本稿の位置づけ 本稿は、55楽章コーパスを用いた五度圏重心分析のうち、ブルックナー8楽章を対象として、旧指標、拡張指標、ピッチクラスセットDFTの三層から調性力学を個別に検討するモノグラフである。数値的観測から、ブルックナー固有の調性組織を記述し、そのうえで交響曲的思考における音楽的主体の存在様式を考察する。
1.問題設定――ブルックナーをなぜ単独で分析するのか
これまでの比較分析では、ブルックナーはマーラーやペッテションとは異なる位置を占めることが示唆されてきた。特に、ブルックナーでは五度圏上の中心性が一定程度維持される一方、方向集中度が創作年代に伴って低下する傾向が顕著である。また、PC集合DFTでは8楽章中6楽章がf5をDominant Modeとし、マーラーやペッテションに見られるような長期的なmode転換は確認されない。
この組み合わせは、「調性組織そのものが解体する主体」としてブルックナーを捉えるよりも、比較的持続的な生成原理の内部に留まりながら、五度圏上の特定方向への運動集中の組織化が変容していく音楽として捉える可能性を示す。本稿ではこの存在様式を暫定的に「前主体的/浸透的主体」と呼ぶ。これは心理学的主体性の強弱を意味するものではなく、音楽的主体が中心を外部から操作する以前の、より浸透的な力学的存在様式を指す。
2.データと分析方法
対象は共有された55楽章コーパスから抽出されたブルックナー8楽章である。対象作品はデータ上、Sym.0、Sym.2、Sym.3、Sym.4、Sym.5、Sym.7、Sym.8、Sym.9である。以下では交響曲番号を創作年代の代理的な順序指標として用いる。ただし、交響曲番号そのものを作曲年と同一視せず、あくまで本コーパス内の時間軸として扱う。
分析は三層で構成する。
旧指標層:Avg_r、Avg_Step、SD_r、PC_Density、Centroid_Dist、Spatial_Dispersion、Tonal_Focus、Terz_Ratio、Harmonic_Coverage、Texture_Volatility等。
拡張指標層:方向集中度(Rbar_full)、Anisotropy_Ratio、滞在・アトラクター指標、三和音関連指標、Origin_PCSet_Ratio等。
DFT層:f1–f6のFourier mode、Dominant Mode、Dominant Mode Share、Fourier Spectrum Entropy、Fourier Concentration。
なお、以下の解釈は各指標が直接「主体」を測定すると主張するものではない。観測された数値的構成を構造的に解釈し、その構造がどのような音楽的主体の存在様式と整合するかを考察する。
3.旧指標によるブルックナーの調性力学
3.1 中心性
ブルックナー8楽章のAvg_rは0.529–0.597の範囲にあり、最小値はSym.8(0.529)、最大値はSym.0(0.597)である。Sym.9は0.572であり、Sym.8から単純に一方向へ低下するわけではない。交響曲番号とAvg_rの相関は r = −0.430 で、負方向ではあるものの、後述する方向集中度ほど強くない。
したがって、ブルックナーの後期化を「五度圏上の中心が単純に失われる過程」とみなすのは適切ではない。むしろ中心性は一定範囲に維持されながら、別の力学的次元が変化している。

