2023年10月20日金曜日

戦前のフランク受容と私-私の父と、『洪水』誌の池田康さんに-(2023.10.20更新)

セザール・フランクは、私がマーラーより前に、シベリウスより前に聴きはじめ、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであった。 私は別段音楽的な 環境に育ったわけではないが、それでも若い頃にはフルートを嗜んだらしい父親が祖父から継いだ家業をやめ、 会社に就職して郊外の田園地帯で借家住まいを始めると同時に楽器は止めてしまい、 その代わりにポータブルのラジカセでFM放送をエアチェックしつつ カセット・テープに録音したクラシック音楽を聴き返すのを耳にしながら育った。 そして父のライブラリに含まれる音楽で今尚、間歇的ではありながら継続して、特定の作曲家に対する関心をもって私が聴き続けているのは唯一セザール・フランクのみなのである。
 
父親のコレクションの中に含まれていたフランクの作品は、交響曲二短調(エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団)、ヴァイオリン・ソナタ(イツァク・パールマンのヴァイオリン、ヴラディミル・アシュケナージのピアノ)、ピアノ五重奏曲(サムソン・フランソワのピアノ、ベルネード弦楽四重奏団)の3曲に過ぎない。 父のコレクションにフランクの音楽が含まれていたことは、 その3曲が選択されたことも含めて、父個人の嗜好の問題に還元してしまえるものかも知れないが、 それでもなお、事実問題として過去への辿る経路が存在したことは確かなことである。 そもそも父の音楽の嗜好は、どのようにして水路づけられたのであろうか。父亡き今はそれを確認する術もないし、生前とて寡黙で自分のことを語ることのほとんどなかった父からそうした話を聞き出せたとも思えないが、そこには選択が働いていたに違いなく、その背景には父が生きた時代の音楽観のなかの或る種のもの、父が共感したタイプのものの反映があるに違いない。 そしてそうした音楽観の影は、例えば私がそのようにしてフランクの音楽を知るようになった時期の日本の公立学校における音楽の初等教育におけるフランクの位置づけにまで伸びていると考えるべきだろう。 フランクの音楽が学校の音楽室に響くことはなくても、音楽史の中でフランクは確固たる存在だった。
 
勿論フランクについての情報は今もそうだが、その当時も極めて乏しいもので、 辛うじてビュアンゾのフランク伝を田辺保が訳したもの(エマニュエル・ビュアンゾ, 『フランク』,田辺保訳, 音楽之友社, 1971)が読めたくらいだった (ちなみにこの本は何度再読を試みても 私には訴えてくることのない著作であり、 さりとてリファレンスとしては不充分であって、私のフランクへの熱中に水を差す役割しかしなかった)のだが、 それとて過去への遡行を妨げるものでは決してない。 実際に調べてみれば寧ろ最近よりも戦前の方がフランクの音楽は真摯に受容されていたらしい節すら窺われるのだ。 例えば何かの偶然で視聴する機会のあった戦時中のニュース映画のBGMが フランクの二短調交響曲の第1楽章であることに気付いて、戸惑いを覚えたことがある(注1)。 フランクがベルギー生まれで実は寧ろゲルマン系の血をひいていることは知っていたものの、それでも一応は敵国であったフランスの音楽の筈であって、 もしかしたらヴィシー政権などとの関連で微妙な部分があったのかも知れないし、ナチスの同盟国ではあっても、シュトラウスの皇紀2600年祝典の音楽が響いた同じ時期にすらユダヤ人マーラーの音楽がこれまたユダヤ人であるローゼンシュトックの指揮で演奏されるような極東の特殊性があったのかも知れないが、そんなことは知りもしない子供には不思議に感じられた訳である。

