ブルックナーにおける「老い」ではなく、「死」についてであれば、既に多くのことが語られてきた。直ちに思い浮かぶのは、田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』(春秋社, 2005)の第9章、まさに「死の時計」と題された章で言及される第8交響曲についてのブルックナー自身のコメントだろうか。
「第一楽章には主題のリズムに基づく、トランペットとホルンの楽節がありますが、それは「死の告知」です。それは途切れがちながらしだいに強く、しまいには非常に強くなって姿を現します。終結部は「降伏」です。」(上掲書, p.272)
それをうけて、田代は「ブルックナー最晩年の『第八番』と『第九番』は、いわば死に憑かれた交響曲である」(同書, p.273)と述べる。
だが「死」ではなく、問題となるのが「老い」である場合、「死」と区別される限りでの「老い」についての言及を見つけるのは容易なことではない。特にブルックナーに限って言えば、上掲書の冒頭いきなり「バロックの屍臭」と題された節が置かれて、そこで言及されて以降繰り返し指摘されるように、「死」との関りは、恐らく今日一般的な了解の地平を構成するのとはかなり異なった風景の下で条件づけが為されているのであってみれば、「死」と「老い」との関係もそれに応じて異なっていると考えるべきだろう。そしてここで「老い」固有の徴候に注目すべきということになれば、寧ろそれは「死」との関りにおいてではなく、発達や成長、あるいは進化といった言葉で語られる側面に関わる否定的なものとして捉えるべきものであるように思われる。少し先の部分(p297)では、ブルックナーにおける「人間的成長」の欠如と「作品の進化」の対比が指摘され、その矛盾を「天才」と呼ぶといった見解が示されていて、もしそうならば、生物学的な、生理的な「老い」はあったとして、精神的な意味合いでの「老い」をそこに見つけることがそもそもできるのかという問いかけが為されたとしても不思議はない。
だがその点の評価は一先ず措いて、ここでは「老い」の徴候となる様々な事実を確認してみよう。「老い」に関する社会学的研究でしばしば「老い」との関りが深い出来事として挙げられるものの一つが退職だが、ブルックナーの場合について言えば、音楽院退職は1891年1月15日であり、宮廷オルガニスト退任は1892年10月のことである。その一方で1892年7月の最後のバイロイト訪問で体調を崩したことが記され、創作に専念できる環境が整いつつあるかと思えば、今度は衰えゆく健康との闘争が始まる。
大学での講義の最終は1894年11月12日。但しこれは所謂、儀礼的な側面を持つ、事前にそのようにレイアウトされた「最終講義」ではなく、この回が最後の講義となったというに過ぎない。だが1895年より大学から年金が支給されたとのことなので、事実上の退官ということになるのだろうが、その後間もなく、1894年12月に再び体調が悪化し、9日には臨終の秘蹟を受けるまでになる。だがその後再び回復して、ブルックナーが没するのは更に2年近く先の1986年10月11日である。
第8交響曲は初演こそ1892年12月のことだが、作品自体は一旦完成した後の3年に亘る改訂を経た第2稿が既に1890年3月10日に完成しているから、これは音楽院退職に先立つことになるので、ここでは第9交響曲の成立過程に関わる事実を確認しておくと以下の通りとなる。(『ブルックナー・マーラー事典』(東京書籍, 1993)の第9交響曲の項の記述(根岸一美執筆)に基づく。なお田代の記述は、第2稿の完成後ただちに為され1890年4月16日付で受理された第8交響曲の皇帝への献呈を、翌年の音楽院の退職に続く時期と混同しており、更にそれを第8交響曲「作曲中」(田代, 上掲書, p.264)の出来事とするなど微妙な混乱を示している。興味深いエピソードを散りばめた田代の叙述は、そのスタイルの性質上、厳密にクロノロジカルではなく、年代を前後するので、このような錯誤がどうしても生じやすく、読み手の方も、うっかりするとクロノロジーについて誤認しがちになるのは避け難い。私個人について言えば、マーラーの場合を唯一の例外として、ブルックナーについてはその生涯の出来事が頭の中に入っているわけではなく、今回、「老い」に関する個別事例として取り上げたに過ぎないため、事実関係について気付かぬままに思わぬ誤認をしていることを惧れる。)
