晩成の作曲家であることに加えて、オルガンの名手であることや信仰との結びつきをもってフランクはしばしばブルックナーと対照されることがあるようだが、これは個人的には些か信じ難い。同時代に生き、しかも実際に交流もあり、更にはお互いを評価しあっていたらしいのだが、にも関わらず私がその音楽から受ける印象は全く異なるからである。かつて、フランクの音楽をたっぷり聴いた後で「フランクに良く似た作曲家」ブルックナーの交響曲を聴いたとき、その音楽にほとんど似たところがないことにびっくりしたことがある。ブルックナーの音楽には外に向かう広がりがあり、その音楽は生活世界に根ざしたもので、それゆえあからさまなローカリティを感じさせるものであるのに対し、フランクの音楽は徹底的に内面的で閉ざされていて、身体性すら捨象したような心の音楽であり、そこには風景というものはない。
フランクの音楽には他者がいない。葛藤はあったとしても視界からは事前に排除されてしまっていて、暴力的に空間を歪める存在は、地平の外に追いやられている。これは独我論の世界なのだ。従って弁証法的な動性はなく、静的で閉ざされた空間であり、それゆえ劇的な構想を持つ音楽は、オペラであろうが、オラトリオであろうが困難だろう。晩年の傑作群にしても、勿論ジャンルの違いがあり、曲想の違いあっても、驚くほど均質な印象を覚えるのだが、それにはそうした他者の排除が関係しているように思われる。レムの「ビット文学の歴史」に、神秘主義文学を情報量の観点から分析するというアイデアがあったが、フランクの音楽の持つ相貌のある種の単調さは思わずそうしたことを思い起こさせずにはいない。ジャンルの多様性についていえば、若き日のピアニストとしてのキャリアや、その後のオルガニストとしての名声にも関わらず、結局のところフランクは楽器のために作品を書くタイプの作曲家ではなかったように思われる。例えばそのオルガン曲は大オルガンの機能をフルに用いているとは言い難く、従って、その後の世代への影響の大きさにも関わらず、フランクをオルガン音楽の大家として評価することに留保をつける意見があるのも止むを得ないようだし、その一方でピアノ曲はといえば、こちらはオルガン的な書法が顔を出し、いわゆるピアニスティックな作品とは言い難いようである。つまるところ、そうした媒体を抽象したレベルでの「フランクの音楽」というのがあるかのようで、従っていわゆるジャンル論のようなものは、フランクの場合には相対的には副次的な意味合いしか持たないように見えるのである。勿論、既述のようにオペラやオラトリオといった劇的なジャンル(それは当時のフランスにあって、作曲家として認知されるには必須のジャンルでもあった)への適性の無さというのは残るが、いわゆる「絶対音楽」にあっては、それが室内楽であるのか、独奏曲であるのか、交響曲であるのかは副次的であって、そういう意味では、フランクの音楽ほど件の「絶対音楽」に相応しいものはないのかも知れない。フランクの音楽はひたすら系の内部状態の記述であり、その内部状態を惹き起こした原因であるに違いない外部の事象は捨象されてしまう。実際には純粋で自律的な自己などというのは抽象に過ぎず、自己は何重にも歴史的・社会的な文脈に拘束され、規定された様態しか持ち得ないのではあるが、ここでは恐らく自覚的に引き受けられた仕方ですらなしに、無自覚にそうした外部の括弧入れが行われていて、生物としての人間が持っている感覚器官の外向性に反するように、ひたすら自分の内部の状態に耳を済ませようとしているかのようなのである。音楽はまずもって感覚的なものだし、楽器という媒体を通して実現され、感覚器を通して受容されるものであって、それは具体的で外に開かれたもの、外界との界面で起きる事象であるにも関わらず、そうした外部との媒介をなす感覚の次元すら捨象して、「心」や「精神」と呼ばれるものの状態の遷移のみに対象を限定しているその限りにおいて、それは具体から引き離されたという意味合いをも込めた上で「絶対的」と呼びうるかも知れない。
