ラベル ヴィーチェスラフ・ノヴァーク の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヴィーチェスラフ・ノヴァーク の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年7月9日木曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク 作品リスト:作品番号なしの作品を含めた全作品

ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品目録は、ミロシュ・シュニエラーとルドミラ・ペジノヴァによって1999年に編纂され、目録には162の作品が含まれます。以下は、上記作品目録に基づいて書かれた、「ヴィテズラフ・ノヴァークの生涯と作品 (人物・性格・作風・作品目録・教育者として)」チェコ音楽人名事典系統項目(パベル・シコラ編、最終更新2016年1月13日)の作品目録を元にして、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品と遺産の振興のための研究所の作品の年表(2026年7月現在は参照できません)を照合しながら作成しました。一部、誤記と思われる点を編集者の判断で修正しています。上記作品目録を直接参照できないため、作品目録番号は完全ではありません。またチェコ音楽人名事典の作品目録には、上記作品目録にも含まれない機会音楽的な作品が一部含まれていますが、以下にはそれも含めてあります。創作年に異同がある場合には、原則として人名事典の記述を優先していますが、一部について編者の判断で年表の記述に従った作品もあります。


1 ピアノのためのセレナード ロ短調 (1886-7)

2 ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの詩によるピアノ伴奏歌曲「漁師」(1886-7)

3 ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの詩によるピアノ伴奏歌曲「落ち着きのない愛」(1886-7)

4 ヤロスラフ・ヴルチリツキーの詩によるピアノ伴奏歌曲「ああ、ただ見て」(1888)

5 ヤロスラフ・ヴルチリツキーの詩によるピアノ伴奏歌曲「ただの思い出」(1888)

6 カール・テオドール・ケルナーの詩によるピアノ伴奏歌曲「春に」(1888)

7 ニコラウス・レーナウの詩によるピアノ伴奏歌曲「秋」(1888)

8 ピアノのための2つの瞑想「 我が父の思い出」(1888)

9 ピアノのための即興曲(1888)

10 ピアノのためのスケッチ「海賊」(1888)

11 ピアノのためのスケッチロ長調、マイ. K. H. マハによるテキスト付き(1888)

12 ピアノのためのスケッチ ロ短調(1888)

13 ピアノのための間奏曲第1番(1888)

14 ピアノのための間奏曲 (1888)

15 ハインリヒ・ハイネの詩によるピアノ伴奏歌曲「愛していたよ」(1889)

16 シャンソネット(ハンガリー風に)ト短調(1889)

17 ピアノのための奇想曲ト短調(1890)

18 ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラデックの詩によるピアノ伴奏歌曲「あなたの胸の上で」(1891)

19 ヤロスラフ・クヴァピルの詩によるピアノ伴奏歌曲「秋のロンド」(1891)

20 ルドルフ・ポコルニーの詩によるピアノ伴奏歌曲「欲望」(1891)

21 シャーンドル・ペトフィの詩によるピアノ伴奏歌曲「私の上にあるもの」(1891)

22 ヨーゼフ・フライヘル・フォン・アイヒェンドルフの詩によるピアノ伴奏歌曲「夕べの田舎」(1891)

23 シャーンドル・ペトフィの詩によるピアノ伴奏歌曲「木になりたい」(1891)

24 ルドルフ・ハマーリングの詩によるピアノ伴奏歌曲「夢」(1891)

25 シャーンドル・ペトフィの詩によるピアノ伴奏歌曲「私の墓」(1891)

26 国民的な雰囲気の歌、スロバキアの民謡「そして山のために、山のために」の声とピアノ用編曲(1891)

27 ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ短調(1891)

28 『海賊』(元・作品 2)、バイロン卿による同名の詩的な短編小説に基づいた管弦楽序曲(1892)

29 ピアノ、ヴァイオリン、チェロのためのト短調三重奏曲 作品1(元・作品3)、カール・シュテッカーに献呈(1892)

30 シューマンの主題による変奏曲(元来はシューマンの主題による変奏曲形式の即興曲、作品4)、ヨゼフ・イラーネクに献呈、1945年以降改訂(1893)

31 ホ短調バラード、作品2(元・作品5)、ゴードン・バイロンの戯曲「マンフレッド」に基づく、ヴィルヘルム・クルツに献呈(1893)

32 ヤロスラフ・ヴルチリキー、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデク、シャーンドル・ペトフィの詩によるピアノ伴奏歌曲集(元・作品4)(1893)

33 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノのための四重奏曲ハ短調、作品7、1899年改訂(1894)

34 思い出 作品6 (元・作品8)、ピアノのための3つの小品、J.J.パレデフスキに献呈(1894)

35 小管弦楽のためのセレナード ヘ長調 (元・作品9)(1895)

36 ピアノ協奏曲ホ短調、オーケストラ伴奏付き(1895)

37 歓喜の夜(元・作品10、第1番)、女声合唱とピアノ、シャーンドル・ペトフィ作詞 / 『自然の中』(元 ・作品10, No. 2)、女性合唱団とピアノ、ヴィテスラフ・ハレク作詞(1895)

38 ピアノのための4つのセレナーデ 作品9 (元・作品11)(1895)

39 ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの詩によるピアノ伴奏歌曲「晩年」(1896)

40 アドルフ・ヘイドゥクの詩によるピアノ伴奏歌曲「忘れて」(1896)

41 ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの詩によるピアノ伴奏歌曲「夢」(1896)

42 ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの詩によるピアノ伴奏歌曲「巡礼」(1896)

43 ルドルフ・マイヤーが作った詩によるピアノ伴奏歌曲「痛ましいメロディーが私の魂に響き渡る」(1896)

44 ヨーゼフ・ヴルバタ、ヤロスラフ・ヴルチリッキー、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの詩によるピアノ伴奏つき高声用の5つの歌曲集「心の童話 」Op. 8(1896)

45 ピアノのための5つの舟歌 Op. 10、ヨーゼフ・イラネクに献呈(1896)

46 「エクローグ」 作品11 (元は作品13)、4つのピアノ曲、ヨハネス・ブラームスに献呈(1896)

47 「夕暮れ時に」作品13(元は作品14)、4つのピアノ曲(1896)

48 75曲の民謡の採譜(1896)

49 ピアノ五重奏曲イ短調、作品12(元は作品15)(1896)

50 アドルフ・ヘイドゥク詩によるピアノ伴奏付の4つの歌曲集「ジプシーのメロディー」作品14(1897)

51 ピアノ連弾のための3つのボヘミア舞曲、作品15(1897)

52 モラヴィアの民謡の歌詞に民族的な雰囲気を添えた歌(1897)

53 モラヴィア民謡の詩による歌、作品16、シリーズI、声楽とピアノ(オーケストラ)、カレル・コヴァジョヴィッチ(ヨシュ・ウープルカ)に献呈(1897)

54 モラヴィア民謡の詩による歌、作品17、シリーズII、声楽とピアノ(オーケストラ)、レオシュ・ヤナーチェクに献呈(1897)

55 ピアノ五重奏曲イ短調、作品12(元は作品15)第2稿(1897)

56 舞曲の習作(元は作品17)(1898)

57 劇的序曲「マリシャ」作品18、ムルシュティーク兄弟による同名のドラマに基づく大管弦楽のための。「親愛なる友人アルとヴィル・ムルシュティーク」に献呈(1898)

58 モラヴィアの民謡の詩によるバラード 2 曲: ラノシャ、ザクレタ ドチェラ 作品 19、混成合唱と 4 手ピアノ伴奏 (オーケストラ)、カレル・クニットルに献呈(1898)

59 モラヴィア民謡の詩による歌、作品21、シリーズIII、声楽とピアノ(オーケストラ)、フランティシェク・マレシュに献呈(1898)

60 ヴァイオリンとピアノのための3つの小品、作品3、(元は作品5)(1899)

61 「我が五月」、作品20、4つのピアノ曲(1899)

62 弦楽四重奏曲第1番ト長調 作品22(1899)

63 ピアノのためのバガテル 作品5(1899)

64 オルガンのためのヤン・ミチュネクに捧げられたワラキアの愛の歌への前奏曲(1899)

65 ピアノ四重奏曲ハ短調、作品7 第2版

66 ヤロスラフ・ヴルチツキーの詩のドイツ語訳に基づいた中声とピアノのための 4 つの歌曲「春の気分」(1900)

67 モラヴィアの民謡の詩によるバラード 2 曲: 混声合唱と 4 手ピアノ (オーケストラ) のための「殺意に満ちた恋人」、「不幸な戦争」作品 23、「有名なブルノ フィルハーモニー協会」に献呈(1900)

68 ピアノのための「ソナタ・エロイカ」、作品24(1900)

69 スロバキアの歌曲、ピアノ伴奏付きのスロバキア民謡の編曲、第1巻、第1~15(1901)

70 「メランコリー」Op. 25、ピアノ伴奏付きの中声のための8曲の歌曲集、アントニン・ソヴァ、ヤロスラフ・クヴァピル、ヨーゼフ・スヴァトプルク・マシャールによる歌詞(1901)

71 2 つの合唱曲 「プリムラ・ヴェリス」「ヴェスペレ」、女性声楽とピアノ伴奏、ニコラウス・レーナウ、シャーンドル・ペトフィ作詞(1901)

72 25 曲のスロバキア民謡、ピアノ伴奏付き声楽(1901)

73 大管弦楽のための交響詩「タトラ山脈にて」作品26、(1902)

74 ピアノ三重奏曲ニ短調「バラード風に」op. 27(1902)

75 2つのバラード、作品28、中声とピアノのための曲、ヤン・ネルーダ作詞、マリア・ムシロヴァに献呈(1902)

76 ヤン・ネルーダ作「魂のバラード」Op. 29、ピアノ伴奏付きベースのための、アントニン・クラシュテルスキーの言葉、ヴァーツラフ・クリメントに献呈(1902)

77 「冬の夜の歌」、作品30、4つのピアノ曲(1902-03)

78 「新王国の谷」、作品31、高声部とピアノのための4つの歌、アントニーン・ソヴァ作詞、’編曲1931年(1903)

79 「スロヴァツカ組曲 」Op. 32、小オーケストラ(ピアノ)のための(1903)

80 「永遠の憧れについて」、作品33、ハンス・クリスチャン・アンデルセンに基づく大管弦楽のための交響詩(1903-05)

81 ピアノのための2つのワラキア舞曲、作品34(1904)

82 1904年2月15日のホフマイスター夫妻の結婚式に捧げられたユーモラスな随筆(1904)

83 弦楽四重奏曲第2番二長調 作品35(1905)

84 小管弦楽のためのセレナード ニ長調 作品36(1905)

85 6つの男性合唱曲、op. 37、アカペラ、ヤロスラフ・ヴルチリッキー、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデク、ヤロミール・ボレッキー、ヤン・ネルーダによる詩(1906)

86 「メランコリックな愛の歌」 Op. 38、ピアノ伴奏付き声楽のための 4 つの歌のサイクル、ヤロスラフ ヴルチリッキー、ヤロミール ボレッキー、ヤン ネルーダによる詩、ボジェナ トゥモヴァに献呈(1906)

87 「ノットゥルナ (夜の気分)」 Op. 39、ピアノ伴奏付きのドイツの詩人の詩による 8 曲のサイクル、カール・ブルケ、リヒャルト・デーメル、ルートヴィヒ・ヤコボウスキー、ヘルマン・リング、ルートヴィヒ・ウーランド、カール・グスタフ・フォルミュラー、オスカー・ウィーナーによる詩、および「子供の魔法の角笛」による(1906-08)

88 チェコの伝説に基づいた大管弦楽のための交響詩「トマンと森の乙女」作品40(1904-07)

89 大管弦楽のための交響詩「タトラ山脈にて」作品26、 改訂版(1907)

90 スロバキアの歌曲、ピアノ伴奏付きの声楽編曲、第2巻、第16~25番(1906-07)

91 ヤロスラフ・ヴルチリッキーによる悲劇の序曲「レディ・ゴディバ」Op. 41、(1907)

92 ピアノ連弾のためのニ長調のガヴォット(1907)

93 ピアノソナタ第 2 番の断片(1907)

94 「ニンナ - ナンナ」インドのメロディーによるピアノの子守唄、ロザリオに献呈(1907)

95 カンタータ「嵐」、作品42 スヴァトプルク・チェフ(1908~1910年)の同名の詩に基づく、大オーケストラ、独唱、混声合唱のための海の幻想曲(1908-10)

96 5楽章のピアノのための交響詩「パン(牧神)」、作品43(1910)

97 「祖国について」Op. 44、アカペラ男性合唱団8人、チェコとモラヴィアの民謡歌詞、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデク、ヤン・ボット、ペトル・ベズルチ、ボフミル・トジチカによる(1911)

98 「エグゾティコン」 作品45、ピアノのための小組曲(1911)

99 5楽章の管弦楽のための交響詩「パン」作品43(1912)

100 「エロティコン」作品46、声楽とピアノのための6つの歌、作詞:リチャード・デーメル、オットー・ユリウス・ビアバウム、フリードリヒ・ヘッベル、カール・ヘンチェル、マルティン・グライフ、オットー・E・ハルトレーベン、「私の花嫁」献呈(1912)

101 オタカール・ブジェジナの4つの詩、Op.無伴奏混声合唱団のための第47番、フラホール・ヴィノフラツキーに献呈(1912)

102 「婚礼のシャツ(幽霊の花嫁)」、作品48、カレル・ヤロミール・エルベンの独唱とオーケストラのためのバラード、1912年から1913年プラハ歌劇場に献呈。(1912-13)

103 『ズヴィコフスキー・ララーシェク』Op. 49、一幕物のコミック オペラ、台本はラディスラフ シュトロペジュニツキー(1914)

104  「カルルシュテイン」Op. 50、3 幕のオペラ、ヤロスラフ ヴルヒリッキーの喜劇『カルルシュテインの夜』に基づくオトカー フィッシャーの台本(1915-16)

105  「強さと反抗」Op. 51、アカペラ6人の男声合唱団のサイクル、ヤン・ネルーダ、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデク、フランチシェク・セラフィン・プロハースカ、ヨーゼフ・スヴァトプルク・マシャールによる歌詞、「チェコの作家」に献呈(1916-17)

106  「春」作品52、ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの詩による子供の世界の歌20曲、ピアノ(オーケストラ)伴奏付き、1918年「私たちの春」に献呈(1918)

107  3つのチェコの歌、作品53、男声合唱、大オーケストラとオルガンの伴奏、ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの作詞、1918年チェコスロバキア軍団に献呈(1918)

108  「TG マサリク」ヨシフ・スヴァトプルク・マチャールの同名の詩に基づく、オーケストラ伴奏(混声合唱とピアノ、ブラスバンド、単声合唱とハーモニウム)付きの男声合唱のための 2 つの歌(1918)

109  「チェコスロバキアの勝利者たちへ」カレル・マシェクの詩による祝賀行進曲、歌とピアノ(無伴奏男声合唱)(1918)

110 「シュテファニコヴァの死について」ルジェナ・イェセンスカーの詩による無伴奏男声合唱のための挽歌(1919)

111 ピアノのための6つのソナチネ 作品54(1919-20)

112  「青春」作品55、小さなピアノ曲、「私の妻」に献呈(1920)

113 『フランダースの野にて』、男声合唱アカペラ、ジョン・マクレー作詞(1919)

114 ズノイモ フィルハーモニー管弦楽団に捧げられた、無伴奏男声合唱のためのスロバキアの民謡 12 曲(1921)

