2026年7月12日日曜日

アラン・ペッテションの生涯と作品(上)はじめに・生涯

 はじめに

グスタフ・アラン・ペッテション(Gustaf Allan Pettersson, 1911年9月19日–1980年6月20日)は、20世紀後半のスウェーデンを代表する作曲家であり、しばしば「20世紀最後の偉大な交響曲作家」「北欧のマーラー」と評される。彼が遺した16曲の完成された交響曲(および未完の第1番・第17番)は、貧困・暴力・病苦・孤独という彼自身の過酷な生涯と分かちがたく結びついた、絶望と救済、暴力と祈りの激烈な対立として構成されている。

本レポートは、複数の伝記的資料(新聞記事、専門家による評伝、スウェーデン人名辞典の公式記事)と、ユルゲン・ランゲによる交響曲第6番・第8番・第9番・第10番の楽曲分析、本稿著者による調性力学の統計分析という独自の観点からペッテション音楽を再検討した分析レポート2篇を統合したものに、ドイツの音楽学者ミヒャエル・クーベ(Michael Kube)による本格的な評伝『Allan Pettersson』(スウェーデン語版、Atlantis社「スウェーデンの作曲家たち」シリーズ、2014年、イェーラン・ベルゲンダール訳)を生涯・各交響曲の生成史・受容史の記述にあたっての基本資料とした。クーベの評伝は、ペッテション自身が生涯にわたって意識的・無意識的に構築してきた「自己像」を史料批判的に検証し、新発見の書簡・日記・新聞記事・録音資料に基づいて、これまでの通俗的な伝記とは一線を画す精度で彼の生涯を再構成している。

本レポートで用いた情報源は以下の通りである。

  • ディ・ヴェルト紙関連記事「魔女の大釜の中のラザロ」(ノルトライン=ヴェストファーレン州ペッテション・マラソンに関するルポルタージュ)

  • スディップ・ボーズ「アラン・ペテルソンって一体何者?」(2017年8月24日)

  • Svenskt biografiskt lexikon(スウェーデン人名辞典)公式記事 “G Allan Pettersson”(Leif Aare 執筆)

  • Michael Kube, Allan Pettersson(Svenska Tonsättare 叢書, Atlantis, 2014年;スウェーデン語訳 Göran Bergendal)── 本篇における中心資料

  • Jürgen Lange による交響曲第6番・第8番・第9番・第10番の楽曲分析論文

  • 山崎与次兵衛「調性空間におけるペッテションの位置——『損傷した主体』の力学的検討」(note、2026年4月12日)

  • 山崎与次兵衛「ペッテション交響曲における調性力学の時系列変化と自由エネルギー原理——交響曲的主体はいかにして『生存可能な音響環境』を構築するか」(note、2026年4月13日)


第1部 生涯──ミヒャエル・クーベの評伝による再構成


1-1 幼年期:結核、スラム、そして鉄格子の窓


ペッテションは1911年9月19日、ストックホルム県ウップランド地方、ストックホルム中心部から北西約30キロのヴェストラ・リード教区で生まれた。実は一家がこの地に一時的に身を寄せていたのは、長兄ハリー(1904–1994)が7歳のときに結核を発病したためであった。当時の通念に従い、新鮮な空気・日光・滋養のある食事によって療養させようとしたのである(これは当時、富裕層がスイスのサナトリウムで行っていた療養法と同じ発想であった)。肺結核は、不衛生な住環境・通気の悪い裏庭・建材の防湿不足・不十分な衛生設備のために、20世紀初頭の都市スラムに広く蔓延していた。

ハリーが快復すると、一家はためらわずにセーデルマルムの慣れた環境へ戻り、スコーネ通り87A番地の手狭な半地下住居に移った。ペッテション自身が1972年10月付の自筆の身の上書(未発表、ウプサラ大学図書館所蔵)でこの住居を回想している。


