2026年7月13日月曜日

アンドレイ・エシュパイの生涯と作品

 

1. はじめに


 アンドレイ・ヤコブレヴィチ・エシュパイ(1925-2015)は、ソ連およびロシアの音楽界において多大な影響を与えた作曲家である。彼は作曲家としてのみならず、ピアニスト、教育者、そして公人としても幅広く活動した。本レポートは、エシュパイの生涯、音楽的特徴、主要作品、そして音楽史における彼の遺産を包括的に紹介することを目的とする。

エシュパイの音楽は、彼のマリ民族としての豊かな民俗的伝統と、20世紀のクラシック音楽が追求した革新的な潮流を融合させた独自の様式を持つ。その芸術的価値は極めて高いものの、国際的な知名度は未だ十分とは言えず、その真の位置づけを確立するためには、彼の作品に対する詳細な分析と再評価が不可欠である。本報告書は、彼の音楽の多面性と深遠な表現力を明らかにし、その芸術的意義を再考する一助となることを目指す。


 2. アンドレイ・エシュパイの生涯と音楽的背景


 マリ民族のルーツと家族からの音楽的影響


 アンドレイ・エシュパイは1925年5月15日、マリ自治共和国のコズモデミヤンスクに生まれた。彼の父ヤコフ・エシュパイは、マリ民族のプロの作曲家として先駆的な存在であり、音楽学者、民俗学者としても知られていた。母ヴァレンティーナ・トガエワも民謡の愛好家であったと記録されている 。このような家庭環境は、アンドレイが幼少期から音楽に深く触れる機会を与え、特にマリ民族音楽のイディオムが彼の音楽的基盤を形成する上で決定的な役割を果たした。

彼の民族的ルーツは、彼の音楽的アイデンティティの中核をなし、その独自性と革新性の重要な源泉となっている。父がマリの民族音楽の専門家であったため、アンドレイは民族音楽を単なる異国情緒の素材としてではなく、その本質を深く理解し、自身の音楽語法に統合する素養を培ったと考えられる。この深い統合は、後に彼の音楽的特徴として顕著になるシンコペーション、バルトーク的なリズム、オスティナートなどの要素に直接的な影響を与えている 。


第二次世界大戦の経験と音楽への道


 エシュパイの人生において、第二次世界大戦への従軍経験は、彼の音楽に深い感情的、精神的な影響を与えた重要な要素である。彼は第二次世界大戦の退役軍人であり、1943年にはチャカロフ(オレンブルク)機関銃学校に入学し、赤軍外国語軍事研究所で軍事通訳の課程を修了した 。1944年末からは第1白ロシア戦線で戦い、捕虜尋問で得た情報により多くの敵の砲撃拠点を制圧し、ベルリンの戦いでは個人的に8人の敵兵士・将校を殺害した功績で赤星勲章を授与された。

戦時中の過酷な経験は、彼の音楽に「戦後の時代、軍事的損失の苦痛、そして未来への希望」といった感情や精神を表現する深みを与えたと評されている。特に、兄のヴァレンティンが戦争から戻らなかったという個人的な悲劇は、彼の作品、例えば映画音楽「モスクワっ子」(1958年)の誠実さと痛切さに反映されている。このことから、彼の音楽は単なる技術的な構築物ではなく、深い人間的経験に裏打ちされたものであり、聴衆に深く響く理由の一つであると解釈できる。極限状況下での個人的な苦痛や時代の精神を普遍的な音楽言語で表現する能力は、彼の芸術的誠実さの証左である。


モスクワ音楽院での教育と師事した作曲家たち


戦後、エシュパイはモスクワ音楽院で本格的な音楽教育を受けた。彼はピアノをウラディーミル・ソフロニツキーに師事し、作曲をニコライ・ラコフ、ニコライ・ミャスコフスキー、エフゲニー・ゴルベフから学んだ 。1953年に音楽院を卒業した後、1956年にはアラム・ハチャトゥリアンのもとで大学院課程を修了している。ハチャトゥリアンはエシュパイを「最も才能ある学生の一人」と高く評価し、彼がソ連音楽史において重要な役割を果たしたと述べている。

エシュパイはミャスコフスキーの指導の下で、ヴァイオリン作品や『クラリネットとピアノのための組曲』、『マリの主題による交響的舞曲』などの初期作品を作曲した。また、ラコフからは管弦楽法を学んだ。ラコフ自身もマリ音楽に関心を持っており、マリ民謡に基づく『マリ組曲』を作曲していたことが知られている。 これらの師事経験は、エシュパイが当時のソ連音楽界の主流派の教育を受けたことを示している。

さらに、1964年にはハンガリーを訪れ、著名な作曲家・教育者であるゾルターン・コダーイと交流した。コダーイはエシュパイの交響曲第2番を高く評価し、マリ民謡にも精通していたことから、二人の間で音楽的知識が自由に交換された。コダーイはエシュパイの父とも親交があり、アンドレイのキャリアを興味深く追っていたとされる。エシュパイが単に師のスタイルを模倣するだけでなく、民族音楽への関心をアカデミックな文脈で深め、自身の音楽言語に統合する上で、これらの師やコダーイとの交流が触媒となったと考えられる。特にコダーイがマリ民謡に精通していたという事実は、エシュパイが自身の民族的ルーツを国際的な視点から再認識し、それを普遍的な音楽言語へと昇華させるきっかけを得た可能性を示唆する。この多角的な影響が、彼の音楽が単なる折衷ではなく、統合的な独自性を獲得する上で不可欠であったと考察できる。


ソ連作曲家連盟における役割と公的活動


エシュパイは、ソ連音楽界において重要な公的役割を担った人物でもある。彼は1952年にソ連作曲家連盟のメンバーとなり、1960年には書記に指名された。その後、1973年から1979年まではロシア・ソビエト連邦社会主義共和国作曲家連盟の第一書記を務め、1968年にはソ連作曲家連盟の書記となった 。さらに、1996年から2001年、そして2006年から2015年までロシア作家協会(VAAP)の会長を務めた。これらの要職は、彼がソ連音楽界において極めて影響力のある人物であったことを示している。

ソ連時代においては、作曲家が公的な地位に就くことは、体制へのある程度の順応を意味することが多かった。しかし、彼の音楽的特徴、特にマリ民族音楽の深い統合やジャズ要素の導入などは、当時の「社会主義リアリズム」の硬直したイデオロギーとは一線を画す独自性を示している。このことから、エシュパイは公的な役割を果たす一方で、自身の芸術的独立性と創造性を維持するバランスを見出したと考えられる。彼の音楽が「親しみやすさ」と「予測不可能性」のバランスを持つと評される点も、この両立を可能にした彼の芸術的戦略の一端を物語っている。彼は単なる体制内の作曲家ではなく、その中で独自の芸術的道を切り開いた稀有な存在であったと評価できる。


 3. アンドレイ・エシュパイの音楽的特徴と様式


マリ民族音楽の深い統合


アンドレイ・エシュパイの音楽表現の最も特異な点の一つは、彼がマリ民族の民謡を深く活用していることにある。これは単なる表面的な異国情緒の付加ではなく、彼の音楽語法の本質的な部分を形成している。マリの民謡の引用は、彼の主要な交響曲、例えば交響曲第2番「光への賛美」、第3番、第8番といった作品に用いられており、その統合メカニズムは「音色-テクスチャー的および和声的な『声部付け』」を通じて実現されている。

彼の父ヤコフ・エシュパイがマリ民族音楽の収集と編曲に貢献したことも、アンドレイの音楽における民族的要素の深い理解と活用に繋がっている。エシュパイは民謡のメロディをそのまま使うだけでなく、その旋律、リズム、和声、音色といった要素を自身の音楽言語の中で変容させ、より複雑なテクスチャーやドラマティックな解決に貢献させている。特に、「変容的な効果」や「相互影響と対比のプロセスを活性化」するという記述は、民族的要素が彼の音楽の「言語メカニズム」や「構成的・劇的解決」に深く関与していることを示している。この深い統合は、彼の音楽が「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という当時の硬直したイデオロギーの枠を超え、真の独自性と普遍性を獲得した理由の一つである。彼は民謡を単なる装飾としてではなく、自身の創造性の核として昇華させた、革新的な作曲家であったと考察できる。


和声と旋律の特質


エシュパイの音楽における和声と旋律は、その表現の多様性を特徴づける重要な要素である。彼の作品は、不協和音の大胆な使用と、深い抒情性の共存によって特徴づけられる。例えば、ピアノ協奏曲第2番では高いレベルの不協和音が用いられる一方で、交響曲第7番では「不機嫌な不協和音」から「静かな叙情性」へと移行する場面が見られる。この不協和音と叙情性のダイナミクスは、彼の音楽が単に「美しい」だけでなく、感情的な深みや葛藤を表現するために意図的に不協和音を用いていることを示唆する。この移行は、彼の音楽が持つドラマティックな弧と感情的な幅広さを示している。

旋律は粘り強く、継続的に発展していく傾向がある。交響曲第2番では、主要主題が互いに自然に発展し、旋律的発展の粘り強さと継続性が第1番よりも顕著であると評されている。この旋律の持続的な発展は、彼の音楽が持つ推進力と、聴き手を飽きさせない構成力を示唆する。このダイナミクスは、彼の音楽が「親しみやすさ」と「予測不可能性」のバランスを持つという評価にも繋がっており、単調さを避け、多層的な聴覚体験を提供していることを意味する。


 色彩豊かな管弦楽法


 エシュパイの管弦楽法は、その色彩感と多様な要素の融合によって際立っている。彼の管弦楽の音色は「極北の自然のエッセンスを蒸留したかのよう」と評され、その色彩豊かなパレットは聴き手の想像力を刺激する。

特筆すべきは、彼の音楽におけるジャズ要素の導入である。管弦楽のための協奏曲「コンチェルト・グロッソ」では、「ジャジーな輝き」が見られ、ジャズミュートのトランペットがボロディンのステップを思わせるような、どこか郷愁を帯びた旋律を奏でる。また、彼のピアノ作品の中にもジャズ要素を取り入れたものがあることが確認されている。これらの要素は、当時のソ連音楽においては必ずしも主流ではなく、特定のイデオロギー的制約下では「退廃的」と見なされることもあった。しかし、エシュパイはこれらを自身の音楽に巧みに統合し、独自の音響世界を構築した。これは、彼が単に既存のスタイルを踏襲するのではなく、異質な要素を融合させることで、革新的な表現を追求したことを示唆する。この融合は、彼の音楽が持つ「親しみやすさ」と「予測不可能性」のバランスをさらに強化し、聴き手に新鮮な驚きと深みを提供している。彼の管弦楽法は、単なる色彩感の豊かさだけでなく、多様な文化的・音楽的要素を統合する合成的なアプローチを持っていると評価できる。


 堅固な形式と構成


 エシュパイの音楽は、その堅固な形式と構成によって特徴づけられる。彼の作品は、聴き手を「活発な動きと対比の渦」に巻き込むような推進力を持つと評されており、特に交響曲第2番においてその特徴が顕著である。

彼の音楽は「親しみやすさ」と「予測不可能性」の「ほぼ完璧なバランス」を持つと評されている。これは、彼が形式的な枠組み(堅固な構成)を尊重しつつも、その中で表現的な自由(予測不可能性、活発な動きと対比)を追求していることを示唆する。この調和は、彼の音楽が聴き手にとってアクセスしやすい一方で、深遠な芸術的価値を持つ理由を説明する。当時の「社会主義リアリズム」が求める「分かりやすさ」や「楽観性」といった規範に対し、彼の音楽は不協和音やシリアスなテーマ、予測不可能性といった要素を取り入れることで、より深遠で多面的な表現を可能にした。彼がこのバランスを「ほぼ完璧」に達成したことは、彼が当時の政治的・芸術的制約の中で、いかに巧みに自身の芸術的ビジョンを実現したかを示す重要な側面である。

 

4. 主要作品

 アンドレイ・エシュパイの作品は多岐にわたり、交響曲、協奏曲、舞台作品、室内楽、ピアノ作品、そして映画音楽や歌曲など、様々なジャンルで傑作を生み出した。


 交響曲群


 エシュパイは生涯で9つの交響曲を作曲しており、このジャンルが彼の創作活動の中心に据えられていたことを示唆する。

      交響曲第1番 変ホ短調 (1959): 彼の最初の交響曲であり、後の大規模な作品群への序章となる 。

      交響曲第2番 イ長調「光への賛美」 (1962): この作品は、第1番よりも「より重厚で旋律が豊か」であり、主要主題が自然に発展し、旋律的発展の粘り強さと継続性が特徴である。映画「夜警」の音楽も使用されており、勇気、希望、逆境の克服への賛歌として、ドラマティックな音楽が展開される。ゾルターン・コダーイがこの交響曲を高く評価したことからも、その芸術的価値がうかがえる。

      交響曲第3番「父の追憶に」 (1964): マリの民族音楽のイディオムに深く根差しており、一聴して「ロシア的」なものとは一線を画していると評される 。この作品でもマリ民謡の引用が見られ、その民族的ルーツへの深い敬意が示されている。

      交響曲第4番「交響的バレエ」 (1980-81): 人間主義的な問題を提起し、「楽しさに満ちたジャジーな作品」として知られる。

      交響曲第5番 (1985): 第二次世界大戦の記憶への記念碑として創作された。

      交響曲第6番「典礼」 (1988): 混声合唱とバリトン(またはバス)、交響楽団のための作品であり、「神聖さの現象」によって芸術的パターンが決定されるユニークな作品である。

      交響曲第7番 (1991): 後期作品であり、「不機嫌な不協和音」から「静かな叙情性」へと移行する、非常に集中度の高い作品である。ここでは、通俗的な文化の要素は意図的に排除されている。

      交響曲第8番 (2000-01): 父ヤコフ・エシュパイの記憶に捧げられた作品であり、マリ民謡の引用が見られる。

      交響曲第9番「四つの詩」 (1998-99): 交響楽団、混声合唱、ナレーターのための作品である。

これらの交響曲群は、エシュパイの作品が単なる「絶対音楽」ではなく、具体的な思想、感情、記憶、社会問題、民族的ルーツといった多様なテーマを扱っていることを示唆する。特に、第2番が「勇気、希望、逆境の克服への賛歌」であり、コダーイに高く評価されたこと、第3番が「マリの民族音楽のイディオムに深く根差している」こと、第5番が「大祖国戦争の記憶」に捧げられたこと、第6番が「神聖さ」を扱っていることは、彼の音楽が個人的な経験と普遍的なテーマ、民族的要素と社会主義的文脈をいかに巧みに融合させていたかを示す。この多様なテーマの扱いは、彼が「社会主義リアリズム」の枠組みの中で、いかに自身の芸術的誠実さを保ち、表現の幅を広げたかという、より深い側面を明らかにする。彼は、体制の要求に応えつつも、個人的な感情や民族的アイデンティティを作品の核に据えることで、独自の芸術的表現を確立したと考えられる。

 

協奏曲群


 エシュパイは、ほぼすべての交響楽団の楽器のためにソロ協奏曲を作曲した多作な作曲家である。これは彼が各楽器の特性と表現可能性を深く探求したことを示している。

      管弦楽のための協奏曲「コンチェルト・グロッソ」 (1966-67): トランペット、コントラバス、ピアノ、ヴィブラフォンと管弦楽のための作品。ジャズ要素と古典的要素が融合しており、「ジャジーな輝き」と「ラフマニノフの交響的舞曲とガーシュウィンのクロスオーバー」のような効果を持つと評される。この作品は世界中で何度も演奏され、大きな成功を収めた。

      ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 (1954): アラム・ハチャトゥリアンの指導のもと完成した初期の重要な作品。

      ピアノ協奏曲第2番 (1972): 攻撃的な性格を持ち、高い不協和度を特徴とする。

      ヴァイオリン協奏曲第4番 (1993): ポスト戦後のショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、プロコフィエフのスタイルを想起させる要素が見られる。

      ヴィオラ協奏曲「ハンガリーの調べ」 (1987): マリ民謡の伝統に基づいているが、そのタイトルが示す通り、ハンガリー民謡との類似性も探求されている。

      コントラバス協奏曲 (1995): 弦楽合奏を伴う作品である。

「コンチェルト・グロッソ」がジャズ要素と古典的要素を融合させ、世界中で成功を収めたという事実は、彼がジャンルの境界を越えた革新的なアプローチを試みたことを示唆する。特に「ヴィオラ協奏曲『ハンガリーの調べ』」がマリ民謡に基づきながら「ハンガリー民謡との類似性」を探求している点は、彼が民族音楽の普遍的な側面と、異なる文化間の音楽的繋がりに関心を持っていたことを示唆する。これは、彼の音楽が単一の民族的枠組みに留まらず、より広範な音楽的対話と融合を目指していたという深い理解に繋がる。

 

舞台作品、室内楽、ピアノ作品


 エシュパイは、バレエ、室内楽、ピアノ作品といった多様なジャンルで作曲活動を行い、自身の音楽的アイデアを様々な編成と表現形態で探求した。

      バレエ音楽: 「アンガラ」 (1974-75) と「輪(黙示録)」 (1979-80) を作曲している。特に「輪」は「人気のある文化の侵入がある」と評される一方、交響曲第7番は「人気のある文化の侵入がない」と対比されており、彼が作品のジャンルや意図に応じて、異なるスタイルの要素を使い分けていたことを示唆する。これは、彼が「カメレオンのような作曲家」と評される理由の一つであり、特定の様式に固執せず、表現の幅を広げようとした彼の姿勢を物語る。

      室内楽: ヴァイオリン・ソナタ第1番 (1965-66)・第2番 (1970)、クラリネットとピアノのための組曲 (1946)、フルートとクラリネットのための前奏曲、アダージョとフーガ (1949) などがある。

      ピアノ作品: 6つの前奏曲 (1947)、マリ民謡に基づく作品(「ナイチンゲール」「森」など)、そしてジャズ要素を含む「アレクサンドリア(ボサノヴァ)」(1966) や「3つのジャズメロディ」(1969) など、多岐にわたる。これらのピアノ作品は、彼の民族的ルーツと現代的な要素を個人的な表現の場で融合させる実験の場であったことを示唆する。

これらの作品群は、彼の音楽的思考の多様性と、ジャンルを超えた表現の可能性を追求する彼の革新性を示している。


 映画音楽と歌曲


 エシュパイは、アカデミックなクラシック音楽だけでなく、映画音楽や歌曲も作曲し、これらが彼に「広く愛され、認識される」きっかけとなった。これは、当時のソ連において、クラシック音楽が一部のエリート層に限定されがちであったのに対し、映画音楽や歌曲が大衆に直接届く媒体であったことを示唆する。

彼の映画音楽は「戦後の時代、軍事的損失の苦痛、そして未来への希望」といった感情や精神を表現し、特に「モスクワっ子」(1958年)は彼の個人的な戦争経験と一致した誠実で痛切な作品として高く評価されている。彼がこれらのジャンルで成功を収めたことは、彼が単なる「芸術音楽」の作曲家ではなく、大衆の感情や時代の精神に寄り添う能力を持っていたことを示している。特に「モスクワっ子」が彼の個人的な戦争経験と結びつき、誠実で痛切な作品となったという事実は、彼が大衆音楽の形式においても深い芸術的誠実さを追求したことを示唆する。このことから、彼は芸術音楽と大衆文化の間に橋を架け、自身の音楽をより広い聴衆に届けた「国民的作曲家」としての側面を持っていたと評価できる。


