音楽を生業とするわけでもなく、さりとて熱心なコンサート・ゴーアーでない人間にとって、実演に接する機会が限られることになるので、その限られた機会にどのような音楽に接することができたかについては、環境に由来する条件(作曲家を知っている、演奏家を知っているという場合を除けば、理由なく、一人で出かけることがほとんどないので、殆んどのばあいには、声をかけてくれた誰かの嗜好に合わせることになる)であったり、単純な偶然(その日にスケジュールの都合がつけられるか、体調が妨げになることはないか)に左右されることになる。録音・再生技術の発達と、録音された媒体のネットワークを介した流通の発達のお蔭で、作品に接する機会に実演が占める割合はそもそもが大幅に制限され、実演に接することはなくても、限られた機会に一度きり接した作品よりも遥かによく知っている作品が数限りなく存在する中で、実演に接したことの有無というのは、作品を理解する条件の中で極めて限定された部分を占めるしかないようにも見える。一般論としては確かにそうなのだが、逆にそうした条件の下で実演に接する機会に恵まれた作曲家が自分の中で特別の位置を占めてしまうという事態も時として起きることになる。
私の場合、シュニトケの作品の実演に接したのはこれまで2回きりではあるけれど、そしてまた、これは極めて例外的なことだが、そもそも最初にシュニトケの作品に接したのが実演を通じてだった。もう四半世紀以上も前になるが、1993年8月27日に友人に誘われて訪れたサントリー・ホールでのコンサートのプログラムに (Kein) Sommernachtstraum 「夏の夜の夢(ではない)」が含まれていたのだった。現代音楽を俯瞰・回顧するサマー・フェスティバルの企画の中の一つとして位置づけられていたらしい(タイトルは「20世紀の音楽IV ふたつの10+5年史(1931-45 1976-90)」、テーマ作曲家はケージだった)のだが、プログラムで一緒に演奏された他の2作品の印象も含め、結果として(その良し悪しは措いて)そうした周辺の文脈は剥がれ落ち、残ったのは名前だけは聞いていたけれど、初めて作品に接することになったシュニトケの音楽の印象のみだった。さりとてその後シュニトケの音楽を意識的に聴くようになったわけでもないのだが、いわゆる「多様式主義」の典型と言えるであろうこの作品の印象は(これはお聴きいただければわかると思うが)不思議に記憶の中に沈殿し忘れ難く刻み込まれ、シュニトケに対する私のイメージを決定する要因の一つとなる。
2回目もサントリー・ホールでのコンサート。こちらは2011年のサマー・フェスティバル、映画音楽のような映像とのコラボレーションを取り上げた企画の中の一つだったが、フルジャノフスキーの「グラス・ハーモニカ」のためにシュニトケが作曲した音楽が、ホールの舞台後方のスクリーンに再生される映像とともに演奏されたのだった(8月22日)。1回目のコンサートの時にはまだ存命であった筈のシュニトケは、この時点では既に没していたけれど、フルジャノフスキーの方は健在で、このフェスティバルに合わせるように夫婦で来日しており、このコンサートにも臨席したのだったが、これは大変に感動的なものとなり、演奏が終わった後、鳴りやまぬ拍手に呼び出されるように舞台に上がったフルジャノフスキーが感極まった表情でシュニトケのスコアを頭上に掲げて歓呼に応えていたのを鮮明に記憶しており、今でもなお、その時の感動を昨日のことのように思い出すことができる。映画音楽を含め、普段は映像とのコラボレーションのようなものにはほとんど関心のない私でさえ、この時の経験は得難く忘れ難いものとなった。そう、予めそうなるとは知らず、結果的に或る種の歴史的な出来事に立ち会ったという感覚すらあったのだ。私の率直な感覚を言えば、それに同時代に接することはできなかった(そもそも「グラス・ハーモニカ」は私が生まれて間もない1968年の作品だし、繰り返しになるが、このコンサートの時点ではシュニトケは既に没しているわけなので)けれど、遅ればせに、それを記念し、記憶する場には立ち会えた、というものであった。アニメーションとそれに付随する音楽はもともとが常に再生可能なものであり、一回性を欠いている(通常は「初演」と呼ばれる最初の一回目を欠いている)のだが、映像にいわゆる「生演奏」がつくという時代を遡及するような形態での、しかも製作者本人が立ち会っての、半世紀後に実現した「上演」によって、実演が「反復」されることによって記憶が形作られていく(初演は勿論重要だが、再演というのは初演とは質的に全く異なった固有で重要な意味を持っているのだ)ということを認識させられたように感じたのである。
