2023年10月4日水曜日

ギヤ・カンチェリ 「儀礼=祈り」としての「うた」について

 「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」という音楽祭が丁度毎年ゴールデン・ウィークの時期に開催されるようになったのは何時頃のことからだったか。 コンサートが課する時間的・体力的・精神的な制約に耐えるだけのキャパシティを欠いていることから、私はごく一部の例外を除けばコンサートに 足を運ぶことがない。ゴールデン・ウィークとて同様だから「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」もまた例外ではなく、そういう催しの存在は 知っていても、それに参加することはそもそも選択肢にすらならないのではあるが、そういう私でも昨年2011年のそれが、東日本大震災とそれによって発生した原子力発電所の災害のため、当初のプログラムを維持できないような会場設備への損害と来日演奏者の大量のキャンセルを蒙った ことは風の噂に聞いていた。ふとした偶然で2012年の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に因んだ公式ガイドとしての機能を持つらしい新書版のロシア音楽に関する書籍(亀山郁夫, 『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2012オフィシャルBOOK),  PHP新書, 2012)を読み、「現代のロシア音楽」と著者の亀山郁夫さんが見做す(あるいは企画上、そう括ることを強いられた)作曲家の音楽を論じる部分で、カンチェリに関する記述を読んだ際に感じたことを、既に公開済の、主としてシルヴェストロフとの対比を介したそこでのマーラーの扱いに関する強い違和感を記した記事から抜き出して、その主旨とは別に取り上げる価値があると感じているカンチェリにフォーカスするように視点の変換を行った上で記録しておくことにする。

 そのことに対する認識が直接のきっかけとなったわけではないけれど、元の記事を書いた時点では、カンチェリは現役の同時代の作曲家であったのが、この記事を公開する時点では既に故人となってしまっている。彼はここ暫く世界を覆っている新型コロナ禍を知ることなく没したのだが、その後発生してこちらもまだ終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻は、元原稿の執筆に遡る南オセチア紛争を想起させずにはおかなかった。そうした変化の中で「音楽」について、そして「祈り」について考えていく中で、実は執筆当時は寧ろ疎遠であったカンチェリの音楽との距離は再び縮まり、今では、かつて出遭った時期以上に身近に感じるようになっていることがこの記事を起こすきっかけになっていることは間違いないだろう。またそうした距離の変化をもたらした出来事として、最近になって接することができたグルジア(現ジョージア)に関連した2つの書物との出会いがあることを付しておくことは、一旦過去の記事を再編するに留まるここでの作業をこの後継続するとしたら、それはどのような方向を目がけてのものになるかを標記することになるだろう。

 一つはジョーゼフ・ジョルダーニアの『人間はなぜ歌うのか?』(森田稔訳, アルク出版, 2017)で、これはグルジア民謡について知っている人には想像がつくことと思うが、人間の進化における「うた」の起源に関して、音楽は言語に先行しており、最初にまずポリフォニーがあり、モノフォニーは言語獲得の過程で生まれたという非常に魅力的な仮説を提示した著作である。

 もう一つは、兼本浩祐さんの『発達障害の内側から見た世界』(講談社, 2020)。第3章 了解するということ の末尾においてグルジアの「スプラという友達や家族同士で繰り返し行われる宴会」(p.123)についての説明が為されるのだが、それは以下の文章の内容と無関係ではない。というより私見では極めて密接な関係があるのだが、その点を論じるのはカンチェリの音楽にフォーカスした旧稿の再編集というスコープを大幅に超えることになるので、それについては稿を改めることとして、だが少なくともそれが、以下でカンチェリの音楽に関して検討している「世界」を含めた対象の意味づけの様態に密接に関わるのだということ、更にヤスパースの「了解」を導きの糸として検討されるさまざまな様態の中でも、記述や認識の対象とする仕方ではなく、「我々」としての了解でもなく、いわば「他者」として迎接するという様態に関わるが故に、以下で検討されるカンチェリの音楽のあり方と密接に関係しているということは指摘しておきたい。

 なお以下の記事中では「グルジア」という今や歴史的呼称となったロシア語風の呼び方をしているが、それもまた元記事が、「ジョージア」という呼称が正式なものとなる2015年4月以前に書かれたことに由来しており、その後の時間の経過の中で起きた変化を証言することになるだろう。いっそのこと自称である「サカルトヴェロ」を用いて書き換えることも考えたが、それは将来改めて取り上げる時のためにとっておくこととして、ここでは旧稿執筆時点の状態を残すことにした。