5. 批評的評価と音楽史における遺産


ソ連音楽史におけるアンドレイ・エシュパイの位置づけ


 アンドレイ・エシュパイは、ソ連音楽史において極めて重要な役割を果たした、非常に才能ある作曲家として広く認識されている。彼は単に優れた作曲家であっただけでなく、「ソ連およびロシアの傑出した作曲家、ピアニスト、教育者、公人」として、その多岐にわたる活動が評価されている。彼はソ連時代の「最も有名で栄誉ある作曲家の一人」とされ、数々の賞を受賞した。

彼の音楽が「誠実さ」を主要な芸術的表現方法としており、それが聴き手にも明確に伝わると評されることは、彼が公的な役割を果たす中でも、自身の芸術的信念を貫いたことを示唆する。このことは、彼の遺産が単なる作品群に留まらず、ソ連音楽界の発展と方向性に与えた影響、そしてその中でいかに個人的な芸術的誠実さを保ったかという、より複雑な側面を持つことを示している。彼は、ソ連という特定の政治体制下で、音楽界のリーダーシップを担い、音楽教育や文化政策にも深く関与しながらも、自身の芸術的ビジョンを追求し続けた稀有な存在であった。


 「社会主義リアリズム」の枠組みと彼の独自の表現


 ソ連時代の芸術は、「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という硬直した「社会主義リアリズム」のイデオロギーによって強く規定されていた。しかし、エシュパイの音楽は、この枠組みとは一線を画す独自の表現を確立したと評されている。彼は「ショスタコーヴィチやシュニトケのようにカメレオンのような作曲家」と形容され、軽快でジャジーな作品から、叙情的で民族的な作品、そして暗くシリアスな作品まで、幅広いスタイルで作曲した。彼の作品には、「親しみやすさ」と「予測不可能性」の「ほぼ完璧なバランス」が見られると評価されている。

この評価は、彼が体制の要求に完全に順応するだけでなく、自身の芸術的ビジョンと民族的ルーツを独自の形で表現し、当時の芸術的制約の中で芸術的な「抵抗」あるいは「逸脱」を試みたことを示唆する。「社会主義リアリズム」が求める「分かりやすさ」や「楽観性」といった規範に対し、彼の音楽は不協和音やシリアスなテーマ、予測不可能性といった要素を巧みに取り入れることで、より深遠で多面的な表現を可能にした。彼がこのバランスを「ほぼ完璧」に達成したことは、彼が当時の政治的・芸術的制約の中で、いかに巧妙に自身の芸術的自由を追求し、独自の音楽言語を確立したかを示す重要な側面である。


 マリ民族音楽の統合がもたらした革新性と独自性


 マリ民族の民謡の活用は、アンドレイ・エシュパイの音楽表現を非常にユニークなものにしている。この民族的要素の統合は、単なる表面的なフォークロアの引用に留まらず、彼の音楽語法の根幹を成し、革新性と独自性をもたらした。彼はマリの民族的インスピレーションを、印象主義、象徴主義、自由なスタイルといった20世紀の現代美術の要請と融合させ、「見事な統合」を達成した。

マリ民謡の引用は、彼の交響曲(第2、3、8番)の「深い内容」を濃縮し、音楽の「言語メカニズム」や「構成的・劇的解決」に「変容的な効果」をもたらしていると具体的に分析されている。これは、彼が民族音楽を単なる素材としてではなく、それを自身の音楽言語の根幹に据え、現代的な作曲技法と融合させることで、民族的でありながら普遍的な芸術作品を創造したことを示唆する。このアプローチは、当時のソ連音楽における「民族的」要素の扱いの範疇を超え、真の「革新性」と「独自性」を確立したと言える。エシュパイは、民族音楽の持つ可能性を最大限に引き出し、それを20世紀の芸術音楽の文脈で再定義した、重要な作曲家であったと評価できる。


 現代における再評価の動きと今後の展望


 アンドレイ・エシュパイの音楽は、その質の高さにもかかわらず、「カタログ全体で過小評価されている」と指摘されている。しかし、同時に彼の作品は「素晴らしい」ものであり、「多くの聴衆にアピールするだろう」という潜在的な評価も存在する。彼の音楽が持つ「親しみやすさ」と「予測不可能性」のバランスは、現代の多様な聴衆にとっても魅力的であるとされている。

近年、録音・再生技術の発達とインターネットを介した流通の恩恵により、「忘れられた作曲家」の再発見の機会が飛躍的に拡大している。この傾向は、エシュパイの音楽にも当てはまり、彼の作品がより広く聴かれるようになる可能性を秘めている。

しかし、彼の作品が特定の歴史的・地理的文脈(ソ連、マリ民族)と強く結びついているため、その普遍的価値が十分に理解されるためには、さらなる研究と演奏機会の創出が必要である。特に、彼の音楽におけるマリ民族音楽の深い統合や、ソ連時代のイデオロギー的制約下での彼の芸術的選択といった側面は、現代の聴衆や研究者にとって新たな発見をもたらす可能性がある。今後の研究と演奏活動を通じて、エシュパイの音楽が持つ真の芸術的価値と、20世紀音楽史における彼の独自の貢献が、より広く認識されることが期待される。


 6. おわりに


 アンドレイ・エシュパイの音楽作品は、彼のマリ民族としての深いルーツ、第二次世界大戦という個人的な苦難、そしてソ連という特殊な政治的・文化的環境の中で培われた、独自の芸術的誠実さと革新性の結晶である。彼は、マリ民族音楽のイディオムを単なる装飾としてではなく、自身の音楽語法の根幹に深く統合し、それを20世紀の現代的な和声、旋律、管弦楽法、そして堅固な形式と融合させることで、民族的でありながら普遍的な表現力を獲得した。

彼の音楽は、不協和音と抒情性のダイナミクス、色彩豊かな管弦楽法、そして親しみやすさと予測不可能性の絶妙なバランスによって特徴づけられる。また、交響曲、協奏曲、バレエ、室内楽、ピアノ作品といった多様なジャンルで、個人的な追憶、人間主義的な問い、社会的なメッセージなど、多岐にわたるテーマを探求した。特に、映画音楽や歌曲といった大衆的な媒体においても、深い芸術的誠実さを追求し、芸術音楽と大衆文化の架け橋となる役割も果たした。

エシュパイの作品は、その質の高さにもかかわらず、国際的には未だ過小評価されている側面がある。しかし、彼の音楽に宿る深い人間性と、時代を超えて響く普遍的な芸術的価値は、現代において再評価されるべきである。彼の作品のさらなる研究、演奏、そして普及は、20世紀音楽史における彼の真の位置づけを確立し、多様な文化が融合する現代社会において、新たな音楽的対話を生み出す上で極めて重要である。

(2026.7.13 公開)

アンドレイ・エシュパイ

 私のエシュパイとの関りは、専ら彼がフィン・ウゴル系の民族の一つであるマリ人の父を持ち、父の研究対象であったマリの民族音楽のイディオムに深く根差した作品を生み出した作曲家であるという点に拠るものである。例えば彼の第3交響曲は父親への追憶として書かれた作品だが、一聴して明確に聴き取ることができるように、その音楽は所謂「ロシア的」なものとは一線を画しており、マリの民族音楽のイディオムの影響は明確であろう。この点に関して、例えばかつてWebに存在したOnno van Rijenの Soviet Composer's Page(現在はWayback Machineのコピーで確認できる)のエシュパイの項目では、そのスタイルの説明として以下のような指摘をしていた。

His musical expressive means are very unusual due to his usage of the folklore of his native Mari people. Typically his colourful orchestral sound seems to distill the essence of the natural world of the far north. He uses syncopated rhythms; his rhythms seem to be related to the music of Bartok. He uses often alternations of ostinato-tuttis and rhythmic shifts from folklore music.(Andrei Eshpai, Internet Edition compiled by Onno van Rijen, Last update: 17 May 2007)

 彼の音楽の表現の特異性がマリの民謡に由来することから始まり、極北の自然のエッセンスを蒸留したかのような管弦楽法、シンコペーションを伴うリズム処理におけるバルトークの音楽との関わりに触れた後、もう一度オスティナートとリズム上のずらしの交替の利用がマリの民族音楽に由来するという指摘であるが、これは実際に彼の作品をある程度まとまって聞いた印象と概ね一致しており、首肯できるものと考える。この指摘が意味するのは、エシュパイの音楽にとってマリ人が住んでいる土地の風土や音楽的伝統が、単なる音による描写の素材であったりエキゾチックな雰囲気を醸し出す効果のための素材であるといった通俗化した「国民楽派」的なイディオムのレベルに留まらない、本質的なものであることを告げており、旧ソ連における文化の公式のイデオロギーであった「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」とは(その出発点はともかく結果としては)距離を措いたものであることを告げている。

 エシュパイの作品の幾つか、それも著名な幾つかを一聴してあからさまなジャズのイディオム面(特にリズム)や楽器編成上の活用は、旧ソ連においては退廃した西欧の文化の象徴としてしばしば排撃の対象となった筈であるが、ここではそうした文化的な記号として機能しておらず、同時に例えばシュニトケが「引用」を行った時のイデオロギーへの抵抗の身振りのようなものとも無縁で、奇妙に根無し草のような雰囲気を帯びていると私には感じられる。突飛な譬えと捉えられるかも知れないが、スクリャービンにおけるショパン的な作品ジャンルやイディオムが、もともとのショパンにおいては民俗的なルーツとの繋がりを持っていたものが、身体性を欠いた奇妙に抽象的なものに変容してしまっていることを思い浮かべてしまう。敢えて比較の対象を求めるならば、上に引用した文章で指摘されているバルトークの音楽(ジャズということならまず「コントラスツ」が思い浮かぶ)よりも、マルティヌーにおけるモラヴィア風のリズム処理の自在さとジャズ的なイディオムの奇妙な混淆の方が近いようにも思える。もっともこのことは寧ろ、単に私自身にとってジャズが疎遠なものであることに由来しているに過ぎないかも知れない。

 それに比べれば、マリの民族音楽も含めた地理的・文化的風土とエシュパイの音楽との関りの様相は私にとってずっと違和感のないものであるが、こちらはこちらで私がエシュパイの音楽に関心を抱いた経緯に拠ったものに過ぎず、そうした偶然的な要因を超えた何かがそこにあるかどうかは必要なら別途検討するべきであろうが、私のエシュパイへの関心はマリ人という民族やマリ語という言語への関心に先立たれていて、そこから謂わば派生したものなのである(そしてこれは例えばシベリウスやバルトークの場合とは順番が逆であり、ヤナーチェクの場合とは同じ順序であった)。それではマリ人への関心の由来はと言えば、私が音楽を聴き始めて間もなくの中学生になったばかりの頃に出会って強く魅了されたシベリウスの音楽が、直接民族音楽に由来する素材を用いるといった、いわゆる「国民楽派」の典型的なイメージとして思い浮かべるような仕方ではなく、だが明らかに西洋の音楽の伝統とは異なる時間の流れや風景を感じさせるものであり(それ故私が魅了され、今日なお聴き続けているシベリウスの作品は、マーラーによって「通俗的なまがいものの節まわしが例の≪北欧的≫な和声とやらという国民的ソースをまぶして料理されていた」(1907年11月2日付ヘルシンキ発のアルマ宛の書簡、引用は酒田健一訳の『回想と手紙』白水社版による)と評されたような初期の作品(正確を期すならば、ここでマーラーが言及しているのは、マーラーが聴いた10月29日夜のカヤヌス指揮のコンサートで演奏された交響詩『春の歌』op.16とアンコールとして演奏された『悲しきワルツ』であることが判明している)、フィンランドナショナリズムのアイコンとなった「フィンランディア」などではなく、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ』に取材した『クレルヴォ』や『レンミンカイネン』連作のような交響詩をはじめとする一連の作品群でもなく、最初に出会った作品である第2交響曲を除けば、後期の交響曲と交響詩「タピオラ」の数曲のみである)、結局のところその独自性の一部はフィンランドという国の地理的・歴史的条件やフィン人という民族の言語や文化的伝統に根差しているように思えたことが起点にあった。特に言語については、フィンランド語はヨーロッパで主流のインド・ヨーロッパ語族とは異なる系統の言語であり、(実はシベリウス自身の母語はスウェーデン語であり、フィンランド語は後から習得したものなのだが、にも関わらず)特に後期のシベリウスの音楽のリズムやアクセントに、フィンランド語の持つ、印欧語とははっきりと異なった特徴がこだましているように感じられたこともあって、フィンランド語をはじめとするウラル語族に関心を持つようになり、その中でも特に民族の故地と想定されるウラル山脈の西側に程近い、ヴォルガ川の沿岸に今なお居住するマリ人やモルドヴィン人、ウドムルト人といった民族と言語にも興味を持つようになったのがきっかけなのである。

 とはいうもののインターネット普及前で、海外の情報へのアクセス手段が限定されていた時代であり、ましてや冷戦の「鉄のカーテン」の向こう側について、地方都市に住む平凡な子供が入手できる情報は事実上皆無に近く、ようやくまとまった情報に接したのは、ウラル語学者の小泉保さんが公刊した『ウラル語のはなし』を入手したのが最初であったと記憶するから、昭和が終わり平成になってしばらくしての時期ということになる。同様にして、旧ソ連圏の作曲家とその作品に接することができるようになったのも、LPの時代が終わり、CDが急速に普及するのと並行して、ゴルバチョフが登場し、ペレストロイカが推進され、それまではカーテンの向こう側にあって手が届かなかった様々な情報へのアクセスが可能になってから以降のことである。

 だがそれ故にこそ一般的な了解としては、まさに上記のSoviet Composer's Pageの中で取り上げられていることが物語るように、寧ろエシュパイは所謂「旧ソ連(ソビエト連邦)」の作曲家の一人として紹介されてきたように思われる。エシュパイは1925年の生まれだからロシア革命後のソ連で生まれたことになるけれども、そのソ連が1985年のゴルバチョフのソ連共産党書記長就任以降、ペレストロイカの時期を経て1991年に崩壊に至るのと並行するように、1980年代中葉以降、ソ連圏の作曲家のうち、特にその後西側に亡命するなど、体制に順応的ではない作曲家の一群がECMレーベル等により西欧に紹介され、西側の「前衛」の行き詰まりに替わるようにして社会主義リアリズム一辺倒と思われていた鉄のカーテンの向こう側の多様な個性を備えた作曲家達に脚光が浴びるようになったのであったが、エシュパイの名前はその中に含まれることはなかったように記憶する。彼の経歴を辿ると、ソ連作曲家同盟書記として作曲家同盟の要職を占め、ソ連人民芸術家の称号(1981年9月)を受け、国家賞(1976年、マヤコフスキーの詩によるカンタータ «Ленин с нами»(『我々のレーニン』)およびピアノ協奏曲第2番)、レーニン賞(1986年、オーボエ協奏曲(1982)、«Песни горных и луговых мари»(『山地マリ・牧地マリの歌』, 1983)に対して)を受賞していることが確認できる。そしてこれら受賞作も含めた幾つかの作品については録音された演奏が存在して旧ソ連の国営レーベルのレコードとして知られていたようだから(それ故CDの時代を経てネットワーク経由でのダウンロードやストリーミングでの視聴が主流になる一方でLPレコードが再び持て囃されるようになった近年は、希少価値を持つとしてネットオークションなどでも時折見かけるようであるが、当時の私は辛うじて風変りな名前の作曲家がいるくらいの認識で、その作品に接することはなかったのだが)、その限りで寧ろソ連の有力作曲家の一人として、ペレストロイカの時代以前から「知る人ぞ知る」存在であったというべきなのだろう。

 ちなみにエシュパイのソ連作曲家同盟書記としての活動を伺わせる証言が、意外なところにあるので備忘を兼ねて紹介しておきたい。イヴァシキン編『シュニトケとの対話』(秋元里予訳, 春秋社)の第3章はショスタコーヴィチを巡っての対話から開始されるが、その後チシチェンコの話題になったところで、ソ連時代の作曲家同盟に纏わるエピソードが紹介される。その中で、この対談において唯一エシュパイへの言及が為される箇所がある(邦訳、p.125~6)。ヴォルコフ編の偽書『ショスタコーヴィチの証言』によってすっかり「悪役」として人口に膾炙することになった作曲家同盟議長フレンニコフに対する賛成投票をシュニトケが拒否した時に、チシチェンコが明確な擁護の姿勢を示したことが語られるのだが、そのくだりでエシュパイが登場するのである。以下、エシュパイが登録する箇所の前後を引用する。

I(イヴァシキン):理事会のメンバーとして選挙に参加したんですよね?

S(シュニトケ):ええ、1975年頃のことでした。面白いことに、選挙の前、アンドレイ・エシュパイから何度も電話がかかってきました。電話の内容は、「作曲家同盟書記に出世させてやる」「うんといったほうがいいぞ」ということでした。僕は、後悔しているのですが、初めは彼の言うとおりにしようかと思いました。でも、ありがたいことに、すぐ考えを改め、断るべきだと悟ったのです。

I:でも一時期、作曲家同盟の交響曲部会の会合を担当していましたね。

S:それは別の話です。僕はメンバーの一人として委員会に入り、一時期、二ヶ月ほど、公聴会を行っていました。

(イヴァシキン(編)『シュニトケとの対話』邦訳、p.125~6 )

チシチェンコについての話題はこれで終わって、次のやりとりではシチェドリンに話題が移ってしまうのだが、生涯の出来事について語る箇所でも、他の作曲家が話題になる箇所でもエシュパイへの言及はなく、あからさまにフレンニコフの「一味」、その「手下」という役割で描かれている上記の引用箇所が唯一の言及であることからして、シュニトケはエシュパイを自分に敵対する側の人間と看做している上に、作曲家としては全く評価していないということが窺える。イヴァシキンもシュニトケ本人も言及しておらず、注釈もないため、事前に予備知識がなければ知りようがないことだが、後述するようにシュニトケは、ラコフ、ゴルベフの門下であるという点においてエシュパイと同門であり、シュニトケ本人は勿論、イヴァシキンにとってもそのことは言わずもがなの前提知識であった筈である。そしてそのことを踏まえて、エシュパイの方がシュニトケに比べて10年年長であることから考えれば、エシュパイとしては同門の弟弟子に対して、或る種の気配りをしたということなのであろうが、反体制的な立場から見れば、エシュパイは体制に順応し、もしかしたら反体制派への迫害に関与した可能性すらある、胡散臭い存在ということになるのだろう。これもベルリンの壁の破壊に象徴される、旧ソ連および旧ソ連圏の崩壊の後、所謂東側で活躍し、名声を獲得し、ともすれば「芸術的良心」として語られさえした存在が、第二次世界大戦後のドイツでのネオナチへの加担の告発と同様に、体制側の秘密警察のスパイであったり、密告をこととする協力者であったといった事例が溢れた時期があった。そうした点で、旧ソ連の体制崩壊以前に出版されたこともあって一般に強烈な衝撃をもたらし、その後も影響力を持ったのは、ヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』だろうが、そこには上で言及したフレンニコフについての「証言」だけではなく、スターリンによる「形式においては民族的、内容においては社会主義的」といった硬直化した「社会主義リアリズム」のイデオロギーの下で、少数民族の作曲家が、その民族の自治共和国において権勢を恣にし、剰えその名前の下でゴーストライターによる作品の偽造さえ組織的に行われていることについての証言、しかもこのケースについては具体的に固有名まで明記した証言があった。(ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』, 水野忠夫訳の第5章「わたしの交響曲は墓碑銘である」にあるムスタル・アシュラフィ(参照文献の訳に従う。英語表記ではMukhtar Ashrafi)の例。 中公文庫版ではp.309以降。実はこの箇所は盗作についての話題の一部であり、ウィリアム・シューマンの或る交響曲をそのまま書き写して自作の交響曲として発表したさる女性作曲家に関する話題に後続している。『証言』では「少数民族」の作曲家に関するエピソードもそれなりの紙幅を費やして語られているが、この部分ではなくもっと後、第六章「はりめぐらされた蜘蛛の糸」に含まれている。但しそこでは特定の作曲家の固有名への言及は確認できる限りではないようだ。)現在では偽書説が確定したとはいえ『ショスタコーヴィチの証言』の証言内容の真偽は別問題であり、個別に検証される必要があるものの(そのせいか、ムスタル・アシュラフィはWikipepiaにエントリが存在するけれど、そこには『証言』での告発内容についての言及はないようだが、『証言』の内容のファクトチェックをやった研究者の報告である Allan B. Ho and Dmitry Feofanov, Shostakovichi's War, 2011, rev. 2014 では『証言』の内容を裏付ける証言が得られたという記述を見かけた。(同書の IV. Corroborating Testimony, 1. Shostakovich on Figures in His Life, c. Mukhtar Ashrafi の項、pdf版では p.100 以降。))、少数民族の作曲家が置かれた地位は、もともと極めて不安定で脆弱なものであったことは疑いなく、公然と批判の対象となったアヴァンギャルド(例えばロスラヴェッツのことを思い起こして頂きたい)と違って、一見したところイデオロギーと対立しないばかりか親和的でさえありうることから、却ってその態度においてショスタコーヴィチのような「ロシアの作曲家」の場合とはまた異なった屈折を孕まざるを得なかったことは疑いないだろう。エシュパイに話を戻せば、彼は「形式においては民族的」という側面に関して自分の民族的出自を利用する一方で、ロシアの作曲家」として振る舞うことで、想像を絶するような苛酷な体制の中を生き延びたかも知れないのである。今ではその良心を疑うものがないように見えるショスタコーヴィチでさえ『証言』が出る遥か以前から、体制順応派として否定する向きから、ダブルミーニングを駆使して内部で抵抗を行っているのだと擁護する向きまで、毀誉褒貶相半ばする状況であったことを思い起こしてもいいだろう。