シュニトケにはマーラーの初期の習作、ピアノ四重奏曲断片に基づく作品があるけれど、シュニトケであるかどうかより手前で、私はマーラーの作品の一部を引用したり、素材として利用する(リミックスであれ、映画音楽としての利用であれ)こと(加えて言えば、マーラー自身を映画の素材とすることも含めてだが)に対しては全く関心がないので、そういう意味合いで他のマーラー・ファンなら感じるであろう結びつきを意識することはなかった。勿論、シュニトケの場合には彼のある時期を特徴づける「多様式主義」がそうした引用や様式的な模倣といった「手法」を意識的に利用しているではないかと問い返すことが可能だし、マーラーの側では、では習作のピアノ四重奏断片ではなく未完成で遺された第10交響曲ではどうなのかといった問いは成立しうるだろう。(第10交響曲の補作の中には、補作者本人の言い分とは別に、私の主観では「補作」で許容される限度を逸脱しているように感じられるバージョンもあるわけだし。)
更に言えば、マーラーこそ件の「多様式主義」の先駆であるというような主張すら出て来かねないだろう。この最後の点については、私見では一応は両者は区別可能だし、区別されるべきものであるように思われるのだが、実はこの点は、私が最初に実演で接して以来、シュニトケに対して感じていた違和感のようなものに直接関わってもいるようだ。マーラーを比較対象として用いれば、マーラーが行った民謡や行進曲の模倣を始めとする様々な「卑俗」と言われもする音楽様式の取り込み、ファンファーレや鳥の鳴き声の素材としての利用、Es管のクラリネット、スコルダトゥーラのヴァイオリン、ポストホルンといった、所謂「芸術音楽」以外の他のジャンルとの結びつきを持つ楽器、更には鐘や鈴、カウベル、ハンマー、ルーテ、調律されていない金属の棒のような特殊な打楽器の利用はどうなのか、ということになるだろう。更には、例えば古典派の音楽が民謡を素材とするような場合、典型的には変奏曲の主題とするような場合とは異なって、それが伝統的な「交響曲」というジャンルにとって異質であるという意識をもって、つまり様式的に変換してから取り込むのではなく、様式ごと素材として持ちこむことによって或る種の「異化」を企図したとさえ見做されるのであるから、シュニトケの立場との区別は付け難い面があることは否定できないだろう。にも関わらず私には、両者には素材としての扱い方に感覚的にはっきりと区別できる違いがあるように感じられる。程度の問題といってしまえばそれまでなのだが、この点は、恐らくマーラーの音楽への適用が盛んな文学理論におけるナラトロジーの適用の是非の問題と密接に関わっているのではなかろうか?そうした素材の取り込みが、言語記号との類比を可能にするようなメタな操作であり、従ってそこには記号論的な概念、例えばコノテーションのような概念が適用可能なのだというようには、ことマーラーの場合には思えないのである。裏返せばシュニトケの場合には、そうした適用が可能な場合があるかもしれないと思う、ということになるだろう。
勿論これは、私がマーラーが生きた100年前のオーストリア=ハンガリー帝国に生きているわけではなく、そうした素材の元々の文脈の生々しさから疎外されているからという事情が関わっているに違いないし、一方のシュニトケの場合であれば、場所の隔たりはあれど、同じ時代の一部を共有し(大まかにはシュニトケの後半生30年間と私の前半生30年間が重なっているわけだから)、しかも文化的にはいわゆる「国際化」が遥か極東まで及んで均質化が進んだ時代ということもあり、その素材の持つ文脈の生々しさの度合いが遥かに強いことは否定できない。だが、例えばシュニトケの「レクイエム」の「クレド」におけるリズム・セクションの扱いが私のように(能楽や義太夫節を除けば)他のジャンルをほとんど聴かない人間にとって強烈な違和感をもたらすのは、そうした素材が、取り込まれた側の文脈の中でどのように用いられるかに拠っているように思われるのである。
