2014年9月6日土曜日

バルビローリのブルックナー演奏について

ブルックナーとバルビローリというのは、直感的にはあいそうにない。とりわけブルックナーの 音楽がある種の宗教性と結び付けられている限りにおいて、そのように思っていた。例えばシベリウスの交響曲にある種の超越を感じ取ることは可能だろうとは思うが、それはいわば 垂直軸を著しく欠いている。音楽は地平線の彼方を目指すのであって、天上をではない。

バルビローリのブルックナーというのは、BBCの録音が出るまでは、その存在すら知らなかった。実際に聴いてみれば、やはり普通のブルックナー演奏とは異なる。強いて言えばエルガーのような ブルックナー。バルビローリの音楽はセンチメンタルであるがゆえに、ブルックナーには向かない、という言い方は 多分正しい。ブルックナーの音楽は自ずから生成する(かの如くに演奏すべきな)のであって、 歌われるのではないのだ。これはバルビローリを聴くのであって、ブルックナーを聴くのでは ないのかも知れない。

しかし、考えてみれば不思議なことで、シベリウスについては同じような解釈が恣意とは 感じられないのに、何故ブルックナーに限ってそのような主観性の残滓に恣意性を感じ取る のだろうか。バルビローリのシベリウス演奏は決して主観的な音楽ではない。主観と世界との相互作用の様相の 音楽なのだ。では、ブルックナーの音楽はどこから響いてくるものなのか?ブルックナーの音楽には もはや通常の意味での主観性と世界という枠組みはないのだろうか?

第8、第9と聴いてみると、第8交響曲の方がより自然に聞える。これは第8交響曲の方がより、 シューベルト的であることを意味しているのだろうか?宗教的な感情の拒否ということでいけば、例えばギュンター・ヴァントの演奏だってそうだ。 また、ケーゲルの演奏も宗教的ではない。けれども勿論、バルビローリの演奏はそれらとも 決定的に異なる。結局、バルビローリの音楽はセンチメンタルである、というのが事態の端的な 説明になっているのだろうか?いずれにせよ、バルビローリのブルックナーについては、すぐには判断できそうにない。 何はともあれ非常に感動的な演奏なのだから。このような演奏で感動することが寧ろ想定外の ことであって、当惑しているというべきかも知れない。

ブルックナーと並んで非常に地域性の強いものとしてはシューベルトの音楽が 思い浮かぶが、シューベルトの場合は、バルビローリのレパートリーの中ではもしかしたら意識的に 「周辺的」なものとして扱われているかも知れない。 少なくともその音楽は「ウィーン物」を集めたコンサートなりCDの編集の中核に位置づけられる のであって、バルビローリのレパートリーの文脈では「地域性」の標識がつけられているようなのだ。 否、もしかしたらロンドンから見た場合、ハイドン、モーツァルトを含めて、日本の音楽史的な 知識からすれば中心であるものが、「地域の音楽」として浮かんでくるのかも知れない。 こうした事情は、そもそもヨーロッパから遠く隔たった日本に住んでいれば、ある時期までは そもそも意識にのぼることすらないだろうし、仮にそれに対して意識的たりえたとして、 実感としてのトポスの感覚は持ちようがない。子供のときに聴き始めて何曲目かの作品がシューベルトの未完成交響曲であるというのは そんなに珍しいことではないだろうが、例えばカラヤンのレコードで聴くその音楽は、 まず端的に音楽であって、そうした地域性のようなものとは無縁なものなのだ。

だが、そうしたシューベルト演奏においてすらそうであるように、バルビローリのブルックナー 演奏は、実際にはそうした「地域性」の文脈とは 見事に関係がないように思われる。ただしそれは、無国籍的な寄る辺無さと裏腹の関係に あるかもしれない。そこで起きていることは、マーラー演奏で生じていることに 非常に近いように感じられる。(これについては第8交響曲の演奏に関連して既に書いたことが ある。)或る種の抽象性を経由した生々しさがあるように思われてならない。 第8交響曲のアダージョのぞっとするような深淵や第2楽章スケルツォの風景がちっとも 見えてこない不思議な道行は、寧ろ非・場所を指し示しているかのようなのだ。

