2026年6月27日土曜日

アラン・ペッテションの生涯と作品

 はじめに


グスタフ・アラン・ペッテション(Gustaf Allan Pettersson, 1911年9月19日–1980年6月20日)は、20世紀後半のスウェーデンを代表する作曲家であり、しばしば「20世紀最後の偉大な交響曲作家」「北欧のマーラー」と評される。彼が遺した16曲の完成された交響曲(および未完の第1番・第17番)は、貧困・暴力・病苦・孤独という彼自身の過酷な生涯と分かちがたく結びついた、絶望と救済、暴力と祈りの激烈な対立として構成されている。
本レポートは。複数の伝記的資料(新聞記事、専門家による評伝、スウェーデン人名辞典の公式記事)と、調性力学の統計分析という独自の観点からペッテション音楽を再検討した分析レポート2篇を統合したものに、ドイツの音楽学者ミヒャエル・クーベ(Michael Kube)による本格的な評伝『Allan Pettersson』(スウェーデン語版、Atlantis社「スウェーデンの作曲家たち」シリーズ、2014年、イェーラン・ベルゲンダール訳)を生涯・各交響曲の生成史・受容史の記述にあたっての基本資料とした。クーベの評伝は、ペッテション自身が生涯にわたって意識的・無意識的に構築してきた「自己像」を史料批判的に検証し、新発見の書簡・日記・新聞記事・録音資料に基づいて、これまでの通俗的な伝記とは一線を画す精度で彼の生涯を再構成している。
本レポートで用いた情報源は以下の通りである。
  • ディ・ヴェルト紙関連記事「魔女の大釜の中のラザロ」(ノルトライン=ヴェストファーレン州ペッテション・マラソンに関するルポルタージュ)
  • スディップ・ボーズ「アラン・ペテルソンって一体何者?」(2017年8月24日)
  • 「アラン・ペッテション(1911–1980)の生涯と作品」(解説記事)/「アラン・ペッテションの生涯と作品に関する調査レポート」
  • Svenskt biografiskt lexikon(スウェーデン人名辞典)公式記事 “G Allan Pettersson”(Leif Aare 執筆)
  • Michael Kube, Allan Pettersson(Svenska Tonsättare 叢書, Atlantis, 2014年;スウェーデン語訳 Göran Bergendal)── 本篇における中心資料
  • Jürgen Lange による交響曲第6番・第8番・第9番・第10番の楽曲分析論文(CDブックレット等の解説資料)
  • 山崎与次兵衛「調性空間におけるペッテションの位置——『損傷した主体』の力学的検討」(note、2026年4月12日)
  • 山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理——交響曲的主体はいかにして『生存可能な音響環境』を構築するか」(note、2026年4月13日)

第1部 生涯──ミヒャエル・クーベの評伝による再構成


1-1 幼年期:結核、スラム、そして鉄格子の窓


ペッテションは1911年9月19日、ストックホルム県ウップランド地方、ストックホルム中心部から北西約30キロのヴェストラ・リード教区で生まれた。実は一家がこの地に一時的に身を寄せていたのは、長兄ハリー(1904–1994)が7歳のときに結核を発病したためであった。当時の通念に従い、新鮮な空気・日光・滋養のある食事によって療養させようとしたのである(これは当時、富裕層がスイスのサナトリウムで行っていた療養法と同じ発想であった)。肺結核は、不衛生な住環境・通気の悪い裏庭・建材の防湿不足・不十分な衛生設備のために、20世紀初頭の都市スラムに広く蔓延していた。
ハリーが快復すると、一家はためらわずにセーデルマルムの慣れた環境へ戻り、スコーネ通り87A番地の手狭な半地下住居に移った。ペッテション自身が1972年10月付の自筆の身の上書(未発表、ウプサラ大学図書館所蔵)でこの住居を回想している。
「あの[部屋]は湿気がひどく(壁紙が剥がれていた)、寒く[ママ]、中庭の地面より低く、窓には鉄格子がはまっていた。[…]母はとても清潔好きだったが、ネズミ、シラミ、ノミは適者生存の法則に従って何ものにも屈しなかった。[…]この住居が私の運命となった――関節リウマチの種は、ここで私と妹(両親のどちらも患っていなかった)に植え付けられた。いわば『社会的な原罪』である[…]保健委員会はこの住居に幾度も改善命令を出したが、それでも幼少期から青年期までずっとここが私の家だった」
4人兄弟姉妹――グンヒルド(1902–1948)、ハリー(1904–1994)、ヘルゲ(1906–1984)、そして末子のアラン――が育ったこの家庭の人間関係は極度に緊張していた。父カール・ヴィクトル・ペッテション(1875–1952)は鍛冶屋で、酒に逃避した。母、仕立て屋のイーダ・パウリーナ(1876–1960)は、エルサ・ボルグが1870年代に創設した「聖書の女たち」という福音派の社会奉仕運動に身を投じていた。こうした社会的状況は、セーデルマルムの工場・小規模工業・酒場・映画館が密集する地区における労働者階級の孤立を象徴するものであり、アウグスト・ストリンドベリの小説『赤い部屋』(1879年)やペール・アンデルス・フォーゲルストレムの『ストックホルム物語』連作(1960–1968年)に描かれた世界とも通じる。
それにもかかわらず、ペッテションは外部からの助けや移住によらず、自らの音楽活動によってこの環境から一歩一歩抜け出していった。彼自身の回想によれば、幼少期の音楽体験は次のようなものであった。
「私の最初の大学は、スコーネ通りの裏庭だった。ゴミ箱のそばが、よく見えるという理由で格好の演壇になっていた。男に手を引かれてやってきた盲目の女性が澄んだ声で『さまよう森の中で』を歌い、ヴァイオリンを持った内気なユダヤ人の少年がトッセリの『セレナータ』を演奏して気高いヴァイオリン芸術を体現する一方、手回しオルガンとあらゆる楽器を手足に取り付けたイタリア人の小男は、日常の単調さを破ってはいたが、その俗悪さまでは破れなかった――こうしたあらゆる種類の旅芸人たちのゴミ箱前での演奏が、下層社会の人々が音楽と接する唯一の機会だった」
母は美しい声の持ち主だったとされ、早くから4人の子供全員に楽器を習わせた。グンヒルドはツィター(家庭音楽の典型的な楽器)、ヘルゲは労働者階級に愛されたマンドリン、ハリーはヴァイオリンを弾き、ハリーは弟のために初心者用の楽器を自作し、最初の音と楽譜の読み方を教えた。1920年代初頭、10歳ごろのアランは、クリスマスカードを売って得た金で正式な専門化への第一歩を踏み出す。
「クリスマスカードを売った。イェルントルゲットのゴットフリード・ヨハンソンの店に行った。弓と箱付きのヴァイオリンを10クローナで買った」
19歳になるまで、彼は近所のパブやダンスホールで腕を磨いた。学校(フォルクスコーラ)を終えた後も家計を助けず練習に没頭する彼の姿は、周囲から「重大な不忠実」とみなされた。

