2026年7月23日木曜日

アンドレイ・エシュパイ

  私のエシュパイとの関りは、専ら彼がフィン・ウゴル系の民族の一つであるマリ人の父を持ち、父の研究対象であったマリの民族音楽のイディオムに深く根差した作品を生み出した作曲家であるという点に拠るものである。例えば彼の第3交響曲は父親への追憶として書かれた作品だが、一聴して明確に聴き取ることができるように、その音楽は所謂「ロシア的」なものとは一線を画しており、マリの民族音楽のイディオムの影響は明確であろう。この点に関して、例えばかつてWebに存在したOnno van Rijenの Soviet Composer's Page(現在はWayback Machineのコピーで確認できる)のエシュパイの項目では、そのスタイルの説明として以下のような指摘をしていた。

His musical expressive means are very unusual due to his usage of the folklore of his native Mari people. Typically his colourful orchestral sound seems to distill the essence of the natural world of the far north. He uses syncopated rhythms; his rhythms seem to be related to the music of Bartok. He uses often alternations of ostinato-tuttis and rhythmic shifts from folklore music.

(Andrei Eshpai, Internet Edition compiled by Onno van Rijen, Last update: 17 May 2007)

 彼の音楽の表現の特異性がマリの民謡に由来することから始まり、極北の自然のエッセンスを蒸留したかのような管弦楽法、シンコペーションを伴うリズム処理におけるバルトークの音楽との関わりに触れた後、もう一度オスティナートとリズム上のずらしの交替の利用がマリの民族音楽に由来するという指摘であるが、これは実際に彼の作品をある程度まとまって聞いた印象と概ね一致しており、首肯できるものと考える。この指摘が意味するのは、エシュパイの音楽にとってマリ人が住んでいる土地の風土や音楽的伝統が、単なる音による描写の素材であったりエキゾチックな雰囲気を醸し出す効果のための素材であるといった通俗化した「国民楽派」的なイディオムのレベルに留まらない、本質的なものであることを告げており、旧ソ連における文化の公式のイデオロギーであった「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」とは(その出発点はともかく結果としては)距離を措いたものであることを告げている。

 エシュパイの作品の幾つか、それも著名な幾つかを一聴してあからさまなジャズのイディオム面(特にリズム)や楽器編成上の活用は、旧ソ連においては退廃した西欧の文化の象徴としてしばしば排撃の対象となった筈であるが、ここではそうした文化的な記号として機能しておらず、同時に例えばシュニトケが「引用」を行った時のイデオロギーへの抵抗の身振りのようなものとも無縁で、奇妙に根無し草のような雰囲気を帯びていると私には感じられる。突飛な譬えと捉えられるかも知れないが、スクリャービンにおけるショパン的な作品ジャンルやイディオムが、もともとのショパンにおいては民俗的なルーツとの繋がりを持っていたものが、身体性を欠いた奇妙に抽象的なものに変容してしまっていることを思い浮かべてしまう。敢えて比較の対象を求めるならば、上に引用した文章で指摘されているバルトークの音楽(ジャズということならまず「コントラスツ」が思い浮かぶ)よりも、マルティヌーにおけるモラヴィア風のリズム処理の自在さとジャズ的なイディオムの奇妙な混淆の方が近いようにも思える。もっともこのことは寧ろ、単に私自身にとってジャズが疎遠なものであることに由来しているに過ぎないかも知れない。

 それに比べれば、マリの民族音楽も含めた地理的・文化的風土とエシュパイの音楽との関りの様相は私にとってずっと違和感のないものであるが、こちらはこちらで私がエシュパイの音楽に関心を抱いた経緯に拠ったものに過ぎず、そうした偶然的な要因を超えた何かがそこにあるかどうかは必要なら別途検討するべきであろうが、私のエシュパイへの関心はマリ人という民族やマリ語という言語への関心に先立たれていて、そこから謂わば派生したものなのである(そしてこれは例えばシベリウスやバルトークの場合とは順番が逆であり、ヤナーチェクの場合とは同じ順序であった)。それではマリ人への関心の由来はと言えば、私が音楽を聴き始めて間もなくの中学生になったばかりの頃に出会って強く魅了されたシベリウスの音楽が、直接民族音楽に由来する素材を用いるといった、いわゆる「国民楽派」の典型的なイメージとして思い浮かべるような仕方ではなく、だが明らかに西洋の音楽の伝統とは異なる時間の流れや風景を感じさせるものであり(それ故私が魅了され、今日なお聴き続けているシベリウスの作品は、マーラーによって「通俗的なまがいものの節まわしが例の≪北欧的≫な和声とやらという国民的ソースをまぶして料理されていた」(1907年11月2日付ヘルシンキ発のアルマ宛の書簡、引用は酒田健一訳の『回想と手紙』白水社版による)と評されたような初期の作品(正確を期すならば、ここでマーラーが言及しているのは、マーラーが聴いた10月29日夜のカヤヌス指揮のコンサートで演奏された交響詩『春の歌』op.16とアンコールとして演奏された『悲しきワルツ』であることが判明している)、フィンランドナショナリズムのアイコンとなった「フィンランディア」などではなく、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ』に取材した『クレルヴォ』や『レンミンカイネン』連作のような交響詩をはじめとする一連の作品群でもなく、最初に出会った作品である第2交響曲を除けば、後期の交響曲と交響詩「タピオラ」の数曲のみである)、結局のところその独自性の一部はフィンランドという国の地理的・歴史的条件やフィン人という民族の言語や文化的伝統に根差しているように思えたことが起点にあった。特に言語については、フィンランド語はヨーロッパで主流のインド・ヨーロッパ語族とは異なる系統の言語であり、(実はシベリウス自身の母語はスウェーデン語であり、フィンランド語は後から習得したものなのだが、にも関わらず)特に後期のシベリウスの音楽のリズムやアクセントに、フィンランド語の持つ、印欧語とははっきりと異なった特徴がこだましているように感じられたこともあって、フィンランド語をはじめとするウラル語族に関心を持つようになり、その中でも特に民族の故地と想定されるウラル山脈の西側に程近い、ヴォルガ川の沿岸に今なお居住するマリ人やモルドヴィン人、ウドムルト人といった民族と言語にも興味を持つようになったのがきっかけなのである。

 とはいうもののインターネット普及前で、海外の情報へのアクセス手段が限定されていた時代であり、ましてや冷戦の「鉄のカーテン」の向こう側について、地方都市に住む平凡な子供が入手できる情報は事実上皆無に近く、ようやくまとまった情報に接したのは、ウラル語学者の小泉保さんが公刊した『ウラル語のはなし』を入手したのが最初であったと記憶するから、昭和が終わり平成になってしばらくしての時期ということになる。同様にして、旧ソ連圏の作曲家とその作品に接することができるようになったのも、LPの時代が終わり、CDが急速に普及するのと並行して、ゴルバチョフが登場し、ペレストロイカが推進され、それまではカーテンの向こう側にあって手が届かなかった様々な情報へのアクセスが可能になってから以降のことである。

 だがそれ故にこそ一般的な了解としては、まさに上記のSoviet Composer's Pageの中で取り上げられていることが物語るように、寧ろエシュパイは所謂「旧ソ連(ソビエト連邦)」の作曲家の一人として紹介されてきたように思われる。エシュパイは1925年の生まれだからロシア革命後のソ連で生まれたことになるけれども、そのソ連が1985年のゴルバチョフのソ連共産党書記長就任以降、ペレストロイカの時期を経て1991年に崩壊に至るのと並行するように、1980年代中葉以降、ソ連圏の作曲家のうち、特にその後西側に亡命するなど、体制に順応的ではない作曲家の一群がECMレーベル等により西欧に紹介され、西側の「前衛」の行き詰まりに替わるようにして社会主義リアリズム一辺倒と思われていた鉄のカーテンの向こう側の多様な個性を備えた作曲家達に脚光が浴びるようになったのであったが、エシュパイの名前はその中に含まれることはなかったように記憶する。彼の経歴を辿ると、ソ連作曲家同盟書記として作曲家同盟の要職を占め、ソ連人民芸術家の称号(1981年9月)を受け、国家賞(1976年、マヤコフスキーの詩によるカンタータ «Ленин с нами»(『我々のレーニン』)およびピアノ協奏曲第2番)、レーニン賞(1986年、オーボエ協奏曲(1982)、«Песни горных и луговых мари»(『山地マリ・牧地マリの歌』, 1983)に対して)を受賞していることが確認できる。そしてこれら受賞作も含めた幾つかの作品については録音された演奏が存在して旧ソ連の国営レーベルのレコードとして知られていたようだから(それ故CDの時代を経てネットワーク経由でのダウンロードやストリーミングでの視聴が主流になる一方でLPレコードが再び持て囃されるようになった近年は、希少価値を持つとしてネットオークションなどでも時折見かけるようであるが、当時の私は辛うじて風変りな名前の作曲家がいるくらいの認識で、その作品に接することはなかったのだが)、その限りで寧ろソ連の有力作曲家の一人として、ペレストロイカの時代以前から「知る人ぞ知る」存在であったというべきなのだろう。

 ちなみにエシュパイのソ連作曲家同盟書記としての活動を伺わせる証言が、意外なところにあるので備忘を兼ねて紹介しておきたい。イヴァシキン編『シュニトケとの対話』(秋元里予訳, 春秋社)の第3章はショスタコーヴィチを巡っての対話から開始されるが、その後チシチェンコの話題になったところで、ソ連時代の作曲家同盟に纏わるエピソードが紹介される。その中で、この対談において唯一エシュパイへの言及が為される箇所がある(邦訳、p.125~6)。ヴォルコフ編の偽書『ショスタコーヴィチの証言』によってすっかり「悪役」として人口に膾炙することになった作曲家同盟議長フレンニコフに対する賛成投票をシュニトケが拒否した時に、チシチェンコが明確な擁護の姿勢を示したことが語られるのだが、そのくだりでエシュパイが登場するのである。以下、エシュパイが登録する箇所の前後を引用する。

I(イヴァシキン):理事会のメンバーとして選挙に参加したんですよね?

S(シュニトケ):ええ、1975年頃のことでした。面白いことに、選挙の前、アンドレイ・エシュパイから何度も電話がかかってきました。電話の内容は、「作曲家同盟書記に出世させてやる」「うんといったほうがいいぞ」ということでした。僕は、後悔しているのですが、初めは彼の言うとおりにしようかと思いました。でも、ありがたいことに、すぐ考えを改め、断るべきだと悟ったのです。

I:でも一時期、作曲家同盟の交響曲部会の会合を担当していましたね。

S:それは別の話です。僕はメンバーの一人として委員会に入り、一時期、二ヶ月ほど、公聴会を行っていました。

(イヴァシキン(編)『シュニトケとの対話』邦訳、p.125~6 )

チシチェンコについての話題はこれで終わって、次のやりとりではシチェドリンに話題が移ってしまうのだが、生涯の出来事について語る箇所でも、他の作曲家が話題になる箇所でもエシュパイへの言及はなく、あからさまにフレンニコフの「一味」、その「手下」という役割で描かれている上記の引用箇所が唯一の言及であることからして、シュニトケはエシュパイを自分に敵対する側の人間と看做している上に、作曲家としては全く評価していないということが窺える。イヴァシキンもシュニトケ本人も言及しておらず、注釈もないため、事前に予備知識がなければ知りようがないことだが、後述するようにシュニトケは、ラコフ、ゴルベフの門下であるという点においてエシュパイと同門であり、シュニトケ本人は勿論、イヴァシキンにとってもそのことは言わずもがなの前提知識であった筈である。そしてそのことを踏まえて、エシュパイの方がシュニトケに比べて10年年長であることから考えれば、エシュパイとしては同門の弟弟子に対して、或る種の気配りをしたということなのであろうが、反体制的な立場から見れば、エシュパイは体制に順応し、もしかしたら反体制派への迫害に関与した可能性すらある、胡散臭い存在ということになるのだろう。これもベルリンの壁の破壊に象徴される、旧ソ連および旧ソ連圏の崩壊の後、所謂東側で活躍し、名声を獲得し、ともすれば「芸術的良心」として語られさえした存在が、第二次世界大戦後のドイツでのネオナチへの加担の告発と同様に、体制側の秘密警察のスパイであったり、密告をこととする協力者であったといった事例が溢れた時期があった。そうした点で、旧ソ連の体制崩壊以前に出版されたこともあって一般に強烈な衝撃をもたらし、その後も影響力を持ったのは、ヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』だろうが、そこには上で言及したフレンニコフについての「証言」だけではなく、スターリンによる「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」のイデオロギーの下で、少数民族の作曲家が、その民族の自治共和国において権勢を恣にし、剰えその名前の下でゴーストライターによる作品の偽造さえ組織的に行われていることについての証言、しかもこのケースについては具体的に固有名まで明記した証言があった。(ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』, 水野忠夫訳の第5章「わたしの交響曲は墓碑銘である」にあるムスタル・アシュラフィ(参照文献の訳に従う。英語表記ではMukhtar Ashrafi)の例。 中公文庫版ではp.309以降。実はこの箇所は盗作についての話題の一部であり、ウィリアム・シューマンの或る交響曲をそのまま書き写して自作の交響曲として発表したさる女性作曲家に関する話題に後続している。『証言』では「少数民族」の作曲家に関するエピソードもそれなりの紙幅を費やして語られているが、この部分ではなくもっと後、第六章「はりめぐらされた蜘蛛の糸」に含まれている。但しそこでは特定の作曲家の固有名への言及は確認できる限りではないようだ。)現在では偽書説が確定したとはいえ『ショスタコーヴィチの証言』の証言内容の真偽は別問題であり、個別に検証される必要があるものの(そのせいか、ムスタル・アシュラフィはWikipepiaにエントリが存在するけれど、そこには『証言』での告発内容についての言及はないようだが、『証言』の内容のファクトチェックをやった研究者の報告である Allan B. Ho and Dmitry Feofanov, Shostakovichi's War, 2011, rev. 2014 では『証言』の内容を裏付ける証言が得られたという記述を見かけた。(同書の IV. Corroborating Testimony, 1. Shostakovich on Figures in His Life, c. Mukhtar Ashrafi の項、pdf版では p.100 以降。))、少数民族の作曲家が置かれた地位は、もともと極めて不安定で脆弱なものであったことは疑いなく、公然と批判の対象となったアヴァンギャルド(例えばロスラヴェッツのことを思い起こして頂きたい)と違って、一見したところイデオロギーと対立しないばかりか親和的でさえありうることから、却ってその態度においてショスタコーヴィチのような「ロシアの作曲家」の場合とはまた異なった屈折を孕まざるを得なかったことは疑いないだろう。エシュパイに話を戻せば、彼は「形式においては民族的」という側面に関して自分の民族的出自を利用する一方で、ロシアの作曲家」として振る舞うことで、想像を絶するような苛酷な体制の中を生き延びたかも知れないのである。今ではその良心を疑うものがないように見えるショスタコーヴィチでさえ『証言』が出る遥か以前から、体制順応派として否定する向きから、ダブルミーニングを駆使して内部で抵抗を行っているのだと擁護する向きまで、毀誉褒貶相半ばする状況であったことを思い起こしてもいいだろう。

 とは言いながら、だからと言って旧ソ連やロシアの外部の人間がエシュパイを「ロシアの作曲家」の一人として一括りにしてしまうことが正当化される訳ではない。これはECMレーベルで紹介された作曲家の一人でもあるグルジア出身のギヤ・カンチェリについて記した時に触れたことだが、かつて21世紀になって間もない頃、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」というゴールデンウィークに開催される日本国内の音楽祭にて「ロシア音楽」がテーマになった年があった。新書の体裁をとった著名なロシア文学者の手になる「ガイドブック」では「ロシア音楽」の名の下、既にロシア連邦には所属していない、だがそれを言えば、旧ソ連の時代でさえロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の構成体ではなかった筈の国であったり、非ロシア人であることが明らかである作曲家が取り上げられていたのに違和感を抱いたことを記憶している。記憶する限り、ガイドブックで取り上げられるのは専ら既述の西側で有名になった作曲家たちであり、エシュパイは取り上げられていなかったと記憶しているが、上述のようにエシュパイはロシア連邦の構成主体の一つであるマリ・エル共和国(1990年に自治共和国から共和国への昇格を宣言)の作曲家であるだけでなく民族的にもマリ人の血をひいているわけだし、冒頭に引用したSoviet Composer's Pageの記述にもあるように、その音楽における出自の民族に由来する特徴は明らかなのだから、ガイドブックでもし取り上げられたらという仮定をするしないによらず、彼を「ロシアの作曲家」というラベルの下に括ってしまうのはエシュパイの場合にも無理があるように思われる。

 関連してもう一つ実際にあったことを書き留めておくと、これまたWeb上のさる著名なオンラインCDショップのサイトのエシュパイの紹介で、「父親の故郷、旧ソビエト・マリ自治共和国」という言い回しを見かけた。これだとまるでエシュパイ自身はマリ自治ソビエト社会主義共和国(出生当時の自治共和国名称)の生まれでないかのようだが、実際には彼はコジモデミヤンスクの生まれ、ここはマリ自治ソビエト社会主義共和国以来、今日のマリ・エル共和国に至るまでマリ族の自治共和国内にある。ヴォルガ川はカザンまでは西から東に向かって流れ、カザンで90度曲がって北から南に流れるのだが、マリ・エル共和国は東西に流れる部分の主として北岸を占め、その上流よりにあたる西の端の一部で南岸を含んで広がっている。共和国の首都ヨシュカル=オラが北岸の平地(後述のように「牧地マリ」と呼ばれる)にあるのに対し、コジモデミヤンスクはマリ・エル共和国の南岸に並行して広がるチュバシ共和国の首都チェボクサルよりも更に上流にさかのぼったマリ・エル共和国西端のヴォルガ川南岸の丘陵地帯(「牧地マリ」に対して「山地マリ」と呼ばれる)の中心都市なのだから、父親のみならずアンドレイ・エシュパイ本人も自治共和国の生まれなのである。