勿論私は何も「お国物」はその国の人間の演奏したものでなければ価値がない、などと 言いたいのではない。(バルビローリにおける最も痛烈な反例はシベリウスだろう。) そうではなくてこのブルックナー演奏が、バルビローリの演奏の持つ不思議な無国籍性、 決して無意識的ではない、寧ろかなり自覚的な音楽の作り方、一見熱っぽく情緒的で 即興的にすら見えて、実際には周到に準備された怜悧な解釈に裏打ちされていることを はっきりと証言しているように思えるのである。 そしてどこまで意識的かは別として、或る種の「普遍性」をバルビローリが 体現しているということが感じられる。勿論、この「普遍性」を絶対視するという わけでもないし、実際のところはよくわからないのだが。けれども、例えば、 ヨーロッパの街を訪れてヨッフムのブルックナーの「感じ」が、身体的に、 ほとんど皮膚感覚的に「わかってしまう」のと比べて、このブルックナー演奏は ずっと意識的に練られたものだという感じをぬぐえないのである。

勿論その演奏は素晴らしく、ブルックナーの音楽の持つ深淵を、殊更に毒を強調する やり方でなく浮び上がらせたものだと思う。寧ろ、外から切り込まなければ取り出す ことができない実質というのがあるのではないかと思いたくなるほどだ。

第9交響曲・ハレ管弦楽団(1966年7月29日・ロイヤルアルバートホール)
ロンドンのロイヤルアルバートホールでの演奏の録音。マーラーの第7交響曲とのカップリングで BBCのレジェンドシリーズでリリースされたものだ。

上述のようにいわゆる今日標準的と見なされるであろうブルックナー演奏の様式からは まったくかけ離れた演奏だ。多分バルビローリは他の作曲家の作品と基本的には同じ スタンスで臨んでいるのだと思うが、テンポの設定、フレージング、強弱法、どれを とっても極めて個性的な演奏になっている。

バルビローリの演奏が意識の音楽であることが些か極端なかたちで露わになった演奏だと 思われる。勿論、ブルックナーの音楽に何を求めるかによっては、このことは決定的な 躓きの石になるだろう。おまけに、ブルックナーの人間化といっても、例えば アーノンクールがそうであるような、生活世界の次元での親近感のようなものは、 当然のことながら望むべくもない。

けれども何回か聴いている裡に、この演奏に対して抱いていた違和感があまり根拠の ないものに思えてくる。何故、ブルックナーに限って、そこに主観が居てはいけない のか?何故、その風景は主観の心象の投影であってはいけないのか。何故、 ブルックナーに限って、音が向こうからやってくるのでなくてはならないのか?

例えば第3楽章に、常とは異なって主観の反応を見出すとき、実はそれが、 シベリウスの特に後期の交響曲、VWの第5交響曲などで起きていた事態と構造的には 何ら変わらないことがわかる。そこには出来事を受容する主観が存在するのだ。 そしてそれは、アダージョのコーダに至っても決して揮発してしまうことはない。 マーラーの第9交響曲のコーダにおいてそうであったように、主観は揮発してしまい 無人の風景が残るのではなく、最後に主観のまなざしが残るのだ。

私はそれを寧ろ、肯定したいような気持ちにとらわれている。勿論、他の演奏の価値を 否定してしまおうというのではないが、最後に残るものがあることを、肯定的に 捉えたいように思うのだ。それをバルビローリの音楽の人間中心主義的な限界である というふうに考えずに、ある種の勁さのようなものとして捉えたいように思うのだ。 とりわけブルックナーを聴いてそれを感じたことは、決して偶然ではないように 思える。それは通常ブルックナー演奏には見出せないし、そもそも見出そうと期待も しないような存在の様態だからだ。(この「様態」に関係がありそうな参照点を 幾つか掲げれば、例えば、イヴァン・カラマーゾフの引用したプーシキンの詩に 出てくる「春先に萌え出ずる粘っこい若葉」、アドルノが否定弁証法で言及する く瞳や振られている犬の尾、そして何より、マーラーの第7交響曲のフィナーレの バルビローリの演奏が思い浮かぶ。)

第8交響曲・ハレ管弦楽団(1970年5月20日・ロイヤルフェスティバルホール)
これはバルビローリの生涯の最後の年の演奏で、これに先立つこと約1ヶ月の4月30日に マンチェスターで同じ曲を演奏した時に、バルビローリは心臓の発作に見舞われたらしい。 その演奏の驚くべき覇気は、これが最後になるかも知れないという意識と無関係ではないのだろう。 それはあの7月24日の演奏会のエルガーと同じような、切羽詰った何かを感じさせる演奏だ。