1-2 音楽院時代:二重の疎外と『労働者音楽家』からの脱却


1930年、19歳で王立音楽院(ムシークコンセルヴァトリエット)の入学試験に合格する。当時の音楽院は、依然として裕福なブルジョワジーや上流階級の子弟が中心の教育機関であり、労働者階級出身の彼はここでも疎外感を味わった。最初はユリウス・ルートストレム(1877–1944、ベルリンでヨーゼフ・ヨアヒムに師事した「スウェーデン最高のヴァイオリン名手」)のクラスでヴァイオリンを学んだが、9学期後の1934年末、ルートストレムの17人の生徒の中で最低の成績を受け、師弟関係は決定的に破綻した。
「私の不幸な家庭、アカデミーでのルートストレムの傲慢さ、そして今度はこの、品よく振る舞おうとした私の試みの嘲笑――それらが私の中の反逆者を呼び起こした」
音楽院事務局長スヴェン・キェルストレム(1875–1950)の進言で、ペッテションはヴィオラへ転向する。これは規律処分というより、彼の本質的な独奏者気質・個人主義をヴィオラの方がよく受け止められると見込まれたためであった。新しい教師アクセル・ルンクヴィスト(1880–1947、アンリ・マルトーの弟子)のもとで、ペッテションは「初めて完全に自分自身でいられた」と回想している。1936年には学生弦楽四重奏団でカール・バルケル(フレッシュの弟子)に師事し、ドビュッシー、ボロディン、ベートーヴェン、シューマンの主要なヴィオラ独奏箇所を学んだ。同年、ヒルディング・ローセンベリの劇音楽『偉大な神ブラウン』(ユージン・オニール作)の初演(1936年4月27日、ヴァーサ劇場)にヴィオラ奏者として参加している。
1938年、ペッテションは名誉あるジェニー・リンド奨学金(5,000クローナ、当時としては破格の額)を獲得し、同時にストックホルム・コンサート協会管弦楽団のヴィオラ奏者の座にも合格した(採用決定1939年2月18日、競争率は5名の候補者中1名)。1939年2月、彼はパリへ留学し、オペラ国立劇場の首席ヴィオラ奏者モーリス・ヴュー(1884–1951)に師事する。
「親愛なる教授殿。パリでどうしているか少しお伝えします。ヴューは最高の先生で、彼のもとであらゆることを学べます。[…]レッスンはとても前向きで、力づけられ、励まされるもので、困難はただ克服されるためにあるのだという気持ちと確信を持って帰ることができます。とても良い人で、ユーモアに富んでいます」(1939年6月5日、キェルストレム宛)

 

1-3 戦争、帰国、そしてオーケストラでの確執


1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発する。ペッテションは政治情勢にほとんど関心を払っていなかったため、この展開に大いに驚かされた。スウェーデン総領事の勧告でいったんコペンハーゲンを経て帰国するが、状況が落ち着いたかに見えると、再びパリへ向かう。最終的にドイツ軍がパリに進駐した1940年6月14日まで滞在し、その後ようやく他の3人のスウェーデン人と共にフランスを脱出した。
1940年9月16日、ストックホルム・コンサート協会管弦楽団での最初のリハーサルの日、座席の慣例を知らなかったペッテションは、自分が後任だと考えていたゴスタ・ビョルク(前任者、急逝)の席(第2プルト)に着こうとした。すでにその席に座っていた代理奏者との間で口論が起こり、結局ペッテションは最後尾のプルトに配置されることになった。この出来事は長年彼を苦しめ続けた。オーケストラ内では孤立し、客演指揮者ウィレム・メンゲルベルクからは「ソロ的」な演奏スタイルを叱責された。
孤立し防衛的になった彼は、リハーサル後は一人でチェスを指して過ごし、これを「勝つことも負けることもできる、有益な経験」と語っている。1948年2月24日(記録に残る具体的な日)、指揮者トール・マンとのリハーサル中、長年くすぶっていた席順の問題が再燃し、ペッテションは舞台から退場しかけたが、マンに「契約違反になる」と制止され、休憩までの1時間だけ第1プルトで演奏した後、長期の病気休暇に入った。この「スキャンダル」はオーケストラの週次記録にも残っている。
「パリ留学から帰ってコンサート協会に入った時、自分が雇った才能に多少の責任感を持つ人々と関わるのだと思っていた。だが実際には、工場の一つの番号として入ったようなものだった」
1943年(結婚した年)、ペッテションは理学療法士グドルン・グスタフソン(1921–)と結婚した。グドルンは後に美容師に転身し、ストックホルムに2つの美容サロンを開業、これが夫婦の経済的安定に大きく寄与した。同年、24曲からなる連作歌曲集《裸足の歌》の第1作が生まれる。

1-4 パリ留学(1951–52年)と「自分の作品を自分で判断できる」境地


1950年、ペッテションは1950/51シーズンの完全な休職許可を得て(さらに翌シーズンへの延長も認められ)、最終的にオーケストラを去った。1951年9月、彼は再びパリへ赴き、エコール・ノルマル・ド・ミュジークでアルテュール・オネゲルの作曲クラスに登録、加えてオリヴィエ・メシアンの講座も聴講した(こちらは「対話」ではなく具体的な答えを求めていたため間もなく離脱)。1952年初頭からはダリウス・ミヨーのクラスにも登録するが、決定的だったのはルネ・レイボヴィッツ(1913–1972)への個人指導の依頼であった。
「ストラヴィンスキーで言葉に書ける。[弦楽オーケストラのための協奏曲を]オネゲルに判断してもらいたいという憧れについては(これはレイボヴィッツの指導が触発したものだが)、こう思うようになった:自分の作品を自分で判断できるようにならなければならない! しかしオネゲルやミヨーはそこまで助けてはくれない。彼らはその能力を自分たちの特権として保持している。彼らは私を途方に暮れさせるだけで、それ以上は何もしてくれない。レイボヴィッツのような指導のもとでの集中的な知的自己活動だけが、そこへ導いてくれる」(1952年1月26日付、メモ帳より)
レイボヴィッツのもとでの学習は、十二音技法そのものの教条的受容ではなく、「全体を見る視点」と「自己批判的な評価能力」をペッテションに与えた。彼は1952年2月のフランス語論文「Dissonance douleur(不協和音という痛み)」の中で、自らの美学を次のように記している。
「作曲家になるとは、長く苦しい年月をかけて、ナイチンゲールの永遠に変わらぬ旋律からシェーンベルクの永遠に変化する旋律まで、作曲についてのすべてを身につけ、そのうえでそのすべてを忘れ、自分自身の始原へ立ち戻り、そこで自らの無意識、無垢――多くの師たちが汚してしまったもの――を探し求めることである」
同じ論文で語られる有名な「馬」のエピソードもこの時期のものである。
「ある日、人々が私の手紙に『作曲家』と書き始め、私自身もそのように感じ始めた時、私はピアノの蓋を閉め、新たに得た『作曲家』という称号を腫れ物のように焼き捨て、野原へ出て、出会った――馬に。ただの普通の馬だ。私たちは立ち止まり、互いを見た。彼は私の眼鏡の奥を、私は彼の大きな茶色の賢い目を見た。私は自分自身の鏡像を見たのではなく、永遠に問いかける一つの動物の魂を見た――人間について問いかける魂を」
レイボヴィッツの授業は1952年9月4日、共にカフェへ行くことで終わった。後年(1972年、シグヴァルド・ハマールとの対話で)、ペッテションはこの時期を振り返ってこう語っている。
「レイボヴィッツのもとでの時間は鍛錬だった[…]。神よ、私はどれほど働き、苦労したことか。だが最終的には彼の理論をすべて理解した。そうして初めて、私はそれに背を向け、捨てることができた。私は他人と同じようにはできない。それでは足を滑らせる。自分の思うように書かなければならない」