- 第3楽章まで:1887年8月~1894年11月30日
- 最も早いスケッチは第1楽章のもので、1887年8月12日付
- 1891年1月:第1楽章スケッチの手直し、1891年4月末:第1楽章総譜着手
- 1892年10月14日:第1楽章総譜完成、1893年12月23日:再点検終了
- 1893年2月27日:スケルツォ総譜完成、1894年2月15日:再点検終了
- 1893年1月頃:アダージョ着手、1894年10月31日、11月30日:アダージョ総譜完成
- フィナーレ:1895年5月24日~1986年10月11日
上述の第1楽章のスケッチの開始は第8交響曲の第1稿の完成後まもなくの時期にあたるが、その後、いわゆる第2次改稿の波による中断を経て、第1楽章スケッチの手直しが始まったのは音楽院退職に相前後してということになる。勿論、スケッチの開始時期を軽視するつもりはないが、こうしてみると第9交響曲こそが「晩年」の交響曲であったと言いうることになりそうだ。実年齢では67~68歳から没する1896年10月11日までの残り4,5年が彼の「晩年」ということになるのだろうか。特に目を惹くのはアダージョ総譜完成の日付で、大学での最後の講義と臨終の秘蹟を受けるに至る程の深刻な体調の悪化との間に位置していることが確認でき、アダージョの総譜完成までの集中とそれが完了したことによる緊張からの解放が影響しているのではないかと思わずにはいられない。
第4楽章を完成できない場合に『テ・デウム』を終楽章に代用しても良いという、第9交響曲に関する余りにも有名な発言の記録を含むジャン・ルイ・ニコーデの回想は1891年3月のものだが、上記のクロノロジーに照らせば、音楽院退職後、再び第1楽章のスケッチに向き合って手直しを行っている最中のことになる。フィナーレそのものはおろか、まだアダージョの着手ですら2年近く先の時期に、第4楽章が完成できないかも知れないという予感をブルックナーは既に抱いていたことになる。従ってこの発言はブルックナーの「老い」と「死」についての自覚を証言したものと見做し得るだろうし、そうした自覚は、第9交響曲の本格的な創作の開始の時期から、その過程を覆っていたことを告げている。
だが世俗的=公的に他の何よりも「老い」の自覚を証言するものは、1893年11月10日付の遺言書の作成であろう。それに先立って、ブルックナーは手稿の製本、封印を行っており、それら手稿の保管について遺言書の第四項で以下の通りに指示している。
「以下の作品の手稿譜を、ヴィーンの帝立・王立宮廷図書館に遺贈します。現在までの8つの交響曲(主が望まれるなら、『第九番』もほどなく完成)、三つの大ミサ曲、『弦楽五重奏』、『テ・デウム』、『詩篇・第百五十篇』、合唱曲『ヘルゴラント』、以上。同館管理者はこれらの手稿譜の保管につき、細心の注意を払われることを。またヨーゼフ・エーベレ社は同館より、出版予定作品の手稿を適当時間借り受ける権利を有するものとし、同館は同社にその手稿を、適当期間貸与する義務を有するものとします。」(田代, 上掲書, p.294による)
単なる保管ではなく、作品の出版・流通による普及についても配慮していることにも留意しよう。そしてブルックナーの遺言が数次に亙る全集の出版に繋がり、更に今日、オーストリア国立図書館音楽部門所蔵の自筆譜の画像をオンラインでいつでも参照できることに通じていることを確認する時、自己の作品のミームとしての存続に関するブルックナーのしたたかで周到な対策は実際にも有効であり、その意図は十二分に達成されたと言って良いだろう。