115 「ランタン」 Op. 56、4 幕の音楽おとぎ話、アロイス ジラーセクにちなんだハヌシュ イェリネクの台本(1919-21)

116 「ピエシュチャニの歌」カレル・プリッカのコレクションからの声とピアノのための民謡の編曲、スラブカ・トンデローヴァに献呈(1922)

117 スロバキアの歌、声とピアノのための、第 3 巻、第 1 巻。 26–40、クリスティーナ モルフォヴァに献呈(1923)

118 ピアノ伴奏付きフォークソング「民謡の花束」(1923)

119 「祖父の遺産」作品57、3幕8場の交響的間奏曲を含む叙情的なオペラ。アドルフ・ヘイドゥクの同名の詩に基づくアントニーン・クラーシュテルスキーの台本(1923-25)

120 「ベドジフ・スメタナ」スメタナの祝典ファンファーレ(1924)

121 カール・ホフマイスターに捧げられた子守唄(1925)

122 ウィーンにおけるユニバーサル・エディション創立記念日に(1925)

123 スロバキアの歌、声とピアノのための、第 4 巻、第41〜50番、カレル・プリッカのコレクション「ピエスネ・ヴルチョフスケ」の曲、ジュリア・ワルデコヴァに献呈(1926)

124 スロバキアの歌 声とピアノのための、第5巻、第51~60番、カレル・プリツカの歌集『東スロバキアの歌』より、パベル・リュディカルに献呈(1926)

125 「母なるスラヴィアへ」無伴奏男声のための儀式用合唱団、アントニン・クラーシュテルスキー作(1927)

126 「シニョリーナ・ジョヴェントゥ」作品58、スヴァトプルク・チェフの同名のテーマに基づいたプロローグ付きの7つのシーンのバレエ・パントマイム(1926-28)

127 「ニコティナ」作品59、スヴァトプルク・チェフの同名の短編小説に基づいた7つの場面からなるバレエパントマイム(1929)

128 スロバキアの歌、声とピアノのための、第 VI 巻、第 1 巻。 61 ~ 80 年、パーヴェル ブラー (スラブカ トンデロヴァ ザトコヴァ) に献呈(1930)

129 スロバキアの歌、声とオーケストラのための 36 曲(1930)

130 「ニコティナ」オーケストラのためのバレエ組曲(1930)

131 ズデニェク・ネイェドリとオタカール・オストルチルに関する風刺作品、アカペラ男声合唱団、自作のテキスト(1930-31)

132 「人生より」作品60、モラヴィアの民謡の詩による20の無伴奏男性合唱曲(1932)

133  12の子守唄、作品61、モラヴィアの民謡の歌詞に基づく女声合唱アカペラ、アンナ・ポルマノヴァ=プレクリコヴァに献呈(1931)

134 「秋の交響曲」 Op. 62、男声と女声の合唱団による大オーケストラのための、ヴィテスラフ・ノヴァーク、ヤロミール・ボレッキーによるテキスト、モラヴィア民謡、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団に献呈(1931-34)

135 二つのロマンス Op. 63、オーケストラ伴奏付きの独唱(アルト、バリトン)、ヤン・ネルーダの詩による、マルタ・クラソヴァ、ズデニェク・オタフに献呈(1934)

136 「追悼」op. 65、弦楽オーケストラ、ハープ、タムタムの伴奏による中声のための4つの歌のサイクル、ペトル・クシチュカ、ヤロスラフ・ヴルチリッキー、ヤロミール・ウーリーシュによる歌詞、「親愛なる義理の妹アンドゥルカの思い出」に(1936-37)

137  大管弦楽のための「南ボヘミア組曲」、作品64(1936-37)

138  弦楽四重奏曲第3番ト長調 作品66(1938)

139 無伴奏男声合唱団のためのスヴァトプルク・チェフの「広い世界で誰も信用するな、そこには友達は一人もいない」(1938)

140 大オーケストラとオルガンのための交響詩「デ・プロフンディス」作品67(1941)

141 チェロとピアノのためのソナタ Op. 68、ジンドジフ・マースルに献呈(1941)

142 「故郷」Op. 69、6人の男声合唱団アカペラ、ヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデク、カレル・シェレパ、アントニン・ソヴァ作詞、ジンジチュフ・フラデツのスメタナ歌唱協会、カメニツェ・ナド・リポウ、ポチャトキー、ブルノのオーパス歌唱協会に献呈(1941)

143 「聖ヴァーツラフ三連祭壇画」作品70、オルガン(大オーケストラとオルガン)用、アントニーン・ストジーシュに献呈、(1941)オーケストレーション(1941)

144  無伴奏混声合唱団のための5つの混声合唱曲 Op. 71、カレル・ピピッチ=ハヴェルカ、ボフミル・クラトフヴィル、ラディスラフ・テサシュ、フランティシェク・ブラニスラフ、ヨーゼフ・メルハウトによるテキスト、チェコ合唱団・チェコ歌唱協会に献呈(1942)

145 「5月」作品72、ヤン・ネルーダとヨーゼフ・ヴァーツラフ・スラデックの詩による、子児童(女声)合唱のための無伴奏歌曲10曲、キューン児童合唱団に献呈(1942)

146 「山の女王」、アントニン・ストジーシュ詩によるアカペラ女性合唱団のための教会賛美歌(1942)

146b カレル・ホフマイスターの 75 歳の誕生日を祝う賛美歌。混声合唱とオルガンのために作曲され、作者のテキストによるもの(1943)

147 「5月の交響曲(春の交響曲)」Op. 73、カレル・ヒネク・マーハ、ヴィテスラフ・ハレク、フランチシェク・ブラニスラフの詩によるソリスト、混声合唱団、大オーケストラのための、「スラブ人の解放者ヨーゼフ・V・スターリン将軍」に献呈(1943)

148 モラヴィア民謡の詩による歌、作品74、シリーズIV、声楽とピアノ(オーケストラ)、マリア・バカロヴァ、マリア・タウベロヴァに献呈(1944)

149 モラヴィア民謡の詩による歌、作品75、シリーズV、声楽とピアノ(オーケストラ)、マリア・ヴォイトコヴァー、マリア・ブディコヴァーに献呈(1944)

150 モラヴィアの民謡の詩による2つの伝説、作品76、ピアノまたはオーケストラ伴奏付きの中声楽用、ズデニェク・オタフ、マルタ・クラーソヴァーに献呈(1944)

151 「春の笑い」カレル・アダムの詩による無伴奏児童(女声)合唱曲(1944)

151b ココシン渓谷の友人たちに時折冗談を言いながら作曲したもの。ヨーゼフ・クシチェクとボジェナ・ピヴォシェコヴァに献呈(1945)

152 トランペット3本、トロンボーン3本、ティンパニのためのファンファーレ。シムス教授に献呈(1945)

153 プラハの春音楽祭とチェコ フィルハーモニー管弦楽団創立 50 周年を記念して作曲された、トランペット 4 本、トロンボーン 4 本、ティンパニ、バスドラム、シンバル用の 3 つのジングル(1946)

154 「愛」マリー・ノヴァコヴァ詩による声とピアノのための歌曲(1946)

155 「南ボヘミアのモチーフ」 Op. 77、高声とピアノのための5曲、ヤルミラ・ハンザルコヴァ、マリー・ノヴァコヴァ、ヤン・チャレク作詞、「親愛なる両親の思い出」に献呈(1947)

156 4つの子守唄、作品78、マリー・ノヴァコヴァの詩による高声とピアノ(小オーケストラ)用、1947年「友の子供たち」に献呈(1948)

157 「ジシュカ。夜明けの潮目」 Op. 79、フランティシェク・ラシュリクによる劇の付随音楽(1948)

158 「ズリーンの労働者の歌」作品79、マリー・ノヴァコヴァ作詞の小カンタータ、混声合唱と管弦楽のための(1948)

159 チェコとモラヴィアの民謡、ヴィテスラフ・ノヴァーク提供のピアノ伴奏、第1番 - 8番: チェコの歌(1948)

160 チェコとモラヴィアの民謡、ヴィテスラフ・ノヴァーク提供のピアノ伴奏、第9番 - 16番: モラヴィアの歌(1948)

161 「星」女性合唱団と交響楽団(ピアノ)、マリー・ノヴァーコヴァによるテキスト(1949)

162 「天文時計では永遠の年は秒である」(未完成のカンタータ)(1949)

(2026.7.9 公開)

2026年6月27日土曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァークの生涯と作品

 I. はじめに


A. ヴィーチェスラフ・ノヴァークの紹介にあたって

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(Vítězslav Novák、本名ヴィクトル・アウグスティン・ルドルフ・ノヴァーク、1870年12月5日カメニツェ・ナド・リポウ生-1949年7月18日スクテチ没)は、ベドジフ・スメタナ、アントニーン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェク、ボフスラフ・マルティヌーと並んで「チェコ音楽の四つ葉のクローバー」を取り囲むように位置づけられる、20世紀前半チェコ音楽を代表する作曲家であり、また同時代において最も影響力の大きかった音楽教師の一人である。プラハ音楽院でアントニーン・ドヴォルザークの作曲マスタークラスに学び、後年は同校の教授、さらに二度にわたり学長を務め、ラディスラフ・ヴィツパーレク、アロイス・ハーバ、イシャ・クレイチ、ヴィーチェスラヴァ・カプラロヴァー、カレル・ヤネチェクといったチェコの作曲家から、オイゲン・スホニ、ヤン・チッケルらスロバキア近代楽派の創始者たちまで、100名を超える作曲家・演奏家・音楽学者を育てた。

本レポートの作成にあたっては、ノヴァーク研究の第一人者であるミロシュ・シュニエラー博士(V.ノヴァーク協会共同設立者・国際V.ノヴァーク協会会長)による評伝、チェコ語の伝記事典(チェコ音楽辞典系統)の「ノヴァーク、ヴィテズラフ」項目、ノヴァークのピアノ全集を録音した唯一のピアニストであるマルティン・ヴォイティーシェク氏のインタビュー、そして音楽学者リュドミラ・ペジノヴァーらによる研究を主たる典拠として用いている。

ノヴァークは「チェコ・モダニズムを代表する作曲家」と評される一方で、「生涯を通じて後期ロマン派の立場に意識的かつ意図的にとどまった作家」とも評される。この二つの評価は矛盾するものではない。ノヴァークの近代性は、シェーンベルクの無調やストラヴィンスキーのリズム革命のような伝統からの急進的断絶にはなく、後期ロマン派の堅固な語法――ベートーヴェン=ブラームス的な単主題主義、フランク楽派的な循環形式、対位法的思考――の枠組みの中に、モラヴィア・スロバキアの民俗音楽、象徴主義・印象主義、そしてヒンデミット風の四度和声まで、生涯にわたり多様な刺激を吸収し続けた点にある。彼はドヴォルザークとヤナーチェクという二つの巨峰の間、そして後にボフスラフ・マルティヌーが「中心人物」として国際的に認められる以前の時代を体現する、いわば世代の「結節点」「中心的個性」として位置づけられている。

B. チェコ音楽史におけるノヴァークの位置づけ

チェコ音楽史において、ノヴァークはヨゼフ・スーク(1874-1935)、オスカール・ネドバル(1874-1930)とともに、1890年代初頭にドヴォルザークの作曲学校から輩出された世代を代表する。この世代は、レオシュ・ヤナーチェクと並んで、あるいはヤナーチェクとは独立して、20世紀前半のチェコ音楽の創造的発展を担った。ノヴァーク、スーク、ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステルの弟子には、チェコ国内外の100人以上の作曲家が含まれており、スメタナとドヴォルザークの作曲学校の遺産から生まれた、論理的かつ継続的な発展の系譜をなしている。

音楽学者ヤロスラフ・ヴォレクは、ノヴァークの生誕100周年(1970年)を記念した論考で彼を「チェコ現代音楽の『中心的』個性」と呼んだ。これは、古典派的なドヴォルザーク、独自の道を行ったヤナーチェク、そして後に世界的評価を得るマルティヌーとを繋ぐ軸としてのノヴァークの位置を的確に言い当てたものである。一方で音楽学者イジー・フカーチは、1989年にハンブルクで開催されたマーラー会議の席上でクルト・ブラウコプフが漏らしたという「ノヴァークの時代は必ず来る」という言葉を表題に掲げ、ノヴァークの音楽が国際的な評価において周縁化されている現状への危機感を表明している。

ドヴォルザークは弟子のスークとノヴァークに別れの言葉として「君たちの将来がどうなるか興味がある――個性こそが全てだ」と語ったと伝えられている。この師の教育哲学――模倣ではなく弟子自身の声の確立を促す姿勢――が、ノヴァークが単にドヴォルザークの語法を継承するのではなく、独自の音楽語法を確立する原動力となった。事実、ノヴァークとドヴォルザークの師弟関係は終始円満であったわけではなく、ドヴォルザークが教育上の規律を求めたのに対し、ノヴァークは「シュトゥルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)と形容される反発の時期を経験している。この緊張関係こそが、彼が独自の道を模索する出発点となった。


II. 生涯


A. 出生と家庭環境(1870-1889)


ヴィーチェスラフ・ノヴァークは、1870年12月5日、ボヘミア・モラヴィア高原の南端、南ボヘミア地方特有の森と池が広がる町カメニツェ・ナド・リポウに、医師ヤクブ・ノヴァーク(1831-1882)と、カメニツェ近郊のヨハンカ狩猟小屋の森林官の娘マリー(旧姓ポレンスカー)の長男として生まれた。洗礼名はヴィクトル・アウグスティン・ルドルフであり、「ヴィーチェスラフ」を名乗るようになるのは1892年頃、音楽院卒業前後のことである。父ヤクブは南ボヘミアの古い農家の出身で、ポチャーツキの歌唱協会「チェホロド」の副会長を務め、母マリーはアマチュアのピアノ奏者であった。とはいえ、ノヴァーク自身の証言によれば、彼の音楽的才能の開花に直接結びつくような家族の音楽活動の証拠は見当たらず、その才能は思春期になるまで明確には現れなかった。
一家は1872年、ヤクブの転居に伴いポチャーツキに移住し、ノヴァークは同地の小学校で学んだ。この時期、すでにヴァイオリンとピアノの基礎を習得していたが、本人はさほど強い関心を示していなかったという。幼少期には頻繁な病気とそれに伴う体力の衰えが見られ、これはバルトークの幼少期を思わせるものであったと評されている。1882年5月29日、父ヤクブが死去(ノヴァーク11歳)すると一家の経済状況は著しく悪化し、母マリーと3人の子供はインドジフーフ・フラデツへ移った。ノヴァークはここで、1881年から1889年まで、彼の名を冠することになるギムナジウム(文法学校)に通った。
インドジフーフ・フラデツでの学生時代、マーハ、バイロン、ハイネ、レーナウといった文学への傾倒が、ノヴァークが終生抱き続けることになる激しいロマン主義的気質の形成に大きく寄与した。音楽的な転機が訪れたのは4年生の時である。地元の消防隊楽団(あるいはブラスバンド)の指揮者であり作曲家・音楽教師でもあったヴィレム・ポイマンがノヴァークを見出し、その音楽的才能の広さと焦点を見抜いた。ポイマンの指導の下、ノヴァークの音楽への関心は次第に激しい情熱へと成長し、彼はフラデツで公開演奏も行うようになり、例えばリストの「ハンガリー狂詩曲第14番」の演奏でその卓越した技巧を示した。彼の最初の作曲の試みもこの高校時代に遡り、マーハの詩『マーイ(五月)』に曲を付けようとした複数の習作(『ロ長調のスケッチ』『ロ短調のスケッチ』など、1888年)が現存している。