 

1-5 無名の作曲家時代と病魔の進行


1952年、パリから帰国したペッテションは、二度とオーケストラに戻らなかった。彼はレイボヴィッツに作曲中の交響曲(後の交響曲第2番)の存在を伝えていたが、実際には誰にも一音も見せず、すべてストックホルムで独力で完成させた。
「レイボヴィッツのために書かれた交響曲は一曲もなかった。それは自分自身のために書いたものであり、彼はそれを一音も見ても聞いてもいない。[…]私が作曲することは、他の誰にも関わりのないことだ。神よ、私をお守りください。アラン・ペッテション、1955年10月」
1950年代半ば、慢性関節リウマチが発症する。彼はこの病を「幼少期の不衛生な住環境がもたらした呪い」として捉え、一種の社会的スティグマとして深く内面化した。1956年と1957年に作曲した弦楽オーケストラのための協奏曲第2番・第3番では、編成を意図的に縮小し(管楽器を排除)、「より明瞭な光を得るため」と語っている。1957年には、自身が2年間音沙汰のなかったコンサート協会の審査を公然と批判する記事をスヴェンスカ・ダーグブラーデット紙に書かせ、楽団側を困らせるという出来事も起きている。
1960年、放送オーケストラ奨学金の受賞演説で、ペッテションは皮肉とも本気ともつかぬ調子でこう述べた。
「私がこの賞をいただくのは全くの間違いです。私はただ自分のために唸っている音楽的な頑固者にすぎません」(1960年12月、受賞演説)

 

1-6 1968年の転機──交響曲第7番の成功


1968年10月13日、交響曲第7番がストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団、アンタル・ドラティ指揮により初演された。「青少年のための音楽」シリーズの一環として行われたこの演奏会は熱狂的な成功を収め、スウェーデン音楽史における画期的な日となった。フォルケ・ヘーネルはダーゲンス・ニューヘテル紙にこう記した。
「これはそう頻繁にあることではないが、日曜の夜、私たちはある偉大なスウェーデンの作曲家が、偉大なスウェーデンの作曲家として紹介され、演奏され、そして受け入れられるという出来事に立ち会うことができた」
続く録音はベストセラーとなり、1969年のドイツ・ツアーでも同様の熱狂を博した。これによってペッテションは一夜にして国際的名声を獲得する。当時、作曲家自身は皮肉を込めてこう語っていた――「もう顔面を殴られることがなくなったことに感謝しながら歩いている男だ」。
この演奏会はペッテションが生涯で最後に直接出席した公開の場となった(その後は概してインコグニトで臨んだ)。健康状態の悪化に加え、こうした成功は二度と繰り返せないという認識も働いていたとクーベは指摘する。実際、続く交響曲第8番の初演(1972年、コンサートホール改修中の代替施設での演奏)は控えめな評価にとどまり、3年半後の1975年12月、セルジュ・コミッショーナ&ヨーテボリ交響楽団による客演の方がはるかに高く評価された。

1-7 1975年の演奏禁止事件──正確な経緯


1975年、新たに就任したフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーをめぐる事件が起こった。事の経緯は、これまで広く流布していた単純な図式(「指揮者がペッテションを嫌い拒否した」)よりもはるかに複雑であった。クーベの調査によれば、楽団のプログラム委員会は1975年のアメリカ公演ツアーの演目として、当初ボルツ、ブロムダール、ラーソンの3作品に加え、ペッテションの交響曲第7番も検討していた。しかし、ツアーが過密日程であることを理由に「長すぎる、重すぎる、演奏が難しすぎる」として委員会・楽団・ロジェストヴェンスキー自身の三者が一致して見送りを決定した。
この決定が報道されると、オーボエ首席奏者ペール・オーロフ・イルブラドが「ロジェストヴェンスキーはペッテションを好まないようだ」とダーゲンス・ニューヘテル紙で発言し、続く論説で「楽団がアメリカツアー中にペッテションを演奏する予定はない」と報じられた。これに対しペッテションは1975年6月7日、同紙に公開書簡を発表し、フィルハーモニー管弦楽団による自作品の演奏を全面的に禁止すると宣言した。
「私はここに、コンサート協会管弦楽団(ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団)が私の作品を演奏することを禁止する。[…]楽譜資料は私の所有物であり、その提供を禁止する。[…]私は生まれながらの苦力の息子として、苦力として死ぬことになるだろう」(1975年6月7日、ダーゲンス・ニューヘテル紙)
この禁止令は、政治的権力者が「危険」とみなす作品・著作者を黙らせる目的で発令される措置(第三帝国やスターリン体制下のソ連での事例が念頭にある)とは異なる、20世紀になって芸術家の自律性や経済的・法的権利が確立されて初めて可能になった、文化政策上前例のない手段であった。論争は30以上の記事・声明・論評を呼んだが、その中心はロジェストヴェンスキー個人の人物像と振る舞いに移っていった。ロジェストヴェンスキー自身は1975年10月28日、ダーゲンス・ニューヘテル紙で次のように説明している。
「ペッテションの交響的創作と同じ感情を自分が持てると主張することは、私にとって不誠実なことになる。そのため私は、これらの作品は少なくとも当面、この音楽とより良い関係を持つ別の指揮者によって指揮されるのが、すべての観点から最善だと考える」(1975年10月28日、ダーゲンス・ニューヘテル紙)
ツアー第3回演奏会の後、ロジェストヴェンスキーは脳卒中で入院し、残りの演奏会は助手や客演指揮者(セルジュ・コミッショーナら)が代行した。演奏禁止令そのものは、楽団側の歩み寄りと新コンサートホール責任者ベングト・オロフ・エングストレムによる楽団員代表ヘルゲ・アルムクヴィストとの対話を経て、1976年6月29日に解除された。