 とは言いながら、だからと言って旧ソ連やロシアの外部の人間がエシュパイを「ロシアの作曲家」の一人として一括りにしてしまうことが正当化される訳ではない。これはECMレーベルで紹介された作曲家の一人でもあるグルジア出身のギヤ・カンチェリについて記した時に触れたことだが、かつて21世紀になって間もない頃、「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」というゴールデンウィークに開催される日本国内の音楽祭にて「ロシア音楽」がテーマになった年があった。新書の体裁をとった著名なロシア文学者の手になる「ガイドブック」では「ロシア音楽」の名の下、既にロシア連邦には所属していない、だがそれを言えば、旧ソ連の時代でさえロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の構成体ではなかった筈の国であったり、非ロシア人であることが明らかである作曲家が取り上げられていたのに違和感を抱いたことを記憶している。記憶する限り、ガイドブックで取り上げられるのは専ら既述の西側で有名になった作曲家たちであり、エシュパイは取り上げられていなかったと記憶しているが、上述のようにエシュパイはロシア連邦の構成主体の一つであるマリ・エル共和国(1990年に自治共和国から共和国への昇格を宣言)の作曲家であるだけでなく民族的にもマリ人の血をひいているわけだし、冒頭に引用したSoviet Composer's Pageの記述にもあるように、その音楽における出自の民族に由来する特徴は明らかなのだから、ガイドブックでもし取り上げられたらという仮定をするしないによらず、彼を「ロシアの作曲家」というラベルの下に括ってしまうのはエシュパイの場合にも無理があるように思われる。

 関連してもう一つ実際にあったことを書き留めておくと、これまたWeb上のさる著名なオンラインCDショップのサイトのエシュパイの紹介で、「父親の故郷、旧ソビエト・マリ自治共和国」という言い回しを見かけた。これだとまるでエシュパイ自身はマリ自治ソビエト社会主義共和国(出生当時の自治共和国名称)の生まれでないかのようだが、実際には彼はコジモデミヤンスクの生まれ、ここはマリ自治ソビエト社会主義共和国以来、今日のマリ・エル共和国に至るまでマリ族の自治共和国内にある。ヴォルガ川はカザンまでは西から東に向かって流れ、カザンで90度曲がって北から南に流れるのだが、マリ・エル共和国は東西に流れる部分の主として北岸を占め、その上流よりにあたる西の端の一部で南岸を含んで広がっている。共和国の首都ヨシュカル=オラが北岸の平地(後述のように「牧地マリ」と呼ばれる)にあるのに対し、コジモデミヤンスクはマリ・エル共和国の南岸に並行して広がるチュバシ共和国の首都チェボクサルよりも更に上流にさかのぼったマリ・エル共和国西端のヴォルガ川南岸の丘陵地帯(「牧地マリ」に対して「山地マリ」と呼ばれる)の中心都市なのだから、父親のみならずアンドレイ・エシュパイ本人も自治共和国の生まれなのである。

 アンドレイの父であるヤコブ・エシュパイはマリ人であり、自分の出自であるマリ族の民謡の研究家であった。一方アンドレイの母親はロシア人だから、ロシアではごく普通のことで、そうした族外婚が普通であることが少数民族にとっては民族のアイデンティティーを持つ人口を減少させる要因になりもするのだが、アンドレイはマリ人とロシア人の両方の血をひいているわけだから、その限りにおいて「ロシアの作曲家」という規定は必ずしも無根拠ではないことになる。更にアンドレイが最初に父親から音楽教育を受けた後に正規の音楽教育を受けたのはモスクワ音楽院(グネーシン音楽院)においてであり、ピアノをスクリャービン弾きとして著名なソフロニツキーに、作曲をシュニトケやデニソフ、ボリス・チャイコフスキーといった著名な作曲家の師でもあるラコフ、交響曲作家として著名なミヤスコフスキー、更にはミヤスコフスキーの弟子であり、これまたシュニトケの師でもあるゴルベフに学んだようであるし、後には短期間とは言え母校の教授も勤めていたようであり、更に没したのはモスクワであることを含め、彼が生きた「ミリュー」を考えれば、彼を「ロシアの作曲家」と呼ぶのは不当でないばかりか一定の正当性を備えているという主張を否定することは難しいだろう。ましてやマリ・エル共和国はロシア連邦の一部であり、マリ人はロシア連邦内の少数民族の一つである。更に言うならば、旧ソ連時代にマリ人を基幹民族とする自治共和国として成立し、更にソ連崩壊に際して主権宣言を行ってマリ・エル共和国になったとはいえ、今日のマリ・エル共和国においては僅差とは言えロシア人の方が人口が多く、しかも傾向として、1920年に成立したマリ自治州以来、当初こそマリ人の方が多かったとはいえ、マリ人は徐々に減少し続け、遂には逆転してしまったという経緯もある。マリ人の減少の原因は既述の族外婚などによるロシア人への同化であり、その傾向はソ連崩壊後一時弱まったものの近年再び強まっており、特に最近になって自治共和国内において基幹民族ではない(とはいいながら既述の通り、マリ・エルの場合には僅差ではあるが人口が最も多いのはロシア人なのだが)ロシア人の権利保護という名目で、公用語の地位にある少数民族言語の教育が必須でなくなったり、文化的領域を除いた公的な領域でのロシア語の優位が強化される傾向が顕著なようである。結果として公用語とは名ばかりで、利用機会は家庭とか地域コミュニティでの会話に限定されて公的な場ではロシア語で話すというダイグロッシアが日常化し、地方では使われていても都市部での利用頻度は低く、更には教育の場での地位が危うくなるのに応じて学校で子供が使うのもロシア語ばかりで民族固有の言語を使うことができない状況すら珍しくないという状況がますます強まることになる。マリ・エルに住んではいても、ロシア人にとってマリ・エルはロシアの一部に過ぎず、ヨシュカルオラはロシアの地方都市の一つであるというのがマリ・エルに住むロシア人の普通の認識のようでさえあるから、名ばかりの基幹民族に過ぎないマリ人との間の認識の溝には深いものがあるようだ。

 そうした言語のおかれた地位の不安定さのそもそもの原因は、旧ソ連の自治共和国の財政がソ連の予算に直接依存していたのを引き継ぐようにロシア連邦の予算へ依存しているために、自治共和国の政治体制は極めて保守的で、その政策がしばしば基幹民族である筈の少数民族に対してあからさまに抑圧的すらあることに存する。かつてはほとんど直接アクセスすることができず、情報も極めて乏しかったロシア連邦内の様子も、インターネットの発達の恩恵を被って、今では文字情報は勿論、画像や動画によって、かつては現地を訪れなければ知ることができない情報もひっくるめて、自宅に居ながらにしてアクセスできるようになっているのだが、インターネット経由で見ることのできる首都ヨシュカル・オラの中心部はマリ語での「赤い街」という意味の通りに赤い煉瓦の色がひときわ目立つ西洋風の真新しい建物が立ち並ぶ様が印象的でも、よく見ると人影もほとんどなく、利用されているかどうか怪しい建物があるかと思えば明らかに作りかけと思しき一角もありで、箱物ばかりが整備されても活用されず一向に賑わいが戻らない日本の地方都市を思わず思い浮かべてしまう。調べて見ると実際この街並みは、2001年から2017年まで長期に亘りマリ・エル共和国の首長にあたる政府議長をつとめたレオニード・マルケロフの肝いりで整備されたもので、現在も建設は継続されているものの、期待された経済効果を生み出すことなく負債ばかりが積み重なり、その果てにマルケロフが収賄容疑で逮捕されて首長が変わっても補助金頼みの体質が変わるわけでもなく、財政は膨大な赤字を抱えるばかりという状況のようである。マルケロフは新型コロナ禍の最中に罹患して死亡したロシアの極右政治家ジリノフスキーが率いていた「自由民主党」に所属し、その後首長在任中の2015年にロシアの政権与党である「統一ロシア」に鞍替えししているが、既に有罪が確定した汚職だけでなく、反体制派への暴力を伴う抑圧や少数民族の迫害の廉で批判が絶えない人物である。ちなみに彼はモスクワ生まれのロシア正教徒のロシア人であり、マリ・エル生まれでもなければマリ語も話せない。それまでの長い歴史に亘ってほぼ一貫してそうであったように、先住者のマリ人のもとに資源その他の利権を求めて外部からやって来て入植し、ほとんどの場合暴力をもって支配者となった人々の一人であると言えるのではなかろうか。Web上でしばしば欧風様式の美しい街並みといったコピーで紹介される一方で作りかけの(あるいは何かの事情で閉鎖されて間もない)テーマパークのようにも見えるヨシュカル・オラの中心の人気のない街区は勿論、第一義的には自治を認められた基幹民族のためではなく、ロシア系の支配者の虚栄の産物でしかないようにさえ感じられる。

 かつては鉄のカーテンの向こう側であった旧ソ連地域も今日では比較的容易に旅行して訪れることが可能になっていて、数は少ないとはいえ、Web上でマリ・エル共和国訪問の記事を幾つか確認できるが、その中にはヨシュカル・オラの駅周辺の警官の多さ、バザールでの写真撮影の禁止など、ヴォルガ川の下流側、東西から南北に向きを変える地点に位置するカザンやヴォルガ川北岸にあるヨシュカル・オラから見て対岸に位置するチュボクサル(既述の通りキリスト教に改宗したトルコ系民族の自治共和国であるチュバシ共和国の首都)といった周辺の都市と比較した時の特異な印象が記録されていたりもするし、本稿執筆時点では確認できなくなっているが、ロシア国内で邦人が被害者となった治安上のトラブルの事例としてヨシュカル・オラで発生した事案が掲出されていたこともあった。

 更にロシアのウクライナ侵攻が当初の予想に反して失敗し、ロシア軍の劣勢が隠しようがなくなった末に予備役動員にまで追い込まれるようになるにつれて、前線に送られて死傷したロシア兵の多くがロシア国内の少数民族の出身者で占められ、予備役徴集にあたっても同様に少数民族出身者が「狙い撃ち」されているといった報道を目にするようになった。ただし日本語で読むことができる記事で直接マリ人が対象となったものはほとんどなく、管見では2022年4月22日のKOREA ECONOMICSという京都のシンクタンクが運営しているWebニュースサイトで、マリ・エルの現地紙の報道に基づく記事を確認することができたのが唯一である。マリ・エルの現地紙「yocity12」の報道によれば、4月13日に戦没したロシア軍第6工兵連隊の指揮官ナガモフ大佐(享年41歳)は、ススロンゲール村生まれで地元の学校を卒業、ここ数年はヤロスラブリ州ロストフ市の工兵連隊の隊長を務めていたとのこと。この記事は「露軍上級将校がまた戦死 「第6工兵隊ナガモフ大佐が作戦中に殺害」現地紙」という見出しが告げているように、寧ろこれもそのころ盛んに報道されていたロシア軍将校の犠牲者の多さにフォーカスした記事なのだろうが、「(…)報道は、ロシア軍のウクライナ侵攻で死亡したヨシュカル・オラ(マリ・エルの首都)の原住民2人がすでに埋葬されたと伝えている。(…)」とも述べており、記事では「原住民」と呼ばれている少数民族、つまりここではマリ人の犠牲者が出ていることを証言する記事にもなっている。(なお、この記事の「原住民」という言葉には差別的な意図はなく、後述のように、マリ人は5世紀には現在居住している地域にいたことが考古学的な調査などで確認されており、その後この地に侵入してきた「タタール人」と総称されるモンゴル系やトルコ系の民族、更にその後に侵入してきたロシア人に対しては先住者であるのだから字義通りに捉えれば正確ですらあるのだが、そうしたニュアンスを感じる人がいるかも知れないという以上に、ロシアの自治共和国の構成主体となる少数民族を「原住民」と呼ぶことは管見の限りでは無いので、どうしてもぎょっとしてしまうのは避けがたい。)もう一つ、この記事を読んで思い浮かべたのは、後述するようにマリ人が紀元5世紀以来居住してきた地域は、色々な民族が通り過ぎ或いは支配した場所であり、しばしば戦乱の巷となったようだが、そうした歴史の中でマリ人は精強をもって知られたという記述が小泉保『ウラル語のはなし』にあったことである。曰く「チェレミス兵は勇猛の誉れが高く、その後も、国外の戦役にたびたび利用させられた。」(同書 p.40)とある。ここで「その」というのはイヴァン4世がカザンを攻略した時であり、「チェレミス」というのは近隣の別系統の民族によるマリ人の他称であるが、その名称の一部は「軍隊」を意味するらしい。ともあれそうしたマリ人の歴史を思い浮かべると、今回のウクライナ侵攻にマリ人が従軍していることは何ら珍しいことではなく、これまでの歴史の中で繰り返されてきたことに過ぎないのかも知れない。

 上述のような例は、それが事実であったとしても、マリ人だけに起きたことではないかも知れないし、マリ人だけに有意に高頻度ないし深刻なレベルで生じている訳ではないかも知れない。また例えばレオニード・マルケロフのケースにしてもそれは彼固有の個人的なものに過ぎず、例外なのではないかという冷静な反論があるかも知れない。実際、前者については、マリ人よりも遥かに深刻な状況に置かれている少数民族も数多いし、既に「死滅」してしまった民族もある中で、自治共和国の基幹民族であり、その言語もまた曲りなりにも公用語の地位を与えられ、特に近年インターネットでの発信や情報交換が可能になると、寧ろデジタル・ネットワークのヴァーチャルな空間の方での言語の利用や文化の発信が活発になるといった状況すら出てきており。結果として紙媒体の書籍としてのマリ語の文法書や辞書、教材へのアクセスを果たせずにいるうちに、Webでpdfで文法書がダウンロードできるようになり、オンライン辞書や翻訳システムが利用できるようになり、youtubeでマリ語の入門のヴィデオ教材が簡単に入手できるようになっているし、マリ・エルとマリ人、マリ語についてのロシア語以外での情報も飛躍的に増えている一方で、マリ語による発信や交流も行われていて、マリ語版のWikipediaもあれば、テキストコーパスの構築も進んでいる。民族固有の文化の継承を目的としたNPOもSNSやyoutube等を用いた発信をしており、こうした面だけを見ると現実の空間の中でのマリ語やマリ人が置かれている状況の深刻さが却って見えなくなってしまう懸念を抱く程である。ロシア連邦を構成する共和国、州や地方の政府の腐敗と様々な領域に及ぶ怠慢も特段マリ・エル固有の問題ではなく、寧ろロシア全体に蔓延しているとはいえ、既述の周辺地域の主要都市に比べた時のヨシュカル・オラの雰囲気は、一見して華々しいプロジェクトが行われている「進んでいる」地域のように見えるところに限って利権を巡っての癒着や争いを背後に抱えているという悪しきサンプルとなっているという見方もできて、マリ・エルの置かれた状況が決して前途に明るい展望が開けているとは言い難いように感じられる。

 既述のようにマリ人というのはフィン・ウゴル系の民族であり、ウラル山脈の西側のヴォルガ川流域あたりを故地として遠くフィンランドにまで辿り着いた民族グループのうち、故地のすぐ近くに留まったグループの一つ、ヴォルガ・フィン族の一部とされていて、5世紀頃には既に現在マリ・エル共和国のある場所に居住していたことが考古学調査等によって確実視されている。その後マリ人の居住地は、まず現在のヴォルガ・タタール人がその末裔とされるヴォルガ・ブルガールに支配されて以降、日本ではキプチャク・ハン国として知られるモンゴル族の国家ジョチ・ウルス、カザン・ハンといった国の領土となった。なおマリ人は、かつては寧ろチェレミス人と呼ばれることが多かったようだが、チェレミスというのはトルコ系のチュヴァシ人がマリ人を呼んだ他称に由来するらしい。一方「マリ」というのは自称であり、これもしばしばあるように、マリ語で「人」を意味している。マリ・エルというのも「マリ人の国」の意味のマリ語による自称である。ロシア人がこの地を支配するようになったのはようやく16世紀も後半に入ったモスクワ大公国の時代であり、こうした様々な民族との交錯の影響は、やはりフィン・ウゴル語族に属するマリ語に存在する大量の借用語が雄弁に物語っている他、形態論的水準および統語論的な水準においても語族を異にするトルコ系の言語の接触の痕跡が数多く指摘されている。(その具体的な様相について日本語で読める文献としては、小泉保『ウラル語のはなし』『ウラル語統語論』がある。)マリ語は幾つかの方言を持つとされるが、ヴォルガ川の北の平地にあるマリ・エル共和国の首都ヨシュカル=オラ(マリ語で「赤い街」の意味)を中心にヴォルガ川の北岸の平地で話されているのが「牧地マリ語」、南岸の丘陵地帯で話されているのが「山地マリ語」で、エシュパイの生まれたコジモデミヤンスクは「山地マリ語」が話される地域の中核的な都市なのである。