「あの[部屋]は湿気がひどく(壁紙が剥がれていた)、寒く[ママ]、中庭の地面より低く、窓には鉄格子がはまっていた。[…]母はとても清潔好きだったが、ネズミ、シラミ、ノミは適者生存の法則に従って何ものにも屈しなかった。[…]この住居が私の運命となった――関節リウマチの種は、ここで私と妹(両親のどちらも患っていなかった)に植え付けられた。いわば『社会的な原罪』である[…]保健委員会はこの住居に幾度も改善命令を出したが、それでも幼少期から青年期までずっとここが私の家だった」


4人兄弟姉妹――グンヒルド(1902–1948)、ハリー(1904–1994)、ヘルゲ(1906–1984)、そして末子のアラン――が育ったこの家庭の人間関係は極度に緊張していた。父カール・ヴィクトル・ペッテション(1875–1952)は鍛冶屋で、酒に逃避した。母、仕立て屋のイーダ・パウリーナ(1876–1960)は、エルサ・ボルグが1870年代に創設した「聖書の女たち」という福音派の社会奉仕運動に身を投じていた。こうした社会的状況は、セーデルマルムの工場・小規模工業・酒場・映画館が密集する地区における労働者階級の孤立を象徴するものであり、アウグスト・ストリンドベリの小説『赤い部屋』(1879年)やペール・アンデルス・フォーゲルストレムの『ストックホルム物語』連作(1960–1968年)に描かれた世界とも通じる。

それにもかかわらず、ペッテションは外部からの助けや移住によらず、自らの音楽活動によってこの環境から一歩一歩抜け出していった。彼自身の回想によれば、幼少期の音楽体験は次のようなものであった。


「私の最初の大学は、スコーネ通りの裏庭だった。ゴミ箱のそばが、よく見えるという理由で格好の演壇になっていた。男に手を引かれてやってきた盲目の女性が澄んだ声で『さまよう森の中で』を歌い、ヴァイオリンを持った内気なユダヤ人の少年がトッセリの『セレナータ』を演奏して気高いヴァイオリン芸術を体現する一方、手回しオルガンとあらゆる楽器を手足に取り付けたイタリア人の小男は、日常の単調さを破ってはいたが、その俗悪さまでは破れなかった――こうしたあらゆる種類の旅芸人たちのゴミ箱前での演奏が、下層社会の人々が音楽と接する唯一の機会だった」


母は美しい声の持ち主だったとされ、早くから4人の子供全員に楽器を習わせた。グンヒルドはツィター(家庭音楽の典型的な楽器)、ヘルゲは労働者階級に愛されたマンドリン、ハリーはヴァイオリンを弾き、ハリーは弟のために初心者用の楽器を自作し、最初の音と楽譜の読み方を教えた。1920年代初頭、10歳ごろのアランは、クリスマスカードを売って得た金で正式な専門化への第一歩を踏み出す。


「クリスマスカードを売った。イェルントルゲットのゴットフリード・ヨハンソンの店に行った。弓と箱付きのヴァイオリンを10クローナで買った」


19歳になるまで、彼は近所のパブやダンスホールで腕を磨いた。学校(フォルクスコーラ)を終えた後も家計を助けず練習に没頭する彼の姿は、周囲から「重大な不忠実」とみなされた。


1-2 音楽院時代:二重の疎外と『労働者音楽家』からの脱却


1930年、19歳で王立音楽院(ムシークコンセルヴァトリエット)の入学試験に合格する。当時の音楽院は、依然として裕福なブルジョワジーや上流階級の子弟が中心の教育機関であり、労働者階級出身の彼はここでも疎外感を味わった。最初はユリウス・ルートストレム(1877–1944、ベルリンでヨーゼフ・ヨアヒムに師事した「スウェーデン最高のヴァイオリン名手」)のクラスでヴァイオリンを学んだが、9学期後の1934年末、ルートストレムの17人の生徒の中で最低の成績を受け、師弟関係は決定的に破綻した。