 アンドレイの父であるヤコブ・エシュパイはマリ人であり、自分の出自であるマリ族の民謡の研究家であった。一方アンドレイの母親はロシア人だから、ロシアではごく普通のことで、そうした族外婚が普通であることが少数民族にとっては民族のアイデンティティーを持つ人口を減少させる要因になりもするのだが、アンドレイはマリ人とロシア人の両方の血をひいているわけだから、その限りにおいて「ロシアの作曲家」という規定は必ずしも無根拠ではないことになる。更にアンドレイが最初に父親から音楽教育を受けた後に正規の音楽教育を受けたのはモスクワ音楽院(グネーシン音楽院)においてであり、ピアノをスクリャービン弾きとして著名なソフロニツキーに、作曲をシュニトケやデニソフ、ボリス・チャイコフスキーといった著名な作曲家の師でもあるラコフ、交響曲作家として著名なミヤスコフスキー、更にはミヤスコフスキーの弟子であり、これまたシュニトケの師でもあるゴルベフに学んだようであるし、後には短期間とは言え母校の教授も勤めていたようであり、更に没したのはモスクワであることを含め、彼が生きた「ミリュー」を考えれば、彼を「ロシアの作曲家」と呼ぶのは不当でないばかりか一定の正当性を備えているという主張を否定することは難しいだろう。ましてやマリ・エル共和国はロシア連邦の一部であり、マリ人はロシア連邦内の少数民族の一つである。更に言うならば、旧ソ連時代にマリ人を基幹民族とする自治共和国として成立し、更にソ連崩壊に際して主権宣言を行ってマリ・エル共和国になったとはいえ、今日のマリ・エル共和国においては僅差とは言えロシア人の方が人口が多く、しかも傾向として、1920年に成立したマリ自治州以来、当初こそマリ人の方が多かったとはいえ、マリ人は徐々に減少し続け、遂には逆転してしまったという経緯もある。マリ人の減少の原因は既述の族外婚などによるロシア人への同化であり、その傾向はソ連崩壊後一時弱まったものの近年再び強まっており、特に最近になって自治共和国内において基幹民族ではない(とはいいながら既述の通り、マリ・エルの場合には僅差ではあるが人口が最も多いのはロシア人なのだが)ロシア人の権利保護という名目で、公用語の地位にある少数民族言語の教育が必須でなくなったり、文化的領域を除いた公的な領域でのロシア語の優位が強化される傾向が顕著なようである。結果として公用語とは名ばかりで、利用機会は家庭とか地域コミュニティでの会話に限定されて公的な場ではロシア語で話すというダイグロッシアが日常化し、地方では使われていても都市部での利用頻度は低く、更には教育の場での地位が危うくなるのに応じて学校で子供が使うのもロシア語ばかりで民族固有の言語を使うことができない状況すら珍しくないという状況がますます強まることになる。マリ・エルに住んではいても、ロシア人にとってマリ・エルはロシアの一部に過ぎず、ヨシュカルオラはロシアの地方都市の一つであるというのがマリ・エルに住むロシア人の普通の認識のようでさえあるから、名ばかりの基幹民族に過ぎないマリ人との間の認識の溝には深いものがあるようだ。

 そうした言語のおかれた地位の不安定さのそもそもの原因は、旧ソ連の自治共和国の財政がソ連の予算に直接依存していたのを引き継ぐようにロシア連邦の予算へ依存しているために、自治共和国の政治体制は極めて保守的で、その政策がしばしば基幹民族である筈の少数民族に対してあからさまに抑圧的すらあることに存する。かつてはほとんど直接アクセスすることができず、情報も極めて乏しかったロシア連邦内の様子も、インターネットの発達の恩恵を被って、今では文字情報は勿論、画像や動画によって、かつては現地を訪れなければ知ることができない情報もひっくるめて、自宅に居ながらにしてアクセスできるようになっているのだが、インターネット経由で見ることのできる首都ヨシュカル・オラの中心部はマリ語での「赤い街」という意味の通りに赤い煉瓦の色がひときわ目立つ西洋風の真新しい建物が立ち並ぶ様が印象的でも、よく見ると人影もほとんどなく、利用されているかどうか怪しい建物があるかと思えば明らかに作りかけと思しき一角もありで、箱物ばかりが整備されても活用されず一向に賑わいが戻らない日本の地方都市を思わず思い浮かべてしまう。調べて見ると実際この街並みは、2001年から2017年まで長期に亘りマリ・エル共和国の首長にあたる政府議長をつとめたレオニード・マルケロフの肝いりで整備されたもので、現在も建設は継続されているものの、期待された経済効果を生み出すことなく負債ばかりが積み重なり、その果てにマルケロフが収賄容疑で逮捕されて首長が変わっても補助金頼みの体質が変わるわけでもなく、財政は膨大な赤字を抱えるばかりという状況のようである。マルケロフは新型コロナ禍の最中に罹患して死亡したロシアの極右政治家ジリノフスキーが率いていた「自由民主党」に所属し、その後首長在任中の2015年にロシアの政権与党である「統一ロシア」に鞍替えししているが、既に有罪が確定した汚職だけでなく、反体制派への暴力を伴う抑圧や少数民族の迫害の廉で批判が絶えない人物である。ちなみに彼はモスクワ生まれのロシア正教徒のロシア人であり、マリ・エル生まれでもなければマリ語も話せない。それまでの長い歴史に亘ってほぼ一貫してそうであったように、先住者のマリ人のもとに資源その他の利権を求めて外部からやって来て入植し、ほとんどの場合暴力をもって支配者となった人々の一人であると言えるのではなかろうか。Web上でしばしば欧風様式の美しい街並みといったコピーで紹介される一方で作りかけの(あるいは何かの事情で閉鎖されて間もない)テーマパークのようにも見えるヨシュカル・オラの中心の人気のない街区は勿論、第一義的には自治を認められた基幹民族のためではなく、ロシア系の支配者の虚栄の産物でしかないようにさえ感じられる。

 かつては鉄のカーテンの向こう側であった旧ソ連地域も今日では比較的容易に旅行して訪れることが可能になっていて、数は少ないとはいえ、Web上でマリ・エル共和国訪問の記事を幾つか確認できるが、その中にはヨシュカル・オラの駅周辺の警官の多さ、バザールでの写真撮影の禁止など、ヴォルガ川の下流側、東西から南北に向きを変える地点に位置するカザンやヴォルガ川北岸にあるヨシュカル・オラから見て対岸に位置するチュボクサル(既述の通りキリスト教に改宗したトルコ系民族の自治共和国であるチュバシ共和国の首都)といった周辺の都市と比較した時の特異な印象が記録されていたりもするし、本稿執筆時点では確認できなくなっているが、ロシア国内で邦人が被害者となった治安上のトラブルの事例としてヨシュカル・オラで発生した事案が掲出されていたこともあった。

 更にロシアのウクライナ侵攻が当初の予想に反して失敗し、ロシア軍の劣勢が隠しようがなくなった末に予備役動員にまで追い込まれるようになるにつれて、前線に送られて死傷したロシア兵の多くがロシア国内の少数民族の出身者で占められ、予備役徴集にあたっても同様に少数民族出身者が「狙い撃ち」されているといった報道を目にするようになった。ただし日本語で読むことができる記事で直接マリ人が対象となったものはほとんどなく、管見では2022年4月22日のKOREA ECONOMICSという京都のシンクタンクが運営しているWebニュースサイトで、マリ・エルの現地紙の報道に基づく記事を確認することができたのが唯一である。マリ・エルの現地紙「yocity12」の報道によれば、4月13日に戦没したロシア軍第6工兵連隊の指揮官ナガモフ大佐(享年41歳)は、ススロンゲール村生まれで地元の学校を卒業、ここ数年はヤロスラブリ州ロストフ市の工兵連隊の隊長を務めていたとのこと。この記事は「露軍上級将校がまた戦死 「第6工兵隊ナガモフ大佐が作戦中に殺害」現地紙」という見出しが告げているように、寧ろこれもそのころ盛んに報道されていたロシア軍将校の犠牲者の多さにフォーカスした記事なのだろうが、「(…)報道は、ロシア軍のウクライナ侵攻で死亡したヨシュカル・オラ(マリ・エルの首都)の原住民2人がすでに埋葬されたと伝えている。(…)」とも述べており、記事では「原住民」と呼ばれている少数民族、つまりここではマリ人の犠牲者が出ていることを証言する記事にもなっている。(なお、この記事の「原住民」という言葉には差別的な意図はなく、後述のように、マリ人は5世紀には現在居住している地域にいたことが考古学的な調査などで確認されており、その後この地に侵入してきた「タタール人」と総称されるモンゴル系やトルコ系の民族、更にその後に侵入してきたロシア人に対しては先住者であるのだから字義通りに捉えれば正確ですらあるのだが、そうしたニュアンスを感じる人がいるかも知れないという以上に、ロシアの自治共和国の構成主体となる少数民族を「原住民」と呼ぶことは管見の限りでは無いので、どうしてもぎょっとしてしまうのは避けがたい。)もう一つ、この記事を読んで思い浮かべたのは、後述するようにマリ人が紀元5世紀以来居住してきた地域は、色々な民族が通り過ぎ或いは支配した場所であり、しばしば戦乱の巷となったようだが、そうした歴史の中でマリ人は精強をもって知られたという記述が小泉保『ウラル語のはなし』にあったことである。曰く「チェレミス兵は勇猛の誉れが高く、その後も、国外の戦役にたびたび利用させられた。」(同書 p.40)とある。ここで「その」というのはイヴァン4世がカザンを攻略した時であり、「チェレミス」というのは近隣の別系統の民族によるマリ人の他称であるが、その名称の一部は「軍隊」を意味するらしい。ともあれそうしたマリ人の歴史を思い浮かべると、今回のウクライナ侵攻にマリ人が従軍していることは何ら珍しいことではなく、これまでの歴史の中で繰り返されてきたことに過ぎないのかも知れない。

 上述のような例は、それが事実であったとしても、マリ人だけに起きたことではないかも知れないし、マリ人だけに有意に高頻度ないし深刻なレベルで生じている訳ではないかも知れない。また例えばレオニード・マルケロフのケースにしてもそれは彼固有の個人的なものに過ぎず、例外なのではないかという冷静な反論があるかも知れない。実際、前者については、マリ人よりも遥かに深刻な状況に置かれている少数民族も数多いし、既に「死滅」してしまった民族もある中で、自治共和国の基幹民族であり、その言語もまた曲りなりにも公用語の地位を与えられ、特に近年インターネットでの発信や情報交換が可能になると、寧ろデジタル・ネットワークのヴァーチャルな空間の方での言語の利用や文化の発信が活発になるといった状況すら出てきており。結果として紙媒体の書籍としてのマリ語の文法書や辞書、教材へのアクセスを果たせずにいるうちに、Webでpdfで文法書がダウンロードできるようになり、オンライン辞書や翻訳システムが利用できるようになり、youtubeでマリ語の入門のヴィデオ教材が簡単に入手できるようになっているし、マリ・エルとマリ人、マリ語についてのロシア語以外での情報も飛躍的に増えている一方で、マリ語による発信や交流も行われていて、マリ語版のWikipediaもあれば、テキストコーパスの構築も進んでいる。民族固有の文化の継承を目的としたNPOもSNSやyoutube等を用いた発信をしており、こうした面だけを見ると現実の空間の中でのマリ語やマリ人が置かれている状況の深刻さが却って見えなくなってしまう懸念を抱く程である。ロシア連邦を構成する共和国、州や地方の政府の腐敗と様々な領域に及ぶ怠慢も特段マリ・エル固有の問題ではなく、寧ろロシア全体に蔓延しているとはいえ、既述の周辺地域の主要都市に比べた時のヨシュカル・オラの雰囲気は、一見して華々しいプロジェクトが行われている「進んでいる」地域のように見えるところに限って利権を巡っての癒着や争いを背後に抱えているという悪しきサンプルとなっているという見方もできて、マリ・エルの置かれた状況が決して前途に明るい展望が開けているとは言い難いように感じられる。

 既述のようにマリ人というのはフィン・ウゴル系の民族であり、ウラル山脈の西側のヴォルガ川流域あたりを故地として遠くフィンランドにまで辿り着いた民族グループのうち、故地のすぐ近くに留まったグループの一つ、ヴォルガ・フィン族の一部とされていて、5世紀頃には既に現在マリ・エル共和国のある場所に居住していたことが考古学調査等によって確実視されている。その後マリ人の居住地は、まず現在のヴォルガ・タタール人がその末裔とされるヴォルガ・ブルガールに支配されて以降、日本ではキプチャク・ハン国として知られるモンゴル族の国家ジョチ・ウルス、カザン・ハンといった国の領土となった。なおマリ人は、かつては寧ろチェレミス人と呼ばれることが多かったようだが、チェレミスというのはトルコ系のチュヴァシ人がマリ人を呼んだ他称に由来するらしい。一方「マリ」というのは自称であり、これもしばしばあるように、マリ語で「人」を意味している。マリ・エルというのも「マリ人の国」の意味のマリ語による自称である。ロシア人がこの地を支配するようになったのはようやく16世紀も後半に入ったモスクワ大公国の時代であり、こうした様々な民族との交錯の影響は、やはりフィン・ウゴル語族に属するマリ語に存在する大量の借用語が雄弁に物語っている他、形態論的水準および統語論的な水準においても語族を異にするトルコ系の言語の接触の痕跡が数多く指摘されている。(その具体的な様相について日本語で読める文献としては、小泉保『ウラル語のはなし』『ウラル語統語論』がある。)マリ語は幾つかの方言を持つとされるが、ヴォルガ川の北の平地にあるマリ・エル共和国の首都ヨシュカル=オラ(マリ語で「赤い街」の意味)を中心にヴォルガ川の北岸の平地で話されているのが「牧地マリ語」、南岸の丘陵地帯で話されているのが「山地マリ語」で、エシュパイの生まれたコジモデミヤンスクは「山地マリ語」が話される地域の中核的な都市なのである。

 冒頭に触れたレーニン賞受賞の理由となった«Песни горных и луговых мари»(1983)を『山地マリ・牧地マリの歌』と訳したのもそれ故なのだが、この分裂もまた、この地域でのタタールとロシアとの衝突の名残とされ、牧地マリがタタール人側に、山地マリはロシア側について、分かれて戦ったとされる。(このことは日本でも戦国時代に、家系断絶を避けるために兄弟が敵対する勢力に分かれて戦うといった事例を思い起こさせるが、マリ人は、近隣の同系の民族であるペルム人とは異なって統一的な国家を形成したわけでもなければ、侵入者を避け、故地を離れて居住地を移動することなく、その場に留まる選択をしたという点では一貫している(但し、その一部は遥かに東に移動して、本体とは遠く離れて散居する東マリ方言を話すグループを形成するようになったが)ので、これは単にマリ人を構成する部族ごとに与する勢力が異なったということに過ぎないようであり、寧ろ人類学で言うところの双分制度に近いものを背景としていると考える方が良いのかも知れない。)ちなみにマリ語の下位区分の方言については大きく4つを区別するのが一般的なようであるが、そのうちコジモデミヤンスクを中心とする山地マリ方言、首都ヨシュカルオラを中心とする牧地マリ方言は、旧ソ連時代の自治共和国において公用語としての地位を獲得し、規範となる標準語が存在して教育が行われ、キリル文字を若干拡張した正書法が定められて出版も行われているが、両者の中間地帯の北西部の方言と既述の通り、現在のマリ・エル共和国の領域の遥かに東に離れてタタールスタン共和国からバシコルトスタン共和国内にかけて点在する東方言とは公的な地位がないために、他民族の接触の中でその存続は危うい状況にあるようだ。また公用語の地位を持つ2つの方言も、確認できる限りではその状況は決して対等ではない。公用語の地位を形式的に持ちながら、その保全の状況は想像されるような安定したものでは決してないことについては既述の通りであり、常に他の言語との接触の中でも様々な意味合いで圧倒的な優位性を持つロシア語への置き換えの強烈な圧力に常にさらされ続けてきたし、今なおそうであるが故に、話者人口のような基本的なデータですら調査によってかなりの数値のばらつきを示していて状況を認識すること自体に困難があるというのが現実のようだ。現時点で最もそうした情報が集約されているWebサイトであるELP(Endengered Language Project)で確認できる限り、牧地マリ語の話者人口については4種類の調査結果があって、いずれも40万~50万人という値が得られているのに対し、山地マリ語は概ね5万以下で最小で3万、最も多い数値で6万6千人の話者を数える(なお、ELPのサイトでは、牧地マリ語は「東マリ語(Eastern Mari)」、山地マリ語は「Western Mari」という名称を用いていること、ここでは東マリ方言はエントリを持たず、北西マリ方言は区別されていないという点に留意する必要がある)。要するに概ね、牧地マリ語10に対し山地マリ語1という極めて偏った分布となっていて、山地マリ語の状況が牧地マリ語に比べて一層脆弱であるのは確実のようだ。

 そうした歴史の中でマリ人は宗教に関しては古来からの伝統的な信仰を強く保持していることで有名であり、近隣の非ロシア系民族でもキリスト教(ロシア正教)を信仰するようになる中で、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に書き留められ、その近くではエストニアの南東に居住するセトゥ人もまたその信仰を今なお堅持している多神教的な自然崇拝を今でも守っており、それゆえに(ウラル山脈から西を「ヨーロッパ」とする立場から)「ヨーロッパ最後の異教徒」と呼ばれることもあるようである。マリ人の伝統的な神話体系は今日では Jugorno と名付けられた民族叙事詩に纏められているが、その成立は遅く、ようやく21世紀になってからのことで、Anatoli Spiridonovにより編纂され、まずロシア語で2002年に出版された後、牧地マリ語に翻訳され、ついでエストニア語に翻訳されてから西側で一般に知られるようになったようだ。これは近隣のウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyが同じくロシア語でではあっても既に1920年代に書かれたのに比べると非常に遅く、寧ろソ連解体後の伝統信仰や伝統文化の復興の動き、特にかつての伝統的な自然崇拝を復興させる、ないし今日的な形態で再構しようとする「ネオペイガニズム(Neo Paganism)」の活動との関りで捉えるべきなのだろう。そうした動きはマリ人のみに限ったことではなく、旧ソ連圏のフィン・ウゴル系民族の場合、いずれもソ連解体後に活発化しているようだが、マリ人においては例えばMari Ushemという団体の活動を挙げることができる。他方、ウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyも、ウドムルト語への翻訳はようやく2004年になってからだし、エルジャ・モルドヴィンの民族叙事詩であるMastoravaは1994年にエルジャ語で刊行されていて、これは前二者に寧ろ先行していることになるが、これらもやはり同様に、ソ連解体後のそうした動きの一つとして捉えることができるだろう。