つまりマーラーの場合とシュニトケの場合とを比べると、素材の機能の仕方の向きが異なるように思えるのだ。マーラーの場合それは世界を構築する素材であり、素材は取り込まれる前の文脈を交響曲の中に持ちこむことによって、世界の構成要素となり、新しい層を産み出す働きをしているのに対して、シュニトケの場合には、持ち込まれた素材は、予めある文脈と競合し、攪乱する働きをしているということになるだろうか。マーラーのポストホルンやファンファーレは、それが素材として既成のものであるとしても、マーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素であるのに対し、シュニトケにおける様式の混在は、基層の音楽の脈絡の中に、それとは異質のものとして、いわばメタレベルで「音楽というもの」として侵入するかのように感じられることすらある。同様にして、素材となった音楽は、その様式の由来となったもともとの脈絡では受ける筈のない加工や変形を、いわば外部から、同様にメタレベルの操作として受けることになる。映画音楽において音楽がモアレのように朧にかすんでしまったりフェードアウトしたりするのは、音楽自体の動力学によってではなく、音楽を「利用する」側のメタレベルでの要請に基づくものだが、そういう意味で、シュニトケの場合には音楽が恰もオブジェのように外から操作されてしまう(それが音楽的主体によっては受動的な経験であるかのように)といった印象がある。マーラーの場合にも第4交響曲における擬古典様式についての有名なアドルノの指摘があるが、これは、仮に様式模倣であることは認めたとしても「引用」ではないし、アドルノの「昔…があったとさ」という言い方は、強いて言えば聴き手たるアドルノの恣意的な読み取りに過ぎず、控え目に言ってもミスリィーディングであって、これは第1交響曲や「さすらう若者の歌」の民謡調であったり、より直接的には第3交響曲の中間楽章、更には当初は第3交響曲のフィナーレであった第4楽章のフィナーレの様式との脈絡で考えられるべきであろう。それがフェイクであるというのなら、マーラーの初期交響曲はその総体がフェイクであるということになりかねないし、実際にはフェイクに感じられた音楽は、それが展開するに従って、フェイクであるという最初の見かけの方がフェイクであることがわかるのではなかったか。かくしてこの最後の場合もまた、ポストホルンやファンファーレと同様にマーラーの音楽の脈絡そのものの構成要素に他ならず、それが文化的・社会的な「記号」として機能するというのは、マーラーその人の作曲とは一先ず無関係なことである。そのことは既に同時代にあって、マーラー自身がこの作品が「誤解」されることに酷く傷ついたことからも窺えるだろう。序でに言えば、してみるとそうした、聴き手の都合による「勝手読み」は、マーラーの同時代以来、常に付き纏ってきたものであり、マーラー・ルネサンス以降の時代固有の現象というわけではないようだ。
シュニトケにおいての方がマーラーよりも音楽が恰も記号であるかのように操作・編集される度合いが高いことは感じられるし、そこで音楽は、自分自身の内在的な論理によって展開するのではなく、外在的な要因によって編集される対象の如き様相を呈している。或いは同じことを逆向きに述べることになるのだが、主体の回想そのものが音楽化されるのではなく、主体の回想の中に流れる音楽が、回想の音楽化の裡に二次的に埋め込まれて響くかのようなのだ。かくして古典派の音楽が、定型的な韻文、或いは語り方自体も高度に様式化されている昔話や民話のような定型的なプロットを備えた叙述に構造的に類比できるとするならば、マーラーは、アドルノの言うように「意識の流れ」的な小説の叙述に構造的に類比できるのに対し、シュニトケは、実際に彼がそのための音楽をたくさん作曲した映画、ないしは映画をノベライズしたものに構造的に類比できるように思われる。