演奏の様式は、現代ではもはや前時代的とされるものだが、一聴して驚かされるのは その解釈の緻密さだ。激しいテンポの変化も、旋律に対する強烈な 表情付けも、その場の即興ではなく、綿密で入念な準備に基づいていることがすぐに わかる。(ちなみに、ブルックナーの中でもこの曲は特に版の問題が取り沙汰される ことが多いようだが、ここではハース版が使われているようだ。) 勿論、アンサンブルの精度はさほど高くないかも知れないが、少なくとも、こと指揮者の 意図の実現という点を考えれば、この演奏会での達成のレベルは驚異的ではないだろうか。 些かエキセントリックであるとはいえ、細部に至るまで入念に表情づけされ、最後まで 集中力の途切れることのない、素晴らしい演奏だと思う。
それにしても、この演奏におけるバルビローリの解釈のユニークさは、その広大な レパートリー中でも群を抜いて際立っているように思える。私はブルックナー・ファンと いうわけではないので、それほど多くのこの曲の演奏を聴いているわけではないが、 この解釈の特異さは、単に時代的な演奏様式の変動では説明しきれないと思う。 つまり単にロマンティックなだけではないのだ。 その特質を正確に言い当てるのは困難だが、あからさまな主観性の残滓や、人間的な 情緒の存在についてあえて繰り返して言及することは控え、少し異なった観点を 提示したい。

それは、ブルックナーの音楽の持つローカリティに関してである。 ブルックナーの音楽は日本では(或る意味では大変に不思議なことに)非常に人気が あるが、例えばアメリカでは必ずしもそうではないし、別に大西洋を渡らずとも、 非ドイツ語圏では決してポピュラーとは言いがたい。 これは、同じくバルビローリのレパートリーの中心であるシベリウスの人気の局所性と 似ている。(ただし分布は寧ろ相補的であるといっても良いくらい異なる。) バルビローリは単にレパートリーが広いだけでなく、周縁的なものに対する開かれた 態度を持っていることにその特質があるように思われるが、逆に典型的に中央ヨーロッパ の音楽であるブルックナーの演奏においては、ブルックナーの音楽が常には持っていると 思われるローカリティのようなものが欠落しているように感じられるのだ。

そのローカリティは例えばヨッフムの演奏がごく素直に体現しているものだし、 最近では、あれほど解釈の異なるアーノンクールの演奏にも色濃く感じる ことができるものだが、ここで対比した場合に最も興味深いのは、ジュリーニの場合 だろう。 ジュリーニの演奏は、いわばアルプスの南側からブルックナーを捉えているのだが、 そのカンタービレとある種の普遍性への志向にも関わらず、(好みは措けば) ブルックナーの音楽の典型的な演奏たり得ているのに対し、バルビローリの演奏は 抽象的に、いわば「括弧入れをして」ブルックナーを捉えているように感じられる。 バルビローリにおいては常の通り、その音楽が主観的な意識のドラマと解釈されている のだが、その主観のあり方は、奇妙に日常性を欠いていて、まるで還元を受けた 主観のようなのだ。 もっとも、こうした日常性の欠如は、実際にはブルックナーだけに起きているのではなく、 実は、バルビローリの演奏では多かれ少なかれ起きていることで、ただ、ブルックナーに おけるほどは強く感じられないのかも知れないが。

勿論、「まるで還元を受けた抽象的な主観」だ、というのは、その音楽が冷たく、 客観的なものであることを意味しない。寧ろ逆に、その抽象性は主観の様態の表出に 表現主義的な鋭さを付与しているようにすらうかがえる。更にはバルビローリの 演奏の特徴の一つであるストーリー・テリングの巧みさもまた、一旦還元してから 構成するという知的な操作の結果であるように思われるのである。

バルビローリの音楽は通常思われているのとは異なって、実際には大変に緻密に練られた 冷静な解釈に裏打ちされた音楽であることを、このブルックナー演奏は他の演奏にもまして 強く印象付けるが、それと同時に、バルビローリの音楽が典型的に意識の音楽たりえているのは、 その周縁性とひきかえの抽象性によるのではないかということを考えさせもする。 そうした意味で、このブルックナー演奏はバルビローリの音楽の特質を考える上で 鍵となるものだと思われる。