 そしてこの点は、フィンランド人であるシベリウスと、マリ人であるエシュパイの音楽に数多ある差異の中で、確かに感じ取れ、かつ極めて基本的な認識構造における共通点に通じているように思われる。フィンランド人は後にキリスト教を受容しており、そのことが『カレワラ』の末尾にマリア伝説が差し込まれ、カレワラの神話世界の終焉を示唆する構造になっているのだが、だからといって伝統的な習俗が全く失われたわけではないし、ヨーロッパ全体で程度の差はあれキリスト教の影響力が後退していく過程でネオペイガニズムが盛んな地域の一つとしてフィンランドを挙げることができるだろう。そして遥かに1世紀は時代を遡るシベリウスについてもそうした傾向に通じる面は確実にあって、伝記的・外面的な事実としてルーテル派を信仰するスウェーデン系フィンランド人の家系であるとはいえ、すっかり世俗化した生活を送っていたようだし、音楽作品への反映というアスペクトについても、ジャンルとしての「キリスト教=宗教音楽」の不在は作品リストを眺めていて直ちに気が付く特徴の一つだろう。シベリウスの『カレワラ』に取材した一連の作品群が今日のネオペイガニズムに影響を及ぼした可能性を考えることができる一方で、「キリスト教=宗教音楽」の不在を埋め合わせるかのようなフリーメイソンのための一連の作品の存在もまた無視することはできないだろう。だがそれよりも私にとって重要に思われるのは、交響曲や「タピオラ」といった標題性から距離をおいた抽象度の高い作品群においてはっきりと感じられる垂直方向の超越性の感覚の欠如である。要するにその音楽における宗教性の欠如は単に素材としての問題に留まらず、根源的な認識態度の問題なのだ。音楽は森の中に入っていくがこの世に留まる。秩序はこの世のものでありイデアルなものではない。トゥオネラとこの世は往還可能なものなので、それは寧ろ未知の土地に似ている。超越が垂直方向の運動であるとしたら超越はここにはない。勿論より大きな秩序というのは予感されるがその秩序は隠された次元であるわけではない。ある瞬間に日常的な風景がこの世ならぬものの息吹を受けて変容する奇跡のような瞬間はない。ほとんど人間的なものから離脱してしまいながら啓示とも奇跡とも無縁な音楽に定着された認識の様態は西欧的なものと根本的に異質なもののように感じられるのである。

 そして上記のような構造は、マリ人の伝統的信仰の存続とエシュパイの音楽に定着された認識の様態との間にも極めて類似したものが見出せるというのが私の印象である。エシュパイの音楽は、その抒情的で旋律的なブロックと、時として暴力的と感じられる程に強烈なビートを持つブロックとの対照からか、しばしば「爆裂系」という形容がされ、それは冒頭で検討した意味合いにおいて「ロシア音楽」の特徴の一つであり、従ってエシュパイの音楽はそうした「ロシア音楽」の一翼を担うという認識に通じているのかも知れないが、同じく「爆裂系」の音楽とされるカンチェリのそれが、その時間性においてユニークなものであり、肌理の粗い単純な類型化を拒んで、グルジアの風土に根差したものであるのと同様に、エシュパイのそれも、冒頭引用したOnno van Rijenの Soviet Composer's Pageの指摘にあるようにSoviet Composerの中にあってunusualなのであり、それはマリ人の認識の様態の特異性と構造的に対応しているのであろう。かくして同じ「爆裂系」であってもカンチェリとエシュパイのそれは全くといっていいほどに異質なもので、カンチェリのそれが人間の秩序とは異なった、時として超越的な何かに由来するもので、カンチェリの音楽が明示的にグルジア正教会の典礼音楽であるわけではないにせよ、否、寧ろそうであるが故に一層、グルジアの風土と極めて早期にキリスト教を受容したことで形成された世界の認識の様態の反映であるのと対照的に、エシュパイのそれは、より人間的な制度や社会構造がもたらす暴力と超越を欠いた多神教的な認識様式に基づくものに感じられ、際立って対照的でありながら、「爆裂系ロシア音楽」といった皮相な捉え方を拒む点では共通しているのではなかろうか。そしてエシュパイにおいては、そうした基本的な構造において類似したものを探すとしたらシベリウスが真っ先に思い浮かぶのである。

 従ってその共通性は、フィン族とマリ族が同じウラル系であるが故に、素材としての民族音楽に共通性があるからといった表面的な次元でのみ捉えられるものではない。そもそもシベリウスは素材として民族音楽を直接用いることを拒絶することについては極めて意識的であり、マーラーの批判にも関わらず自己を「国民楽派」の作曲家として規定することを拒絶していたし、学問的実証の水準で、地理的に隔たった同族の民族の音楽の間に起源を同じくするという意味合いでの通時的な関連を証明するのはこれまた全く別の水準の議論であって、フィン族とマリ族の民謡を少しばかり聞いて感じ取れたと錯覚する程度の類似は何の傍証にもなりえないことに留意すべきだろう。

 一般にマリ人の音楽について考える時、西洋のクラシック音楽の中ですぐに思い浮かぶのは、既述の通り他称に基づく民族別称であるチェレミスの名を冠したフィンランドの作曲家ウノ・クラミのチェロと管弦楽のための『チェレミス幻想曲』かも知れない。実際この作品はマリに取材したものであり、フィン族とマリ族の同族意識に基づくもののようだが、一聴したところ感じられるのは、こと私個人の印象に限っては、マーラーが初期のシベリウスの小品を聴いて感じ取った「紛い物」を聴かされているのではという微妙な違和感である。その一方で西進しヨーロッパに定着したウラル民族のもう一方の枝であるウゴル民族の一員であるハンガリー人(自称はマジャール人)の作曲家であり民族音楽の研究者でもあったコダーイとバルトークは、マジャール民謡とマリの民謡の幾つかの類似点を根拠にマジャール民族の音楽のルーツをヴォルガ川流域に求める仮説を立てている。実際にはこの仮説は弟子による現地調査に基づく検討の結果、既に今日では否定的な結論が出ているようだが、音楽の系統関係の同定というのは言語の系統関係の検証に比べてなお一層の方法論上の困難が伴うだろうし、学問的に厳密な系統関係については留保ないし否定的な見解が結論であったにしても、マリの民族音楽を聴いた印象がそうした仮説を呼び覚ますに足るような類型論的な共通性を備えていることまで否定し去るのは、それはそれで行き過ぎた挙措であろう。

 寧ろ音楽の類型・系統的な観点で一層興味深く、かつ謎めいて私に感じられるのは、音楽におけるポリフォニー的な側面の有無である。多様で複雑なポリフォニー様式を備えた民族音楽で著名なグルジア人であるジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか』は、単純なものから複雑なものへという一見自然に感じられる発展の方向性とは逆に、音楽は言語以前の起源の段階ではポリフォニックであり、言語獲得とともにモノフォニーが生じたという興味深い仮説を提唱した著作だが、そのポリフォニーとモノフォニーの地理的分布について述べた章の中で、ヴォルガ川流域についての記述を読むと奇妙なことに気付く。曰く、

「(ドローン・ポリフォニーは)ヴォルガ川とウラル山脈の間に住むモルドヴァ人とコミ人のあいだにも広く普及している。ウドムルト、バシキール、タタール、そしてチュヴァシにもポリフォニーの要素は存在している。」

ジョルダーニア『人間はなぜ歌うのか』p.42

とあるのだが、まず何れもフィン・ウゴル族であるモルドヴィン人(既述の通り、マリ人とと同じヴォルガ・フィン族であり、マリ人から見ると南側のヴォルガ川流域に広く拡散して居住している)とコミ人(フィン・ウゴル族の支脈のペルミ・フィン族に属し、かつてはペルミ公国という独立国を形成し、後には北方に移動することで後から侵入してきた他の民族による征服を免れた)については、ウラル山脈から見るとヴォルガ川の向こう側にあたる南西側に広範囲に散らばって居住するに至ったモルドヴァ人と、既述のタタール人の侵入を逃れるようにしてヴォルガ川流域から遥かに北方に移動したコミ人の居住地を「ヴォルガ川とウラル山脈の間」と呼ぶのことは、正確さの点で問題あるように思える。だがそれよりも奇妙なのは、コミ人と同じペルミ・フィン族であり、ウラル民族の故地と擬定される地域であるヴォルガ川の支流域に住み、マリ人と同様にタタール系の影響を強く受けたウドムルト人に加えていずれも同地域に居住するトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシへの言及があるにも関わらず、何故かマリ人への言及がないことであろう。歴史的に様々な民族が交錯し、今なお多くの民族が入り混じって居住する地域の特性か、民族や言語の系統毎に固有の特性を持つような単純な分布にはなっておらず、系統の異なる民族が接触することで宗教や文化を相手から摂取することはごく普通に起きているため、かなり地域の離れたコミとモルドヴァの共通性も、フィン・ウゴル族のウドムルト人とトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシが音楽的に類似するのも不思議ではないのだが、それならば同じくこの地域のほぼ中心に位置するマリも含まれて当然に思われるにも関わらず、唯一マリだけが取り上げられていないのには奇異の念を抱かざるを得ない。

 そしてマリへの言及がないことを、不注意による言い落としなどではなく、文字通りに受け止めた時には、ヴォルガ川流域からウラル山脈の西側に居住する民族のうち、マリ人のみがポリフォニーに関しては周囲とはやや異なった音楽的伝統を持つという分析がなされていることになる。急いで付け加えなくてはならないのは、ここでの議論の対象は、コダーイやバルトークの仮説がそうであったような、起源に関する問いではないということである。そうではなく、起源や系統の議論は一旦排除して、飽くまでも類型的な観点での類似と相違を問題にしているのである。冒頭に引用したエシュパイの音楽のスタイルは、これも偶然かも知れないにせよポリフォニーの観点を含まない。だがもしそれが偶然であったとしても、結果としてポリフォニーに関する指摘がないこと自体が、控えめに言ってもマリ人の音楽がポリフォニーにおいて特段特徴的ではないか、ポリフォニックではないことを証言していると考えることができるだろう。但し、ジョルダーニアの著作の図を見る限りでは、仮にマリ人が周辺民族のポリフォニックな伝統とは異なる側面を持っていたとして、その特徴は、彼らを囲繞するスラヴ系のヘテロフォニーの類型に属していることになるのかも知れない点には留意すべきであろう。ポリフォニックでないとは言っても、一足飛びにモノフォニーというわけではなく、従ってモノフォニックとされるフィンランドやエストニア、ハンガリーの東部からルーマニアにかけての一帯との共通性を意味するわけでないかも知れないのである。結局のところ、周辺とは異なった特徴を持つ「孤島」のような地域にあって、よりによってまさに自分が知りたいと思っている対象についての情報だけが、まるで測ったかのようにぽっかりと抜け落ちているという状況の前に、茫然と立ち尽くす他ない。

 勿論こうした点についても、民族音楽学者であるならばともかく極東の異国に住む平凡な市井の徒である限り、かつてであればせいぜいが自分が偶然アクセスできた文献での記述に基づく検討のみに終始せざるを得なかっただろうし、よしんばそうした偶然に恵まれたとしても、どの見解が妥当であるかの判断など能くするところではないだろう。だが今日であれば実際にyoutube等でアクセスできるマリの民族音楽を自ら聴くことは可能である。とは言い乍ら、それではその結果として適切な判断が下せるかどうかはまた別の問題であって、専門的な知識がない人間が臆断を弄ぶことは慎むべきであろう。それ故ここではそうした学術的な見地での検討ではなく、その音楽に接した時に受ける「感じ」、その音楽を聴くことによって、そこに引き込まれることになる時間性の感受の様態を、引き込まれる側から記述することに留める他ない。実際にはマリ人のものだけではなく、近隣のウドムルト人のもの(「ブラン村のおばあちゃんたち」というユニットがひととき注目を集めたのは、実はウドムルトであったが)であったり、モルドヴィンの中でも特にエルジャ人の伝統的な音楽と言語や宗教を同時に比較しつつ聞いてみる限りでは、それらの間には明らかな共通性がある一方で、使用される楽器とか、ここで問題にしているポリフォニーのあり方には微妙な差異を認めることができるように思われ、従ってジョルダニアのくだんの記述が、単なる言い落としなのか意図的なものなのかは判然とし難いというのが正直な感覚である。強いて言えば概ね複数の人間によるコーラスの形態をとる近隣の民族の歌唱に比べると、マリ人のそれは、楽器の伴奏を伴った独唱の比率が高いように感じられるが、これが単なるサンプリングの過程で偶然生じた偏りに過ぎないのかどうかについては、結局のところ判断するに足る情報の持ち合わせがないことを認めざるを得ない。

 その限りで私にとってエシュパイの音楽は、上に述べたギャップを直接埋める代補として機能しているように感じられる。そしてそれがあくまでも代補であって、欠如しているピースそのものではありえないということは再び、シベリウスの音楽とフィンランドの民族音楽や文化、風土といったものとの関係を私に想起させる。結局のところフィンランドの風土や文化を見たというのはどちらかというと思い込みであって、そこに見出すことができるのがフィンランドの風土や文化の反映であったとしても、私にとって尽きせぬ魅惑の根拠となっているのはシベリウスが見出し感受した限りのそれであり、正確を期するならば、私が惹かれるのは、自己の外部の感受によってシベリウスという主体が立ち上がる様態そのもの、その時間性なのである。そのことを私がはっきりと自覚したのは、フィンランドの伝統的な民族音楽と並んで、シベリウス以外のフィンランドの作曲家の音楽を色々と聴いた末に、幾つかの例外を除けばシベリウスの音楽に含まれていて私を魅了する音調を見出すことができそうにないと感じた折のことだった。同様のことがエシュパイの音楽の中にも言えて、それがマリの風土や文化を素材としていること以上のものがあるように感じられるのである。それゆえ初期シベリウスの小品に対する或る意味では正当なマーラーの非難が後期のシベリウスの交響曲や「タピオラ」に対しては成り立たないのと同様に、エシュパイの音楽のすべてではないにしてもそのうちに一部には、「国民楽派」的な民族性ともスターリン的に定義づけられた社会主義的リアリズムにおける民族性とも異なった水準での特異性を認めることができるように思えるのである。

 その一方で、私にとってエシュパイの音楽をシベリウスのそれのように聴くことは困難なのだが、その理由を考えてみると、エシュパイの音楽には彼が生きた政治的な体制がもたらしたに違いない屈折が映り込んでいることにありそうである。しばしばエシュパイの音楽について言われる折衷性もまた、それを作曲者本人が積極的に選び取ったかとは恐らく無関係に、そうした屈折の直接的な産物だったのではなかろうか。無論これはエシュパイの音楽がシベリウスのそれに純度において劣っているとしてエシュパイの音楽の価値を切り下げることを意味しない。そのような態度は或る種無い物ねだりに過ぎず、寧ろ音楽そのものへのアクセスを妨げるものでしかないだろう。個別的な水準では、冒頭に触れてそこでは私個人の嗜好の問題として一旦整理したエシュパイの音楽におけるジャズ風の要素は、そうした屈折を証言するものなのかも知れない。特にそれが人が呼ぶところの「爆裂」に関わるのだとしたら、カンチェリとの比較のところで述べた外部から侵入する暴力が、エシュパイの場合には超越的で非人間的なものではなく、より人間的な水準の政治的な抑圧とか社会体制に基づくものであることを告げていると考えることができるのではないか。エシュパイその人が、そうした体制の中で、少数民族の出自という所与に基づき、生き延びるために受け入れた順応は、もしかしたら心理的には攻撃者への同一化のようなレベルにまで及んだのかも知れない。シベリウスの音楽は己の周囲で猛威を振るう陳腐なものに対して身を退き、おしまいには「謎の沈黙」と呼ばれる仕方で対抗したが故に、その音楽の中では生活の資を得るために書いた小品におけるキッチュな側面はあるとしても、彼がそこに己が寧ろ受動的に従うべき論理を見ていた交響曲作品、特に後期のそれら(ここには「タピオラ」が含まれると私は考える)には陳腐な要素は含まれていないのに対して、エシュパイの場合は、寧ろマーラーの場合に通じる(だがこれはエシュパイの音楽が、マーラーに似ているという意味では決してなく、屈折が音楽に避け難く映り込んでいるという構造上の同型性を言っているに過ぎないことは強調しておきたい)陳腐さの音楽そのものへの侵入が避け難かったということを証言するものと私には見えるのである。一方でエシュパイの音楽にはマーラーの音楽におけるような複層性や、バフチン的な意味合いでのポリフォニックな側面が欠けている。それ故私にとってエシュパイの音楽は、それに出会うことによって己の認識のモードが根こそぎ変容させられるような存在にはなり得なかった。だけれどもそれは決して旧ソ連で大量生産された類の陳腐化した社会主義リアリズムの貧弱でトリヴィアルな遺産ではない。一周回って再び、その音楽に接する時の何か割り切れない印象は、マリ人の置かれた状況をより詳しく知るにつれて感じる居心地の悪さと並行していて、エシュパイの音楽は、寧ろそれ自体が私にとっての「異邦人」、自分が直接対面することができず、直接歓待することもできない存在として立ち現れるものになっているのである。

 ここに及んで私は、この文章を書き記しておきたいという己の衝動が、そうした歓待の困難を証言しつつ、為しうる限りでの歓待の意の表明しておきたいという動機に駆動されていたことに気づくのである。それゆえこの文章は、そうした気づきを明記することで閉じられるべきなのだ。このようにして。

(2022.11.20初稿公開, 11.22加筆, 11.26『ショスタコーヴィチの証言』およびThe Shostakovich's Warについて加筆, 2026.7.23 再公開)

2026年7月12日日曜日

アラン・ペッテションの生涯と作品(下)研究紹介・受容史・おわりに

 

第4部 個別交響曲のさらに詳しい分析──ユルゲン・ランゲの研究より


ドイツの研究者ユルゲン・ランゲ(Jürgen Lange)は、交響曲第6番、第8番、第9番、第10番について、楽譜に基づく詳細な動機分析・引用研究を行っている。これらの分析は、伝記的・印象的な理解に対して、各交響曲の内部構造そのものに即した音楽学的根拠を与えるものであり、以下にその要点を整理する。


4-1 第6交響曲──「生のサイクル」


ランゲは交響曲第6番を「夜明けから夕焼けへ、春の新芽から秋の紅葉へ、揺り籠から墓場へという、生のサイクルを描いた作品」と位置づける。冒頭は低弦による静かな持続的な動きで開始され、シューベルトの《未完成交響曲》冒頭を思わせる神秘的な始まりを示す。開始から約4分後、「自我(Ich)」が初めてその声を上げる――ランゲはこれを「エゴ動機」または「誕生動機」と呼び、この動機は交響曲第8番第2部の冒頭主題にも引用されているとする。

曲の終結部(約20分に及ぶ)は《裸足の歌》の最後の曲「彼は私の灯火を消すだろう」の主題に支配される。ランゲは、この終結をショスタコーヴィチの交響曲第15番が示す「満ち足りて舞台から退場する人間」という姿勢と類比し、マーラーの交響曲第9番が「答えより多くの疑問を投げかけ、聴き手を当惑させたまま終わる」のとは対照的な、「自己の内に完結した、意志の強い人間の作品」として特徴づけている。


4-2 第8交響曲──モーツァルトとニールセンの綜合


ランゲの分析によれば、交響曲第8番の素材の大部分は、モーツァルトの交響曲第41番《ジュピター》とカール・ニールセンの交響曲第5番から派生している。第I部は中世からバロック、古典派、そして20世紀へと至る、対位法的・和声的作曲様式の年代順の連結であり、ランゲはこれを「起源から衰退に至る音楽史」を描く「物語的・有機体論的な言説」と呼ぶ。冒頭の長大なカントゥス(定旋律)は、モーツァルトが《ジュピター》終楽章で用いたグレゴリオ聖歌起源の定旋律と類似した構造を持つ一方、独自の教会調を組み合わせて作られている。