(そのことは、所謂「映画的」な手法ということになるのであろう、フェード・アウトの技法のような音響的処理に関する両者の立ち位置の違いとなって表れていると私には感じられる。「映画」以前に生きたマーラーの音楽におけるフェード・アウト(例えば、第3交響曲第1部の展開部末尾にいきなり舞台裏で、舞台のオーケストラのテンポとは全く別のテンポで突然鳴り出してはしばらくすると遠ざかるようにディミヌエンドしていく小太鼓、あるいはリゲティが指摘したことで有名な、第5交響曲第1楽章末尾の、トランペットからフルートに音色が変化することが、音源があたかも遠ざかって音が霞んでいくかのような効果を出している箇所が挙げられるだろう)は、敢えてそういう言い方をすれば「自然音」の様相の一種であり、実際にサウンドスケープとして、マーラーが演奏会場の外で経験した音の知覚に由来するのに対して、「映画」以降に生きたシュニトケの場合には、それは音楽に対して後から加えられたエフェクトであり、それは現実の音知覚の経験ではなく、「あたかもそうであるかのように」後から擬装されたもの、フェイクであり、音楽に対して「後から」加えられる「効果」なのだ。音楽が「本当に」近づいたり遠ざかったりすることはなく、そのためにわざわざコンサートホールの舞台裏や離れたところに楽器が置かれて、「生演奏」でそのシミュレーション=世界制作が行われることもない。寧ろ、全く別の文脈で、全く別の目的で為された、ラッヘンマンのAccantoにおいてスピーカーから聞こえてくるモーツァルトのクラリネット協奏曲のようなケースに繋がっていく側面を有するように思われるのである。仮にアドルノの言うことを認めて、マーラーの第4交響曲が「昔々、交響曲というものがあったとさ…」であるとしても、マーラーの音楽は紛れもなく「交響曲」そのものであり、例えば全く異なる歴史的・文化的伝統に連なる、地球の反対側に住む子供が一世紀後に、その歴史的文脈に対して無知なまま無媒介に接した時に、それは端的に「音楽」であり、「交響曲」であるのに対して、シュニトケの交響曲はそうではなく、何かかつてあったものの残骸、遠いこだまを聞いていることを意識せざるを得ないという点に端的に表れていると私には感じられる。マーラー自身は、新ウィーン楽派以降の意識でその音楽に接するアドルノのように自分の音楽を捉えていない。寧ろそうしたアドルノの態度はシュニトケのそれに通じているのだ。)
要するに、両者の間には音楽によって構築される世界のビジョンに対する認識の違いが横たわっているのではなかろうか?シュニトケも交響曲というジャンルの作品を残しているが、それらを聴くと、最早マーラーのような交響曲を書くことはできないという認識の下にあることがはっきりと読み取れる。シュニトケにとってより相応しいのは寧ろ協奏曲という形態ではなかったかと思えるし、実際に彼はかなりの数の様々な協奏曲を書いているが、それは名称だけからは同じに見えても、かつての新古典主義の作曲家達が量産したそれとは全く異なった音調と脈絡(のなさ)を備えている。いや、この点だけとれば、交響曲だってそうなのだが、コンチェルト・グロッソにせよ、ソロのコンチェルトにせよ、そうしたフォーマットが借り物であることが明らかである一方で、その内実自体もかつての文脈からそのまま借用するのではなく、いわば換骨奪胎することによって世界認識のあり方の例示たりえているように思えるのだ。
もう一つ見逃せない点は素材の扱いで、未だアコースティックの時代に生き、ようやくプレイヤーズ・ピアノ(ピアノ・ロール)には接しても、演奏の録音には関わることのなかった(従って、大指揮者マーラーの演奏記録は遺憾ながら一つとして残っていないのだが)マーラーとは異なって、シュニトケが録音・再生・編集テクノロジーの浸蝕を蒙っている点は直ちに見てとれるであろう。シュニトケの態度はこちらについても或る意味では誠実なものであったと言える。即ち、そうしたテクノロジーの侵入を恰もなかったかの如くの「昔ながらの」音楽を書くのではなく、素材の扱いの点で、はっきりと知覚がテクノロジーの影響を受けて変容していることを示すような手法を用いている。それが時としてその作品にいかがわしさやフェイクのような印象をもたらし、シニカルで時として絶望的な印象を与えることにもなる。正直に言えば、それ故にシュニトケの音楽を聴くことは決して楽ではなく、寧ろ抵抗感さえ覚えることも多いのだが、前段において述べた素材の機能の仕方の向きの件ともども、それが「現実」の反映であることは否定すべくもなく、テクノロジーの都合良い面のみを見て、後は恰も存在しないかの如くに過去の追憶に耽る態度に比べれば、仮にそれが時として顰蹙や反発を買うにしても、シュニトケの音楽の(アドルノ的な意味合いでの)批判的な意義は疑うべくもないものに思われる。マーラーの音楽と同様に、シュニトケの音楽も「意識の音楽」といって良いだろうが、その意識は、マーラーのそれに比べて、テクノロジーの侵入を受け、支配されていて、結果として知覚そのもののあり方が変容してしまっているのだが、音楽のそうした相貌は我々が今日まさにその中で生きている現実を映したものなのだから。
