多分、弦楽器のビブラートのかけかたや木管や金管の音色やバランスに関する一定の傾向を さしていると思われるが、少なくとも私はバルビローリの演奏に違和感を感じたことはない。 (違和感、という点ならバルビローリの場合、マーラーやブルックナーの方が大きい。 また、ザンデルリンクのシベリウス演奏では部分的に違和感を覚えることがある。しかし、 これとて、単に自分が慣れ親しんできた「刷り込まれた」演奏と異なるに過ぎないのか、 そうともいえないのかはよくわからない。)
拍節感が比較的明確で、弦楽器のビブラートが豊かな、いわゆる非北欧的な特長をはじめ、 一般に第1,2,5交響曲あたりの相性がいいということになるであろう点はザンデルリンクと 共通しているように思われる。同様に、解釈はフィンランディアや第1はややもすれば陳腐に なりかねないのが説得力があるのは両者ともどもさすがである。しかも、私見では バルビローリの場合もまた、シベリウスの後期様式に対する違和感がない。特に第6,7交響曲に ついて、両者ともそれぞれ説得力のある演奏だと思う。
しかし、実際にはバルビローリとザンデルリンクの演奏の間には、大きな違いもある。 バルト海を挟んで対岸に立つベルグルンドとザンデルリンクでは、シベリウスとブラームスの 両者を基本的に同質の音楽として演奏している。その結果シベリウスが少しブラームス的に なっているのと同じ程度に、ブラームスが少しシベリウス的になっているように思われるが、 バルビローリの場合は、それぞれに同じように距離をおいて接しているように思われる。 同様にザンデルリンクであればレパートリー上想定可能な、ブルックナー・シベリウス・ ブラームスと並べる併置法はバルビローリの場合にはあまり感じることができない。 端的に一例をあげるなら、ブラームスの第3交響曲のフレーズのちょっとした切れ目に 生じる間の豊かさは、ブルックナーのゲネラルパウゼや、マーラーの第9交響曲の あの漠とした空間を感じさせる経過部を思わせるような質を担ってはいるが、しかしそれは、 バルビローリの場合には、しいて言えばエルガー的なものに近づいているように思われる。 ここでは意識して音の有機的な組織を構成し、流れを作りだそうとする、極めて意識的な バルビローリの姿勢がある。バルビローリの音楽は実に周到に用意された音楽なのである。
「愛情がこもった熱い演奏。共感に満ちた演奏。」特に「熱い」ということばには個人的には あまり納得しない。共感ということばもあまり良くわからない。何に対する共感? けれども、いわんとすることはわかるような気がする。バルビローリは演奏がルーチンワークに ならないこと、音符への愛情をもって演奏することを求めたようだ。愛情をもって演奏したら、 聴き手にそれが伝わるといった単純なものではないとは思うが、逆はわかってしまうだろうから、 恐らくその演奏に愛情や共感が感じられるのは一つにはその結果なのだろう。それとは少し違った位相の 話だが、バルビローリのフレージングには独特のクセがあるようで、「バルビローリ節」あるいは 「バルビ節」という言い方を良く見かける。旋律をどう歌わせるか、ごくわずかな間合いを 延ばしたり詰めたりすることに、バルビローリはもの凄くこだわったようだ。このことが、 その音楽に独特の緊張感をもたらしていて、それが「熱い」ということになるのかも知れない。
多分、それと関連することで、最近そうと気づいたことに、交響詩や劇音楽の演奏のうまさがある。 これはストーリーテリングの巧みさという感じに近い。私はシベリウスは(特に後期の)交響曲が あれば十分で、交響詩としてはタピオラだけ別格(第7交響曲が交響曲ならこの曲も実質的には 交響曲だと思う)で、他の曲はほとんど聴かないのであまり気にしていなかった。たまたま他の演奏を 聴いて疑問に思ったことがあって聴いてみるまで、気づかなかったといっても良い。 (だいたい前回はいつ聴いたのか覚えていない。)
一言で言って、音楽の流れが良く、わかりやすい。これは音楽に構成感がある、とかリズムに推進力が あるとかというのとは異なる。その自然さ故に目立たないがテンポの設定は実はユニークで、 ここでは寧ろ一気に音楽の流れを作り出す率直なまでの運びが際立って高い説得力を生み出している ようだ。呼ばれるところの「バルビローリ風」は、基本的なテンポ設計より、寧ろその揺れの方に ついて言われるのだろうが、場合によっては極端なテンポの変化も、結局のところは錯綜とした 脈絡を解きほぐし、音楽の巨視的な経過を明確にすることに貢献しているように思われる。 あと、いわゆる雰囲気の描出が抜きんでて生々しいと感じられる。 この生々しさを人間の「歌」と考えれば「熱く」「共感に満ちた」ということに なるのかも知れないが、必ずしもそれは人間的な感情や情緒そのものではなく、「歌」とは 限らないと思う。けれども、それは「人間の感じたもの」であることは確かで、だから 例えば風景の描出とはいっても、客観的な描写が行なわれるわけではないし、バルビローリの 音楽に人間を超越した何かが現れることはないように思える。
