2026年10月12日月曜日

コラム(9):音楽的主体はどのように存在するのか――六人の作曲家から見えてきたもの

 ここまで、ブルックナー、ペッテション、シベリウス、フランク、ラヴェル、そしてマーラーという六人の作曲家を、五度圏上のピッチクラス重心分析から眺めてきました。最初の問いは比較的単純でした。音楽の中で、調性の中心はどのように動いているのか。しかし、分析を拡張していくと、問いは次第に変わっていきました。重心が「どこにあるか」だけではなく、

  • どの方向へ動くのか

  • どこに長く滞在するのか

  • どこへ戻ってくるのか

  • いくつの状態が形成されるのか

  • その状態はどの程度安定しているのか

  • 音の分布はどのような形を取るのか

  • どのようなピッチクラス集合が繰り返し現れるのか

  • そして、時間の中でその状態構造そのものが変化するのか

という問題が見えてきたからです。

さらにDFTによるピッチクラス集合の分析を加えることで、五度圏上の「位置」だけでなく、音楽の内部にどのような周期性・対称性・集合構造が組み込まれているのかも別の角度から捉えられるようになりました。こうして見ると、五度圏は単なる「調性の地図」ではありません。それはむしろ、

音楽が時間の中で、どのような状態を作り、その状態と環境との関係をどのように維持しているのかを観察するための地図

として読むことができるようです。そして、ここで「音楽的主体」という考え方が意味を持ってくると思います。


1.六人を並べると、同じ問いへの異なる応答が見えてくる

今回の分析から得られた暫定的な地図を、まず簡潔に示してみます。

作曲家

暫定的に見えてきた存在様式

ブルックナー

多孔質/前主体的

ペッテション

損傷・相転移型

シベリウス

生態学的

フランク

環境浸透型

ラヴェル

構成型・多重安定

マーラー

自己反省的・世界共有型

ただし、この表を「六種類の作曲家タイプ」と読むべきではないかも知れません。今回見えてきたのは、作曲家を分類するための新しい類型学ではなく、むしろ、音楽的主体が、環境との関係をどのように構成し、そこでどのように自己を維持するのかという一つの問いに対して、それぞれ異なる応答様式が現れていると捉えるべきように思えるからです。


2.ブルックナー――主体になる前の世界

ブルックナーでは、まず「主体と環境を分ける」こと自体が難しいように思われます。旧指標から見ても、五度圏上の運動は単純な一方向的進行ではなく、広い空間の中に複数の状態を形成します。新指標ではさらに、特定の状態への滞在や再帰、複数のアトラクター的領域などが見えてきました。

そこに現れるのは、環境の外側からそれを操作する主体というより、環境そのものの力学から主体性が立ち上がる以前の状態です。主体と環境との境界が非常に多孔質なのだと考えることができます。主体は環境の外に立って環境を眺めるのではありません。環境そのものの中に埋め込まれているのです。この意味でブルックナーは、多孔質な前主体的システムとして理解することができる。


3.ペッテション――主体はいつまでも同じではない

ペッテションでは、別の問題が現れました。それは、主体そのものが時間の中で変化するということです。旧分析では、第9番から第10番にかけて作品群の位置づけが大きく変化することが示されていました。

今回、新指標を導入すると、単に五度圏上の位置が変わっただけではなく、方向性、滞在、状態構造など複数の側面から同じ時期の変化が確認されました。さらにDFTによるピッチクラス集合の分析からも、音楽の組織化の仕方そのものが変化したことを示唆する結果が得られました。つまり、異なる方法が、同じ時間的位置に大きな変化を示していることになります。このことが、ペッテションの「第9番から第10・11番へ」という転換を特に重要なものにしています。

もちろん、これだけで数学的な意味での「カタストロフィー」が証明されたわけではありません。しかし、カタストロフィー的な状態遷移を示唆する複数の独立した特徴が重なっているとは言えるでしょう。ここでの「損傷した主体」という表現も、作曲家の心理状態を直接表すものではありません。むしろ、自己を維持する音楽的な組織そのものが変質し、別の状態空間へ移行した可能性を指しているのです。


4.シベリウス――環境から生まれる主体

シベリウスでは、さらに別の方向が見えてくるかのようです。今回重要だったのは、交響曲だけに対象を限定するのではなく、より広い作品群へ分析を拡張したことです。これによって、シベリウスの特徴が「交響曲というジャンルの性質」と関わる部分、独立の部分でそれぞれどのように顕れるかを確認することができました。

シベリウスの音楽では、主体が環境から独立して存在しているというより、環境との相互作用の中で自己を形成していくという構造が目立ちます。これは、植物的な主体という比喩と親和性を持つように感じられます。植物は環境を単なる外部条件として受け取るのではありません。光、水、土壌、温度などとの関係そのものによって、自らの形を形成します。

その意味でシベリウスの主体は、環境に適応する主体というより、環境との関係そのものから形成される主体、生態学的主体として捉える方が適切のように感じられます。ここで「生態学的」という言葉は、「自然を題材にしている」という意味ではありません。音楽の自己形成そのものが、環境との関係の中で起きているという意味合いになります。