(注1)確認できた限りでは、第二次世界大戦中、所謂国策会社としてニュース映画を製作した日本映画社のニュース映画「日本ニュース」(1940年~1945年)のうち、以下のもののBGMとして交響曲ニ短調第1楽章が用いられていることがわかっている。(リンクを踏むとNHKのアーカイブに移動します。)
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そうしたどちらかといえば断片的な例ではなく、より直接的な受容の裏づけを求めても、戦前のフランク受容を裏付ける素材には事欠かない。 例えばダンディのフランク伝が(一部抄訳とはいえ)翻訳されたのは昭和7年のことだし(谷口知平・河野通一訳、三才社、昭和8年6月1日には再版されており、 昭和7年11月11月10日印刷、11月15日発行だから1年を経ずして再版されたことになる)、 フランクの音楽のうちの何曲かはすでに昭和の初期に来日した演奏家のリサイタルで、 あるいはレコードによって日本で聞くことができたようだ(注3)。 例えば昭和10年9月号の「レコード音楽」という雑誌(名曲堂発行)(注2)はセザール・フランク特集で、  後書きに「一部には極めて名声が高いにも拘らず一般には余り理解されないのは、 (レコード界から申せばひどく売行が悪いそうです)ブラームスとフランクとでありましょうが、 少なくとも”近代のバッハ”と呼ばれるフランクに対して、もう少し注意が向けられていい筈であると考えます。」 (原文は旧字旧仮名)といった文章が見られ、当時の受容のレベルが窺われる。 私の受け止め方では、やはり売れ行きが悪いのかと思うよりも、ブラームスと良い勝負くらいとは随分その後差がついてしまったものだという驚きの方が先に立つ。 寧ろ当時フランクは過大評価されていた、という見方をする人が居ても不思議はない気がするくらいである。(恐らくそれには、フランキストの筆頭であるダンディがギルマンとともに創設したスコラ・カントルムがパリ音楽院とともに当時の日本人音楽家の留学先として有力であり、少なからぬ著名な日本人音楽家が門人であったことも影響しているに違いない。)

(注2)『レコード音楽』第9巻第9号(名曲堂発行、昭和10年9月)のカバー及び目次


(注3)当時日本で聴くことができたレコードについては、例えば『レコード音楽』第9巻第9号(名曲堂発行、昭和10年9月)に含まれるフランクの作品を収録したレコードの以下の広告からも窺えるだろう。

 またこれはつい最近になって知ったことだが、例えば河上徹太郎のフランク論は、 私が別のところに書いているような自己の経験とは直接には違った文脈でではあるかもしれなくても、 数十年後にそれと知らずにフランクの音楽を聴いた子供が確かに聴き取った音調と類似した何かを確かに聴きとっていたことを告げているように感じられるが、 それもまた昭和の初期に書かれているのである(「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」の初出は昭和5年)。 河上と親しかった堀辰雄の文章にもセザール・フランクのヴァイオリン・ソナタに言及したものがある(注4)のは随分前から知っていたが、 河上徹太郎の文章を読んだのは最近、ふとした偶然によるもので、だから河上の文章を読んだときには非常に驚いた。 彼も言っているが、そのようなことを言っている人を私もまた他に知らなかったし、彼が聴き取ったあるものを、私もまた聴き取っているのは確かだからだ。

(注4)軽井沢を扱った「木の十字架」(リンクを踏むと青空文庫に移動します)。この文章では、立原道造が堀の結婚のお祝いに送って寄こした二枚のレコード、即ちタイトルの由来となったフランスのラ・クロア・ド・ボア(木の十字架)教会小聖歌隊歌唱の聖歌2曲のレコードとドビュッシーの「もう家もない子等のクリスマス」のそれが重要なモチーフとなっているが、それらを縁取るようにしてさりげなく「(…)私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては(…)」というようにフランクのヴァイオリン・ソナタが登場する。
   
河上徹太郎に関連して更に言えば小林秀雄はフランクを聞いて吐いた経験を河上の全集によせた跋文で披露しているし(注5)、 こちらは河上の回想によれば、 小林秀雄の有名なモーツァルト論の背後にもフランクの音楽の影があり、 更にはそれが晩年に至るまで伸びているにも関わらず、小林秀雄はそれをある意味では抑圧し続けたらしいことをこれまた最近知ったが、 このことは、河上徹太郎のフランク受容のある側面と照らし合わせるに、小林秀雄の音楽論に私が非常に強い反発を覚える点と密接に関係しているようで腑に落ちてしまった。

(注5)『河上徹太郎全集 第1巻』(勁草書房、1969)所収の「跋語」(同書pp.511~2)   

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河上徹太郎にとってフランクは重要な作曲家であったようだ。彼は3回フランクについて書いていて、 その最初が上掲の昭和5年の「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」(これは 昭和5年2月刊行の「文学」第5号が初出で、その後『自然と純粋』に再録された)、 そして昭和12年に「新女苑」9月号に掲載された「瞑想の楽人セザール・フランク」 (後に昭和13年12月20日に 創元選書7として刊行された『音楽と文化』の第1部「楽聖物語」の一部として再録されるにあたり「フランク」と改題)があり、 これらはいずれも勁草書房刊行の河上徹太郎全集第4巻に収められている。 更に戦後の昭和28年に「新潮」に連載され、 翌昭和29年1月に新潮社より刊行された『私の詩と真実』には「フランクとマラルメ」が含まれている。 (こちらは講談社文芸文庫に2007年に収められたので、 比較的容易に入手できるだろう。)
 
