別のところで、CDという媒体がLPレコードに替って主流になった時期以降、それまでに聴くことができず、いわば「取り残された」作曲家の作品に接することが容易になったということを記した。そしてそうした「取り残された」作曲家の中で、私が是非とも取り上げておきたい思いながら、これまで果たせずにいた何人かの作曲家の中の筆頭は、シャルル・ケクランだということになるのだろう。別にそうするための準備が整い、機が熟したというわけではないのだが、寧ろ、いつなん時、果たそうと思ったことが果たせなくなってしまうことになるとも限らないという切迫感から、急ぎ足で「宿題」を果たすことにしたい。
かつてのケクランは独自の作曲家というよりは、編曲者、さしづめドビュッシーの『カンマ』やフォレの『ペレアスとメリザンド』の管弦楽版の作者として、或いはその一部が『和声の変遷』という題名で邦訳された『和声学』をはじめとした理論的・教育的著作の著者として知られていたと記憶する。だが、ドビュッシーもフォレもほとんど聴かず、専門の音楽教育を受けたわけでもない私にとって、ケクランは第一義的に、CDという媒体を通してその作品を知ることが叶った作曲家であった。最初のCDは、セーゲルスタムとラインラント・プファルツ州立管弦楽団の演奏した『燃ゆる茂み』第1部・第2部と『遠くに』にヴィオラ・ソナタというやや変則的なカップリングが収録されたもの、次がヘルベルト・ヘンクのピアノ演奏による『ペルシャの時』を収録したものであった。
『燃ゆる茂み』は、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に取材した作品で、『ジャン・クリストフ』の方はと言えば、今度は旧約聖書の「出エジプト記」において、出エジプトの召命をモーセが受ける、あのあまりにも有名なくだりを踏まえている。一方『ペルシャの時』はピエール・ロティの旅行記に触発されたもので、当時の私は、ロマン・ロランやピエール・ロティとは没交渉で、唯一旧約聖書の燃ゆる茂みの場面について大学時代に研究対象であったレヴィナスが「顔」の顕現について語る際に言及していたことによって鮮明な印象を持っていたことで辛うじて接点があったくらい。ケクランという人は、人によっては「趣味人」と呼ぶであろう、多面的な関心を持った人で、その範囲は文学だけではなく、天文学のような科学研究、更には写真・映画といった新しいメディアにも及んでいる。確かWergoレーベルから出ているヘンクのアルバムのカバー写真はケクランが自分で撮影したものではなかったか。文学作品ではキップリングの『ジャングル・ブック』に基づく連作群があるし、これも当時勃興期にあった映画に因んだ作品も数多い。しかもその後から今日に至るまで多くの作曲家がそうしたような、所謂「映画音楽」を作曲するという関わり方よりも寧ろ、映画の享受者として、所謂初期の「銀幕のスター」に因んだ作品を生み出すという関わり方の方が異彩を放っているように感じられた。
音楽作品そのものについて言えば、特に『ペルシャの時』、『燃ゆる茂み』はケクランの中期から後期の作風を代表するものといって良いだろうが、理論家・教育者として和声学・対位法・管弦楽法のいずれについても該博な知識を持った人らしく、印象派からその後の現代音楽へと通じていく、旋法の使用や和声の拡大、しばしば小節線をほとんど持たない、漂うような自由な拍節感、構築的ではない、ブロックの並置であったり、小品の連鎖で作品を形作るといった点が特徴的に感じられたものである。『燃ゆる茂み』の管弦楽法上の特徴は、何といってもメシアンのトゥーランガリーラー交響曲で辛うじて一般的なクラシック・コンサートでの市民権を得ている感のある初期の電子楽器、オンド・マルトノを用いていることだろうが、その使われ方はまさにケクランらしさが充溢する、たゆとうような拍節感のほとんどない、拡大された和音のパレットの中を移ろってゆく部分で登場しており、私のケクランの作品の印象の中核にあると言ってよいように感じる。