5.フランク――環境に浸透されながら持続する

フランクは今回初めてまとまった数の作品を分析対象としました。そこで見えてきたのは、他の作曲家とは異なる姿です。81作品を対象とした分析では、特にオルガニスト作品群の前期から後期にかけて、単純な「発展」ではない状態空間の再編成が見られました。これは、「若い時期は不安定で、晩年になると安定した」という単純な発達モデルではなく、むしろ、長い探索の後に、活動可能な領域そのものが再編成されたと考える方が適切であるように思えます。

この点から、フランクには、環境に浸透されながら、その環境の中で自己を維持する主体という像が浮かび上がります。ブルックナーほど主体と環境の境界が溶けているわけではなく、しかし、ラヴェルほど環境を完全に構成してしまうわけでもない。その中間に、環境との相互浸透の中で自己を持続する主体として位置付けられるように思えます。。


6.ラヴェル――環境を構成する主体

ラヴェルでは、方向が反転します。ラヴェルの音楽では、単一の調的中心への収束だけでは説明しにくい複数の音楽的状態が、極めて精密な関係の中に配置されるかのようです。今回の分析では、作品や版によって個々の指標の再現性に差がある一方、滞在エントロピーのような高次の状態構造には比較的安定した特徴が見られました。

このことから、ラヴェルでは、どの音が中心なのかだけでなくどのような状態を許容できる環境が構成されているのかという問いが重要になるように思えます。「旋法性」というのを、単に教会旋法を使用することと捉えるのではなく、複数の音集合的・調的な安定可能性を、一つの音楽的世界の中に共存させることとして理解した時、ラヴェルの音楽は「旋法性」が強いと言えそうです。言い替えればラヴェルは、構成型・多重安定型の主体として仮説化できるように思えます。主体が環境に適応するだけではありません。自分が存在できる環境そのものを精密に構成します。そこにラヴェルの独自性があるのかもしれないように感じられます。


7.マーラー――自分と世界との関係そのものを問う

そして出発点でもあったマーラーです。マーラーについては、今回の新指標やDFTが、旧分析を根本から覆すような新発見をもたらしたわけではありません。マーラーにおいて重要なのは、既に見えていた特徴が別の分析軸からも確認・精密化されたことでしょう。

マーラーでは、音楽が単に一つの状態を形成するのではありません。自己が形成されると同時に、その自己が世界とどのような関係にあるのかが問題になるように思えます。アドルノの言う、突破、停止、充足、崩壊といった時間構造もまた、単なる形式上の出来事ではなく、「私はここにいる」という状態と、「しかし、この世界は本当に私の世界なのか」という問いとの間で揺れ動く構造として読むことができるかも知れません。

ここで「自己反省的」という言葉が意味を持ちます。さらに、マーラーの音楽では自己の内部だけで完結せず、他者や外部世界への「共感的な指差し」のような構造が現れるのです。したがってマーラーは、自己を形成するだけでなく、自己と世界との関係そのものを音楽化する主体として位置づけられるでしょう。この意味でマーラーは、今回の六人の中でも特に「主体についての音楽」に近い。


8.六人に共通しているもの

ここまでをまとめると、六人の違いは非常に大きいように感じられます。しかし、同時に一つの共通点があります。それは、誰の音楽も、単独の「調性中心」だけでは十分に説明できないということです。

音楽は、

  • 中心

  • 移動

  • 滞在

  • 再帰

  • 状態

  • 集合

  • 環境

  • 時間的遷移

の複数の関係から成立しています。つまり、音楽の自己同一性は、一つの中心を持ち続けることだけではありません。ある場合には環境の中に溶け込むことによって、ある場合には環境との相互作用によって、ある場合には環境に浸透されながら、ある場合には環境を構成することによって、ある場合には状態そのものを変化させることによって、そしてある場合には自己と世界との関係を問い直すことによって、音楽は自らを維持していると見ることができます。


9.「主体」とは、固定されたものではなく関係である

ここで、今回の研究で「主体」という言葉を使う意味を明確にしておきたいと思います。音楽的主体とは、作品の中に隠れている人物ではありません。作曲家の心理を直接測定したものでもありません。まして、「ブルックナーはこういう人間だった」「ラヴェルはこういう性格だった」といったような作曲者の心理学的分類でもありません。今回分析しているのは、音楽が時間の中で、自らの状態を形成し、維持し、変化させ、環境との関係を組織する仕方です。

その構造を、主体という概念によって捉えようとしています。だからこそ、主体は固定的な実体ではなく、関係の中に現れるものとして考える必要があるのです。本件研究においてブルックナーの主体とラヴェルの主体が違うのは、「二人の作曲家の性格が違うから」ではありません。そうではなくて音楽が自己と環境との関係を組織する仕方が違うのです。


10.FEPは、この違いを考えるための共通言語になる

この点で、自由エネルギー原理(FEP)を導入したことには意味があると思います。FEPは、音楽を「FEPそのもの」として説明する理論ではありません。また、作曲家が脳内でどのような自由エネルギーを最小化していたかを、このデータから直接測定したわけでもありません。

FEPをここで使っているのは、自己と環境の関係の中で、システムがどのように自己を維持するのかという問いを考えるためです。そうすると、六人の違いは単なる作風の違いではなく、自己維持のために、環境との関係をどのように組織するかの違いとして読み直すことができることになります。