バルビローリにはオペラの録音がほとんどないらしい(実は「ある」ことを私は最近まで知らなかった) が、その1つである蝶々夫人を聴くと、オペラでも基本的な方向性は同じようにうかがえる。 私はオペラをほとんど全く聴かないため、オペラの演奏としてバルビローリの演奏がどうかは わからないが、オペラは(歌の伴奏にはなっていないという点で)多分にシンフォニックだし、 コンサートミュージックはオペラ的と言って良いかもしれない。(ちなみにこの演奏、非常に 良かった。オペラなんかつまんないよ、おまけに蝶々夫人なんか面白くないよ、と思っていたのが、 あっさり覆ってしまった。とはいっても別の曲なり演奏なりを聴く気になったわけではないが。)
シベリウス第6交響曲 ハレ管弦楽団(1970)
他の演奏と比較した時、第1楽章のゆっくりとしたテンポが印象的。 ゆっくりした流れの向こう側から立ち上ってくるものを感じる。
個人的に最もシベリウスらしいと思っている曲。音を秩序づける主観をほとんど感じさせない、 無人の音楽。シベリウスの沈黙は、音楽を構築してしまうこと、 音の「自然」に対する主観の暴力への抵抗ではなかったか? そんな自然がどこにあるかという問いは、例えばこの曲を聴くと空しく思える。 音楽が湧き出てくる少し手前に間違いなく存在しているように感じられるから。
それがアドルノが揶揄した「自然」とどのくらい異なるのかはよくわからない。アドルノの 拒絶は、少なくともシベリウスの音楽を民族主義的に捉える聴取の仕方に対するものでは なかったかと思えるが、一方で、そうした表層とは別の次元でもアドルノがシベリウスを 決して認めなかったのは当然のように思える。特に後期の交響曲に顕著になると思われる こうした音への姿勢は、アドルノが自分の規範としたものとはあまりに隔たり、異質だ。 そうした意味でアドルノの拒絶は決して恣意的ではなく、むしろ一貫している。
バルビローリの演奏は、勿論民族主義とは無縁だし、ここに集団的無意識を見出すことは できないように思える。徹底的に「個人的な」音楽。主観が何かに解消されることのない 音楽。
第4楽章はあっさり目。ベルクルンドの忘れがたい演奏とは対照的。むしろここではバルビローリ の方が無為で虚心ですらある。(シベリウスの音楽が主観的な心情の吐露になっているという点で ベルクルンドの演奏は特異だ。)しかし、そこには風景を眺める主観が在る。
音の秩序の外在性という点ではザンデルリンクの演奏が徹底していて、バルビローリの 演奏は、結局、主観の風景に対する反応の記述になっているように思われる。
シベリウス第7交響曲 ハレ管弦楽団(1966)
シベリウスの音楽の極限。シベリウスの音楽は語法が伝統的であるのに比べて、 音に対する態度は、間違いなくいわゆるクラシック音楽の極北にあると感じられる。 例えばウェーベルンにも似たところがあるが、シベリウスはウェーベルンが引き返した (のでなければ、そこを極限と見なして立ち止まった)地点を(恐らく気づかずに)超えて 先に進み、そして全く別の理由で沈黙してしまったようだ。それはある意味では、周縁的な 音楽の特権といっても良いのかもしれない。(例えば、武満の音楽にそれを感じる時がある。 もっとも武満の方向性は全く異なる。沈黙するのではなく、むしろ特定の誰かに対して歌いかける ことを選びとったように思える。)
バルビローリの演奏には作為がない。何かの秩序に音を整序しようとする意図が感じられない。 しかし、こうした印象は、自分で言うのもおかしいが自己撞着的ですらある。 何故ならば、旋律のうたわせ方にはクセがあるし、ある種の「見得」すらあると言っても良いほど で、なにより寧ろバルビローリの音楽は暖かみのあるものだから。その暖かみは、ある種の身体性 と言い換えてもよい。ただし、それは運動感覚ではなくて、もっと受動的なもの、身体の内側で 生じる反応の感覚に近いように思える。たとえて言えば、広がる風景は 確かに無人なのだが、その中でその風景に対する主体が透明になった挙げ句どこかに行ってしまう ということは、バルビローリの場合にはないのだ。しかし、にも関わらず、音を支配しようとする 主観をそこに感じることもまた、ないのだ。