そしてフランクの音楽の無媒介性は、一方ではその音楽に稀有な純粋さと年齢を忘れさせるような若々しさを与えるものでありながら、他方では、結果として、ある種の独善的な押し付けがましさ、不器用で洗練からは程遠い頑なさを齎しているように思われる。既にフランクの生前においてすらフランキストと呼ばれる弟子達の間にフランクを「天使的な」作曲家として賛美する傾向が見られるが、そうした両面性を思えば、その「俗世を離れた」内面への沈潜は、実際には必ずしも手放しで賛美できるようなものではなく、その自閉の背景には、若き日のフランクが直面しなくてはならなかった世の成り行きとの間の葛藤があったに違いないのである。勿論、どちらが原因でどちらが結果であるかを決定することは困難であろうが、いずれにせよ、フランクにとってはそうした内面の発見とそれへの沈潜はその生にとって切実な契機であったに違いない。その作品の持つ、場合によっては聴く人をたじろがせ、狼狽させ、拒絶反応さえ惹き起こしかねない閉塞感と飢餓感は、そうした両面性を物語っているように思えてならない。 フランクは挫折した神童であり、ピアニストとして世に出たにも関わらず、結局演奏家としてはうまくいかず、作曲家としての成功することを志してオペラを書くけれども、とうとう書ききることができない。かつての神童は30歳にして危機を迎え、数年間作曲ができない状況に陥るのである。
そうしたフランクが立ち直るきっかけとなったのは、聖クロティルド寺院のカヴァイエ= コル・オルガンとの出会いであったようだ。挫折したフランクにとって、オルガンはそこに逃げ込む格好の媒体だったのだろうと思われる。フランクの信仰については私は良く知らないし、そうした事柄について書く資格もないけれど、そういう「通俗心理学的な」説明なら思いつく。更に言えばオルガンは楽器の性質上「自己表現の道具」にはなりにくい。フランクの場合に限って言えば、オルガンのそういう「自己から距離のある」性質は、どちらかというと自己がそこで充足するような空間を築くことで、外部との間に壁を築いているように思われる。フランクはもしかしたらその壁を信じきって、堅固な現実と錯覚したかも知れず、そしてそれがフランクにとっては多分幸いしたのではというように感じられるのである。そうして聖クロティルド寺院のカヴァイエ=コルオルガンを通じて、フランクはようやく自己への途を見出したに違いない。今日大オルガンのための6つの作品として知られる曲集は、その発見の第一報であり、それゆえ時代的に後年の「傑作の森」の作品の数々と20年の年月によって隔てられてはいるものの、その発見に相応しい若々しさと気韻に満ちているのだと思われる。
そしてそうした自己の発見というのは必ずしも自明のことではない。否、自己の形成や維持自体が自明のものではないのであって、文字通り、自己はその都度、危険を冒して「形成」され、「発見」されるべきものである。だからそうした発見の記録はかけがえのないものだし、そうした発見された自己の空間を保持するその仕方が、不器用で垢抜けない、時としてはいらいらするほど頑なな態度であったとしても、そのことの困難さを思えば決して非難することはできないように思えるのである。それ故に私にとって、フランクの音楽はかけがえの無いものであり続けているのだと思う。
フランクの音楽が私個人にとって持っている特殊な意義、それは結局、それが(私自身の)自己の発見の同伴者であったという事情に還元できるのかも知れない。
つまりそれは偶然的な結びつきの産物であり、客観的に見てフランクの音楽について何かを告げているわけではないということになるのかも知れない。
クセナキスがヴァルガとの対談で言った「音楽ではなく、音楽外のものとの情緒的な結びつきが、人を感動させるとしたら、それは音楽を聴いているのではない。」が
まさに当て嵌まるのであると。その点についての当否については、私自身は最早どちらでも良いように感じている。基本的にはクセナキスの主張は正しいのだろうが、だからといって無色透明で、中立的、客観的な聴き手というのはそれもまた一つの抽象である。人が或る音楽に出遭うとき、自伝的自己の歴史のある一点において、様々な脈絡の中で聴くことは寧ろ避け難い、構造的に予め規定されてしまい、聴き手はそれに対して受動的でしかありえない事柄であり、その一方で、或る音楽の或る脈絡での聴取が聴き手である自己にとって及ぼす影響の質や強度もまた、多くそうした脈絡に先行的に規定されているものであり、個別の脈絡はその都度個別のものであったとしても、そこには別段特殊なものがあるわけではない。自伝的自己の確立の時期の出来事が、その後の自伝的自己の構造に対して不可逆的かつ永続的で根本的な影響を及ぼすということは寧ろ当然のことであって、特定の音楽の聴取というのも、そうした出来事の内の一つに過ぎないのである。何より事実として、そうした遭遇の結果、私の脳のネットワークに形成されたパターンは
無くなりはしない。もしかしたら人生のある時期、丁度そうしたパターンが形成されていく時期に刻み込まれた「それ」は、そうしたパターンが出来上がった後に
受容されるものとは異なる側面があるのかも知れない。もちろんこれはそうしたパターンに可塑性を否定するものではないし、明確に2つの相が分離可能であると