 著者は「カンチェリはミニマリスト・ブルックナー」という規定をしているが、その「ミニマリスト・ブルックナー」であるらしいカンチェリの「風は泣いている」に因んで、この「ガイドブック」は「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」という主張を行い、「人間による意味づけからの解放、その表象世界がカンチェリにあるのだ。」と続け、更に、「彼の世界観は、 次に述べるシルヴェストロフとは対極にあるものだろう。世界が暴力とノスタルジーの二つからなっているということを、そして音楽は無限の可能性を 秘めているということをカンチェリほど切実に訴えかけてくる音楽はなかなか出合えない。」と述べる。そしてそこでカンチェリの音楽に対比されるのはシルヴェストロフの音楽なのだが、私個人について言えば、カンチェリの音楽に対する程にはシルヴェストロフの音楽に私が惹きつけられることはない。さりとてカンチェリの音楽に対してさえ特段の強い拘りを持っているわけでもなく、カンチェリの音楽の位置づけの方について言えば、あえてそれに関する文章を書いて自分の思いを整理しておこうと思っているわけでもなかったのだが、その一方でこのガイドブックの記述は私にとっては飛躍が多くて論理の筋道がひどく辿りにくく、とりわけてもカンチェリについての記述は私にとってはその論旨が正確には把握できないことを白状せざるを得ないほどであり、そうした困惑もひっくるめてこの文章で少なくとも仄めかされていると感じられる幾つかの点について自分なりの整理を行う必要を感じた。シルヴェストロフの方は、「ガイドブック」の著者によってその音楽と「同類」であるとされたマーラーの捉え方に異を唱える(つまり同類ではないと私は考えるのだが、それは専らマーラーの側に関する異議申し立てであって、シルヴェストロフの側についてのそれではないが故に、そうした異議申し立て)という文脈の中に納まっているが、カンチェリについては必ずしもそうではなく、だからここで独立に扱うことに一定の意味があると考える。

 「世界は、人間中心的な意味づけから 解放されなくてはならない。今こそそれを知る必要がある。」というガイドブックの主張については、私は「今こそそれを知る必要がある。」とまで言うつもりはないが、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」という主張自体に異議があるわけではなかった。否、東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の災害の渦中に未だにいるのであれば、 「今こそそれを知る必要がある」と言いたい気持ちもわからなくはない。もっとも今更、手のひらを返したように「今こそそれを知る必要がある」といった 言い方をするのは随分御目出度い発言のように感じられるというのが正直な気持ちではあった。しかもそう言っておいて、震災後に聴取の仕方が 変わったと言われるのが、そうした「人間による意味づけからの解放」の音楽であるカンチェリに対してではなく、彼の世界観と「対極にある」とされる シルヴェストロフの「涙が出そうになるくらいの、哀愁とノスタルジーに満たされ」た音楽に対してなのだという点が戸惑いの根源にあった。主張とは裏腹に、 それまでは懐疑的であった「人間中心的な意味づけから解放され」ない側の音楽に対する評価が高くなったと言っているに他ならないのだから。

 そしてまた、一方ではカンチェリの音楽を「対話的宇宙」と性格づけ、それを説明するために、2つの人格である「我‐汝」の間の対話の思想を展開したブーバーの名前を引用しておきながら、「世界は、人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない。」というのは、端的に矛盾しているか、さもなくば大幅な説明不足であって、そんな論理的な飛躍を自明のこととして、その間隙を埋める作業を読者に強制するのもまた不当なことにように 感じられてならない。もし対話の一方の主体を非人格的なもの(「世界」でも「宇宙」でも好きに名付ければよい)とするのなら、ブーバーを参照するのは ミス・リーディングにしか感じられないし、対話が(そのように取れる記述も見られるから)作曲者と聴き手の間のそれであるとするなら、そうした対話と 「人間中心的な意味づけから解放されなくてはならない」とされる「世界」との関係の如何、更には総じて「対話的宇宙」で名指されているものが 一体何であるか、全く明らかではない。しかもここでは「暴力」のみならず「ノスタルジー」もまた「世界」に帰せられているらしいのだ。