1-8 最後の10年──病床での作曲と晩年


1970年9月、ペッテションは関節リウマチの治療薬の副作用による生命に関わる腎不全のため、カロリンスカ病院に9か月入院した。交響曲第10番と第11番の大部分はこの入院生活の中で作曲された。1974年1月13日、アフトンブラーデット紙に「第10交響曲への余白の記録」として、入院中の日記の断片が公開された。
「1971年2月12日。私が今生きているこの死のトンネルの中には、誰も、神も、生きているものは何もない。ただ私だけが、容赦なく独りである」
「1971年5月23日。私が生きているこの病院の世界で、私は自分の中に不思議な力を感じる。私はベッドに座って、この最後の駅の世界とは何の関係もない音楽を書いている――自分自身の生を持つ音楽だ。周囲の状況は、私の人生でいつもそうであったように、私を自分自身の中へ、根源へと突き進ませる。自分の中の何かがその統一性を保ち、破壊されずにいるということが、私を驚異の前にいるかのような感動で満たす」
1978年秋、ようやくストックホルム市から、彼の必要に応える住居(地上階、リッダーフィヤルデン湾を望む明るい仕事部屋)がバストゥ通り30番地に提供された。この引っ越しは、ペーテル・ベルグレンによるドキュメンタリー映画『人間の声(Vox humana)』に記録されている。
1979年5月から8月、交響曲第16番(アルトサクソフォン助奏付き、当初は「アルトサクソフォンと管弦楽のための協奏曲」として作曲され、出版社の勧めで「交響曲」に改題)を完成。続いてヴィオラ協奏曲の作曲に着手するが、これは未完のまま残された。さらに、後に「交響曲第17番」と通称される、わずか207小節・30ページの断片も発見されている。
1980年6月20日、ストックホルムのマリア・マグダレーナ教区にて、急性の胃腸疾患のため死去。享年68。7月2日、サンスボルグ教会墓地の礼拝堂で葬儀が行われ、ラーシュ・オーケ・ルンドベリが弔辞を述べた。
「あなたは《花よ、言ってくれ》の中で、自分の問いへの答えを見つけましたか? 私はそう信じます」(ルンドベリの弔辞、1980年7月2日)
遺骸は8月12日、ホーガリッド納骨堂に納められた。


第2部 音楽様式


2-1 交響曲という人生


ペッテションにとって交響曲は抽象的な音楽形式ではなく、人生そのものの表出であった。彼自身の言葉として最も頻繁に引用されるのは、レイフ・アーレ宛の書簡(後に公表を意図していたとされる)に記された一節である。
「私が取り組んでいる作品は私自身の人生である――祝福され、呪われたもの。魂がかつて歌っていた歌を再び見出すこと。それは、自分自身については何も信じていなかった小さな人々の間に生まれた――虐げられた者、白人、黒人、彼らにとって人生はただ死に至る呪われた義務でしかなかった。それでもなお、彼らは他者への共感に満たされ得た。憧れの力が彼らを信仰で満たし、そこで歌が噴き出した――内的な、訴えかけるような歌が……世界が彼らに黙れと言うまで」

2-2 一楽章形式と『メタモルフォーゼ』技法


ペッテションの成熟期の交響曲は、多くが切れ目のない単一楽章として書かれている。しかし実際には、その内部に序章、発展部、緩徐部、終結部が巨大なアーチとして統合されている。極めて限定された主題・動機を出発点としながら、高度な変容技法(メタモルフォーゼ)によって有機的に巨大な変化を生み出していく点に、彼の作曲技法の特徴がある。クーベはこれを「多楽章性が単一楽章性の中に統合される」モデルと呼び、フランツ・リストの《ロ短調ピアノソナタ》(1854年)やシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番(1904/05年)、室内交響曲第1番(1906年)に先例を見出している。

2-3 不協和音と歌──核心的なドラマツルギー


彼の音楽の最大の特徴は、「暴力的な不協和音の海から突然現れる歌」である。1952年の論文「Dissonance douleur」でペッテション自身がこの過程を詳細に語っている。
「私が育った環境で、私は人々の痛みを吸収した。彼らは貧しく、病み、衰え――そして何より、屈服させられていた。[…]作曲の最中、その痛みは不協和音という、あらかじめ用意された型の中に物質化した。[…]不協和音は連想によって私を深みへと運んだ(おそらく多くの泥も一緒に表面へ持ち上げられたのだろう)。私が単純な三和音に触れたとき――それは常に短調だったが――理性を超えた平和を予感した。だがそこに到達してもそれは無形に感じられ、私は実体を与えることができなかった。作曲上の理屈から言えば、それは対比や休息としては不十分だった、いかに協和音であっても。痛みは休息を見出せず、ただ静められるだけだった――かつての、私が知っていた屈服させられた人々のように」

2-4 《裸足の歌》という源泉


1943年から1945年にかけて作曲された24曲からなる歌曲集《裸足の歌(Barfotasånger)》は、ペッテション自身の作詩によるもので、彼の全創作の源泉である。実際にはこれは当初から統一されたサイクルとして構想されたものではなかった可能性が高く、1974年(!)のLP録音・楽譜出版に際して初めて確定的な姿を取った。1949年にはまずSouthern Music ABに18曲が持ち込まれたが、「弊社の制作にはふさわしくない」として返送されている。1952年1月29日、エステルスンドのスタジオからのラジオ放送(テノール、トルステン・ヒシング)が最初の公の場での演奏であった。
作品の核心は社会の周縁に生きる人々への共感である。「彼は私の灯火を消すだろう(Han skall släcka min lykta)」(第24曲)は死のヴィジョンを歌い、交響曲第6番の終結部(約20分間)で繰り返される。「主は草原を歩まれる(Herren går på ängen)」(第14曲)はヴァイオリン協奏曲第2番全体を貫く核となる旋律として用いられている。クーベは、この歌曲集と《裸足の歌》という出版時の総称が「社会から排除された人々」の象徴として機能していると同時に、ニルス・フェルリンの詩集『裸足の子供たち(Barfotabarn)』(1933年)との関連も指摘する。


第3部 主要作品(クーベの評伝による生成史と受容史)


3-1 《24の裸足の歌》(Barfotasånger, 1943–45年)


ペッテション芸術の原点。歌詞も作曲者自身による。「言葉と音楽が鳥のように同時にやってきた。常にポケットに鉛筆と五線紙を入れておく必要があった」と語っている。出版までの遅延と複数回の出版社からの拒絶を経て、1974年にようやく完全版録音(マルゴット・ロディーン、エリック・セーデーン、アルノルド・エストマン)が実現し、広く知られるようになった。アンタル・ドラティは8曲を選んでオーケストラ伴奏版に編曲し、グスタフ・マーラーの《亡き子をしのぶ歌》に近い性格を与えている。