【図版挿入候補1:ブルックナー8楽章の旧指標プロフィール】 図:Avg_rを中心とした旧指標の楽章別比較 配置意図:ブルックナーの中心性が一定範囲に維持され、後期化が単純な中心喪失ではないことを最初に示す。
3.2 運動性とテクスチャ
Avg_Stepは38.57(Sym.3)から61.67(Sym.5)まで変動し、Step_Rate_100も3848.89–6150.43程度の範囲にある。Texture_Volatilityは0.852(Sym.0)から1.168(Sym.8)まで変化する。したがって、ブルックナーの調性力学は静的な中心保持としてのみ記述できず、中心性を保ちながら相当量の運動とテクスチャ変動を含む。
ただし、この運動性はマーラーの後期作品に見られるような時間的極限化と同一視できない。ブルックナーでは、DFT上の生成原理が比較的持続しているため、運動性の増減は同じ構造的基盤の内部で検討する必要がある。
4.拡張指標――方向集中度の年代的低下
4.1 Rbar_fullと交響曲番号
本稿で最も重要な結果の一つは、交響曲番号と Rbar_full_方向集中度 の強い負の相関である。8楽章について、相関係数は r = −0.862 となる。これはAvg_r(r = −0.430)よりはるかに強い。
値はSym.0の0.445から、Sym.2の0.335、Sym.3の0.237、Sym.4の0.336、Sym.5の0.192、Sym.7の0.271、Sym.8の0.177、Sym.9の0.062へと推移する。Sym.4・Sym.7でそれぞれ一時的な上昇が見られるものの、全体としては後期に向けた著しい低下が確認される。
この結果は、ブルックナーの創作年代的変容を考えるうえで、中心性よりも方向集中性の変化の方が敏感な指標である可能性を示す。すなわち、ブルックナーでは「中心がなくなる」ことより、「音楽的運動が特定方向へまとまって進む」という構造が次第に弱くなることが顕著である。

【図版挿入候補2:交響曲番号×Rbar_full】 図:ブルックナー8楽章における交響曲番号とRbar_full_方向集中度の散布図・回帰線 配置意図:本稿固有の年代的発見を直接示す中心図。r = −0.862という結果を視覚化する。
4.2 Anisotropy_Ratioとの区別
Anisotropy_Ratio_全点は0.690–0.873、頻度フィルタ版は0.623–0.853の範囲にある。交響曲番号との相関はそれぞれr = −0.371、r = −0.458であり、Rbar_fullほど明瞭ではない。
ここで両指標の意味を明確に区別する必要がある。Anisotropy_Ratioは局所的な重心点群の形状、すなわち一方向に細長い分布か、多方向へ等方的に広がる分布かを表す指標であり、定義は λ₂/λ₁(λ₁≥λ₂)である。したがって、値が0に近いほど異方的、1に近いほど等方的である。一方、Rbar_fullは原点から見た放射方向への集中度を表す。したがって、「局所点群の異方性」と「原点からの運動方向の集中」を同一視せず、本稿では年代変化の中心的な結果としてRbar_fullを扱う。

【図版挿入候補3:Avg_r × Anisotropy_Ratio】 図:ブルックナーの中心性と方向性の関係 配置意図:中心性と方向性が独立した分析軸であることを示し、ペッテション後期との対照に備える。
4.3 周辺円環集中度
Peripheral_Circular_Concentrationと交響曲番号の相関はr = −0.665であり、これも比較的強い負方向を示す。したがって、後期化に伴う変化は単に中心からの距離の変化だけではなく、周辺部における円環状の構造化の仕方にも及んでいる可能性がある。ただし、この指標単独から存在論的意味を導くことは避け、方向集中度と併せて構造的変化の一側面として扱う。
5.滞在構造とアトラクター
ブルックナー8楽章ではAttractor_Numberは3–6、Residence_Entropyは0.820–0.938、Dominant_Residence_Ratioは0.165–0.317の範囲にある。 後期のSym.8–9ではAttractor_Numberが5、6となり、単一の支配的滞在領域だけで全体を説明する構造ではないことが示唆される。
特にSym.9ではDominant_Residence_Ratioが0.165まで低下し、複数の滞在領域への分散が強い。一方でAvg_rは0.572を保っている。この組み合わせは、中心性の消失とは異なるかたちで、局所的な滞在構造が多中心化している可能性を示す。