だがブルックナーのそうした周到さをもってしても遂に如何ともし難かったのは、まさに遺言書作成の最中に現在進行中であり、従って、未だに製本も封印もできない状態にあり、かつその完成を本人が確信しえなかった作品、第9交響曲の行く末であった。この遺言書の日付である1893年11月10日は一旦第2楽章まで完成して第3楽章に取り掛かって後、平行して進めていたのであろう第1楽章の見直しがもうじき完了しようとする時期にあたる。遺言書で「ほどなく完成」と記したのは、勿論、既に着手していた第3楽章までに限定してのことであろう筈もなく、その時点では着手すらしていなかった、そして結果としては望みが叶うことなく未完成に終わったフィナーレを含めてのことであったに違いない。
そして上述のクロノロジーにおいて確認できるのは、第9交響曲フィナーレこそは彼の生涯の最後の1年半のドキュメントであり、「老い」のプロセスの只中における創作のあり様を証言するものであるということだろう。田代は「ブルックナーは亡くなる最後の日まで手を加えていたが、終楽章はついて未完に終わった」(田代, 上掲書, p.302)と記しているが、「亡くなる最後の日まで」というのは、こうしたことの場合にしばしば用いられる修辞の類ではなく、紛れもない事実のようだ。だが田代の筆は、臨終の刻である1896年10月11日の午後の出来事を幾つかの資料に語らせるのみで、その点を確認することはできない。私が確認できた限りでは張源祥の『ブルックナー/マーラー』(音楽之友社, 1971)の生涯のパートの末尾、「最後の年」の節が描き出す、生涯最後の日の様子は以下の通りであって、ここでは文字通り最後の日まで第9交響曲フィナーレに取り組んでいたとされている。
「10月11日の朝、彼はことのほか良い気分であった。ピアノの前にすわって『第9交響曲』終曲の企画に従事した。それから散歩にでかけようとしたが医者に止められた。寒い風が吹いていたからである。午後3時少しすぎに彼は突然寒気を覚えた。彼はベッドに横たわり、長年付添いの家政婦カテリーナは茶を用意した。茶を飲みおえて、左の脇を下に身をころがしたとき、彼は最後の息を引きとった。偉大な創造的精神の外被は打ちくだかれたのである。」(張源祥の『ブルックナー/マーラー』, 音楽之友社, 1971, p.70~71)
マーラーの第10交響曲もかつてはそうだったように、そして事によったらマーラーの第10交響曲以上に、ブルックナーの第9交響曲フィナーレの補作完成については疑問視する向きが多いかも知れない。最初はフラグメントの紹介だけであったものが、近年では欠落部分の補完(その最大の部分はコーダなのだが)を含めて、全曲を通して演奏できるような状態にまで到達した補作も出てきており、初期の成果については懐疑的にならざるを得なかったのが、ようやくその構想が感じ取れるような水準に達成しつつあるように思われる。そうした状況を踏まえた時、仮に第9交響曲第4楽章の補作の価値について最大限の留保をつけたとしても、現時点で補作により聴くことが可能になったそれに私が(誤解だろうが、思い込みだろうが)見出すことが出来る、 遥かに遅れて、しかも間接的な仕方で垣間見るに過ぎないにしても、「出会う」ことが出来ると感じるのは、ブルックナーの最晩年の姿、「老い」の最中にあるブルックナーの姿に他ならない。
彼は自分の衰えを自覚し、今度は間に合わないかも知れないという思いに囚われつつ、それでもなお、神が彼を この世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。ここには彼の到達点(それは事前に定められたのではなく、突然、事後的に確定 してしまったのだが)において彼が探り当てた「姿」が書き留められている。自筆譜に書き留められたそれは、だがブルックナーの頭の中で 鳴っていたそれの不完全なコピーなどではないだろう。一旦完成した作品の改稿を繰り返したブルックナーの場合には異稿の問題がついて回るようだが、ここではそうした議論はそもそも起きよう筈がない。異稿のオーセンティシティや優劣に纏わる議論の前提からすれば、フィナーレは端的に未だ存在していないということになるのだろうから。