だがそれだけではなく、初期音楽論の文字通り掉尾を飾った「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」に先立って、 昭和2年10月に諸井三郎を中心に結成された楽団「スルヤ」に 参加した河上は、「スルヤ」のパンフレットに「諸井君の印象」(昭和2年10月)、 「再び諸井君の音楽について」(昭和3年5月)という文章を寄せているが、これらの文章においてフランクの音楽は 非常に重要な役割を果たしており、 諸井三郎論に仮託したフランク論として読むことが可能な程である。 しかもこれらの初期音楽論もまた、勁草書房版の全集を編むにあたって割愛されることなく 収録されていて(第4巻所収)、 後年の河上にとってもそれなりの意義を持つ文章であったことが窺えるのである。
 
河上のフランク論は、河上自身そう断っているように、ジャック・リヴィエールのフランク論に触発されたものであるが、 河上は、佐藤正彰、富永惣一、小林秀雄とともにリヴィエールの エチュードの翻訳をしており、 その中で件のフランク論を含む音楽論の部分と序文を河上が担当している翻訳書の刊行は、初版の奥付を確認するに、昭和8年10月、芝書店からであった(注6)。 戦後の「フランクとマラルメ」は、主旨から言っても回想であって、 河上のフランクの聴き方は昭和5年の「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」に端的に現れているといって良いだろう。 勿論、「フランクとマラルメ」の中で河上は、リヴィエールのフランク論にも、「スルヤ」と諸井三郎のことにも、 「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」にも言及している。 ちなみに「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」が掲載された「文学」は堀辰雄達が中心となっていた同人誌であって、 いずれも軽井沢をしばしば訪れていたようでもあり、 だから堀辰雄の「木の十字架」の文章の中でフランクのヴァイオリン・ソナタが出てくるのも、 精神的な圏なり風土なりとしてはごく自然なことであったことがわかる。

(注6)勁草書房版『河上徹太郎全集』では第7巻所収。(同書pp.13~4)
 
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こうして見ると昭和初期にはフランクの音楽のプレゼンスは確たるものがあり、しかも単に人口に膾炙しているのみならず、 非常に突っ込んだ受容が行われていたことが窺える。寧ろ戦後は フランクの音楽は隅においやられてしまった感すら無きにしもあらずで、 確かにダンディのフランク論の別の訳が音楽之友社の音楽文庫の1冊として刊行されたり(ヴァンサン・ダンディ, 『セザール・フランク』, 佐藤浩訳, 音楽文庫69, 1953。なお生誕200年に因んで、2022年12月にアルファベータブックスより復刊された。)、 冒頭で触れたビュアンゾの フランク論の田辺保による翻訳が、これもまた音楽之友社の<不滅の大作曲家>シリーズの一巻として刊行されたり(エマニュエル・ビュアンゾ, 『フランク』,田辺保訳, 音楽之友社, 1971)といったことはあっても、 寧ろフランクはフランス近代音楽史上の意義によって語られることが中心となり、その音楽そのものの受容が更に進んだとは言い難いのではないか。 言ってみれば文化史の叙述には欠かせない顔であっても、その音楽が今、ここで切実なものとして聴かれるようなことは寧ろ稀になったと言うべきなのかも知れない。上述のリヴィエールのエチュード所収のフランク論以外にも、アランの芸術論の中にもフランクについての文章があった(これはみすず書房刊行の山崎庸一郎訳『芸術について』に収められている(注7))。日本国内に目を転じると、上述の「フランクとマラルメ」を含む河上徹太郎の『私の詩と真実』が1954年の刊行だが、同じく戦後間もなくの刊行の片山敏彦『詩心の風光』(みすず書房, 1949)にもフランクについての文章があり(注8)、更には今でも文庫本で読むことができる吉田秀和『主題と変奏』は著者の最初の評論集で、佐藤浩訳のダンディのフランク論の翻訳と同じ1953年に刊行されたものだが、これにもまたフランク論が収められている(注9)といった具合で、錚々たる書き手がフランクを論じていたことを思い起こすに、そうした感覚には否み難いものがある。

