2023年12月14日木曜日

バルビローリのブラームス演奏について(2023.12.14更新)

 バルビローリのブラームスに対する私の最初の印象は、 第2交響曲のウィーン・フィルとの演奏に基づくものだ。私はこれはLPレコードで入手して、繰り返し聴いたものだ。一般には粘るような 歌い方で、情緒たっぷりの演奏というような評が普通のようだが、 私の印象はかなり異なって、涼しげで透明感さえ感じさせる空気の爽やかさが 特徴と感じられた。それはその後CDで聴くことになった他の曲でも同様である。

(なおブラームスの交響曲一般についてということであれば、上記のバルビローリとウィーン・フィルの第2交響曲のLPレコードに先行して、フルトヴェングラーとベルリン・フィルが第3交響曲を1954年4月27日にティタニア・パラストで演奏したのを収録した、古いモノラル録音のLPレコードを持っていて、第3交響曲の印象を形作るのには大きく影響したと思う。と同時に父がFM放送をエアチェックしてカセットテープに記録したコレクションの中に含まれていた、ベームとウィーン・フィルによる第1、第4交響曲(多分これらはライブ)、カラヤンとベルリン・フィルによる第3交響曲(これはLPでリリースされたスタジオ録音だった筈)、更にはチェリビダッケとシュトゥットガルト放送交響楽団による第2交響曲の録音を少なからず繰り返し聞いていて、これらもブラームスの交響曲についての印象の形成という点ではバルビローリの演奏に先行している。一方で私が買ってきた上記のバルビローリとウィーン・フィルの第2交響曲の演奏は、父もとても気に入った演奏のようで、ほとんど会話を交わすことがなかった父が、自分の方から聴取の印象をふとした折に漏らしたことがあったのを鮮明に記憶している。)

 バルビローリのブラームスに対する接し方は、その音楽の擬古典派的な 構成する意図よりも、それに抵抗する素材の振る舞いの方により多く寄り添っている点に その特徴があるだろう。もっともこの姿勢はバルビローリの基本的なスタンスであって、 エルガーを中心として、シベリウスにせよ、マーラーにせよ同じ姿勢に貫かれている ように思われる。否、通常はそういうものとしては解釈されないブルックナー、 更には、シューベルトもモーツァルトについても事情は同じであろう。 バルビローリのベートーヴェンが、聴く人によっては「焦点の定まらない」印象を 与えるのは、恐らく特に中期において(ということは交響曲においては最後まで ほぼ一貫して、ということになるが)著しく構成する意図に偏倚した均衡を 持つ音楽に、そうしたバルビローリの姿勢が調和しないからでなかろうか。

 バルビローリのブラームスは、従って、表面上の「粘った」歌いまわし以上に、 ブラームスの音楽の「移ろい」にフォーカスした演奏という点が印象的で、 もしかしたら作曲者の意図に反して、その音楽の基層にある「経験」を 救い出すのだ。しかもその手つきはこの上も無く丁寧で慈しみに満ちている。

 それゆえこれらの演奏は、ブラームスの解釈としてはポレミックな地位を占め続けるだろう。 ある人にとっては、かけがえのないものがはっきりと聴き取れる稀有の演奏だろうし、 別の人にとっては聴くに耐えない演奏ということになるのだろう。もしかしたら 音楽そのものが作曲者の意図を既に裏切っているかも知れない第3交響曲については、 後者の見解の持ち主もこの演奏の価値を認めざるを得ないかも知れないが。

第1交響曲・ウィーンフィル(1967)
 もしバルビローリの解釈が違和感を齎す可能性があるとすれば、それはこの ベートーヴェンの第10交響曲とも呼ばれる第1交響曲だろう。しかし実際には、 この曲の、構築的に書かれた筈の第1楽章ですら既に「移ろい」の印象が濃厚な 演奏だ。己に鞭打つように進もうとする意志とは裏腹に、音楽はそこここで 立ち止まる。美しいのは寧ろそうした「息つぎの」瞬間の豊かさだ。

 それゆえ、第2楽章も第3楽章も古典派的な交響曲の中間楽章の機能を忘れて、 その瞬間瞬間の経過の実質の豊かさの味わいつくすのだ。実際にはベートーヴェンの 交響曲とは異なって、楽章間のコントラストは弱められ、両端のアレグロは動機的な 連関があまりに強いゆっくりとした序奏によってその推進力を中和されてしまう。 規範となった古典派的な構成を実質において裏切っているようですらある。

 そうした換骨奪胎に対するバルビローリの対応は、例えばマーラーなら第5交響曲の それを思わせる。要するにバルビローリは決してこの第4楽章に無理をさせない。 中間楽章との間に断絶もなく、いきなり大言壮語を気取ることもなく、そのかわりに ここで発露される感情は真正のものだ。少なくとも実質においてこの音楽が ベートーヴェンから如何に遠く隔たっているかをこの演奏は物語っている。