「私の不幸な家庭、アカデミーでのルートストレムの傲慢さ、そして今度はこの、品よく振る舞おうとした私の試みの嘲笑――それらが私の中の反逆者を呼び起こした」


音楽院事務局長スヴェン・キェルストレム(1875–1950)の進言で、ペッテションはヴィオラへ転向する。これは規律処分というより、彼の本質的な独奏者気質・個人主義をヴィオラの方がよく受け止められると見込まれたためであった。新しい教師アクセル・ルンクヴィスト(1880–1947、アンリ・マルトーの弟子)のもとで、ペッテションは「初めて完全に自分自身でいられた」と回想している。1936年には学生弦楽四重奏団でカール・バルケル(フレッシュの弟子)に師事し、ドビュッシー、ボロディン、ベートーヴェン、シューマンの主要なヴィオラ独奏箇所を学んだ。同年、ヒルディング・ローセンベリの劇音楽『偉大な神ブラウン』(ユージン・オニール作)の初演(1936年4月27日、ヴァーサ劇場)にヴィオラ奏者として参加している。

1938年、ペッテションは名誉あるジェニー・リンド奨学金(5,000クローナ、当時としては破格の額)を獲得し、同時にストックホルム・コンサート協会管弦楽団のヴィオラ奏者の座にも合格した(採用決定1939年2月18日、競争率は5名の候補者中1名)。1939年2月、彼はパリへ留学し、オペラ国立劇場の首席ヴィオラ奏者モーリス・ヴュー(1884–1951)に師事する。


「親愛なる教授殿。パリでどうしているか少しお伝えします。ヴューは最高の先生で、彼のもとであらゆることを学べます。[…]レッスンはとても前向きで、力づけられ、励まされるもので、困難はただ克服されるためにあるのだという気持ちと確信を持って帰ることができます。とても良い人で、ユーモアに富んでいます」(キェルストレム宛)

 

1-3 戦争、帰国、そしてオーケストラでの確執


1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発する。ペッテションは政治情勢にほとんど関心を払っていなかったため、この展開に大いに驚かされた。スウェーデン総領事の勧告でいったんコペンハーゲンを経て帰国するが、状況が落ち着いたかに見えると、再びパリへ向かう。最終的にドイツ軍がパリに進駐した1940年6月14日まで滞在し、その後ようやく他の3人のスウェーデン人と共にフランスを脱出した。

1940年9月16日、ストックホルム・コンサート協会管弦楽団での最初のリハーサルの日、座席の慣例を知らなかったペッテションは、自分が後任だと考えていたゴスタ・ビョルク(前任者、急逝)の席(第2プルト)に着こうとした。すでにその席に座っていた代理奏者との間で口論が起こり、結局ペッテションは最後尾のプルトに配置されることになった。この出来事は長年彼を苦しめ続けた。オーケストラ内では孤立し、客演指揮者ウィレム・メンゲルベルクからは「ソロ的」な演奏スタイルを叱責された。

孤立し防衛的になった彼は、リハーサル後は一人でチェスを指して過ごし、これを「勝つことも負けることもできる、有益な経験」と語っている。1948年2月24日(これはペッテションが翌25日に病気で欠席したことが記録されていることから逆算して推定された日付であるが)、指揮者トール・マンとのリハーサル中、長年くすぶっていた席順の問題が再燃し、ペッテションは舞台から退場しかけたが、マンに「契約違反になる」と制止され、休憩までの1時間だけ第1プルトで演奏した後、長期の病気休暇に入った。この「スキャンダル」はオーケストラの週次記録にも残っている。


「パリ留学から帰ってコンサート協会に入った時、自分が雇った才能に多少の責任感を持つ人々と関わるのだと思っていた。だが実際には、工場の一つの番号として入ったようなものだった」


1943年(結婚した年)、ペッテションは理学療法士グドルン・グスタフソン(1921–)と結婚した。グドルンは後に美容師に転身し、ストックホルムに2つの美容サロンを開業、これが夫婦の経済的安定に大きく寄与した。同年、24曲からなる連作歌曲集《裸足の歌》の第1作が生まれる。