因みに上記の最後の点は、これまたアドルノがマーラーに関して述べた点に通じるのだが、そうはいっても両者の間に存在する断絶の方に対しても目を瞑るわけにはいかないだろう。そもそもシュニトケ本人がマーラーに関して強い共感を表明する一方で、相違点として『さすらう若者の歌』や『子供の魔法の角笛』のような民謡のような作品を書く能力の有無を挙げているくらいであって、これは正しくシュニトケが置かれた環境のマーラーとの違いに由来するものであろうし(言ってみれば、それが佯りのものであるかどうかは措いて、シュニトケにはマーラーにはあった「自然」が最早存在しないのだ)、何より象徴的なのはファウストに対する姿勢の違いであろう。シュニトケはマーラーとは異なって、ゲーテのファウストではなく(それを彼は「理想化された」と見做しているようだ)、伝説の描く魔術師としてのファウスト、悪魔に魂を売ったファウストに向かうのだが、それは彼自身も述べているように、世界に対する認識、人類史に対する展望の違いに根差しているのである。
だがしかし、それ故に逆説的にシュニトケは、マーラー的な精神のある側面の、彼の生きた時代における後継者であったということはできるだろう。例えばシュニトケ自身は高く評価しているらしいシルヴェストロフの交響曲はしばしば「マーラー的」と言われるようだが、私見ではそれは寧ろ、マーラーを受容する現代の消費者の態度との共通性を示唆するものでこそあれ、マーラー自身の志向との共通性を些かも意味していない。クレーメルだか誰だかが件の交響曲を「キエフに死す」と綽名したらしいが、さもありなん、それはヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』がマーラーを「利用する」姿勢との共通性はあっても、マーラーその人とその作品の志向とは凡そ懸け離れたものであろう(当時、マーラーを知る人々がどれだけ激しくヴィスコンティの挙措に対して反撥したかは既に忘却されてしまっているかのようだが…)。ハンス・マイヤーはマーラーのテキストの使い方を巡って彼を簒奪者であると批判したが、『ヴェニスに死す』におけるアダージェットの「読み替え」こそ、簒奪という形容に相応しいものに私には思われる。たとえそれが、第5交響曲自体が持っているかも知れない側面、クレンペラーがそれをもって作品の演奏を拒絶するような契機に通じるところがあるかも知れないにしてもなお、そうであると考える。
一方、シュニトケの方はと言えば、晩年に近付くに従って徐々に「多様式主義」の装いを脱ぎ捨てて行ったように見える。だが、そこで残ったものは、実は「多様式主義」の作品の中にも基調の響きとして流れていて、それゆえ外からやってくる素材に対して抵抗し、文脈の競合を起こし、或いは逆に素材に攪乱されるものではなかったか。シュニトケの音楽にほぼ一貫して流れている暗澹とした音調は、それが借り物の様式を身に纏うかどうかに関わらず、外部からの暴力によって時としてシニカルな、時として絶望的な、悲劇的なトーンを帯びる点でもマーラーと軌を一にするかに見える。マーラーがそうであるように、シュニトケも「世の成り行き」から身を引き離し、閉じ籠もることはしなかった(シュニトケが、シルヴェストロフについて「自分に投げつけられる「日々の石」を欠いている」と述べつつ、彼は「人間は石を投げつけられる必要がある」と述べていること、そしてシルヴェストロフの側はともかく、シュニトケ自身の側についてはそれが単なる言葉の上でのことではなかったことを思い起こそう)。ショスタコーヴィチのそれと比較されることの多いその後期様式についても、マーラーのそれとの比較は興味深い課題だろう。ショスタコーヴィチは無神論者であったようだが、シュニトケはそうではなかった。「クレド」を書けないからという理由で「ミサ曲」を断念したマーラーは、実はこの点では両者の中間に位置づけられるのではないか。