主張するわけではない。けれども、質の変化というのはやはりあるように感じる。それほどまでにフランクの音楽を聴いて私が受け取るものの強度は例外的なのだ。
(クセナキスの上記の言葉にも或る種のバイアスがかかっていること、彼の幼年期の記憶、彼が実は絶えず引き戻される、彼が封じ込めたいと思っている何かに
通じるものがそこにあることをかえって浮び上がらせているように感じられることに注意しよう。或る種の精神分析でいう「否定」、「抑圧」のメカニズムの存在を
感じさせる。彼が謂わば「超人」の聴くべき音楽、21世紀の今日風には、シンギュラリティの彼方を垣間見るかのような、来るべき音楽を指向したことは、そうしたメカニズムの反動として捉えることもできるだろうし、自分がかつて聞いた音楽が引き起こす連想によって、過去の出来事を想起され、結果的に自分を感傷的にさせるような聴取は、謂わば「余りに人間的なもの」の残滓として、拒絶されるべきものであったのだろう。)
私は「自己の発見」と言ったし、それは「アイデンティティの確立」のことを指していないわけではないのだが、従って、寧ろここで問題なのはそれを可能にする条件の側、つまり自己が、意識が自分が受動的な存在であること、自分の背後には自分に呼びかける存在があることに気づくことの方にある。自分の奥底にある 深淵に気づくこと、そこからの声に気づくことが、「アイデンティティの確立」の条件ではないか。ある時期に繰り返し繰り返し見る夢。闇の中に浮かぶ赤い球体。 それに惹きつけられるように近づき、近づく赤く光る球に呑み込まれる恐怖。そしてその恐怖が「何か」に呼びかけることで消え去る経験。 そうした不可逆の、相転移の経験とフランクの音楽は多分どこかで繋がっている。
それは心の底から湧きあがってくる。漆黒の闇の中のゆらぎから秩序が生成される瞬間の記憶を閉じ込めた音楽。フランクの音楽は教会か、 フランクの自室のか判らないが室内の音楽だ。だがそれ以上に、脳の中の音楽、しかも普段意識が振り返ることも気づきもしない、脳内の奥の部屋の音楽なのだ。 ジュリアン・ジェインズの二院制(bicameral)の心の示唆する「別の部屋」からの響き。ジェインズは科学者の様々な「ひらめき」についても言及しているが、 この点で私が最も印象的に感じているのは、例えばホフスタッターが『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の中で報告している数学者ラマヌジャンのケースだ。 ラマヌジャンは定理を「女神のお告げ」で得たと言って周囲を困惑させたというが、彼の言葉には偽りはなかったと私は確信している。 あるいはまた南部陽一郎の夢うつつの中を動く数式もまたしかり。だが、そうしたことは別に天才にだけおきるわけではない。平凡な人間でもそれは起きることで、 ただ平凡な人間の場合にはそうした「別室からの声」によって得られるものが、せいぜいがプログラムのバグの在処であったり、 あるいはそのときに課題になっているモデリングやアルゴリズムについての解答であったりといった平凡なものに過ぎないだけだ。 意識とは別のところで思考のプロセスは動いていて、極端なケースでは意識は後で答えだけを受け取るわけだ。 そうした声は意識が不活発な時に決まって響いてくる。そうしたことはそんなにしょっちゅうではないけれど、でも繰り返し起こることで、そこには 神秘はなく、きちんとしたメカニズムが存在することは疑いない。
心の中には、どこか懐かしい、だが徹底した闇に包まれた、それでいて同時にその裡に光を閉じ込めた満天の星降る夜、 あるいは慈しみに満ちた雨の夜が封じ込められてはいないだろうか。自ら(ただし気付くことなく、無意識的に)選択して抑圧し、その結果二重・三重にも隔離された空間。 きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、けれども常には安全に閉じ込めておける感情、 けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動き。その向こうには明るい夜が開けている。
