一般には余り理解されないのは、 (レコード界から申せばひどく売行が悪いそうです)ブラームスとフランクとでありましょうが、 少なくとも”近代のバッハ”と呼ばれるフランクに対して、もう少し注意が向けられていい筈であると考えます。」 (原文は旧字旧仮名)といった文章が見られ、当時の受容のレベルが窺われる。 私の受け止め方では、やはり売れ行きが悪いのかと思うよりも、ブラームスと良い勝負くらいとは随分その後差がついてしまったものだという驚きの方が先に立つ。 寧ろ当時フランクは過大評価されていた、という見方をする人が居ても不思議はない気がするくらいである。(恐らくそれには、フランキストの筆頭であるダンディがギルマンとともに創設したスコラ・カントルムがパリ音楽院とともに当時の日本人音楽家の留学先として有力であり、少なからぬ著名な日本人音楽家が門人であったことも影響しているに違いない。)

(注2)『レコード音楽』第9巻第9号(名曲堂発行、昭和10年9月)のカバー及び目次


(注3)当時日本で聴くことができたレコードについては、例えば『レコード音楽』第9巻第9号(名曲堂発行、昭和10年9月)に含まれるフランクの作品を収録したレコードの以下の広告からも窺えるだろう。

 またこれはつい最近になって知ったことだが、例えば河上徹太郎のフランク論は、 私が別のところに書いているような自己の経験とは直接には違った文脈でではあるかもしれなくても、 数十年後にそれと知らずにフランクの音楽を聴いた子供が確かに聴き取った音調と類似した何かを確かに聴きとっていたことを告げているように感じられるが、 それもまた昭和の初期に書かれているのである(「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」の初出は昭和5年)。 河上と親しかった堀辰雄の文章にもセザール・フランクのヴァイオリン・ソナタに言及したものがある(注4)のは随分前から知っていたが、 河上徹太郎の文章を読んだのは最近、ふとした偶然によるもので、だから河上の文章を読んだときには非常に驚いた。 彼も言っているが、そのようなことを言っている人を私もまた他に知らなかったし、彼が聴き取ったあるものを、私もまた聴き取っているのは確かだからだ。

(注4)軽井沢を扱った「木の十字架」(リンクを踏むと青空文庫に移動します)。この文章では、立原道造が堀の結婚のお祝いに送って寄こした二枚のレコード、即ちタイトルの由来となったフランスのラ・クロア・ド・ボア(木の十字架)教会小聖歌隊歌唱の聖歌2曲のレコードとドビュッシーの「もう家もない子等のクリスマス」のそれが重要なモチーフとなっているが、それらを縁取るようにしてさりげなく「(…)私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては(…)」というようにフランクのヴァイオリン・ソナタが登場する。
   
河上徹太郎に関連して更に言えば小林秀雄はフランクを聞いて吐いた経験を河上の全集によせた跋文で披露しているし(注5)、 こちらは河上の回想によれば、 小林秀雄の有名なモーツァルト論の背後にもフランクの音楽の影があり、 更にはそれが晩年に至るまで伸びているにも関わらず、小林秀雄はそれをある意味では抑圧し続けたらしいことをこれまた最近知ったが、 このことは、河上徹太郎のフランク受容のある側面と照らし合わせるに、小林秀雄の音楽論に私が非常に強い反発を覚える点と密接に関係しているようで腑に落ちてしまった。

(注5)『河上徹太郎全集 第1巻』(勁草書房、1969)所収の「跋語」(同書pp.511~2)   

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河上徹太郎にとってフランクは重要な作曲家であったようだ。彼は3回フランクについて書いていて、 その最初が上掲の昭和5年の「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」(これは 昭和5年2月刊行の「文学」第5号が初出で、その後『自然と純粋』に再録された)、 そして昭和12年に「新女苑」9月号に掲載された「瞑想の楽人セザール・フランク」 (後に昭和13年12月20日に 創元選書7として刊行された『音楽と文化』の第1部「楽聖物語」の一部として再録されるにあたり「フランク」と改題)があり、 これらはいずれも勁草書房刊行の河上徹太郎全集第4巻に収められている。 更に戦後の昭和28年に「新潮」に連載され、 翌昭和29年1月に新潮社より刊行された『私の詩と真実』には「フランクとマラルメ」が含まれている。 (こちらは講談社文芸文庫に2007年に収められたので、 比較的容易に入手できるだろう。)
 
だがそれだけではなく、初期音楽論の文字通り掉尾を飾った「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」に先立って、 昭和2年10月に諸井三郎を中心に結成された楽団「スルヤ」に 参加した河上は、「スルヤ」のパンフレットに「諸井君の印象」(昭和2年10月)、 「再び諸井君の音楽について」(昭和3年5月)という文章を寄せているが、これらの文章においてフランクの音楽は 非常に重要な役割を果たしており、 諸井三郎論に仮託したフランク論として読むことが可能な程である。 しかもこれらの初期音楽論もまた、勁草書房版の全集を編むにあたって割愛されることなく 収録されていて(第4巻所収)、 後年の河上にとってもそれなりの意義を持つ文章であったことが窺えるのである。
 