B. プラハでの修学とドヴォルザークとの出会い(1889-1892)


1889年6月にギムナジウムを卒業した後、一家はプラハへ移った。音楽家になるという強い志を抱いていたにもかかわらず、ノヴァークは母の強い勧めによりまずカレル大学法学部に入学する。しかし在学わずか2学期で哲学部に転じ、オタカル・ホスチンスキーの美学・音楽史講義とトマーシュ・ガリッグ・マサリクの実践哲学講義に専心することになる(哲学部の聴講は1893年まで続いた。なお博士課程の最終試験は受けずに退学している)。
大学と並行して、1889年にプラハ音楽院に入学した。作曲・理論の授業では、最初はカレル・クニットルに、2年目からはカレル・シュテッカーに師事したが、ノヴァークは音楽院の伝統的な教育手順に従うことに本質的な抵抗感を持っていたとされ、この点はライプツィヒ・ウィーンの音楽院に対して反発し、意図的にこれらを修了しなかったレオシュ・ヤナーチェクの姿勢を思わせる。決定的な転機は、1891-92年度、アントニーン・ドヴォルザークの作曲クラスへの参加であった。ドヴォルザークのクラスでは、年次が一つ上のヨゼフ・スーク、そしてルドルフ・ライシッヒと特に親交を深めた。ノヴァークとドヴォルザークの関係はしばしば緊張をはらみ、教師が彼の創作上の飛躍を形式的に統制しようとする一方、ノヴァーク自身は「シュトゥルム・ウント・ドラング」と称される激動の時期を経験した。この時期の産物として、序曲『海賊』(バイロンの詩的物語に基づく、1892年)が挙げられるが、ノヴァーク自身、この最初の管弦楽曲では楽器編成を完全に習得しきれておらず、旋律の創意工夫にも欠けていたと自己分析している。
1892年7月8日、ノヴァークは『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ短調』の作曲によって音楽院を卒業した。これは彼にとって最初の循環的作品であり、生涯の代表作の一つに数えられる。卒業演奏では自らピアノ・パートを演奏し、これは彼が1896年までヨゼフ・イラーネク教授のクラスで磨いた卓越したピアノ技術を証明するものであった(ノヴァークは肉体的には超絶技巧のピアニストではなかったが、精神的・音響的には極めて優れたピアニズムの理解者であったと評されている)。ドヴォルザークはニューヨークへ旅立った後の1894-95年、ノヴァークはカレル・ベンドルの作曲クラスに時折出席したが、芸術家としては敬意を抱いていなかったという。
音楽院卒業後、ノヴァークは経済的困難に直面した。インドジフーフ・フラデツからの奨学金を失い、母の年金とともに一家唯一の恒久的収入源を断たれたためである。一時はハリコフ音楽院の教授職を検討したが、1894-96年にプラハ音楽院でアプト財団の奨学金を、続いて1896-98年には文化教育省から国家援助を受け、加えてシムロック社からの出版印税が経済状況を好転させた。

C. ヴェルケー・カルロヴィツェの発見とモラヴィア・スロバキア時代(1896-1900年頃)


ノヴァークの独自の作風を決定づけた最大の転機は、1896年7月、ライシッヒの勧めによるワラキア地方フセティーン地方の村ヴェルケー・カルロヴィツェへの旅であった。ベスキディ山脈とヤヴォルニーキ山脈の麓に位置するこの土地で、ノヴァークは豊かな民俗文化と美しい自然に深く魅了され、以後10年間にわたって東モラヴィアとスロバキアへの休暇旅行を繰り返すことになる。これらの土地は、自然の魅力と、それに劣らずエロティックな衝動とが融合した中に、ノヴァークが芸術的自己実現を見出す場となった。
1897年3月21日には、ライシッヒの紹介でブルノにてレオシュ・ヤナーチェクと知り合い、同年8月にはフクヴァルディに招かれている。ヤナーチェクは旅の中でノヴァークにラーシュコ地方の民謡を紹介し、両者は民謡に関する見解の相違を抱えながらも有意義な対話を重ねた。続くスロヴァツコ地方への旅では、画家ヨジャ・ウプルカがフロズナー・ロタでノヴァークを歓待し、彼はヴェルカー・ナド・ヴェリチコウ、ヤヴォルニーク、クニェジュドゥブ、ストラージニツェ、ブジェツラフ、コスティツェといった民俗創作の中心地を巡った。1897年にはスロバキアへも旅し、トレンチーン周辺で見事な民謡に魅了されつつ、同時にハンガリー支配下にあるスロバキア人への抑圧の実態を目の当たりにした。これらの旅で、ノヴァークはアンドレイ・フリンカ、ミラン・ラスチスラフ・シュテファーニク、ヴァヴロ・シュロバール、ドゥシャン・マコヴィツキーといった、後にスロバキアの政治・文化の重要人物となる人々と知り合った。
ノヴァークは、ヤナーチェク、バルトーク、コダーイとは対照的に、民謡そのものの組織的な収集にはほとんど携わらなかった。彼が重視したのは、フランティシェク・スシル、フランティシェク・バルトシュ、カレル・ヤロミール・エルベン、カダヴィといった既存の民謡集の比較研究を通じて、長短調性や中世旋法の影響、いわゆる「カルパティア弧」(ハンガリー、ルーマニア、バルカン半島の一部、遊牧民のジプシー・ダルシマー楽団を含む)に特徴的な潜在的調性・和声的傾向を抽出することであった。この研究の集大成として、未出版の『モラヴィア民謡75曲の注釈』(1896年、独唱とピアノ編)が残されている。
創造的民俗主義の発展は三段階を経たと整理される。第一段階は民謡の編曲・注釈(『モラヴィア民謡75曲』など)、第二段階は室内楽作品における民謡の部分的・変形的引用(『ピアノ五重奏曲イ短調』Op.12、1897年、『弦楽四重奏曲第1番ト長調』Op.22、1899年など)、そして最も高度な第三段階が、民謡の素材ではなく民俗テキストの精神そのものから叙情的・劇的なイメージを独自に創造する「ラディカルなネオ・フォークロリズム」であり、これは『モラヴィア民俗詩の言葉による歌』全3シリーズ・全28曲(1896-97年)に結実した。これらの歌曲には民謡旋律そのものの引用は一切ないが、テキストの内容を様式的・音楽心理的に深く想像する手法は、ヤナーチェク、バルトーク、後のストラヴィンスキーやシマノフスキ、エネスコらの同時代的潮流と軌を一にするものであった。

D. プラハ・ブルノでの地位確立と国際的評価(1900-1912年)


1890年代後半、ノヴァークは次第にプラハの社交界から距離を置き、ブルノにより好ましい創作環境を見出した。ブルノでは、ライシッヒと彼が合唱指揮者を務めたベセダ・ブルニェンスカの活動を通じて熱狂的な「ノヴァーク崇拝」が形成され、ヴェスナ協会やその理事長フランチシェク・マレシュもノヴァークの作品の普及に貢献した。1900年3月14日にはブルノに芸術クラブが設立され、初夜にはノヴァークの作品が演奏され、彼自身も名誉会員に任命された。20世紀最初の10年間、ノヴァークはモラヴィア音楽を代表する作曲家とみなされるに至った。
この時期のハイライトは、1910年4月17日、ベセダ・ブルノにてチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とベセダ・ブルノ・フィルハーモニー合唱団がライシッヒの指揮で初演したカンタータ『嵐』である。プラハから特別列車が手配されるほどの反響を呼び、ノヴァークはチェコ現代音楽における主導的地位を確立した。一方プラハでも、1900年9月28日に芸術評論委員会の委員に選出され(後に名誉会員)、1906年12月1日にはチェコ科学芸術アカデミーの通信会員(後に正会員)となるなど、地位を固めていった。
1909年9月1日、プラハ音楽院の新設マスタースクールにおいて作曲科教授に就任。これは家族生活の物質的安定をもたらした。1910年には、当時チェコの出版社が技術的事情から管弦楽総譜の出版ができなかったため、ウィーンのユニバーサル・エディション社から自身の管弦楽曲出版の打診を受け、社長エミール・ヘルツカの厚意により、1932年のヘルツカの死去まで多くの作品が同社から出版された(後にヘルツカが1916年プラハ初演の『イェヌーファ』を発見し、ヤナーチェクの出版に注力するようになると、ユニバーサル・エディションへの関心はいくぶん薄れた)。1912年4月13日にはウィーン音楽演劇アカデミーの音楽理論・作曲教授職の打診を受けたが、愛国的な理由とチェコを代表する作曲家としての立場への忠実さから、慎重な検討の末これを辞退した。同年7月8日、かつての教え子で、スクテチの工場主の娘マリー・プラシュコヴァーと結婚している。

E. 戦前・戦間期――公的生活と論争(1912-1938年)


1914年2月16日、後に画家となる息子ヤロスラフが誕生した。マリーは終生ノヴァークの頼れる支えとなり、晩年の作品では自ら台本・歌詞を提供することもあった。第一次世界大戦前、ノヴァークの創作は内的・社会的危機も経験している。チェコ音楽界の重鎮たちから自身の作品――『ピアノ五重奏曲イ短調』、『弦楽四重奏曲第1番ト長調』、ピアノソナタ『エロイカ』など――に対する痛烈な批判を受け、これに憤慨した。これと並行して、いわゆる「ドヴォルザーク論争」(晩年のドヴォルザーク作品に対する一部批評家の評価をめぐる論争で、ノヴァーク自身はドヴォルザークを擁護する側に立った)や、ズデニェク・ネイェドリー、ヨゼフ・バルトシュ、ヴラジミール・ヘルフェルトからの否定的な評価にも不快な思いを抱いた。1916年11月18日、国立劇場開館30周年記念に際し、カレル・コヴァジョヴィッチの判断でスメタナの『リブシェ』ではなくノヴァークの『カルルシュテイン』が上演されたことは、若い音楽世代(ヤロスラフ・イェレミアーシュら)の反発を招き、ネイェドリーが同作を「国民的偽物」と呼ぶなど、プラハの一部批評家による反ノヴァーク的論調の前兆となった。
チェコスロバキア共和国建国(1918年)後、ノヴァークは公的生活に積極的に参加した。文部・国民啓蒙省諮問委員会委員(1918年)、和声・対位法分野の国家試験委員会委員(1919年、1933年から委員長)、チェコ・フィルハーモニー協会委員、現代音楽協会の設立趣意書起草(1920年)、チェコ作曲家クラブ副会長(1921年)などを務め、オスカール・ネドバルの戦時行為を非難し、オタカル・オストルチルの国立劇場オペラ座首席への昇進を支持するなど公務にも積極的に介入した。1920/21、1921/22、1927/28年度の3期、プラハ音楽院学長に選出され、同院の国有化と新校舎建設に特に尽力した。
1920年代に入り、若い作曲家たちが主観主義的な後期ロマン派様式を拒絶し西欧モダニズムへ向かう中、ノヴァークへの関心は全般的に低下した(例外的にアロイス・ハーバは後年ノヴァークの作品を模範的と評価し、ヤナーチェクもノヴァークの世代の業績を称賛した)。作曲家は鬱と病気、とりわけ深刻な視力の衰えに悩まされたが、国内外の栄誉――フランス学士院・美術アカデミー名誉会員(1920年)、リュブリャナのグラスベナ・マティカ名誉会員(1928年)、ブラティスラヴァのコメニウス大学名誉博士(1928年)など――を受け続けた。国家賞も『ルツェルナ』(1924年)、『ジェドゥーフ・オドカズ』(1926年)、『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』(1928年)に対して授与されている。1930年12月の60歳記念には、プラハを中心にブルノ、ブラティスラヴァでも多数のコンサート・講演会・祝賀行事が催された。
一方、1930年代初頭にはオタカル・オストルチルとの公開論争という暗い出来事もあった。ノヴァークは国立劇場経営陣との長年の不満を「ヴィーチェスラフ・ノヴァーク対オタカル・オストルチル」と題する文書で公にし、オストルチル側にはヨーゼフ・ボフスラフ・フェルステル、オタカール・ジヒ、ノヴァークの弟子ラディスラフ・ヴィツパーレクらが、ノヴァーク側にはオタカール・ショレクが散発的についた。この論争でノヴァークは自身の有名な皮肉なウィットを失わなかったが、心身ともに疲弊し、再び公的な場から身を引くこととなった。なお、本論争はノヴァーク自身が攻撃を受けた被害者という単純な構図ではなく、彼自身もズデニェク・ネイェドリーへの応答として『科学批評の鏡に映るズデニェク・ネイェドリー』(1931年)という著作を発表するなど、当事者として積極的に論争に加わった点に注意が必要である。
1933年1月9日にはローマのサンタ・チェチーリア王立音楽院、1938年5月21日にはストックホルムのスウェーデン王立音楽院の名誉会員に選出されるなど、国際的な栄誉も続いた。1936年にはポチャーテク、カメニツェ・ナド・リポウ、インジフーフ・フラデツ、1938年にはピーセクの名誉市民となっている。

F. ナチス占領下と晩年(1938-1949年)


1938年春、不穏な政治情勢を予感したノヴァークは遺言状を準備し、英国の音楽評論家ローズ・ニューマーチに祖国への支援を求めた。ミュンヘン会談(1938年9月)後、連合国の裏切りに憤慨してフランスとイタリアからの名誉を返上している。1939年、引退に伴いプラハ音楽院を去り、国立音楽教師試験委員会委員長の職も辞任せざるを得なくなり、これが家族の経済状況を悪化させた。それでも同年、『南ボヘミア組曲』によりチェコ・ランド賞を受賞した。
占領下、ノヴァークはしばしばボヘミア・モラヴィア高原スクテチにある妻の実家に避難し、ここで友人――特にアントニーン・スルバの勧め――を得て回想録『彼自身と他者について』(O sobě a o jiných、1946年)の執筆を始めた。1938年9月30日のミュンヘン会談直後には、男声合唱アカペラのための痛切な作品(スヴァトプルク・チェフの歌詞による)を作曲し、護国卿領樹立は彼の創作力を一時的に麻痺させ、自殺すら考えたとされる。しかし1941年には信じられないほど短期間のうちに、交響詩『深き淵より(デ・プロフンディス)』Op.67、『チェロとピアノのためのソナタ』Op.68、合唱連作『ドモフ(祖国)』Op.69、そしてオルガンのための『聖ヴァーツラフ三連祭壇画』Op.70という4つの大作を一気に書き上げている。これらの作品は、堅固な構成感覚と濃密なポリフォニーによって、占領下の重厚な悲劇性と明るいカタルシスへの希望を同時に表現するものであった。
占領期最大の傑作は、カレル・ヒネク・マーハ、ノヴァーク自身、フランチシェク・ブラニスラフの詩による声楽交響曲『五月交響曲』Op.73(1943年)である。当初『春』と題される予定であったこの作品の終楽章は、スターリングラードにおける赤軍の勝利の報に触発されたもので、ドイツ国歌とベートーヴェンの「歓喜」の動機を不吉な様相で引用しつつ、最終的に「われらが祖国いずこ」の旋律を勝利の象徴として結ぶ。実際の初演は解放後の1945年12月5日、ノヴァーク75歳の誕生日を祝う式典の一環として行われた。
1945年6月、ノヴァークはプラハに戻った。同月スロバキア作曲家クラブの会員兼会長に任命され、同年11月27日にはヨーゼフ・ボフスラフ・フェルステルとともに、創設されたばかりの「国民芸術家」の称号を最初に授与された(当時、この称号はまだ後年のような風刺的非難の対象とはなっていなかった)。1946年2月20日にはチェコ作曲家組合の名誉会員(1947年に名誉会長)に選出された。1948年にはチェコ代表団を率いてコペンハーゲンの国際現代音楽協会(ISCM)音楽祭に参加し、ブレティスラフ・バカラの指揮による『深き淵より』が上演され、同協会の名誉会員に任命されている。
晩年は心臓病に悩まされ、テプリツェ・ナド・ベチヴォウで治療を受けた。それでも1947年には声楽とピアノのための最後の歌曲集『南ボヘミアのモチーフ』Op.77、『4つの子守歌』Op.78を作曲し、故郷と幼少期というテーマに立ち戻った。1948年には、ヤン・ジシュカを題材とするフランチシェク・ラハリクの劇のための舞台音楽『ジシュカ(夜明けの刻)』Op.79を作曲――ノヴァークはそれまで舞台音楽や映画音楽を原則として避けていたため、これは異例の作品であった。最後に完成した作品は、妻マリーの詩による女声合唱と交響楽団のための『スター(Hvězdy)』(1949年)である。
ヴィーチェスラフ・ノヴァークは1949年7月18日、スクテチで急逝した。同年7月25日、プラハの芸術家会館で立葬が執り行われ、遺灰は1951年からペトシーンの丘のキンスキー庭園にある彫刻家ヤン・コデットの記念碑の下に安置された。リヒャルト・シュトラウスが同年9月8日に世を去ったことから、この1949年は、チェコとドイツの両方において後期ロマン派音楽の偉大な時代が決定的に終焉を迎えた年とされている。1955年にはスクテチに、そして1955年には妻マリー・ノヴァーコヴァーの遺志に基づき、夫妻が暮らしたスクテチ・ルビチコヴァー通り364番地の家が国に寄贈され、記念碑が設けられた。ノヴァークの遺産は1980年設立のヴィーチェスラフ・ノヴァーク協会(2007年より国際ヴィーチェスラフ・ノヴァーク協会)によって今日まで継承されている。