フランクの音楽は、そうした「別の部屋」から湧き出してくる泉の水の響きのように思える。三輪眞弘が言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの 合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、 そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」が、こうした事態を指しているのかどうかは確かではない。 だが、私の場合にはフランクの音楽こそが、まさにこの定義にほぼぴったり一致する。それは外界にある何かやそれに対する反応になど興味がない。 社会的な関係が生み出すドラマにも無縁だし、意識自身が生み出す物語にさえ関心がないかのようだ。それは周囲のロマン派の音楽と、 表面的な技法や様式の点でしか接点がない。繰り返すがこれはフランクの音楽の客観的、一般的な特性ではないかもしれない。 こうしたことは誰にでも起きることではないだろう。ある人にとっては別の音楽がそうかも知れないし、ある人にとって音楽はそもそもこうした事柄とは 無縁のものだろう。あるいは「別の部屋」という状況が絵空事としか感じられない人もいるだろう。だが仕方ない。 私にとってフランクの音楽がそうした存在であることは否定しようがない。この音楽はある状況下では私にとって非常に危険ですらある。 けれども時折、己を空しくすることが必要な瞬間、否、自我の積極的な活動が万策尽きたような「危機」、意識の賢しらさが嘲笑われる瞬間に 到来する「それ」に密接に関連していて、それゆえ冒頭に述べたように「ずっと奥底にしまわれていて、ときどき浮び上がってくる」、そうした存在なのである。
フランクの音楽は、そうした「別の部屋」から湧き出してくる泉の水の響きのように思える。三輪眞弘が言う「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの 合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、 そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」が、こうした事態を指しているのかどうかは確かではない。 だが、私の場合にはフランクの音楽こそが、まさにこの定義にほぼぴったり一致する。それは外界にある何かやそれに対する反応になど興味がない。 社会的な関係が生み出すドラマにも無縁だし、意識自身が生み出す物語にさえ関心がないかのようだ。それは周囲のロマン派の音楽と、 表面的な技法や様式の点でしか接点がない。繰り返すがこれはフランクの音楽の客観的、一般的な特性ではないかもしれない。 こうしたことは誰にでも起きることではないだろう。ある人にとっては別の音楽がそうかも知れないし、ある人にとって音楽はそもそもこうした事柄とは 無縁のものだろう。あるいは「別の部屋」という状況が絵空事としか感じられない人もいるだろう。だが仕方ない。 私にとってフランクの音楽がそうした存在であることは否定しようがない。この音楽はある状況下では私にとって非常に危険ですらある。 けれども時折、己を空しくすることが必要な瞬間、否、自我の積極的な活動が万策尽きたような「危機」、意識の賢しらさが嘲笑われる瞬間に 到来する「それ」に密接に関連していて、それゆえ冒頭に述べたように「ずっと奥底にしまわれていて、ときどき浮び上がってくる」、そうした存在なのである。
それ故、ふとした折にフランクの作品を耳にすることは、深い慰藉をもたらすことになる。その効果は強烈で、しばらく音楽が心の中で響き続けることになる。外からではなく、内側から湧き上がってくるかのように。ところでここでいう「別の部屋」とは、ユク・ホイが『再帰性と偶然性』の終わり近く、リオタールの言葉を引きつつ(p.328)、「非人間的なもの」を以下のように定式化している箇所における非人間的なものの在り処と響きあうのではなかろうか。(更に一言加えるならば、この一節を読んだとき、「非人間的なもの」が、例えばフロイトの局所論におけるエスないしイドのような、互盛夫さんが紐解いて見せて下さる「エスの系譜」に連なるものであるというのが私には余りに明らかなことと思えて、どうしてその点に言及しないのか訝しく感じられた程であった。)
「(…)非人間的なものは人間的なものの否定にほかならず、人間がそれであることはないもの、そして人間が決してそれであることはないものをいうが、しかし非人間的なものは人間の内にある。(…)非人間的なものは神や無限や可想体や絶対的な偶然性やその他さまざまの名前をもちうるが、非人間的なものを肯定することは生命ないし精神の生命の整合的な形式を表現する合理化を要求しもする。」(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』, 原島大輔訳, 青土社, p.339)
そしてこの節の末尾においてベイトソンの名とともに語られる以下の言葉は、フランクの音楽が今なお保ち続けてい力と関わっていはしまいか?