しかし実演に至らず埋もれたままでさえなく完成すらしなかった作品を単純に「存在しない」ものと決め付けてしまうことに、私は非常に強い抵抗を覚える。更に言うならば、一般的な了解としては、それは事後的に未完成であることが確定したに過ぎず、そのことは偶然の産物であるということになるのだろうが、ことこの作品に関しては、もしかしたらそれがこの世に現れることを妨げるような何かを作品そのものが備えているのではないかという、一見するとナンセンスでさえある思いに私は避け難く捕らわれてしまう。要するにシェーンベルクが「プラハ講演」の中でマーラーの第10交響曲に関して述べたと言われる、人間的なものが超えることのできない一線を、この音楽もまた超えているように私には思われるのだ。人間がそのままの姿では通ることができない門。だが、まさに彼のために、 専ら彼だけのために設けられた門。己れの場をこの世には端的に持たない、ユートピアの音楽。予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽。
だが彼はこの未完の自筆譜すら破棄することなく、まるでいつか続きの作業を再開することを予期するかのように遺した。残念ながら、それは この世においてはその価値への無理解から散逸してしまい、もしかしたら彼が見出した全てを現在の我々が見ているのではない可能性が高いことにも留意しておこう。要するにこの世というのは、そうした場所なのだ。ここで眺望を妨げる制約は、ありうべき、 来るべき「作品」の側ではなく、この世に生きる我々の側に専ら起因するものであることを銘記すべきであろう。この作品がこの世において 完成しないのは、「幽霊」たらざるを得ないのは、この世ゆえなのだとさえ言いうるのではなかろうか。だとしたらそうした世の成り行きに同様に流されつつ、それでも辛うじて私に出来ることと言えば、そうした 「幽霊」を決して厄払いすることなく、「幽霊」として歓待することしかない。
もっとも今ならば、根気良い探索によって一旦散逸した草稿のうち、回収できたものに基づいて、既に長期に亘って為されてきた人間による補筆完成だけではなく、AIによる補完の試みが可能になりつつあるというべきなのかも知れない。勿論、現時点でのAIには「模倣」なり統計分布に基づく「補完」はできても「創造」はできない。マーラーの第10交響曲の場合とは異なって、コーダについてはスケッチの断片すら存在せず、アイデアについてブルックナーが語ったとされる証言のみに基づかざるを得ないのであってみれば、それは乗り越えることのできない壁に阻まれているというべきなのだろう。更にそれが予めその痕跡しか残らない、「幽霊的」にしか 存在しえなかったのかも知れないような、原理的に未聞(未聴)の音楽なのだとしたら、「人間」ならぬ存在には原理的に不可能な企てと言うべきであろう。ここで思い浮かぶのは、スタニスワフ・レムの「ビット文学の歴史」におけるカフカの『城』の補作の失敗の例だ。
だがそれでもAIによる補完について考えることは、幾つかの点で興味深い視点を提供してくれはしないだろうか。人によっては皆同じに聞えるらしいその交響曲は、作曲の技法の次元ではなく、もう少し抽象度を上げた次元では、初期値こそ異なるが殆ど 同じアルゴリズムによるのかも知れない。否、あの「変てこなお年寄り」(マグダ・プライプシュによる1892年頃の回想による。田代の上掲書p.287~9に引用されている。)が本当にこの音楽を創ったのだろうか。そもそも音楽を書くというのはどういうことなのか。今日、アルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる、コンピュータによる自動作曲を用いた作曲手法における、初期値を与え、シミュレーションをし、結果を聴いては初期値を変え、という作業は100年前の「変てこなお年寄り」の営みとどこが違うのか。 勿論、全然違うではないかと人は言うだろう。だけれどもそもそも、あの「変てこなお年寄り」自体が神が用意したシミュレーション・プログラムではなかったかろうか。 「変てこなお年寄り」自ら、そのように自覚していたようなふしもあるではないか。(ここで内井惣七が『ライプニッツの情報物理学』で示唆しているモナドロジーと音楽の類比を思い浮かべてもいいだろう。結局のところあの「変てこなお年寄り」の無為な営みは、オートマトンの働きとして抽象化できるのではなかろうか。)