1-4 パリ留学(1951–52年)と「自分の作品を自分で判断できる」境地


1950年、ペッテションは1950/51シーズンの完全な休職許可を得て(さらに翌シーズンへの延長も認められ)、最終的にオーケストラを去った。1951年9月、彼は再びパリへ赴き、エコール・ノルマル・ド・ミュジークでアルテュール・オネゲルの作曲クラスに登録、加えてオリヴィエ・メシアンの講座も聴講した(こちらは「対話」ではなく具体的な答えを求めていたため間もなく離脱)。1952年初頭からはダリウス・ミヨーのクラスにも登録するが、決定的だったのはルネ・レイボヴィッツ(1913–1972)への個人指導の依頼であった。


「[弦楽オーケストラのための協奏曲を]オネゲルに判断してもらいたいという憧れについては(これはレイボヴィッツの指導が触発したものだが)、こう思うようになった:自分の作品を自分で判断できるようにならなければならない! しかしオネゲルやミヨーはそこまで助けてはくれない。彼らはその能力を自分たちの特権として保持している。彼らは私を途方に暮れさせるだけで、それ以上は何もしてくれない。レイボヴィッツのような指導のもとでの集中的な知的自己活動だけが、そこへ導いてくれる」(1952年1月26日付、メモ帳より)


レイボヴィッツのもとでの学習は、十二音技法そのものの教条的受容ではなく、「全体を見る視点」と「自己批判的な評価能力」をペッテションに与えた。彼は1952年2月のフランス語論文「Dissonance douleur(不協和音という痛み)」の中で、自らの美学を次のように記している。


「作曲家になるとは、長く苦しい年月をかけて、ナイチンゲールの永遠に変わらぬ旋律からシェーンベルクの永遠に変化する旋律まで、作曲についてのすべてを身につけ、そのうえでそのすべてを忘れ、自分自身の始原へ立ち戻り、そこで自らの無意識、無垢――多くの師たちが汚してしまったもの――を探し求めることである」


同じ論文で語られる有名な「馬」のエピソードもこの時期のものである。


「ある日、人々が私の手紙に『作曲家』と書き始め、私自身もそのように感じ始めた時、私はピアノの蓋を閉め、新たに得た『作曲家』という称号を腫れ物のように焼き捨て、野原へ出て、出会った――馬に。ただの普通の馬だ。私たちは立ち止まり、互いを見た。彼は私の眼鏡の奥を、私は彼の大きな茶色の賢い目を見た。私は自分自身の鏡像を見たのではなく、永遠に問いかける一つの動物の魂を見た――人間について問いかける魂を」


レイボヴィッツの授業は1952年9月4日、共にカフェへ行くことで終わった。後年(1972年、シグヴァルド・ハマールとの対話で)、ペッテションはこの時期を振り返ってこう語っている。


「レイボヴィッツのもとでの時間は鍛錬だった[…]。神よ、私はどれほど働き、苦労したことか。だが最終的には彼の理論をすべて理解した。そうして初めて、私はそれに背を向け、捨てることができた。私は他人と同じようにはできない。それでは足を滑らせる。自分の思うように書かなければならない」

 

1-5 無名の作曲家時代と病魔の進行


1952年、パリから帰国したペッテションは、二度とオーケストラに戻らなかった。彼はレイボヴィッツに作曲中の交響曲(後の交響曲第2番)の存在を伝えていたが、実際には誰にも一音も見せず、すべてストックホルムで独力で完成させた。


「レイボヴィッツのために書かれた交響曲は一曲もなかった。それは自分自身のために書いたものであり、彼はそれを一音も見ても聞いてもいない。[…]私が作曲することは、他の誰にも関わりのないことだ。神よ、私をお守りください。アラン・ペッテション、1955年10月」