  • ブルックナーは、環境との境界を薄くする。
  • シベリウスは、環境との相互作用から自己を形成する。
  • フランクは、環境に浸透されながら自己を持続する。
  • ラヴェルは、自己が存在可能な環境を構成する。
  • ペッテションは、その自己維持の構造そのものが大きく変化する。
  • マーラーは、自己と世界との関係を自己反省の対象にする。

こう見ると、六人は一つの連続線上に並ぶわけではなく、むしろ、「自己と環境の関係をどう組織するか」という多次元空間の中に、それぞれ異なる位置を占めていると考える方が適切なようです。


11.五度圏は「調性の地図」から「存在の地図」へ

今回の研究の出発点は、五度圏上のピッチクラス重心でした。これは当初、「音楽の調的中心はどこにあるのか」という問いに答えるための方法でした。しかし分析を拡張すると、そこから見えてきたのはもっと複雑な時間地図です。重心の位置は「どこにいるか」を示す。移動量は「どれだけ動くか」を示す。方向性は「どちらへ進みやすいか」を示す。滞在構造は「どこに居続けるか」を示す。再帰は「どこへ戻るか」を示す。アトラクター的構造は「どのような状態が形成されるか」を示す。Anisotropyは「その状態がどのような空間的形を持つか」を示す。PC-set指標やDFTは「その状態をどのような音集合構造が支えているか」を示す。そして時系列分析は、その世界そのものがいつ変化するのかを示す。

このとき五度圏は、単なる「調性の地図」ではなくなります。それは、音楽がどのような世界を構成し、その世界の中でどのように存在し続けるのかを観察する地図になるのです。


12.ただし、この地図はまだ完成していない

しかしながら今回の成果を過大評価するべきではありません。コーパスにはMIDIデータ固有の問題があり、作品によって版間差もあります。新指標のすべてが同じ程度に安定しているわけでもありません。DFTについても同様の問題があります。そして何より、「主体」「環境」「自己維持」といった概念は、数値指標そのものから直接導かれるものではありません。FEPによる解釈も今のところは比喩から直感的な類比のレベルに移行したというのがせいぜいで、本来ならば可能な筈の、数理的な裏付けに至る道程の第一歩を踏み出したに過ぎません。

したがって、今後も引き続き、

数値分析 → 構造的特徴 → 理論的解釈

という三段階を区別しておく必要があります。この区別を維持することによってこそ、今回の「音楽的主体」という考え方は、単なる比喩ではなく、今後検証可能な研究仮説になり得ると考えます。


13.今回見えてきた本当の問い

繰り返しになりますが、もう一度、あらためて今回の分析を振り返ります。この速報連載で最初に問うていたのは、「音楽の調性は、時間の中でどのように動くのか」でした。しかし最後には、別の問いにたどり着きました。「音楽は、自分が存在できる世界をどのように作るのか」です。

  • ブルックナーは、世界と自己の境界を曖昧にする。
  • シベリウスは、世界との関係から自己を形成する。
  • フランクは、世界に浸透されながら自己を維持する。
  • ラヴェルは、自己が存在できる世界を精密に構成する。
  • ペッテションは、その世界の構造そのものを変化させる。
  • マーラーは、自己と世界との関係を問い直す。

この違いは、「六種類の作曲家」という分類ではなく、むしろ、音楽的主体が環境との関係をどのように構成するかという、一つの問題に対する六つの異なる応答なのです。そして、この視点に立つと、音楽作品は単に「どの調で始まり、どの調で終わるか」という構造物ではなく、それは、時間の中で一つの世界を作り、その世界との関係を保ちながら、自分自身を作り続ける過程として見えてきます。五度圏重心分析を拡張することで見えてきたのは、結局のところ、調性の新しい分類ではなく、音楽が存在する仕方そのものについての、新しい時間地図だったと言えるのではないかと思います。

(2026.10.12 公開)

ショートノート(12):マーラー――構造は持続し、力学だけが極端化する

 本稿は、マーラーのB系列(全11作品、各作品の全楽章を連結したもの)を対象に、PC集合DFTと拡張指標から得られた知見を速報としてまとめるものである。既掲載の旧9指標によるA・B・C三系列比較(「マーラー交響曲の調性力学」)とは重ならない範囲、すなわちDFTと三和音性・原点構造の対比が固有に示す発見に絞る。

なお、本稿の背景となる方法論については「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編レポートI」および「ピッチクラスセットの離散フーリエ変換に基づく調的組織の軌道力学分析——方法論編レポートII」を、個別の指標の定義については「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編レポートI」の付録を参照されたい。


0.旧9指標分析が示していたこと、そして本稿がB系列だけを扱う理由

本稿はDFTと拡張指標に焦点を絞るが、旧9指標分析が何を示していたかを簡潔に確認しておく。「マーラー交響曲の調性力学」が示した最大の発見は、C系列(11主要楽章)のPCA空間に現れるL字型の軌跡である。

旧9指標によるC系列(11主要楽章)の主成分分析結果

あわせて、B系列(全11作品を連結)のPC1は作曲順とのSpearman相関が|ρ|=.936ときわめて強く、Sym1〜4/Sym5〜《大地の歌》/Sym9・10という3つの帯域に明瞭に分かれる(この3帯域はPC1軸だけで見た粗い区分であり、中期がさらにPC2軸でSym5・7とSym6・8・《大地の歌》の2つの質的サブタイプに分かれることは「マーラーの調性力学」3.2節に譲る)。C系列はこれより緩い相関(ρ=.727)、A系列(全50楽章個別)はさらに緩い相関(ρ=.550)を示す。なお、A系列について各曲ごとの重心を求めた場合はB系列に近い結果が得られることも確認されている(この点の詳細な検証は本稿の範囲外とする)。