第II部は、モーツァルト《ジュピター》終楽章の「5主題フガート」の構成技法に着想を得た「ソナタ形式によるポリフォニー」として書かれている。ランゲはこの交響曲全体を「作曲家のマニフェスト(宣言書)」と総括している。


4-3 第9交響曲──スメタナ《わが祖国》との比較


ランゲの最も野心的な分析の一つが、交響曲第9番とベドジフ・スメタナの交響詩《モルダウ(ヴルタヴァ)》との比較である。両曲はともに「川の流れ」を音楽的に描写しているという仮説のもとに、ランゲは旋律・リズム・調性構造の多数の対応点を指摘する。両曲とも単一楽章の連続した音楽の流れとして書かれ、「源流」「急流」「広い流れ」「河口」という共通の構造的段階を持つ。ペッテションは民謡《アック・ヴェルムランド》の旋律(スメタナも《モルダウ》で引用している)を、自作の終結部主題として用いている。

終結部のカデンツについても詳細な分析がなされている。スメタナの《モルダウ》は完全終止(ロ長調からホ長調へ)で閉じるのに対し、交響曲第9番は変ロ長調からヘ長調への変終止(プラガル・ケーデンス)で閉じる。ランゲはこれを「アーメン」終止として解釈する一方、変終止が持つ「弱い closure」「緊張の減少」という音楽理論的性格を踏まえ、「河口」のイメージ――半ば開かれた、力を抜いた、強制されない終わり――との対応を指摘している。


4-4 第10交響曲──「モダン・タイムズ」と入院体験


交響曲第10番は、ペッテションの作品中でも極めて切り詰められた素材から構成される。ランゲは、この交響曲が「信号(シグナル)」または「ベクトル」と呼べる、方向と大きさを持つ短い音楽的単位の反復・凝縮によって構築されていると分析する。中間部では、層流(laminar flow)から乱流(turbulent flow)への遷移、すなわち臨界流速を超えた際に生じる音楽的「乱流と混沌」が生じる。

ランゲはこの交響曲に強い自伝的要素を見出している。曲中盤の「カエスーラ(中間休止部)」は夢のような幻想の段階であり、それまでの素材が振り返られる。続く濃密なコーダは、その夢から強制的に覚醒させられ、抑圧的で技術中心的な現実へ帰還する場面として解釈される。ペッテション自身はこの作品を「顔面への一撃」と表現し、「私のすべての交響曲には共感があるが、第10番にはない」と語ったという。


出典:Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphonie Nr. 6” (2014); “Allan Pettersson: Symphony No. 8” (2017); “Allan Pettersson: Symphony No. 9” (2016); “Allan Pettersson: Symphony No. 10” (2017)。各分析資料を基にレポート作成者が要約・整理した。



第5部 調性力学からの再検討──主成分分析による分析的アプローチ


ペッテションの音楽様式を定量的に再検討する試みとして、著者は、2篇の分析レポートを公開した。両レポートは、楽曲中の和声を「五度圏(Circle of Fifths)」上のピッチクラス集合の重心として数値化し、主成分分析(PCA)によってその時系列的変化と他の交響曲作曲家との相対的位置を可視化するという、データ分析的アプローチを採用している。以下にその概要を示す。


5-1 分析手法の概要


両レポートに共通する基礎的な手法は、楽譜の小節頭の和音をサンプリングし、ピッチクラス数3以上の和音について、12のピッチクラスを五度圏順に単位円上へ等間隔(30度ずつ)に配置した上で、その重心位置を算出するというものである。これにより、以下のような指標が導かれる。

  • Avg_r(平均重心半径):調性的安定度。

  • Avg_Step(平均ステップ幅):転調の歩幅。

  • SD_r(重心半径の標準偏差):重心の揺らぎの大きさ。

  • Step_Rate_100(100小節あたりステップ量):和声的活動量。

  • PC_Density(ピッチクラス密度):和声の複雑さ。

  • Tonal_Focus(調的集中度):全軌跡の平均座標の原点からの距離。

  • Spatial_Dispersion(空間分散度):五度圏上での活動領域の広さ。

  • Harmonic_Coverage(和音被覆率):テクスチュアの厚み。

  • Texture_Volatility(テクスチュア揺らぎ):テクスチャの流動性。

使用されたMIDIデータは、ペッテション作品については「7e(YouTube)/6d(Twitter、現X)」氏が作成したものであり、マーラー作品については加藤隆太郎氏作成のMIDI版マーラー交響曲全集(ただし第10交響曲クック版は別の海外で作成・公開されているデータ)が用いられた。


5-2 交響曲史全体における位置づけ──「損傷した主体」の力学的検討


第1報告「調性空間におけるペッテションの位置──『損傷した主体』の力学的検討」では、古典派、ブラームス、ブルックナー後期、シベリウス後期、マーラー、ショスタコーヴィチという既存の比較枠組みに、ペッテションの交響曲11作品(第6~16番)を同一の指標空間へ投入し、主成分分析を再実行することで、交響曲史全体における彼の相対的位置を検討している。


(1)PC1軸:調性重心の崩壊

分析結果において最も顕著なのは、ペッテションがPC1軸(調性重心の保持/拡散を表す軸)の負方向に極端に偏在する点である。ペッテション全体の重心はPC1 = −2.495であり、これはハイドン(+3.40)、モーツァルト(+3.90)はもとより、マーラー(+0.82)、ブルックナー(+1.33)、ショスタコーヴィチ(+0.51)をも大きく超えて負方向に位置する。

特に第10番(PC1 = −4.693)と第11番(PC1 = −4.824、全分析対象中の最負極値)が際立った負の極を形成し、第12番(−4.021)がこれに次ぐ。一方、初期にあたる第6~8番はPC1 = −0.703~+0.204とほぼ中央に位置しており、第9番を境に一挙に−4前後へ落ち込むという落差の大きさが確認される。レポートはこれを、「調性重心の維持が単に弱まるのではなく、第9交響曲を臨界点として構造的な変容が生じている」と解釈している。


(2)PC2軸:超越なき持続

PC2軸(運動の方向性を表す軸)においても特徴的な分布が見られる。ショスタコーヴィチの重心はPC2 = +2.82(全分析対象中の最大値)、ブルックナーは+1.10、シベリウスは−1.32という対比を示す。これに対し、ペッテションは時期によって大きく異なる二段階の分布を示す。初期(第6~9番)はPC2が正方向に位置し(第9番ではPC2 = +1.28、初期の最大値)、ショスタコーヴィチやブルックナーの領域に近接するが、第10番以降は一転して負方向に収束し(第10番 −1.89、第11番 −1.91)、後期全体の平均は−0.84にとどまる。

レポートは、この「中負域への収束」を次のように整理している。ペッテション後期の音楽は、ショスタコーヴィチが示す強い正方向(到達志向)にも達せず、シベリウスが示す明確な負方向(自然化・収束)にも対応しない、中負域に拘束されたまま持続する運動として特徴づけられる。


(3)理論的接続

レポートはさらに、この調性力学上の構造を、自由エネルギー原理(FEP)、ダマシオの自己モデル(原自己・中核自己・自伝的自己)、ジュリアン・ジェインズの二分心理論という3つの理論枠組みとの構造的類比において検討している。これらの理論を直接的に同定するものではないとの留保のもとで、レポートは交響曲史を「安定(古典派)」「内在化(ブラームス)」「超越(ブルックナー)」「収束(シベリウス)」「臨界(マーラー)」「非収束的持続(ペッテション)」という複数の位相の分岐として理解する枠組みを提示する。

この観点からペッテションは、いずれの安定化戦略にも回収されない状態――中心を持たず、志向性を失い、それにもかかわらず持続するという構造――を示す存在として位置づけられる。レポートはこれを「主体崩壊後の時間の持続を初めて体系的に音楽化した作曲家」と総括している。


5-3 時系列的変化と自由エネルギー原理──「生存可能な音響環境」の構築


第2報告「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理」では、対象を中期以降の交響曲第6~16番に絞り、創作年代順の変化を主成分分析によって追跡している。

この分析におけるPC1は「広い音高空間における拡散的運動」と「圧縮された空間における高密度・高運動・高被覆の持続」を両極とする軸として、PC2は「高密度だが焦点化された状態」と「散乱的で焦点の弱い状態」を両極とする軸として、それぞれ解釈されている。創作年代順にプロットすると、対象作品は以下の5段階に明確に区分される。


段階

作品

PC1の動向

PC2の動向

主体の様態(レポートの解釈)

第Ⅰ段階

第6~8番

正方向

0~正方向

広い状態空間を移動しながら変化を受け止める探索型の主体

第Ⅱ段階

第9番

負方向へ移行

負方向へ移行

誤差に圧倒されつつ、まだ安定した処理様式を持たない不安定な極限

第Ⅲ段階

第10~11番

大幅に負

大幅に正

生き延びられる音響環境を構築し、その内部で誤差を処理する主体

第Ⅳ段階

第12番

大きく負(維持)

ほぼゼロへ中立化

高密度の処理様式を保ちつつ精度の重みづけが弛緩し始める主体

第Ⅴ段階

第13~16番

負を維持

中立~やや負

確立された音響環境の内部でより流動的な運動が可能になる主体


出典:山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理」(note、2026年)の分析結果を要約・整理した表。


レポートはこの推移を自由エネルギー原理の枠組みから再解釈する。第6~8番の段階では、予測誤差は広い状態空間における移動・変化によって処理される「探索的(exploratory)モード」にあるとしている。これに対し、第10~11番で生じる急激な変化――音高空間の急激な収縮、ステップ運動・密度・被覆の急増、テクスチャ変動の最大化、そして同時に進む焦点性(precision)の強化――は、「主体はもはや外界を探索して予測誤差を減らすのではなく、許容可能な状態空間を急激に狭め、その内部で誤差を処理するモードへ移行する」という、決定的な転回として位置づけている。レポートではこれを「『生存可能な音響環境』の成立点」と呼ぶ。

第12番における焦点性(PC2)の中立化は、圧縮・高密度という構造的特徴を維持したまま「精度の重みづけ機構そのものが弛緩し始める段階」とし、第9番(PC1の極性転換の閾)と対をなす、PC2の極性転換の閾として位置づける。続く第13~16番では、圧縮・高密度の構造は維持されつつ焦点の凝集性がやや緩み、「確立された環境の内部で、より流動的な運動が可能になる」段階、すなわち「極限状態の持続可能化」が達成される。

レポートの結論は次のように要約される。ペッテションの交響曲はもはや世界を統合する形式ではなく、主体が生き延びるための音響環境そのものとなる。自由エネルギー原理の言葉で言い換えれば、それは「サプライズを消去する音楽ではなく、サプライズに耐えうる環境を構築する音楽」であり、ここにおいて交響曲的主体は「世界を理解する主体から、世界の中で生き延びる条件を自ら作り出す主体へと変容する」。レポートはこの転位を、ペッテションの交響曲が20世紀音楽史において持つ最も根本的な意義として位置づけている。


5-4 伝記的事実との対応関係


興味深いのは、この調性力学的分析が示す「第9交響曲を臨界点とする構造的転回」が、クーベの評伝が明らかにした伝記的事実――まさに交響曲第9番の作曲・浄書中に生命に関わる腎臓疾患を発症し、続く交響曲第10番・第11番がカロリンスカ病院での9か月間の入院生活の中で生み出された、という事実――と時系列的に正確に一致する点である。レポートが定量的に検出した「広い状態空間における探索的モードから、許容可能な状態空間を急激に狭めてその内部で誤差を処理するモードへの転回」は、ペッテション自身が日記に記した「死のトンネルの中で生きている」という感覚、そして「周囲の状況は、私を自分自身の中へ、根源へと突き進ませる」という言葉と、構造的に響き合うものである。両者を安易に同一視することはできないが、和声構造の定量分析と本人の自筆の証言という、全く異なる種類の資料が同じ転換点を指し示していることは、本レポートの重要な発見の一つと言えるだろう。


第6部 音楽史的位置づけと後世の評価


6-1 比較されるべき作曲家たち、そして独自性


ペッテションはしばしばグスタフ・マーラー、アントン・ブルックナー、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、カール・ニールセン、ジャン・シベリウスとの比較で語られる。しかし研究者たちは、これらのいずれの作曲家との比較も、ペッテションの独自性を十分には捉えきれないと指摘している。スウェーデンの交響的伝統(フランツ・ベルワルド、ヴィルヘルム・ステンハンマル、ヒルディング・ローゼンベリ)との接続も希薄である。クーベはむしろ、ラッセ・ルシドール、グスタフ・フローディン、ニルス・フェルリン、劇作家ストリンドベリといった、スウェーデンの文学・詩の系譜に近いと結論づけている。


6-2 死後の周縁化と再評価


1980年の死の直後、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団のレパートリーから事実上消えるという長い空白期間があった。例外はユーリ・アロノヴィチが首席指揮者を務めた1982–87年の時期のみであった。その後10年間で交響曲第7番がプログラムに乗ったのはわずか4回(1994年ニクラス・ヴィレーン、1995年・2011年レイフ・セーゲルスタム、2003年マルク・スーストロ)にとどまる。

転機となったのは、1985年にヴッパータールで設立された「国際アラン・ペッテション協会」である。この協会の働きかけと、cpo社による全集録音(1992–2006年)が、ノルトライン=ヴェストファーレン州の1994/95年シーズンにおける27都市・63回のペッテション・マラソンを準備した。しかし、これも長期的な定着には至らず、その後も会場でのプログラム掲載は低調なままである。スウェーデン国内のアラン・ペッテション協会は2003年9月、セーデルマルムのソフィア教会で正式に設立された。

今日、ペッテションの音楽は聴衆に強烈な不快感や衝撃を与えつつも、現代に生きる人々の魂の叫びとして、コアな愛好家層から圧倒的な支持を受け続けている。クリスチャン・リンドベリ&ノルシェーピング交響楽団による交響曲全集(BIS、2018年完結)など、個々の音楽家の使命感に支えられた継続的な紹介活動が、現在もこの作曲家の音楽を後世に伝える主たる動力となっている。


おわりに


アラン・ペッテションは、単なる北欧の交響曲作曲家ではない。彼は20世紀における「苦悩の証言者」であり、貧困、病、社会的疎外という現実から逃避するのではなく、それらを巨大な交響曲へと変換した人物であった。クーベの評伝が史料批判的に明らかにするのは、この人物像がある程度まで――妻以外に親密な関係を持たず、制度的な不正に苦しめられ、常に弱者の側に立ち続けたという像も含め――ペッテション自身によって意識的・無意識的に構築され、メディアと評伝作者たちによって無批判に増幅されてきた「自己表象」でもあったという事実である。1975年の演奏禁止事件の精査が示すように、実際の経緯は、しばしば語られる単純な「悪意ある拒絶」の図式よりもはるかに込み入っていた。

しかしこの史料批判は、ペッテションの音楽そのものの力を減じるものではない。彼の音楽は絶望のみを語るのではない。不協和音の嵐の後には必ず歌が現れる。それは彼が生涯にわたって追い求めた、人間存在への最後の信頼の表明である。

近年のデータ分析的アプローチが示すのは、この伝記的・印象的な理解を、調性空間における構造そのものの変容として裏づける可能性である。第9交響曲を臨界点とし、第10~11交響曲において生じる調性重心の急激な収縮と高密度化は、もはや世界を探索し理解しようとする主体の音楽ではなく、生き延びるための環境を自ら構築し、その内部で持続する主体の音楽への転換として捉えられる――そしてこの転回は、作曲家自身が病床で経験した、文字通りの生存の危機と時を同じくしていた。この意味において、ペッテションの交響曲は、ショスタコーヴィチが代表する「歴史的主体」とも、シベリウスが示す「自然化・収束」とも異なる、第三の様態――崩壊した主体がなお持続するという音楽的実現――を切り開いた、20世紀音楽史における特異点として評価されるべきものである。


参考文献


伝記的資料

  • 「魔女の大釜の中のラザロ」ディ・ヴェルト紙関連記事(ノルトライン=ヴェストファーレン州ペッテション・マラソンに関するルポルタージュ)

  • スディップ・ボーズ「アラン・ペテルソンって一体何者?──アウトサイダーとしての作曲家」(2017年8月24日)

  • Leif Aare, “G Allan Pettersson”, Svenskt biografiskt lexikon, Band 29 (1995–1997), sida 242.