III. 人物・性格


ノヴァークは文法学校や大学での勉学そのものに喜びを見出すことはなかったが、幅広く深い教養を身につけた人物であった。ドイツ語、フランス語、英語、後年にはスペイン語とロシア語の学習を好み、これを作曲活動の後のリフレッシュと捉えていた。散文・詩の熱心な読者であり、文学――とりわけマーハ、バイロン、ハイネ、レーナウら――は彼の作品の主要なインスピレーション源であった。作曲した歌曲の歌詞では、チェコの詩人ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラデクを最も多く用い、ヤロスラフ・ヴルヒリツキー、ヤン・ネルダ、アントニーン・ソヴァらが続く。妻マリーもまた、晩年の作品でテキストを提供した「作家」の一人であった。視覚芸術も大きなインスピレーション源で、幅広い画家・芸術家と親交を結び、ヨーロッパ各地の代表的な美術館を訪れている。
熱心な旅行家であり、夏季には国内外を旅した。東モラヴィアとスロバキアを広く巡り、年齢を重ねるにつれ故郷の南ボヘミアにも足を運ぶようになった。ヨーロッパでは、オーストリア、ドイツ、スイス、フランス、スペイン、バルカン半島、バルト海諸国を訪れている。活発な運動選手・登山家でもあり、この趣味のために1905年8月24日、タトラ山脈の岩峰シュピチャター・ヴェジュ(Špičatá věž、「尖った岩峰」の意)から転落し、危うく一命を落としかけたこともあった。ハイキング、登山、水泳、スキーを好み、エクセルシオール・ダンス・スクールの音楽教師を務め、日曜日のサッカー観戦を熱心に楽しんだという逸話も残っている。
作曲家ミロスラフ・カベラーチは、ノヴァークの人柄を次のように回想している――「彼は毅然とした、誇り高く、妥協を許さない、タフで、時に頑固なところもあった。善良で心優しい一方で、皮肉屋で、痛烈に嘲笑う人物でもあった。英雄的でありながら、英雄的に奔放だった。ユーモアは彼の最大の魅力であると同時に、最大の武器でもあった。彼の思考と表現方法は、周囲の人々を無関心にさせることはなかった――彼は人々を惹きつけ、魅了し、納得させ、あるいは苛立たせたのである。」この回想は、ノヴァークの性格が彼自身の作品の特徴と密接に調和していたことを物語る。一方には、強い孤独傾向、憂鬱な傾向、そして数多くの内的危機が存在し、これは『メランコリア』、『三重奏曲ニ短調 quasi una ballata』、『新王国の谷』、『永遠の憧れについて』といった叙情的で瞑想的な作品に反映されている。他方では、ノヴァークは機知に富み、友人に囲まれることを好んだ。彼のユーモアは、彼自身が設立に関わったポツカルスカ・フィルハーモニー管弦楽団――1901年から音楽出版者アドルフ・ミケシュのアパートで活動し、1917年の解散まで彼の作品のほぼすべてが非公開初演された音楽サークル――でのパーティーなどで有名であり、シーヌ・ボウリング・クラブやフィリドール・チェス・クラブへの出演、ヴィカールカに本部を置く旧プラハ・ビール・クラブの設立にも関わった。このユーモアとウィットは『ズヴィコフスキー・ララーシェク』『ニコティナ』『チェルトフスカー・ポルカ』など、数多くの作品にも浸透している。
性格上の特筆点として、ノヴァークは自己批判的な作曲家であり、これはいくつかの作品番号の取り消し(撤回)という形でも表れていた。音楽院の同級生ヨゼフ・スークと対照的に、彼には本来「音の想像力」が乏しく、印象派の楽譜に親しむまでは管弦楽そのものを好まなかったとも指摘されている。それにもかかわらず、後年には歌曲集やピアノ曲集のほとんどすべてを管弦楽編曲したが、その結果が常に完全に成功したとは言えない場合もあった(『パン』の管弦楽版が一例として挙げられる)。作曲上の短所としては、オペラにおいて純粋な音楽的インスピレーションより知性が時に優位に立つこと、また一部の作品における音響絵画への過度な固執(『婚礼のシャツ』など)が挙げられている。

IV. 作品の特徴


ノヴァークの音楽は、後期ロマン派の堅固な語法を基盤としながら、モラヴィア・スロバキアの民俗音楽、フランス印象主義・象徴主義、そしてヒンデミット風の和声まで、生涯にわたり多様な刺激を吸収し続けた点に特徴がある。以下では、和声、旋律、リズム、形式(単主題主義とポリフォニー)、オーケストレーションの各側面から、その独自性を検討する。なお、複調性・多調性の使用は限定的であり(無調には至らない)、四度和声の影響は主にパウル・ヒンデミットからの後年(1930年代以降)の刺激として位置づけるべきものである点を、ここで明確にしておきたい。

A. 和声――調性に基づく豊かな彩り


ノヴァークの和声は基本的に調性に基づいている。時に複調性、多調性、自由調性が混ざり合うことはあるが、無調性に至ることは決してない。彼はリヒャルト・シュトラウス、リムスキー=コルサコフ、フランス印象主義、そして民俗音楽からインスピレーションを得て、後年にはパウル・ヒンデミットの四度和声の影響も取り入れた。ノヴァークは和声的要素を、旋律やリズムなど他の要素への従属から解放し、しばしば表現力と雰囲気作りにおいて支配的な役割を与えている。その豊かさは特徴的で、予期せぬ和声的連結がしばしば現れる。印象派音楽との接触以降は、付加音による彩色、第九・第十三和音の自由な使用、平行和声、準備も解決もされないポリフォニー、頻繁で予期せぬ転調といった語法も取り入れられた。
重要な点として、ノヴァーク独特の印象主義的な響きは、クロード・ドビュッシーの作品に実際に触れる以前に、すでにその萌芽が見られたとされる。この傾向は特にメロディーとハーモニー(民俗音楽の影響を通じて)に顕著で、印象派音楽との出会い以降は楽器編成にも明確に現れるようになった。これは、ノヴァークが単に流行を後追いしたのではなく、民俗音楽研究という独自の経路を通じて、当時のヨーロッパの音楽的進化と類似の地点へ独自に到達したことを示唆している。

B. 旋律――民俗的源泉と叙情性


ノヴァークは美しく表現力豊かな旋律の構築を重視した。出発点はショパン、リスト、チャイコフスキー、ブラームス、グリーグからの折衷的な影響であったが、1896年以降、モラヴィアとスロバキアの歌曲様式が彼の旋律語法に深く浸透した。1896年から1900年にかけては民俗的なテーマとの関連でこの様式が前景化し、1900年以降は典型的なイントネーション(リディア旋法的な増4度、ミクソリディア旋法的な短7度などの音程的特徴)として作曲構造の恒久的な一部となった。これは特定の地域様式というより、モラヴィアとスロバキアの諸要素が融合した「モラヴィア=スロバキア様式」と呼ぶべきものである。いくつかの作品(『南ボヘミア組曲』など)には、南ボヘミアの歌からのインスピレーションも見られ、主題上の必要性と密接に関連して外国の歌が引用される点も特徴的である。対照的に、合唱的な旋律のイントネーションも重要な位置を占め、深刻な作品の知的な頂点にしばしば現れる(『永遠の憧れについて』『パン』『弦楽四重奏曲ニ長調』『カルルシュテイン』など)。1939年以降は行進曲風の旋律が前景化する(『五月交響曲』『ズリーンの労働者の歌』)。
ノヴァークの作品には、民謡そのものを思わせるほどの旋律線がいくつか存在する。例えば、ピアノ連作『わが五月』の「スロヴァーツカ」終結部、合唱連作『モラヴィア民謡』の「ネシュチャスナー・ヴォイナ」第4合唱、組曲『スロヴァーツカ』中「ウ・ムジキ」(ヴェルブンの主題)などである。また、いくつかの作品では民謡からの直接的引用、あるいは僅かに改変した引用を意図的に用いている――序曲『マリシャ』における「美のために、お嬢さん、何を持っているの?」、ピアノソナタ『エロイカ』第1楽章主題のスロバキア歌曲『ホヴォランの周りで』からの構成、カンタータ『嵐(ボウレ)』冒頭イントラダの『ラクースキー・シーサル・パン』、ピアノソナチネ『ズボイニツカー』における『パソル・ヤノ・トリ・ヴォリ・ウ・ハヤ』などである。これは民謡への科学的アプローチというより、芸術的インスピレーションを得るための創作的手法と言うべきものである。

C. リズムと拍節


ノヴァークの音楽は、民謡が持つシンコペーション、三連符による均等拍子への好み、様々な「時間の伸縮(タイムラプス)」的なリズムの影響を強く受けている。ヤナーチェクがモラヴィア民謡から非対称的フレーズや特有のリズムを取り入れたのと同様、ノヴァークも民俗的リズムの不規則性を自身の語法に組み込んだが、両者のアプローチは異なる。ヤナーチェクの音楽は民謡の特異性(イディオシンクラシー)をより直接的に反映する方向へ進んだのに対し、ノヴァークはこれを自身の堅固な構成原理――単主題主義と対位法――の中に統合した点に特徴がある。

D. 形式――単主題主義(モノテマティシズム)とポリフォニー


ノヴァークの作曲技法を特徴づける最大の要素は、主題操作(テーマワーク)、主としてポリフォニックなテクスチャ、そして革新的な形式との関連において示される独自の個性である。彼の単主題主義(モノテマティシズム)はベートーヴェン=ブラームスの系譜を継承し、特に1910年以降は支配的な構成原理となった。ポリフォニーと組み合わさることで、作品全体のイントネーションの統一性を達成する基本的手段となっている。二部構成または二楽章構成を好む点も特徴的で、『弦楽四重奏曲ニ長調』『弦楽四重奏曲ト長調』『永遠の憧れについて』『トマンと森の乙女』などにその例が見られる。単主題の『三重奏曲 quasi una ballata』は、付点リズムの単一主題を1楽章の総合ソナタ形式の中で展開し、伝統的な4楽章ソナタ・サイクルのテクトニクスの原理を要約する。2楽章構成の『弦楽四重奏曲第2番ニ長調』(フーガ―幻想曲)の単主題性は、自然の純粋さに着想を得た旋律的カンティレーナに基づくフーガの構想の熟達を示している。この原則が頂点を極めるのが交響詩『タトラ山脈にて』であり、二部から成る対照的主題を、大編成オーケストラのための単一楽章ソナタ形式の中に提示している。
対照的に、卓越したテクトニックな多主題的スタイルは交響詩『我が祖国』(『永遠の憧れについて』)や交響詩『トマンと森の乙女』に顕著である。ノヴァークはヤナーチェクと同様、作品の結末と意味を奏でる際にカタルシス的な作曲家であるが、『トマンと森の乙女』のように、そうしたカタルシスを得られない音楽が主題の精神に合致することは稀である点も指摘されている。
強いポリフォニックな感覚は、すでに初期作品の『ピアノ三重奏曲ト短調』(1892年)に見られ、1939-45年の作品群で頂点に達する。ノヴァークは劇的な衝突の場面(『トマンと森の乙女』)や最大限のグラデーションの場面(ピアノ連作『パン』中「山」第2部の主題の賛美歌的ハーモニー)で、異なる主題を同時に響かせることを好んだ。ノヴァークのポリフォニズムの最高の表現はフーガ作品にあり、その主題はしばしば広範囲かつ型破りな性格を持ち、例外的に単独で提示されることもあるが、通常は和声的な支えを伴うか、あるいはポリフォニックな織物の中に埋め込まれている。厳格な提示部と終結部の間には、緊張を解きほぐすことを目的とした、かなり自由な進行が挿入されるのが特徴で、作曲家自身はこれを蒸気機関や圧力装置の安全弁・調圧弁(チェコ語でventil)に喩え、「バルブ・フーガ(ventilová fuga)」と呼んでいる。すなわち、フーガの厳格な構成の中に「圧力を抜く」ための緩やかな部分を挿入するという、構成上の独自の工夫を指す彼自身の比喩的な造語である。彼のフーガはしばしば作品全体のプログラムと共鳴する。引用・自己引用の豊富さも特徴で、民謡に加え、フス派の合唱曲(『3つのチェコの歌』『ズヴィコフスキー・ララーシェク』『南ボヘミア組曲』『南ボヘミアのモチーフ』『ジシュカ』)や聖ヴァーツラフのコラール(『カルルシュテイン』『ルツェルナ』『聖ヴァーツラフ三連祭壇画』)、国歌『わが家はどこに』(『ルツェルナ』『南ボヘミア組曲』『五月交響曲』など)が繰り返し引用され、長年にわたる「固定観念」として機能している。

E. オーケストレーションと色彩感


ノヴァークの音楽が持つ視覚的・情景描写的な側面を聴覚的に具現化する上で、オーケストレーションの色彩感は不可欠な要素である。『スロヴァーツカ組曲』では、小編成オーケストラにハープとオルガンを加えて豊かなテクスチャと色彩を実現し、打楽器を用いずに教会の鐘の音を表現する独創性が指摘される。これは、彼が単に音量を操作するだけでなく、楽器の音色・音域・テクスチャを繊細かつ想像力豊かに操作する能力を持っていたことを示す。交響詩『タトラ山脈にて』では、山々の暴力性と静けさを対照的な調性によって描写し、自然の壮大さと人間の感情の揺れ動きを鮮やかに描き出している。ただし、自身の証言によれば、ノヴァークは本来「音響的想像力」に乏しく、印象派の楽譜に親しむまでは管弦楽そのものを好まなかったとされる点には注意が必要であり、彼の管弦楽的成熟は、生来の資質というより、後年の研究と経験によって獲得されたものという側面が強い。