もしかしたら、この両者が両立するところにバルビローリの音楽の秘密があるのかも知れない。 例えばエルガーを聴く時には同じ境位へと逆に辿っている感じがする。エルガーの場合、 風景のうちにふと立ち降りる瞬間が存在する。少し外へとはみ出すのだ。
バルビローリのシベリウスの風景には人はいない。けれども見つめる眼差しを聴き手である 私は感じ取ることができる。そして、風景は感受されるものであって、眼差しとともにしか ない、ということに気づくことになる。だから、バルビローリの演奏では、主観は決して 透明になって風景の彼方に消えていってしまうこともない。最後までそこにいて風景の 移ろいを感受しつくすのだ。
美しいと感じて風景の中に心を浸す主観の存在するのがバルビローリのシベリウスなのだ。
勿論、自己撞着などない。自分の心の動きに拘泥すること、心を表現することを止めて、 外の音に聴き入り、風景を眺める主観の心の動きがそこにあるというだけだ。
シベリウス第5交響曲 ハレ管弦楽団(1966)
第1楽章の前半部分の空気が忘れがたい。バルビローリの演奏は少しだけ湿度を感じる。
何回も、さまざまなレベルでの光と影の交替があるが、この演奏では、影の輪郭は少しぼやけている。 (例えばパーヴォ・ヤルヴィの陰影に富んだ演奏に比べた場合。)
けれども、その感覚の生々しさではバルビローリの演奏がもっとも強烈のように思える。 空気の「厚み」のようなものが変化し、視界が少し歪むような感覚や、光のちらつき加減などを 感じるのはバルビローリの演奏が強烈だと思う。普通に風景の中に立っている主体の身体感覚が 音になっているようだ。
そして第3楽章。あくまで視点は変わらない。いきなり見上げたり、俯瞰したりすることはなく、 地面に足をつけて立ったまま、地平線を眺めるような感じ。
第6交響曲、第7交響曲の世界がそこまで来ているのは、バルビローリの演奏とて 同じことだが、ことさら(今日ある種の演奏について言われもする)「宇宙的」な神秘感が 漂うのではなく、寧ろ主観が風景のなかで圧倒されて我を失いかかる、目眩のような経験に 似ている気がする。それはあくまで私的な経験であって、何か別のものに還元されたりはしない。 言ってみれば、主観が風景を感受する過程がバルビローリのシベリウスなのだ。あるいは、それは、 シベリウスが楽譜に封じ込めた風景をバルビローリが感受したその痕跡なのかもしれない。
シベリウス第4交響曲 ハレ管弦楽団(1969)
この曲はシベリウスの交響曲の中では捉えがたい、それゆえ様々な解釈を許す曲だと思える。
この曲のバルビローリの演奏を聴いたのは、カラヤンやベルクルンドより後で、最初はやや戸惑いを 覚えたのを憶えている。
この曲は、非常に主観的な内面の音楽としても演奏できるし (ベルクルンド)、その逆も可能だ。例えばケーゲルの演奏では、風景が主観の結んだ像に過ぎないこと、 その向こうには虚無しかないことを思い知らされるのだが、バルビローリの演奏はそのどちらでもない。
もっともそれは当然といえば当然で、他の曲と基本的な解釈が同じだということだ。
バルビローリの第4交響曲に関する捉えがたさ、それは、恐らく主観性の残滓がそこに在るためなのだ。 結局、風景というのは主観にとっての風景なのだ、ということ、そしてバルビローリの演奏はその レベルにとどまっていることが原因なのではないか。もっともこれはバルビローリの限界だとは私には 感じられない。むしろかけがえのない美質だと思われる。(当然、これがバルビローリの凡庸さだと 感じる人もいるだろう。また、バルビローリのシベリウス演奏は結局バルビローリであって シベリウスではない、という人が居てもおかしくはないと思う。)
この曲でも、この曲においてすら、刻々と変化する風景に対する主観の反応が直截に語られる。 この曲においてすら、主観と風景の関係は破綻を来すことはない。このことは、例えばバルビローリの マーラー演奏につながっていくように思われる。また、バルビローリの(特にマーラー演奏について) 言われるところのセンチメンタリスムも、つまるところこの関係の揺るぎ無さの現われだと考えられる。
けれども、この曲の第4楽章がこれほどの暖かみで演奏されるのを聴いて感動せずにいられるだろうか?
病の回復の兆し?春の兆しへの反応?これから癒されようとしている心のひそやかな動き、、、
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