創作に関するブルックナーの認識を窺わせる証言として、1890年頃、クロスターノイブルクの司祭ヨーゼフ・クルーガーに語ったとされる以下のものがあるが、彼はそこで自分「の」作品が、神から与えられた才能に負うているとはっきり述べている。
「連中は私に、もっと違った風に書けと言いよる。むろんその気になればできんことはない。だが私にはそれが許されとらんのだ。主は何千人もの中から、かたじけなくも私を選ばれ、この才能を与えられた。いずれは私も主の御前で、申し開きをせにゃならん時が来る。だが私がほかの者の言いなりになったら、どの面下げて主の御前に立たれよう。」(田代, 上掲書, p.162)
更に上の証言を紹介した田代は「ある時彼はこうも言った」と続ける。
「私は自分の作品を主に負うている。主がこの才能を与えられたのだ。(…)私はこれからも書き続けねばならない。いつか裁きの庭に立つ時、主が私をつかまえて、「このろくでなしめが、お前に授かった賜物をなぜ存分に使わなんだ」となじられることのないように。」(同書, 同頁)
テ・デウムを神に捧げたのはそのことへの感謝の証だったし、それ故に彼は音楽を創り「続けなくてはならない」と感じていた。それが神からの贈与に対する義務だから。 そして彼は、自分の作品が受容されることを望み、拒絶に対して深く、神経を病むほどに傷ついた。けれども、にも関わらず彼は、どこかで自分の営みの「無益さ」を認識していたのでは ないだろうか。宗教音楽ならぬ「交響曲」はその「無益さ」に見合った容れ物だったのではないか。いずれにしても彼にとっては「創り続けること」が問題だった。
だとしたら「ブルックナー・オートマトン」の構成要件として、それが「絶対的他者」との「対話」を行いうるような構造、つまり最低でもセカンドオーダー・サイバネティクス以上の構造を、「自己」を備えているという条件が課せられることになろう。勿論、より低次のオートマトンが偶然にそっくりの音響の系列を生み出すことはあり得るかも知れないが、現実にそれが実現する可能性は皆無に近く、「ブルックナー・オートマトン」自体の出力を己の入力とするという「反則」を前提としてもなお未だ困難であろう。だが差異はそれに留まらない。そのオートマトンは「老い」ることができなくてはならず、その「老い」が作品の創作という動作に何某かフィードバックされることなくして第9交響曲のような作品は成立しえない。そして「老い」を今日のシステム論的に捉えるならば、以下のようになることを思い起こしてみるべきなのだ。
「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)
第9交響曲の長くて未完の創作史は、上記引用における「変移と崩壊」の過程、即ち病と衰弱との戦いでもあったが、それでもなお、上記の言葉を違えることなく、神が彼をこの世の営みから解放する直前まで彼は書くことを止めなかった。 彼にとっては最後の審判の時に、授けられた能力を充分に用いなかった怠慢を神に咎められることの方がよほど気にかかることだったに違いない。 そして第9交響曲は、有限の生命を持つ個体の「老い」のプロセスの中において初めて垣間見ることができる風景を定着させた稀有の事例となった。それは他の事例にあるような、創作力の頂点で突然訪れた病や死によって遺された未完成作品と異なって、「老い」そのものを素材とし、その時間性を音楽化したものであるとすら言い得るように思われる。
そのような了解に立った時、まず思いつくのは、それがアドルノが後期のベートーヴェンやマーラーについて言及する「晩年様式」に該当するかどうかであろう。その問いは直ちに、大作曲家の多くがそうであるような、若き日より「神童」として作品を生み出したわけではなく、長い修行期間を経た後にようやく作曲活動を本格化させたブルックナーにおいて、「円熟」が何時達成され、更に何時から「晩年」が始まったのかという問いに繋がるだろうが、ここではそうした問いを迂回して、作曲者の人生における「老い」にまずは注目して、第9交響曲こそが「老い」に関わる作品であることを最初に確認したのだった。その際に触れたように、作品の内容面から、第8交響曲と第9交響曲を「死に憑かれた」作品として一括りにする見解もあるわけだが、様式的に見た場合に同じ結論に達するかと言う問いに対しては、私ははっきりと否であると思うし、典型的に合致するとまでは言えなくとも、アドルノの言う「晩年様式」の特徴のうち幾つかの面は、まさにブルックナーの第9交響曲についても該当するのではないかと考える。