(注7)アラン『芸術について』(山崎庸一郎編訳, 2004, みすず書房)所収、「セザール・フランク」(pp.200~209) 
(注8)片山敏彦『詩心の風光』(みずず書房, 1949)所収、「セザール・フランク」(2005年新装版ではpp.346~361) 
(注9)吉田秀和『主題と変奏』所収。「V. セザール・フランクの勝利」(中公文庫版ではpp.82~101)
 
河上徹太郎全集第4巻にちなんで戦前のフランク受容を窺わせる話題をもう一つ書き留めておけば、 第4巻の解説において遠山一行はやはりフランク論に繰り返し言及しているが、のみならず、 その末尾において武満徹に言及するところでもう一度、今度は遠山自身が武満の「弦楽のためのレクイエム」に 「セザール・フランクの和声的陰影と独特の持続に近いものを感じて びっくりした」(注10)というふうにフランクに言及するのである。 続けて遠山は「一年ほど前に、武満自身の口から、彼の音楽体験の出発点の一つにフランクから受けた感動があったことをきかされたのを思い出したが、 彼は西洋音楽の古典をなにも知らぬうちにフランクに接して、音楽のもつ力を発見したのである。」(注11)と記している。 遠山自身はフランクの音楽の「ロマン性やゲルマニズムのために親しみにくいもの」(注12)であると明言し、 それゆえ河上のフランク論にも理解しがたさを感じていると率直に書いているけれど、 この武満にまつわるエピソードがそれだけに一層、 遠山自身にもインパクトのあるものであったことは想像に難くない。 更に言えば「西洋音楽の古典をなにも知らぬうちにフランクに接して、 音楽のもつ力を発見した」というのは、 恐らくは多少は時代が下った武満のみならず、寧ろ昭和初期にフランクを聴いた日本人の多くこそはそうであったに違いないし、 翻って、時代の 経過とともに却って遠近感が喪われた結果、色々な音楽に等距離に接することができるようになった私の世代についてもやはり生じうる事態であって、 実際に私に起きたのもまた、そうした事態であったことは強調さるべきことに思われる。

(注10,11,12)勁草書房版『河上徹太郎全集』第4巻解説(同書p.663)。
 
いずれにしてもフランクの音楽の受容は、かくして父を介することによって私のような枝葉にも及び今日に至っているという言い方はできようし、 マーラーの場合とは異なって、フランクの場合には、 私は戦前以来のフランク受容の末端に確かにいるのだという自覚を持たざるを得ない。 とはいえ一方でフランク自身の生きた文脈での彼の音楽の受容、更には戦後のフランス、 あるいは今日のフランスにおけるフランクの受容について私は全くといって知らないし、興味もなく、フランクその人についても、 例えばマーラーのような関心を持っているわけではない。 自分の受容のあり方がどれくらい日本の文脈固有のバイアスによって歪められているのかを測定することも私の手には余ることで、 そうした作業は、ここのところブームと言える程の進展を見せたらしい「洋楽受容史」とやらで専門の先生方がやればいいことであるに違いないが、 いずれにせよ、時代を隔てて河上徹太郎が聴き取った音調が、自分が子供の頃に見出し、 今尚、結局のところそれを全く無しにして済んだものとすることができずにいるそれと、同じではなくても少なくとも照応はしていると感じられるのは、 他のどんな作曲家についても起きないことで、もう少しその内実を探求したいような気持ちに囚われているのである。
 
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河上徹太郎にとってフランクの音楽は、音楽から離れて文学への進む契機となったようだが、それは私にとっては関係の無いことだし、 象徴派詩人との照応についても主題的な関心は私にはなく、その是非を判断することもできない。 私にとって興味深いのは、フランクの音楽を「自意識の問題」が映り込んだものとして把握したその把握の仕方であり、 それがフランクの音楽の或る種の押し付けがましさ、 頑なに閉ざされた単調さと繋がっていることを見抜いた点であり、 そして私自身にとってそうであったように、河上にとってもそれが或る種の相転移を惹起する契機となるような、 特殊な相に属する音楽であったらしいことだ。
 