3-2 交響曲第2番(1952–53年)


パリでの研鑽の直接的な成果であり、レイボヴィッツに見せることなく完全に独力で書き上げられた。1954年5月9日、トール・マン指揮、放送オーケストラにより初演。エンガ・レルキー(ダーゲンス・ニューヘテル紙)は「傑作とは言えないかもしれないが、非常に興味深く、時に魅惑的でさえある」と評し、イングヴェ・フリクトは「真の交響的意志、目的を持った穏やかな高まり」を認めた。

3-3 交響曲第3番(1954–55年)/交響曲第4番(1958–59年)


第3番の初演(1956年11月19日、ヨーテボリ)に先立ち、ペッテションは異例の長文の技術的解説をプログラムノートとして提出したが、これが「聴き手にとってはほとんど無益」と批判され、以後彼はこうした分析的解説を一切やめてしまう。第3番の楽譜は、コンサート協会のプログラム委員会に提出後2年間音沙汰がなく、ペッテションがこれを新聞で公にして楽団を困らせる事態となった(1957年9月8日、スヴェンスカ・ダーグブラーデット紙)。第4番は単一楽章ながらより緩やかな構成を持ち、後の交響曲群への重要な架橋となった。

3-4 弦楽オーケストラのための協奏曲第2番・第3番(1956年・1956–57年)


両曲とも管楽器を排した縮小編成で書かれ、ペッテション自身「より明瞭な光を得るため」と説明している。第3番の第2楽章「メスト(Mesto/悲しく)」(約25分)は独立して演奏されることが多く、ペッテション自身の言葉によれば「最終的に救世軍の兵士が歌うような歌、一つの告白であり証言にたどり着く」。この楽章により1968年、ストラ・クリスト・ヨンソン賞(3万クローナ)を受賞している。

3-5 交響曲第5番(1960–62年)/交響曲第6番(1963–66年)


第5番は単一の核心動機(d-e-dis-cis-e の音列)から全曲を構築する手法を確立し、1963年11月8日に初演された。続く第6番は構想に4年を要し(ペッテションの作品中最長の生成期間)、関節リウマチの最初の深刻な発症と重なる。約20分に及ぶ終結部で《裸足の歌》第24曲「彼は私の灯火を消すだろう」が全面的に引用される、スウェーデン音楽史において類例のない交響的終結を成している。

3-6 交響曲第7番(1966–67年作、1968年初演)


ペッテションの名を一挙に世界へ知らしめた代表作。1968年10月13日、アンタル・ドラティ指揮、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団による初演は熱狂的成功を収めた。これがペッテションが個人として最後に出席したコンサートとなった。1969年のグラミー賞(スウェーデン版、「創造的功績に対する審査員賞」)を受賞し、1969年のドイツツアーでも高く評価された。

3-7 交響曲第8番(1968–69年)/交響曲第9番(1970年)


第8番は1972年2月23日、改修中のコンサートホールの代替会場で初演されたが、評価は控えめだった。3年半後の1975年12月3日、コミッショーナ&ヨーテボリ響による客演でようやく真価が認められた。第9番(約65–70分)は1971年2月18日、ヨーテボリ市制350年記念として、セルジュ・コミッショーナ&ヨーテボリ交響楽団により初演。この作曲・浄書時期に生命の危機に関わる腎臓疾患を発症しており、自筆譜には「1970年7月1日、ストックホルム」という完成日付が(ペッテションの交響曲群において唯一例外的に)明記されている。終結部はリチュルジカルな「アーメン」の引用で閉じられ、ゲーテ『ファウスト』第2部終幕の隠者の場面との関連が指摘されている。

3-8 交響曲第10番・第11番(1972年・1973年)


カロリンスカ病院での9か月間(1970–71年)の入院生活の中で構想・作曲された。第10番はわずか26分という凝縮された規模で書かれ、冒頭の音型をペッテションは「ファンファーレ」と呼ばれることを拒み、「ファンファーレなどと言わず、幻影(ファントム)と言ってくれ」と語っている。第11番はベルゲンの「Harmonien」楽団の委嘱だが、約束されていた助成金が結局支給されなかったにもかかわらず、ペッテションは「あなた方の大きな親切こそが十分な報酬だ」と楽団へ書き送り、作品を提供した。

3-9 交響曲第12番《広場の死者たち》(De döda på torget, 1973–74年)/カンタータ《ヴォックス・フマーナ》(1974年)


ウプサラ大学創立500周年(1977年)のための委嘱作。当初は中世の聖ビルギッタを主題とする提案があったが、ペッテションはこれを無視し、チリの詩人パブロ・ネルーダの『大いなる歌(Canto general)』から9篇を選んで作曲した。1973年9月11日のクーデターによるアジェンデ政権崩壊、ネルーダ自身の死去(その12日後)という偶然により、この個人的なテキスト選択は一夜にして政治的声明としての性格を帯びることになった。ウプサラ大学側は急遽、より無難な祝典カンタータを別の作曲家(インマル・ミルヴェーデン)に依頼している。続くカンタータ《ヴォックス・フマーナ》は中南米の詩人たちの詩によるもので、ペッテション自身「私の関心はこの作品において政治的なものではない」と序文に記している。

3-10 交響曲第13番(1976年)/第14番・第15番(1978年)


第13番は約67分、2,046小節に及び、わずか半年(1976年3月–8月)で完成された。第14番・第15番は《裸足の歌》第2曲「気難しい者と握り拳」の旋律を素材に用いるなど、十二音技法の手法(逆行・反行・拡大)を統合的に用いる、より構造的に凝縮された書法へと向かっている。いずれもペッテションの死後に初演された。

3-11 ヴァイオリン協奏曲第2番(1977年)


世界的ヴァイオリニスト、イダ・ヘンデルのために作曲。当初ペッテションは独奏者をオーケストラの中に完全に溶け込ませ、聴覚的に「消去」する構想を持っていたとみられ、未公開の草稿には「これは実質的にはヴァイオリンと管弦楽のための交響曲である」と記されている。当初はソ連の指導者レオニード・ブレジネフへの「小さな人間の闘い」という政治的な含意も語っていたが、最終的にはより普遍的な人間存在の主題へと収斂させた。《裸足の歌》第14曲「主は草原を歩まれる」が全曲を貫く核となる。1980年1月25日、イダ・ヘンデル独奏、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮で初演。

3-12 交響曲第16番(1979年)/未完のヴィオラ協奏曲(1979–80年)


アメリカのサクソフォン奏者フレデリック・ヘムケの依頼により作曲。ヘムケは1971年、義母がストックホルムで購入したレコード(交響曲第7番)に感銘を受けてペッテションに直接依頼の手紙を書き、8年後の1979年秋、予告なく楽譜が郵送されてきたという。当初の表題は「アルトサクソフォンと管弦楽のための協奏曲」であったが、出版社の勧めで「交響曲」に改められた。ヴィオラ協奏曲は誰の依嘱でもなく、ペッテション自身がかつて演奏した楽器への個人的な思いから着手されたと考えられているが、未完成のまま遺された。妻グドルンは長らくこの楽譜の公開を控え、国際的な初演の機会(最終的に1985年、ベルリンのペーター・ルジツカとの接触)を求めていた。