河上のフランク論は、河上自身そう断っているように、ジャック・リヴィエールのフランク論に触発されたものであるが、 河上は、佐藤正彰、富永惣一、小林秀雄とともにリヴィエールの エチュードの翻訳をしており、 その中で件のフランク論を含む音楽論の部分と序文を河上が担当している翻訳書の刊行は、初版の奥付を確認するに、昭和8年10月、芝書店からであった(注6)。 戦後の「フランクとマラルメ」は、主旨から言っても回想であって、 河上のフランクの聴き方は昭和5年の「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」に端的に現れているといって良いだろう。 勿論、「フランクとマラルメ」の中で河上は、リヴィエールのフランク論にも、「スルヤ」と諸井三郎のことにも、 「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」にも言及している。 ちなみに「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」が掲載された「文学」は堀辰雄達が中心となっていた同人誌であって、 いずれも軽井沢をしばしば訪れていたようでもあり、 だから堀辰雄の「木の十字架」の文章の中でフランクのヴァイオリン・ソナタが出てくるのも、 精神的な圏なり風土なりとしてはごく自然なことであったことがわかる。

(注6)勁草書房版『河上徹太郎全集』では第7巻所収。(同書pp.13~4)
 
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こうして見ると昭和初期にはフランクの音楽のプレゼンスは確たるものがあり、しかも単に人口に膾炙しているのみならず、 非常に突っ込んだ受容が行われていたことが窺える。寧ろ戦後は フランクの音楽は隅においやられてしまった感すら無きにしもあらずで、 確かにダンディのフランク論の別の訳が音楽之友社の音楽文庫の1冊として刊行されたり(ヴァンサン・ダンディ, 『セザール・フランク』, 佐藤浩訳, 音楽文庫69, 1953。なお生誕200年に因んで、2022年12月にアルファベータブックスより復刊された。)、 冒頭で触れたビュアンゾの フランク論の田辺保による翻訳が、これもまた音楽之友社の<不滅の大作曲家>シリーズの一巻として刊行されたり(エマニュエル・ビュアンゾ, 『フランク』,田辺保訳, 音楽之友社, 1971)といったことはあっても、 寧ろフランクはフランス近代音楽史上の意義によって語られることが中心となり、その音楽そのものの受容が更に進んだとは言い難いのではないか。 言ってみれば文化史の叙述には欠かせない顔であっても、その音楽が今、ここで切実なものとして聴かれるようなことは寧ろ稀になったと言うべきなのかも知れない。上述のリヴィエールのエチュード所収のフランク論以外にも、アランの芸術論の中にもフランクについての文章があった(これはみすず書房刊行の山崎庸一郎訳『芸術について』に収められている(注7))。日本国内に目を転じると、上述の「フランクとマラルメ」を含む河上徹太郎の『私の詩と真実』が1954年の刊行だが、同じく戦後間もなくの刊行の片山敏彦『詩心の風光』(みすず書房, 1949)にもフランクについての文章があり(注8)、更には今でも文庫本で読むことができる吉田秀和『主題と変奏』は著者の最初の評論集で、佐藤浩訳のダンディのフランク論の翻訳と同じ1953年に刊行されたものだが、これにもまたフランク論が収められている(注9)といった具合で、錚々たる書き手がフランクを論じていたことを思い起こすに、そうした感覚には否み難いものがある。

(注7)アラン『芸術について』(山崎庸一郎編訳, 2004, みすず書房)所収、「セザール・フランク」(pp.200~209) 
(注8)片山敏彦『詩心の風光』(みずず書房, 1949)所収、「セザール・フランク」(2005年新装版ではpp.346~361) 
(注9)吉田秀和『主題と変奏』所収。「V. セザール・フランクの勝利」(中公文庫版ではpp.82~101)
 
河上徹太郎全集第4巻にちなんで戦前のフランク受容を窺わせる話題をもう一つ書き留めておけば、 第4巻の解説において遠山一行はやはりフランク論に繰り返し言及しているが、のみならず、 その末尾において武満徹に言及するところでもう一度、今度は遠山自身が武満の「弦楽のためのレクイエム」に 「セザール・フランクの和声的陰影と独特の持続に近いものを感じて びっくりした」(注10)というふうにフランクに言及するのである。 続けて遠山は「一年ほど前に、武満自身の口から、彼の音楽体験の出発点の一つにフランクから受けた感動があったことをきかされたのを思い出したが、 彼は西洋音楽の古典をなにも知らぬうちにフランクに接して、音楽のもつ力を発見したのである。」(注11)と記している。 遠山自身はフランクの音楽の「ロマン性やゲルマニズムのために親しみにくいもの」(注12)であると明言し、 それゆえ河上のフランク論にも理解しがたさを感じていると率直に書いているけれど、 この武満にまつわるエピソードがそれだけに一層、 遠山自身にもインパクトのあるものであったことは想像に難くない。 更に言えば「西洋音楽の古典をなにも知らぬうちにフランクに接して、 音楽のもつ力を発見した」というのは、 恐らくは多少は時代が下った武満のみならず、寧ろ昭和初期にフランクを聴いた日本人の多くこそはそうであったに違いないし、 翻って、時代の 経過とともに却って遠近感が喪われた結果、色々な音楽に等距離に接することができるようになった私の世代についてもやはり生じうる事態であって、 実際に私に起きたのもまた、そうした事態であったことは強調さるべきことに思われる。