 冒頭に触れたレーニン賞受賞の理由となった«Песни горных и луговых мари»(1983)を『山地マリ・牧地マリの歌』と訳したのもそれ故なのだが、この分裂もまた、この地域でのタタールとロシアとの衝突の名残とされ、牧地マリがタタール人側に、山地マリはロシア側について、分かれて戦ったとされる。(このことは日本でも戦国時代に、家系断絶を避けるために兄弟が敵対する勢力に分かれて戦うといった事例を思い起こさせるが、マリ人は、近隣の同系の民族であるペルム人とは異なって統一的な国家を形成したわけでもなければ、侵入者を避け、故地を離れて居住地を移動することなく、その場に留まる選択をしたという点では一貫している(但し、その一部は遥かに東に移動して、本体とは遠く離れて散居する東マリ方言を話すグループを形成するようになったが)ので、これは単にマリ人を構成する部族ごとに与する勢力が異なったということに過ぎないようであり、寧ろ人類学で言うところの双分制度に近いものを背景としていると考える方が良いのかも知れない。)ちなみにマリ語の下位区分の方言については大きく4つを区別するのが一般的なようであるが、そのうちコジモデミヤンスクを中心とする山地マリ方言、首都ヨシュカルオラを中心とする牧地マリ方言は、旧ソ連時代の自治共和国において公用語としての地位を獲得し、規範となる標準語が存在して教育が行われ、キリル文字を若干拡張した正書法が定められて出版も行われているが、両者の中間地帯の北西部の方言と既述の通り、現在のマリ・エル共和国の領域の遥かに東に離れてタタールスタン共和国からバシコルトスタン共和国内にかけて点在する東方言とは公的な地位がないために、他民族の接触の中でその存続は危うい状況にあるようだ。また公用語の地位を持つ2つの方言も、確認できる限りではその状況は決して対等ではない。公用語の地位を形式的に持ちながら、その保全の状況は想像されるような安定したものでは決してないことについては既述の通りであり、常に他の言語との接触の中でも様々な意味合いで圧倒的な優位性を持つロシア語への置き換えの強烈な圧力に常にさらされ続けてきたし、今なおそうであるが故に、話者人口のような基本的なデータですら調査によってかなりの数値のばらつきを示していて状況を認識すること自体に困難があるというのが現実のようだ。現時点で最もそうした情報が集約されているWebサイトであるELP(Endengered Language Project)で確認できる限り、牧地マリ語の話者人口については4種類の調査結果があって、いずれも40万~50万人という値が得られているのに対し、山地マリ語は概ね5万以下で最小で3万、最も多い数値で6万6千人の話者を数える(なお、ELPのサイトでは、牧地マリ語は「東マリ語(Eastern Mari)」、山地マリ語は「Western Mari」という名称を用いていること、ここでは東マリ方言はエントリを持たず、北西マリ方言は区別されていないという点に留意する必要がある)。要するに概ね、牧地マリ語10に対し山地マリ語1という極めて偏った分布となっていて、山地マリ語の状況が牧地マリ語に比べて一層脆弱であるのは確実のようだ。

 そうした歴史の中でマリ人は宗教に関しては古来からの伝統的な信仰を強く保持していることで有名であり、近隣の非ロシア系民族でもキリスト教(ロシア正教)を信仰するようになる中で、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に書き留められ、その近くではエストニアの南東に居住するセトゥ人もまたその信仰を今なお堅持している多神教的な自然崇拝を今でも守っており、それゆえに(ウラル山脈から西を「ヨーロッパ」とする立場から)「ヨーロッパ最後の異教徒」と呼ばれることもあるようである。マリ人の伝統的な神話体系は今日では Jugorno と名付けられた民族叙事詩に纏められているが、その成立は遅く、ようやく21世紀になってからのことで、Anatoli Spiridonovにより編纂され、まずロシア語で2002年に出版された後、牧地マリ語に翻訳され、ついでエストニア語に翻訳されてから西側で一般に知られるようになったようだ。これは近隣のウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyが同じくロシア語でではあっても既に1920年代に書かれたのに比べると非常に遅く、寧ろソ連解体後の伝統信仰や伝統文化の復興の動き、特にかつての伝統的な自然崇拝を復興させる、ないし今日的な形態で再構しようとする「ネオペイガニズム(Neo Paganism)」の活動との関りで捉えるべきなのだろう。そうした動きはマリ人のみに限ったことではなく、旧ソ連圏のフィン・ウゴル系民族の場合、いずれもソ連解体後に活発化しているようだが、マリ人においては例えばMari Ushemという団体の活動を挙げることができる。他方、ウドムルトの民族叙事詩Dorvyzhyも、ウドムルト語への翻訳はようやく2004年になってからだし、エルジャ・モルドヴィンの民族叙事詩であるMastoravaは1994年にエルジャ語で刊行されていて、これは前二者に寧ろ先行していることになるが、これらもやはり同様に、ソ連解体後のそうした動きの一つとして捉えることができるだろう。

 そしてこの点は、フィンランド人であるシベリウスと、マリ人であるエシュパイの音楽に数多ある差異の中で、確かに感じ取れ、かつ極めて基本的な認識構造における共通点に通じているように思われる。フィンランド人は後にキリスト教を受容しており、そのことが『カレワラ』の末尾にマリア伝説が差し込まれ、カレワラの神話世界の終焉を示唆する構造になっているのだが、だからといって伝統的な習俗が全く失われたわけではないし、ヨーロッパ全体で程度の差はあれキリスト教の影響力が後退していく過程でネオペイガニズムが盛んな地域の一つとしてフィンランドを挙げることができるだろう。そして遥かに1世紀は時代を遡るシベリウスについてもそうした傾向に通じる面は確実にあって、伝記的・外面的な事実としてルーテル派を信仰するスウェーデン系フィンランド人の家系であるとはいえ、すっかり世俗化した生活を送っていたようだし、音楽作品への反映というアスペクトについても、ジャンルとしての「キリスト教=宗教音楽」の不在は作品リストを眺めていて直ちに気が付く特徴の一つだろう。シベリウスの『カレワラ』に取材した一連の作品群が今日のネオペイガニズムに影響を及ぼした可能性を考えることができる一方で、「キリスト教=宗教音楽」の不在を埋め合わせるかのようなフリーメイソンのための一連の作品の存在もまた無視することはできないだろう。だがそれよりも私にとって重要に思われるのは、交響曲や「タピオラ」といった標題性から距離をおいた抽象度の高い作品群においてはっきりと感じられる垂直方向の超越性の感覚の欠如である。要するにその音楽における宗教性の欠如は単に素材としての問題に留まらず、根源的な認識態度の問題なのだ。音楽は森の中に入っていくがこの世に留まる。秩序はこの世のものでありイデアルなものではない。トゥオネラとこの世は往還可能なものなので、それは寧ろ未知の土地に似ている。超越が垂直方向の運動であるとしたら超越はここにはない。勿論より大きな秩序というのは予感されるがその秩序は隠された次元であるわけではない。ある瞬間に日常的な風景がこの世ならぬものの息吹を受けて変容する奇跡のような瞬間はない。ほとんど人間的なものから離脱してしまいながら啓示とも奇跡とも無縁な音楽に定着された認識の様態は西欧的なものと根本的に異質なもののように感じられるのである。

 そして上記のような構造は、マリ人の伝統的信仰の存続とエシュパイの音楽に定着された認識の様態との間にも極めて類似したものが見出せるというのが私の印象である。エシュパイの音楽は、その抒情的で旋律的なブロックと、時として暴力的と感じられる程に強烈なビートを持つブロックとの対照からか、しばしば「爆裂系」という形容がされ、それは冒頭で検討した意味合いにおいて「ロシア音楽」の特徴の一つであり、従ってエシュパイの音楽はそうした「ロシア音楽」の一翼を担うという認識に通じているのかも知れないが、同じく「爆裂系」の音楽とされるカンチェリのそれが、その時間性においてユニークなものであり、肌理の粗い単純な類型化を拒んで、グルジアの風土に根差したものであるのと同様に、エシュパイのそれも、冒頭引用したOnno van Rijenの Soviet Composer's Pageの指摘にあるようにSoviet Composerの中にあってunusualなのであり、それはマリ人の認識の様態の特異性と構造的に対応しているのであろう。かくして同じ「爆裂系」であってもカンチェリとエシュパイのそれは全くといっていいほどに異質なもので、カンチェリのそれが人間の秩序とは異なった、時として超越的な何かに由来するもので、カンチェリの音楽が明示的にグルジア正教会の典礼音楽であるわけではないにせよ、否、寧ろそうであるが故に一層、グルジアの風土と極めて早期にキリスト教を受容したことで形成された世界の認識の様態の反映であるのと対照的に、エシュパイのそれは、より人間的な制度や社会構造がもたらす暴力と超越を欠いた多神教的な認識様式に基づくものに感じられ、際立って対照的でありながら、「爆裂系ロシア音楽」といった皮相な捉え方を拒む点では共通しているのではなかろうか。そしてエシュパイにおいては、そうした基本的な構造において類似したものを探すとしたらシベリウスが真っ先に思い浮かぶのである。

 従ってその共通性は、フィン族とマリ族が同じウラル系であるが故に、素材としての民族音楽に共通性があるからといった表面的な次元でのみ捉えられるものではない。そもそもシベリウスは素材として民族音楽を直接用いることを拒絶することについては極めて意識的であり、マーラーの批判にも関わらず自己を「国民楽派」の作曲家として規定することを拒絶していたし、学問的実証の水準で、地理的に隔たった同族の民族の音楽の間に起源を同じくするという意味合いでの通時的な関連を証明するのはこれまた全く別の水準の議論であって、フィン族とマリ族の民謡を少しばかり聞いて感じ取れたと錯覚する程度の類似は何の傍証にもなりえないことに留意すべきだろう。

 一般にマリ人の音楽について考える時、西洋のクラシック音楽の中ですぐに思い浮かぶのは、既述の通り他称に基づく民族別称であるチェレミスの名を冠したフィンランドの作曲家ウノ・クラミのチェロと管弦楽のための『チェレミス幻想曲』かも知れない。実際この作品はマリに取材したものであり、フィン族とマリ族の同族意識に基づくもののようだが、一聴したところ感じられるのは、こと私個人の印象に限っては、マーラーが初期のシベリウスの小品を聴いて感じ取った「紛い物」を聴かされているのではという微妙な違和感である。その一方で西進しヨーロッパに定着したウラル民族のもう一方の枝であるウゴル民族の一員であるハンガリー人(自称はマジャール人)の作曲家であり民族音楽の研究者でもあったコダーイとバルトークは、マジャール民謡とマリの民謡の幾つかの類似点を根拠にマジャール民族の音楽のルーツをヴォルガ川流域に求める仮説を立てている。実際にはこの仮説は弟子による現地調査に基づく検討の結果、既に今日では否定的な結論が出ているようだが、音楽の系統関係の同定というのは言語の系統関係の検証に比べてなお一層の方法論上の困難が伴うだろうし、学問的に厳密な系統関係については留保ないし否定的な見解が結論であったにしても、マリの民族音楽を聴いた印象がそうした仮説を呼び覚ますに足るような類型論的な共通性を備えていることまで否定し去るのは、それはそれで行き過ぎた挙措であろう。

 寧ろ音楽の類型・系統的な観点で一層興味深く、かつ謎めいて私に感じられるのは、音楽におけるポリフォニー的な側面の有無である。多様で複雑なポリフォニー様式を備えた民族音楽で著名なグルジア人であるジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか』は、単純なものから複雑なものへという一見自然に感じられる発展の方向性とは逆に、音楽は言語以前の起源の段階ではポリフォニックであり、言語獲得とともにモノフォニーが生じたという興味深い仮説を提唱した著作だが、そのポリフォニーとモノフォニーの地理的分布について述べた章の中で、ヴォルガ川流域についての記述を読むと奇妙なことに気付く。曰く、

「(ドローン・ポリフォニーは)ヴォルガ川とウラル山脈の間に住むモルドヴァ人とコミ人のあいだにも広く普及している。ウドムルト、バシキール、タタール、そしてチュヴァシにもポリフォニーの要素は存在している。」

ジョルダーニア『人間はなぜ歌うのか』p.42

とあるのだが、まず何れもフィン・ウゴル族であるモルドヴィン人(既述の通り、マリ人とと同じヴォルガ・フィン族であり、マリ人から見ると南側のヴォルガ川流域に広く拡散して居住している)とコミ人(フィン・ウゴル族の支脈のペルミ・フィン族に属し、かつてはペルミ公国という独立国を形成し、後には北方に移動することで後から侵入してきた他の民族による征服を免れた)については、ウラル山脈から見るとヴォルガ川の向こう側にあたる南西側に広範囲に散らばって居住するに至ったモルドヴァ人と、既述のタタール人の侵入を逃れるようにしてヴォルガ川流域から遥かに北方に移動したコミ人の居住地を「ヴォルガ川とウラル山脈の間」と呼ぶのことは、正確さの点で問題あるように思える。だがそれよりも奇妙なのは、コミ人と同じペルミ・フィン族であり、ウラル民族の故地と擬定される地域であるヴォルガ川の支流域に住み、マリ人と同様にタタール系の影響を強く受けたウドムルト人に加えていずれも同地域に居住するトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシへの言及があるにも関わらず、何故かマリ人への言及がないことであろう。歴史的に様々な民族が交錯し、今なお多くの民族が入り混じって居住する地域の特性か、民族や言語の系統毎に固有の特性を持つような単純な分布にはなっておらず、系統の異なる民族が接触することで宗教や文化を相手から摂取することはごく普通に起きているため、かなり地域の離れたコミとモルドヴァの共通性も、フィン・ウゴル族のウドムルト人とトルコ系の民族であるバシキール、タタール、そしてチュヴァシが音楽的に類似するのも不思議ではないのだが、それならば同じくこの地域のほぼ中心に位置するマリも含まれて当然に思われるにも関わらず、唯一マリだけが取り上げられていないのには奇異の念を抱かざるを得ない。

 そしてマリへの言及がないことを、不注意による言い落としなどではなく、文字通りに受け止めた時には、ヴォルガ川流域からウラル山脈の西側に居住する民族のうち、マリ人のみがポリフォニーに関しては周囲とはやや異なった音楽的伝統を持つという分析がなされていることになる。急いで付け加えなくてはならないのは、ここでの議論の対象は、コダーイやバルトークの仮説がそうであったような、起源に関する問いではないということである。そうではなく、起源や系統の議論は一旦排除して、飽くまでも類型的な観点での類似と相違を問題にしているのである。冒頭に引用したエシュパイの音楽のスタイルは、これも偶然かも知れないにせよポリフォニーの観点を含まない。だがもしそれが偶然であったとしても、結果としてポリフォニーに関する指摘がないこと自体が、控えめに言ってもマリ人の音楽がポリフォニーにおいて特段特徴的ではないか、ポリフォニックではないことを証言していると考えることができるだろう。但し、ジョルダーニアの著作の図を見る限りでは、仮にマリ人が周辺民族のポリフォニックな伝統とは異なる側面を持っていたとして、その特徴は、彼らを囲繞するスラヴ系のヘテロフォニーの類型に属していることになるのかも知れない点には留意すべきであろう。ポリフォニックでないとは言っても、一足飛びにモノフォニーというわけではなく、従ってモノフォニックとされるフィンランドやエストニア、ハンガリーの東部からルーマニアにかけての一帯との共通性を意味するわけでないかも知れないのである。結局のところ、周辺とは異なった特徴を持つ「孤島」のような地域にあって、よりによってまさに自分が知りたいと思っている対象についての情報だけが、まるで測ったかのようにぽっかりと抜け落ちているという状況の前に、茫然と立ち尽くす他ない。

 勿論こうした点についても、民族音楽学者であるならばともかく極東の異国に住む平凡な市井の徒である限り、かつてであればせいぜいが自分が偶然アクセスできた文献での記述に基づく検討のみに終始せざるを得なかっただろうし、よしんばそうした偶然に恵まれたとしても、どの見解が妥当であるかの判断など能くするところではないだろう。だが今日であれば実際にyoutube等でアクセスできるマリの民族音楽を自ら聴くことは可能である。とは言い乍ら、それではその結果として適切な判断が下せるかどうかはまた別の問題であって、専門的な知識がない人間が臆断を弄ぶことは慎むべきであろう。それ故ここではそうした学術的な見地での検討ではなく、その音楽に接した時に受ける「感じ」、その音楽を聴くことによって、そこに引き込まれることになる時間性の感受の様態を、引き込まれる側から記述することに留める他ない。実際にはマリ人のものだけではなく、近隣のウドムルト人のもの(「ブラン村のおばあちゃんたち」というユニットがひととき注目を集めたのは、実はウドムルトであったが)であったり、モルドヴィンの中でも特にエルジャ人の伝統的な音楽と言語や宗教を同時に比較しつつ聞いてみる限りでは、それらの間には明らかな共通性がある一方で、使用される楽器とか、ここで問題にしているポリフォニーのあり方には微妙な差異を認めることができるように思われ、従ってジョルダニアのくだんの記述が、単なる言い落としなのか意図的なものなのかは判然とし難いというのが正直な感覚である。強いて言えば概ね複数の人間によるコーラスの形態をとる近隣の民族の歌唱に比べると、マリ人のそれは、楽器の伴奏を伴った独唱の比率が高いように感じられるが、これが単なるサンプリングの過程で偶然生じた偏りに過ぎないのかどうかについては、結局のところ判断するに足る情報の持ち合わせがないことを認めざるを得ない。

 その限りで私にとってエシュパイの音楽は、上に述べたギャップを直接埋める代補として機能しているように感じられる。そしてそれがあくまでも代補であって、欠如しているピースそのものではありえないということは再び、シベリウスの音楽とフィンランドの民族音楽や文化、風土といったものとの関係を私に想起させる。結局のところフィンランドの風土や文化を見たというのはどちらかというと思い込みであって、そこに見出すことができるのがフィンランドの風土や文化の反映であったとしても、私にとって尽きせぬ魅惑の根拠となっているのはシベリウスが見出し感受した限りのそれであり、正確を期するならば、私が惹かれるのは、自己の外部の感受によってシベリウスという主体が立ち上がる様態そのもの、その時間性なのである。そのことを私がはっきりと自覚したのは、フィンランドの伝統的な民族音楽と並んで、シベリウス以外のフィンランドの作曲家の音楽を色々と聴いた末に、幾つかの例外を除けばシベリウスの音楽に含まれていて私を魅了する音調を見出すことができそうにないと感じた折のことだった。同様のことがエシュパイの音楽の中にも言えて、それがマリの風土や文化を素材としていること以上のものがあるように感じられるのである。それゆえ初期シベリウスの小品に対する或る意味では正当なマーラーの非難が後期のシベリウスの交響曲や「タピオラ」に対しては成り立たないのと同様に、エシュパイの音楽のすべてではないにしてもそのうちに一部には、「国民楽派」的な民族性ともスターリン的に定義づけられた社会主義的リアリズムにおける民族性とも異なった水準での特異性を認めることができるように思えるのである。

 その一方で、私にとってエシュパイの音楽をシベリウスのそれのように聴くことは困難なのだが、その理由を考えてみると、エシュパイの音楽には彼が生きた政治的な体制がもたらしたに違いない屈折が映り込んでいることにありそうである。しばしばエシュパイの音楽について言われる折衷性もまた、それを作曲者本人が積極的に選び取ったかとは恐らく無関係に、そうした屈折の直接的な産物だったのではなかろうか。無論これはエシュパイの音楽がシベリウスのそれに純度において劣っているとしてエシュパイの音楽の価値を切り下げることを意味しない。そのような態度は或る種無い物ねだりに過ぎず、寧ろ音楽そのものへのアクセスを妨げるものでしかないだろう。個別的な水準では、冒頭に触れてそこでは私個人の嗜好の問題として一旦整理したエシュパイの音楽におけるジャズ風の要素は、そうした屈折を証言するものなのかも知れない。特にそれが人が呼ぶところの「爆裂」に関わるのだとしたら、カンチェリとの比較のところで述べた外部から侵入する暴力が、エシュパイの場合には超越的で非人間的なものではなく、より人間的な水準の政治的な抑圧とか社会体制に基づくものであることを告げていると考えることができるのではないか。エシュパイその人が、そうした体制の中で、少数民族の出自という所与に基づき、生き延びるために受け入れた順応は、もしかしたら心理的には攻撃者への同一化のようなレベルにまで及んだのかも知れない。シベリウスの音楽は己の周囲で猛威を振るう陳腐なものに対して身を退き、おしまいには「謎の沈黙」と呼ばれる仕方で対抗したが故に、その音楽の中では生活の資を得るために書いた小品におけるキッチュな側面はあるとしても、彼がそこに己が寧ろ受動的に従うべき論理を見ていた交響曲作品、特に後期のそれら(ここには「タピオラ」が含まれると私は考える)には陳腐な要素は含まれていないのに対して、エシュパイの場合は、寧ろマーラーの場合に通じる(だがこれはエシュパイの音楽が、マーラーに似ているという意味では決してなく、屈折が音楽に避け難く映り込んでいるという構造上の同型性を言っているに過ぎないことは強調しておきたい)陳腐さの音楽そのものへの侵入が避け難かったということを証言するものと私には見えるのである。一方でエシュパイの音楽にはマーラーの音楽におけるような複層性や、バフチン的な意味合いでのポリフォニックな側面が欠けている。それ故私にとってエシュパイの音楽は、それに出会うことによって己の認識のモードが根こそぎ変容させられるような存在にはなり得なかった。だけれどもそれは決して旧ソ連で大量生産された類の陳腐化した社会主義リアリズムの貧弱でトリヴィアルな遺産ではない。一周回って再び、その音楽に接する時の何か割り切れない印象は、マリ人の置かれた状況をより詳しく知るにつれて感じる居心地の悪さと並行していて、エシュパイの音楽は、寧ろそれ自体が私にとっての「異邦人」、自分が直接対面することができず、直接歓待することもできない存在として立ち現れるものになっているのである。