  • Michael Kube, Allan Pettersson, Svenska Tonsättare, Atlantis, Stockholm 2014(スウェーデン語訳:Göran Bergendal)── 本増補の中心資料。

個別交響曲の分析資料

  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphonie Nr. 6”, Dreieich, 2014年11月17日改訂版(初稿2011年7月20日)。

  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 8”, Dreieich, 2017年5月10日(初稿2012年8月2日)。

  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 9”, Dreieich, 2016年4月26日(初稿2012年5月4日)。

  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 10”, Dreieich, 2017年1月18日(初稿2011年7月20日)。

分析レポート

  • 山崎与次兵衛「調性空間におけるペッテションの位置——『損傷した主体』の力学的検討」note、2026年4月12日(2026年5月20日更新)。

  • 山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理——交響曲的主体はいかにして『生存可能な音響環境』を構築するか」note、2026年4月13日(2026年5月20日更新)。



[お断り]本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、Claude Sonnet 4.6とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行い、ChatGPT 5.5とのやりとりを通じて増補改訂を行い完成させました。ファクトチェックおよび校正はClaude Sonnet 5とのやりとりを通じて行いました。


(2026.7.12 公開)

アラン・ペッテションの生涯と作品(中)音楽様式・主要作品

 

第2部 音楽様式


2-1 交響曲という人生


ペッテションにとって交響曲は抽象的な音楽形式ではなく、人生そのものの表出であった。彼自身の言葉として最も頻繁に引用されるのは、レイフ・アーレ宛の書簡(後に公表を意図していたとされる)に記された一節である。


「私が取り組んでいる作品は私自身の人生である――祝福され、呪われたもの。魂がかつて歌っていた歌を再び見出すこと。それは、自分自身については何も信じていなかった小さな人々の間に生まれた――フン族、白人、黒人、彼らにとって人生はただ死に至る呪われた義務でしかなかった。それでもなお、彼らは他者への共感に満たされ得た。憧れの力が彼らを信仰で満たし、そこで歌が噴き出した――内的な、訴えかけるような歌が……世界が彼らに黙れと言うまで」


2-2 一楽章形式と『メタモルフォーゼ』技法


ペッテションの成熟期の交響曲は、多くが切れ目のない単一楽章として書かれている。しかし実際には、その内部に序章、発展部、緩徐部、終結部が巨大なアーチとして統合されている。極めて限定された主題・動機を出発点としながら、高度な変容技法(メタモルフォーゼ)によって有機的に巨大な変化を生み出していく点に、彼の作曲技法の特徴がある。クーベはこれを「多楽章性が単一楽章性の中に統合される」モデルと呼び、フランツ・リストの《ロ短調ピアノソナタ》(1854年)やシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番(1904/05年)、室内交響曲第1番(1906年)に先例を見出している。


2-3 不協和音と歌──核心的なドラマツルギー


彼の音楽の最大の特徴は、「暴力的な不協和音の海から突然現れる歌」である。1952年の論文「Dissonance douleur」でペッテション自身がこの過程を詳細に語っている。


「私が育った環境で、私は人々の痛みを吸収した。彼らは貧しく、病み、衰え――そして何より、屈服させられていた。[…]作曲の最中、その痛みは不協和音という、あらかじめ用意された型の中に物質化した。[…]不協和音は連想によって私を深みへと運んだ(おそらく多くの泥も一緒に表面へ持ち上げられたのだろう)。私が単純な三和音に触れたとき――それは常に短調だったが――理性を超えた平和を予感した。だがそこに到達してもそれは無形に感じられ、私は実体を与えることができなかった。作曲上の理屈から言えば、それは対比や休息としては不十分だった、いかに協和音であっても。痛みは休息を見出せず、ただ静められるだけだった――かつての、私が知っていた屈服させられた人々のように」


2-4 《裸足の歌》という源泉


1943年から1945年にかけて作曲された24曲からなる歌曲集《裸足の歌(Barfotasånger)》は、ペッテション自身の作詩によるもので、彼の全創作の源泉である。実際にはこれは当初から統一されたサイクルとして構想されたものではなかった可能性が高く、1974年のLP録音・楽譜出版に際して初めて確定的な姿を取った。1949年にはまずSouthern Music ABに18曲が持ち込まれたが、「弊社の制作にはふさわしくない」として返送されている。1952年1月29日、エステルスンドのスタジオからのラジオ放送(テノール、トルステン・ヒシング)が最初の公の場での演奏であった。

作品の核心は社会の周縁に生きる人々への共感である。「彼は私の灯火を消すだろう(Han skall släcka min lykta)」(第24曲)は死のヴィジョンを歌い、交響曲第6番の終結部(約20分間)で繰り返される。「主は草原を歩まれる(Herren går på ängen)」(第14曲)はヴァイオリン協奏曲第2番全体を貫く核となる旋律として用いられている。クーベは、この歌曲集と《裸足の歌》という出版時の総称が「社会から排除された人々」の象徴として機能していると同時に、ニルス・フェルリンの詩集『裸足の子供たち(Barfotabarn)』(1933年)との関連も指摘する。



第3部 主要作品(クーベの評伝による生成史と受容史)

3-1 《24の裸足の歌》(1943–1945)

《24の裸足の歌》(Barfotasånger)は、1943年から1945年にかけて作曲された、ペッテション自身の詩による24曲からなる歌曲集である。声とピアノのために書かれたこの作品は、後年の巨大な交響曲群とは音楽的外観こそ大きく異なるものの、作曲家自身の精神世界を最も直接的に表現した出発点であり、その後の創作全体の原点と位置付けられる。作品は約60分に及び、歌詞・音楽ともにペッテション自身が手がけた。

この作品が生まれた時期、ペッテションはストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(当時はストックホルム・コンサート協会管弦楽団)のヴィオラ奏者として働いていた。しかし、オーケストラ生活は決して幸福なものではなく、同僚との軋轢や演奏家としての限界を感じ始めていた時期でもあった。一方で1943年には理学療法士グドルン・グスタフソンと結婚し、作曲家として自立する道を模索し始めていた。このような人生の転換期に、《裸足の歌》はほとんど奔流のように生み出された。クーベによれば、ペッテションは後年、「鳥が歌うように、詩と音楽は同時にやって来た。だからいつもポケットに五線紙と鉛筆を入れていた」と回想している。

歌曲集の詩は、幼少期の貧困、家族への複雑な感情、孤独、憧れ、死、宗教、自然など、多様な主題から成る。しかし、それらは単なる自伝ではなく、社会の底辺に生きる人々への共感として普遍化されている。クーベは、《裸足の歌》においてすでに「庶民や社会の落伍者への共感」が明確に表現されていると指摘している。民謡を思わせる素朴な旋律と対位法的な書法、そして皮肉やブラックユーモアを含んだ詩が組み合わされることで、後年の交響曲にも通じる独特の世界が形成されている。

この作品は当初から高く評価されたわけではない。ペッテション自身の詩は難解で象徴性が強く、スウェーデン放送や出版社も当初は出版に消極的だった。しかし現在では、《裸足の歌》は彼の初期の代表作であるだけでなく、創作全体を理解するための鍵となる作品と考えられている。

音楽的にも、この歌曲集は後年の交響曲との連続性を示している。表面的には比較的単純で民謡風・ダイアトニックな旋律が多いが、その背後には半音階的な和声処理や長い旋律線の形成、反復を通して時間を構築する発想がすでに見られる。また、この歌曲集の旋律は後年何度も引用・変容され、第7交響曲をはじめ多くの交響曲や管弦楽作品の素材となった。《裸足の歌》は独立した歌曲集であると同時に、ペッテションの交響曲宇宙全体の「主題庫」とも呼ぶべき存在である。

作品の内容は、シューベルト《冬の旅》との比較もしばしば行われる。両者とも24曲から成り、放浪、冬、死、孤独、神への問いといった主題を共有する。近年の研究では、最終曲における死のイメージや「裸足」という題名自体にも《冬の旅》終曲《辻音楽師》との象徴的な関連が指摘されている。ただし、シューベルトが失われた愛を軸とするのに対し、ペッテションは貧困、労働者階級の生活、幼少期の記憶、社会から排除された人々への共感を中心に据えており、その視点ははるかに社会的である。

今日、《24の裸足の歌》はペッテション作品中もっとも親しまれている歌曲集であり、後年の巨大交響曲群への入口でもある。その親しみやすい旋律の背後には、生涯にわたって彼が追い続けることになる「祝福され、そして呪われた私の人生」という根本主題がすでに明確に姿を現している。これは後年の交響曲における苦悩や救済のドラマを、最も凝縮された形で予告した作品と言える。


3-2 ヴァイオリンと弦楽四重奏のための協奏曲(1949)

《ヴァイオリンと弦楽四重奏のための協奏曲》は1949年に作曲された、独奏ヴァイオリンと弦楽四重奏という特異な編成による作品である。演奏時間は約33分で、ペッテションの初期作品の中でも最も激しい表現を示す作品の一つであり、後年の交響曲様式へ直接つながる重要な転換点となっている。

本作は、《24の裸足の歌》や室内楽作品に見られた叙情的・民謡的世界を踏まえながら、それまで以上に鋭い不協和音、激しい対立、緊迫した対位法によって構成されている。独奏ヴァイオリンは協奏曲の伝統的な意味でオーケストラと対立する存在というよりも、弦楽四重奏とともに一つの緊張した音響空間を形成し、その内部で絶えず葛藤を繰り広げる存在として扱われる。

この作品についてペッテションは後年、「ほとんど爆発しそうな作品だった」と振り返っている。また彼は、「私は幼少期を過ごした環境そのものを書いた」とも述べ、自らの生い立ちに根ざす経験が直接音楽へと投影されていることを明らかにした。さらに、「人々の痛みを吸収した。その痛みは自然に不協和音となった」という回想も、この作品を理解する重要な手がかりとなっている。ここで不協和音は前衛的実験ではなく、人間の苦しみを表現するための不可避な言語として現れている。

クーベは、この作品を初期室内楽作品の集大成であると同時に、交響曲作家ペッテションの誕生を準備した作品として位置づけている。本作には、後年の交響曲に見られる執拗な動機反復、密集した対位法、持続する緊張、長い旋律線の萌芽がすでに認められる。しかし、それらはなお激しい表出として前景化しており、後の交響曲に見られるような大規模な建築的構成へは統合されていない。

その意味で、本作はペッテション創作の二つの時代を結ぶ作品である。《24の裸足の歌》以来の告白的・自伝的表現はここで極限に達し、その後のパリ留学を経て、レイボヴィッツから学んだ構成意識と結びつくことで、《交響曲第2番》において初めて巨大な交響曲形式へと昇華される。したがって本作は、単なる初期作品ではなく、交響曲作家ペッテションが誕生する直前の臨界点を示す作品として理解することができる。


3-3 弦楽のための協奏曲第1番(1949–1950)

《弦楽のための協奏曲第1番》は1949年から1950年にかけて作曲され、1952年4月6日、トール・マン指揮スウェーデン放送交響楽団によって初演された。演奏時間は約21分、3楽章から成る作品であり、ペッテションが初めて本格的な弦楽オーケストラという大規模な媒体に取り組んだ作品である。

この作品は、1930年代から40年代にかけて書かれた《裸足の歌》や室内楽作品と、以後の交響曲群との間に位置する重要な転換点を形成している。それまでペッテションは歌曲や小編成作品を中心に作曲していたが、本作では初めて、後年の交響曲を特徴づける巨大な弦楽書法、持続的な緊張、執拗な反復、激しいリズム対立、そして長大な音楽的アーチが姿を現す。後年の交響曲第6番から第9番に至る語法の萌芽は、すでにこの作品の中に明瞭に認めることができる。

クーベは、この作品を1940年代の表現主義的・実験的作風と、1950年代以降の本格的な交響曲様式を結ぶ作品として位置づけている。ペッテションは長年ヴィオラ奏者としてオーケストラの内部から弦楽器の可能性を知り尽くしており、その経験は各声部を高度に独立させながら巨大な音響塊を形成する独特の書法として結実した。ここでは弦楽器は単なる均質な合奏ではなく、多数の独立した人格が衝突し、融合し、再び分裂する劇的空間として扱われている。

この作品について最も重要なのは、ペッテション自身が後年、この協奏曲を自らの芸術的転機として明確に位置づけていることである。彼はエッセイ「不協和音―痛み」の中で次のように回想している。

「私は《ヴァイオリン協奏曲》、そして《弦楽のための協奏曲第1番》を書いた。それらは不協和音に満ち、ほとんど爆発しそうだった。幼い頃の環境の中で、人々の痛みを私は吸収した。彼らは傷つき、病み、そして何より抑圧されていた。私の作品の中では、その痛みは自然に不協和音となった。……しかし、小さな三和音――いつも短三和音に近づくとき――私は理性を超えた平和を感じた。それでも、その平和を生き続けることはできなかった。痛みはなお安息を見出せなかった。」

この証言は、ペッテションの不協和音が前衛的実験のためではなく、人間存在の苦痛を直接表象する媒体として選ばれていることを明確に示している。同時に、短い協和音や三和音が単なる調性的回帰ではなく、「救済への希求」として現れることも語っている。この構図は、第7交響曲をはじめとする後年の交響曲全体を貫く基本原理となる。

音楽的にも、本作では後年のペッテションを特徴づける語法がすでに明確に形成されている。断片的な動機が執拗に反復され、それらが次第に巨大なエネルギーへと蓄積される構造、極端なダイナミクス、密集した対位法、そして絶えず緊張と弛緩を繰り返す長い時間設計は、交響曲第2番以降へ直接つながる世界である。作品全体は古典的な協奏曲というより、一つの巨大な精神的ドラマとして展開し、後年の単一楽章交響曲の発想を予告している。

本作は演奏頻度こそ高くないものの、現在ではペッテションの代表的初期作品として定着している。近年ではクリスティアン・リンドベルイやヨハネス・ゴリツキらによる録音によってその評価はさらに高まり、交響曲以前のペッテションを理解するための最重要作品の一つとみなされている。


3-4 第1交響曲(1950・未完)

第1交響曲は、ペッテションが最初に手がけた交響曲である。1940年代後半に作曲が開始され、作品はかなりの段階まで書き進められたが、クーベによれば、作曲者自身がその内容に満足せず、完成を断念した。その結果、この作品は未完のまま残され、続いて完成された作品は《交響曲第2番》として発表されることになった。

第1交響曲は長らく演奏されることなく遺稿として知られるのみであった。しかし21世紀に入り、指揮者・作曲家のクリスティアン・リンドベリが遺された240ページもの草稿を精査し、作曲者の筆致を尊重しながら演奏可能な形へ補筆・復元を行った。この復元版は公開演奏と録音によって紹介され、長く幻の作品であったペッテション最初の交響曲は、初めてその全体像を聴くことが可能となった。

創作史の観点から見れば、第1交響曲はなお習作的性格を残す作品であるが、後年の交響曲群へ連なる萌芽をうかがうことのできる重要な資料でもある。また、第17交響曲が断片として遺され、やはりクリスティアン・リンドベリによって演奏可能な形で紹介されたことは興味深い対照をなしている。創作の出発点に置かれた未完の第1交響曲と、創作の終着点に残された第17交響曲断片は、ともに後世の補筆によって現代の聴衆へ届けられ、ペッテションの交響曲創作の全体像をより豊かなものとしている。


3-5 第2交響曲(1952–1953)

第2番は1952年から1953年にかけて作曲され、1954年5月9日、トール・マン指揮スウェーデン放送交響楽団によって初演された。ペッテションが最初の交響曲を撤回したため、本作は現存する最初の交響曲であり、同時にその後約30年にわたる交響曲創作の真の出発点となった作品である。単一楽章で構成され、後年の巨大な交響曲群を予感させる最初の本格的成果として位置づけられる。

本作は、《24の裸足の歌》や室内楽作品に代表される初期の叙情的・民謡的世界から、本格的な交響曲作家への転換を示す決定的な作品である。1950年前後の《ヴァイオリン協奏曲》や《弦楽のための協奏曲第1番》に現れた激しい表現力は、本作において初めて長大な交響曲という形式の中へ統合され、以後の創作を方向づける独自の交響的言語が姿を現した。

この作品の成立には、1951年から1953年にかけての二度目のパリ留学が大きく関わっている。ペッテションはアルテュール・オネゲルに作曲を学ぶ一方、アルノルト・シェーンベルクの弟子ルネ・レイボヴィッツから十二音技法を学んだ。しかし彼は十二音技法をそのまま受容したのではなく、自らの音楽語法を鍛え上げるための方法論として吸収した。クーベは、レイボヴィッツから得た最大の成果は「作曲過程における規律と組織化への要求」であり、それは奔放な表現衝動を統御する構成原理として生かされたと指摘している。

実際、第2交響曲以前の作品には、表現主義的な激しさや自由な発想が前面に現れている。とりわけ《ヴァイオリン協奏曲》(1949)は極度に緊張した不協和音と激しい感情表現に満ちた作品であり、ペッテション自身も後年、「あれはほとんど爆発しそうな作品だった」と振り返っている。また、この作品について「幼少期を過ごした環境そのものを書いた」と語っており、自伝的衝動が直接音楽化されていたことを明らかにしている。第2交響曲は、そうした内面的エネルギーをより大きな交響的建築へと組織化する最初の試みであった。

音楽はなお調性的重心を保持しながらも、半音階的動機操作、密度の高い対位法、持続する不協和、執拗な反復、長い旋律線など、後年の交響曲を特徴づける語法がすでに明瞭に現れている。一方で、第6番以降に見られるような一時間近い巨大な単一楽章構造にはまだ至っておらず、音楽の各部分は比較的明確な区切りを保っている。その意味で本作は、伝統的な交響曲の発想と後年の独自様式との「あいだ」に位置する過渡的作品とみることができる。

しかし、ここで重要なのは形式そのものではなく、ペッテションが交響曲というジャンルを自己表現の中心として選び取ったことである。当時、ヨーロッパではセリー音楽や偶然性音楽が前衛音楽の中心を占めつつあったが、彼はその潮流に追随することなく、巨大なオーケストラによる交響曲という19世紀以来の形式をあえて選択した。それは保守的態度ではなく、人間存在の葛藤を長い時間の中で描き切るためには交響曲こそ最もふさわしい形式であるという確信に基づいていた。

この時期の芸術観は、彼の残した有名な言葉にも表れている。ペッテションは、「現代音楽は国際現代音楽協会の神聖な祭典の中にあるのではなく、人々の魂の中にある」と述べ、さらに「現代の人間とは地球上のどこかで飢えている子どもであり、現代音楽とは、ハゲワシの群れの中でその子どもが泣き叫ぶ声である」と語った。前衛技法を学びながら、その価値体系そのものには距離を置き、人間存在の苦悩を音楽の出発点と考える姿勢は、第2交響曲以降の全作品を貫く基本理念となった。

初演当時、この作品は必ずしも大きな成功を収めたわけではなかったが、今日ではペッテションの交響曲様式が初めて結晶した作品として高く評価されている。ここで確立された長大な旋律線、持続する緊張、執拗な動機反復、巨大な時間構築への志向は、第3交響曲、第4交響曲を経て、第6番以降の壮大な単一楽章交響曲へと発展していくことになる。

創作史全体から見れば、第2交響曲は単なる「最初の成熟作」ではない。パリで学んだ構成技法と、《24の裸足の歌》以来の人間への共感、そして《ヴァイオリン協奏曲》に見られた告白的表現とが、初めて一つの交響曲的言語へと統合された作品である。ペッテションはここで、自らの生涯を捧げることになる交響曲という形式を見いだし、その後の壮大な交響曲群への第一歩を踏み出したのである。


3-6 第3交響曲(1954–1955年)

第3交響曲は1954年から1955年にかけて作曲され、1956年11月19日、トール・マン指揮イェーテボリ交響楽団によって初演された。全4楽章から構成され、ペッテションの交響曲としては例外的に古典的な楽章配置を明確に保持している。

本作は、第2交響曲で確立された交響的思考をさらに発展させた作品であると同時に、ペッテションの交響曲創作における一つの終着点でもある。それは、本作が伝統的四楽章形式を本格的に用いた最後の交響曲だからである。

4つの楽章はそれぞれ独立した性格を備えながら、共通する動機や音響によって緊密に結び付けられている。古典的交響曲の枠組みを踏襲しつつも、主題は固定的な対象ではなく不断に変容し続ける素材として扱われ、各楽章は一つの大きな精神的運動の異なる局面として統合されている。このような有機的統一への志向は、後年の単一楽章交響曲へ直接つながる重要な特徴である。

第3交響曲において特に注目されるのは、古典的形式とペッテション独自の時間感覚とが共存している点である。形式上は4楽章であっても、音楽の推進力は楽章ごとの完結よりも全曲を貫く持続的な緊張によって支えられている。各楽章は独立した楽曲というよりも、一つの巨大な音楽的過程の連続した段階として聴かれるのである。

クーベは、この作品を1950年代におけるペッテションの交響曲創作の総決算として評価している。第2交響曲以来発展してきた動機労作、緻密な対位法、密集した弦楽書法、持続的なエネルギーはここで高度に統合される一方、その枠組み自体はなお伝統的交響曲の形式を維持している。しかし作曲者は、その直後に作曲した弦楽オーケストラのための協奏曲第2番・第3番において時間構造のさらなる連続化を試み、続く交響曲第4番ではついに単一楽章形式へと移行する。したがって第3交響曲は、伝統的交響曲の完成であると同時に、その形式を自ら乗り越えていく直前の作品として理解することができる。