第3-A部 個別交響曲のさらに詳しい分析──ユルゲン・ランゲの研究より


ドイツの研究者ユルゲン・ランゲ(Jürgen Lange)は、交響曲第6番、第8番、第9番、第10番について、楽譜に基づく詳細な動機分析・引用研究を行っている。これらの分析は、伝記的・印象的な理解に対して、各交響曲の内部構造そのものに即した音楽学的根拠を与えるものであり、以下にその要点を整理する。

3-A-1 交響曲第6番──「生のサイクル」


ランゲは交響曲第6番を「夜明けから夕焼けへ、春の新芽から秋の紅葉へ、揺り籠から墓場へという、生のサイクルを描いた作品」と位置づける。冒頭は低弦による静かな持続的な動きで開始され、シューベルトの《未完成交響曲》冒頭を思わせる神秘的な始まりを示す。開始から約4分後、「自我(Ich)」が初めてその声を上げる――ランゲはこれを「エゴ動機」または「誕生動機」と呼び、この動機は交響曲第8番第2部の冒頭主題にも引用されているとする。
曲の終結部(約20分に及ぶ)は《裸足の歌》の最後の曲「彼は私の灯火を消すだろう」の主題に支配される。ランゲは、この終結をショスタコーヴィチの交響曲第15番が示す「満ち足りて舞台から退場する人間」という姿勢と類比し、マーラーの交響曲第9番が「答えより多くの疑問を投げかけ、聴き手を当惑させたまま終わる」のとは対照的な、「自己の内に完結した、意志の強い人間の作品」として特徴づけている。

3-A-2 交響曲第8番──モーツァルトとニールセンの綜合


ランゲの分析によれば、交響曲第8番の素材の大部分は、モーツァルトの交響曲第41番《ジュピター》とカール・ニールセンの交響曲第5番から派生している。第I部は中世からバロック、古典派、そして20世紀へと至る、対位法的・和声的作曲様式の年代順の連結であり、ランゲはこれを「起源から衰退に至る音楽史」を描く「物語的・有機体論的な言説」と呼ぶ。冒頭の長大なカントゥス(定旋律)は、モーツァルトが《ジュピター》終楽章で用いたグレゴリオ聖歌起源の定旋律と類似した構造を持つ一方、独自の教会調を組み合わせて作られている。
第II部は、モーツァルト《ジュピター》終楽章の「5主題フガート」の構成技法に着想を得た「ソナタ形式によるポリフォニー」として書かれている。ランゲはこの交響曲全体を「作曲家のマニフェスト(宣言書)」と総括している。

3-A-3 交響曲第9番──スメタナ《わが祖国》との比較


ランゲの最も野心的な分析の一つが、交響曲第9番とベドジフ・スメタナの交響詩《モルダウ(ヴルタヴァ)》との比較である。両曲はともに「川の流れ」を音楽的に描写しているという仮説のもとに、ランゲは旋律・リズム・調性構造の多数の対応点を指摘する。両曲とも単一楽章の連続した音楽の流れとして書かれ、「源流」「急流」「広い流れ」「河口」という共通の構造的段階を持つ。ペッテションは民謡《アック・ヴェルムランド》の旋律(スメタナも《モルダウ》で引用している)を、自作の終結部主題として用いている。
終結部のカデンツについても詳細な分析がなされている。スメタナの《モルダウ》は完全終止(ロ長調からホ長調へ)で閉じるのに対し、交響曲第9番は変ロ長調からヘ長調への変終止(プラガル・ケーデンス)で閉じる。ランゲはこれを「アーメン」終止として解釈する一方、変終止が持つ「弱い closure」「緊張の減少」という音楽理論的性格を踏まえ、「河口」のイメージ――半ば開かれた、力を抜いた、強制されない終わり――との対応を指摘している。

3-A-4 交響曲第10番──「モダン・タイムズ」と入院体験


交響曲第10番は、ペッテションの作品中でも極めて切り詰められた素材から構成される。ランゲは、この交響曲が「信号(シグナル)」または「ベクトル」と呼べる、方向と大きさを持つ短い音楽的単位の反復・凝縮によって構築されていると分析する。中間部では、層流(laminar flow)から乱流(turbulent flow)への遷移、すなわち臨界流速を超えた際に生じる音楽的「乱流と混沌」が生じる。
ランゲはこの交響曲に強い自伝的要素を見出している。曲中盤の「カエスーラ(中間休止部)」は夢のような幻想の段階であり、それまでの素材が振り返られる。続く濃密なコーダは、その夢から強制的に覚醒させられ、抑圧的で技術中心的な現実へ帰還する場面として解釈される。ペッテション自身はこの作品を「顔面への一撃」と表現し、「私のすべての交響曲には共感があるが、第10番にはない」と語ったという。

出典:Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphonie Nr. 6” (2014); “Allan Pettersson: Symphony No. 8” (2017); “Allan Pettersson: Symphony No. 9” (2016); “Allan Pettersson: Symphony No. 10” (2017)。各分析資料(CDブックレット等の解説論文)を基にレポート作成者が要約・整理した。


第4部 音楽史的位置づけと後世の評価


4-1 比較されるべき作曲家たち、そして独自性


ペッテションはしばしばグスタフ・マーラー、アントン・ブルックナー、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、カール・ニールセン、ジャン・シベリウスとの比較で語られる。しかし研究者たちは、これらのいずれの作曲家との比較も、ペッテションの独自性を十分には捉えきれないと指摘している。スウェーデンの交響的伝統(フランツ・ベルワルド、ヴィルヘルム・ステンハンマル、ヒルディング・ローゼンベリ)との接続も希薄である。クーベはむしろ、ラッセ・ルシドール、グスタフ・フローディン、ニルス・フェルリン、劇作家ストリンドベリといった、スウェーデンの文学・詩の系譜に近いと結論づけている。