 ここに及んで私は、この文章を書き記しておきたいという己の衝動が、そうした歓待の困難を証言しつつ、為しうる限りでの歓待の意の表明しておきたいという動機に駆動されていたことに気づくのである。それゆえこの文章は、そうした気づきを明記することで閉じられるべきなのだ。このようにして。

(2022.11.20初稿公開, 11.22加筆, 11.26『ショスタコーヴィチの証言』およびThe Shostakovich's Warについて加筆)

2026年7月12日日曜日

アルベリク・マニャール試論(2)作品

 第1章 作品総覧――創作活動の全体像


1. マニャール作品の特徴

アルベリク・マニャールは、生涯において決して多作な作曲家ではなかった。しかし残された作品群は極めて高い完成度を有している。交響曲、歌劇、室内楽、歌曲、管弦楽曲などジャンルは多岐にわたるが、そのいずれにも共通するのは厳格な構築性と精神的緊張感である。

また彼は自らの作品に対して極めて厳格であり、初期作品の一部を破棄している。そのため現存作品は少数であるにもかかわらず、創作理念の変遷を比較的明瞭にたどることができる。

作品全体を概観すると、

初期(1888–1893)

中期(1894–1903)

後期(1904–1914)

の三段階に分けることができる。この区分は単なる年代的整理ではなく、マニャールの芸術思想の成熟過程を示している。


2. 作品一覧  


Op.1 ピアノのための3つの小品(1887–1888)

  • 調性: 1. ハ短調、2. 変イ長調、3. ハ長調
  • 楽章: 1. コラールとフゲッタ、2. アルバムの綴り(優しく)、3. 前奏曲とフーガ
  • 献呈: 1. H.ド・ラ・ペルシュ、2.N.ド・ビエンヌ、3.テオドール・ド・ヴィゼワ
  • 演奏時間: 11分(4+3+4分)
  • 出版: 1890年(シュダン社)

マニャール最初の出版作品であり、パリ音楽院で本格的な作曲教育を受ける以前に完成した初期のピアノ曲集である。三つの小品はいずれも簡潔な形式にまとめられ、抒情的な旋律と均整の取れた構成を特徴とする。技巧的な華やかさよりも音楽的な品格と表現の節度が重視されており、若き作曲家の誠実な芸術志向がすでにうかがえる。習作的性格を残しながらも、後年の作品に通じる構成への配慮や明晰な書法の萌芽が認められ、マニャールの創作の出発点として位置づけられる。


Op.2 古典様式による管弦楽組曲(1888)

  • 調性: ト短調
  • 編成: 2.2.2.2. - 2.1.0.0. - ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器
  • 楽章:1.フランセーズ、2.サラバンド、3.ガヴォット、4.メヌエット、5.ジーグ
  • 演奏時間: 13分(4+2+2+3+2分)
  • 献呈: 継母オランプ・ブロワイエ=マニャール夫人
  • 出版: 1892年(フィリップ・マケ社)

本格的な管弦楽作品としては最初期に属する作品で、バロックや古典派の組曲形式を範としながら、近代的な管弦楽法によって再構成されている。各曲は明快な構成と均整の取れた書法を特徴とし、華美な効果よりも音楽そのものの論理性と品格が重視されている。フランス近代音楽における新古典主義を先取りした作品ではないものの、古典的形式への深い敬意と構築性への志向は、後年の交響曲や室内楽にも一貫して受け継がれるマニャールの重要な創作理念を示している。


Op.3 6つの詩の音楽(1887–1889)

  • 調性: 1. 嬰ヘ短調、2. 嬰ト短調、3. 変ロ短調、4. 変ホ短調、5. 変ホ長調、6. 変ホ短調
  • 歌詞: 1,2,4. マニャール、3. ミュッセ、5. ホラティウス、6. ロパルツ
  • 楽章: 1. 彼女に!、2. 祈祷、3. ドイツのライン、4. 夜想曲、5. バンドゥシアの泉に、6. 詩人に
  • 演奏時間: 20分(5+3+4+3+2+3分)
  • 献呈: 1.アンリエット・ド・ボニエール、2.J.ラカズ嬢、3.ピエール・ボワイエ、4.ピエール=ルネ・ヒルシュ、5.アンリエット・ド・ボニエール、6.ギィ・ロパルツ
  • 出版: 1891年, 1915年(シュダン社)

マニャール最初の歌曲集で、1887年から1889年にかけて作曲された。フランス歌曲の伝統を踏まえた繊細な語法を基礎としながら、詩の韻律や情感に寄り添う自然な旋律と、簡潔ながら洗練されたピアノ伴奏が特徴である。華美な効果を避け、詩の内容を誠実に音楽化しようとする姿勢は、後年の歌曲や歌劇にも通じる創作理念の萌芽を示している。初期作品ながら、マニャールの抒情的な資質と文学への深い関心を知る上で重要な作品である。


Op.4 交響曲第1番 ハ短調(1889–1890)

  • 編成: 3.3.3.4.(+3サックス) - 4.4.3.1. - 2ハープ、ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングル - 弦楽器(16.16.14.12.8)
  • 楽章:1.Strepitato、2.Largo、3.Presto、4.Molto energico
  • 演奏時間: 31分(10+9+4+8分)
  • 献呈: ヴァンサン・ダンディ
  • 出版: 1894年(E.ボードゥ社)

マニャール最初の交響曲であり、ヴァンサン・ダンディに師事して間もない時期に完成した。本作にはフランク派の循環形式やワーグナーの影響がなお認められるものの、緊密な主題構成と対位法的処理への関心はすでに明確に現れている。若々しい情熱と力強い推進力に満ちた作品であり、とりわけ終楽章では全曲を統一する構築的な発想が示される。後年の交響曲ほどの様式的成熟には至っていないが、マニャールが本格的な交響曲作曲家として出発したことを示す意欲作である。


Op.5 歌劇《ヨランド》(1890–1891)

  • 台本: 作曲者自身
  • 演奏時間: 59分(1幕)
  • 出版: 1892年(声楽スコア、シュダン社)
  • 献呈: 友人オーギュスタン・サヴァール
  • 備考: 管弦楽スコア散逸

マニャール最初の歌劇で、作曲者自身の台本による。幻想的で詩情豊かな物語を題材とし、ワーグナーやフランク派の影響を受けた流麗な音楽と、劇的な表現を重視した管弦楽法が特徴である。上演機会には恵まれなかったものの、舞台作品における作曲技法を本格的に試みた意欲作であり、後年の《ゲルクール》や《ベレニス》へと発展する歌劇創作の出発点として重要な位置を占める。


Op.6 交響曲第2番 ホ長調(1892–1893、1896年改訂)

  • 編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 楽章(改訂版):1.序曲、2.ダンス、3.歌と変奏、4.終曲
  • 楽章(原版):1.序曲、2.フーガとダンス、3.歌と変奏、4.終曲
  • 演奏時間: 改訂版40分(11+6+14+9分)
  • 献呈: ジュール・ボルディエ(アンジェ芸術協会創設者)
  • 備考: 原版49分(11+13+16+9分)

第1番に続く二作目の交響曲で、1896年の改訂を経て完成度が高められた。フランク派に由来する循環形式を基盤としつつ、主題相互の有機的な関連や対位法的処理はより緊密となり、管弦楽法にもいっそうの洗練が認められる。力強さと抒情性を兼ね備えた充実した作品であり、第1番に見られた師ダンディらの影響を踏まえながらも、マニャール自身の個性が明確に現れ始めた交響曲として重要な位置を占める。


Op.7 《散歩》 ピアノ組曲(1893)

  • 調性: 1. 嬰ハ短調、2. ハ長調、3. ホ長調、4. ホ短調、5. 変ロ長調、6. 嬰ハ短調、7. 嬰ハ長調
  • 楽章: 1. 献呈(優しく)、2. ブローニュの森(優雅に)、3. ヴィルボン(神秘的に)、4. サン=クルー(率直に)、5. サン=ジェルマン(愛らしく)、6. トリアノン(幅広く-美しく)、7. ランブイエ(結婚行進曲風に)
  • 献呈: J.D.(詳細不明)
  • 演奏時間: 26分(3+2+3+2+5+4+7分)
  • 出版: 1894年(デュラン社)

性格の異なる小品から成るピアノ組曲で、題名が示すように、散策の折々に触れる自然や情景の移ろいを繊細な筆致で描き出している。各曲は簡潔で明確な性格を備えながらも、有機的に結び付いて一つのまとまりある作品世界を形成しており、詩情豊かな表現と古典的な均衡感覚が見事に調和している。交響曲や歌劇とは異なる親密で内省的な世界を示すとともに、マニャールの抒情的な感性と構成への意識とが結び付いた、代表的なピアノ作品の一つである。


Op.8 フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットとピアノのための五重奏曲 ニ短調(1894)

  • 演奏時間: 35分(11+8+6+10分)
  • 献呈:オクターヴ・マウス(美術評論家、『L'Art Moderne』誌編集者)
  • 出版: 1904年(マニャール自費出版)

木管四重奏にピアノを加えた独特の編成による室内楽作品であり、マニャールの室内楽創作における最初の本格的成果の一つである。各楽器の個性を生かした精緻な書法と均衡の取れたアンサンブルを特徴とし、緊密な主題構成と豊かな対話によって全曲が有機的に統一されている。色彩的な響きを追求する同時代フランス音楽とは一線を画し、明晰な構成感覚と充実した内容を備えた作品として、マニャールの室内楽作家としての力量を示す代表的作品の一つに数えられる。


Op.9 《葬送歌》 変ロ短調(1895)

  • 編成: 2.2.2.2. - 4.1.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 15分
  • 献呈: 「父の追憶に」
  • 出版: 1904年(マニャール自費出版)

1894年に没した父フランシス・マニャールを追悼して作曲された管弦楽作品である。深い悲しみを湛えながらも、感情の激しい噴出よりは気高く抑制された表現を特徴とし、緩やかな主題の展開と緊密な構成によって厳粛な雰囲気が一貫して保たれている。管弦楽も華美な効果を避け、重厚で均衡の取れた響きを生み出しており、私的な追悼を普遍的な音楽表現へと昇華した作品として、マニャールの管弦楽作品の中でも独自の位置を占めている。


Op.10 《序曲》 イ長調(1894–1895)

  • 編成: 2.2.2.2. - 4.2.0.0. - ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 12分
  • 献呈: ルイ・アルナヴォン
  • 出版: 1904年(マニャール自費出版)

独立した演奏会用序曲として作曲された管弦楽作品であり、交響曲とは異なる単一楽章の中に、緊密な構成と豊かな展開力を凝縮している。明快な主題処理と充実した対位法的書法、均衡の取れた管弦楽法には、この時期のマニャールの円熟した作曲技法がうかがえる。劇的な推進力と抒情的な叙情性とを兼ね備えた作品であり、交響曲や《葬送歌》と並んで、中期の管弦楽創作を代表する重要な作品の一つである。


Op.11 交響曲第3番 変ロ短調(1895–1896)

  • 編成: 2.2.2.2. - 4.2.3.0. - ティンパニ - 弦楽器
  • 楽章:1.導入と序曲、2.ダンス、3.牧歌、4.終曲
  • 演奏時間: 40分(14+5+11+9分)
  • 献呈: エステル・フォルティエ=メール
  • 出版: 1902年(マニャール自費出版)

マニャールの代表作として広く知られる交響曲であり、その創作の充実期を象徴する作品である。四楽章は循環主題によって緊密に結び付けられ、精緻な対位法と充実した管弦楽法によって、高度に統一された音楽世界が築かれている。一方で、力強い劇的表現の中には、田園的な安らぎや自然を思わせる抒情性も織り込まれ、作品全体に豊かな精神的広がりを与えている。壮大な構成感覚と深い詩情とが見事に融合した本作は、フランス近代交響曲を代表する成果の一つであるとともに、マニャールの交響曲創作の中核をなす作品として高く評価されている。


Op.12 歌劇《ゲルクール》(1897–1901)

  • 台本: 作曲者自身
  • 編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 184分(3幕)
  • 献呈: ギィ・ロパルツ
  • 出版: 1904年(声楽スコア、マニャール自費出版)
  • 備考: 第1幕と第3幕の原オーケストラスコア散逸。ギィ・ロパルツが1915-1916年に復元

マニャール自身の台本による全3幕の歌劇であり、《ヨランド》に続く本格的な舞台作品である。主人公ゲルクールの死後の遍歴を通して、人間の自由、愛、社会の再生をめぐる壮大な思想劇が展開される。ワーグナーの楽劇から影響を受けつつも、それを単純に模倣することなく、緊密な構成、精緻な管弦楽法、豊かな対位法を備えた独自の音楽語法を確立している。《ベレニス》と並ぶマニャールの代表的歌劇であり、その舞台芸術を理解する上で欠かすことのできない重要作である。


Op.13 ヴァイオリン・ソナタ ト長調(1901)

  • 演奏時間: 42分(13+12+4+13分)
  • 献呈: ウジェーヌ・イザイ
  • 出版: 1903年(マニャール自費出版)

マニャール円熟期を代表する室内楽作品であり、ヴァイオリンとピアノが対等な立場で緊密な対話を繰り広げる充実したソナタである。明快な主題構成と精緻な対位法的書法によって全曲は有機的に統一され、伸びやかな抒情性と古典的な均衡感覚とが高度に調和している。両楽器の技巧を効果的に生かしながらも華美な効果に流れることなく、内面的な表現と構成美を追求し、明晰で伸びやかな音楽世界を築き上げている。弦楽四重奏曲と並ぶマニャールの室内楽を代表する傑作として高く評価されている。


Op.14 《正義への讃歌》 ロ短調(1901–1902)

  • 編成: 3.2.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 15分
  • 献呈: エミール・ガレ(ナンシー派、アール・ヌーヴォーのガラス工芸家)
  • 出版: 1904年(ピアノ縮約版1903年、マニャール自費出版)

ドレフュス事件を背景に、正義と真理への揺るぎない信念を音楽によって表明した管弦楽作品である。厳粛な序奏に始まり、緊密な主題展開と充実した管弦楽法によって、力強い高揚感と深い精神性を備えた音楽世界が築かれている。標題的内容をもちながらも、感情的な描写に傾くことなく、普遍的な倫理的理念を格調高く表現している点に本作の特色がある。マニャールの芸術と人格とが最も明確に結び付いた作品の一つであり、その人道主義的・理想主義的な精神を象徴する代表的管弦楽作品として高く評価されている。


Op.15 《4つの詩の音楽》(1902)

  • 調性: 1. ヘ短調、2. 嬰ハ長調、3. 変ロ長調、4. ヘ短調
  • 歌詞: すべてマニャール作詞
  • 楽章: 1. 私は母の口づけを知らなかった、2. 愛のバラがあなたの頬に咲いた、3. 笑う子、生き生きとした子、4. 死が来る時
  • 演奏時間: 18分(6+4+4+4分)
  • 献呈: J.M.(詳細不明)
  • 出版: 1903年(マニャール自費出版)

円熟期に作曲された歌曲集であり、初期の《6つの詩の音楽》を受け継ぎながら、詩と音楽との結び付きはいっそう緊密で洗練されたものとなっている。繊細な旋律と簡潔で精妙なピアノ書法によって、詩の情感や韻律が自然なかたちで音楽へと昇華され、抒情性と構成感覚とが高度に調和した作品世界が築かれている。華美な表現を避けつつ、内面的で格調高い詩情を湛えた本作は、マニャールの歌曲創作を代表する作品の一つとして高く評価されている。


Op.16 弦楽四重奏曲 ホ短調(1902–1903)

  • 演奏時間: 41分(13+6+11+11分)
  • 献呈: 「レイモン・ダブザックの追憶に」
  • 出版: 1904年(マニャール自費出版)

マニャールの室内楽創作の頂点をなす作品であり、フランス近代室内楽を代表する弦楽四重奏曲の一つである。四声部は完全に対等な立場で緊密な対話を繰り広げ、精緻な対位法と有機的な主題展開によって、全曲を貫く強固な統一が実現されている。厳格な構成の中に深い抒情性と豊かな精神性が息づき、緊張感と静謐さとが高度な均衡のうちに融合している点に本作の特色がある。古典的な四重奏の伝統を受け継ぎながら独自の様式を確立した作品として、マニャール芸術の最も重要な成果の一つに数えられている。


Op.17 《ヴィーナスへの讃歌》 変ホ長調(1903–1904)

  • 編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 14分
  • 献呈: 妻ジュリア・マニャール
  • 出版: 1906年(マニャール自費出版)

古典神話のヴィーナスに着想を得た管弦楽作品であり、愛と美の理念を気品ある音楽によって表現している。円熟した管弦楽書法と緊密な主題構成によって統一感のある音楽世界が築かれ、豊かな抒情性と明晰な構成感覚とが高度に調和している。華麗な色彩効果に依拠することなく、節度ある響きの中に理想化された美を描き出した作品であり、《正義への讃歌》と並んで、マニャールの理念的な管弦楽作品を代表する一作である。


Op.18 ピアノ三重奏曲 ヘ短調(1904–1905)

  • 演奏時間: 36分(8+10+5+13分)
  • 献呈: ポール・プジョー
  • 出版: 1906年(マニャール自費出版)

マニャール円熟期を代表する室内楽作品であり、弦楽四重奏曲と並んでその室内楽創作の頂点をなす作品である。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの三者は完全に対等な立場で緊密な対話を繰り広げ、精緻な対位法と有機的な主題展開によって全曲が高度に統一されている。力強い構成感覚の中に豊かな抒情性と温かな歌心が息づき、緊張感と親密さとが見事な均衡を保っている。古典的な室内楽の伝統を継承しつつ独自の様式を完成させた作品として、マニャール芸術の最も成熟した成果の一つに数えられている。


Op.19 歌劇《ベレニス》(1905–1908)

  • 台本: ラシーヌの悲劇に基づく
  • 編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - 2ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 演奏時間: 138分(3幕)
  • 献呈: ギィ・ロパルツ
  • 出版: 1909年(声楽スコア、マニャール自費出版)