音楽的要素と影響源の対応表

音楽的要素

ノヴァークの特徴

主要な影響源

代表作における具体例

和声

調性に基づくが、複調性・多調性も混在。無調には至らない。後年は四度和声も。

民俗音楽、印象主義、R.シュトラウス、ヒンデミット(後年)

『トマンと森の乙女』の冒険的和声、『深き淵より』の四度和声

旋律

叙情性、モラヴィア=スロバキア様式の音程的特徴の恒常化

民俗音楽、ドヴォルザーク、ブラームス

『ソナタ・エロイカ』『わが五月』『スロヴァツカ組曲』

リズム

民謡的シンコペーション、三連符、堅固な構成への統合

モラヴィア・スロバキア民俗音楽

『南ボヘミア組曲』第3楽章、『スロヴァツカ組曲』

形式

単主題主義(1910年以降支配的)、二部・二楽章構成の好み

ベートーヴェン、ブラームス、フランク楽派

『弦楽四重奏曲第2番』『タトラ山脈にて』『三重奏曲quasi una ballata』

対位法

強固なポリフォニー、フーガ(

「バルブ・フーガ」)の多用

ブラームス、バッハ的対位法の伝統

『弦楽四重奏曲第2番』第1楽章フーガ、『聖ヴァーツラフ三連祭壇画』

オーケストレーション

色彩豊かだが後天的に獲得された技法、後年は歌曲・ピアノ曲の自編多数

印象主義、R.シュトラウス

『スロヴァツカ組曲』『パン』管弦楽版


V. 主要作品の紹介


本章では、ノヴァークの全160曲(厳密には79の作品番号、ミロシュ・シュニエラーとリュドミラ・ペジノヴァーによる主題別書誌目録では162の番号付き作品)に及ぶ創作活動を、ジャンル別に整理して論じる。ノヴァークは管弦楽曲・オペラ・カンタータの作曲家として知られる一方、ピアノ曲においてこそ最も個性的な書法を確立した作曲家でもあり、本レポートではピアノ独奏曲・室内楽作品の章にも相応の比重を置いている。

A. 管弦楽曲・交響詩・組曲


1. 序曲『海賊』(作品番号なし、1892年)


バイロン卿の同名の物語詩(básnická povídka)に基づく、ノヴァーク最初の管弦楽作品。当初「Op.2」として番号付けされていたが、後にその番号は次項のピアノ・バラード『マンフレッド』(当初Op.5)へ移され、序曲自体は最終的に正式な作品番号を持たない作品となった。ドヴォルザークのクラスにおける「シュトゥルム・ウント・ドラング」期の産物であり、プログラムが音楽形式に及ぼした影響を扱っているが、作曲家自身、楽器編成の習得が未完成で旋律の創意も欠けていたと自己評価している。習作的性格が強いものの、後年の標題音楽志向の出発点として重要である。

2. 小管弦楽のためのセレナード ヘ長調(Op.9、1894-95年)


典型的な「サロンシュテュック」の一つで、ヨゼフ・スークの『変ホ長調セレナード』(1892年)への意識的な対照として構想された。簡潔な音楽表現とブラームスの影響を示す作品である。続く『小管弦楽のためのセレナード ニ長調』(Op.36、1905年)と対をなす。

3. 劇的序曲『マリシャ』(Op.18、1898年、最終版1901年)


ムルシュティーク兄弟による同名戯曲に基づく大管弦楽のための作品。ノヴァークが初めて民間伝承の引用を構造的に重要な形で用いた作品であり、序曲『海賊』とは異なり明確な構成と一貫した主題的焦点を持つ。批判的リアリズムの領域に踏み込んだ作品とされる。

4. 交響詩『タトラ山脈にて』(V Tatrách、Op.26、1902年、1907年改訂)


スロバキアのタトラ山脈の情景を描いた標題音楽で、「嵐を予感させる陰鬱な雰囲気」から「嵐の爆発」、そして「平和の到来」へと展開する物語的構成を持つ。山々の暴力性と静けさを表現するため、ト短調とホ長調という対照的な調が用いられている。前述のとおり、二部から成る対照的主題を大編成オーケストラのための単一楽章ソナタ形式で提示する点が形式上の特徴であり、アルプス・タトラ両山脈を熱心に旅し登山家として活動したノヴァーク自身の体験が反映されている。スロバキア民族の反抗的な「ヤノシーク主義」の象徴とも解釈される。なお、リヒャルト・シュトラウスは本作と主題的・表現的に強い関連性を持つ『アルプス交響曲』を、13年後の1915年に作曲している。

5. スロヴァーツカ組曲(Slovácká svita、Op.32、1903年)


モラヴィアとスロバキアの田園風景と民謡にインスピレーションを得た、もともと小編成オーケストラ(ピアノ版が1903年に先行して出版され、管弦楽版は1911年に出版)のための5楽章組曲。各楽章は「教会にて」「子供たちの間で」「恋人たち」「踊りにて」「夜に」と題されている。小編成オーケストラにハープとオルガンを加える一方、打楽器は用いられず、第1楽章で福音賛美歌が引用されることで作品の設定がより具体化されている点が特徴である。ピアニストのマルティン・ヴォイティーシェク氏は、ピアノ版がオーケストラ版に比べて知名度が低いことを惜しみつつ、「ピアノ版は単なる抜粋ではなく、むしろピアニストにとってより豊かな表現力と独自の解釈の余地を持つ」と評している。本作は単なる「フォークロア・スケッチ」の域を超え、民族的題材を普遍的な芸術表現へと高めた代表作と位置づけられる。

6. 交響詩『永遠の憧れについて』(O věčné touze、Op.33、1903-05年)


ハンス・クリスチャン・アンデルセンの物語(海を渡る白鳥の主題)に基づく作品。文学的モデルは、ノヴァークが弟子ルジェナ・バルテルムソヴァーに抱いた秘めた恋という親密な感情を表現する手段となった。メロディー・ハーモニー・楽器編成には印象主義の影響が見られ、当時の批評家から指摘の対象となった。「永遠の憧れ」というテーマ自体は、ノヴァークの作品全体を貫く固定観念のひとつとなっている。

7. 交響詩『トマンと森の乙女』(Toman a lesní panna、Op.40、1906-07年)


チェラコフスキーのバラードに基づき、死ぬほど情熱的な愛を描く。1906年のリヒャルト・シュトラウス『サロメ』プラハ初演を経て生まれた作品で、シュトラウスの影響を明らかに受けつつ、緊迫感あふれるエロティックなドラマを創出している。単主題主義が大胆な多声的技法によって強調され、劇的に高められた表面における和声の曖昧さは、ノヴァークの将来の多調的な書法を予感させるものであった。「冒険的な和声」は当時の聴衆にある程度の悪評をもたらしたが、これはノヴァークの革新性が単なる個人的探求を超え、当時のチェコ音楽界における「進歩」と「伝統」の緊張関係を反映していたことを示す。

8. 悲劇への序曲『レディ・ゴディヴァ』(Op.41、1907年)


ヤロスラフ・ヴルヒリツキーの悲劇のための序曲で、クラーロフスケー・ヴィノフラディ市立劇場の開館のために作曲された。作曲家自身の言葉によれば、『トマンと森の乙女』が破滅的な愛を描いたのに対し、本作ではその対極にある犠牲的な愛が試みられている。1900年代の一連の偉大な交響詩の最後を飾る作品。

9. 秋の交響曲(Podzimní symfonie、Op.62、1931-34年)


3楽章からなる声楽・器楽合奏のための約1時間の大作。ノヴァーク自身、モラヴィアの酒飲み民謡、ヤロミール・ボレツキーのテキストを並置している。60歳を迎えた作曲家がこれまでの芸術的貢献を振り返り、回想録の中でも「青春への別れ」を描いたと自ら述べている。壮大なオーケストラの響き、第1楽章の四重フーガによる複雑なポリフォニー、自身および他者の詩的テキストと象徴的に加工された4つの民謡の使用が、ノヴァークの第二期創作(1910年以降)を要約する。シュトラウス的な自己中心性をもって、ノヴァークは第1楽章を、自らが得るべき芸術的評価を求める闘いとして構想したとされる。

10. 南ボヘミア組曲(Jihočeská svita、Op.64、1936-37年)


60歳を迎えて初めて故郷カメニツェ・ナド・リポウを訪れたことに触発された作品。第1楽章「田園、地平線」、第2楽章「夢、森と池」、第4楽章「エピローグ、祖国万歳!」では自然と田園のモチーフが、第3楽章「かつて、ターボル人の行進」ではナチズムの危機の時代に、歌曲「我が祖国よ」からの引用を通じて民族史の英雄的行為が回想される。第3楽章のフス派コラールへの導入部の独創的な変奏は特筆に値し、叙情的に印象的な最初の2楽章との鋭い対照をなす。1939年、本作によりチェコ・ランド賞を受賞した。

11. 交響詩『深き淵より(デ・プロフンディス)』(Op.67、1941年)


大管弦楽とオルガンのための作品で、占領下最悪の時期、信じられないほど短期間のうちに作曲された4つの大作のひとつ。重厚な悲劇が全体を覆う。基礎は二重フーガで、第1主題は『秋の交響曲』冒頭楽章の主題の変形、第2主題はモラヴィア・スロバキアの旋律型に基づき、激しい性格に心を打つ象徴性を帯びている。最後の歓喜に満ちたコラールも『秋の交響曲』の旋律核に基づく。明るいカタルシスへの希望を込めた、占領期チェコにおける「音楽的抵抗」を代表する作品である。1948年、コペンハーゲンのISCM音楽祭でブレティスラフ・バカラの指揮により上演された。

12. 五月交響曲(春の交響曲、Op.73、1943年)


カレル・ヒネク・マーハ、ノヴァーク自身、フランチシェク・ブラニスラフの詩によるソリスト・混声合唱・大オーケストラのための作品。占領期最高傑作とされる。第1楽章でかつてのマーハからのインスピレーションに立ち返り、当初は『春』と題される予定だった。第2楽章の田園的雰囲気はハレクの詩集『自然の中で』に基づき、対照的に三重フーガが現れるが、その軽妙さはこの楽章の基本的性格を崩さない。終楽章「アッラ・マルシア・ファンネブレ」はスターリングラードにおける赤軍の勝利の報に影響を受け、ドイツ国歌とベートーヴェンの「歓喜」の動機が不吉な様相で用いられた末、ブルラク歌曲「エイ、ウフニェム」が勝利の象徴として最高潮に達し、最後には国歌「わが家はどこに」の抜粋が用いられる。1945年12月5日、ノヴァーク75歳の誕生日記念式典で初演された。

13. その他の組曲・舞踊的作品


『2つのワラキア舞曲』(Op.34、1904年)――ワラキア地方の舞踊リズムに基づくオーケストラ作品。
『ニコティーナ』管弦楽組曲(1930年)――同名バレエ・パントマイムからの抜粋による演奏会用組曲。

B. オペラ、バレエ・パントマイム


ノヴァークは生涯にチェコの主題に基づく4つのオペラを作曲した。これらは、ヤナーチェクの諸作に比べると国際的な広がりは限定的であったが、チェコ国内のオペラハウスのレパートリーには確かな位置を占めた。

1. ズヴィコフスキー・ララーシェク(Op.49、1913-14年)


ラディスラフ・ストロウペジュニツキーの戯曲に基づく一幕の喜劇オペラ。台詞をカットや調整することなく逐語的に音楽化した点が特徴で、遊び心と軽妙さに富む。これは、ポリフォニーや生き生きとした分化したリズムの欠如にも由来する。ノヴァークはここでスメタナ派の喜劇オペラの様式を意図的に拒絶し、朗誦主義(会話オペラの一種)と一貫した主題展開を重視した。ワーグナー的なライトモチーフではなく、ブラームス的な動機展開を用いる点も特徴的で、これは彼の「堅固な構成」という美学がオペラのジャンルにも貫かれていることを示している。ユーモア、ウィット、遊び心は、緊張感に満ちたロマン主義と知性主義に対するカウンターバランスとしてノヴァークの作風に組み込まれている。

2. カルルシュテイン(Op.50、1914-16年)


ヤロスラフ・ヴルヒリツキーの喜劇『カルルシュテインの一夜』に基づく3幕オペラ。台本のオトカル・フィッシャーは原作を形式・内容の両面で大幅に改訂し、散文を自由に押韻した対話に置き換えるとともに、カール4世の感情世界、特に愛国的モチーフを強調した。哀れな愛国的フレーズの代わりに、英雄たちの親密で情熱的な世界を強調するタイプのチェコ国民オペラが生まれている。喜劇的かつエロティックな要素が国民的思想の表現に不可欠な役割を果たす。単主題で構成され、主要な劇的アクションはカールとエリシュカのモチーフの動きによって決定される。オーケストラは劇的な役割を担い、しばしば主役を演じ、作曲家は明らかに「交響オペラ」へと向かっている。歌曲『ホスポディネ・ポミルイ・ニ』と聖ヴァーツラフの古い歌の引用により、古風な色彩が醸成されている。1916年11月18日、国立劇場開館30周年記念式典での初演は大きな反響を呼んだが、これがスメタナの『リブシェ』に代わって選ばれたことへの若い世代の反発を招き、後年の反ノヴァーク的論調の前兆となった。プラハで70回以上上演され、チェコ国内のオペラレパートリーに定着した、彼のオペラの中でも最も成功した作品の一つである。

3. ルツェルナ(Op.56、1919-22年)


アロイス・イラーセクの同名戯曲に基づく4幕の音楽童話。原作者イラーセクは当初音楽化に反対していたが、最終的にその娘婿ハヌシュ・イェリーネクが戯曲を繊細に書き直した。本作は牧歌的・童話的要素を強調しつつ、粉屋の当局への反抗というリアリズムは過度にエスカレートさせない。愛国的要素にもドラマ性を持たせず、むしろ獲得した自由の喜びの表現に重点が置かれている。ノヴァークは童話的な全体の枠組みの中で、最も民俗的な作品を創作したと言える。形式は純粋に客観的な性格を持ち、以前の作品にあった主観的・親密な体験は消え失せている。単純な民俗的アリオーソとエキサイトな朗誦、クローズドナンバーとメロドラマ、単純な和声的テクスチャと複雑な和声・ポリフォニーといった対照的な表現方法が用いられ、登場人物の個性が鮮やかに描かれている点も特筆される。1924年に国家賞を受賞した。

4. 祖父の遺産(Dědův odkaz、Op.57、1923-25年、1942年改訂)


アロイス・ヘイドゥクの同名の詩に基づき、アントニーン・クラーシュテルスキーが台本を書いた、3幕8場の交響的間奏曲を含む叙情的オペラ。貧しい孫が祖父から遺されたヴァイオリンによって音楽の道に進むという物語。ノヴァークは「永遠の憧れ」というテーマを表現できる可能性に惹かれてこの題材を選んだとされるが、台本作者クラーシュテルスキーがヘイドゥクの至高の詩を煩雑でほとんど滑稽な韻で歪めていた欠点を見過ごした結果になったとも指摘される。作曲家自身がこの作品を「交響的間奏曲を伴う叙情的なオペラ」と表現したことは、本作の長所と短所をよく言い表している――「永遠の憧れ」を表現する管弦楽間奏曲はノヴァークの交響的書法のハイライトの一つである一方、民俗的場面には折衷的な性格や空虚なマニエリスムも見られる。1926年1月16日、ブルノ地方劇場でフランチシェク・ノイマン指揮により初演。1926年に国家賞を受賞した。