 場合によっては、この演奏は人がこの曲に期待するものを与えないという廉で批判 されるかも知れない。けれども、ブラームスの音楽の基底にある資質がこれほど あからさまな演奏もめずらしいように思える。しかもここではそうした資質は、 ある種の風土のような自然さの裡にやすらっているわけでもなく、バルビローリは その形式との関わり合いの様相もひっくるめて、ありのままに読み取っていると 思えるのだ。

第2交響曲・ウィーンフィル(1967)
 私がこの演奏を聴いたのは、他の曲に比べて遥かに早く、シベリウスを聴いた後、 あまり時期をおかずしてLPを入手してじっくり聴いたものだった。

 この演奏の特徴は、第1楽章の冒頭を聴いただけですぐに感じ取れることだと 思うが、空気の感じが少しひんやりとして、しかも適度な湿度を持っていることだ。 しかもその空気の感覚は鮮烈で印象派的といって良いほどの強烈さをもっている。 そしてなにより通常、人がブラームスに見出すとは思わない透明感が感じられる のが新鮮である。しかもその音色は決して寒色にくすんでしまうことなく、色彩的には 通常のいわゆる「ドイツ的な」演奏と比して豊かだ。

 確かに歌わせ方はじっくりとしているが、際立っているのはフレージングの丁寧さと 音楽の経過に対する設計の緻密さであって、少なくとも粘着質であったりくどかったりと いう印象は私にはない。例えば第1楽章に聴かれる音楽は、今生まれたばかりの 生気に充たされているし、第4楽章の音楽もしばしば他の演奏で見られる激しい盛り上がりは なく、寧ろその経過は颯爽としているように思われる。

第3交響曲・ウィーンフィル(1967)
 もし、バルビローリのブラームスの中で最もその特質が良く出たものを挙げると なれば、第3交響曲の演奏を挙げることについて多くの人が賛成するのではと思う。 バルビローリの演奏を必ずしも好まない人でも、この演奏の持つ他の追随を許さない 特徴には一目措かざるを得ないのではなかろうか。そしてそれには第3交響曲自体の 特性が大きく与っているように思われる。

 この曲はブラームスの意識的に身につけた身振りよりも、より基層の 資質があらわで、それゆえ「いつものやり方で」無難に仕上げようとする類の技術的な 対処に対して最も頑強に抵抗するように思える。この曲が難曲といわれるのも、そうした 側面が与っているのではないかと考えている。そして、そういう特質がバルビローリの 解釈の方向性に合致しているのではなかろうか。

 第3交響曲こそ「自由にしかし孤独に」というブラームスの言葉に忠実に、 音楽自体が道なき道をさすらうのだ。そしてバルビローリの演奏はその彷徨にこの上も無く 忠実につき従う。聴き手はその彷徨の寄る辺なさを第4楽章において全身で 受け止めなくてはならない。第4楽章のコーダでは音楽が朧げに浮かぶ自分自身の 影を垣間見て、しかしそこに辿り着くことなく横たわる。聴き手は沈黙をもって その結末を見届けるしかない。これはブラームスではない、という人が居るかも 知れない。しかしそういう人でも、聴き手にとってこれが稀有な経験であることに ついては否定はしないだろう。

第4交響曲・ウィーンフィル(1967)
 この音楽は、作曲の意図においても「回想」というベクトルが顕わな、 非常に風変わりな作品だ。これくらい、実質においても様式的な志向においても はっきりと過去を向いた作品は、他に思い出すことは難しい。 ここでは実質と様式は一見、拮抗することなく足並みを揃えて追憶に 耽っているかのようだ。そしてバルビローリの演奏もまた、情緒纏綿とそうした 志向を強調しているかに思えもするだろう。

 しかし、バルビローリの演奏では「回想」の持つ意味合いはかなり 異なってくる。音楽はここでは、作曲の意図をもしかしたら越え出て、 まっすぐと経験そのものを語ろうとする、その強度がブラームスが冷徹に 準備した古風な構成的な契機と激しく拮抗するのだ。従って、この音楽に、 実質と様式の後ろ向きな、これ一度限りの調和を見出そうとする人にとって、 バルビローリの解釈は許容しがたいのではなかろうか。なぜならバルビローリの 音楽は、もしかしたら消去してしまいたかったかも知れない、基調の衝動の ごときベクトル性を寧ろ飼い馴らすことなく明らかにするからだ。 案に相違して、あろうことかこの第4交響曲が第3交響曲同様彷徨しかねないのだ。 バルビローリの演奏は、あからさまな諦観にも関わらず、真に依拠できるものは、 実は移ろいの裡にしかないという認識の実践なのである。ソフォクレスの悲劇を 想起したという作曲者の衝動に、この演奏こそ忠実なのだとさえ言えないだろうか。

 もしこの演奏が今日懐古的な受容のされ方をするとすれば、それは演奏自体が 回顧的な情緒に満ちているからではないだろう。寧ろこうしたバルビローリ的な 意味での「回想」自体が今日困難になっている、こうした存在様態が「時代遅れ」の ものであることに由来しているに違いない。(2005.1公開, 2018.5.14本ブログにて再公開, 2023.12.14バルビローリ以外のブラームスの交響曲のごく初期の聴取の経験について加筆)

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