繰り返しになるが、しかし、それは音楽がつくりものめいたよそよそしいものになっている ということでは全くない。寧ろ、異様なほど生々しいのだ。 第3楽章のアダージョの経過の、同じバルビローリのエルガーの交響曲演奏における 緩徐楽章の経過と何と似ていることか。鍾乳洞にある地底湖を進むような内面性の 巡礼の道行き(人によってはトゥオネラのような冥府行を連想するかもしれない。)を 思わせる音楽は、バルビローリの演奏では冷たく冷え切ってしまうことはない。 外在する秩序を模倣するよりは、皮膚が感受するその様相を、主体の変容を辿るのだ。 ここでは例のハース版の挿入句が、まるでフラッシュバックの時に生じる眩暈のような 生々しい感覚をもって奏せられるし、音楽が頂点に達した後、静まっていくところも その呼吸はほとんど身体的といっていい。弦楽器の奏する歌の美しさにも関わらず、 音楽は美しいというよりは、主体と世界の界面で生じる出来事の生々しさに満ちている。 これはいわば「経験主義的」なブルックナー、常にあっては既に回収されてしまっている 原始的な出来事を語ろうとする試みであるように思える。そしてそれを可能にしているが 上述した「括弧入れ」なのではないだろうか。

第3交響曲・ハレ管弦楽団(1964年12月18日・マンチェスター、自由貿易ホール)
ハレ管弦楽団の根拠であるマンチェスターのフリー・トレード・ホールにて収録された放送用 音源をBBCがCD化したものである。同年9月に3回この曲は演奏会で取り上げられており、 それを踏まえて放送用に収録したものとのことである。放送用音源の多くがそうであるように、 これもまたモノラルで、音質が気になる人は聴取に抵抗を覚えるかも知れない。

流石にバルビローリのブルックナーの3曲目になるとどういう演奏になるかは或る程度 想像がつくようになるので、第9交響曲や第8交響曲を聴いたときのような驚きは 感じることはないが、それにしても、例えばザンデルリンクの同一曲の演奏と何と異なることか。 この曲においては、明らかにまだブルックナー自身の音楽の流れのいまだ自覚されない無媒介的な 形態が露わで、それゆえ普通に演奏すれば、唐突で脈絡の無い音楽と受け取られがちであるのに 対し、ザンデルリンクは一旦知的に分析して再構成するというやり方ではなく、むしろその形態の 自己生成を見守り、促すように演奏することで、透明で自然な音楽を実現することに成功していた。 ここでのバルビローリの演奏は、本当は断片的な意識経過を後からあたかも一貫した 流れが存在していたかのように構成する意識の働きさながら、そこに主体をおいてそのフィルターを 通して眺めることにより物語を構成しているかのようだ。

第1楽章なら対主題の、あるいは第2楽章の歌いまわしは、例によってエルガーを聴くようだ。 ヨッフムであれば風景の向こう側から響いてくる世界の響きである音楽が、ここでは、主体が 目の前に広がる世界におりたつ経験の記述になっているのだ。その限りにおいて、音楽は 今そこで生じたばかりのような生気を孕んでいる。この眩いばかりの輝きに満ちた 音楽が、ここでは新しさの経験となるのを聴き取ることができる。それは聴き手にとっても 新鮮な経験だ。通常この曲の演奏に期待するものとかなり異なったものであることは確かだが、 40年前のモノラルの録音を改めて聴くだけの価値は十分にあると思う。

第7交響曲・ハレ管弦楽団(1967年4月26日・マンチェスター、自由貿易ホール)
バルビローリがブルックナーの音楽を非常に好んでいたのは、ブルックナーの評価がドイツ語圏にほぼ 限定されていて、まだ評価が定まっていなかった時期のイギリスとアメリカで、それをしばしば取り上げた ことからも窺える。恐らくはレパートリー上の棲み分けの問題などもあって、正規のスタジオ録音が なかったため、バルビローリのレパートリーの中でブルックナーが占めている位置の大きさを知ることは、 近年のBBCによる放送音源や演奏会のライブ録音のリリースまでは一般には困難であったと言って良い。