【図版挿入候補4:アトラクター/滞在構造比較】 図:ブルックナー8楽章のAttractor_Number、Residence_Entropy、Dominant_Residence_Ratio 配置意図:中心性が維持されても単一の滞在領域への集中が低下し得ることを示す。
6.三和音・PC集合構造
Exact_Triadic_Ratioは0.301–0.563、Triadic_Neighborhood_Ratioは0.375–0.609である。Sym.0ではExact_Triadic_Ratioが0.531、Sym.5では0.563と比較的高い一方、Sym.8では0.301まで低下する。したがって、ブルックナーの調性組織は三和音的な明瞭さを常に一定に保つわけではない。
Origin_PCSet_Ratioは0.029–0.047程度で、Sym.9が0.029と最も低い。Origin PCSetは「非調性」の直接的指標ではなく、対称性を含む特殊なPC集合の出現を捉える構造指標として解釈する。
Sym.8でExact_Triadic_Ratioが低下することと、Sym.9で方向集中度が極端に低下することは、ブルックナー後期における構造的複雑化を示す候補となる。ただし、これらの変化を単一の因果系列として断定することは避ける。

【図版挿入候補5:三和音・Origin PCSet】 図:Exact_Triadic_Ratio/Triadic_Neighborhood_Ratio/Origin_PCSet_Ratioの楽章別比較 配置意図:後期化を方向性だけでなくPC集合構造の側面から補足する。
7.PC集合DFT――持続するf5系組織
7.1 Dominant Mode
ブルックナー8楽章のDominant Modeは、Sym.0=f5、Sym.2=f5、Sym.3=f5、Sym.4=f4、Sym.5=f3、Sym.7=f5、Sym.8=f5、Sym.9=f5である。したがって、f5が6/8楽章を占め、f4とf3は各1楽章に局所的に現れる。
この分布から、ブルックナーのPC集合組織は基本的にf5系の持続性を示すと考えられる。ただし、f5は「調性の強さ」そのものではなく、五度関係に対応する周期的PC集合構造が前景化する度合いを示すmodeである。

【図版挿入候補6:ブルックナーFourier mode profile】 図:ブルックナー8楽章のf1–f6 Fourier mode profile 配置意図:f5優勢が全体的な基盤となりつつ、Sym.4ではf4、Sym.5ではf3が局所的に前景化することを示す。
7.2 DFT構造と方向集中度の対照
ここで重要なのは、Rbar_fullがSym.0からSym.9にかけて大きく低下するにもかかわらず、Sym.9のDominant Modeは依然としてf5であることである。つまり、方向集中度の低下は、そのままDFT生成原理のf5からの離脱を意味しない。
この点がブルックナーをマーラーやペッテションから区別する。マーラーではf5の持続と時間的作動の極端化が結びつき、ペッテションではf5からf3/f4への再編が後期の中心性低下と結びつく。それに対してブルックナーでは、比較的持続するf5系組織の内部で方向集中度が低下する。

【図版挿入候補7:DFT×方向集中度の比較】 図:横軸を交響曲番号、縦軸をRbar_fullとし、Dominant Modeを記号またはラベルで示す複合図 配置意図:f5の持続と方向集中度の低下が同時に進むことを一枚で示す。本稿の中心的な構造解釈を視覚化する。
7.3 Fourier Concentration
Fourier Concentrationは0.0206–0.0380程度で、Sym.4が0.0380と最も高く、Sym.8が0.0206、Sym.9が0.0236と低い。Dominant Modeがf5であることと、f5への強い集中があることは同一ではない。Sym.9ではf5がDominant Modeでありながら、Fourier Concentrationは高くない。
したがって、後期ブルックナーについては「f5という単一原理が強固に支配する」と単純化するのではなく、f5が相対的に最大であり続けながら、全体の周期構造への集中度は低下するという二重性として記述する方が適切である。

【図版挿入候補8:Fourier Concentration】 図:ブルックナー8楽章のFourier Concentration 配置意図:Dominant Modeと構造集中度を区別する。
8.Sym.8–9――後期ブルックナーにおける臨界的局面
Sym.8ではAvg_r=0.529、Rbar_full=0.177、Fourier Concentration=0.0206である。Sym.9ではAvg_rが0.572へ戻る一方、Rbar_fullは0.062まで低下し、Attractor_Numberは6、Dominant_Residence_Ratioは0.165となる。DFTでは両者ともf5がDominant Modeである。
この対照は本稿の重要な発見である。Sym.9は中心性そのものが最も低い作品ではない。しかし、方向集中度は8楽章中で最も低く、滞在構造も分散している。それにもかかわらずf5系のPC集合組織は残る。
したがってSym.9を、単純な「調性崩壊」と表現するより、持続している生成原理と、その生成原理を五度圏上で方向づける力学との間に乖離が生じた状態として記述する方が、今回のデータには整合的である。