 文学の世界ではこうした修辞や表現は許容され、寧ろ顕揚されさえするのかも知れないが、残念ながら私にはその意味を正確に捉えることが著しく困難であり、 これを「ガイドブック」として向かい合うことが求められている音楽祭に参加する資格など自分にあるとは思えない。そればかりか、少なくともカンチェリの音楽を理解することなど全くの不可能事にさえ思えてくる。個人的な経験を言えば、カンチェリの音楽は30代に差し掛かる直前のある時期、全ての交響曲、 ヴィオラ協奏曲「風は泣いている」や、「亡命」「詩篇」といった幾つかの作品を聴いたので、ここで参照されている作品についての聴経験は持っているはずなのだが、 その経験も、この「ガイドブック」の発言内容を理解する助けにはあまりならないようだ。(ちなみに、よりツェランを主題的に取り上げ、彼をタイトルロールとする「オペラ」(と、その抜粋からなる交響曲)さえ書いているルジツカのような例を含めた上で、パウル・ツェランの詩を素材とした音楽作品として、カンチェリの作曲はほぼ唯一私にとって違和感のないものであったし、現時点でもこの点は変わらないようだ。)

 あるいはこういうことなのだろうか。カンチェリの作品は確かに暴力的とも形容できるような大音量の音塊が響くブロックと、哀歌的な旋律がきれぎれに 継起する静かな部分が、西欧の音楽からすれば全く非有機的な仕方で交替するような構造を概ね備えているという言い方は可能だろう。 そしてその交替に脈絡のなさを見出し、ある種の単調さを感じる人も少なくないだろう。その音楽の時間方向の脈絡は、主体の外部から到来する イヴェントに支配されているかのようで、主体は受動的である他ない。そういう意味ではこの音楽の世界は「人間中心的な意味づけから解放されている」という観方もできよう。 一方で、だがそうした音楽はそれでもなお作品であり、カンチェリという人間が組み立て-作曲したものである。単調さや脈絡のなさと呼ばれるものとて、カンチェリによって自覚的・意識的に選び取られたものなのだ。だがその一方でカンチェリは作品の中に「ノスタルジー」をも埋め込むことで、聴き手に対して対話の余地を残していると言うことはできないだろうか。もっと言えば、暴力とノスタルジーが交替する作品を提示することによって、人間中心的な意味づけを拒む世界とともに、それに対面する人間の反応としてのラメントをも差し出すことで、聴き手との対話を試みているのだ、と。

 もっとも著者の提唱する二分法によれば、カンチェリもシルヴェストロフもどちらも有機的であって、ここでは対立はないことになるらしい。一方で、 ベートーヴェン的=求道的・構築的、モーツァルト的=道草的・非構築的という軸では、カンチェリは前者、シルヴェストロフは後者で対立することになっている。 ただし有機的であることの定義は一切なされないから、そもそも異論を唱えることすらできない。求道的、構築的にしても同じで、例えばペルトがシュニトケと並んで求道的・構築的に分類されているのを見ると、それぞれの意味もさることながら、求道的と構築的を一緒に押し込んだ分類に一体どういう意義があるのか疑問に感じられる。もっと謎めいているのはキリスト教・非キリスト教の軸である。例えば、第14交響曲を書いたショスタコーヴィチがキリスト教タイプに分類されるかと思えば、ユダヤ人ではあるがロザリオの祈りを構造的な支点に持つ第4交響曲を書き、それ以外にも 典礼文に音楽を繰り返しつけていて、例えば翻訳もあるイヴァシキンとの対談においても自分からカトリックや正教への信仰を巡って語っているにも関わらず、 シュニトケは非キリスト教タイプとされる。同様に、タタール人ではあるが正教徒であり、やはり受難曲や復活に因んだ作品を作曲していても、 グバイドゥーリナもまた非キリスト教的と分類される。ちなみにカンチェリはキリスト教タイプ、シルヴェストロフは非キリスト教タイプに分類されている。 この2人に対しては以下にも述べるようにその音楽が(非音楽的な礼拝行為のような性格を帯びているかという観点から)宗教的・非宗教的を分類すると 読みかえれば概ね妥当だと思うが、それは「キリスト教的」かどうかとは別の水準の議論だし、他の作曲家の配分を見る限りでは分類基準は私には 全く不明であって恣意的で勝手気儘なものにしか思えない。一体、基準が明確でない二分法の組み合わせが「ガイド」として何の役に立つのか 私には理解できない。読者の反応を気にして釈明をする以前に、定義を示すべきなのではないか。

 一方で、もっと単純に、カンチェリの作品が儀礼的な側面を備えていること、そういう意味でそれは人間的ではない何かに対する語りかけであるというふうに 言うことはできるだろう。それはだが、端的に「祈り」と呼ぶべき行為なのだ。つまりカンチェリの音楽は常に音楽外の行為的な価値を帯びている点に その音楽の決定的な特徴の一つが存しているように私には見える。そしてそうした側面は、カンチェリの作品の内容をも浸食しているのだ。 祈りは常に人間のものであり、祈りの行為には必ず祈らずにはいられない人間の感情や情動が影のように付き纏う。そうした側面こそが カンチェリの作品に或る種の暖かみを与えているのではないかと考えることはできるだろう。