本稿が主にB系列を扱うのは、「構造は持続し、力学だけが極端化する」という本稿の主張が、まさにB系列のPC1が示す3帯域構造と同じ年代的傾向を、別の指標群から独立に確認するものだからである。ただし、DFT・三和音性/原点構造の対比が、より細かい粒度(C系列)でも成立するかは、それ自体別途確認する価値がある。次節でこれに簡潔に触れる。

C系列でも、同じ型の対比が(より鋭く)現れる

C系列(Hauptsatzのみ、n=11)でDominant_Modeを見ると、f5優勢は11曲中9曲にとどまる。残る2曲、第5番第2楽章と第7番第1楽章はf3優勢であり、これは「PCセットDFT応用編レポート」が既に指摘した「超長調(Adornoの概念)」仮説と整合する、既知の局所的例外である。B系列(作品全体を連結)では、この2曲を含む全作品がf5優勢に復帰することは既に確認済みであり、この局所的な例外が、作品全体の水準に積算されると解消されることをあらためて示している。

C系列DFTプロファイル
図0. C系列(Hauptsatzのみ、11曲)のf1〜f6振幅プロファイル。影を付けた2曲(第5番第2楽章・第7番第1楽章)のみf3がf5を上回る。

三和音性と原点構造の対比も、C系列ではむしろB系列より明瞭に現れる。Exact_Triadic_Ratioは作曲順との相関がρ=−0.827(p=0.002)と強い単調減少を示す一方、Origin_PCSet_Ratioは同じ相関がρ=0.073(p=0.832、有意差なし)にとどまる。すなわち、「三和音性は明確に低下するが、原点構造は同じ軌跡を描かない」という本稿の中心的知見(4節)は、B系列だけでなくC系列でも——むしろ統計的にはより鋭い形で——確認できる。


1.三つの層――持続するものと、変化するが互いに一致しないもの

ここで報告する発見は、独立した3つの候補として個別に提示するより、「持続するもの」をまず示し、その下に「変化するが互いに一致しない複数の力学」を並べるという、単一の構造として読む方が実情に合う。以下、この順に3つの図を示す。


2.持続する層――f5はB系列11作品すべてで最大振幅のモードである

まず確認すべきは、何が変化しないかである。

f1〜f6振幅プロファイル
図1. B系列11作品(交響曲第1〜10番、《大地の歌》を第8番と第9番の間に配置)のf1〜f6振幅プロファイル。

f5(青)が、11作品すべてで、他の5モードをはっきりと上回ることが一目で分かる。次点のf4(橙)との差は、どの作品でも概ね0.03〜0.1の幅で一貫して維持されており、Dominant_Modeが単なる僅差の優劣交代ではなく、安定した優位であることが視覚的に確認できる。f5振幅そのものは0.447(第10番)から0.535(第4番)の範囲で上下するが、他のモードがf5を上回ることは一度もない。

これは重要な事実である。後期マーラー(第9・10番)について、調的な「崩壊」や「無調化」をしばしば語るが、少なくともPC集合の周期的組織という水準では、五度圏的構造そのものは作品全体を通じて一貫して保持されている。したがって、後期マーラーに生じる変化を論じる際には、「何が崩壊したのか」ではなく、「持続する構造のうえで、何が変化したのか」という問いの立て方が必要になる。


3.変化する層①――時間的運用の極端化

f5構造が持続する一方で、重心がどれだけ・どれだけ急激に動くか(Avg_Step)、そして瞬間ごとの和声的複雑さがどれだけ揺れ動くか(Texture_Volatility)は、後期作品に向けて明確に増大する。

時間的運用の推移
図2. Avg_StepとTexture_Volatilityの作品別推移。

Avg_Stepは第1番の32.9から、第9番61.99、第10番52.25と、作品を追うごとに全体として上昇する(第8番から《大地の歌》にかけて一時的な低下を挟むが、後期2曲でコーパス中最高水準に達する)。Texture_Volatilityも同様に、第1番1.109から第10番1.356まで、全体として上昇する軌跡をたどり、特に第10番でB系列中最高値を記録する。

すなわち、f5という構造を保持したまま、その構造を時間の中でどう運用するかという層において、後期マーラーは最も極端な状態に至る。これは、旧9指標分析が示してきた「後期化=運動性・変動性の増大」という知見を、PC集合の周期構造という全く別の経路から見ても、構造の交替ではなく運用の変化として記述できることを意味する。


4.変化する層②――三和音性は低下するが、原点構造は同じ軌跡を描かない

もう一つの層は、PC集合そのものの組織化に関わる。

三和音性と原点構造の推移
図3. Exact_Triadic_RatioとOrigin_PCSet_Ratioの作品別推移。

Exact_Triadic_Ratio(三和音への集中度、緑)は、第1番0.368から第10番0.248まで、局所的な上下(第2・3・7番でやや高い山を作る)を伴いながらも、全体としては明確な低下傾向を示す。