マニャール自身の台本による全3幕の歌劇であり、その舞台作品の頂点をなす代表作である。ラシーヌの悲劇に基づき、ローマ皇帝ティトゥスと王妃ベレニスとの愛と別離を通して、愛と義務、個人の幸福と国家的責務との葛藤が格調高く描かれている。簡潔に磨き上げられた劇構成と緊密な音楽構成、精緻な管弦楽法、豊かな対位法とが高度に融合し、深い抒情性と精神性を湛えた独自の音楽世界を築いている。フランス抒情悲劇の伝統を現代的に継承した傑作として、《ゲルクール》と並び、マニャールの歌劇創作を代表する最高の成果の一つに数えられている。


Op.20 チェロ・ソナタ イ長調(1909–1910)

  • 演奏時間: 25分(8+3+7+6分)
  • 献呈: ガストン・カロー(マニャールの最初の伝記作者)
  • 出版: 1911年(マニャール自費出版)

マニャール晩年を代表する室内楽作品であり、その円熟した室内楽様式を集大成した傑作である。チェロとピアノは対等な立場で緊密な対話を繰り広げ、精緻な対位法と有機的な主題展開によって、簡潔ながらも密度の高い音楽世界が築かれている。深い内省性と気品ある抒情性、古典的な均衡感覚とが高度に融合し、静かな精神的充実を湛えた作品となっている。弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲とともに、マニャールの室内楽創作を代表する重要な成果の一つに数えられている。


Op.21 交響曲第4番 嬰ハ短調(1912–1913)

  • 編成: 3.3.3.2. - 4.3.3.0. - ハープ、ティンパニ - 弦楽器
  • 楽章:1. Modéré - Allegro、2.Vif、3.Sans lenteur et nuancé、4.Animé
  • 演奏時間: 37分(11+5+13+8分)
  • 献呈: 「女性音楽教師・作曲家連盟(UPFC)へ」 
  • 出版: 1918年(ルアール・ルロル社)

マニャール最後の交響曲であり、その交響曲創作の頂点を示す円熟期の傑作である。四楽章は緊密な主題展開と高度に統一された構成によって有機的に結び付けられ、精緻な対位法と充実した管弦楽法が壮大な音楽建築を形成している。深い精神性と気品ある抒情性、力強い生命感と静かな内省とが高度な均衡のうちに融合し、簡潔さと充実感を兼ね備えた独自の交響世界を築き上げている。フランス近代交響曲を代表する傑作であり、第3交響曲と並んでマニャール芸術の最高の成果の一つに数えられている。


2. 補遺 作品番号を持たない作品


En Dieu mon espérance et mon espée pour ma défense 変イ長調 (1888)

  • 編成: ピアノ独奏
  • 演奏時間: 5分
  • 出版: 1889年(『フェンシング年鑑』)


A Henriette ホ短調 (1890-1891)

  • 編成: 歌とピアノ
  • 演奏時間: 4分
  • 出版: 1892年(『フィガロ・ミュジカル』)


マニャールは作品番号を付した21作品のほかにも、作品番号を持たない小規模な作品をわずかに残している。その代表例が、ピアノ曲《En Dieu mon espérance et mon espée pour ma défense》(1888)と歌曲《A Henriette》(1890–1891)である。前者はフェンシング年鑑のために作曲・出版された特異な作品であり、フェンシングを愛好したマニャールの一面を伝えている。後者は『フィガロ・ミュジカル』に掲載された単独歌曲で、初期の歌曲創作を補う作品として位置付けられる。いずれも規模は小さいが、作品番号付き作品とは異なる出版形態を持つ点で興味深い。 


3. 創作史の総括


マニャールの創作は、交響曲、歌劇、室内楽、歌曲、管弦楽曲という多様なジャンルに及びながら、一貫して古典的均衡感覚と緊密な構成、対位法的思考、そして高い倫理性と精神性を追求した点に大きな特色がある。各ジャンルにおいて独自の様式を確立したその作品群は、フランス音楽史の中でも特異な位置を占めている。 

マニャールの創作活動を俯瞰すると、一貫して見られるのは精神的理想への志向である。初期作品におけるワーグナー的情熱は、中期作品では交響的構築へと昇華され、後期作品ではさらに倫理的・哲学的深みを獲得する。その歩みは単なる様式的発展ではない。それは芸術を通じて人間精神の真実に到達しようとする不断の探究であった。この探究は交響曲第4番と《ベレニス》において頂点に達し、1914年の突然の死によって中断された。しかし残された作品群は、20世紀初頭フランス音楽の最も高貴な精神的遺産の一つとして今日まで生き続けているのである。


第2章 交響曲――精神の建築としての交響曲


1. マニャールと交響曲


アルベリク・マニャールの創作活動の中心に位置するのは、疑いなく4曲の交響曲である。19世紀末のフランスでは、交響曲は必ずしも主要ジャンルではなかった。オペラが音楽文化の中心を占め、器楽作品はドイツ音楽の領域と見なされることも少なくなかった。そのような状況の中で、セザール・フランクはフランス交響曲の再建を目指し、その理念はダンディやショーソン、デュカス、そしてマニャールへと継承された。

しかしマニャールは単なる伝統の継承者ではない。彼の交響曲はフランク派の循環形式を受け継ぎながらも、より巨大で精神的な構築体へと発展している。そこでは主題は単なる旋律ではなく、一種の理念として機能する。各楽章は独立した性格を持ちながらも、全体として一つの精神的ドラマを形成している。その意味でマニャールの交響曲は、「音による精神の形成過程」と呼ぶことができる。


2. 交響曲第1番 ハ短調 Op.4


青年期の野心

1889年から1890年にかけて作曲された第1番は、24歳の青年作曲家による意欲的な試みである。1891年4月18日、ソシエテ・ナショナルで最初の二楽章が初演され、全曲の初演は1893年3月12日、アンジェ芸術協会によって行われた。作品全体にはフランクやワーグナーの影響が明瞭に認められ、特に主題の動機的発展や和声進行にはドイツ・ロマン派の影響が色濃く現れている。しかし同時に、後年のマニャールを特徴づける構築志向もすでに存在する。


主題統一への志向

第1番では複数の主題が相互に関連しながら展開される。この手法は後年の循環形式ほど洗練されてはいないが、作品全体を統一しようとする意識は明確であり、ヴァンサン・ダンディの厳格な指導のもとで作曲されたこの作品では、根源的主題が全楽章にわたって変容を重ねながら姿を現す。マニャールにとって交響曲とは、異なる楽章の集合ではなく、一つの生命体であった。


評価

第1番は成熟作ではない。研究者の間でも「主題上の難題を抱える作品」と評されることが多い。しかし後の交響曲群の萌芽を知る上で極めて重要であり、そこにはすでに、精神的統一への志向と巨大な構築への憧れが見出される。


3. 交響曲第2番 ホ長調 Op.6


構築性の成熟

1892年から1893年にかけて完成し、1896年2月9日にナンシーで初演された後、ただちに改訂され、最終版は1899年5月14日、マニャール自身の指揮による自主コンサートで初演された第2番では、作曲技法が大きく前進する。形式感覚はより安定し、主題処理も洗練されている。第1番に見られた試行錯誤は後退し、交響曲全体を統御する明確な構想が現れる。


光への志向

ホ長調という調性選択も象徴的である。この作品には後年の悲劇的緊張よりも、明るさと前進性が感じられる。主題はしばしば上昇運動を伴い、音楽全体が発展と成長の方向へ向かう。ここには青年マニャールの理想主義が反映されている。


フランク派からの離脱

第2番は依然としてフランク派の影響下にある。しかし旋律処理やオーケストレーションには独自の個性が現れ始め、マニャールはここで初めて、自らの交響語法を獲得しつつあった。


4. 交響曲第3番 変ロ短調 Op.11


最初の傑作

1895年から1896年にかけて作曲され、1899年5月14日に作曲者自身の指揮で初演された第3番は、一般にマニャール最初の本格的傑作と評価されている。ここで彼の交響様式はほぼ完成を見る。作品全体には圧倒的な統一感が存在し、各楽章は独立しているにもかかわらず、全体として一つの巨大な精神的運動を形成している。


循環形式の完成

第3番では主題が作品全体を貫いている。しかしそれは単なる反復ではない。主題は経験を積み重ねながら変容し、最終的に新たな意味を獲得する。この過程はまるで人格形成のようである。音楽は固定された存在ではなく、時間の中で自己を変化させる生命体として扱われている。


精神的ドラマ

この作品においてマニャールは、外面的な物語ではなく内面的なドラマを描いている。葛藤と克服、不安と確信、分裂と統合――それらが抽象的な交響形式の中で展開される。そのため第3番はしばしば「精神の旅」と形容される。


5. 交響曲第4番 嬰ハ短調 Op.21


晩年の総決算

1912年から1913年にかけて完成し、1914年4月2日、音楽院旧ホールで作曲者自身の指揮により初演された第4番は、マニャール最後の交響曲であり、多くの研究者によって最高傑作と評価されている。ここには20年以上にわたる交響曲創作の成果が集約されており、形式、和声、対位法、オーケストレーション、そのすべてが極めて高度な水準に達している。それまでとは異なり、マニャールは下書きをピアノ譜に描くことなく、直接管弦楽譜に作曲するという新しい方法でこの曲に取り組んでおり、結果として独特の表現の自由と音の味わいを獲得している。


建築的構造

第4番を特徴づけるのは巨大な建築性である。作品全体は厳密な論理によって支配されているが、その論理は冷たい機械的構造ではなく、むしろ生きた有機体のように成長し続ける。主題は変容し、相互に関係し、新しい意味を獲得していく。


悲劇と超克

作品全体には深い悲劇性が漂うが、それは絶望ではない。むしろ苦悩を通して高次の統一へ向かう運動である。この特徴はベートーヴェン後期作品やブルックナー後期交響曲を想起させるが、マニャールの場合、その超克は宗教的救済というより倫理的自己形成として表現されている。


最終楽章

終楽章では、それまでの対立や葛藤が統合へ向かう。ここで達成される勝利は英雄的というより精神的であり、外界の征服ではなく、自己との和解によって獲得される。その意味で第4番は、マニャール芸術の最も純粋な表現である。マニャールがこの作品をパリで指揮したのは、彼が最後にパリで姿を見られた機会でもあった。その数週間後、第一次世界大戦が勃発する。


6. 「精神の建築」としての交響曲


マニャールの交響曲を通観すると、一つの特徴が明らかになる。彼は交響曲を感情表現の器としてではなく、精神形成の過程として捉えている。主題は経験によって変容し、対立は統合へ向かい、部分は全体へ組み込まれていく。この構造は、単なる音楽技法ではなく世界観そのものである。彼にとって芸術とは、混沌から秩序を創造する行為であった。交響曲とはその秩序形成のドラマなのである。


7. フランス交響曲史における位置


マニャールの4曲の交響曲は、フランス交響曲史の重要な到達点を示している。フランクが基礎を築き、ダンディが理論化し、デュカスが洗練した伝統は、マニャールにおいて最も純粋な形で結晶化した。しかし彼の死とともに、この系譜は次第に周縁化される。20世紀フランス音楽はドビュッシー以後の方向へ進んだからである。それにもかかわらず、今日あらためて聴き直すと、マニャールの交響曲は決して過去の遺物ではない。そこには現代人が失いつつある精神的統一への希求が刻み込まれている。その意味で彼の交響曲は、20世紀初頭の歴史的作品であると同時に、現代に対する問いかけでもあるのである。


第3章 室内楽作品――内面化された交響的思考


1. マニャールの室内楽の位置づけ


アルベリク・マニャールの室内楽作品は、その交響曲や歌劇ほど頻繁に演奏されることはない。しかし、その芸術的価値は極めて高く、多くの研究者はここに作曲家の最も純粋な音楽的思想が表現されていると考えている。交響曲や歌劇では、大規模な形式や劇的展開が前景に現れる。それに対して室内楽では、音楽的思考そのものがより直接的に露出する。

マニャールにおいて室内楽とは、交響曲を縮小したものではない。むしろ交響曲の背後に存在する精神的構造を、最も透明な形で示す媒体であった。そのため彼の室内楽作品には、厳格な対位法、有機的主題展開、循環的構成、精神的緊張といった特質が、極めて濃密な形で凝縮されている。


2. 五重奏曲 ニ短調 Op.8


独自様式の確立

1893年から1894年にかけて、父の死後の孤独な日々のなかで作曲され、1895年4月3日にブリュッセルの自由美学コンサートで初演された五重奏曲は、マニャール中期を代表する重要作品である。これは彼にとって室内楽分野への最初の本格的な挑戦であり、人間としての人生の新しい段階の始まりを告げる作品でもあった。この作品によって彼は、フランク派の影響から徐々に脱却し、自らの室内楽様式を確立した。作品全体には若々しいエネルギーが満ちているが、その情熱は決して外向的ではなく、むしろ内面的な緊張として表現される。


主題の有機的発展

五重奏曲において特徴的なのは、主題が常に変容し続けることである。マニャールは旋律を単なる美しい素材として扱わない。主題は時間の中で経験を蓄積し、自己変容していく。この発想は後の交響曲第3番にも通じるものである。


対話としての音楽

各楽器は単なる伴奏と主旋律の関係にない。むしろ独立した人格として振る舞う。複数の声部が互いに応答しながら、一つの全体を形成していく。この構造は、後年の弦楽四重奏曲でさらに高度な形へ発展する。


3. ヴァイオリン・ソナタ ト長調 Op.13


円熟への転換点

1901年に作曲され、1902年5月2日、サル・プレイエルでウジェーヌ・イザイとラウル・ピューニョという当代一流の演奏家によって初演されたヴァイオリン・ソナタは、マニャールの室内楽作品の中でも特に高く評価されている。この作品では、それまでの重厚な構築性に加えて、豊かな抒情性が現れる。《ゲルクール》を脱稿した直後、「ゲルクールは終わった。もううんざりだ。ピアノとヴァイオリンのためのソナタに挑戦しよう」と友人への手紙に記したように、彼はこの作品に、長大な歌劇創作からの解放感とともに取り組んだ。交響曲第3番と《ゲルクール》を経た後の成熟した作風がここに示されている。


ヴァイオリンとピアノの対等性

19世紀の多くのヴァイオリン・ソナタでは、ピアノは伴奏的役割を担うことが多かった。しかしマニャールは両者を完全に対等な存在として扱う。二つの楽器は互いに主導権を交換しながら進行する。この対等性は、彼の対位法的思考の自然な帰結である。


内省的抒情

この作品に見られる抒情性は、フランス音楽に典型的な感覚的優美さとは異なる。そこには常に思索的性格が伴っている。歌う旋律でさえ、どこか哲学的な沈思を感じさせる。この特徴はマニャール芸術全体に共通するものである。


4. 弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.16


室内楽の最高傑作

1902年に着手され、1903年の夏の終わり頃に完成し、1904年3月19日、ソシエテ・ナショナルで初演された弦楽四重奏曲は、多くの研究者によってマニャールの室内楽最高傑作と評価されている。初演の演奏自体は決して上質なものではなかったと伝えられるが、それでも作品はセンセーションを巻き起こした。ここでは作曲技法が驚異的な完成度に達している。対位法は極めて複雑でありながら、音楽は自然な流れを失わない。形式は厳格でありながら、生命感に満ちている。


四声の独立性

この作品では四つの楽器が完全に独立した声部として機能する。それぞれが固有の論理を持ちながら、全体として統一された構造を形成する。ここにはバッハ以来の対位法伝統が感じられるが、その響きは決して古風ではなく、むしろ20世紀的な緊張感に満ちている。


時間意識の音楽

弦楽四重奏曲において特に注目すべきなのは、時間の扱いである。主題は単純に繰り返されるのではない。過去の出来事を記憶しながら現在に現れ、新たな意味を獲得する。音楽全体が一種の記憶作用として構成されているのである。そのためこの作品は、単なる形式的構築物ではなく、「時間の中で形成される意識」の表現として理解することも可能である。


5. チェロ・ソナタ イ長調 Op.20


晩年の静かな深み

《ベレニス》の完成直後、1909年末に着手され、1910年9月に完成した(第1楽章は1910年初頭に成立)チェロ・ソナタは、晩年のマニャールを代表する室内楽作品である。交響曲第4番に先行するこの作品には、若い時代の劇的緊張とは異なる、落ち着いた深みが存在する。


チェロという声

チェロは人間の声に最も近い楽器の一つとされる。マニャールはこの楽器の特性を最大限に活用している。旋律は雄弁でありながら過度に感傷的ではなく、むしろ成熟した人間が静かに語る独白のようである。


統合された様式

この作品では、若き日の情熱、中期の構築性、晩年の精神的深さが統合されている。そのためチェロ・ソナタは、交響曲第4番と並ぶ後期様式の重要な証言とみなすことができる。


6. 室内楽における対位法と人格性


マニャールの室内楽を特徴づけるものの一つは、各声部が人格的存在として扱われることである。交響曲では巨大な全体構造が前景化するが、室内楽では個々の声部の独立性がより明確に現れる。それぞれの旋律線は独自の論理を持ちながら、他者との関係の中で意味を獲得する。この構造は、社会的共同体の縮図のようにも見える。独立性と統一性、自由と秩序、個と全体――マニャールの音楽は常にこれらの緊張関係の中で成立している。


7. 室内楽作品の歴史的位置


フランス音楽史において、室内楽はしばしば交響曲以上に重要な意味を持ってきた。フランク、フォーレ、ショーソン、デュカスらもまた、この分野で重要な作品を残している。その中でマニャールの室内楽は、最も構築的で最も精神的な方向を代表している。フォーレの繊細な内省とも、ドビュッシーの音響的革新とも異なり、マニャールは室内楽を「精神の対話」の場として捉えた。その結果生まれた作品群は、今日なおフランス室内楽の隠れた傑作群として高く評価されている。


8. 室内楽におけるマニャール芸術の本質


交響曲が精神の建築であるならば、室内楽は精神の対話である。そこでは巨大な構造はより親密な形に縮約されるが、目指されるものは同じである。すなわち、多様な要素を統合し、より高次の秩序を形成することである。マニャールの室内楽作品は、その創作思想を最も純粋な形で映し出している。そこには華麗な外面的効果は少ない。しかし聴き手が耳を傾けるならば、そこには人格と人格の対話、記憶と現在の統合、そして精神の自己形成のドラマが静かに展開しているのである。


第4章 歌曲と理念的管弦楽作品――言葉と精神の音楽


1. マニャール芸術における声の意味


アルベリク・マニャールの作品を論じる際、しばしば交響曲や歌劇が中心となり、歌曲や声楽作品は周辺的な位置に置かれる。しかしこれは必ずしも適切ではない。マニャールの芸術は本質的に「理念の音楽」であり、その理念が言葉という具体的な媒体を通じて姿を現すのが、歌曲、および《葬送歌》《正義への賛歌》《ヴィーナスへの賛歌》に代表される理念的管弦楽作品の領域である。交響曲において理念は純粋に抽象的な音楽的構造として表れる。これに対して歌曲や声楽作品、あるいは精神的標題を掲げた管弦楽詩(《葬送歌》《正義への賛歌》《ヴィーナスへの賛歌》)では、それがより明示的な輪郭を取る。そこには、愛、死、正義、犠牲、精神的高貴さといった主題が繰り返し現れ、これらは後年の《ゲルクール》や《ベレニス》を理解するための重要な手がかりとなっている。
注目すべきは、マニャールがこれらの作品の多くについて、自らの内面の歴史と直結する具体的な動機を書簡に残している点である。例えば「正義への賛歌」については、ある手紙で彼が自らの生涯にわたる正義への執着と結びつけて語っていることが伝えられており、《葬送歌》《正義への賛歌》《ヴィーナスへの賛歌》の三作は、彼を知る者にとっては「彼の内なる歴史の高みから引き出された」具体的主題を持つ作品として聴かれるべきものであった。同時に、これらは聴き手にとっては普遍的な悲しみ、正義、愛そのものとして響くようにも作曲されている。マニャールのロマン主義が時間の影響を待たずに古典的になり得たのは、まさにこの両義性――個人的な内的歴史と普遍的な人間性とが、彼の中では一つに溶け合っていた――によるものであった。