「大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。それらは一般に円熟しているというより、切り刻まれ、引き裂かれてさえいる。おおむね甘みを欠き、渋く、棘があるために、ただ賞味さえすればよいというわけにはいかない。そこには古典主義の美学がつねづね芸術作品に要求している調和がすべて欠けており、成長のそれより、歴史の痕跡がより多くそこににじみ出ている。」(アドルノ, 『楽興の時』, 三光長治・川村二郎訳, 白水社, 新装版1994, p.15)
人によっては第9交響曲が上記の特徴を備えているという見解には異論もあるかも知れないが、私見では、第7交響曲と第8交響曲こそが壮年期の均衡と調和に満たされた「円熟」と形容するに相応しい作品であるのに対して(それ故特に第8交響曲は第7交響曲の「二番煎じ」であるという批判さえ受けたのだと思うが)、第9交響曲はそこから更に一歩踏み出して、別の領域に足を踏み入れていることは、例えば巨視的な楽式上の革新からも、用いられている和声の斬新さからも明らかであるように思われるし、とりわけでもフィナーレの補作から垣間見られる特異な相貌は、寧ろ上記のアドルノの「晩年様式」の特徴づけを踏まえれば納得がいくものに感じられさえするのである。実は上記引用の後には「世上の見解」が示され、それをアドルノは覆していくのだが、ややもすればその「世上の見解」にこそフィナーレ草稿の状況ぴったり合致しそうに見えることさえも含めて、第9交響曲に「晩年様式」を認めることを肯ずることを促すかのようだ。だがアドルノの「晩年様式」を適用することの妥当性を論じることはここでの議論にとっては副次的なものに過ぎない。とりわけてもアドルノがベートーヴェンのそれについて論じる時、そこで掲げられる特徴のどれがベートーヴェンという個別の事例に固有のものであり、どれが一般的なものなのかは、例えばマーラーのそれを論じる時との比較をしてみれば簡単に決することができないように思われる。ベートーヴェンを論じる時には参照されることがなく(厳密を期するなら、「老ゲーテ」には「老シュティフター」ともども言及されるのだが…)、だがマーラーを論じる時には中心的な位置を占めるゲーテの「現象から身を退く」という言葉はジンメルのゲーテ論に依拠するもののようだが、逆に遡ってそれをジンメルが語っている文脈を確認するならば、人間的にはおよそ「成熟」とは無縁だったように見えるブルックナーにおいてすら、その作品について言えば、まさに第9交響曲において、ジンメルの述べた事態が実現していると見做し得るのではなかろうか?
「青年期にあつては主観的無形式は、歴史的乃至理念的に豫存する形式内に収容さるゝ必要がある。主観的無形式は此の形式に依って一客観相たるべく発展されるのである。けれども、老齢に於ては、偉大な創造的人物は―予は茲で勿論純粋の原理、理想に就いて述べるが―自己内に、自己自らに形式を具へてゐる。即ち、今や<絶対に彼自らのものである形式>を所有する。彼の主観は、時間空間に於ける規定が内外共に我々に添加する一切を無視すると共に、謂はゞ彼の主観性を離脱し了つたのである。-即ち、已に述べたゲーテの老齢の定義にいふ「現象からの漸次の退去」である。」(ジムメル『ゲーテ』, 木村謹治訳, 1949, 桜井書店, 第8章 発展 p.383~384)
そして上記のジンメルの指摘から私が思い起こすのは、トルンスタムの提唱する「老年的超越」であり、それがアドルノの言う「世上の見解」に寧ろ近づきかねなくとも、第9交響曲を「老年的超越」の音楽化として捉えることの方がより一層自然に思われるのだ。