しかし、同じPC集合構造に関わるもう一つの指標であるOrigin_PCSet_Ratio(原点、すなわち対称的PC集合への着地率、橙)は、この低下と同じ軌跡を描かない。値は0.020(第2番)から0.047(第5番)の間で上下し、第5番で一つの山を作った後、第9番で再び0.036まで戻るなど、Exact_Triadic_Ratioのような単調な低下傾向を持たない。

この非対応は、単なるノイズとして片付けるべきではない。三和音への集中(Exact_Triadic_Ratio)と、対称的PC集合への着地(Origin_PCSet_Ratio)は、どちらも「PC集合がどれだけ機能和声的な骨格から離れているか」に関わる指標のように見えて、実際には別々の軸として動く。後期マーラーにおいて三和音的骨格が弱まることと、増三和音・減七和音のような対称集合が増えることは、同じ現象の表と裏ではなく、独立に生じうる2つの変化である。


5.一つの構造としての読み方

以上の3つの図を重ねて読むと、次のような像が得られる。

マーラーの後期化とは、f5という周期的構造そのものの交替(崩壊)ではない。持続するこの構造の上で、(a)時間的運用(移動量・テクスチュア変動)が極端化し、同時に(b)三和音的骨格が弱まるという変化が進行する。ただし(b)は、対称的PC集合の出現率という、一見同じ軸に見える別の指標とは、必ずしも歩調を合わせない。

3つの図がそれぞれ独立した主張なのではなく、「何が一定で、何が動くのか」「動くものの中でも、どれとどれが同じ理由で動き、どれは違う理由で動くのか」という、単一の問いへの回答として積み重なっている点が、この3図セットの要点である。


6.小結

  1. f5はB系列11作品すべてで、他の5モードを明確に上回る最大振幅のモードであり、後期作品でも一貫して持続する。 後期マーラーの変化を論じる際の前提は、構造の崩壊ではなく構造の持続である。

  2. 持続する構造の上で、時間的運用(Avg_Step、Texture_Volatility)は後期に向けて明確に増大する。 これはf5の持続と矛盾しない、別の層での変化である。

  3. 三和音性(Exact_Triadic_Ratio)は全体として低下するが、原点構造(Origin_PCSet_Ratio)は同じ軌跡を描かない。 両者は見かけ上近い現象を指すようでいて、独立に動く指標である。


(2026.10.12 公開)

コラム(8):マーラー 構造は持続し、力学だけが極端化する――新しい分析から見えてきたマーラーの時間性

 マーラーの音楽について語るとき、「晩年に向かうにつれて調性が崩れていく」「初期と後期では音の世界が大きく変わる」といった印象はよく語られる。以前の分析では、こうした印象を五度圏上の「重心」の動きから調べた。その結果、マーラーの作品は年代とともに、調的な中心に強く引き留められる状態から、より大きく、速く動く状態へと移っていくことが見えてきた。ただし、その変化は単純な一直線ではなかった。中期に向かって音の空間が大きく広がった後、第8番や《大地の歌》では一度それまでとは異なる領域へ移り、第9番・第10番で再び大きな運動性が現れる。では、こうした変化は、マーラーの音楽の「構造そのもの」が崩れていくことを意味するのだろうか。

今回、五度圏重心の動き方をさらに細かく調べ、そこにピッチクラス集合の周期的な構造を調べる分析を加えた。その結果、むしろ意外な姿が見えてきた。マーラーでは、基本的な音の構造は最後まで持続している。変化しているのは、その構造の使われ方なのである。


音楽の中に残り続ける「骨格」

今回の分析では、12の音がどのような周期的なまとまりを作っているかにも注目した。詳しい数学的な説明はここでは省くが、この分析によって、音の組み合わせに含まれるいくつかの基本的なパターンを取り出すことができる。その結果、マーラーの第1番から第10番まで、そして《大地の歌》を含む11作品では、同じ基本的なパターンが一貫して最も強く現れていた。第9番、第10番といった後期作品でも、この特徴は失われていない。

これは、後期マーラーを考えるうえで重要な結果である。もし後期マーラーが、音楽を支えていた構造そのものを次第に失っていくのであれば、こうした基本的なパターンも後期になるにつれて弱くなっていくはずである。しかし、そうはならなかった。マーラーは後期になっても、音楽の内部に一定の骨格を保ち続けている。

したがって、後期マーラーについて考えるときには、「何が崩壊したのか」だけではなく、「残っている構造の上で、何が変化したのか」という問いが必要になる。


同じ骨格の上で、音楽の動きは激しくなる

では、何が変化したのだろうか。

以前の分析では、作品が進むにつれて、五度圏上の重心が大きく動くようになり、一つの調的中心に留まり続ける性格が弱くなっていくことが示されていた。特に第9番、第10番ではその傾向が強い。

今回の分析でも、この特徴は別の角度から確認された。後期になるほど、音楽の重心は一つの場所に静かに留まるのではなく、大きな幅をもって動くようになる。また、音の組み合わせそのものが時間の中で変化する度合いも強くなっていく。第10番では、その傾向が特に極端な形で現れる。

ところが、ここには一つ重要な特徴がある。重心が大きく動くようになったからといって、音楽がどこへ向かっているのか分からなくなり、活動する領域そのものが無限に広がっているわけではない。むしろマーラーの作品には、いくつかの比較的限られた活動領域があり、その間を行き来する構造が残っている。第10番でさえ、活動する領域が消えてしまうわけではない。一定の場所に何度も現れながら、その内部で音楽が激しく動いているのである。