そういった事情とは別に、バルビローリの「ヒューマニスティック」な芸風からして、ブルックナーとの相性について 疑問視する向きがあるのはある意味で当然なことではあるし、とりわけ近年の日本でのブルックナー受容の 傾向からすれば、バルビローリのようなタイプの解釈は、ブルックナーの本質を外したものだという評価が されるのは自然なことに違いない。かくいう私も、バルビローリのブルックナーが決して「的外れ」とは 思えないし、それをしばしば好んで聴く(だいたい、私は世代的に古いヨッフムを除外すれば、いわゆる ブルックナー指揮者の演奏を好んで聴くことはなく、戦前の巨匠でもブルックナー・スペシャリストでもない指揮者の 幾分「個性的」な解釈が好ましくて、バルビローリもそのうちに数えてもいいのかも知れないのだが)、 それでは当惑することがないのかといわれれば、全くないとは言い難いというのが正直なところで、 これはあくまで「バルビローリの」ブルックナーであって、例えばブルックナーを初めて聴く人に勧められるような ものではないとは感じているのである。音楽に刻印された主体の位置、主観性の希薄さという点では 比較的に近い存在であると考えられるシベリウスの演奏についてはそうした違和感はないので、寧ろこれは ブルックナーの音楽の特異性―反時代性といっていいだろう―を物語っていると考えている。それは、 アドルノがシベリウスを反動呼ばわりしたのよりも更に根深いものを持っているに違いなく、一見、ア・ラ・モードで すらあって同時代で人気のあったシベリウスについては思わず「反動」と見做して執拗な批判をするといった皮相な反応をして しまったアドルノが、ナチスに利用された感のあるブルックナーについては断片的に、やや批判的な仕方でしか 語っていないようにみえるのは興味深い。まあアドルノが予断している図式、ベートーヴェンの荘厳ミサに当惑を 隠せないような視点ではブルックナーのような「現象」について扱い得ないのは当然という気もするが。

さて、第7交響曲はブルックナーの交響曲の中でもバルビローリが最も好んだ作品で、非常に早い時期から 取り上げていたようだ。際立って流麗な旋律に富んだこの曲は、確かにバルビローリ向きといえるのかも知れない。 だが、リリースはそれまでの第9、第8、第3が2000年からほぼ1年おきに立て続けに行われたのに対して、 かなり時間があいてようやく2006年になってからになった。その理由はわからないが、もしかしたらライブ演奏に つきものの傷が問題視されたのかもしれない。もっともこれくらいの傷は、これまでリリースされてきたマーラーの ライブでもあったので、それが理由とも考えにくいのだが、、、
演奏は、これまでの3曲の演奏から想像されるような、構築的ではないのだが、時間方向の演奏プランが明確な ために非常に見通しが良い演奏である。各主題のテンポ設計も明確で、性格付けにも曖昧さはない。 フレージングは、これまたいつもの通り、非常に入念な準備が窺える丁寧なもので、バルビローリが如何にこの曲に 対して愛着を持っていたかを感じずにはいられない。興味深いのは、―これまたバルビローリらしいと思うが―、 ブルックナーの音楽の、しばしば自己反復的といわれる等質性よりも、各曲の持つ質の違いを捉えた解釈が なされていると思える点で、例えば、際立って内面的で主観的な音楽となっている第8交響曲と比べて、 この曲の演奏は、意識が外に向かって広がってゆき、ある瞬間にそれが非日常的なものに変容していく といったこの音楽の持っている外に向かって開かれた性格がはっきりと感じ取れる。 非常に早いテンポをとる(アラ・ブレーヴェにある意味では忠実な)第1楽章コーダも少しの違和感もないし、第2楽章の主題間の微妙なテンポの対比や、 それに基づくクライマックス(それは、全曲のクライマックスでもある)に向けてのテンポの設定(巨視的にみて徐々にリタルダンドしていくかのように 巧みに設計されている。)、そしてクライマックスを過ぎた後の、立ち止まり、静まっていく音楽の呼吸の深さ、 転調と音色の対比がもたらず陰影の鮮やかさも印象的だ。個別の部分の印象ではなく、 全体に通底する音調でもなく、ということであれば、しばしば批判の対象にすらなるこの交響曲の全体構造が、 問題視されることの多いフィナーレを含めて、全く自然なものとして描き出されていることがあげられるだろう。 曲によっては「わかりやすすぎる」かもしれないバルビローリの語り口、いわば「ストーリーテリング」の巧みさは、 この曲に関しては作品の構造に説得力を与える方向に寄与していると感じられる。そして何よりバルビローリらしいのは、 常に主体の姿が見え隠れすることだ。とりわけ第2楽章コーダにはそれがはっきりと感じられて、印象深い。 これまでの3曲でもそうだったように、ここでもブルックナーのアダージョが身体的な事象の感受であるかのように響くのである。