【図版挿入候補9:Sym.8/Sym.9比較】 図:Avg_r、Rbar_full、Dominant_Residence_Ratio、Fourier Concentration、Dominant Modeの比較 配置意図:Sym.8からSym.9にかけて、中心性・方向性・滞在・DFT構造が同一方向には変化しないことを示す。
9.分析粒度の三層構造――後期3曲(第7・8・9番)の全楽章検証
これまでの議論は各交響曲の第1楽章(ないし相当楽章)を1データ点とする8楽章コーパスに基づいてきた。本節では、後期の危機的局面として8節で論じた第7・8・9番について、全楽章データ(第9番は補筆フィナーレ断片を除いた3楽章版、第8番は1890年第2稿。いずれも8楽章版と同一版)を用い、(A)全楽章個別・(B)全曲連結・(C)第1楽章のみ、という三層比較を行う。あわせて、マーラー論・ブラームス論・シベリウス論と同一の8変数拡張指標単独PCAを、ブルックナー8曲(C水準)に適用した結果を示す。
9.1 拡張指標単独PCAによる独立検証(C水準)
分散説明率PC1=65.6%・PC2=12.6%の拡張指標単独PCAにおいて、ブルックナー8曲のPC1_extは次の通りである。
PC1_extは第8・9番で突出して高く、8節で「後期ブルックナーにおける臨界的局面」として特定された2曲が、旧9指標・DFTとは独立に、拡張指標単独のPCAでも8曲中最も極端な位置を占めることが確認できる。
9.2 パイプライン検証
(A)から曲ごとに点数加重で再構成したAvg_r・Exact_Triadic_Ratio・Origin_PCSet_Ratioは、いずれも10⁻⁷オーダー(Avg_rは10⁻¹⁶オーダー)の誤差で(B)の実測値と完全に一致し、マーラー論以降の各稿と同様の内部整合性が確認された。Avg_Stepには曲あたり0.03〜0.18の系統的な差があり、楽章境界の接続ステップによるものと解釈できる。
9.3 Rbar_fullの再考――Sym.9の「極端な低下」はHauptsatz固有の現象である
本節でもっとも重要な発見は、Rbar_full_方向集中度の粒度比較である。

4節・8節・12節で繰り返し強調してきた「Sym.9でRbar_fullが0.062まで低下し、8楽章中最も低い」という記述は、(C)=第1楽章のみの数値である。全3楽章を連結した(B)水準では、Rbar_fullは0.123と、(C)のおよそ2倍に回復する。
これは、Sym.9の方向組織の低下がなかったことを意味するのではない。(B)水準の0.123自体も、後期3曲の中では最低であり(Sym.7=0.065は実は(B)ではSym.9より低い)、方向集中度が全体として低い作品であることに変わりはない。しかし、8節・12節が依拠してきた「0.062」という値そのものは、第1楽章という特定の楽章に固有の極端さであり、未完の交響曲全体を通した値ではないことが明らかになった。
このことは、8節の「Sym.9を『調性体系の完全な崩壊』とする解釈はデータからは支持されない」という慎重な留保を、さらに一歩進める形で補強する。すなわち、Sym.9の方向組織の低下は、作品全体を通じて一貫した現象ではなく、第1楽章においてとりわけ先鋭化した局所的な現象である可能性が高い。これは、未完性という作品の外的事情と、この楽章の内的な方向組織の低下とを安易に結びつけることに対する、追加的な慎重さを要求する結果である。
なお、興味深いことに、Sym.7では逆にRbar_fullが(C)0.271→(B)0.065へと大きく低下し、Sym.9とは逆方向の変化を示す。Sym.8はSym.9と同様に(C)から(B)にかけて上昇する(0.177→0.242)。この3曲がそれぞれ異なる方向に変化することは、後期ブルックナーの方向組織の変容が、単一の年代的トレンドとしてではなく、作品ごとに異なる粒度依存性を持つ現象として理解される必要があることを示している。
9.4 Anisotropy_Ratio・Residence_Entropyの粒度比較
Anisotropy_Ratioは、Sym.7(0.696→0.834)・Sym.8(0.823→0.876)で(C)→(B)にかけて上昇する一方、Sym.9のみ低下する(0.816→0.713)。