5. バレエ・パントマイム:シニョリーナ・ジョヴェントゥ/ニコティーナ


スヴァトプルク・チェフの短編小説に基づく2つのバレエ・パントマイムも交響的性格を持つ。『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』(Op.58、1926-28年)はプロローグ付き7場面からなり、青春時代に別れを告げる連作の始まりとなる作品で、複雑なポリフォニーにもかかわらずプラハ初演は大成功を収め、1928年に国家賞を受賞した。『ニコティーナ』(Op.59、1929年)は7場面からなる、ユーモラスでグロテスクともいえる作品で、以前の作品のような劇的一貫性ではなく、エピソード性・ユーモア・ウィットを強調している。基本的構成要素はしばしばパロディ的性質を持つ些細な旋律であり、コンサートでの演奏に適さないため、作曲家自身が演奏会用組曲を編んでいる。両作はチェコ音楽において単一の管弦楽の流れによる構成という点で目新しく、海外ではストラヴィンスキーとバルトークのみが同様の手法を用いていたと指摘される。

C. カンタータ


1. 嵐(Bouře、Op.42、1908-10年)


スヴァトプルク・チェフの詩「海の幻想」に基づく、大オーケストラ・独唱・混声合唱のための交響カンタータ。このテーマは以前にもズデニェク・フィビフ、ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル、ボフミル・ヴェンドラー、フランチシェク・ノイマンが取り上げていたが、当時非常に人気を博したその音楽的設定こそが、ノヴァークに独自の論争的な創作的応答を促したとされる。若い詩人による文学的には凡庸な詩が幅広い作曲上の反応を引き起こしたことは興味深く、ヨゼフ・スークもこれを作曲することを検討していたという。ノヴァークはチェフの詩に、自然の嵐と人間の情熱の嵐との類似性、純粋な愛と抑えきれない情熱との対比、そして船が徐々に破滅へと向かう様といった、自身の詩学と共鳴する要素を見出した。役者の直接的な語りは標題音楽と劇的(オペラ的)要素を融合させ、マーラーのように交響的要素と声楽的要素を結びつけることを可能にしている。作曲家自身は本作を「海の幻想曲」と呼び、「劇的カンタータ」という新しいジャンルを創始したとされ、ボレスラフ・ヴォマーチカやヴィレム・ペトルジェルカら若い作曲家に影響を与えた。ドラマ性を高めるために長いオーケストラの間奏が用いられ、これは後のオペラ作品(『ジェドゥーフ・オドカズ』)でも同じ意図のもとに用いられている。1910年4月17日、ベセダ・ブルノでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とベセダ・ブルニェンスカ・フィルハーモニー合唱団がライシッヒの指揮で初演し、プラハから特別列車が手配されるほどの反響を呼んだ。ヤナーチェクのグラゴルミサ曲が作曲されるまで、本作はチェコ音楽におけるこのジャンルの最高峰とされていた。

2. 婚礼のシャツ(Svatební košile、Op.48、1912-13年)


ドヴォルザークの同名作品と同様、カレル・ヤロミール・エルベンのテキストに基づくバラード形式のカンタータで、プラハ歌劇場に献呈された。ノヴァークはここで、ドヴォルザークの同名作品への論争的な応答として、エルベンのバラードの劇的で恐ろしい瞬間に焦点を当てている。交響的(劇的)カンタータの形式では『嵐』を継承しているが、『嵐』とは対照的に、合唱は語り手の役割のみを担い、プロットは少女と幽霊との興奮した対話によって推進される。劇的な緊張の結節点は管弦楽の間奏に委ねられている。作品全体の統一性は、数々の劇的(オペラ的)要素、自己満足的な技巧、過剰な音の描写によって損なわれており、これらは音楽の流れを阻害し、些細な細部を自然主義的に描写しようとする傾向を持つ。こうした特徴は批評家から否定的な反応を引き起こした。

3. ズリーンの労働者の歌(Op.79、1948年)


妻マリー・ノヴァーコヴァーの詩による、混声合唱と交響楽団のための小カンタータ。行進曲風・賛美歌的な旋律様式の先駆は、チェコスロバキア軍団に献呈された男声合唱・大オーケストラ・オルガンのための『3つのチェコの歌』Op.53(1918年)に遡るとされ(原典:「その行進曲風・賛歌的性格は『ズリーンの労働者の歌』を予告している」)、この様式が特に前景化するのは1939年以降(『五月交響曲』など)のことである。本作はその系譜を受け継ぐ晩年の作品である。

D. ピアノ独奏曲――その重要性と全体像


ノヴァークのピアノ独奏曲は、彼の作品全体の中でも特に個性的な書法が発揮された領域である。ノヴァークのピアニズムについて、彼のピアノ作品を世界初の全曲録音として遺した唯一のピアニスト、マルティン・ヴォイティーシェク氏(プラハ音楽院講師、プラハ国立演劇芸術アカデミー音楽学部卒、イロナ・シュテパノヴァー=クルゾヴァーに師事)は、次のように証言している――「ノヴァークは肉体的にはピアニストではなかったが、精神的にはピアニストであった。当時のプラハで一般的なレベルで演奏することはできなかったが、ピアノの音色について完璧な理解を持っていた。彼のサウンド・アイデアをピアニストが実現するのは難しい。なぜなら、彼の音の設定はショパンやリストのようにピアノ的ではないからだ。しかし、アプローチの仕方さえわかれば、非常に興味深い結果が得られる。」ヴォイティーシェク氏のCD全集は4枚組・約4時間半に及び、作品番号のない作品とソナチネを除くノヴァークのピアノ曲のほぼすべてを収録している。
ノヴァークのピアノ書法は、最初はリスト風、次いでロマンティックな作風を経て、徐々に独自のスタイルへと進化していった。それは明確で堅固な構造、主旋律重視の書法、非常に豊かな色彩、そしてほとんど印象派的とも言える旋律美を特徴とする。ただし、ヴォイティーシェク氏が強調するように、「ノヴァークの音楽は印象派的ではない」ことを認識することが重要である――ドビュッシーの音楽が色彩そのものを基盤としているのに対し、ノヴァークの場合は基本的な形の豊かさだけが目的であり、両者は構成原理において根本的に異なる。

1. 初期作品群(1886-1893年)


ノヴァークの作曲活動はギムナジウム高学年の頃に遡る。現存最初の作品はピアノ伴奏付き歌曲『ただの思い出(Jen vzpomínku)』(ヤロスラフ・ヴルヒリツキー詩、1888年)だが、ピアノ独奏曲としては『ロ短調セレナーデ』(1886-87年)、『お土産・ド・モンペール(2つの瞑想)』(1888年)、『即興曲』(1888年)などが最初期作品にあたる。1888年にはマーハの詩『マーイ(五月)』に着想した4つの試み――『ロ長調のスケッチ』『ロ短調のスケッチ』『五月(間奏曲第1番)』『間奏曲 変ロ短調』――が特筆される。これらは彼の主観的ロマン主義が、カール・テオドール・ケルナー、ニコラウス・レーナウ、ハインリヒ・ハイネといったメランコリックで陰鬱な主題の選択に表れていたことを示す。1891年作の『国民的な雰囲気の歌』(スロバキア民謡『そして山のために、山のために(A za horú, za horú)』編曲)は、民謡の詩学に対するノヴァークの最初期の試みとして重要であり、ドヴォルザークの『モラヴィア二重唱曲』からの影響が明らかである。
1893年の『シューマンの主題による変奏曲』(原題は「シューマンの主題による変奏曲形式の即興曲」、ヨゼフ・イラーネクに献呈)は、華麗なピアノ技法を折衷的に展開した作曲上の遊び心の産物であり、1945年以降に改訂されている。同年の『ホ短調バラード』(Op.2、当初はOp.5として番号付けされたが後にOp.2に改番、バイロンの劇詩『マンフレッド』に基づく)は、序曲『海賊』とは異なり標題ではなく悲劇の英雄の哲学的肖像に焦点を当てているが、結果は説得力に欠けると評されている。

2. 折衷期から個性確立期へ(1894-1900年)――ピアノ小品集の数々


ノヴァークはこの時期、チェコの詩人の詩に触発された一連のピアノ連作集を発表した。『思い出』Op.6(ピアノのための3つの小品、パデレフスキに献呈、1894年)、『セレナーデ』Op.9(4つのピアノ曲、1895年)、『舟歌(バルカロール)』Op.10(5つのピアノ曲、ヨゼフ・イラーネクに献呈、1896年)、『エクローグ(牧歌)』Op.11(4つのピアノ曲、ヨハネス・ブラームスに献呈、1896年)、『夕暮れ時に』Op.13(4つのピアノ曲、1896年)などである。これらの曲集には愛のテーマが色濃く表れ、演奏しやすさから作曲家の評判を高めた。ドヴォルザークの助言により、これらの作品はヨハネス・ブラームスの注目を集め、ブラームスはベルリンの出版社シムロックとの仲介によりその出版を実現させた。バガテル、舟歌、思い出、セレナーデ、牧歌、夕暮れ時の曲集は、2010年以来、カメニツェ・ナド・リポウで開催されるヴィーチェスラフ・ノヴァーク国際ピアノコンクールの自然な一部となっている。
民謡の影響が現れ始めるのもこの時期である。『ジプシーのメロディー』Op.14(アドルフ・ヘイドゥク詩、声楽とピアノ、1897年)や『3つのボヘミア舞曲』Op.15(連弾、1897年)では、民謡が異国的(エキゾチック)な要素として導入された。

3. わが五月(Op.20、1899年)


牧歌(1896年)に続くピアノ連作集で、4曲からなる。自然の美を発見する作品であり、モラヴィア・スロバキアとの結びつきが深まり、変容していく様が示される。終曲「スロヴァーツカ」の最後の部分は、ノヴァークが民謡と見紛うほどの旋律線を創作した例として特に名高い。ここでノヴァークは、無意識のうちに印象派的な音楽表現へと向かっていると評されている。

4. ピアノソナタ『英雄(エロイカ)』(Op.24、1900年)


モラヴィア・スロバキア時代の頂点を成す作品で、貧しいスロバキアへの愛が表現されている。一貫した単一主題主義は、モラヴィアの民謡『ホヴォランの周りで(Okolo Hovoran)』との類似性を示す主題に基づいており、これにより民俗学からのインスピレーションは特定の環境に左右されない普遍的な次元を獲得している。ベートーヴェンの『英雄』の主題とのイントネーションの類似性は、反抗的なヤノシークの伝統を想起させるものであり、楽曲は「チェコとスロバキア地方の独立への力強いスローガン」を表現していると評される。ノヴァークの数あるピアノ曲の中でも、技術的・構成的な要として位置づけられる作品である。

5. メランコリー(Op.25、1901年)


アントニーン・ソヴァ、ヤロスラフ・クヴァピル、ヨーゼフ・スヴァトプルク・マシャールの詩による、中声とピアノのための8曲からなる歌曲集だが、ピアノ書法の革新性ゆえにノヴァークのピアノ的思考を考察する上でも重要である。『ソナタ・エロイカ』完成後、創作活動と人生において一時的な鬱状態に陥ったノヴァークが、世紀末の雰観を汲んで作曲した悲観的色調の作品であり、象徴主義・印象主義の要素がその後の作品にも浸透していく出発点となった。

6. 冬の夜の歌(Op.30、1903年)


4つのピアノ曲からなる連作。モラヴィアとスロバキアの民俗学の典型的な側面がノヴァークの独自の思考に深く浸透し、創造的なネオフォークロリズムの成熟期を示す作品として位置づけられる。4つの作品それぞれが、ノヴァークの並外れた旋律の才能を証明するものとして高く評価されている。

7. パン――音による詩(Pan, báseň v tónech、Op.43、1910年、管弦楽編1912年)


ノヴァークのピアノ作品の頂点であり、本人にとっても、また批評家・演奏家にとっても、彼の最高傑作とみなされる5楽章からなる大作。プロローグ、山々、海、森、女の5楽章から構成され、ほぼ1時間に及ぶ難曲である。文学(クヌート・ハムスン)と美術(クロード・ロランの絵画)の双方から着想を得つつ、ノヴァーク自身の自然体験(海辺での休暇、ビートフ周辺の森)と恋愛体験(歌手マリア・ムシロヴァへの愛)も反映されている。5楽章を統一する要素は、ノヴァークの自然的汎神論を象徴する「パン」そのものであり、分散した主音三和音から生まれた「パンの動機」が統一原理として全曲に浸透し、その後の創作過程における固定観念ともなった。F-C-G-D-Aの5音からなる主要主題によって全体が緊密に結びついている点も特筆される。
マルティン・ヴォイティーシェク氏は本作を「これはかつて極めて傑作として称賛されたが、その後忘れ去られた。今日、チェコのピアニストでこの作品をレパートリーに持つ人は誰もいない」と評しつつ、「間違いなく、例えばラヴェルの作品集にも匹敵する完成度の高い作品である」と高く評価している。同氏が所属するノヴァーク協会が上院で開いたコンサートで、この曲をフランス人ゲストに演奏してもらった際、50分の長丁場にもかかわらず聴衆が息を呑んで聴いていたことに驚いたという逸話も残されている。ピアノは、その色彩においてさえドビュッシーに匹敵するほどに用いられており、ノヴァーク自身は印象派との比較を拒んだとされるが、ヴォイティーシェク氏によれば、その音楽を単なる「ムード」として演奏することは誤りであり、作品のしっかりとした構造を認識し構成する必要がある点が強調されている。初演はヴァーツラフ・シュテパン(1911年)が行ったが、評価は当初曖昧であった一方、本作はノヴァークがこの複雑な音楽をピアノで完全に表現することに自身でも疑問を抱き、後に自ら管弦楽編曲を行った。

8. エグゾティコン(Op.45、1911年)


ピアノのための小組曲。男声合唱アカペラ連作『祖国にて』Op.44(1911年)に続き、ノヴァークが数年ぶりにチェコ・スロバキアの民俗環境に立ち戻った後の作品で、回想録の中で本人は「民謡への愛着と人生の苦い思いから書いた」と述べている。様々な民謡集に基づき、タタール、中国、ラップランド、インド、アラブなど多様な文化のモチーフが加工されている点が特異である。『パン』以後、ノヴァークが小品のみを手がけるようになった時期の作品の一つ。

9. 6つのソナチネ(Op.54、1919-20年)と『青春(Mladí)』(Op.55、1920年)


1918-20年の共和主義的熱狂の時期を経て、ノヴァークはできるだけ幅広い聴衆に向けた作品作りに転じた。『6つのソナチネ』Op.54と、妻に献呈された21の小さなピアノ曲からなる連作『青春』Op.55は、ヨゼフ・ヴァーツラフ・スラデクの子供の詩に基づく歌曲集『春』Op.52(1918年)の詩学を受け継いでおり、教育的な目的を持ち、子供や初心者向けに作曲された点が特徴である。この時期の音楽からは劇的な緊張感が後退し、牧歌主義と実証済みの価値観の受動的な利用への傾向が優勢となった。これらの曲集は、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク国際ピアノコンクールにおいて、教育的な目的から重要な役割を果たしている。