後年の巨大な交響曲群と比較すると演奏機会は決して多くないが、本作はペッテションが古典的交響曲という伝統を最後まで真摯に受け止め、その内部から独自の交響的時間を形成していった過程を示す重要な記録である。第4交響曲以降の大胆な形式革新を理解するためにも、第3交響曲は決定的な意味を持つ作品と位置づけられる。


3-7 弦楽オーケストラのための協奏曲第2番(1956)

弦楽オーケストラのための協奏曲第2番は1956年に作曲された3楽章構成の作品である。スウェーデン建設労働組合に献呈され、1968年12月1日、スティグ・ウェステルベリ指揮スウェーデン放送交響楽団によって初演された。演奏時間は約22~27分である。

本作は交響曲第3番(1954–55)の完成直後に書かれ、弦楽オーケストラのための協奏曲第3番へと直接続く作品である。初演まで12年を要したため演奏機会には恵まれなかったが、作曲上の位置づけとしては、交響曲第2番・第3番で獲得した交響的思考を、純粋な弦楽書法の中でさらに洗練した重要な中間作品である。

第1番では巨大な音響塊や劇的衝突が中心となっていたのに対し、第2番では音楽の構造はより透明になり、各声部の独立性と対位法的処理が著しく発展している。ペッテションは後年、この時期に弦楽合奏だけで作品を書いた理由について、「より明瞭な光を得るため」であったと語っている。この言葉は、単なる編成上の選択ではなく、音響を透明化し、個々の声部をより鮮明に浮かび上がらせようとする作曲上の意図を示している。

クーベは、この一連の弦楽協奏曲を、交響曲とは異なる副次的ジャンルとしてではなく、ペッテションが独自の音楽語法を集中的に実験した重要な創作領域として位置づけている。弦楽器だけという限定された媒体の中で、密集した対位法、持続する緊張、旋律断片の執拗な変容、音色の微細な陰影が極限まで追究され、後年の交響曲における巨大な弦楽書法の基盤が形成された。こうした書法は、長年ヴィオラ奏者としてオーケストラ内部で活動した経験に深く根ざしており、各声部が独立した人格のように振る舞いながら全体として巨大な音響体を形成するという、ペッテション独自の発想がすでに成熟した形で示されている。

また、この作品は交響曲第4番へ向かう重要な橋渡しでもある。交響曲第2番・第3番ではなお古典的な楽章構成が残されていたが、第2協奏曲では各楽章相互の連続性が強まり、動機の変容によって大きな時間構造を形成しようとする志向が明確になる。この発想は、続く第3協奏曲、さらに単一楽章による交響曲第4番へと受け継がれ、ペッテション特有の「長大な持続時間による交響的ドラマ」へ発展していく。

作品全体の表情は、第1番の爆発的なエネルギーに比べると内省的である。しかし、その静けさは決して安定ではなく、絶えず揺れ動く不安定な均衡の上に築かれている。協和と不協和、旋律と対位法、運動と静止が絶えず入れ替わりながら推進力を維持する構造は、後年の交響曲群に共通する特徴であり、本作ではそれがより凝縮された形で示されている。

演奏機会は現在でも多くはないが、第3協奏曲や《Mesto》へ至る創作過程を理解する上で欠かすことのできない作品である。第1協奏曲が交響的作風の出発点を示す作品であったとすれば、第2協奏曲はその語法を整理・純化し、後年の交響曲様式へと結び付けた成熟段階を示す作品として評価することができる。


3-8 弦楽オーケストラのための協奏曲第3番(1956–1957年)

弦楽オーケストラのための協奏曲第3番は1956年から1957年にかけて作曲された。ラジオサービス社に献呈され、1958年3月14日、トール・マン指揮スウェーデン放送交響楽団によって初演された。全3楽章から成り、演奏時間は約49分に及ぶ。第2楽章《Mesto(悲しく)》は約25分という異例の規模をもち、現在では独立した作品として演奏される機会も多い。

本作は3曲の弦楽協奏曲の到達点であると同時に、交響曲第4番以降に展開される成熟した交響様式の直接的な出発点となった作品である。第1協奏曲では巨大なエネルギーの噴出、第2協奏曲では書法の整理と透明化が試みられたが、第3協奏曲ではそれらが高度に統合され、長大な時間を一つの精神的ドラマとして構成するペッテション独自の様式がほぼ完成された姿で現れる。

ペッテションは、この作品について自ら詳細な作品解説を執筆している数少ない例の一つであり、そこでは音楽を単なる形式的構築物としてではなく、人間存在の証言として捉える自身の創作理念を語っている。作品は高度な対位法と緻密な動機展開によって構築されているが、それらは技法のための技法ではなく、一つの内面的経験を時間の中で生き直すための媒体として機能している。

第2楽章《Mesto》は、ペッテション作品の中でも特別な位置を占める。全曲の中心をなすこの緩徐楽章では、歌謡的な旋律と痛切な不協和音、静止と激しい高揚とが長大な時間の中で交錯する。作曲者自身は、この楽章について次のように述べている。

「最終的には救世軍の兵士が歌うような歌、一つの告白であり証言にたどり着く。」

この言葉は、《Mesto》が単なる悲歌ではなく、一人の人間が苦難の経験を経てなお歌うことをやめない姿を描いた作品であることを示している。ペッテションが幼少期から親しんだ救世軍の賛美歌は、ここでは引用としてではなく、精神的背景として作品全体を支えている。後年の交響曲に繰り返し現れる《裸足の歌》の旋律やコラール風の音楽も、この楽章においてすでにその原型を見ることができる。

1968年、《Mesto》はストラ・クリスト・ヨンソン賞を受賞した。これは同年10月の交響曲第7番の歴史的成功に続く出来事であり、ペッテションの音楽が国内でようやく正当に評価され始めたことを象徴する出来事であった。

音楽的にも、本作は後年の交響曲群を特徴づける要素をほぼすべて備えている。短い動機が執拗に変容を繰り返しながら巨大な弧を描く構成、旋律が絶えず対位法的網目の中から浮かび上がっては沈んでいく書法、極端な緊張と静寂との対比、そして単なるソナタ形式や協奏曲形式では捉えきれない持続的時間の構築である。弦楽器だけという限定された編成にもかかわらず、音響の密度と表現の幅はきわめて豊かであり、各声部は巨大な交響楽の一部であるかのような独立性を与えられている。

また、本作では「歌うこと」が構造そのものとなるというペッテション独自の発想も明瞭に現れている。旋律は完成された主題として提示されるのではなく、断片化され、遮られ、変形されながら徐々に自己を獲得していく。そのため作品全体は、あらかじめ存在する歌を提示するのではなく、「歌が生まれてくる過程」を描いた音楽として聴くことができる。この特徴は、第7交響曲や第9交響曲に至るまで一貫して受け継がれることになる。

第3協奏曲は、形式上はなお3楽章構成を維持しているものの、その内部ではすでに後年の単一楽章交響曲に見られる連続的時間の感覚が支配している。各楽章は独立した性格を持ちながらも、一つの大きな精神的過程の異なる局面として結び付けられ、作品全体は約50分に及ぶ一つの巨大な交響的アーチを形成する。この意味で本作は、弦楽協奏曲というジャンルを超えて、ペッテションの成熟した交響世界への最後の入口となる作品であり、第4交響曲から始まる本格的な交響曲時代を準備した記念碑的作品と位置づけることができる。


3-9 第4交響曲(1958–1959)

第4交響曲は1958年から1959年にかけて作曲され、1961年1月27日、ストックホルムにおける「現代音楽演奏会(Nutida Musik)」で、シクステン・エールリング指揮、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。演奏時間は約37分、再び単一楽章による構成に戻っている。

本作は、1950年代に展開された初期交響曲群の総決算であると同時に、第5交響曲以降の成熟した作風への橋渡しとなる作品である。第3交響曲では四楽章構成を採用し、弦楽のための協奏曲第2番でも古典的な楽章配置を試みたが、第4交響曲では再び一つの巨大な音楽過程へと統合される。この単一楽章形式は以後の交響曲の基本的な枠組みとなり、ペッテション独自の「連続する時間」の構想が本格的に確立されていく。

クーベは、第4交響曲を初期作品群の終着点として位置づけている。それまでの作品で試みられた旋律、対位法、巨大なアーチ構造、断片の積み重ねといった技法が一つの統一的な交響曲構想へ集約され、以後の交響曲で決定的な意味を持つ構造原理が姿を現し始める。

創作の背景には私的な出来事も存在する。1959年、敬虔な信仰をもち、幼少期以来ペッテションを精神的に支えてきた母イーダが死去した。作曲者は日記に、

「第4交響曲。神の善のうちに体現される生命へ帰っていった母のために。」

と記している。もっとも、この献辞は出版譜には掲げられておらず、作品全体が追悼音楽として構成されているわけでもない。むしろ作品内部では、激しい葛藤と静かな抒情とが絶えず交錯し、後年の交響曲で中心的となる「闘争と慰め」という二極構造が、初めて全曲を支配する原理として現れている。

音楽的には、全曲が少数の基本動機から徹底的に生成される点が特徴である。とりわけ短三度を核とする音程動機と、それに結びついたリズム型が全曲を貫いて変容を繰り返す。冒頭では神経質な断片が散発的に現れ、それらが執拗な反復と対位法的展開によって巨大な緊張を形成していく。一方で、その間には歌謡的な旋律による静かな叙情部分が何度も出現するが、それらは決して安定した安息には至らず、再び不協和な運動に巻き込まれていく。このような「抒情の島」が暴力的な運動によって侵食される構図は、第5交響曲以降さらに大規模に展開されることになる。

同時に、本作では《裸足の歌》の直接引用はまだ見られないものの、その歌謡的旋律法が器楽作品の内部へ深く浸透していることも重要である。後年の作品に特徴的な「歌が巨大な交響曲の内部から立ち現れる」という構想は、この作品ですでに明瞭な形を取り始めている。

第4交響曲は初演当時、大きな成功を収めるには至らなかった。しかし今日では、第2交響曲から始まる初期交響曲群を締めくくり、第5交響曲以降の成熟期を準備した転換点として評価されている。巨大な単一楽章、執拗な動機展開、長大な緊張の持続、そして抒情と暴力の弁証法という、ペッテション後期交響曲を特徴づける諸要素は、この作品において初めて一つの交響曲全体を統御する構造原理として結実したのである。


3-10 第5交響曲(1960–1962)

第5交響曲は1960年から1962年にかけて作曲され、1963年11月8日、スティグ・ヴェスターベリ指揮、スウェーデン放送交響楽団によって初演された。演奏時間は約40分、単一楽章で構成される。

第4交響曲で確立された巨大な単一楽章交響曲の構想は、本作においてさらに洗練され、後年のペッテションを特徴づける語法がほぼ完成した。第2交響曲以来続いてきた試行錯誤はここで一つの到達点を迎え、第6・第7交響曲へと連続する成熟した交響曲世界が姿を現す。

クーベは、第5交響曲を「成熟期への本格的な入口」と位置づけている。それ以前の作品では、多様な楽章形式や対位法的技法がなお模索されていたが、本作では全曲が一つの巨大な時間的過程として組織され、あらゆる素材が共通の動機群から生成される有機的構造が実現された。後年の交響曲に見られる圧倒的な持続感は、この作品で初めて完全な形を獲得したのである。

創作時期は、作曲家にとって病苦が急速に深刻化し始めた時期でもあった。幼少期以来患っていた慢性関節リウマチは次第に進行し、身体的苦痛は創作生活そのものを規定するようになっていく。しかしペッテションは、作品を病気の描写として理解されることを望まなかった。レイフ・アーレ宛の手紙で彼は、

「私が扱っている素材は、祝福されたものも呪われたものも含めた私の人生である。」

と述べている。この言葉は、第5交響曲にも当てはまる。ここで描かれる苦闘は個人的体験の直接的な告白ではなく、人間存在そのものへと普遍化されたドラマとして提示されている。

音楽は冒頭から切れ目なく展開し、明確な楽章境界や休止を設けることなく巨大なアーチを形成する。短い動機断片は執拗な反復と変形を繰り返しながら、次第に巨大なエネルギーを蓄積してゆく。その過程では旋律線・和声・リズムが独立して運動し、多層的な対位法によって複雑な音響空間が築かれる。この構造は単なる展開ではなく、一つの生命体が絶えず自己変容を続けるかのような印象を与える。

一方で、こうした激しい運動の内部には、歌謡的な旋律がたびたび姿を現す。それらは《裸足の歌》を直接引用したものではないが、同じ旋律語法に由来する親密な歌として響く。しかし、その歌は安定した終止へ到達することなく、再び巨大な管弦楽の流れへ呑み込まれていく。この「歌」と「闘争」の二重構造は、以後の交響曲においてペッテション音楽の最も重要な特徴となる。

また、第5交響曲ではオーケストレーションも大きく成熟している。巨大な管弦楽を用いながらも音響は過度に厚ぼったくならず、透明な室内楽的書法と圧倒的なトゥッティとが絶えず交替する。各声部は独立した旋律性を保持しながら巨大なポリフォニーを形成し、後年の第7交響曲で頂点に達する書法がすでに明確に示されている。

初演は必ずしも広範な反響を呼ばなかった。当時のスウェーデン音楽界では依然として前衛的なセリー音楽が主流であり、ペッテションの濃密で持続的な交響曲は、そのどちらにも属さない孤立した存在として受け止められた。しかし現在では、第5交響曲は初期交響曲群と成熟期交響曲群を結ぶ決定的作品として評価されている。

第4交響曲で確立された巨大な単一楽章形式は、本作においてさらに有機的な統一を獲得した。そして、第6交響曲で現れる一層凝縮された構造、第7交響曲で達成される壮大な交響曲的世界は、すでにこの作品の内部に萌芽として存在している。第5交響曲は、ペッテションが独自の交響曲作家として完全に自己を確立した最初の作品なのである。


3-11 第6交響曲(1963–1966)

第6交響曲は1963年から1966年にかけて作曲され、1968年1月21日、ストックホルムでスティーグ・ヴェステルベリ指揮、スウェーデン放送交響楽団によって初演された。演奏時間は約55~60分、単一楽章による構成である。第5交響曲で確立されたペッテション独自の交響曲様式は、本作において一層の成熟を遂げ、第7交響曲以降へと続く創作の基盤が確立された。

本作は約3年という、当時のペッテションとしては異例に長い期間を費やして完成された作品である。この頃、1950年代から患っていた慢性関節リウマチはさらに進行し、手指の変形によって作曲作業そのものが大きな困難を伴うようになっていた。一方で、1964年にはスウェーデン政府から終身所得保障(garantilön)が与えられ、作曲に専念できる環境も整えられている。クーベは、この時期が身体的には厳しさを増す一方で、創作環境は安定へ向かうという、相反する状況の中にあったことを指摘している。作曲期間の長期化を病状だけに帰することはできないが、本作が厳しい身体的条件のもとで丹念に練り上げられたことは、その成立史を考える上で重要である。

ペッテションは、自作を病気や自己告白の音楽として理解されることを望まなかった。彼はレイフ・アーレとの対話の中で、「私の素材は、祝福されたものも呪われたものも含めた私の人生である」と語っている。この言葉が示すように、個人的経験は作品の出発点ではあっても、その目的は個人史の再現ではなく、人間存在そのものの経験へと昇華することにあった。第6交響曲もまた、苦難を描いた自伝ではなく、人間の生の葛藤を交響曲という形式の中で普遍化した作品として理解すべきであろう。

音楽的には、第6交響曲は巨大な単一楽章形式をさらに発展させた作品である。全曲は明確な楽章境界を設けることなく連続して進行し、少数の基本動機が反復、変形、拡大、縮小を繰り返しながら長大な音楽過程を形成する。局所的な対照や劇的効果よりも、絶えず変化し続ける時間そのものが構造の中心となっており、聴き手は一つの生命体が成長していくような有機的な展開を経験する。

その一方で、激しい対位法的書法の内部には、歌謡的で親密な旋律がたびたび姿を現す。これらは《裸足の歌》を直接引用したものではないが、その旋律世界を受け継ぐ抒情性を備えており、巨大な交響曲の内部に人間的な声を響かせる役割を果たしている。しかし、その歌は安息へと至ることなく、再び激しい運動の中へ取り込まれていく。闘争と抒情という二つの契機は対立するものではなく、作品全体を支える一つの交響曲的生命の両極として統合されている。

オーケストレーションも前作以上に洗練されている。大規模な管弦楽を用いながらも、各声部は独立した旋律性を保持し、多層的なポリフォニーが緊密な音楽組織を形成する。重厚なトゥッティと室内楽的な透明性が絶えず交替することで、音楽は巨大なスケールを保ちながらも終始高い緊張感を維持している。この書法は、後に第7交響曲でさらに統合された形へと発展する。

第6交響曲は、第5交響曲までに培われた創作成果を総合するとともに、その後の交響曲群の方向性を決定づけた作品である。単一楽章形式、有機的な動機生成、長大な時間構造、そして闘争と抒情の緊張関係という、ペッテション成熟期を特徴づける諸要素は、本作において確固たるものとなった。初演当時の反響はなお限られていたものの、今日では第7交響曲の飛躍を準備した重要な作品として高く評価されている。ペッテションが国際的な注目を集めるまであと一歩という地点で到達した、この静かな成熟こそが、第6交響曲の歴史的意義なのである。


3-12 第7交響曲(1966–1967)

第7交響曲は1966年から1967年にかけて作曲され、1968年10月13日、ストックホルムでアンタル・ドラティ指揮、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。演奏時間は約45分、単一楽章による構成である。本作は初演以来高い評価を受け、急速に国際的な注目を集めた。1970年代にはヨーロッパ各地で演奏され、ペッテションの代表作としての地位を確立している。アメリカ初演は1981年1月11日、カーネギーホール(ニューヨーク)でセルジウ・コミッショーナ指揮のアメリカ交響楽団によって行われている。

第7交響曲は、ペッテションの創作史における決定的な転換点である。それまで十数年にわたり独自の交響曲様式を追求してきたにもかかわらず、その作品は限られた聴衆にしか知られていなかった。しかし本作の成功によって、ペッテションは一躍、20世紀後半を代表する交響曲作曲家の一人として国際的な評価を獲得することとなった。クーベは、この作品をペッテションの創作の一つの頂点であるとともに、その後の活動を決定づけた歴史的作品として位置づけている。

第6交響曲の完成後、ペッテションの健康状態は依然として厳しいものであったが、1964年に得た終身所得保障によって創作に専念できる環境は維持されていた。こうした状況の中で作曲された第7交響曲は、第4交響曲以来積み重ねられてきた単一楽章交響曲の理念を、最も均整の取れた形で実現した作品である。

ペッテションは、「私は交響曲を書くのではない。一つの生命を書くのだ」という趣旨の発言を残しているが、第7交響曲はまさにその理念を体現した作品といえる。全曲は切れ目なく流れる一つの巨大な音楽過程として構成され、少数の基本動機が絶えず変容しながら全体を統一している。従来の交響曲に見られる楽章間の対比や形式的均衡ではなく、一つの生命が呼吸し、葛藤し、成長していくような連続性が作品全体を支配している。