(注10,11,12)勁草書房版『河上徹太郎全集』第4巻解説(同書p.663)。
 
いずれにしてもフランクの音楽の受容は、かくして父を介することによって私のような枝葉にも及び今日に至っているという言い方はできようし、 マーラーの場合とは異なって、フランクの場合には、 私は戦前以来のフランク受容の末端に確かにいるのだという自覚を持たざるを得ない。 とはいえ一方でフランク自身の生きた文脈での彼の音楽の受容、更には戦後のフランス、 あるいは今日のフランスにおけるフランクの受容について私は全くといって知らないし、興味もなく、フランクその人についても、 例えばマーラーのような関心を持っているわけではない。 自分の受容のあり方がどれくらい日本の文脈固有のバイアスによって歪められているのかを測定することも私の手には余ることで、 そうした作業は、ここのところブームと言える程の進展を見せたらしい「洋楽受容史」とやらで専門の先生方がやればいいことであるに違いないが、 いずれにせよ、時代を隔てて河上徹太郎が聴き取った音調が、自分が子供の頃に見出し、 今尚、結局のところそれを全く無しにして済んだものとすることができずにいるそれと、同じではなくても少なくとも照応はしていると感じられるのは、 他のどんな作曲家についても起きないことで、もう少しその内実を探求したいような気持ちに囚われているのである。
 
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河上徹太郎にとってフランクの音楽は、音楽から離れて文学への進む契機となったようだが、それは私にとっては関係の無いことだし、 象徴派詩人との照応についても主題的な関心は私にはなく、その是非を判断することもできない。 私にとって興味深いのは、フランクの音楽を「自意識の問題」が映り込んだものとして把握したその把握の仕方であり、 それがフランクの音楽の或る種の押し付けがましさ、 頑なに閉ざされた単調さと繋がっていることを見抜いた点であり、 そして私自身にとってそうであったように、河上にとってもそれが或る種の相転移を惹起する契機となるような、 特殊な相に属する音楽であったらしいことだ。
 
そういう点でのもう一つの共通の参照点はジッドの『狭き門』であろう。 こちらについては河上の見解に私は与することはできないけれど、それでいて 或る種の力学的な風景の把握という点では、 実はそんなに遠くはないのではという気が同時にしているのもまた、否み難いのである。勿論フランクはアリサとは異なって、 相転移の領域の向こう側に行ってしまいはしなかったし、 フランクは(例えば弟子のデュパルクとは異なって)そうした姿勢を沈黙に至る軌道の一部とするような力学によっては 生きていなかった。 だが「良いものを少しだけ書け」と弟子達に命じた彼もまた、一歩間違えれば沈黙に至るような領域を歩んできたのだし、 実際にそうした危機と常に無縁であった わけでもないようだ。 皆が訝しがることだが、フランクはそうした不毛さからかくの如き音楽を紡ぎだすことが出来る地点に到達することができた。 或いは実際にはそうした到達点における 成果をもってしてもなお、その音楽を不毛として退ける人も少なくないのだろう。 或いは小林秀雄のように、引き寄せられながらも結局は生理的な拒絶感を惹き起し、さりとてなかったことにすることはできず、 だが表面はそ知らぬふりを決め込むような受け止め方もあるだろう。 実際私にとってもフランクの音楽は或る種の危険を孕んだものなのだから、そうした反応とて一概に否定することは できないのである。
 
そういえばリヴィエールのエチュードの翻訳でジッド論を担当したのは他ならぬ小林秀雄だった。 私がこれも幼少より読んできた『狭き門』の翻訳は 大正12年(1923年)に新潮社から刊行された山内義雄訳である。 これは日本で初のジッドの著作の全訳だったが今でも新潮文庫に収められていて、私もまた、新潮文庫に収められたそれを手にしたのであり、 寧ろフランス語の原文で読むことが専らになってなお、山内訳はわざわざ文庫本を買い直して手元に置いてあった。 当時の私は気付かなかったし、ごく最近まで、寧ろフランクの 弟子であったデュパルクの歩みとの比較を思ったことはあったものの、 (そしてそれは同じ領域を別の軌道で歩んだフランクが凡そ非文学的な人間であったこともあって 迂闊にも気付かなかったのだけれども、) これまた河上徹太郎の文章に接して始めてはっきりと認識することになったことなのだが、こちらもまた寧ろフランクの受容のすぐ隣の圏にあった筈なのである。 (付言すれば1932年12月からルイ・マルタン=ショーフィエ編集のジッド全集が刊行されるのと 恐らくは呼応して 日本でのジッド全集の刊行が開始されたのは1934年4月のこと(出版社は建設社)で、 河上はこの企画にも参加し、幾つか翻訳もしている。)
 
