2019年11月10日日曜日

ジェルジ・リゲティ

リゲティの音楽は、恰も時間性を放棄して別の次元を探求しているかのように見えるかも知れない。だがこの言い方は正確さを欠いているだろう。まずもって音楽が時間性そのものを放棄することはできない(瞬間の美学も、永遠の美学も時間性自体の放棄ではない)し、リゲティの音楽の時間性は、一言でいえば時間の結晶化、時間のオブジェ化とでも形容するのが適切だろうから。けれどもそれが、前の世代までの音楽と、時間性の探求において異なる方向を目指していて、従来の意味における時間性を放棄しているということは言いうるであろう。

歴史的にみて、調性を放棄することは垂直方向の和声における響きの放棄である以上に、カデンツがもたらす緊張と解決の原理の放棄であり、 主調領域の確保、属調領域への推移、主調から遠く離れて転調を繰り返し緊張感を高める展開、その末に主調に回帰する再現と いったソナタ形式やエピソードを挟んだ主要主題への繰り返しの回帰が主調への回帰でもあるロンド形式とそれらの複合としての ロンド=ソナタに示されるような調的遷移の遍歴の過程の放棄であった。12音が一度づつ鳴ったら終りになるという ヴェーベルンの耳が感じとった直観はその極限として正しかったが、それは音楽にとって本質的な次元の縮退をしかもたらさない。 圧縮が限界に達したとき、複雑さを目指そうとしても、音の継起する順序という規則のみからは巨視的な構造は産まれてこない。 結果として得られる筈の複雑さは豊かさからは隔たって、単なる混沌と区別がつかなくなってしまう。 その代わりにクセナキスのように巨視的な音群の分布を確率的に決定したところで、設計は音の具体的な細部には及ばない。選択される分布や 作曲者の直観的な恣意に任せられる細部に対する嗜好(それこそが創造性・独創性だというわけだ)の結果として得られる音響は、 多くの場合、音楽というよりは自然音のシミュレーションに似ている。

リゲティの音楽は、幾つかのパラメータを捨て、自分の自由になる次元を限定し、自ら課した制限の下での可能性を探求する禁欲的な 姿勢を貫いて、結果として豊かな成果に辿り着いたが、それはどちらかといえば抽象美術に似ている。 音楽である限り時間の次元はなくせないが、そこでの時間の流れは作品の中に閉じていてそれは時間を封じ込めたオブジェのようだ。 リゲティの言う「凍った時間」、「空間化された時間」というのは自己規定としては際立って正確で、圧倒的な説得力を持つ作品は、鋭利な批判的な知性の裏付けをもって創られたことを証言する。 そしてその中で共感覚に裏打ちされた色彩や肌理の連続的な変化が追求され、内側に向かっては大変に豊かな次元を獲得することにも成功する。

その結果として、まるで自由は作品の裡にしか残されていないかのように、時間は作品という閉じた空間の中に封じ込められる。 作品の内部は有機的で豊饒だが、たとえそこに動的な軌道が存在し、周到にもゆらぎさえ与えられ、カオティックな挙動が生じるように 構築されていたとしても、それはあくまでも作品の内部でのことでしかない。 その音楽は寧ろ聴き手を細部の微細な変化に集中するようにいざなう。 非常に長い周期で一致するようなリズムの重ね合わせ、単純な比で表せない複数のテンポ、複数の音律の重ね合わせ、 フラクタル的な自己相同性の導入は複雑で有機的な細部をもたらすが、巨視的にみた時間構造は静的なままだ。 そこには生成があり発展があり、階層分化さえあるかも知れないし、人間が演奏することによるゆらぎの発生は許容されても、 隅々まで決定され、作品として紛うことなく設計され、構築されたものなのだ。 そこでは時間は様々な出来事を内包しつつ、強い志向性を持つことなく、まるで自然を映し出したように緩慢で多元的だ。 複数の中心を持ち、更にそれが時間の経過に連れて変化していき、ある領域が広がったかと思えば別の領域が圧縮され、 ある道は延び、ある道は消滅して2つの領域が接合する、といったように可動的で時々刻々と姿を変えるネットワーク構造。 だがそれは巨視的な推移の構造を、目的論的な到達点を持たない。

時間性に替ってリゲティの関心の対象となるのは空間性だ。レヴィ=ストロースは自己の構造人類学の営みに引き寄せて、ワグナーのパルジファル第1幕の舞台転換の音楽においてグルネマンツが歌う「時間は空間となる」を参照したが、リゲティの音楽こそ「時間の空間化」を逆説的にも時間芸術である「音楽」において行ったものと言えるだろう。

リゲティがマーラーにおける空間性の導入に注目した指摘を行っているだけでなく、自作においても、その直接的な 影響を示す「ロンターノ」のみならず、空間性についての関心をずっと持ち続けたことは良く知られている。 雑音と楽音のあいだの音の探求もまた、リゲティの創作の既に初期において 明確だし、異なる音律の並存、異なるテンポの並存といった試みは晩年の作品において顕著であり、 しかもそれらはリゲティ独自の音楽的空間についての考え方の作品上でのリアライズなのである。 「擬似空間」、「時間流の空間化」といった用語から窺えるように、リゲティの作品では音楽作品を「想像上の空間」を 産み出すものと見做す傾向が強く、また「網状組織」や「複数の中心」といった用語から窺えるように、 多層的で複数のパーステクティブを備え、奥行きを持った空間を音響的に実現しようとする志向が見られる。 のみならず、リゲティは作品を静的なオブジェとして見做す傾向が強く、音楽の時間軸上の展開は、プロセスが 非常に緩慢にしか推移しない初期のミクロポリフォニー的な作品だけでなく、後期の作品においても目的をもった 発展というよりは、予め静的に定められた規則を時間軸上に広げて提示するという側面が強いようだ。