音楽は静かな導入に始まり、徐々に緊張を高めながら巨大なクライマックスへと向かう。その過程では、鋭いリズムによる激しい運動と、長く歌う旋律線による抒情とが絶えず交錯する。ペッテション特有の歌謡性はここで最も自然な形で交響曲全体へ統合されており、《裸足の歌》に由来する旋律世界は、もはや引用ではなく作曲家自身の交響曲言語として完全に内在化されている。

オーケストレーションも極めて洗練されている。巨大な編成を用いながらも、音響は過度に厚重となることなく、各声部が独立した旋律線として有機的に結び付けられている。室内楽的な透明性と圧倒的な管弦楽的エネルギーが緊密に統合され、長大な作品でありながら終始高い緊張感を維持していることも、本作が広く受け入れられた要因の一つであった。

第7交響曲の成功について、ペッテション自身は決して楽観的ではなかった。長年にわたり理解されないまま創作を続けてきた経験は、彼に深い孤独感を残していた。しかし、本作によってようやく彼の音楽は国際的な演奏家や聴衆に届くようになり、その後の委嘱や再演へとつながっていく。第7交響曲は、芸術的達成であると同時に、作曲家としての社会的承認をもたらした作品でもあった。

もっとも、この成功は創作の安定を意味したわけではない。むしろ、第8交響曲では第7交響曲の均衡は意図的に崩され、音楽はさらに複雑で険しい方向へ進んでいく。ペッテションは成功によって自己を反復することなく、獲得した交響曲様式をさらに極限へ押し進めようとしたのである。

第7交響曲は、今日でもペッテション作品中もっとも頻繁に演奏・録音される交響曲であり、その名を世界に知らしめた代表作である。しかし、その完成度は孤立した奇跡ではない。第2交響曲以来一五年以上にわたる試行錯誤、第4・第5交響曲での様式の確立、そして第6交響曲での成熟があって初めて、この作品は成立した。第7交響曲は、そうした長い創作過程の結晶であると同時に、さらに過酷な後期交響曲群への新たな出発点でもあった。

1980年代以降、セーゲルスタム、リンドベリらによる録音を通じて本作は国際的なレパートリーとして定着し、今日ではペッテション作品中もっとも演奏機会の多い交響曲となっている。 


3-13 第8交響曲(1968–1969)

第8交響曲は1968年から1969年にかけて作曲され、1972年2月23日、ストックホルムで初演された。演奏時間は約50分。ペッテションの交響曲としては例外的に二つの部分(Part I・Part II)から構成されているが、両者は切れ目なく連続して演奏され、一つの有機的な交響曲として構想されている。本作は、第7交響曲によって国際的な評価を獲得した直後に完成した最初の交響曲であり、その成功を踏まえながら新たな創作段階へ踏み出した作品である。

クーベが指摘するように、第8交響曲は第7交響曲の成功を繰り返す作品ではない。むしろペッテションは、高く評価された交響曲様式をそのまま反復することを避け、構造的にも表現的にもさらに複雑な世界へ踏み込んでいる。第7交響曲が比較的明快な大きな弧を描く作品であるとすれば、第8交響曲ではその均衡は意識的に揺さぶられ、より多面的で流動的な交響曲構想が試みられている。

創作当時、作曲家の社会的評価は着実に高まりつつあったが、慢性関節リウマチによる身体的苦痛は一層深刻なものとなっていた。終身所得保障によって創作環境は安定していたものの、作曲は依然として大きな肉体的負担を伴う仕事であった。第8交響曲は、このように芸術的成功と身体的苦難という相反する状況の中から生まれた作品である。

音楽的には、二部構成が採られているとはいえ、それは伝統的な意味での二楽章形式ではない。第1部で形成された緊張は第2部へ切れ目なく引き継がれ、全体として一つの長大な音楽過程が構成されている。第4交響曲以来追求されてきた「連続する交響曲」という理念は維持されたまま、その内部構造のみが柔軟化されたのである。

作品全体は少数の基本動機から生成され、それらが絶えず変形と再結合を繰り返しながら長大な時間を形成していく。第7交響曲では比較的明確に感じられた求心的な構成に対し、本作では局面の転換がより頻繁となり、音楽は一定の方向へ収束するというより、多様な表情を見せながら絶えず姿を変えていく。その結果、緊張と弛緩、激しい対位法的運動と静かな抒情とが複雑に交錯する、より不安定で重層的な音楽世界が生み出されている。

一方で、歌謡的な旋律は依然として作品の重要な要素である。弦楽器や木管楽器に現れる息の長い旋律には、《裸足の歌》以来の旋律語法が深く浸透しているが、それらはもはや独立した引用としてではなく、交響曲そのものの言語として自然に作品へ組み込まれている。こうした抒情性は激しい音楽の流れの中でたびたび姿を現れるものの、安定した終着点へ至ることなく、再び大きな運動の中へ吸収されていく。

管弦楽法もさらに精緻さを増している。巨大な編成を用いながらも、各声部は独立した旋律性を保ち、多層的なポリフォニーによって豊かな音響空間を形成する。厚みのある響きと室内楽的な透明性とが絶えず交替し、第7交響曲で完成された書法は、ここでより自由で複雑な音響組織へと発展している。

第8交響曲は、完成から初演まで一定の期間を要し、初演後も第7交響曲ほど直ちに広く受け入れられたわけではなかった。しかし、1975年12月3日にセルジウ・コミッショーナ指揮、ヨーテボリ交響楽団によって再演されると、その芸術的価値はあらためて認識され、後期交響曲群への重要な橋渡しとなる作品として評価されるようになった。

第8交響曲の意義は、第7交響曲によって獲得した成功に安住することなく、自ら築いた交響曲様式をさらに押し広げた点にある。例外的な二部構成も、その試みの一環として理解すべきであろう。本作で拡大された時間構造と表現の複雑さは、続く第9交響曲においてさらに壮大な規模へと発展し、ペッテションの後期様式は新たな段階へ入ることになる。


3-14 第9交響曲(1970)

第9交響曲は1970年に作曲され、1971年2月18日、ヨーテボリ市制350周年記念演奏会において、セルジウ・コミッショーナ指揮、ヨーテボリ交響楽団によって初演された。演奏時間は約70分、単一楽章による構成である。本作はヨーテボリ市の委嘱によって作曲され、第7交響曲の成功によって国際的な評価を獲得したペッテションが、その期待に応えて完成した最初の大規模な交響曲となった。自筆総譜には「1970年7月1日、ストックホルム」と完成の日付と場所が記されており、これはペッテションの交響曲で唯一、完成日時が明記された作品である。

第9交響曲は、1960年代を通じて築き上げられた交響曲様式の一つの集大成を示す作品である。第4交響曲以来追求されてきた単一楽章形式はここでさらに壮大な規模へと拡大され、長大な時間構造の中で少数の基本動機が絶えず変容を重ねながら、有機的な音楽過程を形成していく。局所的な劇的効果よりも、全体を貫く持続的な流れが重視され、一つの巨大な生命体のような交響曲世界が築き上げられている。

その内部では、激しい対位法的運動と歌謡的な旋律とが緊密に結び付けられている。弦楽器や木管楽器に現れる息の長い旋律には、《裸足の歌》以来の抒情的世界が深く息づいているが、それはもはや独立した引用ではなく、交響曲そのものの言語として自然に融合している。こうした旋律は絶え間ない緊張の中に人間的な温もりを与え、作品全体に深い精神性をもたらしている。

管弦楽法もまた円熟の域に達している。巨大な編成を用いながらも各声部は高度な独立性を保ち、多層的なポリフォニーによって豊かな音響空間を形成する。重厚な響きと室内楽的な透明性とが緊密に結び付き、長大な作品全体にわたって高い凝集力が維持されている。この均衡の取れた書法は、第7・第8交響曲で成熟した交響曲語法をさらに発展させたものであり、ペッテションの円熟した作風を代表するものとなっている。

終結部では、それまで支配的であった緊張は静かに解きほぐされ、音楽は穏やかな響きのうちに長調へと開かれていく。その結びは勝利や凱歌を高らかに宣言するものではなく、長い闘争の末にようやく訪れた静かな和解を思わせるものである。この終末観は、後年の交響曲においてさらに深められる精神的世界を予告している。

第9交響曲の完成後まもなく、ペッテションは重い腎疾患を発症し、長期にわたる入院生活を余儀なくされた。第10交響曲、第11交響曲はこの入院中に構想・作曲されることになる。その意味で第9交響曲は、長期入院以前に完成された最後の交響曲であると同時に、1960年代を通じて形成された交響曲様式を総括する作品として位置づけられる。そして、この作品で到達した壮大な時間構造と静かな終末観は、病床においてなお創作を続けることになる後期作品群への確かな出発点ともなった。


3-15 第10交響曲(1972)

第10交響曲は1972年に作曲され、1973年12月16日にストックホルムで収録演奏が行われ、1974年1月14日にスウェーデン・テレビで放送された。演奏時間は約25〜26分、単一楽章による構成である。

本作は、第9交響曲完成直後に始まったカロリンスカ病院での長期入院生活を経て生まれた最初の交響曲である。1970年秋、ペッテションは関節リウマチ治療薬の副作用による重い腎不全のため約9か月にわたって入院し、第10交響曲と第11交響曲の大部分はその病床で構想・作曲された。入院中の日記は後に「第10交響曲への余白」として公表されているが、クーベはこれらを作品の直接的な説明としてではなく、当時の創作環境を伝える資料として位置づけている。

第10交響曲は、演奏時間の点でもペッテションの交響曲中きわめて異色の存在である。第6番から第9番までの長大な交響曲に対し、本作は約25分という凝縮された規模にまとめられている。しかし、この短さは構想の縮小を意味するものではない。むしろ、それまで長大な時間の中で展開されていた緊張が、高度に圧縮された形で持続する作品となっている。

冒頭には鋭い管楽器の音型が現れるが、これを「ファンファーレ」と呼ぶことについて、ペッテション自身は「ファンファーレなどと言わず、幻影(ファントム)と言ってくれ」と語っている。 この言葉が示すように、この動機は勝利や英雄性を告げる合図ではなく、作品全体を貫く不安と緊張の象徴として機能している。

音楽は少数の素材を徹底的に反復・変容させながら進行し、第9交響曲までの有機的な動機生成の原理を受け継いでいる。しかし、その展開は以前にも増して凝縮され、急激なエネルギーの集中と解放が短い時間の中で繰り返される。長大な持続によって形成されていた交響曲的時間は、本作では極度に圧縮され、それによって独特の切迫感が生み出されている。

一方で、歌謡的な旋律が完全に姿を消したわけではない。激しい運動の内部には、なお叙情的な旋律線が現れ、人間的な声を思わせる瞬間をつくり出している。しかし、それらは第7・第9交響曲のように大きく歌い広げられることはなく、緊張に満ちた音楽の流れの中へすぐに吸収されていく。この抒情性の扱いの変化も、本作の特徴の一つである。

管弦楽法もまた新たな段階へ進んでいる。巨大な編成を維持しながらも音響はさらに引き締まり、各声部は鋭い輪郭を保ちながら複雑なポリフォニーを形成する。響きは重厚であると同時に鋭利であり、長い交響曲的呼吸よりも、一瞬一瞬の強い緊張が作品全体を支配している。

初演(放送)は大きな話題を呼んだが、第7交響曲ほど広範な成功には至らなかった。その背景には、作品の凝縮された構成や峻厳な表現に加え、作曲家自身の病状や入院生活がしばしば作品以上に注目された事情もあった。クーベは、1970年代の作品がしばしば作曲家の伝記と結びつけて語られ、その音楽そのものの革新性が十分に評価されなかったことを指摘している。

第10交響曲は、長大な交響曲によって築き上げられた世界を放棄した作品ではない。むしろ、その本質を凝縮し、新たな表現へ転化した作品として理解すべきである。病床という極限状況の中でなお創作を続けたペッテションは、この作品によって後期様式の新たな方向性を示した。そして、この凝縮された交響曲語法は、翌年完成する第11交響曲においてさらに発展し、晩年の創作へと連なっていくのである。


3-16 第11交響曲(1971–1973)

第11交響曲は1971年から1973年にかけて作曲され、1974年10月24日、指揮:カーステン・アンデルセン、演奏団体:音楽協会「ハルモニエン」によって初演された。演奏時間は約24分、単一楽章による構成である。本作はノルウェーのベルゲン国際音楽祭の委嘱によって作曲され、ペッテションの作品が北欧諸国において本格的に紹介される契機ともなった。

第11交響曲は、第10交響曲とともに長期入院中に構想された作品である。しかし、その成立事情以上に重要なのは、本作が第9交響曲までに築かれた交響曲語法を、新たな均衡のもとで再構成している点にある。第10交響曲では凝縮された緊張が前面に押し出されていたのに対し、第11交響曲では長い旋律線と持続的な音楽の流れが再び重要な役割を担い、作品全体はより大きな呼吸をもって展開していく。

音楽は少数の基本動機から生成され、それらが絶えず変形と再結合を繰り返しながら全曲を統一している。この構成原理は第4交響曲以来一貫して追求されてきたものであるが、本作では各部分の連関がこれまで以上に緊密となり、作品全体は一つの有機的な生命体として強い統一感を獲得している。

その一方で、歌謡的な旋律は依然として作品の重要な核をなしている。弦楽器を中心に現れる息の長い旋律は、《裸足の歌》以来の抒情性を受け継ぎながら、激しい対位法的運動の内部に自然に織り込まれている。ペッテションの音楽に特徴的な「歌」と「葛藤」は、ここでは互いに対立するものではなく、一つの交響曲的時間の中で不可分に結び付いている。

管弦楽法もきわめて洗練されている。巨大な編成を用いながらも各声部は高度な独立性を保ち、多層的なポリフォニーが緊密な音響構造を形成する。響きは重厚でありながら透明性を失わず、緊張と静寂とが絶えず交替することによって、作品全体に深い集中力が与えられている。

第11交響曲は、第7交響曲のような広範な成功を収めた作品ではなかったが、北欧を中心として着実に評価を高め、ペッテション後期様式を代表する交響曲の一つと見なされるようになった。ベルゲン国際音楽祭からの委嘱は、彼の国際的評価がスウェーデン国内にとどまらず北欧全体へ広がっていたことを示している。

創作史の上で見るならば、第11交響曲は、第10交響曲で示された凝縮された交響曲語法と、第9交響曲以前の長大な有機的構成との均衡を新たな形で実現した作品である。また、病床という厳しい環境の中にあっても、ペッテションの創作理念そのものは揺らぐことがなかったことを示す作品でもある。この後、作曲家は声楽を導入した《広場の死者たち》(第12交響曲)へと向かい、その交響曲世界はさらに新たな表現領域へと拡大していく。


3-17 交響的楽章(Symphonic Movement, 1973–1974)

《交響的楽章》は、第11交響曲と第12交響曲の間に作曲された約25分の管弦楽作品であり、ペッテションの唯一の独立した管弦楽単一楽章作品である。成立時期は第10番以降に始まった後期様式の只中に位置し、巨大な単一楽章交響曲群と同じ音楽語法を共有しながらも、交響曲という番号付けを避けた点で特異な位置を占めている。

作品は休みなく展開する一続きの音楽から成り、鋭い動機断片、執拗なリズム反復、長大な旋律線が絶えず生成と変容を繰り返す。第7番以降の作品に特徴的な巨大な弧を描く構成はここでも維持されているが、交響曲よりも凝縮された時間の中で劇的緊張が持続するため、密度の高い音楽となっている。とりわけ弦楽器による持続的な歌と、金管・打楽器による激烈な噴出との対比は、後期ペッテションの音響世界を端的に示している。 クーベは、この作品を独立した管弦楽曲というより、第11番から第13番へ至る創作過程の一環として位置づけている。すなわち、交響曲という枠組みから一時的に距離を置きながらも、音楽的には後期交響曲群と不可分の関係にあり、後の第13番に見られる簡潔で集中的な構成への橋渡しを果たす作品とみなされる。 演奏機会は交響曲群ほど多くはないものの、本作はペッテション晩年の作曲技法が最も純粋な形で現れた作品の一つであり、交響曲以外の作品でありながら、その創作の中心を理解する上で欠くことのできない重要作となっている。


3-18 第12交響曲《広場の死者たち》(De döda på torget, 1973–1974)

第12交響曲《広場の死者たち》は1973年から1974年にかけて作曲され、1977年9月27日、ウプサラ大学講堂において、カール・ルーネ・ラーション指揮、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団、ウプサラ・アカデミック室内合唱団およびストックホルム・フィルハーモニー合唱団によって初演された。演奏時間は約55分。混声合唱と管弦楽のための9部構成の作品であり、ペッテションの番号付き交響曲の中で唯一、本格的に合唱を導入した交響曲である。

本作は1977年のウプサラ大学創立500周年を記念する委嘱作品として作曲された。音楽監督カール・ルーネ・ラーションは、「現代的意義を持ちながら、聖ビルギッタを題材とするような作品」という構想も提示していた。しかしペッテションはこの提案には従わず、チリの詩人パブロ・ネルーダの叙事詩集『大いなる歌(Canto General)』から「広場の死者たち」を含む9篇を選び、それらによって交響曲を構成した。クーベは、この選択がペッテション自身の芸術的・倫理的必然性に基づくものであり、ラーションの提案を事実上退けたものであったと述べている。

作品完成後、事態は思いがけない展開を見せた。1973年9月11日のチリ・クーデターによるアジェンデ政権崩壊と、その十二日後のネルーダの死去によって、このテキストは一挙に強い政治的文脈を帯びることになった。ペッテション自身はこうした出来事を予見していたわけではなかったが、結果として大学創立記念祝典にはふさわしくないと受け止められ、大学側はイングマール・ミルヴェーデンに新たな祝典カンタータ《ガウデアト・ウプサリア》を委嘱した。この作品は、ラーションが当初提案していた聖ビルギッタの主題を取り入れ、1977年9月30日の創立500周年祝典で演奏されている。

しかし、ペッテションがネルーダを選んだ理由は政治的声明を発するためではなかった。彼にとって決定的であったのは、抑圧され、声を持たない人々へのネルーダの倫理的な眼差しであった。クーベは、ペッテションがこの作品を単なる政治的作品ではなく、「あらゆる人間の苦しみ」に向けられた普遍的な社会的・倫理的表明として理解していたことを紹介している。ペッテション自身も、「私は弱者、苦難に喘ぐ人々の代弁者になりたい」と語っている。

音楽的にも、本作は単なるカンタータではなく、あくまで交響曲として構想されている点に特徴がある。合唱は物語を叙述するための存在ではなく、オーケストラと一体となって巨大な交響曲的時間を形成する。ペッテションは意識的に「交響曲」という名称を用い、祝典カンタータの伝統から距離を置く一方で、ベートーヴェン《第9交響曲》、メンデルスゾーン《讃歌》、マーラー《第8交響曲》へと連なる合唱交響曲の系譜の中に本作を位置づけていた。