 だとしたらそれは「対話的」なのではないだろう。それは人間的な祈りの所作であり、聴き手は聴くことによってその祈りに参与することが可能であるに過ぎない。 勿論、「我-汝」の関係を祈りの対象との対話、神との対話として考えることもできるだろうし、実際ブーバーの思想が由来するハシディズムの伝統ではそうなのかも知れない。だが、カンチェリの音楽の相貌からは、寧ろ私なら我と汝の対話を主張するブーバーよりも絶対的他者としての神との分離を説くレヴィナスを思い起こすところだ。実際にはグルジア人であるカンチェリはいずれとも直接の関わりはないのかも知れないが、例えば彼の別の作品、 アルバム「亡命」に含まれる幾つかの作品で選択されたパウル・ツェランの詩はブーバーのハシディズム的な対話の世界からは遠く隔たっている。誰でもないものへの祈りであるそれは、寧ろ対話が拒まれた世界との(非)関係における祈りの(不可視の)共同体への絶望的な希求なのではないか。それは「ぼくとあなた」の対話などでは 決してないし、そこに世界が割り込むのでもない。ここで「亡命」を、ツェランの詩を参照することの妥当性については議論があるかも知れないが、 いずれにせよ最初にも述べたように、カンチェリを巡る「ガイド」の記述は、私にはそれこそ「支離滅裂」にしか感じられない。

 ともあれそう考えれば、世界観が対極にあるかどうかはおくとして、少なくともシルヴェストロフの音楽がカンチェリの音楽と異なった位相にあることは間違いないだろう。 シルヴェストロフの音楽には祈るべき超越的な他者が欠如しているのだ。レクイエムと題された作品ですら、それは祈りではない。寧ろそれは主体の世界に 対する反応(例えば親しい人間の死という出来事に接したときの感情や情動)を音楽的に定着したものであり、私的で独我論的といっても良い ような記録なのであるが故に、自律的で、音楽外的な機能を持たない純粋な音楽でしかない。だがこのとき、カンチェリにもシルヴェストロフにも適用される ノスタルジーという語の用いられ方は、ほとんど無意味に近づくほどにまで拡張されてしまっているように思える。「ロシア音楽」(だが、カンチェリは西欧に亡命したグルジア人であり、シルヴェストロフはウクライナ人、更に言えばシュニトケはヴォルガ・ドイツ系ユダヤ人、グバイドゥーリナはタタール人、ペルトはエストニア人で、ここで対象となっている二名のみならず他のいずれの作曲家もロシア人ではないのだが、、、)の特徴を一言で要約することが要求される音楽祭のキャッチコピーによって、 暴力的に一くくりにするという目的以外にそれを敢えて同じ語で呼ぶのは必要性があるのだろうか。勿論、両者に共通性を見出す立場も可能だろうが、 実際に対極にあると主張するのであれば、その主張に応じて、いっそのこと別の語を用いるべきだったのではという疑念は避け難い。 もっとも実際の適否を判断するのは私の手に余る作業である。私はその両者の作品の全体を、個別の作品の間についてではなく、諸々の作品に共通する作者の世界観の違いを判別することが可能な程度に知っているとは到底言えないからである。だが、この点においてすら、この「ガイド」のこの部分について、 数えるばかりの実演と、「乏しい」と著者自らが述べるCDのコレクションとYouTubeの音源に基づき、代表作かどうかも自分では判断できない、ごく限られた作品しか案内できないと断り書きがついているので あれば、著者とは見解が一致することはないのだろう。結局のところ私自身はシルヴェストロフは関心はないし、カンチェリにしても関心はそんなに強固なものではないので、 この点についてはもうこれくらいで十分だろう。

 典礼的な目的で書かれたわけではないが、 にも関わらず、テキストにキリスト教的なものが含まれる作品以外でも、総じてその音楽には奉納といった側面が確実に存在しているように感じられる点、コンサートホールでの交響管弦楽の演奏を想定されてはいるが、名人芸の披露のため、 あるいは聴き手の娯楽のため、消費されることを目的として書かれたのではない点、内容においても、作曲者の個人的感情の吐露といったレベルでは捉えることができず、寧ろ或る種の世界観の提示(ただしそれを主題としているのではなく、寧ろ世界を構築するシミュレーションと捉えるべきだろう)、認識の様態を開示するようなものであるという点、総じて疑いなく哲学的であり、広い意味での宗教性を帯びていると言ってよいと思われるし、少なくとも音楽が手段として用いられる 音楽外の契機が音楽を基礎づけるといった音楽のあり方において、カンチェリとマーラーには一定の共通点があるだろう。