この音楽に一体人は何を見出すのだろう。或る種のdetachmentがあるのは確実だ。だが、それを単純に「天国的」という言葉で言ってしまっていいものか。 とりわけ未完成に終わったフィナーレを踏まえて完成された楽章を聴いたとき、その音楽は、寧ろ、作曲者自身が手探りで進むしかない、 全くの未聞の領域に踏み込んでいたのでは、という感じの方が強い。例えば第1楽章のコーダにおいて、音楽が一体どこで鳴っているのか、その経過の主体が何であるのかを適切にいうことは未だ私にはできない。 あるいは第2楽章の響く空間が、現実のどこかにあるとは思えない一方で、それが一個人の内面であるとも思えない。第3楽章もまた、この光に包まれた 風景が一体どこなのかを表現する言葉を持たない。「天国的」「神秘的」「宇宙的」などといった言葉はこうした音楽を前にしては陳腐で、最早なにも 言っていないに等しい。それは超越的なものとでも呼ぶほかのない、他者の息吹に充ちているのは確かだが、これが「愛する神」への語りかけなのだろうか。 いや、語りかける「私」が一体どこいるというのか。これはまだ、「意識の音楽」なのだろうか?「意識の音楽」はここで極限に達する。これはそのままの 姿では通り過ぎることの出来ない門に似ているように思われる。ここでのdetachmentの何とあてどの なく、よるべのないことか。別段標題的な要素を持ち出す必要はないのだが、それでもなおここには或る種の危機が刻印されているという感じは否定し難い。 その様態をもし「祈り」と呼ぶのであれば、ここには第8交響曲には窺えた意志的な闘争はもはやなく、 「祈り」の受動性があるばかりなのだが、その様態に対応して響いてくる音楽には、祈る者が抱いている不安がこだましているように思えてならない。
人によってはこの音楽の―とりわけフィナーレ断片の―異様な相貌に、自己の有限性に直面した作曲家が闘うことになった「不安」や「懐疑」の痕跡を 見出すようだ。ここにあるのが同時代の知性が抱くことを謂わば宿命づけられた近代的な「懐疑」と同質のものなのかどうかについては、私はまだ確信をもって言うことができそうにないが、作曲者が個体としての限界に 向き合った時に、その信仰が素朴で無媒介であったがゆえに、作曲者の心の中で自己の有限性がどのように捉えられていたのか、 そうした問いかけをしたくなるような凄みがこの音楽にはあるのは確かなことに思われる。ブルックナーはこの曲を「神」に捧げるといったと伝えられるが、それは祈りの「ための」音楽を書くという意味ではないだろう。 ここでは音楽は瞑想の道具ではないし、音楽によって永遠の瞬間を定着させようなどといった 「意図」の賢しらさとは、この音楽は全く無縁なのだ。
田代はブルックナーの音楽を「非人間的な音楽であり、いわば「木石の音楽」である。」(田代, 上掲書, 序, p.vii)と規定し、「ブルックナーの音楽を輪切りにすれば、赤い血のかわりに岩や氷がごろごろと転がり出る。」(ibid.)と述べていて、私も基本的にその見解に賛成なのだが、その一方で第9交響曲に限って言えば、完成した3楽章でさえも「木石の音楽」と言い切ってしまうわけには行かないものを感じずにはいられない。そこには祈りの主体の姿が存在するように感じるのだ。更にフィナーレに至って、特に初期のブルックナーにおいては堅固なものであった生活世界のローカリティのようなものが全く欠落してしまったように思われる。それでも最初の3楽章ではまだ見えたこの世ならぬ光に満ち溢れた風景すら、ここに至って消え去ってしまったかのようなのだ。
第9交響曲に関する限り、私は吉田秀和の言葉には共感できるものが多いと感じているが、彼がアダージョの冒頭主題について指摘する「短9度の跳躍で始まるという異常な主題の提示にのぞきみられる不安と悲しみの表情」(吉田秀和, 「交響曲第九番」,『吉田秀和作曲家論集1 ブルックナー・マーラー』所収, p.107)すら、このフィナーレには欠けているように私には思える。それともこれは「老い」とそれによる「衰弱」の産物であり、未完成故に、「本来あるべき姿」ではないのだろうか?最早止まりかけた、いつ止まってもおかしくないオートマトンのエラー混じりの最後の不安定な動作の産物なのだろうか?