丁度、上述のCDを通じてケクランの作品に接した時期に踵を接するようにして、近代フランス音楽研究者として著名なRobert OrledgeのCharles Koechlin (1867-1950) が刊行された(刊行は1989年)のも、私が抱いているその時期の特権性の印象を強める契機であったに違いない。中央に髭面の老人のモノクロのポートレイトを収めた緑色のカバーのハードカバーの大冊の洋書を、今のようにネットで手軽に注文というわけには行かず、楽譜や音楽書の輸入を扱っている書店で入手したことをぼんやりと覚えている。当時としては破格に高価と感じられたその大著を、だが私自身はほどんと読むことがなく、ドビュッシーの研究をしている幼少の折よりの友人に譲ってしまい、伝記的な情報もほとんど知らず、辛うじてその後入手して、だがこれももはや手元にないAude Caillet , Charles Koechlin, 1867-1950 : L'art de la Liberté, (2001)を読んだのがほぼ唯一のリファレンスである。もっとも今ではWikipedia等で一通りの情報は得られるので、そのレベルで良ければわざわざ絶版になった書籍を探索するまでもないだろう。
ケクランはアルザスの名門の生まれ、ルーセルやビーチャムがその苗字から想像される通りの製薬会社の創業家の出であることは良く知られているだろうが、ケクラン家は繊維業者であったようで、いわゆるブルジョワの子弟ということになるだろう。ポリテクニークに入学した翌年、結核に罹患して療養を強いられたことが契機で音楽院に入学したとのことだから、教養もあって寧ろ理系的な頭脳の持ち主であったものと思われ、その多彩な関心も、そうした理系的なフィーリングに根差した部分があると考えるべきだろう。彼はその後、自ら「象牙の塔」に籠って、自分の書きたい作品を書き続けるといった姿勢を終生貫いた人で、生活の糧は主として教育家としての活動で得ていたようだが、第二次世界大戦後も5年生きたという長命であったことも与り、結果として作品番号がついている作品だけで二百数十に及ぶ膨大な作品が遺された。伝統的に西洋の作曲家にとっては宗教曲と歌劇(やバレー)こそが所謂「花形」のジャンルであり、時代が下ってそれらは巨大なコンサートホールでの演奏を想定した大規模な管弦楽つき合唱曲などへと引き継がれていく一方で、市民社会の確立と期を一にしてコンサートホールで独立の楽曲として自立した地位を確立した交響曲と協奏曲がもう一方の柱となったのだが、ケクランの膨大な作品リストは、初期に集中して書かれた歌曲と中期の中核ジャンルであったピアノ曲を含む器楽曲、室内楽曲、そして概ね表題のついた管弦楽曲がほとんどで、そのこと自体が、外部の注文によって作品を書いて報酬を得るという意味でのプロの作曲家であることを拒否したケクランの姿勢の産物であると捉えるべきであろう。もっとも彼は、評価されない無名の作曲家であった訳ではなく、時代を画するスター作曲家でなくても、その音楽家としての実力を周囲に十分に認められてはいたから、その作品は演奏の機会を得られなかったわけではない。とはいうものの、コンサートのレパートリーとして生き残れた訳でもなく、若干は同時代の演奏の録音記録が残されているとは言い乍ら、どちらかと言えば「知る人ぞ知る」存在であり、一般には半ば「忘れられた作曲家」となってしまったことは否み難い。ましてや極東の日本での様々なリソースへのアクセスは困難で、例えば膨大な楽譜を架蔵し自らピアノを弾いてその作品群を探索していったであろうジャンケレヴィッチの著作の中でケクランへの言及に接しても、具体的にその音楽を思い浮かべることが困難という状況が続いていたのが、ようやく風向きが変わったのが、丁度私が上記のCDに接した時期だったということになるのだと思う。
その後、ジンマンが指揮した『ジャングル・ブック』連作のアルバムが出たり、Accordレーベルからピアノ曲や室内楽のシリーズが出たりする周辺で、なかなかソロ楽器として取り上げられない楽器のための作品にも事欠かない膨大な器楽曲についても、一種の相転移が生じ一気にパーコレーションが進んだかのようにみるみる録音が増えていき、今日ではかなりの割合の作品に接することができるようになっているようである。