シュニトケが私にとって別格な作曲家である理由がもう一つある。それは二冊の対談集が日本語に翻訳されていて、そこに遺された言葉を介してシュニトケその人に触れることができる点である。(序でに言えば、そもそも残念ながら私はロシア語がほとんどわからないからロシア語の原典として手元にあるのは、マーラーとの関わりのある『カラマーゾフの兄弟』と『白痴』くらいであるにも関わらず、これも偶然からシュニトケの対談のロシア語の原典が二冊とも手元にあると言う点もまた、全く例外的である。聞くところによればシュニトケのロシア語は非常に構文が明晰でわかりやすいとのことで、これはヴォルガ・ドイツ人であるシュニトケにとってロシア語が「外国語」であったためではないかという印象を持つとの由。)私が親しんできたのは、イヴァシキンとの対話の方だが、その末尾には、これまたマーラーの言葉と響きあう、シュニトケ自身の以下のような言葉が収められている。
(…)
人が曲を書くとき、人は世界を作り出しているのである…
表現に値しない音楽の素材など一つもない…
生そのもの、我々を取り囲むすべてのものが、
かくも複雑な様相を呈しているので、
そのすべてを呼び出そうとするなら、
我々はより一層誠実になるだろう…
(…)
アレクサンドル・イヴァシキン編『シュニトケとの対話』(秋元里予・訳、春秋社、2002)p.329より
この言葉は、これまで述べてきたことにも通じるし、何よりもシュニトケが遺した音楽を実に的確に言い当てているように私には感じられる。このように言葉でもって自らの音楽について正確に述べることができるのは、それ自体稀有な事ではないかと思うが、それ以外にもこの対談には、例えばコンピュータについてであったり、創造性についてであったり、或いはまた聖なるものとの関わりについてであったりと、興味深い話題に対する言及がそこかしこにちりばめられており、更には時間に対する認識についての以下のような驚くべき証言も含まれているのである。
(…)
しかし実際には、これは直線ではありません。これは様々な空間からつかみ出された無数の点です。すると、果てしなく続く時間の森という感覚が生まれます。それぞれの時間の線が別々の線であり、それぞれの木が個々の成長の仕方をしています。過去に起こったことはそれぞれ違う木の上で起こったのですが、それらの木は今も生きています。我々は今日の現実の中でこれらの木を忘れてしまい、後からまた思い出した、というのはまた別の話です。これらの木は過去からずっと生き続けているのです。だからこそ、博物館の展示品としてではなく、生きているものとして、過去に起こった全てのことがこれらの木に関係しているのです。僕はこの理想の森に戻っているかのようです。森というのは、もちろん、粗っぽいたとえで、僕は、様々な種類の堆積に戻ってきているようです。
(…)アレクサンドル・イヴァシキン編『シュニトケとの対話』(秋元里予・訳、春秋社、2002)p.50より
これは一度聴いたら忘れられない、大変に美しい描像であるだけでなく、どことなくライプニッツ=マッハ主義的な相対説の力学が展開される場としてバーバーが提唱した「プラトニア」(これについては内井惣七『空間の謎・時間の謎』第IV章を参照のこと。ちなみに内井さんは「プラトニア」という命名は不適切であり、不可識別者同一原理が厳密に成立して、どの点=「木」も必ず違うものを表しており、同じものを表す二つの点=二本の「木」が存在しない相対的配置空間の性質から「ライプニッツィアーナ」と呼ぶのが適切であると述べているが、このことはシュニトケの上記の描像に見事に符合する)さえ連想させて大変に興味深い。こうした彼の認識が、彼が遺した作品とどのように関わるのかについては、また稿を改めて論じる必要があるだろうが、この無時間的でありながら相対説が厳密に成り立つ抽象空間のイメージが特に彼の後期様式と深いところで関わっていることには疑いを容れる余地はないだろうし、ことによったら、上でも述べた信仰の問題もひっくるめて時間論の問題に翻訳する手掛かりがここにあるのかも知れないという予想を、後日のために書き留めて置くことにしたい。
生が重複している30年間にその存在を知ることはできても出会うことは叶わず、同時代者として応答することが私にはできなかったにせよ、果てしなく続く時間の森のどこかで、幾つかの偶然からこのようにして、遅れて出会うことのできた存在に対して、遅ればせながら応答を試みることは私に課せられた責務であるように感じられるのである。(2019.11.2-4初稿・公開, 11.16加筆修正)
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