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そうした点も含め、私が戦前のフランクの受容とどこかで接していて、裏返せばそれに暗黙裡に規定され、 自由ではないのは確かなことのように思われる。それゆえ繰り返しになるが、 日本におけるフランク受容史は私の関心の裡にはないけれど、 河上徹太郎のそれに関しては、距離を測ることによって、自分にとってフランクがどんな存在であるのかがもう少しはっきりするように思える。 河上自身、戦後になって『私の詩と真実』と題して、過去の自分のフランク受容を、 白洲邸に疎開したことが契機となって昭和22年の11月だから 45歳の年以降、終の棲家とした「都築ヶ丘」、 川崎市の片平の居宅(現在の川崎市麻生区白鳥)にて改めて検証したのだった。 そしてそのことに気付かずにやはり「都築ヶ丘」に住み、すっかり変わってしまったとはいえ、 同じ風景をそうとは知らずに眺めていた私が、こうした事実に気付いたのも偶々同じ歳のことだった。 単なる偶然とはいえ不思議な暗合という他ない。 そしてこれは単なる余談だが、「スルヤ」のことを知ったときに反射的に思い浮かべたのは、 三輪眞弘さんの特集を一昨年に編んだ『洪水』誌のことであった。 些か牽強付会になるが、フランク受容の過去を跡付けることになど大きな意味はないに違いなく、 それは寧ろ自分が閉ざされている閉域の境界を確認する作業に等しいのであって、 勝手ながら『洪水』誌の編集人である詩人の池田康さん(奇遇にも池田さんもまた、本稿執筆時点では「都築が丘」の住人である)の顰に倣えば、 今私に必要なのは、現在に相応しいモデルと言語によって フランクの音楽の受容のあり方を突き止める作業なのに違いないのである。 (2010.7.4/10, 2023.4.2加筆, 2023.10.12 交響曲ニ短調の「日本ニュース」での使用について追記, 10.20 「レコード音楽」誌画像を追加するなど、注を追加)

2005年5月31日火曜日

セザール・フランク 「別の部屋」からの響きについて

フランクは私にとって最も古い地層に属する。私がマーラーよりも、シベリウスよりも先にひきつけられた作曲家だった。その音楽を聴いたのは、いわゆるクラシック音楽に興味を持ち出して間もなくの事で、交響曲とヴァイオリンソナタの2曲くらい(あとはピアノ五重奏曲)しか聴くことができなかったにも関わらず、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであった。その後常に熱心な聴き手であったとは到底言い難く、しかも聴くといっても晩年の数曲(つまり、上述の交響曲とヴァイオリンソナタ、ピアノ五重奏曲以外では、弦楽四重奏曲、ピアノのための「前奏曲・コラールとフーガ」、オルガンのための「3つのコラール」、更に加えるならば「前奏曲・アリアと終曲」やオラトリオ「至福」など)だけ、それらすら実際にはそんなに頻繁に聴き返さないのだけれど、ずっと奥底にしまわれていて、ときどきそれが浮び上がってくる。今や、その何というか、独我論的とでもいうべき自足性と、それと同居している何か飢餓感のようなものの強度にたじろいでしまうほどなのだけれども、忘れることができないという点ではこれは徹底している。フランクの音楽構造上の特徴としては「循環形式」が挙げられることが多いが、言ってみれば私にとってはフランクの音楽が循環主題のごときものなのかも知れない(そしてこのことは決して牽強付会でもなければ、偶然の産物でもなく、寧ろ個体の生成と自己の確立・維持のメカニズムに関わっているに違いない)。ちなみに、私にとっても、大方の見方どおりフランクは晩成の作曲家である。ある時期に若き日の作品をまとめて聴いてがっかりしたことがあり、結局、後述するフランク自身の自己の発見と確立を証言する一部の作品(ヴァンサン・ダンディのモノグラフ末尾の作品表によれば、第二期の作品の一部)を除けば、ピアノ 五重奏曲あたりから始まる「傑作の森」(同じく第三期の作品群)を聴けば充分であるように感じている。

晩成の作曲家であることに加えて、オルガンの名手であることや信仰との結びつきをもってフランクはしばしばブルックナーと対照されることがあるようだが、これは個人的には些か信じ難い。同時代に生き、しかも実際に交流もあり、更にはお互いを評価しあっていたらしいのだが、にも関わらず私がその音楽から受ける印象は全く異なるからである。かつて、フランクの音楽をたっぷり聴いた後で「フランクに良く似た作曲家」ブルックナーの交響曲を聴いたとき、その音楽にほとんど似たところがないことにびっくりしたことがある。ブルックナーの音楽には外に向かう広がりがあり、その音楽は生活世界に根ざしたもので、それゆえあからさまなローカリティを感じさせるものであるのに対し、フランクの音楽は徹底的に内面的で閉ざされていて、身体性すら捨象したような心の音楽であり、そこには風景というものはない。