だが私個人はと言えば、そうしたトレンドに反して、ケクランへの傾倒を深めていくことにはならなかったというのが偽らざる事実である。冒頭述べたように、是非とも取り上げておきたいと思いながら、これまで果たせずにいたというのは、結局、自分の風景の中にきちんと収まっていて欠くべからざるピースの一つではあっても、持続的な関心の中心に居続けることなく常に背景に留まってきたというごく個人的な文脈によるものであり、ケクランその人の価値とは別の理由に依ることは明白であって、そのことは十分に認識した上で、先に表面的な水準の理由について急いで触れてしまうと、例えばケクランの、理系的な方向も含めた多方面へのディレッタント的な関心の幅そのものは、性向的なものとしては寧ろ私にとって親和的なものかも知れなくとも、具体的な個別の関心の対象が自分のそれとほとんど全く接点がなく、嗜好の点で共感することがないことは、好き嫌い、合う合わないといった水準から逃れ難い音楽作品の場合には、その作品への共感を妨げてしまうようだ。より音楽作品そのものに即して水準では、ケクランと同時代の音楽に私が執着する理由の一つである物語的な時間性といった点で、ケクランの作品は私の好む叙事的な語りの構造を備えてないという点が最も大きいだろう。微視的な時間経過の上では、拍節にとらわれず、和声的な作品においては拡張された和声のパレットを持ち、伝統的な和声進行やカデンツの形成から自由な経過を持つ点で魅力に富んでいるし、ケクランの作品の中でそれなりの割合を占めるモノディーの作品が持つ自在さも、短い作品それぞれについてはそれなりに魅力的なのだが、一方で巨視的な語りの構造については、それに対する作曲者の関心自体がそもそも希薄なのだと感じる。
私にとってそれが最も目につくのは大規模な管弦楽作品で、それらは内部にはユニークな時間性を孕んだブロック状のユニットをただ並べただけに過ぎないような印象をどうしても持ってしまう。寧ろ小品の連鎖によって作品を構成する『ペルシャの時』のようなやり方の方がまだましで、賽の目で区切られたように、得も言われぬ雰囲気を湛えた部分が断ち切られて全く異なる曲調のブロックが突然始まると、CDであれば停止ボタンを押してしまうこともしばしばとなってしまう。ケクランの周辺の作曲家のほとんどがそうであったように、巨視的な楽式レベルでの叙事的な時間的構造というのは、寧ろ反撥と否定の対象だったろう(私の知る限り、フランクとマニャールは例外で、だから彼らの作品が私には好ましいのだと思う)から、これは無い物ねだりに違いないのだが、1,2分程度の小品ですらその時間性の違いは明らかで、そこに独自の価値を認めるにはやぶさかでなくとも、やはり私自身の中核的な関心の対象にはなり得ないのである。
モノディーに関しても同様で、私は基本的にはポリフォニックなものに惹かれるので、そのオリジナルな魅力を感じ取れないわけではなくても、それだけでは物足りなくなってしまうのだと思う。(尚、ケクランが対位法の大家でもあること、更には作品中に対位法的な技法を駆使したものがあることを等閑視しているわけでは決してない。だが私が惹かれるポリフォニックなものというのは、技法としての対位法とは別のもので、素朴な言い方をすれば、そこで複数の声が響いているのか、バフチン的な意味合いで対話的であるのか、ということとなのだと思う。複数の曲を並置する場合でも、それが単一の主体の感覚的な印象のきらめきを切り取って並べたものであるよりも、異なった声が侵入することによって全体として多層的になることが問題なのだ。)別に大見得を切って聴き手を熱狂させる必要はないけれど、他なるものが侵入して相転移が生じる瞬間がないとしたら、そこには安定した主体の繊細は状態変化の記録はあっても、他者の侵入を受けて新たな主体が立ち上がることはないし、主体が老化していったり没落して把持の客体となるような絶対的に受動的な瞬間というのもないことになる。同様にして、モーセに神が顕現した(但し彼は神と対面することはできず、その後姿を見ることしかない、顔の顕現は普通の意味合いでの対面ではない)という、その出来事そのものはケクランの音楽の中には存在しない。
