2024年5月15日水曜日

オイゲン・ヨッフムのブルックナー(2):録音を聴いた感想

  ヨッフムは実演を聴いて感銘を受けた数少ない指揮者の一人。聴いた演奏ではないが、同じ来日公演の同一曲の演奏記録のCDがリリースされたので聴くことができる。ひと頃はコンサートに行かなかったわけではないが、出不精もあって、圧倒的な印象を受けた実演に接したことは非常に少ない。かつまた音楽の聴き方はやはり変わっていくもので、嗜好も当然変化する。そうした中で、演奏の記録を聴き返すたびに、なお感動を新たにする演奏家で、かつ素晴らしい実演に接することができたという点で、ヨッフムは私にとっては例外的な演奏家である。

私のブルックナーの聴き始めは実際上はヨッフムの1回目の全集の一部の廉価盤レコードで、最初が第9、そして第5、第2と聴いていった。こちらも最近、廉価盤のCDで全集がリリースされたが、改めて聴きかえしてみて感じたのは、一部の例外的な解釈を除けば、他の演奏を聴く必要がなさそうだ、ということだ。勿論、ヨッフム自身の2度目の全集も含め、他にも優れた演奏はあるだろうと思う。細部の解釈をとれば別のやり方も考えられるだろうし、逆にヨッフムの演奏がすこぶる個性的なこともあるだろうが、それでもなおかつ、この全集で私には充分に思えるのだ。このような素晴らしい演奏でブルックナーを聴き始められたのは何と幸運なことだったかとしみじみと思う。 この一度目の全集は、ベルリン・フィルと「ヨッフムのオケ」であったバイエルン放送交響楽団の2つのオーケストラを使っているが、いずれもオーケストラの特質が良く出た演奏になっており、甲乙つけがたい。とりわけバイエルン放送響の響きは、「ヨッフムの響き」そのものといいたくなるような輝きと手応えに満ちていて、どちらかというとローカル色の強い担当曲の性格も相俟って、他の演奏では味わえない雰囲気に満ちたものになっている。(第2,3,5,6番それぞれの緩徐楽章から感じ取れる「気配」の濃密さは他に類を見ないと思う。)

その一方で、ベルリン・フィルとの演奏はよりニュートラルではあるが、その代わりに徹底してロマンティックな解釈が聴ける。音色が暗くて硬質な分、森厳とした気に満ち、激しいといっても良い緊張感に貫かれた演奏だ。第9交響曲は特に第1楽章コーダなど、神話的といっていいような雰囲気を湛えているし、特に近年、後年のヨッフム自身の演奏により忘れ去られた感すらある第8、第7も素晴らしい。より遅いテンポが選択される後年の演奏とここで聴かれる解釈との間に基本的な違いはないように思われる。今日、ヨッフムの演奏のテンポの変化、フレージングなどについて動かしすぎという批判があるようだが、それはヨッフム個人の様式という以上に、もっと根の深いものであることが、これらの演奏によって窺える。要するに外から取ってつけた解釈というのはここには存在しないのではなかろうか。少なくとも私にはその解釈の背後に揺るぎの無い実感があることを感じる。生活感というと語弊があるかも知れないが、観想的で内面に閉じ込められた瞑想の音楽には決してならない現実の手応えのようなものが感じられる。第8交響曲のあのアダージョですら、現実への通路がはっきりと感じ取れる演奏だと思う。第7,8,9番のそれぞれの緩徐楽章の終結部分は、ヨッフムの場合、超越的なものの息吹により常とは異なった気配に満ちてはいても、あの慣れ親しんだいつもの風景の中で響いているように思われるのだ。

なお、マーラーの「大地の歌」の演奏も忘れがたい。「大地の歌」も同様に、 ヨッフム・ヘフリガー・メリマン・コンセルトヘボウの演奏の廉価版レコードが聴き始めだった。年を経てそうした演奏を改めて聴くと、こちらの聴き方の変化のせいか、かつての印象との懸隔に愕然となる場合が多いのだが、この演奏も、上記のブルックナーとともに、数少ない例外となっている。この曲は非常にやっかいな曲で、その後色々と聴いた演奏のほとんどに納得ができず、わずかにザンデルリンクとジュリーニが例外だが、このヨッフムの演奏もまた、依然として納得の行くものであり続けている。(もっとも前二者とヨッフムの演奏では納得の理由は全く異なるが。)