フランクの音楽には他者がいない。葛藤はあったとしても視界からは事前に排除されてしまっていて、暴力的に空間を歪める存在は、地平の外に追いやられている。これは独我論の世界なのだ。従って弁証法的な動性はなく、静的で閉ざされた空間であり、それゆえ劇的な構想を持つ音楽は、オペラであろうが、オラトリオであろうが困難だろう。晩年の傑作群にしても、勿論ジャンルの違いがあり、曲想の違いあっても、驚くほど均質な印象を覚えるのだが、それにはそうした他者の排除が関係しているように思われる。レムの「ビット文学の歴史」に、神秘主義文学を情報量の観点から分析するというアイデアがあったが、フランクの音楽の持つ相貌のある種の単調さは思わずそうしたことを思い起こさせずにはいない。ジャンルの多様性についていえば、若き日のピアニストとしてのキャリアや、その後のオルガニストとしての名声にも関わらず、結局のところフランクは楽器のために作品を書くタイプの作曲家ではなかったように思われる。例えばそのオルガン曲は大オルガンの機能をフルに用いているとは言い難く、従って、その後の世代への影響の大きさにも関わらず、フランクをオルガン音楽の大家として評価することに留保をつける意見があるのも止むを得ないようだし、その一方でピアノ曲はといえば、こちらはオルガン的な書法が顔を出し、いわゆるピアニスティックな作品とは言い難いようである。つまるところ、そうした媒体を抽象したレベルでの「フランクの音楽」というのがあるかのようで、従っていわゆるジャンル論のようなものは、フランクの場合には相対的には副次的な意味合いしか持たないように見えるのである。勿論、既述のようにオペラやオラトリオといった劇的なジャンル(それは当時のフランスにあって、作曲家として認知されるには必須のジャンルでもあった)への適性の無さというのは残るが、いわゆる「絶対音楽」にあっては、それが室内楽であるのか、独奏曲であるのか、交響曲であるのかは副次的であって、そういう意味では、フランクの音楽ほど件の「絶対音楽」に相応しいものはないのかも知れない。フランクの音楽はひたすら系の内部状態の記述であり、その内部状態を惹き起こした原因であるに違いない外部の事象は捨象されてしまう。実際には純粋で自律的な自己などというのは抽象に過ぎず、自己は何重にも歴史的・社会的な文脈に拘束され、規定された様態しか持ち得ないのではあるが、ここでは恐らく自覚的に引き受けられた仕方ですらなしに、無自覚にそうした外部の括弧入れが行われていて、生物としての人間が持っている感覚器官の外向性に反するように、ひたすら自分の内部の状態に耳を済ませようとしているかのようなのである。音楽はまずもって感覚的なものだし、楽器という媒体を通して実現され、感覚器を通して受容されるものであって、それは具体的で外に開かれたもの、外界との界面で起きる事象であるにも関わらず、そうした外部との媒介をなす感覚の次元すら捨象して、「心」や「精神」と呼ばれるものの状態の遷移のみに対象を限定しているその限りにおいて、それは具体から引き離されたという意味合いをも込めた上で「絶対的」と呼びうるかも知れない。

そしてフランクの音楽の無媒介性は、一方ではその音楽に稀有な純粋さと年齢を忘れさせるような若々しさを与えるものでありながら、他方では、結果として、ある種の独善的な押し付けがましさ、不器用で洗練からは程遠い頑なさを齎しているように思われる。既にフランクの生前においてすらフランキストと呼ばれる弟子達の間にフランクを「天使的な」作曲家として賛美する傾向が見られるが、そうした両面性を思えば、その「俗世を離れた」内面への沈潜は、実際には必ずしも手放しで賛美できるようなものではなく、その自閉の背景には、若き日のフランクが直面しなくてはならなかった世の成り行きとの間の葛藤があったに違いないのである。勿論、どちらが原因でどちらが結果であるかを決定することは困難であろうが、いずれにせよ、フランクにとってはそうした内面の発見とそれへの沈潜はその生にとって切実な契機であったに違いない。その作品の持つ、場合によっては聴く人をたじろがせ、狼狽させ、拒絶反応さえ惹き起こしかねない閉塞感と飢餓感は、そうした両面性を物語っているように思えてならない。 フランクは挫折した神童であり、ピアニストとして世に出たにも関わらず、結局演奏家としてはうまくいかず、作曲家としての成功することを志してオペラを書くけれども、とうとう書ききることができない。かつての神童は30歳にして危機を迎え、数年間作曲ができない状況に陥るのである。

そうしたフランクが立ち直るきっかけとなったのは、聖クロティルド寺院のカヴァイエ= コル・オルガンとの出会いであったようだ。挫折したフランクにとって、オルガンはそこに逃げ込む格好の媒体だったのだろうと思われる。フランクの信仰については私は良く知らないし、そうした事柄について書く資格もないけれど、そういう「通俗心理学的な」説明なら思いつく。更に言えばオルガンは楽器の性質上「自己表現の道具」にはなりにくい。フランクの場合に限って言えば、オルガンのそういう「自己から距離のある」性質は、どちらかというと自己がそこで充足するような空間を築くことで、外部との間に壁を築いているように思われる。フランクはもしかしたらその壁を信じきって、堅固な現実と錯覚したかも知れず、そしてそれがフランクにとっては多分幸いしたのではというように感じられるのである。そうして聖クロティルド寺院のカヴァイエ=コルオルガンを通じて、フランクはようやく自己への途を見出したに違いない。今日大オルガンのための6つの作品として知られる曲集は、その発見の第一報であり、それゆえ時代的に後年の「傑作の森」の作品の数々と20年の年月によって隔てられてはいるものの、その発見に相応しい若々しさと気韻に満ちているのだと思われる。

そしてそうした自己の発見というのは必ずしも自明のことではない。否、自己の形成や維持自体が自明のものではないのであって、文字通り、自己はその都度、危険を冒して「形成」され、「発見」されるべきものである。だからそうした発見の記録はかけがえのないものだし、そうした発見された自己の空間を保持するその仕方が、不器用で垢抜けない、時としてはいらいらするほど頑なな態度であったとしても、そのことの困難さを思えば決して非難することはできないように思えるのである。それ故に私にとって、フランクの音楽はかけがえの無いものであり続けているのだと思う。