4-2 死後の周縁化と再評価


1980年の死の直後、フィルハーモニー管弦楽団のレパートリーから事実上消えるという長い空白期間があった。例外はユーリ・アロノヴィチが首席指揮者を務めた1982–87年の時期のみであった。その後10年間で交響曲第7番がプログラムに乗ったのはわずか4回(1994年ニクラス・ヴィレーン、1995年・2011年レイフ・セーゲルスタム、2003年マルク・スーストロ)にとどまる。
転機となったのは、1985年にヴッパータールで設立された「国際アラン・ペッテション協会」である。この協会の働きかけと、cpo社による全集録音(1992–2006年)が、ノルトライン=ヴェストファーレン州の1994/95年シーズンにおける27都市・63回のペッテション・マラソンを準備した。しかし、これも長期的な定着には至らず、その後も会場でのプログラム掲載は低調なままである。スウェーデン国内のアラン・ペッテション協会は2003年9月、セーデルマルムのソフィア教会で正式に設立された。
今日、ペッテションの音楽は聴衆に強烈な不快感や衝撃を与えつつも、現代に生きる人々の魂の叫びとして、コアな愛好家層から圧倒的な支持を受け続けている。クリスチャン・リンドベリ&ノルチェピング交響楽団による交響曲全集(BIS、2018年完結予定)など、個々の音楽家の使命感に支えられた継続的な紹介活動が、現在もこの作曲家の音楽を後世に伝える主たる動力となっている。


第5部 調性力学からの再検討──主成分分析による分析的アプローチ


ペッテションの音楽様式を定量的に再検討する試みとして、著者は、2篇の分析レポートを公開した。両レポートは、楽曲中の和声を「五度圏(Circle of Fifths)」上のピッチクラス集合の重心として数値化し、主成分分析(PCA)によってその時系列的変化と他の交響曲作曲家との相対的位置を可視化するという、データ分析的アプローチを採用している。以下にその概要を示す。

5-1 分析手法の概要


両レポートに共通する基礎的な手法は、楽譜の小節頭の和音をサンプリングし、ピッチクラス数3以上の和音について、12のピッチクラスを五度圏順に単位円上へ等間隔(30度ずつ)に配置した上で、その重心位置を算出するというものである。これにより、以下のような指標が導かれる。
  • Avg_r(平均重心半径):調性的安定度。
  • Avg_Step(平均ステップ幅):転調の歩幅。
  • SD_r(重心半径の標準偏差):重心の揺らぎの大きさ。
  • Step_Rate_100(100小節あたりステップ量):和声的活動量。
  • PC_Density(ピッチクラス密度):和声の複雑さ。
  • Tonal_Focus(調的集中度):全軌跡の平均座標の原点からの距離。
  • Spatial_Dispersion(空間分散度):五度圏上での活動領域の広さ。
  • Harmonic_Coverage(和音被覆率):テクスチュアの厚み。
  • Texture_Volatility(テクスチュア揺らぎ):テクスチャの流動性。
使用されたMIDIデータは、ペッテション作品については「7e(YouTube)/6d(Twitter、現X)」氏が作成したものであり、マーラー作品については加藤隆太郎氏作成のMIDI版マーラー交響曲全集(ただし第10交響曲クック版は別の海外で作成・公開されているデータ)が用いられた。

5-2 交響曲史全体における位置づけ──「損傷した主体」の力学的検討


第1報告「調性空間におけるペッテションの位置──『損傷した主体』の力学的検討」では、古典派、ブラームス、ブルックナー後期、シベリウス後期、マーラー、ショスタコーヴィチという既存の比較枠組みに、ペッテションの交響曲11作品(第6~16番)を同一の指標空間へ投入し、主成分分析を再実行することで、交響曲史全体における彼の相対的位置を検討している。

(1)PC1軸:調性重心の崩壊
分析結果において最も顕著なのは、ペッテションがPC1軸(調性重心の保持/拡散を表す軸)の負方向に極端に偏在する点である。ペッテション全体の重心はPC1 = −2.495であり、これはハイドン(+3.40)、モーツァルト(+3.90)はもとより、マーラー(+0.82)、ブルックナー(+1.33)、ショスタコーヴィチ(+0.51)をも大きく超えて負方向に位置する。
特に第10番(PC1 = −4.693)と第11番(PC1 = −4.824、全分析対象中の最負極値)が際立った負の極を形成し、第12番(−4.021)がこれに次ぐ。一方、初期にあたる第6~8番はPC1 = −0.703~+0.204とほぼ中央に位置しており、第9番を境に一挙に−4前後へ落ち込むという落差の大きさが確認される。レポートはこれを、「調性重心の維持が単に弱まるのではなく、第9交響曲を臨界点として構造的な変容が生じている」と解釈している。

(2)PC2軸:超越なき持続
PC2軸(運動の方向性を表す軸)においても特徴的な分布が見られる。ショスタコーヴィチの重心はPC2 = +2.82(全分析対象中の最大値)、ブルックナーは+1.10、シベリウスは−1.32という対比を示す。これに対し、ペッテションは時期によって大きく異なる二段階の分布を示す。初期(第6~9番)はPC2が正方向に位置し(第9番ではPC2 = +1.28、初期の最大値)、ショスタコーヴィチやブルックナーの領域に近接するが、第10番以降は一転して負方向に収束し(第10番 −1.89、第11番 −1.91)、後期全体の平均は−0.84にとどまる。
レポートは、この「中負域への収束」を次のように整理している。ペッテション後期の音楽は、ショスタコーヴィチが示す強い正方向(到達志向)にも達せず、シベリウスが示す明確な負方向(自然化・収束)にも対応しない、中負域に拘束されたまま持続する運動として特徴づけられる。

(3)理論的接続
レポートはさらに、この調性力学上の構造を、自由エネルギー原理(FEP)、ダマシオの自己モデル(原自己・中核自己・自伝的自己)、ジュリアン・ジェインズの二分心理論という3つの理論枠組みとの構造的類比において検討している。これらの理論を直接的に同定するものではないとの留保のもとで、レポートは交響曲史を「安定(古典派)」「内在化(ブラームス)」「超越(ブルックナー)」「収束(シベリウス)」「臨界(マーラー)」「非収束的持続(ペッテション)」という複数の位相の分岐として理解する枠組みを提示する。
この観点からペッテションは、いずれの安定化戦略にも回収されない状態――中心を持たず、志向性を失い、それにもかかわらず持続するという構造――を示す存在として位置づけられる。レポートはこれを「主体崩壊後の時間の持続を初めて体系的に音楽化した作曲家」と総括している。

5-3 時系列的変化と自由エネルギー原理──「生存可能な音響環境」の構築


第2報告「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理」では、対象を中期以降の交響曲第6~16番に絞り、創作年代順の変化を主成分分析によって追跡している。
この分析におけるPC1は「広い音高空間における拡散的運動」と「圧縮された空間における高密度・高運動・高被覆の持続」を両極とする軸として、PC2は「高密度だが焦点化された状態」と「散乱的で焦点の弱い状態」を両極とする軸として、それぞれ解釈されている。創作年代順にプロットすると、対象作品は以下の5段階に明確に区分される。

段階

作品

PC1の動向

PC2の動向

主体の様態(レポートの解釈)

第Ⅰ段階

第6~8番

正方向

0~正方向

広い状態空間を移動しながら変化を受け止める探索型の主体

第Ⅱ段階

第9番

負方向へ移行

負方向へ移行

誤差に圧倒されつつ、まだ安定した処理様式を持たない不安定な極限

第Ⅲ段階

第10~11番

大幅に負

大幅に正

生き延びられる音響環境を構築し、その内部で誤差を処理する主体

第Ⅳ段階

第12番

大きく負(維持)