E. 室内楽作品


ノヴァークの室内楽曲は、彼の全作品の中でも質的に最も重要な部分のひとつを占める。本節では、ピアノを含む室内楽(ピアノ三重奏・四重奏・五重奏・ヴァイオリンソナタ等)と弦楽四重奏とに分けて詳述する。

1. ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ短調(当初Op.1として番号付けされたが、後に作品番号を外された、1891年)


ノヴァークの最初の循環的作品で、1892年7月8日の音楽院卒業作品としても用いられた(ピアノ・パートは作曲家自身が演奏)。ドヴォルザークの旋律美を意図的に拒絶した「シュトゥルム・ウント・ドラング」期の産物であり、本人にとっても、また批評家にとっても、生涯の代表作の一つに数えられている。なお本作は当初「作品1」として番号付けされていたが、後年この番号は外され、最終的に「作品1」の番号を引き継いだのは次項のピアノ三重奏曲ト短調である。

2. ピアノ三重奏曲 ト短調(当初Op.3として作曲され、後にOp.1に改番、1892年、カレル・シュテッカーに献呈)


当初は作品3として番号付けられたが、後に作品1へと改番され、結果的にノヴァークの正式な「作品1」となった作品で、青春時代の「疾風怒濤」からの離脱を表現している。後にノヴァークの特徴となる多声的(ポリフォニック)な感覚の萌芽が、すでにこの初期作品に現れている点が音楽学的に重視されている。なお、「quasi una ballata」の副題を持つのは本作ではなく、後年の三重奏曲ニ短調Op.27(後述)である。

3. ピアノ四重奏曲 ハ短調(Op.7、1894年作曲、1899年改訂)


ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノのための作品。絶対音楽への傾向、より簡潔な音楽表現、そして論理的に考え抜かれた構成において、ブラームスからの影響が顕著に表れている。

4. ピアノ五重奏曲 イ短調(Op.12、1896-97年)


ピアノ、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための作品で、いわゆる「モラヴィア・スロバキア時代」の始まりを告げる作品のひとつ。第3楽章では明らかにモラヴィア風のメロディーの主題を用いて民衆の陽気さのイメージが創出され、第2楽章は古いチェコの恋歌の変奏曲から成る。ノヴァークが民俗音楽の素材を室内楽の構造に組み込んだ最初期の重要な実例である。

5. 三重奏曲『quasi una ballata』ニ短調(Op.27、ヴァイオリン・チェロ・ピアノ、1902年)


ピアノソナタ『エロイカ』完成後の一時的な鬱状態の中で書かれた作品で、世紀末の悲観的色調が支配的。作曲家自身は本作を「最も陰鬱なボードレール的ペシミズム」の作品と評している。単主題の付点リズムによる単一主題が、1楽章の総合ソナタ形式の中で演奏され、伝統的な4楽章ソナタ・サイクルのテクトニクスの原理を要約する構成が特徴である。主題には多くのモラヴィア的特徴が見られるが、ノヴァークが初めてモラヴィア・スロバキアの直接的テーマから離脱し、民謡的要素が本来の内容を失って一般的な芸術的思想を表現する手段となった作品としても重要である。

6. チェロとピアノのためのソナタ(Op.68、ジンドジフ・マースルに献呈、1941年)


占領下最悪の時期に、信じられないほど短期間のうちに作曲された4つの大作(『深き淵より』『チェロ・ソナタ』『ドモフ』『聖ヴァーツラフ三連祭壇画』)のひとつ。1楽章構成で、もともとは現代の苦しみからの親密な逃避として意図されたが、結果的に情熱的な反抗の爆発を含む作品となり、盗賊の歌(ズボイニツカー)のメロディーによってその性格が強化されている。濃密なポリフォニーとフーガの展開という、占領期作品群に共通する厳格な構成主義が反映されている。

F. 弦楽四重奏曲


ノヴァークは3曲の弦楽四重奏曲を残しており、いずれも単主題主義(モノテマティシズム)の発展における重要な実験場としての役割を担っている。

1. 弦楽四重奏曲第1番 ト長調(Op.22、1899年)


2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための作品。モラヴィアとスロバキアを休暇旅行で訪れた際の印象をまとめたもので、その描写的性質が批評家から「民族誌的」と評された(批判的な文脈で用いられた表現である)。この主観的な作品を統一する要素は、全楽章を貫くワラキア民謡『天はどれほど高いことか(Jak je to nebe vysoko)』からの強調された引用である。

2. 弦楽四重奏曲第2番 ニ長調(Op.35、1905年)


2楽章構成のこのアンサンブルは、その自伝的かつ主観的な特徴から、スメタナの弦楽四重奏曲『わが生涯より』(1876年)と比較される。フーガ形式の第1楽章(ラルゴ・ミステリオーソ)は特筆に値し、ノヴァークはここで厳密な対位法に独特の表現力をもたらし、1939-45年の作品群におけるこのジャンルの最高潮をすでに予見していたと評される。「フーガ―幻想曲」と通称される単主題的性質は、心理的な本質において自然の純粋さにインスピレーションを受けた旋律的カンティレーナに基づくフーガの構想の熟達を示すものである。

3. 弦楽四重奏曲第3番 ト長調(Op.66、1938年)


約10年かけて構想が熟成された作品。2部構成で、自伝的かつ主観的な性質を持ち、作曲家はここで「青春への別れ」というテーマを継承している。第1楽章(アレグロ・リゾルート)では、民謡のメロディーとリズムが二重フーガによって統合され、複調的な主題の繋がりで終わる。続く楽章(レント・ドロローソ)では、青春への別れの切望が大きなテーマによる変奏曲の形態で響き渡る。鋭い対照を呈する問題提起となる作品で、ミュンヘンの裏切りの雰囲気の中、自身の青春時代と第一共和国を象徴的に去っていくかのような、調性的・和声的に緩んだ基盤の選択もまた、当時の彼にとって適切なものであったと評されている。なお、本作はパウル・ヒンデミットの四度和声からの影響が指摘される稀少な例のひとつでもある(ノヴァークは基本的に戦間期の前衛芸術の潮流を完全に無視していたが、この点が唯一の例外とされる)。

G. 歌曲・合唱作品


ノヴァークは傑出した独唱・合唱声楽作品の作者でもある。マーラーとリヒャルト・シュトラウスの歌曲集が絶頂期にあった時代に、ノヴァークは様々なチェコの詩人の詩に着想を得た独自の歌曲集を発表した――『メランコリー』Op.25、『新王国の谷』Op.31(アントニーン・ソヴァ詩、1903年、1931年編曲)、『メランコリックな愛の歌』Op.38(1906年)、そしてドイツの詩人の詩に着想を得た『ノットゥルナ(夜の気分)』Op.39(カール・ブルケ、リヒャルト・デーメルら、1906-08年)、『エロティコン』Op.46(リヒャルト・デーメルら、将来の配偶者への愛に触発された作品、1912年)などである。特に後者では、より大胆で複雑な和声がいわゆる拡張長短調性に従っており、しばしば途切れることなく演奏される。
民俗的霊感に基づく声楽作品群としては、『モラヴィア民俗詩の言葉による歌』全3シリーズ・28曲(Op.16・17・21、1896-97年、ヨゼフ・スーク門下の友人やヤナーチェクらに献呈)、1900-30年にかけて出版された全6巻・80曲からなる『スロバキアの歌(民謡編曲)』、『スロバキア民謡25曲』(声楽とピアノ用)などがある。後年の占領期にも、『モラヴィア民俗詩の言葉による歌』シリーズIV・V(Op.74・75、1944年)として、この手法に立ち戻っている。これらのピアノ・パートは独創的で、単なる告白的な伴奏から常に異なるピアノのテクスチャーを生み出し、同時にコードを変化させることで、歌曲本来の潜在的なハーモニーを徐々に深めていく手法が特徴である。
合唱作品では、混声合唱ア・カペラのための『オタカル・ブジェジナの4つの詩』Op.47(1912年)が特筆される。ブジェジナの神秘主義が顕著に表れたこのジャンルで最も要求の厳しい合唱作品の一つで、人間の声による器楽的な誘導も行われ、内容面では宇宙的次元の瞑想に似た、詩人の精神における作品としてノヴァークの思想の頂点を成すとされる。男声合唱アカペラのための連作『力と抵抗(シーラ・ア・ヴズドル)』Op.51(1916-17年、チェコ作家宣言に促されて作曲、当時は演奏不可能であった)および占領期の『ドモフ(祖国)』Op.69(1941年)は、愛国的・抵抗的なメッセージを担うア・カペラ作品群である。これらとは編成を異にする『3つのチェコの歌』Op.53(1918年、大オーケストラとオルガン伴奏付き男声合唱のための、チェコスロバキア軍団に献呈)は、その行進曲風・賛歌的な性格により前記2作と共に愛国的メッセージを担い、後年の『ズリーンの労働者の歌』(1948年)を予告する作品として位置づけられる。

H. オルガン作品


聖ヴァーツラフ三連祭壇画(Svatováclavský triptych、Op.70、1941年、管弦楽編1942年)
アントニーン・ストジーシュに献呈されたオルガン独奏(後にオルガン付き大オーケストラ用に編曲)のための作品。占領下最悪の時期に書かれた4つの大作の一つで、聖ヴァーツラフのコラールの古い歌詞に基づき、これが作品の単一主題性を決定づけている。冒頭の強弱のあるトッカータから瞑想的なチャコナを経て終楽章のフーガへと移り、最後にコラールが完全な形で響き渡る構成を取る。愛国心にあふれたこの作品は、聖ヴァーツラフのコラールをトッカータ・チャコナ・フーガという3つのレベルで巧みに処理した、占領期の「音楽的抵抗」を代表する作品の一つである。
その他のオルガン作品として、『ワラキアの愛の歌への前奏曲』(ヤン・ミチュネクに献呈、1899年)がある。


VI. 音楽教育者としてのノヴァーク


ノヴァークは、ドヴォルザークに次いで最も影響力の大きい教師であった。彼の教育活動への評価は、作曲家としての評価が一時的に低下したり批判の対象となった時期においても、常に高く保たれていた。師ドヴォルザークと同様、ノヴァークは弟子たちの芸術的個性を重んじた。彼は自身の作品について教えたが、自らの作曲手法を弟子に強制することはなく、むしろ自身の作品の単純な模倣を厳しく批判した。他の作曲家の作品も分析対象とし、単純なものから複雑なものへと体系的に指導を進め、確かな技術的基礎と継続的努力の必要性を強調した。この点において、スークやフェルステルに比べて非常に厳格な教師であったとされる。
ノヴァークは音楽理論の分野において国内外の文献への深い造詣で知られていたが、独自の理論的基盤を文献としてまとめることはなかった。特に和声の技法に力を入れ、国内外の民謡を教材として多用した。
1892年に作曲科を卒業した直後から教え始め、1900年には体系的な指導を行うようになり、幅広い個人指導の生徒を獲得した。1909年9月1日、プラハ音楽院に新設されたマスタースクールの作曲科教授に就任。プラハ音楽院のマスタースクールで40人以上の作曲家を育て、さらに数十人を個人指導した。並外れて幅広い門下生と絶大な影響力から、彼は「モラヴィアの若い作曲家の先生」とも呼ばれた。
チェコ・モラヴィアの門下生には、ラディスラフ・ヴィツパーレク、ヴァーツラフ・シュテパン、エミール・アクスマン、ボレスラフ・ヴォマーチカ、カレル・ボレスラフ・ジラーク、アロイス・ハーバ、カレル・ハーバ、オカール・イェレミアーシュ、ヤロスラフ・イェレミアーシュ、イシャ・クレイチ、テオドール・シェーファー、ヴィーチェスラヴァ・カプラロヴァー、ヴァーツラフ・ドビアシュ、カレル・ヤネチェク、イリヤ・フルニクなどが含まれる。ヤナーチェクの弟子の中にもヴァーツラフ・カプラール、ヤン・クンツ、ヴィレム・ペトルジェルカなど、ブルノからプラハへ移ってノヴァークに師事した者がいた点は、当時の彼の教育的権威がヤナーチェク門下にも及んでいたことを物語る。
とりわけ重要なのは、ノヴァークが20世紀スロバキア音楽の主要な作曲家、いわゆる「最初のスロバキア楽派」の代表者たちを育てたことである。アレクサンダー・モイゼス、オイゲン・スホニ、ヤン・チッケル、デジデル・カルドシュ、アンドレイ・オチェナーシュらがその系譜に数えられる。これは、ノヴァーク自身がスロバキアの豊かな音楽的伝統に深い関心を寄せ、若いスロバキアの作曲家たちが創作の旅路の中でその伝統を発見する手助けをした結果である。彼の影響により、東西文化の「境界」線上にある小国スロバキアの作曲家たちが、20世紀音楽の創始期を築いたと評価されている。
また、ヴァシル・バルヴィーンシキー、ミコラ・コレッサ、ヨシップ・スラヴェンスキー、アントゥン・ドブロニッチ、クルスト・オダックといった他のスラヴ系作曲家、さらにドイツ系のフィデリオ・F・フィンケもノヴァークに師事している。ノヴァークは戦間期の1920年代に学長を複数期(2〜3回)務めつつ、1940年まで音楽院で教え、同年2月28日付で退職(年金生活)したが、在職期間を通じて音楽教育体制の構築に貢献した。

VII. 受容と遺産


A. ズデニェク・ネイェドリーとの論争――より正確な文脈の再構築


ノヴァークとズデニェク・ネイェドリーとの確執は、しばしば単純化された形で語られることがある。すなわち、ノヴァークがネイェドリーからの批判によって一方的に「深刻な自己不信と抑鬱」に追い込まれ、その結果作風が「様式的な保守主義」へと転じたという構図である。しかし、より正確な歴史的経緯を踏まえると、この図式は実情を過度に単純化している。
ズデニェク・ネイェドリーは、スメタナを「真のチェコ音楽の体現者」と位置づけ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、ノヴァーク、スークらを「保守的な作曲家」として批判する立場を取った、20世紀前半のチェコ音楽批評に決定的な影響を与えた音楽学者である。彼のノヴァークへの批判は、『婚礼のシャツ』(1912-13年)の評価に象徴されるように、たしかにノヴァークに深い不快感と動揺を与えた。しかし、この論争はノヴァークが一方的に攻撃を受け続けた構図ではない。第一次世界大戦前、ノヴァークは自身の作品(『ピアノ五重奏曲イ短調』『弦楽四重奏曲第1番ト長調』『ソナタ・エロイカ』など)への批評家の痛烈な批判に憤慨しただけでなく、晩年のドヴォルザーク作品の評価をめぐる論争(いわゆる「ドヴォルザーク論争」)では自らドヴォルザーク擁護の側に積極的に立った当事者でもあった。さらに、1930年代初頭のオタカル・オストルチルとの公開論争においても、ノヴァークは『科学批評の鏡に映るズデニェク・ネイェドリー』(1931年)という著作を自ら発表し、能動的に反論を展開している。この論争でノヴァークは自身の有名な皮肉なウィットを失わなかったとも伝えられ、単に圧力に屈した受動的な被害者というよりは、論争を厭わない強い気性の持ち主であったことがうかがえる。
音楽学者オンドジェイ・ピヴォダの研究などが示すように、ネイェドリーとノヴァークの関係は、音楽評論家と作曲家という個人間の確執の側面と、スメタナ対ドヴォルザークという、より大きなチェコ音楽イデオロギー対立の代理戦争としての側面の両方を持っていた。1916年、ネイェドリーが『カルルシュテイン』を「国民的偽物」と呼んだ事件は象徴的であり、これはノヴァークの『カルルシュテイン』がスメタナの『リブシェ』に代わって国立劇場開館30周年記念に選ばれたことへの若い音楽世代の反発と結びついている。とはいえ、この論争の影響が作風に直接的な変化をもたらしたと単純に因果づけることには慎重であるべきで、1920年代以降ノヴァークへの関心が低下した背景には、若い世代が主観主義的な後期ロマン派様式そのものを拒絶し、西欧モダニズムへ向かったという、より広い世代的・美学的転換があった点を見落としてはならない。