フランクの音楽が私個人にとって持っている特殊な意義、それは結局、それが(私自身の)自己の発見の同伴者であったという事情に還元できるのかも知れない。 つまりそれは偶然的な結びつきの産物であり、客観的に見てフランクの音楽について何かを告げているわけではないということになるのかも知れない。 クセナキスがヴァルガとの対談で言った「音楽ではなく、音楽外のものとの情緒的な結びつきが、人を感動させるとしたら、それは音楽を聴いているのではない。」が まさに当て嵌まるのであると。その点についての当否については、私自身は最早どちらでも良いように感じている。基本的にはクセナキスの主張は正しいのだろうが、だからといって無色透明で、中立的、客観的な聴き手というのはそれもまた一つの抽象である。人が或る音楽に出遭うとき、自伝的自己の歴史のある一点において、様々な脈絡の中で聴くことは寧ろ避け難い、構造的に予め規定されてしまい、聴き手はそれに対して受動的でしかありえない事柄であり、その一方で、或る音楽の或る脈絡での聴取が聴き手である自己にとって及ぼす影響の質や強度もまた、多くそうした脈絡に先行的に規定されているものであり、個別の脈絡はその都度個別のものであったとしても、そこには別段特殊なものがあるわけではない。自伝的自己の確立の時期の出来事が、その後の自伝的自己の構造に対して不可逆的かつ永続的で根本的な影響を及ぼすということは寧ろ当然のことであって、特定の音楽の聴取というのも、そうした出来事の内の一つに過ぎないのである。何より事実として、そうした遭遇の結果、私の脳のネットワークに形成されたパターンは 無くなりはしない。もしかしたら人生のある時期、丁度そうしたパターンが形成されていく時期に刻み込まれた「それ」は、そうしたパターンが出来上がった後に 受容されるものとは異なる側面があるのかも知れない。もちろんこれはそうしたパターンに可塑性を否定するものではないし、明確に2つの相が分離可能であると 主張するわけではない。けれども、質の変化というのはやはりあるように感じる。それほどまでにフランクの音楽を聴いて私が受け取るものの強度は例外的なのだ。 (クセナキスの上記の言葉にも或る種のバイアスがかかっていること、彼の幼年期の記憶、彼が実は絶えず引き戻される、彼が封じ込めたいと思っている何かに 通じるものがそこにあることをかえって浮び上がらせているように感じられることに注意しよう。或る種の精神分析でいう「否定」、「抑圧」のメカニズムの存在を 感じさせる。彼が謂わば「超人」の聴くべき音楽、21世紀の今日風には、シンギュラリティの彼方を垣間見るかのような、来るべき音楽を指向したことは、そうしたメカニズムの反動として捉えることもできるだろうし、自分がかつて聞いた音楽が引き起こす連想によって、過去の出来事を想起され、結果的に自分を感傷的にさせるような聴取は、謂わば「余りに人間的なもの」の残滓として、拒絶されるべきものであったのだろう。)

私は「自己の発見」と言ったし、それは「アイデンティティの確立」のことを指していないわけではないのだが、従って、寧ろここで問題なのはそれを可能にする条件の側、つまり自己が、意識が自分が受動的な存在であること、自分の背後には自分に呼びかける存在があることに気づくことの方にある。自分の奥底にある 深淵に気づくこと、そこからの声に気づくことが、「アイデンティティの確立」の条件ではないか。ある時期に繰り返し繰り返し見る夢。闇の中に浮かぶ赤い球体。 それに惹きつけられるように近づき、近づく赤く光る球に呑み込まれる恐怖。そしてその恐怖が「何か」に呼びかけることで消え去る経験。 そうした不可逆の、相転移の経験とフランクの音楽は多分どこかで繋がっている。

それは心の底から湧きあがってくる。漆黒の闇の中のゆらぎから秩序が生成される瞬間の記憶を閉じ込めた音楽。フランクの音楽は教会か、 フランクの自室のか判らないが室内の音楽だ。だがそれ以上に、脳の中の音楽、しかも普段意識が振り返ることも気づきもしない、脳内の奥の部屋の音楽なのだ。 ジュリアン・ジェインズの二院制(bicameral)の心の示唆する「別の部屋」からの響き。ジェインズは科学者の様々な「ひらめき」についても言及しているが、 この点で私が最も印象的に感じているのは、例えばホフスタッターが『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の中で報告している数学者ラマヌジャンのケースだ。 ラマヌジャンは定理を「女神のお告げ」で得たと言って周囲を困惑させたというが、彼の言葉には偽りはなかったと私は確信している。 あるいはまた南部陽一郎の夢うつつの中を動く数式もまたしかり。だが、そうしたことは別に天才にだけおきるわけではない。平凡な人間でもそれは起きることで、 ただ平凡な人間の場合にはそうした「別室からの声」によって得られるものが、せいぜいがプログラムのバグの在処であったり、 あるいはそのときに課題になっているモデリングやアルゴリズムについての解答であったりといった平凡なものに過ぎないだけだ。 意識とは別のところで思考のプロセスは動いていて、極端なケースでは意識は後で答えだけを受け取るわけだ。 そうした声は意識が不活発な時に決まって響いてくる。そうしたことはそんなにしょっちゅうではないけれど、でも繰り返し起こることで、そこには 神秘はなく、きちんとしたメカニズムが存在することは疑いない。

心の中には、どこか懐かしい、だが徹底した闇に包まれた、それでいて同時にその裡に光を閉じ込めた満天の星降る夜、 あるいは慈しみに満ちた雨の夜が封じ込められてはいないだろうか。自ら(ただし気付くことなく、無意識的に)選択して抑圧し、その結果二重・三重にも隔離された空間。 きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、けれども常には安全に閉じ込めておける感情、 けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動き。その向こうには明るい夜が開けている。

