2014年9月6日土曜日

テ・デウム末尾のsperoの時制解釈について―小河信一先生による―

[はじめに]ひとことの執筆後、旧約学者で「哀歌」に関するモノグラフも出版されている小河信一先生に、テ・デウム末尾のsperoの時制解釈に関し お伺いすることができた。ご専門でないことは承知の上での無理なお願いにも関わらず、懇切丁寧にご説明いただいたばかりではなく、 テ・デウムと聖書詩篇の関係から、ここでの完了形の用法が詩篇の言語であるヘブライ語の時制・アスペクトのシステムとの関連によるものであるという、 ご専門の旧約学の見地からのコメントをいただけたので、お許しを得てその内容をここで紹介する。

唐突な質問にお付き合い頂いたばかりか、貴重なコメント内容の公開にご快諾いただけたことにつき、小河先生にこの場を借りて 御礼申し上げたい。ここでは誤解が生じないように注意を払いつつ、最低限の編集をさせていただいたことをお断りしておく。編集により入り込んだ 誤りについての責が私にあるのは勿論である。

なお、小河先生とのやりとりはメールで何回かに分けて行われた。「ラテン語や聖歌に精通している人でなければ正確に答えられない問題と思」う と断られた上で、ご説明いただいた最初のメール(2007年11月20日)の主要部分を以下に掲げる。

*       *       *

今回、ラテン語において、日本語的(日本人的)感覚では、現在形で良いのではないか、と思われる個所で、 意外にも完了形が使われているというご指摘ですね。

実は、ヘブライ語がまさにそうで、詩編の中にもしばしばそのような個所(動詞)が見られます。 spero“to hope”に相当するヘブライ語の動詞を例示しながら、ご説明しましょう。

まず、Te Deum の結末を確認します。

Fiat misericordia tua, Domine, 御あわれみをたれ給え。主よ。
super nos, quemadmodum speravimus in te. 御身に依り頼みしわれらに。
In te, Domine, speravi: 主よ、われ御身に依り頼みたり、
non confundar in aeternum. わが望みはとこしえに空しからまじ。
(原文・訳はインターネット・ホームページから)

speravi「私は依り頼みました」と共に、その直前の詩行に、speravimus「私たちが依り頼みました(ように)」が出ています。 「依り頼みました。望みました」が完了形で2回強調されていることになります。 一人称・複数と一人称・単数の並置によって、 信仰は「私たち」共同体の問題であると同時に「私」個人の問題であることが示されています。

(編集者注:強調は編集者による。)

それでは、聖歌のsperavi「私は依り頼みました」を理解する手がかりとして、ヘブライ語の動詞、 バタハ及びハサー(意味はいずれも「信頼する。依り頼む」)の用例を調べてみます。

旧約の中で、二つの動詞(一人称・単数)の未完了形と完了形の頻度は、下記の通りです。

バタハ エヴタハ「私は信頼するでしょう」5回 バタフティ「私は信頼しました」11回
ハサー エヘセー「私は信頼するでしょう」4回 ハスィーティ「私は信頼しました」8回

文脈や主語(「私」は誰か)などは考慮していない段階の粗い統計ですが、 ここで分かることは、完了形が未完了形よりも優勢であるということです。

次に、バタフティ「私は信頼しました」及びハスィーティ「私は信頼しました」の用例を見てみましょう。

バタフティ「私は信頼しました」の例:
詩編143:8
朝にはどうか、聞かせてください あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。 行くべき道を教えてください あなたに、わたしの魂は憧れているのです。(新共同訳)

「あなたにわたしは依り頼みます」という訳は、本来「あなたにわたしは依り頼みました」です。 口語訳も新改訳も、日本語の現在形で訳しています。

バタフティの他の例:詩編25:2、143:8など

ハスィーティ「私は信頼しました」の例:
詩編7:2
わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、 わたしをお助けください。(口語訳)
私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。 私を救い出してください。(新改訳)