そういう点でのもう一つの共通の参照点はジッドの『狭き門』であろう。 こちらについては河上の見解に私は与することはできないけれど、それでいて 或る種の力学的な風景の把握という点では、 実はそんなに遠くはないのではという気が同時にしているのもまた、否み難いのである。勿論フランクはアリサとは異なって、 相転移の領域の向こう側に行ってしまいはしなかったし、 フランクは(例えば弟子のデュパルクとは異なって)そうした姿勢を沈黙に至る軌道の一部とするような力学によっては 生きていなかった。 だが「良いものを少しだけ書け」と弟子達に命じた彼もまた、一歩間違えれば沈黙に至るような領域を歩んできたのだし、 実際にそうした危機と常に無縁であった わけでもないようだ。 皆が訝しがることだが、フランクはそうした不毛さからかくの如き音楽を紡ぎだすことが出来る地点に到達することができた。 或いは実際にはそうした到達点における 成果をもってしてもなお、その音楽を不毛として退ける人も少なくないのだろう。 或いは小林秀雄のように、引き寄せられながらも結局は生理的な拒絶感を惹き起し、さりとてなかったことにすることはできず、 だが表面はそ知らぬふりを決め込むような受け止め方もあるだろう。 実際私にとってもフランクの音楽は或る種の危険を孕んだものなのだから、そうした反応とて一概に否定することは できないのである。
 
そういえばリヴィエールのエチュードの翻訳でジッド論を担当したのは他ならぬ小林秀雄だった。 私がこれも幼少より読んできた『狭き門』の翻訳は 大正12年(1923年)に新潮社から刊行された山内義雄訳である。 これは日本で初のジッドの著作の全訳だったが今でも新潮文庫に収められていて、私もまた、新潮文庫に収められたそれを手にしたのであり、 寧ろフランス語の原文で読むことが専らになってなお、山内訳はわざわざ文庫本を買い直して手元に置いてあった。 当時の私は気付かなかったし、ごく最近まで、寧ろフランクの 弟子であったデュパルクの歩みとの比較を思ったことはあったものの、 (そしてそれは同じ領域を別の軌道で歩んだフランクが凡そ非文学的な人間であったこともあって 迂闊にも気付かなかったのだけれども、) これまた河上徹太郎の文章に接して始めてはっきりと認識することになったことなのだが、こちらもまた寧ろフランクの受容のすぐ隣の圏にあった筈なのである。 (付言すれば1932年12月からルイ・マルタン=ショーフィエ編集のジッド全集が刊行されるのと 恐らくは呼応して 日本でのジッド全集の刊行が開始されたのは1934年4月のこと(出版社は建設社)で、 河上はこの企画にも参加し、幾つか翻訳もしている。)
 
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そうした点も含め、私が戦前のフランクの受容とどこかで接していて、裏返せばそれに暗黙裡に規定され、 自由ではないのは確かなことのように思われる。それゆえ繰り返しになるが、 日本におけるフランク受容史は私の関心の裡にはないけれど、 河上徹太郎のそれに関しては、距離を測ることによって、自分にとってフランクがどんな存在であるのかがもう少しはっきりするように思える。 河上自身、戦後になって『私の詩と真実』と題して、過去の自分のフランク受容を、 白洲邸に疎開したことが契機となって昭和22年の11月だから 45歳の年以降、終の棲家とした「都築ヶ丘」、 川崎市の片平の居宅(現在の川崎市麻生区白鳥)にて改めて検証したのだった。 そしてそのことに気付かずにやはり「都築ヶ丘」に住み、すっかり変わってしまったとはいえ、 同じ風景をそうとは知らずに眺めていた私が、こうした事実に気付いたのも偶々同じ歳のことだった。 単なる偶然とはいえ不思議な暗合という他ない。 そしてこれは単なる余談だが、「スルヤ」のことを知ったときに反射的に思い浮かべたのは、 三輪眞弘さんの特集を一昨年に編んだ『洪水』誌のことであった。 些か牽強付会になるが、フランク受容の過去を跡付けることになど大きな意味はないに違いなく、 それは寧ろ自分が閉ざされている閉域の境界を確認する作業に等しいのであって、 勝手ながら『洪水』誌の編集人である詩人の池田康さん(奇遇にも池田さんもまた、本稿執筆時点では「都築が丘」の住人である)の顰に倣えば、 今私に必要なのは、現在に相応しいモデルと言語によって フランクの音楽の受容のあり方を突き止める作業なのに違いないのである。 (2010.7.4/10, 2023.4.2加筆, 2023.10.12 交響曲ニ短調の「日本ニュース」での使用について追記, 10.20 「レコード音楽」誌画像を追加するなど、注を追加)

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