ほぼゼロへ中立化

高密度の処理様式を保ちつつ精度の重みづけが弛緩し始める主体

第Ⅴ段階

第13~16番

負を維持

中立~やや負

確立された音響環境の内部でより流動的な運動が可能になる主体


出典:山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理」(note、2026年)の分析結果を要約・整理した表。

レポートはこの推移を自由エネルギー原理の枠組みから再解釈する。第6~8番の段階では、予測誤差は広い状態空間における移動・変化によって処理される「探索的(exploratory)モード」にあるとしている。これに対し、第10~11番で生じる急激な変化――音高空間の急激な収縮、ステップ運動・密度・被覆の急増、テクスチャ変動の最大化、そして同時に進む焦点性(precision)の強化――は、「主体はもはや外界を探索して予測誤差を減らすのではなく、許容可能な状態空間を急激に狭め、その内部で誤差を処理するモードへ移行する」という、決定的な転回として位置づけている。レポートではこれを「『生存可能な音響環境』の成立点」と呼ぶ。
第12番における焦点性(PC2)の中立化は、圧縮・高密度という構造的特徴を維持したまま「精度の重みづけ機構そのものが弛緩し始める段階」とし、第9番(PC1の極性転換の閾)と対をなす、PC2の極性転換の閾として位置づける。続く第13~16番では、圧縮・高密度の構造は維持されつつ焦点の凝集性がやや緩み、「確立された環境の内部で、より流動的な運動が可能になる」段階、すなわち「極限状態の持続可能化」が達成される。
レポートの結論は次のように要約される。ペッテションの交響曲はもはや世界を統合する形式ではなく、主体が生き延びるための音響環境そのものとなる。自由エネルギー原理の言葉で言い換えれば、それは「サプライズを消去する音楽ではなく、サプライズに耐えうる環境を構築する音楽」であり、ここにおいて交響曲的主体は「世界を理解する主体から、世界の中で生き延びる条件を自ら作り出す主体へと変容する」。レポートはこの転位を、ペッテションの交響曲が20世紀音楽史において持つ最も根本的な意義として位置づけている。

5-4 伝記的事実との対応関係


興味深いのは、この調性力学的分析が示す「第9交響曲を臨界点とする構造的転回」が、クーベの評伝が明らかにした伝記的事実――まさに交響曲第9番の作曲・浄書中に生命に関わる腎臓疾患を発症し、続く交響曲第10番・第11番がカロリンスカ病院での9か月間の入院生活の中で生み出された、という事実――と時系列的に正確に一致する点である。レポートが定量的に検出した「広い状態空間における探索的モードから、許容可能な状態空間を急激に狭めてその内部で誤差を処理するモードへの転回」は、ペッテション自身が日記に記した「死のトンネルの中で生きている」という感覚、そして「周囲の状況は、私を自分自身の中へ、根源へと突き進ませる」という言葉と、構造的に響き合うものである。両者を安易に同一視することはできないが、和声構造の定量分析と本人の自筆の証言という、全く異なる種類の資料が同じ転換点を指し示していることは、本レポートの重要な発見の一つと言えるだろう。


結論


アラン・ペッテションは、単なる北欧の交響曲作曲家ではない。彼は20世紀における「苦悩の証言者」であり、貧困、病、社会的疎外という現実から逃避するのではなく、それらを巨大な交響曲へと変換した人物であった。クーベの評伝が史料批判的に明らかにするのは、この人物像がある程度まで――妻以外に親密な関係を持たず、制度的な不正に苦しめられ、常に弱者の側に立ち続けたという像も含め――ペッテション自身によって意識的・無意識的に構築され、メディアと評伝作者たちによって無批判に増幅されてきた「自己表象」でもあったという事実である。1975年の演奏禁止事件の精査が示すように、実際の経緯は、しばしば語られる単純な「悪意ある拒絶」の図式よりもはるかに込み入っていた。
しかしこの史料批判は、ペッテションの音楽そのものの力を減じるものではない。彼の音楽は絶望のみを語るのではない。不協和音の嵐の後には必ず歌が現れる。それは彼が生涯にわたって追い求めた、人間存在への最後の信頼の表明である。
近年のデータ分析的アプローチが示すのは、この伝記的・印象的な理解を、調性空間における構造そのものの変容として裏づける可能性である。第9交響曲を臨界点とし、第10~11交響曲において生じる調性重心の急激な収縮と高密度化は、もはや世界を探索し理解しようとする主体の音楽ではなく、生き延びるための環境を自ら構築し、その内部で持続する主体の音楽への転換として捉えられる――そしてこの転回は、作曲家自身が病床で経験した、文字通りの生存の危機と時を同じくしていた。この意味において、ペッテションの交響曲は、ショスタコーヴィチが代表する「歴史的主体」とも、シベリウスが示す「自然化・収束」とも異なる、第三の様態――崩壊した主体がなお持続するという音楽的実現――を切り開いた、20世紀音楽史における特異点として評価されるべきものである。

参考文献


伝記的資料

  • 「魔女の大釜の中のラザロ」ディ・ヴェルト紙関連記事(ノルトライン=ヴェストファーレン州ペッテション・マラソンに関するルポルタージュ)
  • スディップ・ボーズ「アラン・ペテルソンって一体何者?──アウトサイダーとしての作曲家」(2017年8月24日)
  • 「アラン・ペッテション(1911–1980)の生涯と作品──苦悩から交響曲へ」
  • 「アラン・ペッテションの生涯と作品に関する調査レポート」
  • Leif Aare, “G Allan Pettersson”, Svenskt biografiskt lexikon, Band 29 (1995–1997), sida 242.
  • Michael Kube, Allan Pettersson, Svenska Tonsättare, Atlantis, Stockholm 2014(スウェーデン語訳:Göran Bergendal)── 本増補の中心資料。

個別交響曲の分析資料

  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphonie Nr. 6”, Dreieich, 2014年11月17日改訂版(初稿2011年7月20日)。
  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 8”, Dreieich, 2017年5月10日(初稿2012年8月2日)。
  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 9”, Dreieich, 2016年4月26日(初稿2012年5月4日)。
  • Jürgen Lange, “Allan Pettersson: Symphony No. 10”, Dreieich, 2017年1月18日(初稿2011年7月20日)。

分析レポート

  • 山崎与次兵衛「調性空間におけるペッテションの位置——『損傷した主体』の力学的検討」note、2026年4月12日(2026年5月20日更新)。
  • 山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理——交響曲的主体はいかにして『生存可能な音響環境』を構築するか」note、2026年4月13日(2026年5月20日更新)。
本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、Claude Sonnet 4.6とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行いました。

(2026.6.27 公開)

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