繰り返して言うが、こうした指摘はケクランの音楽の持つ独自の質をいわば裏側から見ているのであって、欠点の指摘ではなく寧ろ無い物ねだりであり、ケクランの音楽とはそもそも両立し難いものなのだということを認めるに吝かではない。そもそもおそらく「知る人ぞ知る」存在であり、一般には半ば「忘れられた作曲家」となった理由は、ケクランその人とその作品自体の側に原因があるのだろう。その音楽は、コンサートホールとか劇場で、詰めかけた聴衆を熱狂させるようなタイプのアピールを全くといっていいほど欠いている。勿論このことは欠点というわけではなく、その慎ましやかで媚びない性格を得難いものとして評価する人が数多くいることを知らないでもないし、私自身もそうした評価に寧ろ与する側にいるのだと思う。そしてそういった性格は、それらの作品が「象牙の塔」の中で次々と生み出されたという事実と無関係ではありえないだろう。そして「象牙の塔」が、小さくても気の合った親密なサークルのゆったりとした心地よさともまた異なった、峻厳な孤独、自発的に選択された孤立であるとするならば、その中で生み出された音楽が他者に差し向けられたものではないモノローグのようなものになるのは避けがたく、そのことをもって非難するのはお門違いも甚だしいということになるだろう。
モーセへの神の顕現の音楽化など不可能であり、そうした試みは聴き手に意外感を与えて驚かせる効果の追及に堕してしまうという言い分には傾聴すべきものがあると考える。だが私が聴きたいと思っている音楽は、モーセへの神の顕現という絶対的な出来事そのものの音楽化などではない。そんなものは端的に不可能なのだが、それならばそうした標題性や文脈を剝ぎ取ったところで、実はささやかなレベルであればかくも平凡な私自身にさえ訪れていて、だからこそ「私」が成り立っている、その根拠となる他者との出会い、対話の構造を抽象化したものを何等かの仕方で、どこかのレベルでシミュレートするような音楽こそが私が求めているものなのだと思う。実際ケクランの音楽は、一時期マーラーの音楽から遠ざかった時の拠点の一つであった。だがこれもはっきりと覚えているが、あるとき、「象牙の塔」を護るということが私自身の様々な拘束条件の下では端的に採用できないという現実的な理由もあるが、それ以上にまず、そもそも自分が望んでいるものが「象牙の塔」とは異なったものなのではないか、ということにふと思いあたったのであった。そしてその後結局、私はマーラーの音楽に立ち戻ることに繋がっていったのである。
「象牙の塔」に敢えて閉じ籠るというケクランの生涯を賭した戦略は、それを貫いた結果として生み出された膨大な作品が、いくばくかの忘却の時を経て、コンサートホールで取り上げられることに関してはさほどではなくとも、録音メディアやデジタルネットワーク技術のもとで今日ますます多様な仕方で受容されるようになっていることを思えば、十二分な結果を生み出したというように評価できるかも知れない。峻厳な孤独、自発的に選択された孤立の中で生み出されたモノローグは、だが時を隔ててそれを受け取る相手を見出し、かくしてここでも「対話」が成立したというように捉えるべきなのだろう。
だが結局のところそれは私の戦略ではないのだ。私が欲しているものは、その戦略では得られないものであり、ケクランの戦略を採用するということは、敢えて英雄的にそれを断念することに他ならないのだ。聡明なケクランは、恐らくはそのことに対して意識的であったのではないかと思うのだが、そうした雄々しさは、所詮私には無理なものであり、私はそれを断念せずに求めていくしかないのだ。かくしてケクランは私からは遠い存在であるけれど、私にとってはかけがえのない恩人のようなものなのである。そのことをこのようにして証言することで、私はようやく積年の「宿題」を果たしたことになる。(2022.11.12)
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