これはマーラー論10.3節で確認された多数派パターン(9/11曲で上昇)の例外にあたる。Sym.9は、Rbar_fullと同様、Anisotropy_Ratioにおいても(C)水準での極端さが(B)水準では緩和される唯一の後期ブルックナー作品である。
Residence_Entropyは、Sym.7(0.874→0.914、上昇)・Sym.9(0.907→0.912、ほぼ不変)に対し、Sym.8のみ低下する(0.938→0.894)。Sym.8は(C)の時点で既に0.938と8楽章中最高水準にあり、これはマーラー論10.3節で確認した「天井効果」(Cが既に高い作品ではBで頭打ちになる)と一致する。
9.5 DFT:f5系組織の持続はHauptsatzを超えて成立する
(B)水準のDominant Modeは、第7・8・9番のいずれもf5である。これは(C)水準(7節既出:Sym.7=f5、Sym.8=f5、Sym.9=f5)と完全に一致し、f5からの離脱は生じていない。
さらに、f5と真の次点モード(f3・f4のうち振幅の大きい方)との差を見ると、3曲でそれぞれ異なる振る舞いを示す。

Sym.8は(C)・(B)いずれの水準でもf5と次点モードの差が0.004程度にとどまり、ほぼ完全な拮抗状態が粒度を変えても持続する。これはブラームス第2番(同様の拮抗状態から(B)で逆転する)とは異なる振る舞いであり、僅差の状態が粒度の変化に対してどちらの方向に転ぶか、あるいは転ばずに持続するかは、作品によって一様ではないことを示す。Sym.7は(C)の0.033から(B)の0.071へ、次点モードがf3からf4へ交替しつつ差がおよそ倍に拡大する。
この結果は、7節・9節(現10節)で述べた「ブルックナーではf5系のDFT構造が持続する」という主張を、Hauptsatz水準を超えて補強する。マーラーのSym.5-2/Sym.7-1((B)でf5へ回帰)、ブラームスのSym.2((B)でf5へ転換)と異なり、ブルックナーの後期3曲はいずれも、粒度によらずf5が一貫して優勢である。
9.6 「前主体的/浸透的主体」仮説への含意
以上の結果は、10節(現11節)で提示した「前主体的/浸透的主体」という特徴づけに、二つの点で影響を与える。
第一に、f5系のPC集合組織がHauptsatz水準を超えて全曲水準でも持続することが確認され、「持続する生成原理」という記述はより頑健な根拠を得た。
第二に、しかし、Sym.9の「臨界的局面」を特徴づけてきたRbar_full=0.062という数値は、全曲水準では0.123へと大きく緩和される。これは、Sym.9の未完性と方向組織の極端な低下とを結びつける議論について、その低下が楽章単位の局所的現象であり、作品全体を貫く性質ではない可能性を示す。したがって、11節(現12節)で述べた「持続している生成原理と、その生成原理を五度圏上で方向づける力学との間に乖離が生じた状態」というSym.9の記述は維持できるが、その乖離の強さを示す具体的な数値については、どの粒度に基づくかを明示したうえで慎重に扱う必要がある。
10.ブルックナーとマーラー/ペッテション
ブルックナーの特徴は、マーラー、ペッテションとの対照によってより明瞭になる。
ブルックナー:持続する生成原理と方向集中の低下
ブルックナーではf5系のDFT構造が持続する一方、Rbar_fullが年代とともに大きく低下する。したがって、変化の中心は「生成原理の交換」よりも「その生成原理が五度圏上で特定方向へ組織される仕方」にある。ここでいう方向組織はRbar_fullが担い、Anisotropy_Ratioが表す局所点群の形状とは区別される。
マーラー:生成原理の持続と時間的作動の極端化
マーラーではf5が持続する一方、後期に時間的運動性・変動性が極端化する。したがって、ブルックナーとマーラーはともに生成原理の持続を示すが、ブルックナーでは方向集中の低下、マーラーでは時間的作動の極端化という異なる次元が前景化する。
ペッテション:生成原理の再編
ペッテションでは後期にf5からf3/f4への再編が見られ、同時に低中心性・高方向性・低Fourier Concentrationが現れる。これはブルックナーのような「同一生成原理内部の変容」と異なり、生成原理そのものの再組織化として理解する方が適切である。