つまり、中心がなくなるのではない。いくつかの中心的な領域を保ちながら、その間を動く音楽になる。ここが、今回の新しい分析から見えてきた重要な点である。


「三和音が減る」ことだけでは説明できない

もう一つ興味深い変化がある。後期になるにつれて、通常の三和音にまとまる音の組み合わせは、全体として少なくなっていく。これは、「後期になるほど従来の調性的な和音から離れていく」という聴感上の印象ともよく対応している。

しかし、ここでも単純な「調性崩壊」という説明では足りない。三和音が減ったからといって、音が無秩序になるわけではないからである。五度圏上で見ると、重心が中心近くに集まりやすい、対称的な音の組み合わせも現れる。ただし、その現れ方は三和音の減少と同じ軌跡を描いてはいない。つまり、三和音から離れることと、別の対称的な音の組み合わせへ移ることは、同じ一つの現象ではない。

これは重要である。マーラーは単純に、

「三和音的な調性」→「別の和音体系」

と移行しているわけではない。

  • 「三和音への集中が弱くなること」
  • 「五度圏上の中心性が弱くなること」
  • 「対称的な音の組み合わせが現れること」

は、それぞれ関係しながらも、別々に変化している。

そのため、後期マーラーを「調性が弱くなった」という一つの尺度だけで説明することはできない。


中期に現れる、もう一つの音の構造

このことが特にはっきりするのが、第5番第2楽章と第7番第1楽章である。この二つの楽章では、作品全体に広く見られる基本的な構造とは異なる音のまとまりが、一時的に前面へ出てくる。つまり、マーラーの音楽では、作品全体を通して維持されている骨格がありながら、その内部の一部では、別の組織原理が強く現れることがある。

ここで大切なのは、この現象をそのまま「後期無調化」の始まりと見なさないことである。この二つの楽章では確かに特徴的な構造が前景化するが、第5番・第7番という作品全体を見ると、基本的な構造はなお維持されている。つまり、局所的には大きな変化が起こる。しかし、作品全体の骨格まで一挙に置き換わるわけではない。

この「局所的な変化」と「作品全体の持続」の両立は、マーラーの音楽を理解するうえで重要な特徴である。


第8番と《大地の歌》――「戻る」のではなく、別の場所を通る

以前の分析でもう一つ印象的だったのが、第8番と《大地の歌》である。作品を年代順に並べてみると、初期から中期にかけて、マーラーの音楽は大きく動く方向へ進んでいった。しかし第8番と《大地の歌》では、それまでとは異なる領域へ一度移るような動きが見られた。その後、第9番、第10番になると、再び大きな運動性が前面に出てくる。

今回の分析を重ねると、この「折り返し」の意味も少し違って見えてくる。第8番や《大地の歌》で五度圏上の位置が変化しても、PC集合の基本的な構造そのものが別のものへ置き換わったわけではない。両作品とも、作品全体では基本的な構造を保っている。したがって、ここを単純な「過去への回帰」と呼ぶのは適切ではない。むしろ、それまでとは違う状態を経由しながら、後期の新しい状態へ向かっていく。と考えた方がよい。

マーラーの音楽の時間は、単純な「前進」でも「後退」でもない。過去に近い場所へ近づくことがあっても、そこにそのまま戻るわけではない。


第9番・第10番――「崩壊」ではなく、極端な運用

そして第9番、第10番で、この特徴が極端な形になる。この二作品では、五度圏上の重心が大きく動き、音の変化も激しくなる。一方で、通常の三和音に依存する度合いは弱くなる。第10番では、この組み合わせが特に強く現れる。それでも、作品全体を見れば、基本的なPC集合構造は残っている。

ここに今回の分析の最も重要な発見がある。後期マーラーでは、音楽の骨格そのものが崩壊しているのではない。むしろ、残っている骨格を、ますます激しい運動の中で使うようになっている。第10番は、その極限に近い。一見すると音楽を支えていた秩序が崩れていくように聞こえる。しかし数値的に見ると、その内部にはなお一定の構造が残っている。

だからこそ、後期マーラーを単純な「無調化」や「崩壊」として説明することには限界がある。


では「自己反省」はどこから来るのか

ここで、これまでマーラーについて考えてきた「自己反省」という問題が出てくる。まず明確にしておきたいのは、自己反省そのものが今回の数値分析によって測定されたわけではないということである。重心が大きく動くから自己反省している、あるいは第8番や《大地の歌》が以前の作品に近づくから過去を振り返っている、と直接結論することはできない。「自己反省」という考えは、これまで検討してきたAdornoによるマーラー論や、そこから発展させてきた「意識」「自己との関係」「世界との共有」という理論的な問題から生まれたものである。