絶対者の前に一人祈る単独者ゆえのもの、と一般的にはなるのだろうが、私がそこに感じるのは、先行する3楽章にも優る、普通には寂しさとか孤独感と呼ばれるものに近い寄る辺なさ、しんとした静寂のようなものだ。人間的なものからはかけ離れた、門の向こう側の生きたまま人間が覗き見ることができない風景が、何かの間違いでこの世に移り込んでいるような感じとでも言えばいいのだろうか。恐らくは全く別のところで「回心」後のデュパルクが晩年の沈黙のなかで手探りをしたあの道程が、ここでは奇跡的に音楽として定着されているのではないか。 相転移の向こう側の、常には沈黙が支配する領域が、何かの間違いでこちら側に音楽として結晶してしまったような、そうした感じを受けるのだ。
自己放棄の弁証法は、ここに至って停止してしまっている、あるいは止揚は時間の外に延期されてしまい、実現しないのではないだろうかという感じを 否定するのは難しい。繰り返しになるが、シェーンベルクがマーラーの第9交響曲について言った「限界」は、寧ろ、ブルックナーの第9交響曲の アダージョとフィナーレの間に広がっていたのではないかと思われてならない。
そしてそれは「老い」のプロセスの中を通過すること無しには生じ得なかったのではないかという感じを否み難く持つのである。勿論「老い」は必要条件に過ぎず、そうした閃きは決して「ただ」ではやってこない。後世の人にすら30年間同じことをずっとやっていると嘲笑われるような長い時間がその「閃き」を 可能にしたのに違いないのだ。結果を漫然と聴く人間はしばしば聞き流してしまいさえするのだが、 ブルックナーがそれまでの作品で辿ってきたプロセスを思い浮かべるとき、一例に過ぎないが、第1楽章コーダでの空虚5度、あるいは 第2楽章スケルツォの主部よりも早いトリオ、第3楽章の不思議な光を放つ和音、そして3楽章通してあちらこちらに響きわたる不協和音(その頂点は、第3楽章練習番号Uに至るまでの箇所のそれだろう)が、どれもこれも全くのオリジナルな 「結論」であることに驚愕せざるを得ない。ありていにいって奇跡の連続のような音楽ではないか。こうした音楽に対して 一体どのようなフィナーレが可能だというのか。
だからそれらの達成を僥倖と呼ぶのは間違っている。その一方でその「閃き」は「老年的超越」が可能にするdetachmentともまた不可分に違いなく、一定の期間一定の労力をかければ確実に得られる対価の如きものではない。更に言えば、ブルックナー自身にもその自覚はあったようなのだが、 それは「誰のもとにも」起きることでもないのだ。既述の能力と技術の問題もそうだが、それだけではない。「老年的超越」もまた、全ての人に必ず生じるものでもなければ、ある年齢に達したら自動的に生じるものでもなく、時として年齢とは関係なくその境地に到達する人さえいるとされている点を想起されたい。ここでは「変てこなお年寄り」であるブルックナーその人のアナクロニックと言うべき「変てこ」さ=特異性が寄与しているかも知れないのである。そして自分にはそれが起きることを知っていればこそ、彼は作曲を止めなかった。それは神からの授かり物で あって、決してぞんざいに扱ってはならないものだから。おそらくブルックナーは日々刻苦しつつ、やはりフィナーレにおいても「待っていた」のだろうと思う。 それがこの世においては最後まで到来しないかも知れないという予感を持ちながら。トルンスタムは「基本的に、青年期以降の老年的超越へと向かうプロセスは、一生涯連綿と続いていくものであると仮定することができるだろう。」(トーンスタム『老年的超越』, 冨澤公子・タカハシマサミ訳, 晃洋書房, 2017, p.41)と述べているが、してみればそのプロセスは一見そう取られてしまうような「悟り=覚り」ではなく、寧ろ「他者」との開かれた、終わりなき「対話」の如きものであろう。ここで「終わりなき」というのは、比喩や誇張などではない。その対話のプロセスが文字通りに「終わりなき」ものであるとしたら、作品の完成は構造上「生」の連続性の側には存在しないことになり、仮に「生」が限りなく引延ばされたとしても、その分「完成」の地点もまた、先に繰り延べられることになる。勿論、先行する楽章がそうであったように、一旦、総譜が完成し、日付が書き込まれることはあったかも知れないとして、再点検が終わって全曲の完成が宣言されることがありえただろうか。「老い」と「死」についての標題音楽などではなく、部分的には作曲する主体の「生との別れ」を含む「音楽的遺言」としての性質を持つとしても、それのみに留まるものはでない、「変移と崩壊」の時間性自体が定着されているシミュレーション結果としてのそれは、結果的に、有限の生命を運命づけられた生物の或る個体の上で、構造的に一度切りしか実現しないようなものなのではないか。そしてブルックナーの最晩年の作曲の営みというのは、まさにそのようなトポロジーを備えたものではなかったかと思えてならないのである。(2023.6.7)
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