ヨッフムのブルックナーの特徴を私なりに書けば、これくらいブルックナーの音楽が「普通に」鳴り響くことはないように思える点に尽きる。ここでいう「普通」というのは、日常的で、普段見慣れた風景、聴き慣れた音と違和感無く共存できるというような意味だ。抽象的になったり、あるいはそうでなくても、非日常的な啓示のようなものであろうとしたりすることなく、そこには普通に生活している人間がいるように感じられるのだ。とても身近で、自分がそこに立っている空気の感じや土の香りがする音楽だと思う。(これは個人的な話だが、私はヨッフムのブルックナーを聴くと、西岸海洋性気候のヨーロッパ、しかも中世以来の教会を中心とした、丘陵地に広がる町の空気や風景を思い出す。その感触の蘇りかたは、他のどんな演奏にもまして強烈で、ほとんど例外的といってよい。そして、こうした感覚からまさにヨッフムの演奏を代表する演奏記録だと思われるのが、「地元の」バイエルン放送交響楽団が演奏する、第2交響曲や第6交響曲のような「親密な」曲の演奏だ。特に緩徐楽章のある部分の響きに触発される連想は、あまりに鮮明で目眩を覚えることすらある。)

ブルックナーに対するその態度は、知的な解釈や歴史主義的な回顧とは無縁だし、一方でニュートラルな音響としての洗練とも異なる無媒介で直接的なもの、ごく身近な自分の環境としての生活世界に属するものとしての接し方ではなかろうか。そして、そうした意味合いでヨッフムのブルックナーは他のどんな演奏にも増して、宗教的だと私には思われる。勿論それが故に、ある人にとっては欠けているものもあるだろうが、私にとってはヨッフムのようなあり方はある種かけがえのないものだ。

もう一つ、そうした事情と多分関係があるのだが、ヨッフムの演奏では、一つ一つの音が生気を帯びているように思える。歌に満ちているというのではなく、もっと微視的に有機的な響きを備えているのだ。表情が死んでしまうような弱音も、バランスを欠いた無機的なブラスの咆哮も、ヨッフムの演奏には皆無だ。ピチカートも、トレモロも表情に満ちているし、木管楽器も響きが美しいというよりはその表情の豊かさが印象的だ。その響きにはあえて言えば官能的と言えるほどしっかりとした手ごたえがある。 ヨッフムの演奏のスタイルは、水も漏らさぬ完璧な響きを目指す完全主義とは無縁だが、こうした実質的な響きは、ちょっと聞いただけでは何でもない、うっかりすると平凡と取り違えるかもしれないようでいて、実際にはなかなか実現できないものだと思う。

そして、例えばバルビローリがそうであったように、こうした響きはもはや過去のものかも知れないという気もする。ザンデルリンクでは周縁的で個人的な様式として残っていたもの、けれどもチェリビダッケではもう意識的に構成しなくてはならなかったものが、ここでは何と自然に息づいていることか。ジュリーニやシュタインでは洗練と引き換えにもう変容がはじまってしまっていて、その後は歴史的なパースペクティブに収まってしまったかのようだ。そう考えると、ヨッフムの最晩年の到達点を聴くことができたのは幸運だったのだろうと思う。バルビローリとともにエルガーのエポックが終わったように、 ヨッフムとともにブルックナーのエポックが終わったのだ、と言ったら言い過ぎだろうか。私はそれをエポックと呼んで、普通なら使われる「伝統」という言葉をあえて使わない。なぜならそれは引き継がれるよりは、断絶するもの、不連続なものに思えるからだ。随分と誇張した言い方になるのを承知で言えば、自分が音楽史上のいわば「知識」として知っている音楽上の「ロマン主義」というのが、実体として自分の目前にあって、その終焉に立ち会ったのでは、という気すらする。勿論、聴いたその時にはそういうことには思い至らなかったのだが。

そしてまた、ヨッフムが1963年のコンセルトヘボウ管弦楽団(このオーケストラは良く知られているように、マーラー演奏の伝統という点では、作曲者直伝といって良い)を指揮した「大地の歌」の演奏が持っている、説明し難く、しかしはっきりと感じ取れるある種の質も、そうした「ロマン主義」そのものの息吹に他ならないのかも知れない。こちらもまた、最初に偶然レコードを手にして聴いた時に思い至る筈の無いことではあるが。

思えばヨッフムは1902年生まれで、第2次世界大戦前にすでに有望な若手として活躍していた指揮者なのだ。私は(年齢的に、バルビローリは止むを得ないとしても)、例えばチェリビダッケもジュリーニもザンデルリンクも実演を聴くことはなかったが、 ヨッフムを聴くことでもっと直接的に過去の時代を聴くことができたのではなかろうかと思うのだ。(2003.10.11初稿。2003.10.17,2004.1.25,2004.12.30,2005.1.10改稿, 2024.5.15過去の記事を復元して再公開)

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