だがこうした空間性の重視は、寧ろそうした側面を引き出す20世紀の音楽の側の事情を物語っているとも 考えられる。調性が崩壊した挙句、機能和声を放棄することによって楽曲を構成する原理のうち、時間方向の 展開の最も基本的な手段が喪われることによって、20世紀の音楽は音楽を別の原理で支える必要性に 迫られる。音色の次元の拡張や空間性はそうした要求に応えるものであったと見做すことができるだろう。 だが、音楽が時間的な延長を持たざるを得ない以上、時間的な経過を扱う方法が必要とされることには 変わりがない。ロスラヴェッツの合成和音のシステムやスペクトル楽派は時間軸については何の解決も与えないし、クセナキス的な 篩のシステムによる音階の構成の一般化や集合論や群論による構造の規定もまた、いみじくもクセナキス自身がそう語るように、時間外構造をしか規定しない。12音技法は順序を原理として持つ点でいわゆる時間内構造を 規定しうるが、それは貧弱な順序構造以上の複雑な構造を組み立てることはできないゆえ、巨視的な 形式構造として、バロック時代や古典期由来の楽式を使い続けることによって支えるしかない。ここでは12音が一巡り鳴ったら それで終りというミニアチュア形式を導くヴェーベルンの直観の方が寧ろ理に適っているのだ。クセナキスは 確率によって音の継起の頻度や密度を確率的に制御しようとするが、微視的な構造については何も規定しない がゆえに具体的な細部は作曲者の直観によって選択・決定されるしかない。ミニマリスムの反復の手法や フラクタル幾何学の援用、無限列の利用やオートマトンの導入は力学系的な発想であるから時間方向の発展の 原理ではあるけれど、ゆらぎを与えたところで単一の法則での音の制御は単純な時間構造しかもたらさないし、 幾つかの法則を単に重ねたところで、先行する西欧音楽の歴史が築き上げた複雑で豊かな構造に比べたとき、 貧弱な結果しか齎さないように見える。制御するパラメータを演奏や聴取の限界まで、あるいは限界を超えて増やし、 細部をもはや聞き取れないほど複雑にしてみても、生物学的な進化の速度に従うほかない保守的な人間の 知覚様式は、そこに混沌と無秩序をしか見出さないという結果を招きかねない。

ミクロポリフォニーの知覚の限界に挑むようなゆっくりとした 推移もまた、想像上の空間に時間を変換したインスタレーションの趣きがある。リゲティにおけるフラクタル幾何学の時間構造への適用も、その着想は空間的であり、 時間方向の持続は、空間を描くために一巡りするために必要とされる時間に過ぎず、結局のところ、そこでは何も 新奇な出来事は起こらない。神学的な永遠性であれ、ガジェット的なオブジェであれ、静的で閉じた作品であるか、 プロセスを重視するかはあるが、いずれにしても音楽はどこかに向かうことを止めてしまい、聴き手をどこかに誘う 目的論的なベクトル性を喪ってしまっているように見える。音楽社会学のような領域では、そうした傾向を 20世紀の社会が持つ構造が定着されたものであると見做されるのであろうし、そこには目的論的な強制に対する プロテスト、管理された時間を逃れ、アナーキーで自由な時間を取り戻そうとするイデオロギー的な選択が 働いているのかも知れない。

リゲティの音楽はそういう意味で、アドルノがマーラーの音楽の時間的経過を「小説」に類比したのに対し、そうした「人間的」な時間性を生きた「人間」が最早解体される途上にあった20世紀の「人間の終焉」に如何にも相応しいものであったのかも知れない。リゲティが見出した空間は「人間」にとって自明で馴染み深い「生活世界」ではなかったようだ。リゲティの音楽が人口に膾炙したのは、その良し悪しは措いて、コンサートホールの中などではなく、本人に断りもなく利用されたらしいSF映画におけるサウンド・トラックとしての使用によってだったことを否定することはできまい。そしてその音楽がどのようなシーンで用いられ、何の「記号」として機能したかを確認すれば、そしてアドルノがマーラーの「大地の歌」の「大地」を宇宙飛行士が眺める地球であると言ったことを思い起こし、その延長線上に位置づけるならば、それは寧ろポスト・ヒューマンを予感した先駆として評価されるべきなのかも知れない。それはまさに最早人間的な時間性を超越した絶対的他者としての「宇宙」の響きを先取りしたと見做されたのではなかったか。他方で、音響的には前期の自己否定と受け止められる傾向さえあった後期作品は、新たな時間的持続の手段をようやくにして取り戻したかに見えるかも知れないが、その時間的持続の構成方法は、寧ろコンピュータによる自動作曲に相応しいものであり、ここでも再びリゲティはポスト・ヒューマンを予感し、来たるべき「AI芸術」を予見していたという見方さえ可能だろう。

一方でリゲティその人が歩んだ道程の方は、如何にも「人間」的なものに映る。斬新なアイデアを常に追求し、自己を変化させることを懼れないし、それが以前の自己の否定であることすら意に介さない一方で、彼はそのアイデアの実現についてプロフェッショナルな熟練した手作業を追求することにおいて妥協というものを知らなかったようだ。そうした彼は、自分がいつのまにかポスト・ヒューマンそのものと化しつつあったとしても立ち止まらなかったのではなかろうか。だがその姿勢こそ、逆説的にも量子コンピュータの創案者であるディヴィッド・ドイッチュの「無限の始まり」に相応しいものであり、まさにそれこそ優れて「人間」的なものに違いないのである。(2012.5初稿、2019.11.9加筆・公開)




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