元来完了形であるという点では、「寄り頼みます」よりも「身を避けました」の訳の方が原文に忠実です。

ハスィーティの他の例:詩編25:20、141:8など

2例ですが、ここから分かることは、ヘブライ語の完了形は日本語では(日本人的には)現在形に訳した方が、 意味が了解しやすい面があるということです。逆に言えば、その訳業は原意からの分離を招く危険をはらんでいます。

そこで、ヘブライ語バタフティやハスィーティの「私は信頼しました」は原語としては、どういう意味なのか、 が問題になります。ここからは、私見です。

「私は信頼しました」というのは、過去(信仰が与えられた時)から現在に至るまで続いていることの表出であり、 その信頼(神への依り頼み)はこれからも続いていくであろうことを含んでいるのではないかと思います。 もちろん、過去・現在・未来において、「私」の信頼は絶対に揺らぐことはないと傲慢になっているのではないでしょう。 ここまで神が導いてくださって、「私は信頼しました・信頼できました」、そして永遠なる神はそのように将来に 向かっても支えてくださるでしょうという確信が背後にあるように考えます。過去・現在・未来を貫くという点では、 単に未来に関わる未完了形よりも、源にさかのぼり、源泉からの流れが永遠に続くというニュアンスの含まれる 完了形がふさわしいと見られます(ヘブライ人はそのように考えたのでしょう)。

あるいは、ヘブライ語の未完了形はある動作・状態が継続するというニュアンスがあり、他方、完了形は 「ここまでそうだった」と文字通り完了していることが明示されますので、信仰上の宣言・決断を提示・断言する場合、 「私は信頼するでしょう」よりも「私は信頼しました」が(ヘブライ的思考に拠れば)より適切と言えます。

(編集者注:強調は編集者による。)

端的に言えば、「私は信頼しました」という事は、神の愛や力を受けて成し遂げられたことなので、 (それを信じるかぎり)現時点はもちろん将来にも及ぶということです。それ故に、翻訳では、 「私は信頼しました」ではなく、「私は信頼します」と訳される傾向があるのではないでしょうか。 普遍の真理は日本語では、現在形が好まれるという点で、上記のような聖書和訳が生じているのでしょう。

古代教会の聖歌への詩編をはじめとするヘブライ語の影響を考慮した上で、 「In te, Domine, speravi: 主よ、われ御身に依り頼みたり」(名訳ですね)は、 ヘブライ語のバタフティやハスィーティの解釈に倣って理解してよいのではないかと、私は思います。

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これに続く第2信(2007年11月26日)では、4世紀の聖アンブロシウスの作とされるTe Deumと詩編の比較考察に関して、 ラテン語の歌詞からヘブライ語を想定し、どれだけ詩編と共通点が見出せるか、という問題を取り上げる可能性に 触れられ、さらに、原文・ヘブライ語とギリシャ語を比較しつつ哀歌の七十人訳を和訳されたご経験に 基づき、聖書ヘブライ語からギリシャ語へ翻訳される過程で元のアスペクト・時制が忠実に保存・再現されるという事実を 教えていただき、「もともと哀歌の七十人訳は原典のヘブライ語からほとんど逸れていないと言われていますので、 一つの事実に過ぎない」との留保の上で、聖歌のラテン語やギリシャ語の時制がヘブライ語(詩編など)に 依拠している事は十分あり得ると述べられている。

そして第3信(2007年12月3日)において、以下に示すとおり、テ・デウムが引用を行っている(と一般には見做されている。 小河先生も述べられていたのだが、引用の向きや時期についてはテ・デウムの各章節毎の成立過程や ヴルガータ訳の成立過程に関する文献学的な考証が必要である。これについても研究が存在するようだが、 ここでは触れない)ヴルガータ訳聖書を経由した、テ・デウムと元となったヘブライ語詩篇との比較検討を していただいたのである。またconfundarの意味については、中間に存在するギリシア語(コイネー)訳聖書である 七十人訳も対照していただき、そのニュアンスの移り変わりを示していただいた。

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テ・デウム(16)
In te, Domine, speravi:
non confundar in aeternum.