しかし今回の分析は、その考えを考えるための音楽的な根拠を、以前より具体的にしてくれる。

マーラーでは、

  • 基本的な構造が残る

  • その上で音楽の運動が激しくなる

  • 活動する領域そのものは複数残る

  • 三和音性は弱くなるが、それだけで別の体系へ移るわけではない

  • 局所的には別の音の構造が前面に出る

  • ときには以前の作品に近い状態を経由する

  • それでも最後には同じ場所へ戻らない

ということが起きている。このような音楽を、「自分自身について考え続ける音楽」として読むことには意味がある。

ここでいう自己反省とは、単に過去を振り返ることではない。自分を支えているものを保ちながら、その自分自身との関係を変化させ続けることと考えることができる。

繰り返しになるが、ここでいう自己反省については、その構造がデータ分析の結果から直接浮かび上がってきたものではない。分析結果から浮かび上がって来た構造の背後にそのような構造に支えられたプロセスの存在を考えることができるというに過ぎず、現時点ではようやく単なる比喩を脱して、直感的漠然としたものではあるが類比に訴えることが辛うじて可能になったに過ぎない。従って、まだそこに到達する目処が立ったとは言えないのだが、FEP的解釈の枠組みを用意したことで、データ分析から浮かび上がって来た構造が、自己反省が可能になる主体の構造と何らかの共通性を持つことを数理的に示すことが将来的には目指されるべきであると考える。その意味において、「自己反省する主体」がマーラーの音楽に見出せるというのは、現時点では仮説の域を出るものではないことを強調しておきたい。


「崩壊」ではなく、「持続しながら変わる」

こうして旧分析と今回の新しい分析を重ねると、マーラーの音楽について、以前とは少し違った言い方ができるようになる。

旧分析が示したのは、年代とともに調的な中心への集中が弱まり、重心の運動が大きくなる一方で、音の空間の使われ方は単純には変化せず、中期から後期にかけて非単調な変化を示すということであった。今回の分析では、その背景にある構造がさらに見えてきた。基本的な骨格は、最後まで残る。その一方で、その骨格の上で音楽が動く仕方は、次第に激しくなる。そして、三和音性、中心性、対称的な音の組み合わせは、それぞれ異なる仕方で変化する。

したがってマーラーの後期化は、「秩序が崩れて無秩序になる」という単純な過程ではない。むしろ、持続する構造の上で、音楽の動き方が次第に極端になっていく。そう捉える方が、旧分析と今回の新しい分析をともに説明できる。


マーラーの音楽的主体

このことは、これまで考えてきた「交響曲的主体」という問題にもつながってくる。マーラーの音楽には、確かに強い自己意識を感じさせるところがある。しかし、その「自己」は、一つの中心に閉じこもっているわけではない。自分を支える構造を持ちながら、その構造を絶えず揺さぶり、複数の状態の間を移動し、ときには過去に近い場所を通りながら、それでも同じ場所には戻らない。その意味でマーラーの主体は、自分自身を維持しながら、自分自身との関係を変え続ける主体として捉えることができる。

これは、数値分析そのものが「マーラーは自己反省的な主体である」と証明した、という意味ではない。数値分析が示したのは、あくまで、構造は持続しているのに、その内部の力学が変化し続けるという音楽的事実である。しかし、その事実こそが、マーラーの音楽を「自己について考える音楽」として理解するための、一つの具体的な足場になる。

そしてここに、マーラーの時間性の特徴がある。変わり続ける。しかし、完全には失われない。過去に近づく。しかし、単純には戻らない。自分を維持する。しかし、その自分自身を変化させ続ける。

今回の分析から見えてくるマーラーとは、まさにそのような音楽なのである。

(2026.10.12)

ショートノート(11):ラヴェル(3)――骨格は持続し、内容だけが非三和音化する

本稿は、ラヴェルに関するこれまでの速報(《ボレロ》という外れ値の報告、《ボレロ》除外後の《パヴァーヌ》の孤立)とは独立に、ラヴェルを他の作曲家と横断的に比較した結果を報告するものである。先の2本が、ラヴェル15曲というコーパスの内部構造(外れ値がどれで、どう扱うか)を扱ったのに対し、本稿は視点を変え、「他の作曲家との対比で見たとき、ラヴェルの音楽は何によって特徴づけられるか」という問いに答える。

なお、本稿の背景となる方法論については「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編レポートI」および「ピッチクラスセットの離散フーリエ変換に基づく調的組織の軌道力学分析——方法論編レポートII」を、個別の指標の定義については「五度圏ピッチクラスセット重心の方向性指標拡張——方法論編レポートI」の付録を参照されたい。


1.出発点――内部に時系列もジャンル差も見出せなかった

《ボレロ》《パヴァーヌ》を除いた13曲について、作曲年との順位相関を確認したが、旧PCA・拡張PCAのどちらの軸でも有意な相関はなかった(最大でも|ρ|=0.43、p=0.15)。室内楽・管弦楽・協奏的作品というジャンル区分による群間差も見出せなかった。すなわち、ラヴェルの作品群の多様性は、年代的な発展としても、ジャンルによる区分としても説明できない。

この否定的な結果は、問いの立て方を変えることを促す。ラヴェルの個性は、作品群の内部構造(どの曲とどの曲が近いか)にではなく、他の作曲家との対比のなかで初めて明確になる性質なのではないか。 本稿はこの観点から、55楽章コーパス(ハイドン〜ペッテションの8作曲家)およびフランク(大作18曲)にラヴェル15曲を加えた全10作曲家を横断して比較する。