1950年代半ば、慢性関節リウマチが発症する。彼はこの病を「幼少期の不衛生な住環境がもたらした呪い」として捉え、一種の社会的スティグマとして深く内面化した。1956年と1957年に作曲した弦楽オーケストラのための協奏曲第2番・第3番では、編成を意図的に縮小し(管楽器を排除)、「より明瞭な光を得るため」と語っている。1957年には、自身が2年間音沙汰のなかったコンサート協会の審査を公然と批判する記事をスヴェンスカ・ダーグブラーデット紙に書かせ、楽団側を困らせるという出来事も起きている。

1960年、放送オーケストラ奨学金の受賞演説で、ペッテションは皮肉とも本気ともつかぬ調子でこう述べた。


「私はただ、自分の探求に没頭する音楽家です。何が起こったのか、まだ完全に理解できていませんが、これは私の人生で最も貴重な経験の一つであることは間違いありません。」(1960年12月、受賞演説)

 

1-6 1968年の転機──交響曲第7番の成功


1968年10月13日、交響曲第7番がストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団、アンタル・ドラティ指揮により初演された。「青少年のための音楽」シリーズの一環として行われたこの演奏会は熱狂的な成功を収め、スウェーデン音楽史における画期的な日となった。フォルケ・ヘーネルはダーゲンス・ニューヘテル紙にこう記した。


「これはそう頻繁にあることではないが、日曜の夜、私たちはある偉大なスウェーデンの作曲家が、偉大なスウェーデンの作曲家として紹介され、演奏され、そして受け入れられるという出来事に立ち会うことができた」


続く録音はベストセラーとなり、1969年のドイツ・ツアーでも同様の熱狂を博した。これによってペッテションは一夜にして国際的名声を獲得する。当時、作曲家自身は皮肉を込めてこう語っていた――「もう顔面を殴られることがなくなったことに感謝しながら歩いている男だ」。

この演奏会はペッテションが生涯で最後に直接出席した公開の場となった(その後は概してインコグニトで臨んだ)。健康状態の悪化に加え、こうした成功は二度と繰り返せないという認識も働いていたとクーベは指摘する。実際、続く交響曲第8番の初演(1972年、コンサートホール改修中の代替施設での演奏)は控えめな評価にとどまり、3年半後の1975年12月、セルジュ・コミッショーナ&ヨーテボリ交響楽団による客演の方がはるかに高く評価された。


1-7 1975年の演奏禁止事件──正確な経緯


1975年、新たに就任したフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーをめぐる事件が起こった。事の経緯は、これまで広く流布していた単純な図式(「指揮者がペッテションを嫌い拒否した」)よりもはるかに複雑であった。クーベの調査によれば、楽団のプログラム委員会は1975年のアメリカ公演ツアーの演目として、当初ボルツ、ブロムダール、ラーソンの3作品に加え、ペッテションの交響曲第7番も検討していた。しかし、ツアーが過密日程であることを理由に「長すぎる、重すぎる、演奏が難しすぎる」として委員会・楽団・ロジェストヴェンスキー自身の三者が一致して見送りを決定した。

この決定が報道されると、オーボエ首席奏者ペール・オーロフ・イルブラドが「ロジェストヴェンスキーはペッテションを好まないようだ」とダーゲンス・ニューヘテル紙で発言し、続く論説で「楽団がアメリカツアー中にペッテションを演奏する予定はない」と報じられた。これに対しペッテションは1975年6月7日、同紙に公開書簡を発表し、フィルハーモニー管弦楽団による自作品の演奏を全面的に禁止すると宣言した。


「私はここに、コンサート協会管弦楽団(ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団)が私の作品を演奏することを禁止する。[…]楽譜資料は私の所有物であり、その提供を禁止する。[…]私はクーリーの中のクーリーとして生まれ、クーリーのように死ぬでしょう」(1975年6月7日、ダーゲンス・ニューヘテル紙)