はウルガータ訳聖書・詩編30:2及び70:1に同一文が見出されます。つまり、テ・ デウム(16) の歌詞はウルガータ訳聖書からの引用です。そして、ウルガータ訳聖 書・詩編 30:2及び70:1に相応するのは、ヘブライ語聖書で詩編31:2及び71:1です。従って 、テ・デウム(16) の歌詞の意味内容を理解するためには、旧約聖書・詩編31:2及 び71:1を熟視することが大切になります。

(編集者注:強調は編集者による。)

テ・デウムと同一ですが、念のためにウルガータ訳聖書を掲げます。

(ウルガータ訳聖書・詩編30:2及び70:1)
in te Domine speravi non confundar in aeternum

(ヘブライ語原文)
詩編31:2
בך יהוה חסיתי אל־אבושׁה לעולם
ベハー アドナイ ハスィーティ アル エヴォーシャ レオラム

詩編71:1
בך־יהוה חסיתי אל־אבושׁה לעולם׃

上記の詩行では、エヴォーシュ(אבושׁ 他に詩編25:20、119:6,46,80、イザヤ50:7 )ではなく、語尾が伸びて エヴォーシャ(אבושׁה 他に詩編25:2、31:18)とな っていますので、願望形(cohortative)です。

アル エヴォーシャ「私が恥を被らないようにしてください」(私訳)

公教会祈祷文「わが望みはとこしえに空しからまじ」は、前の詩行の「主よ、わ れ御身に依り頼みたり」の「依り頼み」換言すれば「望み」を受けて、それが「 空しくは終わらないだろう。いや、空しく終わってほしくない」と接続する形で 訳されたものです。望みが空しくならなければ、恥を見ることはない、という解 釈からの意訳と思われます。

(邦訳聖書)
詩編31:2
主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてくださ い。(新改訳)

詩編71:1
主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでくださ い。(口語訳)

同様に、

テ・デウム(15) 後半
Fiat misericordia tua, Domine,
super nos, quemadmodum speravimus in te.

はウルガータ訳聖書・詩編32:22に同一文が見出されます。つまり、テ・デウム(16) の歌詞はウルガータ訳聖書からの引用です。そして、ウルガータ訳聖書・詩編32:22 に相応するのは、ヘブライ語聖書で詩編33:22です。

(ウルガータ訳聖書・詩編32:22)
fiat misericordia tua Domine super nos quemadmodum speravimus in te

(ヘブライ語原文)
詩編33:22
יהי־חסדך יהוה עלינו כאשׁר יחלנו לך׃

(邦訳聖書)
詩編33:22
主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。(口語訳)

もし、上記の考証が正しければ、“speravi”“speravimus”が完了形であるのは 、原文のヘブライ語・動詞が完了形であるからと説明できます。

“speravi”→詩編31:2及び71:1 ハスィーティ「私は依り頼みました」
“speravimus” →詩編33:22 イハルヌ「私たちは待ち望みました」

(編集者注:強調は編集者による。)

テ・デウム(ラテン語)の non confundar in aeternum の直訳は「私はとこし えに当惑させられないでしょう」となります。

※confundar=「私は当惑させられるでしょう」「私はうろたえさせられるでしょう」

次に掲げるのは、詩編31:2に該当する七十人訳から調べた「non confundar in aeternum」と並行する個所のギリシャ語です。

μὴ καταισχυνθείην εἰς τὸν αἰῶνα

καταισχυνθείην 未来形・1人称単数・受動態。願望を表す。

ヘブライ語の未完了形(エヴォーシャ)に対し、ギリシャ語では未来形が採用されています。

καταισχύνω=「辱める。侮辱する」  κατα(敵対)αισχύνω(辱める。恥じる)