2.f5優勢率とExact_Triadic_Ratio――対角線上の位置

作曲家ごとに、(a) Dominant_Modeがf5となる楽章の割合、(b) Exact_Triadic_Ratioの平均値、を算出した。

作曲家

n

f5優勢率

平均ETR

Mozart

4

0.750

0.527

Haydn

8

0.500

0.523

Franck

18

0.500

0.470

Bruckner

8

0.750

0.467

Brahms

4

0.000

0.446

Shostakovich

2

0.500

0.365

Mahler

11

0.818

0.332

Sibelius

7

0.571

0.310

Ravel

15

0.800

0.248

Pettersson

11

0.091

0.135

作曲家横断比較図

作曲家横断比較図

図1. 全10作曲家のf5優勢率とExact_Triadic_Ratio平均値。

ラヴェルは、f5優勢率(0.800)がMahler(0.818)に次いで全作曲家中2位という、きわめて高い水準にありながら、Exact_Triadic_Ratio平均(0.248)はPettersson(0.135)に次いで全作曲家中最低である。

この組み合わせは、図1が示す通り、他のどの作曲家とも異なる位置を占める。多くの作曲家は、f5優勢率とETRが同じ方向に動く(Mozart・Haydn・Franck・Brucknerのように両方高いか、Petterssonのように両方低いか)。これに対しラヴェルは、f5優勢率は最高水準、ETRは最低水準という、両者が逆方向に引っ張り合う位置にある。


3.Petterssonとの対角線上の対比

この対比は、「損傷した主体」として記述したPetterssonとの比較によって、意味がより明確になる。

Petterssonの後期作品は、五度圏構造そのものからの離脱(f5優勢率0.091)と、三和音性の崩壊(ETR平均0.135)という両輪によって、調的求心力を失っていく。f5が後退し、同時に三和音という内容も失われる。構造と内容が、同じ方向へ、同時に崩れていく。

ラヴェルは、この同じ2軸のうえで、正反対の非対称性を示す。五度圏構造(f5)はほとんど誰よりも強く保持されている。にもかかわらず、その構造の中身を満たす三和音という単位は、ほぼPetterssonに匹敵する水準まで手放されている。構造は持続し、内容だけが非三和音化する。

この対比は、Fourier_ConcentrationやOrigin_PCSet_Ratioといった補助的な指標でも裏付けられる。Fourier_Concentration平均はラヴェル0.022・Pettersson0.010であり、両者とも中位の作曲家群(0.025〜0.036)より低いが、ラヴェルの方が明確に高い。すなわちラヴェルでは、f5が「際立って強く勝つ」わけではないが、「安定して勝ち続ける」。これは、Petterssonのように複数の弱い求心力が拮抗する状態(本研究で既に報告した「f5からf3・f4への移行ではなく、複数の弱い求心力の並立」)とは異なり、一つの明確な勝者(f5)のもとで、内容だけが入れ替わるという状態である。


4.一つの定式化としてのラヴェル

本研究では既に、以下の定式化を提示してきた。

  • マーラー:「構造は持続し、力学だけが極端化する」(f5は持続するが、Avg_Step・Texture_Volatilityという時間的運用が後期に向けて極端化する)

  • Pettersson:「構造と内容が、同時に崩れていく」(f5の後退と三和音性の崩壊が両輪で進行する)

ラヴェルはこれらと並ぶ、第三の型として記述できる。

ラヴェルにおいては、五度圏という構造原理そのものはほとんど動かない。動くのは、その構造を満たす内容――三和音的か否かという、縦の響きの性格――である。

これは、1節で確認した「ラヴェルの作品群には時系列もジャンル差も見出せない」という否定的な結果とも整合する。もし構造(どの周期原理が支配するか)そのものが作品ごとに入れ替わるなら、その入れ替わりを説明する変数(年代やジャンル)を探す意味があっただろう。しかし構造はほぼ一定であり、作品ごとに変わるのは、その上に何を置くかという内容の水準である。この水準の多様性は、年代的発展にもジャンルの違いにも還元されない、作品ごとに個別に構成される性質なのかもしれない。


5.呼称についての覚書

この特徴を何と呼ぶかは、今後の検討課題として開いておきたいが、候補として次のような言い方が考えられる。

  • 骨格保持・充填可変型

  • 構造は持続し、内容だけが非三和音化する主体(マーラーの定式と対になる言い方)

  • 同じ構造原理のうえに、非三和音的な内容を精密に充填する主体

いずれも、「旋法性」のようにDFTデータで直接裏付けられない語を避け、f5優勢率とExact_Triadic_Ratioという、実際に測定された2つの指標の組み合わせに直接対応する形を取っている。


6.小結

  1. ラヴェル15曲の内部には、時系列的にもジャンル的にも、作品群を整理する軸が見出せなかった。

  2. 全10作曲家を横断して比較すると、ラヴェルはf5優勢率が全作曲家中2位(0.800)、Exact_Triadic_Ratio平均が全作曲家中最下位から2番目(0.248)という、他のどの作曲家とも異なる組み合わせを示す。

  3. この組み合わせは、構造(f5)と内容(三和音性)が両輪で崩れていくPettersson(「損傷した主体」)とは対角線上の対比をなす。ラヴェルでは、構造は持続し、内容だけが非三和音化する。

  4. この定式化は、マーラー・Petterssonに続く第三の型として、本研究の主体類型論に位置づけられる。

(2026.10.12 公開)