この禁止令は、政治的権力者が「危険」とみなす作品・著作者を黙らせる目的で発令される措置(第三帝国やスターリン体制下のソ連での事例が念頭にある)とは異なる、20世紀になって芸術家の自律性や経済的・法的権利が確立されて初めて可能になった、文化政策上前例のない手段であった。論争は30以上の記事・声明・論評を呼んだが、その中心はロジェストヴェンスキー個人の人物像と振る舞いに移っていった。ロジェストヴェンスキー自身は1975年10月28日、ダーゲンス・ニューヘテル紙で次のように説明している。


「ペッテションの交響的創作と同じ感情を自分が持てると主張することは、私にとって不誠実なことになる。そのため私は、これらの作品は少なくとも当面、この音楽とより良い関係を持つ別の指揮者によって指揮されるのが、すべての観点から最善だと考える」(1975年10月28日、ダーゲンス・ニューヘテル紙)


ツアー第3回演奏会の後、ロジェストヴェンスキーは脳卒中で入院し、残りの演奏会は助手ヴァレンティン・コージンおよびシクステン・エーリングが代行した。演奏禁止令そのものは、楽団側の歩み寄りと新コンサートホール責任者ベングト・オロフ・エングストレムによる楽団員代表ヘルゲ・アルムクヴィストとの対話を経て、1976年6月29日に解除された。


1-8 最後の10年──病床での作曲と晩年


1970年9月、ペッテションは関節リウマチの治療薬の副作用による生命に関わる腎不全のため、カロリンスカ病院に9か月入院した。交響曲第10番と第11番の準備とスケッチはこの入院生活の中で行われ、退院後に完成された。1974年1月13日、アフトンブラーデット紙に「第10交響曲への余白の記録」として、入院中の日記の断片が公開された。


「1971年2月12日。私が今生きているこの死のトンネルの中には、誰も、神も、生きているものは何もない。ただ私だけが、容赦なく独りである」

「1971年5月23日。私が生きているこの病院の世界で、私は自分の中に不思議な力を感じる。私はベッドに座って、この最後の駅の世界とは何の関係もない音楽を書いている――自分自身の生を持つ音楽だ。周囲の状況は、私の人生でいつもそうであったように、私を自分自身の中へ、根源へと突き進ませる。自分の中の何かがその統一性を保ち、破壊されずにいるということが、私を驚異の前にいるかのような感動で満たす」


1978年秋、ようやくストックホルム市から、彼の必要に応える住居(リッダーフィヤルデン湾を望む明るい仕事部屋)がバストゥ通り30番地に提供された。この引っ越しは、ペーテル・ベルグレンによるドキュメンタリー映画『人間の声(Vox humana)』に記録されている。

1979年5月から8月、交響曲第16番(アルトサクソフォン助奏付き、当初は「アルトサクソフォンと管弦楽のための協奏曲」として作曲され、出版社の勧めで「交響曲」に改題)を完成。続いてヴィオラ協奏曲の作曲に着手するが、これは未完のまま残された。さらに、後に「交響曲第17番」と通称される、わずか207小節・30ページの断片も発見されている。

1980年6月20日、ストックホルム郡マリア・マグダレナ教区にて急性の胃腸疾患のため死去。享年68。7月2日、サンスボリ教会墓地の礼拝堂で葬儀が行われ、ラーシュ・オーケ・ルンドベリが弔辞を述べた。


「あなたは《花よ、言ってくれ》の中で、自分の問いへの答えを見つけましたか? 私はそう信じます」(ルンドベリの弔辞、1980年7月2日)


遺骸は8月12日、ホーガリド納骨堂に納められた。


(続く)

[お断り]本稿作成にあたっては、著者の収集した資料に基づき、著者の与えた編集方針の下、Claude Sonnet 4.6とのやりとりを通じてドラフトの作成・編集作業を行い、ChatGPT 5.5とのやりとりを通じて増補改訂を行い完成させました。ファクトチェックおよび校正はClaude Sonnet 5とのやりとりを通じて行いました。


(2026.7.12 公開)


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