要するに、バルビローリはここでも「やってはいけないこと」をこれでもかとばかりにやって、ブルックナーの音楽の 本質を損なっているという廉で批判されることになるのだろう。もしそうであるならば、この解釈がブルックナー演奏の伝統が薄かった イギリスにおいて強い感銘をもたらしたばかりでなく、よりによってベルリンにおいてすら本人が戸惑うほどの非常に 大きな反響を呼んだのは一体どういうことなのか、第8交響曲でもそうだったように、ここでも「本質を外した」はずの演奏が、 かくまでに説得力のある、聴き手を揺さぶる力のある理由を問うてみなくもなるのであるが。

勿論、バルビローリのそれがブルックナーの演奏としては些か異形のものであることは確かであろう。とりわけこれだけブルックナーの音楽が 普及してしまった今日であれば、鳴らすだけならそんなに大変ではなく、それゆえ「誰々風」の味付けのコピーをしてみせること だってできるだろうが、バルビローリの演奏はそういった意味では全く誰にも似ていない。楽譜に虚心坦懐に向かって 時間をかけて自分の解釈を練っていき、そして実演でその解釈を十全に身体化した演奏をすることはやはり稀有なことだろう。 第8交響曲でも際立ってそうであったように、バルビローリの際立って意識的な作品へのアプローチは作品のローカリティを還元してしまい、 その結果として作品が表現している「質」が(ヘーゲル的な意味で)具体的に、だがそれだけに直接的で生々しいかたちで 表出されていると思う。(この点で共通性があると私が考えているのは―意外かも知れないが―ケーゲルの新ウィーン楽派以前の音楽の演奏である。 ケーゲルの解釈もまた、非常に意識的に練られたもので、音がどこで鳴っているかがわからなくなるような「怖さ」を秘めていると思う。 ケーゲルに関しては流布しているイメージからか、そうした感じを語ることには意外感がないようなのだが、バルビローリの場合には、 流布しているイメージが寧ろ邪魔をしていて、その音楽の持っている「鋭さ」は無視されてしまう。流布しているイメージが 鳴っている音を裏切るという点では、ケーゲルの音楽が間違えなく持っている人間性への信頼や素朴で透明な感情に ついては語られることがないのと、丁度好一対のように思える。)

ここに広がる場所は懐かしい、あの風景ではない。そしてブルックナーに関しては、もしかしたら作品が要求しているかも 知れない或る種の反応の「型」がここでは前提されていないことが、「標準的な」ブルックナー演奏をさんざん聴いた耳に とって違和感の原因になるということは確かにあるだろう。あるいはまたその意識的な入念さが、ブルックナーの音楽が 持っている破格な部分をまるめてしまっているという側面もあるかも知れない。だがけれども、これほど端的に 作品の力を感じることができる演奏もなかなかないと思う。それは当日の聴き手にも確実に伝わったものだろうし、 別にこの演奏一度きりのものではなく、別の場所での別の演奏にも備わっていたものに違いない。 それは常に一貫性のあるバルビローリの解釈そのものがもたらしているものなのだ。

もしあなたが流布しているイメージに捉われず、モノラルの古い音源であるという制約を気にせずに、ブルックナーの オリジナルで説得力ある解釈に触れてみようと考えているならば、この録音はその期待を裏切ることはないだろう。 最初に言ったことと矛盾するようだが、初めてこの演奏を聴いてブルックナーが「わかった」という人がいても不思議ではないし、 それが「間違い」だとは思わない。確かにスタンダードとは言えないブルックナーの解釈としては最も主観的な 部類に属するものには違いないが、にも関わらずその解釈が音楽を裏切っているとは私は思わないのである。

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