フランクの音楽は、そうした「別の部屋」から湧き出してくる泉の水の響きのように思える。三輪眞弘が言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの 合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、 そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」が、こうした事態を指しているのかどうかは確かではない。 だが、私の場合にはフランクの音楽こそが、まさにこの定義にほぼぴったり一致する。それは外界にある何かやそれに対する反応になど興味がない。 社会的な関係が生み出すドラマにも無縁だし、意識自身が生み出す物語にさえ関心がないかのようだ。それは周囲のロマン派の音楽と、 表面的な技法や様式の点でしか接点がない。繰り返すがこれはフランクの音楽の客観的、一般的な特性ではないかもしれない。 こうしたことは誰にでも起きることではないだろう。ある人にとっては別の音楽がそうかも知れないし、ある人にとって音楽はそもそもこうした事柄とは 無縁のものだろう。あるいは「別の部屋」という状況が絵空事としか感じられない人もいるだろう。だが仕方ない。 私にとってフランクの音楽がそうした存在であることは否定しようがない。この音楽はある状況下では私にとって非常に危険ですらある。 けれども時折、己を空しくすることが必要な瞬間、否、自我の積極的な活動が万策尽きたような「危機」、意識の賢しらさが嘲笑われる瞬間に 到来する「それ」に密接に関連していて、それゆえ冒頭に述べたように「ずっと奥底にしまわれていて、ときどき浮び上がってくる」、そうした存在なのである。

それ故、ふとした折にフランクの作品を耳にすることは、深い慰藉をもたらすことになる。その効果は強烈で、しばらく音楽が心の中で響き続けることになる。外からではなく、内側から湧き上がってくるかのように。ところでここでいう「別の部屋」とは、ユク・ホイが『再帰性と偶然性』の終わり近く、リオタールの言葉を引きつつ(p.328)、「非人間的なもの」を以下のように定式化している箇所における非人間的なものの在り処と響きあうのではなかろうか。(更に一言加えるならば、この一節を読んだとき、「非人間的なもの」が、例えばフロイトの局所論におけるエスないしイドのような、互盛夫さんが紐解いて見せて下さる「エスの系譜」に連なるものであるというのが私には余りに明らかなことと思えて、どうしてその点に言及しないのか訝しく感じられた程であった。)
「(…)非人間的なものは人間的なものの否定にほかならず、人間がそれであることはないもの、そして人間が決してそれであることはないものをいうが、しかし非人間的なものは人間の内にある。(…)非人間的なものは神や無限や可想体や絶対的な偶然性やその他さまざまの名前をもちうるが、非人間的なものを肯定することは生命ないし精神の生命の整合的な形式を表現する合理化を要求しもする。」(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』, 原島大輔訳, 青土社, p.339)
そしてこの節の末尾においてベイトソンの名とともに語られる以下の言葉は、フランクの音楽が今なお保ち続けてい力と関わっていはしまいか?
「近代的な進歩観を特徴づける正のフィードバック循環から脱出して、別の思考が機能することは可能なのである。そのためには、これを否定すること、または超越すること―あるいはベイトソンであればこう提案したであろう。別の再帰的な過程、別の認識論を発明すること。」(p.340)
或いはまた、ウィーナーの『サイバネティクス』と『人間機械論』をモチーフとした論集『ディープ・シンキング』(ジョン・ブロックマン著、日暮雅道訳、青土社)の第24章は、キャロライン・ジョーンズの「サイバネティックな存在の芸術的な利用」なのだが、その末尾には以下のような文章を読むことができる。(なおこちらのベイトソンはグレゴリーではなく、娘の方である。)
「ここで提示したサイバネティックな認識論は、あらたしいアプローチを示唆している。個人の知能は身体だけではなく、身体の外部にある経路にも内在している。そして、より大きな知能が存在し、そこでは個人の知能は下部組織にすぎない。このより大きな知性は神に匹敵するもので、ある人たちが”神”という言葉で意味するものかもしれないが、相互接続された社会制度やこの地球の生態系にもやはり内在している、とベイトソンは考えている。(…)ベイトソンの言う”神”はむしろ、世界における意識と作用し合うという、はかない経験を任された代理人だ。つまり、入力された情報や作動の結果としてのより大きな知能は他の実在物と協力して、今度は他の作動のためのインプットとなる―われわれが感じ取って一体になるべきパターンを構成する共生関係が絡み合った、クモの巣状の組織だ。」(キャロライン・ジョーンズ、「サイバネティックな存在の芸術的な利用」(ジョン・ブロックマン著『ディープ・シンキング』所収、日暮雅道訳、青土社, p.339))
フランクの音楽は、ベンヤミンの指摘するファンタズマゴリーに覆われつつあるベル・エポックのパリで、そうした世間の動向からは超然として、ひっそりと紡ぎ出された。多分彼自身はそんなことは意識しなかっただろうが、それはファンタズマゴリーへの抵抗の最初期の試みであり、近代的な進歩観を特徴づける正のフィードバック循環から脱出し、別の思考が機能しうることの証であり、別の再帰的な過程そのものではないだろうか?別のところでも記したことがあるが(「戦前のフランク受容と私-私の父と、「洪水」誌の池田康さんに-」)、弟子達の喧伝もあり、かつては錚々たる書き手が挙って論じたフランクの音楽は20世紀の後半に至ってどんどん忘れ去れ、21世紀の今となっては最早賞味期限切れとなり、すっかり骨董品と化したようにさえ見える。それは今や、かつて「人間」と呼ばれたものが如何なるものであったかを証言する歴史的な遺産に過ぎないという見方すらあるだろう。だけれども、こと私個人にとっては「別の部屋」から湧き出してくる泉の水はまだ涸れておらず、50年近く前に、異郷の子供の「個体化」に立ち会い、それを媒介したように、今でも変わらず響き続け、今度は年老いて老年に差し掛かりつつあるかつての子供の心に流れ込んでいるように感じる。私にはそれは、フランクと同時代の様々な音楽とは異なって、同時代において既にあからさまに「反時代的」であり、そうした事情は今なお変わらず、寧ろ初めから「非人間的なもの」と触れ合って、そこから直接流れ込んでくる音楽であって、寧ろ「別の再帰的な過程、別の認識論」の可能性を今なお垣間見せてくれるようなものに感じられるのである。かつて河上徹太郎は、自身が翻訳したジャック・リヴィエールの『エチュード』に収められたフランク論に触発されつつ、「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」においてフランクの音楽を「自意識の問題」が映り込んだものとして把握して論じたのであったが、今やそれを人間の心というシステムの再帰的構造というサイバネティクスの問題として捉え直して再検討することが求められているのではなかろうか。