作品全体では、これまでの交響曲で培われた息の長い旋律と密度の高いポリフォニーが維持され、その上に合唱が有機的に組み込まれている。声はオーケストラに対置されるのではなく、その響きの内部から立ち現れるもう一つの「歌」として扱われる。この意味で、第12交響曲は、《裸足の歌》以来ペッテションが追い求めてきた歌謡性が、初めて言葉そのものを伴って交響曲の中へ統合された作品と見ることができる。

第12交響曲《広場の死者たち》は、ペッテションの創作史において一つの転機をなす作品である。それは交響曲という形式を放棄した試みではなく、むしろその可能性をさらに拡張しようとする試みであった。同時に、委嘱者の期待よりも自らの芸術的必然性を優先したこの作品は、ペッテションの創作姿勢を最もよく示す例の一つでもある。そして、この経験を経た彼は、続く第13交響曲において再び純器楽による交響曲へと立ち返り、後期様式をさらに発展させていくのである。


3-19 《Vox Humana(人間の声)》(1974)

《Vox Humana》は1974年、第12交響曲《広場の死者たち》に続いて作曲されたカンタータである。交響曲ではなく、全18曲・3部構成の連作歌曲集として構成され、第1部は14曲、第2部は3曲、第3部は終曲《大いなる喜び》の1曲から成る。演奏にはソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスの5人の独唱者、混声合唱、弦楽合奏が用いられる。

歌詞にはラテンアメリカの詩人たちの作品が広く採用されている。マヌエル・バンデイラ、ダニエル・ライネス、ロベルト・フェルナンデス・レタマール、セサール・バジェホ、ムリロ・メンデス、ニコラス・ギジェン、カッシアーノ・リカルド、ミゲル・バルネットらの詩に加え、第2部ではインディオ古代詩、第3部ではパブロ・ネルーダの《大いなる喜び》が置かれている。第12交響曲がネルーダの《広場の死者たち》のみを素材としていたのに対し、本作ではラテンアメリカ全体へと視野が拡大され、「人間の声」という題名のもとに、多様な民衆の声が集成されている。

クーベによれば、この作品は第12交響曲の完成直後、数週間のうちに書かれた。しかし、レイフ・アーレが伝える「一日に一曲ずつ作曲した」という証言については、18曲から成る大規模な作品であることを考えると、そのまま受け入れることは難しいとしている。また、ペッテションは珍しく総譜末尾の日付を消しており、正確な作曲過程は明らかではない。

音楽的にも第12交響曲とは性格を異にする。クーベは、本作では朗唱と歌唱がテキストに奉仕する比較的「古典的」な方法で扱われ、弦楽合奏や歌詞を伴わないハミングがそれを支える構成になっていると指摘する。さらに、独唱曲と合唱曲、ア・カペラ楽章と弦楽伴奏楽章が交互に現れることによって、18曲の連作全体が緩やかな統一を保っているという。

創作史の上では、《Vox Humana》は第12交響曲で開かれた声楽作品の世界をさらに展開した作品であると同時に、その後の第13交響曲以降で再び純器楽交響曲へ回帰する直前に位置する。声楽作品に集中的に取り組んだペッテション晩年の短い時期を代表する作品として、第12交響曲と対をなす重要な位置を占めている。


3-20 第13交響曲(1976)

第13交響曲は1976年3月から8月にかけて作曲された単一楽章・約60分の大作である。ベルゲン国際音楽祭25周年の委嘱作品として書かれ、総譜にはベルゲン音楽祭、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団、そして指揮者カーステン・アンデルセンへの献辞が記されている。しかし作品の技術的難度は極めて高く、予定されていた1977年の初演は十分なリハーサル時間を確保できず延期され、1978年6月7日にベルゲンでフランシス・トラヴィス指揮ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団によってようやく初演された。

この時期のペッテションは重度の慢性関節リウマチによって外出も困難となり、自宅での生活を余儀なくされていた。さらに住居周辺では建設工事が続き、昼夜を問わず工事騒音や近隣から流れるポピュラー音楽にさらされる環境に置かれていた。彼はこれを「音響による放射(acoustic irradiation)」と呼び、こうした状況では新しいジャンルに取り組むことは不可能としてオペラなどの委嘱を断っている。一方で、この困難な環境の中でも第12交響曲、《Vox Humana》、そして第13交響曲を相次いで完成させており、その創作力は衰えていなかった。クーベは、わずか半年ほどで2,000小節を超える巨大な総譜を書き上げた事実は驚異的であり、総譜に記された日付はむしろ浄書期間を示すものと考える方が自然であると指摘している。

音楽的には、第13交響曲はペッテション後期様式の中でも最も峻厳で緊張度の高い作品の一つである。第7交響曲や第9交響曲に見られたような長大な旋律線や叙情的休息はほとんど姿を消し、作品全体は激しい対位法的運動と高密度の半音階書法によって貫かれる。冒頭から弦楽器が二オクターヴを駆け上がる激烈な動機を提示し、それに応答する金管のトリトヌス動機が作品全体の緊張を支配する。巨大な単一楽章は絶えず変貌し続けるが、その内部では動機同士が執拗に変形・再結合され、巨大な有機体として統一されている。

この作品では他作品への暗示も特徴的である。ベートーヴェン《交響曲第5番》冒頭のリズムや、ショスタコーヴィチの音名動機 D–S–C–H を思わせる断片が一瞬現れては消え、音楽史そのものが巨大な交響的ドラマの内部へ取り込まれていく。もっとも、これらは引用として前面に現れるのではなく、高密度のテクスチュアの中に埋め込まれた回想や記憶の断片として扱われている。

一方で、第12交響曲が詩篇のテキストを導入することで外部世界との接点を求めた作品であったのに対し、第13交響曲は再び純粋な器楽交響曲へ回帰する。その結果、言葉による救済や共同体の声は後景へ退き、音楽そのものが圧倒的な力で自己を貫徹する世界が築かれる。極度に凝縮された対位法と終始持続する緊張は、ペッテションが晩年に到達した「交響曲という唯一の表現形式」を最も徹底したかたちで示している。

また、この作品は後期三部作への橋渡しとしても重要である。第14交響曲以降では緊張がやや整理され、巨大なエネルギーがより明確な構造の中で制御されるようになるが、第13交響曲ではなお圧倒的な運動エネルギーがほとんど制限なく噴出している。その意味で本作は、第7〜第10交響曲に代表される巨大な単一楽章交響曲群の終着点であると同時に、晩年の凝縮された様式へ移行する転換点として位置づけることができる。


3-21 ヴァイオリン協奏曲第2番(1977)

ヴァイオリン協奏曲第2番は1977年に完成した、ペッテション最後の協奏作品である。独奏者イダ・ヘンデルのために作曲され、第13交響曲と第14交響曲の間に位置する作品として、晩年の創作を代表する重要な一作となっている。第1ヴァイオリン協奏曲から約25年を経て再びこの編成に取り組んだが、その発想は伝統的な協奏曲とは大きく異なっていた。

クーベによれば、ペッテションは未公刊のメモの中で、この作品を「実質的にはヴァイオリンと管弦楽のための交響曲」と呼んでいる。また当初の構想では、独奏ヴァイオリンをオーケストラの響きの中へ溶け込ませ、聴覚的には独奏者を「消去」してしまうことさえ考えていたという。協奏曲でありながら独奏と管弦楽の対立を描くのではなく、両者を一つの交響的有機体として統合しようとするこの構想は、本作の性格を端的に示している。

作品の主要素材には、《24の裸足の歌》第14曲《Herren går på ängen(主は草原を歩まれる)》の旋律が用いられている。この歌曲は全曲を通じて繰り返し姿を現し、さまざまな変容を受けながら作品を特徴づける重要な要素となっている。青年期の歌曲集を晩年の作品に取り入れる試みは、ペッテションの創作では決して珍しいことではないが、本作ではその引用が作品の構想そのものと密接に結び付いている点に特徴がある。

創作の過程では、ペッテションは一時、この作品を「ブレジネフと小さな人間との闘い」といった政治的イメージと結び付けて語っていた。しかしクーベが指摘するように、そのような着想は完成作では前景化されず、作品は特定の政治的主題を超えた、より普遍的な人間的葛藤を表現するものとなった。

創作史の上でも、本作は重要な位置を占めている。第1ヴァイオリン協奏曲がパリ留学後の新しい作曲語法を示した作品であったのに対し、第2ヴァイオリン協奏曲は、交響曲という形式を極限まで追究した晩年の思考を協奏曲へ移し替えた作品である。また、《裸足の歌》を創作の核へ据える方法は、翌年完成する第14交響曲へと受け継がれ、晩年のペッテションが初期作品を新たな交響的文脈の中で再創造していく過程を示すものともなっている。


3-22 第14交響曲(1978)

第14交響曲は1978年に作曲された単一楽章の交響曲であり、第13交響曲に続く晩年の創作を代表する作品である。この頃のペッテションは重度の関節リウマチによって日常生活のほとんどを自宅で過ごしていたが、創作活動はなお衰えることなく、第12交響曲、《Vox Humana》、第13交響曲に続いて本作を書き上げた。病苦と孤立が深まる一方で、その創作は晩年においても旺盛な勢いを保っていた。

本作の最も顕著な特徴は、《裸足の歌》第2曲《Klokar och knythänder(賢者たちと握りしめた拳)》の旋律が作品の重要な素材として用いられていることである。ペッテションは初期から《裸足の歌》の旋律を折に触れて後年の作品へ取り入れており、例えば《2つのヴァイオリンのためのソナタ第1番》では第18曲《Blomma vid min fot》、交響曲第1番断章では第20曲《Min längtan》、第6交響曲では第24曲《Han ska släcka min lykta》が引用されている。しかしクーベが指摘するように、第14交響曲における《Klokar och knythänder》の引用は、それらとは異なり、作品の形式を支える重要な文脈の中に置かれている点に特徴がある。

歌曲《Klokar och knythänder》には「しかし、人が所有できる最良のものは/手にはない/握りしめた拳のように」という印象的な一節が歌われる。クーベは、この歌曲が《裸足の歌》の中でも強い社会的・倫理的性格を備えた作品であることを指摘しており、第14交響曲ではその旋律が単なる回想としてではなく、新たな交響的展開の出発点として再構成されている。青年期の歌曲が晩年の交響曲の内部で新たな生命を獲得することにより、本作には初期と後期を結ぶ自己回帰的な性格が与えられている。

創作史の上でも、第14交響曲は晩年様式の重要な転機を示す作品である。第13交響曲の極度に凝縮された対位法的世界を受け継ぎながらも、本作では過去の歌曲素材が交響曲全体の構造に組み込まれ、生涯にわたる創作の連続性がこれまでになく明確な形で示される。この自己引用の方法は、過去を懐かしむ回想ではなく、初期作品と晩年の交響曲とを一つの創作世界の中で統合しようとする試みとして理解することができる。


3-23 第15交響曲(1978)

第15交響曲は1978年に完成した単一楽章の交響曲である。総譜末尾には第14交響曲と同様に「Stockholm 1978」と記されており、両作品はほぼ同じ時期に生み出された姉妹作ともいえる存在である。病状はなお深刻であったが、ペッテションは第14、第15、第16交響曲という最後の三部作を短期間のうちに相次いで完成させた。もっとも、生前にはいずれも初演されず、作曲家自身がその響きを聴く機会はなかった。クーベは、第12交響曲を除けば、晩年の作品はいずれも完成から初演まで長い年月を要しており、第14~16交響曲もその例外ではなかったと指摘している。

音楽的には、本作は第14交響曲で明瞭となった作風をさらに推し進めている。クーベによれば、第15交響曲では1970年代後半にペッテションが確立したモティーフ構成の手法が一貫して用いられている。限られた基本動機が多様な変容を受けながら作品全体に繰り返し現れ、それらが全曲を貫く形式的枠組みを形成するのである。こうした手法は、動機の不断の変形と回帰によって単一楽章全体に統一性を与えるものであり、第14交響曲以上に構造的凝縮が進められている。

クーベはまた、本作では素材そのものが比較的限定されているにもかかわらず、そこから長大な交響的展開が築き上げられていることを指摘している。初期作品にしばしば見られた多彩な旋律素材の連鎖とは異なり、ごく少数の動機を執拗に展開・変形する方法が作品全体を支配しており、晩年の作風はいっそう凝縮されたものとなっている。

創作史の上でも、第15交響曲は重要な位置を占める。本作では第14交響曲に見られた《裸足の歌》のような明確な引用には依拠せず、限られた素材の内的展開そのものが作品を成立させる原理となっている。この手法は、続く第16交響曲においてさらに洗練され、ペッテション最後の交響曲へと受け継がれていく。


3-24 第16交響曲(1979)

第16交響曲は1979年に完成したペッテション最後の交響曲である。アルト・サクソフォン独奏を伴う単一楽章の作品で、作曲者の生前には演奏されず、死後になって初演された。完成後、総譜はサクソフォン奏者フレデリック・L・ヘムケに送られたが、ペッテション自身がその響きを耳にする機会はついになかった。

本作は、交響曲で独奏楽器を導入した唯一の作品である。もっとも、その発想はヴァイオリン協奏曲第2番と同様、独奏楽器を管弦楽と対立させるものではない。サクソフォンは巨大な管弦楽組織の内部から旋律を導き出す存在として扱われ、協奏曲的な華やかさよりも、交響曲全体の構成を担う重要な声部として位置づけられている。この点で第16交響曲は、前作ヴァイオリン協奏曲第2番の交響曲的構想をさらに推し進めた作品と見ることができる。

クーベは、本作の演奏時間が約25分と比較的短いことに加え、全体の構成がきわめて明晰であることを特徴として挙げている。用いられる主題や動機はごく限られており、それらがさまざまな形に変容しながら全曲を貫く共通素材となる。この手法は1970年代後半に確立されたペッテション晩年の作曲法をさらに凝縮したものであり、簡潔な外形の中に高度な統一性を実現している。

作品は、ファンファーレを思わせる短い序奏に続いて、アルト・サクソフォンが主要主題を提示することから始まる。クーベによれば、この旋律は狭い音域を下降しながら進み、鋭い三全音跳躍と対置されることによって作品全体の展開を導く。途中には緩徐楽章やスケルツォを思わせる性格の異なる部分が置かれ、終結部では冒頭主題が回帰したのち、約85小節に及ぶ静かなエピローグが続く。最後は弦楽器がサクソフォンの旋律を穏やかに受け継ぎ、イ長調の静かな和音によって音楽は閉じられる。

創作史の上でも、第16交響曲はペッテションの到達点を示す作品である。第14・第15交響曲で推し進められた動機構成の技法はここでさらに凝縮され、独奏サクソフォンという新しい音色を取り込みながらも、作品全体は一貫して交響曲的思考に貫かれている。その後ペッテションはヴィオラ協奏曲に着手したものの未完に終わり、本作は彼が完成させた最後の交響曲として、その創作の終着点を画することとなった。


3-25 ヴィオラ協奏曲(1980・未完)

ヴィオラ協奏曲は、ペッテションが最後に着手した作品である。第16交響曲完成後の1980年、新たな協奏曲として作曲が開始されたが、病状の急速な悪化により完成には至らず、未完のまま残された。1980年6月20日に作曲者が死去したことにより、本作はその生涯最後の創作となった。

本作がヴィオラのために構想されたことは象徴的である。ペッテションは王立音楽院在学中にヴァイオリンからヴィオラへ転向し、その後ストックホルム・コンサート協会管弦楽団(のちの王立フィルハーモニー管弦楽団)のヴィオラ奏者として長年活動した。作曲家として出発する以前から最も深く親しんできた楽器に、生涯最後の作品で再び向き合ったことは、その音楽的人生の円環を思わせるものとなっている。

クーベによれば、作曲家の死後、妻グドルンはこの遺稿を直ちに公開することはせず、作品にふさわしい国際的な初演の機会を慎重に模索していた。その一環として、1985年にはベルリンの作曲家・指揮者ペーター・ルジツカとの接触も試みられた。その結果、1988年9月24日、ベルリンでバシュメット独奏、コミッショナ指揮ベルリン放送響により初演が行われた。その後、遺稿は保存され、ペッテション晩年の創作を伝える貴重な資料として研究の対象となっている。

創作史の上でも、本作は重要な意味をもつ。第2ヴァイオリン協奏曲では「ヴァイオリンと管弦楽のための交響曲」という発想のもとに協奏曲と交響曲の境界を問い直し、第16交響曲ではアルト・サクソフォン独奏を交響曲へ導入したペッテションは、最後に再び協奏曲というジャンルへ立ち返った。しかし、その試みは完成を見ることなく終わり、ヴィオラ協奏曲は、病苦の中にあっても最後まで創作への意志を失わなかった作曲家の姿を静かに物語る遺作となった。


3-26 第17交響曲(1980・断片)

第17交響曲は、ペッテションが晩年に構想していた最後の交響曲である。1980年の死により作品は完成されることなく、わずかなスケッチと断片のみが遺された。しかし、その存在は、第16交響曲が当初から「最後の交響曲」として構想されていたのではなく、ペッテションが最晩年に至るまでなお新たな交響曲の創作を志向していたことを示している。

クーベによれば、第16交響曲完成後もペッテションの創作意欲は衰えることなく、ヴィオラ協奏曲と並行して新たな交響曲の構想も進められていた。しかし、病状は急速に悪化し、その構想は十分な展開を見ることなく中断された。残された資料は作品全体を復元できるほどのものではなく、クーベもこれを完成作品としてではなく、作曲家最後の創作の痕跡として位置づけている。

その後、この断片は長く遺稿として保存されていたが、21世紀に入り、指揮者・作曲家のクリスティアン・リンドベリによって演奏可能な形への補筆・編纂が行われた。リンドベリはこれを「交響曲第17番断片(Fragments)」として紹介し、完成作品としてではなく、ペッテションが遺した音楽的断章を可能な限り忠実に提示することを目指した。この補筆版は公開演奏と録音によって広く知られるようになり、未完の作品でありながら、ペッテション最後の交響的構想を知るための重要な資料となっている。

創作史の上では、第17交響曲断片はヴィオラ協奏曲と並び、ペッテション最後の創作活動を伝える遺稿である。生涯を通じて交響曲を自己表現の中心に据え続けた作曲家は、その最晩年においてもなお新たな交響曲を構想していた。作品は完成を見ることはなかったが、その断片は後世の演奏家や研究者によって受け継がれ、ペッテションの創作が最後の瞬間まで途切れることなく続いていたことを今日に伝えている。


(続く)

[お断り]本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、Claude Sonnet 4.6とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行い、ChatGPT 5.5とのやりとりを通じて増補改訂を行い完成させました。ファクトチェックおよび校正はClaude Sonnet 5とのやりとりを通じて行いました。


(2026.7.12 公開)