ヘブライ語 アル エヴォーシャ「私が恥を被らないようにしてください」
μὴ καταισχυνθείην「私が辱められないようにしてください」
non confundar「私は当惑させられないでしょう」(直訳)

 ラテン語文法に関しては素人ですが、ラテン語の文を願望の形に取れば、「私 を当惑させないでください」になります。ヘブライ語やギリシャ語では「恥を受 ける」というニュアンスが込められていますが、ラテン語ではそれが弱められて いるようです。

※confundoの意味  
pour/mix/mass/bring together; combine/unite/blend/merge; spread over, diffuse; upset/confuse; blur/jumble; bring disorder/ruin; disfigure; bewilder, dismay

多様な意味がありますが、「恥じる」に該当するものはないようです。

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なお、聖書の訳の提示にあたって詩篇の番号と章節を明記されているのは、特に詩篇の場合には、 ヘブライ語→七十人訳→ヴルガータという過程で、歌の区切り方の解釈に違いが出ていて、 それゆえヴルガータ訳では詩篇の番号・章節にずれが生じることによる。

上記のご検討に対して、私が付け加えることなどあろう筈もないが、なお感じたことを記せば、まず、詩篇の 引用のパッチワークの観のある聖歌の末尾で、一人称・複数と一人称・単数の並置をおこなうことで、 信仰は「私たち」共同体の問題であると同時に「私」個人の問題であることが示されている点についての考慮が 私には全く欠如していたことをまず認めなくてはならない。 この問題自体の重要性は勿論だが、あえてブルックナーの交響曲創作、宗教音楽創作という文脈に限定して 考えても、それが非常に重要な視点を与えてくれることは論を俟たないだろう。創作主体のあり方の問題、 ロマン主義の只中におけるブルックナーの「アナクロニスム」について考える時に、それは決定的な手がかりの一つだろうし、 何よりも聴き手である私がきちんと引き受けることなく済ますことができる類の問題ではないのだ。

一方でsperaviの方はどうなのか。
勿論、実証可能な水準でブルックナーが、小河先生が示されたような ヘブライ語の時制・アスペクトシステムとその背後にある思考の様態を「知っていた」ということが証明される 可能性は恐らくないだろう。(もっとも確認したわけではないから、あるいは彼が過ごした聖フローリアン修道院で、 そうした知識を彼が得た、ということも考えられないわけではないが。)
それでは、私の書きしるした印象は「誤解」ではなくても、主観的な「思い込み」だったのだろうか。
強がりに聞こえるかも知れないが、私はそのようには 感じられなかった。寧ろ私が漠然として、曖昧な感じとしてしか捉えられなかった或る種の志向的な姿勢のようなものが、 単なる主観的で恣意的な感覚ではなく、聖歌のテキストの水準ではきちんとした検証が可能なことに、まずは感激したし、 それをわかりやすく御説明いただいたことへの感謝ともども、その感激を小河先生への返信でお伝えしたほどである。

他方、そうした歌詞に作曲されたブルックナーの作品の聴取についてはどうなのか。
繰り返しになるが、実証的に言いうることはなくても、その音楽を、その創作の営みを受け止める仕方の一つとして、 私の受け止め方が決して間違いではなさそうだということが確認できただけで、私には充分である。 私にはブルックナーの音楽をきちんと、十全に受け止めることができないというのは自覚しているが、そんな私にも、 門は全く閉ざされているというわけではないと思えるだけでも、私にとっては大きな慰めなのだ。のみならず、 小河先生にメールを通して色々と教えていただけたことによって、私のブルックナーの聴き方は深められたように感じられる。 それは私一人では恐らくはなし得なかったことに違いない。

最後に改めて、この場を借りて、小河先生には心からの御礼を申し上げたい。

(2008.1.5初稿, 1.10修正, 1.13ギリシア語フォントタイプを指定)

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