 フランクの音楽は、世界のシミュレーションというより、個の確立のプロセスの記述、個体化のシミュレーションのように私には感じられる。そしてその作品の生成を考えた時、オートポイエティックな機械仕掛け、オートマトンをイメージするに相応しいように思える。そうであるとするならば、問いは、どのようなオートマトンであれば、どのような入力が与えられれば斯くの如き出力が可能となり、1世紀の時間の遅れと半周分の場所の隔たりを乗り越えて、異郷の子供の「個体化」に立ち会うことが可能となり、その後も引き続き影響を及ぼすことが可能となるのか?というものになるだろう。

そしてもう一つ、改めて気づいたことなのだが、よく知られているように、フランクは大器晩成の典型であるとされており、こうした作品のほとんどは60歳を過ぎてから産み出されたものなのである。それらはまさにゲーテの言う「後期様式」の最上の事例なのであろうが、ではどのようなオートマトンであれば、このような出力を紡ぎ出すことが可能なのか?「後期様式」が可能になるためにオートマトンが備えているべき条件は何か?という問いが出てくることになる。但し、ゲーテ=ジンメルにおける「老年」の捉え方に裏付けられているとはいえ、アドルノの「後期様式」がフランクの場合に適用可能かどうかについては検討の余地があるだろう。アドルノは「後期様式に」ついて、『楽興の時』所収の「ベートーヴェンの晩年様式」でベートーヴェンの場合を取り上げ、『マーラー 音楽観相学』にてマーラーに関して語っているが、まず、フランクの場合をベートーヴェンの後期様式からの分枝として扱うのは自然な発想であろう。だがその一方で、「ベートーヴェンの晩年様式」で述べられている具体的内容に照らした時、その或る種「否定的」側面がフランクの「傑作の森」に該当するかは疑問の余地なしとしない。寧ろそれはベートーヴェンなら中期に当て嵌まる「円熟」が単に遅れてきたものであるという捉え方もまた可能に違いない。更にベートーヴェンやマーラーを念頭においたアドルノ自身の「後期様式」観をフランクに適用しようとしたとき、それらの間には看過できないズレがある一方で、アドルノが依拠しているジンメル=ゲーテの「老年」や「後期様式」をフランクへ適用してみようと試みた場合、寧ろこちらの方が親和的であるようにも感じられる。

だが上記について拙速に結論を出そうとする前に予備的に行うべきことは、一見したところ時代の様式に従っていながら、そして若い頃の作品はまさにその時代の趣味に従ったもののようでありながら、晩年に至って、一部の熱心な弟子達を除いた一般の無理解と孤立とを引き換えにして突然変異のように生み出された傑作の数々を特徴づけるものは一体何なのかを(アドルノがまさにベートーヴェンの「晩年様式」に関してそう促したように)作品そのものから出発して客観的に突き止める作業であろう。それはフランクその人が属していた歴史的脈絡や社会的・文化的な環境、その信仰に遡行して辿り着けるものではなく、セカンドオーダー・サイバネティクス後のオートポイエティックなシステム論を踏まえた自意識を備えたシステムの産出としてフランクの音楽の創造にアプローチすることが必要とされているように思えてならない。冒頭述べた、フランクの音楽の構造としてしばしば指摘される「循環形式」なるものも、単に多楽章形式の楽曲の複数の楽章において主題材料を繰り返し使用する手法という、それのみでは例えばライトモティーフと区別がつかないような定義で事足れりとするのではなく、単なる機械的な反復、再現ではない、オートポイエティックなシステムの作動の結果としての動的安定性や、絶えざる個体化と自己の維持という自己言及性・再帰性の観点から再定義されるべきだろう。そしてそのような仕方でのフランクの音楽へのアプローチは、ユク・ホイの言う「非人間的なものを肯定することは生命ないし精神の生命の整合的な形式を表現する合理化」の要求に応えることに通じ、ひいては「別の再帰」、「別の認識論」の発明の秘密を突き止め、別の「宇宙技芸」の可能性を探る作業にどこかで通じているのではなかろうか。 (2005.5, 2008.11.2追記, 2023.3.27, 4.2加筆・改稿, 6.7追記,2023.10.4改題)