2. 《6つの詩》Op.3


初期抒情作品

《6つの詩》は1887年から1890年にかけて作曲された初期歌曲集であり、1891年にシュドゥンス社から出版された。第1曲〈彼女に〉は1888年3月31日、ソシエテ・ナショナルで初演されている。この曲集には、後年マニャールが愛してやまなかった巨匠たち――ワーグナー、シューマン、ショパン、ベルリオーズ――への献辞代わりの音楽的銘句がいくつかの曲に付されており、若き作曲家が誰の影響のもとに自己を形成していたかを直接に物語っている。第5曲〈アド・フォンテム・バンドゥシエ〉はホラティウスのラテン語詩に、第6曲〈詩人に〉はギー・ロパルツの詩に作曲されており、すでにこの時期から彼が古典詩への愛着と、生涯の友となる音楽家への敬意を作品の中に刻み込んでいたことがわかる。


詩と音楽の関係

ここではまだ後年の厳格な構築性は前面に現れていない。むしろフランス歌曲の伝統に連なる繊細な抒情性が支配的である。しかし注意深く聴くならば、マニャールはすでに単なる伴奏付き旋律を書いているのではないことがわかる。和声は詩の内面的意味を照らし出し、旋律はテクストの心理的運動を追跡する。この姿勢の背後には、彼が後年「音楽による思考」と呼んだものへの志向がすでに存在しており、ここに後年の音楽劇作家としての資質の萌芽を認めることができる。


若き日の理想主義

作品全体には青春特有の理想主義が漂う。しかしその理想主義は甘美な感傷だけに終わらない。すでに人間存在の有限性への感覚が存在しており、後年の悲劇的世界観の萌芽はここに見ることができる。

なお、この歌曲集のうち「ドイツのライン」のオリジナルの管弦楽伴奏版は失われたが、マニャールの死後、ロパルツが1914年12月に復元を完成させ、1915年3月25日にランスの演奏家たちによって演奏された。この事実は、《ゲルクール》復元と並び、ロパルツが単なる友人ではなく、マニャールの音楽的遺産を後世へ伝える最も重要な継承者であったことを示している。


3. 男声のための4つの詩 Op.15


告白としての歌曲

1902年から1903年にかけて作曲され、1906年4月21日にソシエテ・ナショナルで初演された《4つの詩》は、マニャールの歌曲創作における頂点であり、また彼自身が自らの人生を最も率直に語った作品でもある。これは単なる音楽的成熟の証ではなく、彼の伝記的研究において「ほとんど無邪気な告白」と評されるほどの自己開示の作品であった。詩はマニャール自身の手になるもので、母の優しさを奪われた幼少期、不安と幻滅、生きたいという願望、世の冷笑、そして待ち望んでいた愛の出現と、家庭の平和、子供たちの笑いがもたらした変容、最後には死の床で彼を包むはずの最後の表情への思いが、四つの詩の中に順に語られている。


言葉の内面化

この作品で特徴的なのは、言葉が外面的描写ではなく内面的思考として扱われることである。旋律は感情を誇張しない。むしろ沈思黙考するように進行する。これはマニャール特有の精神性の現れであり、同時に彼の生涯を貫く一つの確信――芸術とは自己宣伝の手段ではなく、自らの苦しみと希望だけを歌う倫理的行為である――の音楽的結晶でもある。


歌劇への橋渡し

《4つの詩》には後の《ベレニス》へと通じる特徴が見られる。言葉と音楽は対立せず、一体化している。音楽は詩を装飾するのではなく、その内部から生まれている。この発想は、後年マニャールが「叙情的な言語の創造」――散文でも詩でもなく、両者の音楽的長所を統合した言語――として理論化を試みた構想に直結するものであり、彼の音楽劇創作において決定的な役割を果たすことになる。


4. 《葬送歌》Op.9


死の音楽

1895年に作曲された《葬送歌》は、前年に没した父フランシス・マニャールへの追悼として書かれた管弦楽作品である。マニャール作品の中でも特異な位置を占めるこの作品では、死という主題が正面から扱われる。しかしそれは絶望の音楽ではない。むしろ死を通して精神的高揚へ至ろうとする作品である。後年の証言によれば、この曲の終結部を聴いた者は、ウジェーヌ・フロマンタンの詩句――星々から降りてきた静謐な輝き――を思い起こすと言われており、流れるような透明感が悲しみそのものを変容させ、亡き者への記憶を栄光へと昇華している。


コラール的構造

作品全体にはコラール風の書法が頻繁に現れる。このコラールは宗教儀式を直接描写するものではない。それは人間精神が悲しみを超越しようとする運動の象徴として機能している。マニャールにとってこの賛歌の主題は、世代の継承における崇高な思想、記憶に残る善行の永続性、そして人間の良心の審判以外の何ものでもなかった。


後期作品への先駆

《葬送歌》には後年の交響曲第4番を予告するような精神的緊張が存在する。悲劇は目的ではない。悲劇を通じてより高い秩序へ到達することが目的なのである。この思想はマニャール芸術全体を貫いている。


5. 《正義への賛歌(Hymne à la Justice)》Op.14


倫理的理想の表明

1902年に作曲され、1903年1月4日にナンシー音楽院演奏会で初演された《正義への賛歌》は、マニャールの芸術観を理解する上で最も重要な作品の一つである。彼の作品の中でも最も直接的に倫理的理念が表明されている。作品は単なる標題音楽ではない。そこには正義という理念そのものを音楽化しようとする意志が存在する。


ドレフュス事件との関係

この作品はしばしばドレフュス事件との関連で論じられる。当時のフランス社会は激しく分裂していた。その中でマニャールは、ある有名な事件をめぐる憤りから予備役将校としての辞表を提出し、自らの勲章の返還を求めたほどの強い倫理意識を抱いていた。作品に込められているのは単なる政治的主張ではない。むしろ、不正義によって抑圧された者の痛ましい叫びと、それに対する正義の勝利への確信という、より普遍的な倫理的忠誠である。曲の構造そのものが、残酷に打ち負かされた犠牲者の嘆きから、暴力が最も傲慢に戻ってくる瞬間を経て、正義そのものが雷鳴のように噴出する終結へと至る音楽的論理を描いている。


音楽による理念の表現

興味深いことに、作品は理念を説明しない。正義という概念が音楽的運動として体験されるよう構成されている。これはベートーヴェン以来の理念的音楽の伝統に属している。しかしその表現はより内面的であり、より精神的である。

《正義への賛歌》は作曲当時には広く知られる作品とはならなかった。しかし、その象徴的意義は第二次世界大戦末期に思いがけない形で再び歴史の表舞台に現れる。1944年9月28日、パリ解放後に同市で最初に開かれた演奏会では、この作品が演奏され、自由と正義の回復を象徴する音楽として聴衆に迎えられた。祖国防衛のために命を落としたマニャールの作品が、占領から解放されたパリにおいて新たな時代の幕開けを告げる音楽として選ばれたことは、作曲家自身が意図した歴史的役割ではなかったとしても、《正義への賛歌》が作品の理念を超えて、フランス社会の歴史的記憶の一部となったことを示す象徴的な出来事であった。


6. 《ヴィーナスへの賛歌》Op.17


1903年から1904年にかけて作曲され、1904年12月4日にナンシー音楽院演奏会で初演された《ヴィーナスへの賛歌》は、《葬送歌》《正義への賛歌》と並ぶ三つの理念的管弦楽作品の最後に位置する。ここでは理想の原理が、もはや抽象的な徳目としてではなく、愛という最も具体的な人間的経験を通じて語られる。波が太陽と潮風に揺れるような描写的な開始から、男性的な能動性を象徴する副次主題と、女性的な愛の理念を象徴する主要主題とが、対立ではなく相互補完の関係のうちに溶け合っていく構成は、後の《ベレニス》における愛と義務の関係を予告するものとなっている。マニャールにとって愛とは官能の主題ではなく、心の正義であった。


7. 歌曲から歌劇へ


マニャールの歌曲作品を振り返ると、一つの特徴が見えてくる。彼は常に言葉の背後にある精神的意味を追求している。言葉そのものではなく、言葉が指し示す内的世界に関心を持っている。この姿勢は自然に歌劇へとつながる。《ヨランド》ではまだワーグナー的影響が強い。しかし《ゲルクール》や《ベレニス》では、言葉と音楽は完全な統合へ向かう。歌曲作品とこれら理念的な管弦楽作品は、その長い準備段階だったのである。


8. 《ベレニス》への道


歌曲、《葬送歌》、《正義への賛歌》、《ヴィーナスへの賛歌》を経て到達するのが《ベレニス》である。そこでは、愛と義務、個人的幸福と公共的責任、情熱と理性という対立が扱われる。これらはすべてマニャールが生涯にわたって探究してきた主題であった。したがって《ベレニス》は単なる歌劇ではない。それはその精神的探究が最も包括的な形で結実した作品とみることができる。その意味で《ベレニス》は、マニャール芸術全体の到達点として理解されなければならない。



第5章 歌劇作品――精神の自由と自己形成のドラマ


1. マニャールと音楽劇


アルベリク・マニャールは今日、しばしば交響曲作曲家として記憶されている。しかし彼自身にとって歌劇は決して周辺的ジャンルではなかった。むしろ歌劇は、彼の芸術思想を最も包括的に表現する場であった。交響曲では精神の運動は抽象的に表現される。それに対して歌劇では、人物、言葉、行為、運命を通して具体的に表現される。そのため歌劇は、マニャールが生涯にわたり追求した倫理的・精神的問題を最も明確な形で提示する媒体となった。

マニャールは三つの歌劇すべてにおいて、自ら台本を執筆している。これは当時のフランス音楽界においてヴァンサン・ダンディに次ぐ稀有な実践であった。彼は音楽家がしばしば文学的教養を欠き、自ら台本を構成することに抵抗を感じる一方、詩人は音楽の法則を知らないために、両者の協働がほとんどの場合に不完全な結果しか生まないことを早くから見抜いていた。彼が目指したのは、ワーグナーが体現したような、一人の創造者の単一のインスピレーションから歌詞と音楽が同時に生まれる理想であり、そのために彼は自らの劇作を、感傷的な韻文の魅力よりも、明確な行動の論理と、音楽に変換され得る単純な構造とを重視して構成した。興味深いことに、彼の三つの歌劇は題材こそ異なるが、いずれも「精神の自由」を中心主題としている。主人公たちは外的運命に翻弄されるだけではない。むしろ自己の内面と対峙し、選択し、その結果を引き受ける存在として描かれている。


2. 《ヨランド》Op.5


青年期の理想主義

1888年から1891年にかけて作曲され、1892年12月27日にブリュッセルのモネ劇場で初演された《ヨランド》は、マニャール最初の大規模舞台作品である。若き作曲家の情熱と野心が強く反映されている。作品にはワーグナーの影響が色濃く見られる。ライトモティーフの使用、連続的音楽構造、オーケストラの劇的役割などは、その代表例である。初演の評判は決して輝かしいものではなく、舞台裏の合唱との連絡装置の不調という事故も重なって、当時としては不穏に思えるほど熱烈で力強いワーグナー主義と、まとまりを欠く個性とが指摘され、芸術的には失敗と評された。しかし同時に、後年のマニャール独自の精神性もすでに現れている。


優しさと信仰の物語

物語の中心には、十字軍に出征した夫の帰還を待ち続ける貞淑な妻ヨランドの姿がある。夫ロベールがようやく帰還し、彼女を抱きしめた瞬間に彼女は息を引き取るという結末は、表面的には『トリスタンとイゾルデ』の終幕やローエングリンの到来を思わせる。しかしこの劇の真の展開は、絶望から信仰と慈愛による高揚へと至るロベールの魂の内部で進行する。マニャール自身が後年このカトリック的な救済の結末を、青春期のロマン主義の表れとして相対化しているが、そこには既に、苦しみと情熱をより高次の活動の道具として求める意志、自己犠牲による愛の救済という、後の《ゲルクール》や《ベレニス》へ受け継がれる主題の萌芽が存在する。


試行の作品として

《ヨランド》は成熟した傑作ではない。楽譜の管弦楽総譜は失われ、今日ではピアノ伴奏付き声楽譜のみが伝わっている。しかし後の歌劇創作における多くの要素――内的な信仰による救済、外的事件よりも魂の内部の劇への関心――がすでに存在している。それはマニャール芸術の出発点として重要な意味を持つ。


3. 《ゲルクール》Op.12


中期の代表作

1897年に着手され、1898年に第二幕、1899年から1900年にかけて第三幕が完成、1901年3月1日に「ゲルクールは終わった!」という叫びとともに脱稿した《ゲルクール》は、多くの研究者によってマニャールの最初の本格的音楽悲劇とみなされている。父の死を悼む《葬送歌》と同じ献辞を、マニャールはこの作品にも捧げている。作品規模、思想的深さ、音楽的完成度、そのすべてが《ヨランド》を大きく凌駕している。1902年にはオペラ=コミック座で台本が検討されたが上演には至らず、その後第三幕がナンシーで、第一幕がパリのシャトレ座コンサートで演奏会形式で取り上げられたのみで、マニャールの生前には全曲上演は実現しなかった。


魂の遍歴

物語は主人公ゲルクールが、栄光と愛のただ中で若くして亡くなった後の世界から始まる。彼は暴君を倒し、人々に自由を教えた英雄でありながら、その死後、真実、善、苦しみという寓意的な存在に取り囲まれた一種のプラトン的楽園で、自らの未完の仕事への執着から地上への帰還を懇願する。真実は彼の願いを聞き入れ、彼を死すべき存在として蘇らせる。しかし地上に戻った彼を待つのは、恋人ジゼルの不貞と、彼が解放した民衆による裏切りであった。彼は群衆の暴動に身を投じ、再び命を落とす。この構図はオルフェウス神話やダンテ『神曲』を想起させるが、本質的には人間の理想と現実との衝突、そして苦しみを通じてのみ得られる自己認識の物語である。


善悪を超える視点

《ゲルクール》において興味深いのは、単純な勧善懲悪が存在しないことである。問題となるのは道徳的評価ではなく、人間精神そのものの可能性である。マニャールはここで宗教的教義よりも倫理的自覚を重視している。救済は外部から与えられるものではない。精神自身が獲得しなければならない。真実はゲルクールに対して、彼の傲慢さが消え去ったことを認め、希望を残すよう告げる。それは個人の勝利の物語ではなく、時代を先取りした者たちの存在がはかなくとも、その努力は不滅であるという、進歩への信仰の表明であった。


ワーグナーからの自立

《ゲルクール》には依然としてワーグナー、とりわけ『パルジファル』を思わせる場面構成――楽園の二場の対称性が神殿の二場を彷彿とさせる点など――が見られる。しかしその精神はすでに独自のものとなっている。劇は神話的壮大さよりも内面的探究へ向かう。朗誦の幅広さ、簡素な音楽語法、装飾的なエピソードを排した構成は、むしろグルックの劇音楽に近い。ここにマニャール独自の音楽劇理念が成立したのである。


4. 《ベレニス》Op.19


芸術思想の集大成

1905年に着手され(早くも1905年6月末には友人ポール・プジョーに草稿を送って意見を求めている)、1909年にほぼ完成、ピアノ伴奏付き声楽譜の作成と校正に1909年のほぼ一年を費やした《ベレニス》は、マニャール最後の歌劇であり、多くの点で芸術的頂点を示している。彼は自ら台本も執筆した。これは単なる文学作品の音楽化ではない。音楽と言葉が同一の精神的構想から生まれていることを意味する。マニャールはこの作品を、長年の盟友であり《ゲルクール》の一部オーケストレーションを復元してくれたギィ・ロパルツに捧げた(献辞:『親愛と感謝の印として』)。


ラシーヌとの対話

作品はラシーヌの悲劇『ベレニス』に基づいている。しかしマニャールは原作を単に再現してはいない。彼自身が序文で述べるように、着想はラシーヌからではなく、好奇心旺盛で情熱的な精神を持つ芸術愛好家ポール・プジョーから得たものであった。マニャールはラシーヌへの深い敬意を保ちながらも、それを自らの芸術思想に従って再構築している。彼はラルース辞典でユダヤの女王ベレニケとは別に、夫の戦勝を祈って髪を切り、ウェヌスに捧げたエジプトのベレニケが存在したことを知り、この犠牲をティトゥスの愛人へと帰す着想を得た。また歴史的事実によればベレニケはティトゥスより十四歳年上で、即位の時には五十二歳であったという史実を、彼は「芸術家が決して背負うべきではない相対的な真実」として退け、魔法の弓を一振りするように彼女を二十二歳若返らせている。ここで重要なのは歴史ではなく精神である。


愛と義務

物語の中心にはティトゥスとベレニスの愛がある。しかしその愛は成就しない。皇帝となったティトゥスは国家への義務を選び、愛する女性との別離を決断する。マニャールは原典であるディオン、タキトゥス、スエトニウスを参照し、特にタキトゥスにあったとされる「invitus invitam」(彼は不本意ながら、彼女もまた不本意ながら)という力強い表現を、フランス語には同義語がないとしながらも、音楽そのものに翻訳しようと試みた。この対立は単なる政治的問題ではない。個人的幸福と公共的責任との葛藤という、人間存在の根源的問題である。


自由な選択

《ベレニス》の登場人物たちは運命によって支配されているのではない。彼らは自ら選択する。そしてその選択の結果を引き受ける。マニャールは序文の中で、ティトゥスが自らを責めることができた唯一の罪は、彼を愛していた女性を何の理由もなく捨てたことであったと述べ、たとえ皇帝であろうと、たとえ神であろうと、相互の愛の喜びを知る者が自らその幸福を破壊したのであれば、彼を憐れむべきではなく、彼は最高の罰を受けるに値するとまで言い切っている。この点において、《ベレニス》は自由の悲劇である。悲劇は外部から与えられるのではなく、自由な人格の決断から生じるのである。


5. 三つの歌劇の比較


《ヨランド》では、信仰による救済という形で人格形成が描かれた。《ゲルクール》では、理想と現実との衝突を通じた精神の自己認識が探究された。そして《ベレニス》では、自由な選択とその責任という、より厳密に倫理的な問題が正面から扱われる。このように整理すると、三作品は一つの発展過程として理解できる。マニャールの関心は次第に深まり、感情から精神へ、精神から倫理へと向かっている。


6. 音楽劇における時間


マニャールの歌劇では時間の扱いも独特である。出来事そのものよりも、その出来事が人物の内面でどのように経験されるかが重要となる。そのため劇的時間はしばしば凝縮される。彼自身が《ベレニス》序文で述べているように、彼は古代の人々が好んだ「行為の単純さ」をもって悲劇を創造することを試みた。物語そのものに事件はほとんどない。庭園での二重唱、宮殿でのティトゥスの躊躇と決断、そして三段櫂船での最後の別れという三つの場面だけで、三幕は決して飽きさせることなく進行する。音楽は単なる行動の伴奏ではなく、意識の時間を表現する媒体となる。この特徴は特に《ベレニス》で顕著である。