 だがその一方で、特に交響曲作家としてのカンチェリとの比較ということであるならば、西欧音楽の外縁において、非西欧的な論理を探求し、偶然にも同じ数の交響曲を残したシベリウスとの対比の方がより一層興味深いかも知れない。今一度、このガイドブックの「ミニマリスト・ブルックナー」という形容を思い浮かべた時、寧ろブルックナーに通じるのは、垂直方向の超越の運動の存在であり、シベリウスの音楽には空を仰ぐような視線があったとしても、その視線は水平線の彼方を目指すのでって、ほぼ水平方向の運動のみであって、その非宗教性という点で「西欧音楽」の一種としてみた場合に寧ろ異様でさえあるのに比べると、宗教性というラベルづけをすることに違和感がなさそうに感じられる。

 だがその音楽の時間的な構造、主題や動機というよりリズム細胞と呼ぶのが適切な非常に限定された素材を用いて長大で、シンフォニックと呼ぶに相応しい持続を編み上げていく点、ミクロには非常に長大なペダルへの嗜好やソノリティといった点においてカンチェリの音楽は、明らかに西欧音楽的なものから隔たっていて、寧ろシベリウスに近接するように思われる。その非構築的な契機の明白な存在だけとれば、ブルックナーにも或る種の「ミニマリスト」的な側面を認めることは可能であろうが、少なくとも長大なゼクエンツによって時間を押し広げていくブルックナーの音楽と時間性の観点ではほとんど接点はなく、形容矛盾」と断った上で「ミニマリスト」という形容を付加するくらいならば、寧ろ西欧音楽が獲得してきた音楽的思考との断絶の廉でアドルノやレイポヴィッツにあれほど罵倒されたシベリウスこそを引き合いに出すべきだったのではなかろうか?

 ブルックナーもシベリウスも、その音楽における主観性が希薄であることを以って「木石の音楽」といった言われ方をするが、この点におけるカンチェリの音楽の相貌は両者とは明確に異なった独特なものであろう。既述の通り、そこでは非人間的な秩序としての「外部」が直截な仕方で提示されるのに対して、主観性の契機は(ノスタルジーなどではなく)「祈り」の「うた」というかたちで出現する。非対称な両者の間には「対話」は存在しないが、或る種の乖離したポリフォニーを認めることはできるだろう(そしてこの点については、特にマーラーの特に後期様式の或る側面との共通性を認めることができるのではないかと考える)。「私」が、「私たち」が、ではなく「風が」泣いている」という標題を持つ作品が「典礼」と規定されていることは、そのことをいわば外側から証言していると言って良いだろう。ブルックナーの場合とは異なって、ローカルな日常の風景が、何者かの息吹を受けて突如変容するというようなことはここでは生じない。だからといって主観が森の中に歩み入って消滅してしまい、後には森だけが残るというシベリウスでは起こり得たようなこともここでは生じない。ここでは「祈り」が残り、そしてそれは別の機会に、全く同じように「幽霊的に」反復されるのだ。その反復によって、「人間中心的な意味づけから解放されている」(かに見える)外部もまた変化を被ることなく「幽霊」のように再来する。「祈り」そのものは未来を持たないし、それ自体の時間性の裡に「成就」を含まない。シベリウスの場合には、外部の秩序(ノモス)の円環的な循環が示唆されるのに対して、ここでは「祈り」が備えている根源的な反復が示唆されているのではなかろうか。

 実は「人間中心的な意味づけから解放されている」というのは、他の生物にもその萌芽は見られるにしても、自らの有限性を認識するのみならず、言語を獲得し、自伝的自己を備えた「人間」の営みである限りにおいて、それ自体は極めて人間的という他ない「祈り」が備えている性格に他ならないのではなかろうか。そしてこの最後の点を批判的知性を以って構成主義的なやり方で提示しているのが、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする作品に他ならない。そこでは離散力学系によって決定論的に定められている作品の構造の外部に、人間が作り、人間が歌う「うた」があり、こちらもまた「儀礼」として行われる上演において、生成される音響に「暖かみ」が感じられる点において、カンチェリの作品との接点を見出すことができるように思われるのである。(2012.4.30/5.1初稿, 2021.6.24,29加筆修正のマーラーに関する旧稿の一部を、再編集・加筆の上、2022.7.24公開, 2022.8.18加筆, 2023.10.4 改題)

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