「近代的な進歩観を特徴づける正のフィードバック循環から脱出して、別の思考が機能することは可能なのである。そのためには、これを否定すること、または超越すること―あるいはベイトソンであればこう提案したであろう。別の再帰的な過程、別の認識論を発明すること。」(p.340)
或いはまた、ウィーナーの『サイバネティクス』と『人間機械論』をモチーフとした論集『ディープ・シンキング』(ジョン・ブロックマン著、日暮雅道訳、青土社)の第24章は、キャロライン・ジョーンズの「サイバネティックな存在の芸術的な利用」なのだが、その末尾には以下のような文章を読むことができる。(なおこちらのベイトソンはグレゴリーではなく、娘の方である。)
「ここで提示したサイバネティックな認識論は、あらたしいアプローチを示唆している。個人の知能は身体だけではなく、身体の外部にある経路にも内在している。そして、より大きな知能が存在し、そこでは個人の知能は下部組織にすぎない。このより大きな知性は神に匹敵するもので、ある人たちが”神”という言葉で意味するものかもしれないが、相互接続された社会制度やこの地球の生態系にもやはり内在している、とベイトソンは考えている。(…)ベイトソンの言う”神”はむしろ、世界における意識と作用し合うという、はかない経験を任された代理人だ。つまり、入力された情報や作動の結果としてのより大きな知能は他の実在物と協力して、今度は他の作動のためのインプットとなる―われわれが感じ取って一体になるべきパターンを構成する共生関係が絡み合った、クモの巣状の組織だ。」(キャロライン・ジョーンズ、「サイバネティックな存在の芸術的な利用」(ジョン・ブロックマン著『ディープ・シンキング』所収、日暮雅道訳、青土社, p.339))
フランクの音楽は、ベンヤミンの指摘するファンタズマゴリーに覆われつつあるベル・エポックのパリで、そうした世間の動向からは超然として、ひっそりと紡ぎ出された。多分彼自身はそんなことは意識しなかっただろうが、それはファンタズマゴリーへの抵抗の最初期の試みであり、近代的な進歩観を特徴づける正のフィードバック循環から脱出し、別の思考が機能しうることの証であり、別の再帰的な過程そのものではないだろうか?別のところでも記したことがあるが(「戦前のフランク受容と私-私の父と、「洪水」誌の池田康さんに-」)、弟子達の喧伝もあり、かつては錚々たる書き手が挙って論じたフランクの音楽は20世紀の後半に至ってどんどん忘れ去れ、21世紀の今となっては最早賞味期限切れとなり、すっかり骨董品と化したようにさえ見える。それは今や、かつて「人間」と呼ばれたものが如何なるものであったかを証言する歴史的な遺産に過ぎないという見方すらあるだろう。だけれども、こと私個人にとっては「別の部屋」から湧き出してくる泉の水はまだ涸れておらず、50年近く前に、異郷の子供の「個体化」に立ち会い、それを媒介したように、今でも変わらず響き続け、今度は年老いて老年に差し掛かりつつあるかつての子供の心に流れ込んでいるように感じる。私にはそれは、フランクと同時代の様々な音楽とは異なって、同時代において既にあからさまに「反時代的」であり、そうした事情は今なお変わらず、寧ろ初めから「非人間的なもの」と触れ合って、そこから直接流れ込んでくる音楽であって、寧ろ「別の再帰的な過程、別の認識論」の可能性を今なお垣間見せてくれるようなものに感じられるのである。かつて河上徹太郎は、自身が翻訳したジャック・リヴィエールの『エチュード』に収められたフランク論に触発されつつ、「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」においてフランクの音楽を「自意識の問題」が映り込んだものとして把握して論じたのであったが、今やそれを人間の心というシステムの再帰的構造というサイバネティクスの問題として捉え直して再検討することが求められているのではなかろうか。