B. 国内外での評価と再評価の動き


ノヴァークの作品は、母国チェコでは確かな認知を得てきた一方、それ以外の地域ではあまり知られていないという評価が一般的である。1960年代以降、国際的な関心はさらに低下したとされる。一方で、彼の音楽が「時代を超越した」とも評されることがあり、この見かけ上の矛盾は、彼の国際的評価が学術界や特定の音楽サークル(外国の音楽アカデミーの名誉会員資格、外国人学生の指導など)に限られていたことを示唆する。
音楽学者イジー・フカーチは、論文「ノヴァークの時代は必ず来る」において、クルト・ブラウコプフが1989年のハンブルク・マーラー会議の席上で漏らしたという予言を表題に掲げ、楽観的な展望を示している。これに対し、論考「文脈に沿ったヴィーチェスラフ・ノヴァーク」の著者は、ブラウコプフの発言が歴史的論文というよりも個人的・伝記的な美的判断にすぎないことを指摘しつつも、いかなる美的規範も永遠ではないという期待を共有している。
近年の再評価の動きとして、ピアニストのマルティン・ヴォイティーシェク氏によるノヴァークのピアノ作品全曲録音(CD4枚組)と、ラドスラフ・クヴァピルによる膨大なセレクション録音が、カメニツェ・ナド・リポウのヴィーチェスラフ・ノヴァーク国際ピアノコンクールのインスピレーションの源泉となっている。同コンクールは2024年に第13回を数え、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品と遺産の振興のための研究所(カメニツェ研究所)が、ノヴァークの遺産を四大作曲家(スメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、マルティヌー)と関連づけながら、ズデニェク・フィビフ、ヨゼフ・スーク、オスカール・ネドバル、ヨーゼフ・ボフスラフ・フェルステルら同時代の重要作曲家とともに位置づけることを目指して活動を続けている。ヴォイティーシェク氏は2020年のインタビューで、こうした取り組みについて「作曲家が当然得るべきものは、いずれ長い目で見れば必ず得られるだろう」と述べ、歴史的正義への信頼を表明している一方、すべての作品を等しく復興させるべきではないとも釘を刺している――例えば『五月交響曲』や『ピアノ協奏曲ホ短調』については、ノヴァーク自身も回想録の中であまり良く語っておらず、これらをコンサートで強調することの意義には疑問を呈している。
一方で同氏は、『パン』が今日、チェコのピアニストのレパートリーから完全に姿を消してしまっている現状を強く惜しんでおり、「誰もこれを宣伝しないのは本当に残念だ」と述べている。演奏家、特にピアノ演奏家が彼の最高の作品に焦点を合わせ、誰かが『パン』を再び演奏すれば、関心はさらに高まるだろうという見通しも語られている。

C. チェコ音楽史における永続的価値


論争や評価の変動にもかかわらず、ノヴァークの音楽はチェコ音楽史において不可欠な存在である。彼はチェコ音楽の20世紀初頭における最も重要な作曲家の一人であり、教育活動を通じてその遺産は次世代――特にスロバキア近代楽派の創始者たち――へと受け継がれた。彼の音楽はチェコの国民的アイデンティティを表現し、ナチス占領という困難な時代には国民の精神的支えとなる役割も果たした。後期ロマン派の伝統を継承しつつ、民俗音楽や象徴主義・印象主義といった新しい要素を融合させ、チェコ音楽の近代化に独自の道を切り開いた点に、彼の作品の永続的価値がある。
ヴィーチェスラフ・ノヴァークに関する文献・資料は、チェコの作曲家の中でも最も豊富なものの一つである。ミロシュ・シュニエラーとリュドミラ・ペジノヴァーによる『ヴィーチェスラフ・ノヴァーク主題書誌目録』(プラハ、Editio Praga、1999年、518ページ)には162の番号付き作品が記載され、参考文献には情報源と文献に関する749件の項目が含まれている。

VIII. おわりに


ヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽作品は、後期ロマン派の堅固な基盤の上に、モラヴィア・スロバキアの民俗音楽、フランス印象主義・象徴主義、そして晩年にはパウル・ヒンデミットの和声語法までを融合させた、独自の芸術的言語を確立した点で特筆される。彼の音楽は単なる模倣に終わらず、民族的要素を高度に様式化し、堅固な単主題主義と濃密なポリフォニーを追求することで、チェコ・モダニズムの独自の道を切り開いた。彼の作品は、叙情的な旋律、民俗的リズム、色彩豊かなオーケストレーション、そして緻密な形式構造によって特徴づけられる。
本レポートで特に強調したのは、ノヴァークの作品全体におけるピアノ独奏曲と室内楽作品の重要性である。『パン』に代表される大規模なピアノ作品群、ピアノソナタ『エロイカ』、初期から晩年にわたる多数のピアノ小品集、そして3曲の弦楽四重奏曲やピアノを含む諸室内楽曲は、ノヴァークが単に「色彩豊かな管弦楽作曲家」であるだけでなく、ピアニスティックな思考と対位法的な構築力において独自の頂点を成した作曲家であったことを物語っている。マルティン・ヴォイティーシェク氏が指摘するように、ノヴァークの音楽を単なる「ムード」として演奏することは誤りであり、その堅固な構造を認識し構成する必要がある――この洞察は、彼の全創作を理解する上での核心を成す。
ノヴァークの生涯は、父の早逝による少年期の経済的困難、ドヴォルザークとの緊張をはらんだ師弟関係、ヴェルケー・カルロヴィツェでの民俗音楽との運命的な出会い、第一次世界大戦前後の公的生活への積極的参与、ネイェドリーやオストルチルとの相互的な論争、そしてナチス占領下での「音楽的抵抗」としての創作活動と密接に結びついている。教育者としても、彼はドヴォルザークに次ぐ影響力を持つ存在として多くの後進――とりわけスロバキア近代楽派の創始者たち――を育成し、チェコ・スロバキア両国の音楽の発展に多大な貢献をした。
現在、ノヴァークの音楽は母国チェコ以外では広く知られているとは言えない状況にあるが、録音技術の発展とデジタル流通の恩恵により、再評価の機運が高まっている。彼の音楽が持つ普遍的な美しさと、特定の文化的・歴史的文脈の中で培われた深遠な表現は、現代の聴衆にとっても新たな発見と感動をもたらす可能性を秘めている。今後の研究と演奏活動――特に、長く演奏会のレパートリーから姿を消している『パン』のような大作の復興――を通じて、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品が、その真価に見合った国際的な評価を確立することが期待される。

参考文献

本レポートは、以下の資料を主たる典拠として作成された。

ミロシュ・シュニエラー「ヴィーチェスラフ・ノヴァークの人生と仕事」(カメニツェ研究所、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの作品と遺産の振興のための研究所)
「ヴィテズラフ・ノヴァークの生涯と作品 (人物・性格・作風・作品目録・教育者として)」チェコ音楽人名事典系統項目(パベル・シコラ編、最終更新2016年1月13日)
ペトル・ヴェーベル「マルティン・ヴォイティーシェク:ヴィーチェスラフ・ノヴァークは過小評価されているが、忘れ去られてはいない」(KlasikaPlus.cz、2020年12月5日)
ペトル・ヴェーベル「古典の文脈(68) ヴィーチェスラフ・ノヴァーク――ロマン主義、時代の終焉」(2024年7月18日)
「Vítězslav Novák in the Context of Czech Music as a Whole: Thoughts about the Composer's Fate」(Muzikološki Zbornik収録論文)
ミロシュ・シュニエラー、リュドミラ・ペジノヴァー『ヴィーチェスラフ・ノヴァーク主題書誌目録』(プラハ、Editio Praga、1999年、ISBN 80-7058-473-4)

本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、Claude Sonnet 4.6とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行いました。

(2026.6.27 公開)

2025年7月16日水曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(2025.7.16改訂)

  別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。ここではそのことの分析を繰り返すことはしないが、そうした指摘に対して、CDが店頭で販売されるものから、インターネットを通じて購入できるものになったことは、そうした傾向を更に推し進める役割を果たしたことを付言することはできるだろう。

 例えば、極東の地方都市に生まれ育った人間が接することのできる演奏会の数を考えた時、いわゆる「名曲」がほとんどを占める演奏頻度のグラフのロングテイルの末端にようやく登場するような作曲家の作品に接することのできる確率は極めて低いものとなるのは避けがたく、CDという媒体に記録され、複製された流通することによってようやく接することができた作品を挙げたしたら切りがない。というより、結局、コンサートに行くだけの余裕がない私のような人間にとって、「音楽」は生演奏で接するものではなく、録音された媒体の再生によって接するものであるというのは紛れもない事実であり、寧ろ実演に接した作品は、全体の中のほんの一部を占めるに過ぎないのである。

 更に時代は移ろって、今やCDという物理媒体に記録された形で流通する形態から、各種のデータフォーマットの規格に準拠したファイルをダウンロードしたり、ストリーミングで再生したりといった形態が普通になっていて、そうした更なる変化が一層その傾向を助長している側面があるであろうことは理屈の上で当然だろうし、体感としても疑いないように思われる。そればかりか、今や腕に自信がある人であれば、コンサートを開かなくても、自分の気に入った曲を自分で演奏したものを公開してシェアすることさえ可能になっているのだが、ではそのことが「取り残された」作曲家の作品に接することに与える影響は?ということにフォーカスしてみると、影響があること自体は確実に言い得たとして、同時代に生み出され、演奏され、消費される音楽へのインパクトに比べた時、その影響は限定的で、CD普及の時期の変化には遥かに及ばないように感じられる。恐らく確実に言えることは、原理的な水準はさておき、事実上、ファイルのダウンロードやストリーミングという手段は、ライブの代補、リアルタイムな共有の代補という側面が強く永続性に欠けていて、寧ろ送り手と受け手の同時性を前提とせず、時間的な隔たりを通り抜けることができる「投壜通信」の媒体としては、CDのような物理的媒体の方が優っているのではなかろうか。

 ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。とはいえ、レーベルはLPレコード時代からお馴染のチェコのレーベル、スプラフォン。スプラフォンがCDを最初に製作したのは実は日本でのようで、1984年のことのようだが、そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。

ヴィーチェスラフ・ノヴァーク(1949年)

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。ちなみにまとまってリリースされたCDでその時に接することのできた『南ボヘミア組曲』以外の作品としては、初期のイ短調のピアノ五重奏曲(op.12)とト長調の弦楽四重奏曲(op.22)、おそらくノヴァークの音楽で最も人口に膾炙していると思われる『スロヴァツコ組曲』Slovácká svita, op.32(一般に流布する邦訳タイトルは不正確で、これはモラヴィアとスロヴァキアにまたがるスロヴァツコ地方に取材した作品である)に加え、2曲のバレー・パントマイムのための音楽(『ニコティナ』Nikotina, op.69,『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』Signorina Gioventu, op.58)があったと記憶する。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできる(例えば、この文章で後程参照することになる、INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK の Official Webが代表的なものとして挙げられよう)とはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、上記の作品中だと2曲のバレー音楽がそうであるようにフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、その後他のレーベルのCDで接することができた交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのは既述の通り、もともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。

 そしてマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。またマーラーが指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したのだが、彼の微分音音楽の実践を支持したのは、理論上で微分音音楽の可能性を示唆したブゾーニである。そしてブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは、出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。この辺りの経緯は以下のノヴァークの作品と遺産の普及を目的とした協会のWebサイトの記事に語ってもらうのが適切だろう。

On the one hand, at the age of 60, he finally visited his hometown of Kamenice nad Lipou in 1930, and then he realized, as a subjectivist-based artist, his debt to his native region and to South Bohemia in general, where he liked to go. He created the South Bohemian Suite evoking a region of forests, ponds and a captivating pastoral with the catharsis of a quasi-quotation of the hymn at the end of the finale. The piece is also notable for its inventive change of titles to a Hussite chant in the third movement, which contrasts with the first two, which are naturally partially lyrically impressive.

(INSTITUTE FOR THE PROMOTION OF THE WORK AND LEGACY OF VÍTĚZSLAV NOVÁK - Official Web, VÍTĚZSLAV NOVÁK - Life and Work by Prof. PhDr. Miloš Schnierer, co-founder and long-time secretary of the V. Novák Society and chairman of the International V. Novák Society in 2007-2016. : https://www.vitezslavnovak.cz/zivot-a-dilo/d-1015/p1=1024)

 引用の末尾には、私が既にこの作品独自の特質として挙げたユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収でスメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比についての指摘も見ることができ、この記述を偶々目にした折には我が意を得たりという思いを強くしたものである。と当時に、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。更には若き日にはチェコのモダニスムを代表していたノヴァークが晩年に至って音楽語法の上では寧ろ守旧的な姿勢となった点を、後の「社会主義的リアリズム」と結び付けて論じる向きもあるかも知れないが、私はそのようなものとしてノヴァークの音楽に接していないことは確かなことに思われる。何よりもその音楽自体が告げる消息が、そうした「公的」なイメージと背馳しているのだ。「愛国的」な系列の作品についても、その事情は変わらず、そこには「国民楽派」とか「社会主義リアリズム」のイデオロギーとは相容れいない契機が余りにもあからさまに刻印されているように感じられてならないのである。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更に第三次的なテクノロジーに補綴された把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。

 その一方でノヴァークその人の「老い」について言うならば、その創作のピークとされる1910年代の「パン」や「嵐」といった作品の後、オペラでの苦い経験を経て、敢えてモダニスムに与することから背を向けるように、後期ロマン派の様式に留まることを意識的に選んだその姿勢(これは寧ろ、アドルノの後継者たることを自任するサイードが『晩年のスタイル』において論じ、偶々ノヴァークと同じ1949年に踵を接するようにして世を去ったリヒャルト・シュトラウスに通じるのかも知れない)と「老い」との関わりをどう捉えるかという別の問いを開くことに通じるように思われる。更にラフなスケッチのみをしておくならば、モダニスムに背を向けた点では同様であるシベリウスが早くも第一次世界大戦後の1920年代に沈黙に入ってしまうのに対し、ノヴァークの方はナチスによる故国の蹂躙と解体に瀕して、音楽を通したレジスタンスを行ったというまさにそのことが、一見したところアドルノが批判する「反動」として捉えられそうであるにも関わらず、サイードが特徴づける「晩年のスタイル」の枠組みで捉えることができるのではないかという仮説を取り出すことができるのではなかろうか。そしてその展望の中に改めて「南ボヘミア組曲」を位置づけることが必要になるだろう。であるとするならば、私にとってノヴァークは、まずは「老い」について考えることに、それとなく誘ってくれた存在ということになるだろう。それ故そのことについての感謝の気持ちを込めて、だがいずれ再び、改めて彼の晩年について考えることになるであろう時が来ることを期して、ここで一旦、彼からの贈与に対する応答であるこの文章を結ぶこととしたい。

(2022.11.26 公開, 2024.12.23改稿, 2025.6.18 再公開, 2025.7.16改訂)