7. マニャールの歌劇理念


マニャールの歌劇はフランス・オペラの伝統とも、ワーグナー楽劇とも完全には一致しない。彼が目指したのは、精神的理念を劇として表現することであった。そのため登場人物は心理学的リアリズムの人物というより、精神的状況を体現する存在として描かれる。しかしそれは抽象的寓話ではない。むしろ具体的人間を通じて普遍的人間性を描こうとする試みである。マニャール自身、《ベレニス》の楽譜はワーグナー様式で書かれていると認めながらも、それは新たな叙情詩的形式を創造する才能を持たなかったための選択であり、純粋に古典的な趣味と伝統的な音楽文化に最も適した様式を選び取った結果であると述べている。レチタティーヴォを最小限に抑え、デクラマションに旋律的な展開を与え、序曲を交響曲形式、第一幕の二重唱を協奏曲形式、ティトゥスの瞑想にフーガ、愛の場面にオクターブ・カノンを用いるという構成そのものが、彼にとって劇と純粋音楽との統合の試みであった。


8. 《ベレニス》への収斂


《ヨランド》から《ゲルクール》を経て《ベレニス》に至る歩みは、マニャール芸術そのものの成熟過程である。初期の理想主義、中期の精神的探究、後期の倫理的深化、そのすべてが《ベレニス》に統合されている。したがって《ベレニス》は単なる最後の歌劇ではない。それはマニャールが生涯追求した、自由、愛、責任、精神的高貴さという主題の最終的表現なのである。

次章では、この《ベレニス》を作曲家自身の序文を手がかりとして詳細に検討し、その芸術的・哲学的意義を明らかにしたい。


第6章 《ベレニス》――愛・義務・自由の悲劇


1. 《ベレニス》という到達点


アルベリク・マニャールの歌劇《ベレニス》は、単なる晩年の代表作ではない。それは彼の全創作活動の総決算であり、彼が生涯追求した精神的・倫理的問題が最も純粋な形で結晶した作品である。若き日の《ヨランド》では信仰による救済が語られた。《ゲルクール》では精神の自己認識が探究された。そして《ベレニス》では、人間が自由な存在として自己の選択に責任を負うという問題が正面から扱われる。その意味でこの作品は、マニャール芸術の最終的到達点である。

作品の成立過程そのものが、この主題の重みを物語っている。着想を得てから完成までに四年以上を要し、マニャールは「肉体的あるいは知的な死だけが、私に作品を放棄させるのだ」と友人への手紙に記すほどの覚悟でこの仕事に向き合った。1910年にオペラ=コミック座から正式な依頼を受けてからも、ティトゥス役の特殊な音域に多くの歌手が難色を示すなど、上演までの道のりは平坦ではなかった。1911年12月15日、ついに同劇場で初演を迎えたとき、マニャールは46歳になっていた。


2. 序文という告白――ポール・プジョーとの出会い


《ベレニス》を理解するための最も重要な資料は、マニャール自身が1909年4月に執筆した序文である。そこで彼はまず、ラシーヌの崇拝者たちに向けて、自分がラシーヌの『ベレニス』を敬愛するあまり敬意を払わずにはいられないと述べ、五年間毎日それを読み返してもなお初めて見るような新鮮さを感じると告白している。この作品の着想は、実はラシーヌからではなく、ある日のコンサートの後、良い歌詞の主題を見つける難しさについて語り合っていた友人ポール・プジョーから得たものであった。「最高のテーマは、最もよく知られているものだ」と彼は言い、「ベレニス」という名を挙げた。その夜、この魅力的な女王はマニャールの心を虜にした。

家に帰った彼はラルース百科辞典の第二巻を手に取り、ユダヤの女王ベレニケとは別に、夫の戦勝を祈って髪を切りウェヌスに捧げたエジプトのベレニケが存在したことを知った。この犠牲をティトゥスの愛人に帰するという着想は、一瞬のうちに彼の中で結晶した。マニャールはこの辞典を「傲慢さに満ち、誤りだらけ」と評しながらも、そこから貴重な情報を得たことについては恩知らずにはなりたくないと付け加えている。


3. 歴史的真実と芸術的真実――ベレニケを二十二歳若返らせる


序文の中でマニャールは、歴史家デュリュイを参照し、ベレニケがティトゥスより十四歳年上で、即位の時には五十二歳であったという史実を知ったことを記している。彼はリール美術館にあるゴヤの老婦人の絵を思い浮かべながらも、この「歴史的事実という寓話」、つまり「芸術家が決して背負うべきではない相対的な真実」を恐れることなく退けた。彼はこうした考証的な懸念を、生涯を費やしてサイタフェルナリアのティアラの真贋を発見するような学者たちに委ね、「魔法の弓を一振りするだけで」ベレニケを二十二歳若返らせ、愛に満ちた美しく情熱的な女性へと変えたのである。

この姿勢は、彼の芸術観全体を象徴するものである。すなわち、伝統を単に模倣するのではなく、その本質を継承しながら新たな形へと発展させること。形式は厳格でありながら、その目的は学問的正確さではなく、人間精神の本質的表現にあった。彼はラシーヌが手本を示してくれたことに喜びとともに感謝し、コルネイユの英雄喜劇にも目を通し、『ル・シッド』から最後の幕開けへの貴重な助言を得たと述べている。さらに彼はディオン、タキトゥス、スエトニウスの原典に立ち返り、タキトゥスにあったとされる「invitus invitam」――彼は不本意ながら、彼女もまた不本意ながら――という、フランス語には同義語のない力強い表現を、音楽そのものへ翻訳することを試みた。

この制約のためにマニャールは脚本を大胆に縮小し、物語に関係のないものをすべて削ぎ落とした。二人の恋人に加えられたのは、ベレニケの乳母であり説明役を担う架空の人物リアと、ウェスパシアヌスのライバルでありのちに同盟者となった歴史上の人物ムキエンの二人だけであった。彼はまた、ベルリオーズが『アエネイス』第四巻の詩人の王に抱いた情熱を共有し、「Saltem si qua mihi」の一節に至って、ベレニケに不妊症を設定することで、恋人たちが互いに逃げ惑う理由をいっそう悲劇的なものにしようと決意したことも明かしている。


4. 愛と義務の対立


物語の中心にはティトゥスとベレニスの愛が存在する。両者は互いを深く愛している。しかしティトゥスはローマ皇帝としての責務を担わなければならない。その結果、彼はベレニスとの結婚を断念する。ここで重要なのは、この悲劇が外的強制によって生じるのではないことである。ティトゥスは自由に選択する。だからこそ悲劇となる。もし運命や神々が彼に別離を命じているのであれば、そこには責任は存在しない。しかしマニャールのティトゥスは自ら決断する。彼は愛を捨てることを選ぶ。悲劇はその自由から生まれるのである。

マニャール自身、序文の中でこの皇帝を「意志なく軽蔑している」と記している。ティトゥスの過ちは、帝国の威厳と自分の魂の平安を天秤にかけたことであった。王位と愛の間で迷うのは間違いであり、王位継承を選ぶことは犯罪であると、マニャールは明言する。ティトゥスは宥和することなく後悔することでこれを償うが、そのことで彼の栄光の輝きは曇り、彼の美徳は軽くなることはなかった。


5. ベレニスという存在――女性への信頼


ベレニスは単なる悲劇のヒロインではない。彼女は愛の対象であると同時に、精神的高貴さそのものを体現する存在として描かれる。彼女は最後までティトゥスを理解しようとする。自らの苦しみを超えて相手の責務を認識しようとする。そのため《ベレニス》の悲劇は憎しみや裏切りの悲劇ではない。むしろ相互理解の悲劇である。二人は互いを愛している。互いを理解している。それでも別れなければならない。そこにこの作品の独自性が存在する。

マニャールは序文の終わり近くで、自身の新たな悲劇の運命について自問している。『ヨランド』のように二度の公演の後忘却の淵に沈むのか、『ゲルクール』のように図書館の棚で朽ち果てるのか。生計を立てる必要のない自分はそれをあまり心配していないと述べながら、彼は「タイタスよりもベレニスに希望を抱いている」と書き、「男性読者よりも女性読者に信頼を置いている」と続けている。青春に別れを告げた今、女性が男性よりもどれほど優れているかを日々より深く理解していると彼は言う。私たちは女性に人生の要素しか与えないが、彼女はそれを蜂のような体で変化させ、妖精のような魂で変容させる。思春期から悩みと苦しみに慣れている女性は、男性よりも同情を受けやすく、彼女の寛容さは理論的なものではなく、より行動的である。激しい口論の真っ最中、女性は時としてベレニスの勇気を少しだけ保つが、男性は常にタイタスの臆病さに屈する、とマニャールは記している。

この一節は単なる修辞ではない。マニャールは、人間が相互の愛の喜びを知っていながら自らその幸福を破壊するとき、たとえ皇帝であろうと、たとえ神であろうと、その者を憐れむべきではないと述べ、ティトゥスは「最高の罰を受けるに値する」と結論している。ここに、ベレニスという存在を通じて彼が問おうとした倫理――自由であることの代償を引き受ける勇気――が凝縮されている。


6. 悲劇の中心にある自由


古代悲劇では運命が支配的役割を果たす。近代悲劇では社会的条件が重要になる。しかし《ベレニス》では自由そのものが悲劇の原因となる。ティトゥスは自由である。ベレニスも自由である。そして自由であるからこそ、二人は苦しまなければならない。この点で《ベレニス》は極めて近代的な作品である。マニャールが描いているのは、自由な主体の悲劇なのである。

興味深いのは、マニャールがティトゥスの史実上の死――サビニ地方の祖先の領地を再訪する途上、輿の幕を開け、涙ながらに「なぜこんなに若くして死んだのか、だが生涯で後悔したことはただ一つだけだ」と叫んだという逸話――を序文の最後で引いていることである。歴史家たちはこの謎を解き明かそうとして無駄に終わったが、マニャールは、ティトゥスが自らを責めることができた唯一の罪は、彼を愛していた女性を何の理由もなく捨てたことであったと断言する。この解釈そのものが、《ベレニス》という作品全体の主題を要約している。


7. 劇的時間の単純さと音楽的構成


マニャールは序文の中で、自らがこの作品において、古代の人々が強く好んだ「行為の単純さ」をもって悲劇を創造することを試みたと明言している。彼はこの単純さが創意工夫の欠如の表れだと批判される可能性を見越して、ラシーヌの『ベレニス』序文を引用しつつ反論する。すなわち、あらゆる発明とは無から有を生み出すことであり、複雑な出来事の積み重ねは、むしろ単純な行為だけで観客を魅了する力を持たない詩人たちの拠り所であった、というラシーヌの議論である。マニャールはこの議論が二十世紀においても十七世紀と同様に正当性を持つと考え、プロットが良心の議論に矮小化された戯曲を書く権利を主張した。

この劇的単純さは、音楽形式の上にも反映されている。庭園での優しさと詩情に満ちた二重唱(第一幕)、ローマの怒りに立ち向かう情熱と義務を命じる長官ムキエンの助言との間で躊躇し決断し立ち直る皇帝の苦悩(第二幕)、そして三段櫂船での最後の別れ(第三幕)という三つの場面だけで全体が構成される。マニャール自身の言葉によれば、序曲は交響曲形式、第一幕を締めくくる二重唱は協奏曲形式、ティトゥスの瞑想にはフーガ、愛の場面にはオクターブ・カノンの甘美なハーモニーが用いられている。彼自身、第三幕のティトゥスの帰還に伴うリズムが、ソナタのフィナーレのような魅力を持ちすぎていることを隠そうとはしていない。レチタティーヴォは最小限に抑えられ、デクラマションにはしばしば強調された旋律的展開が与えられている。


8. 記憶と自己形成


作品全体を通じて、過去の幸福な記憶が繰り返し現在へ回帰する。しかしその回帰は単なる回想ではない。記憶は現在の判断を形成する。人物たちは過去を思い出しながら現在を生きている。その意味で《ベレニス》の登場人物は記憶によって構成された存在である。彼らの人格は固定されたものではなく、過去と現在の相互作用の中で絶えず形成され続けている。


9. 精神の統合としての別離


作品の結末において、愛は成就しない。しかしそれは完全な敗北でもない。ティトゥスは皇帝としての責務を引き受ける。ベレニスはその決断を受け入れる。逃走する三段櫂船の船尾に立つ女王が、ウェヌスへの供物として誇り高き髪を切り落とし、夜の潮に流すという結末は、言葉では言い表せない感動とともに、視覚と聴覚、心と精神の均衡のとれた満足感をもたらすものとして構想されている。二人は幸福を失う。しかし人格としては成熟する。ここにマニャールの倫理観が現れている。真の勝利とは欲望の実現ではない。自己の責任を引き受けることなのである。この思想は《正義への賛歌》から交響曲第4番に至るまで一貫して存在している。


10. 初演とその後――1911年12月15日


1911年12月15日、《ベレニス》はオペラ=コミック座で初演された。出演はメランティエ夫人(ベレニス)、スヴォルフス(ティトゥス)、ヴィユイユ(ムシアン)、シャルボネル夫人(リア)であり、全八回の公演が行われた。オーケストラと脇役たちはそれぞれの役割を完璧に果たしたと伝えられるが、主役二人の歌唱は誠実で美しい声を持ちながらも、この人物たちの感情を支えるのに必要な威厳をいくらか欠いていたとも言われている。批評家ル・タン紙のピエール・ラロ、レヴュー・エブドマデール紙のポール・デュカス、メルキュール・ド・フランス紙のピエール・ド・ブレヴィルらは好意的な評を寄せたが、その反響は大衆には届かず、永続的な効果を残すには至らなかった。マニャール自身、序文の最後で「私の新たな悲劇の運命はどうなるのだろうか」と自問し、生計を立てる必要のない自分はそれをあまり心配していないと記していたが、この自制された筆致の背後には、十数年にわたり正当な評価を待ち続けてきた作曲家の静かな諦念と誇りとが同時に響いている。


11. 結論――愛の悲劇から精神の勝利へ


表面的に見るならば、《ベレニス》は失われた愛の悲劇である。しかしその深層において描かれているのは、精神が自己を超えていく過程である。愛は失われる。幸福は犠牲になる。しかし人格はより高い地点へ到達する。この結末には宗教的救済も英雄的勝利も存在しない。存在するのは、自由な主体が自らの選択を引き受けるという静かな尊厳だけである。そこにマニャール芸術の本質がある。そしてその意味において、《ベレニス》は20世紀初頭フランス音楽が生み出した最も高貴な精神的作品の一つであると言えるのである。


第7章 《ゲルクール》――精神の自由と人格形成のドラマ


1.《ゲルクール》の位置づけ


本章では、マニャール第二の歌劇《ゲルクール》を、単なる象徴主義歌劇あるいはワーグナーの影響下にある作品としてではなく、人間の精神的自由と人格形成を主題とする思想劇として再検討する。

《ゲルクール》は《ベレニス》に先立って作曲された作品である。しかし、思想的には両作品は対立するのではなく、むしろ相補的な関係にある。《ベレニス》が完成された人格の倫理的決断を描く作品であるとすれば、《ゲルクール》は、その人格がいかに形成されるかという過程そのものを描く作品である。

主人公ゲルクールは死後の世界を経て再び地上へ帰還し、人間社会の腐敗と自由の可能性とを経験する。その遍歴は英雄の冒険ではなく、精神が自己を形成していく過程として理解されるべきである。この意味で《ゲルクール》は、愛や政治を扱った歌劇である以上に、人間存在の自由をめぐる哲学的ドラマなのである。


2.死と再生のドラマ――人格形成としての《ゲルクール》


《ゲルクール》の筋書きは、一見すると神話的・象徴主義的な幻想劇のように見える。しかし、その劇構造を詳しく見ると、本作は死後世界への旅を描くこと自体を目的としているのではなく、主人公の精神的成熟の過程を描くためにこの構造を採用していることが分かる。

ゲルクールは死後の世界において超越的な真理を与えられる存在ではない。むしろ彼は、現実世界の矛盾や人間の欲望、権力の腐敗、そして愛の可能性を新たな視点から経験することによって、自ら自由とは何かを学び取っていく。その意味で、本作における死は終点ではなく、精神的形成の出発点として位置付けられている。

主人公が再び地上へ戻るという物語上の設定も、この人格形成という主題によって理解される。もし救済が死後世界において完結するのであれば、帰還は不要である。しかしマニャールは、真に自由な人格とは現実社会の中でこそ試されるものであるという立場を採る。したがって、ゲルクールの帰還は奇跡的事件ではなく、人格形成が社会的実践へ移行する必然的な契機なのである。

このように見るならば、《ゲルクール》は宗教劇でも神秘劇でもなく、人間が自由な主体へと成熟していく過程を壮大な象徴的ドラマとして描いた作品である。その中心にあるのは超自然的救済ではなく、人間自身による精神的自己形成の可能性なのである。


3.《自由・愛・社会の再生――人格形成の思想


《ゲルクール》では、「自由」「愛」「社会の再生」という三つの主題が繰り返し現れる。しかし、それらは独立した理念ではなく、主人公の人格形成を構成する連続した契機として理解することができる。

まず自由とは、既存の権威や制度から解放されることではなく、自らの判断によって生きる精神的自律を意味する。ゲルクールは死後の世界と地上世界との双方を経験することによって、いかなる権威も絶対化せず、自ら考え、自ら選択する主体へと成熟していく。

しかし、その自由は孤立した個人主義には至らない。マニャールにおいて自由は常に愛によって媒介される。ここでいう愛は感情的情熱ではなく、他者を自己と等しい人格として認める倫理的契機である。自由な人格とは、他者との関係性の中で初めて成立する存在なのである。

さらに、その人格形成は社会の再生という理念へと発展する。ゲルクールが再び地上へ帰還する意味は、完成した人格が現実社会の変革に参与することにある。精神的成熟は個人の内面に閉じるものではなく、共同体の刷新へと向かう実践的契機として理解されているのである。

このように、《ゲルクール》は自由・愛・社会という三つの理念を個別に提示する作品ではない。それらを人格形成の一つの過程として統合し、人間が真に自由な主体へと成熟していく道筋を描いた思想劇なのである。


4.《ベレニス》への展望――人格形成から倫理的人格へ


以上見てきたように、《ゲルクール》は、人間の精神的自由と人格形成を壮大な象徴的ドラマとして描いた作品である。主人公は死と再生の経験を通して自由な主体へと成熟し、その自由は他者への愛を経て社会の再生へと向かう。この過程は、単なる政治的理念や宗教的救済ではなく、人間が自己を形成しながら共同体との関係を築いていく倫理的過程として理解することができる。

このような思想は、後年の《ベレニス》においてさらに洗練された形で継承される。《ゲルクール》では人格形成の過程そのものが劇の中心を占めていたのに対し、《ベレニス》では、すでに成熟した人格が歴史的現実の中でいかなる倫理的決断を下すかが主題となる。両作品は劇構造も題材も大きく異なるが、人間の自由を人格の成熟として捉える点では深く結び付いている。

このことは、マニャールの歌劇創作全体を理解する上でも重要である。《ゲルクール》と《ベレニス》は、それぞれ独立した傑作であると同時に、人間精神の形成と完成という一つの思想を異なる角度から表現した相補的作品とみなすことができる。前者が人格形成のドラマであるならば、後者はその人格が歴史の中で自己を実現する倫理的悲劇なのである。

このような観点から見ると、マニャールの歌劇は、単なる象徴主義歌劇やワーグナーの影響下にある作品として理解されるだけでは十分ではない。そこには、人間精神の自由と倫理的成熟を一貫して追求した独自の芸術思想が貫かれており、その思想は交響曲や室内楽作品にも共通するマニャール芸術の中核を形成しているのである。

[お断り]本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、ChatGPT 5.5とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行いました。また、校正をCllaud Sonnet 5を活用して行い、その結果についてChatGPT 5.5とのやりとりをしながら改訂を行いました。


(2026.7.12 公開)