フランクの音楽は、世界のシミュレーションというより、個の確立のプロセスの記述、個体化のシミュレーションのように私には感じられる。そしてその作品の生成を考えた時、オートポイエティックな機械仕掛け、オートマトンをイメージするに相応しいように思える。そうであるとするならば、問いは、どのようなオートマトンであれば、どのような入力が与えられれば斯くの如き出力が可能となり、1世紀の時間の遅れと半周分の場所の隔たりを乗り越えて、異郷の子供の「個体化」に立ち会うことが可能となり、その後も引き続き影響を及ぼすことが可能となるのか?というものになるだろう。
そしてもう一つ、改めて気づいたことなのだが、よく知られているように、フランクは大器晩成の典型であるとされており、こうした作品のほとんどは60歳を過ぎてから産み出されたものなのである。それらはまさにゲーテの言う「後期様式」の最上の事例なのであろうが、ではどのようなオートマトンであれば、このような出力を紡ぎ出すことが可能なのか?「後期様式」が可能になるためにオートマトンが備えているべき条件は何か?という問いが出てくることになる。但し、ゲーテ=ジンメルにおける「老年」の捉え方に裏付けられているとはいえ、アドルノの「後期様式」がフランクの場合に適用可能かどうかについては検討の余地があるだろう。アドルノは「後期様式に」ついて、『楽興の時』所収の「ベートーヴェンの晩年様式」でベートーヴェンの場合を取り上げ、『マーラー 音楽観相学』にてマーラーに関して語っているが、まず、フランクの場合をベートーヴェンの後期様式からの分枝として扱うのは自然な発想であろう。だがその一方で、「ベートーヴェンの晩年様式」で述べられている具体的内容に照らした時、その或る種「否定的」側面がフランクの「傑作の森」に該当するかは疑問の余地なしとしない。寧ろそれはベートーヴェンなら中期に当て嵌まる「円熟」が単に遅れてきたものであるという捉え方もまた可能に違いない。更にベートーヴェンやマーラーを念頭においたアドルノ自身の「後期様式」観をフランクに適用しようとしたとき、それらの間には看過できないズレがある一方で、アドルノが依拠しているジンメル=ゲーテの「老年」や「後期様式」をフランクへ適用してみようと試みた場合、寧ろこちらの方が親和的であるようにも感じられる。
だが上記について拙速に結論を出そうとする前に予備的に行うべきことは、一見したところ時代の様式に従っていながら、そして若い頃の作品はまさにその時代の趣味に従ったもののようでありながら、晩年に至って、一部の熱心な弟子達を除いた一般の無理解と孤立とを引き換えにして突然変異のように生み出された傑作の数々を特徴づけるものは一体何なのかを(アドルノがまさにベートーヴェンの「晩年様式」に関してそう促したように)作品そのものから出発して客観的に突き止める作業であろう。それはフランクその人が属していた歴史的脈絡や社会的・文化的な環境、その信仰に遡行して辿り着けるものではなく、セカンドオーダー・サイバネティクス後のオートポイエティックなシステム論を踏まえた自意識を備えたシステムの産出としてフランクの音楽の創造にアプローチすることが必要とされているように思えてならない。冒頭述べた、フランクの音楽の構造としてしばしば指摘される「循環形式」なるものも、単に多楽章形式の楽曲の複数の楽章において主題材料を繰り返し使用する手法という、それのみでは例えばライトモティーフと区別がつかないような定義で事足れりとするのではなく、単なる機械的な反復、再現ではない、オートポイエティックなシステムの作動の結果としての動的安定性や、絶えざる個体化と自己の維持という自己言及性・再帰性の観点から再定義されるべきだろう。そしてそのような仕方でのフランクの音楽へのアプローチは、ユク・ホイの言う「非人間的なものを肯定することは生命ないし精神の生命の整合的な形式を表現する合理化」の要求に応えることに通じ、ひいては「別の再帰」、「別の認識論」の発明の秘密を突き止め、別の「宇宙技芸」の可能性を探る作業にどこかで通じているのではなかろうか。 (2005.5, 2008.11.2追記, 2023.3.27, 4.2加筆・改稿, 6.7追記,2023.10.4改題)
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