【図版挿入候補10:ブルックナー/マーラー/ペッテション三者比較】 図:Avg_r、方向集中度、Dominant Mode、Fourier Concentrationによる三者比較 配置意図:三つのモノグラフを貫く「生成原理・調性力学・時間構造」の分離を示す。
11.交響曲的思考における音楽的主体――前主体的/浸透的主体
10.1 「主体が動かす」のではなく「主体が力学に浸透している」
以上の分析から、ブルックナーの音楽的主体を、強い中心から周囲を統御する主体として記述することには慎重であるべきだと考えられる。五度圏上の中心性は一定程度維持されるが、特定方向への運動集中は創作年代とともに弱くなる。さらに、f5系のPC集合組織が持続する。
この構造は、主体が明確な意図をもって音楽空間を操作するというモデルより、音楽空間そのものの力学に主体が浸透しているモデルと整合する。ここでいう「浸透的」とは、主体と環境、中心と周辺、局所運動と長期構造の境界が比較的透過的であることを意味する。
10.2 前主体性
「前主体的」という語は、ブルックナーの音楽に主体が存在しないという意味ではない。むしろ、主体がすでに確立された中心として世界を表象し、それを操作する以前の状態を指す。音楽的秩序は主体から一方向に発せられるのではなく、持続する生成原理、滞在、回帰、方向性の相互作用の中から形成される。
この意味でブルックナーの交響曲的思考は、自己が世界を完全に把握してからそれを構成するというより、世界内の力学に参与しながら自己の形態を形成していく思考として捉えられる。
10.3 ブルックナー9番と未完性
Sym.9ではRbar_fullが0.062まで低下し、滞在構造も分散する一方、Avg_rは0.572、Dominant Modeはf5を維持する。このことから、9番を「調性体系の完全な崩壊」とする解釈はデータからは支持されない。
より慎重には、Sym.9は、持続しているPC集合生成原理と、五度圏上でそれを方向づける力学との乖離が極端化した局面として記述できる。作品の未完性との関係についても、この定量的特徴が未完性の原因を説明するとは言えない。しかし、少なくとも未完性が問題となる作品において、調性力学の方向組織が極端に低下しているという同時的事実は、今後の作品論的検討に値する。
12.方法論的含意
ブルックナーの分析は、五度圏重心分析における「調性の強さ」を単一尺度で表現することの限界を示す。Avg_rが比較的維持されても、Rbar_fullは大きく低下し得る。またDominant Modeがf5のままでもFourier Concentrationは低下し得る。
したがって、少なくとも以下を分離する必要がある。
中心性:五度圏中心からどの程度離れているか
放射方向への集中:原点から見て運動が特定方向へどの程度まとまるか
局所点群形状:重心点群が一方向に細長いか、多方向へ等方的に広がるか(Anisotropy_Ratio)
滞在構造:どの程度単一/複数の領域に留まるか
PC集合組織原理:どの周期的構造が前景化するか
Fourier Concentration:その組織原理への集中度
ブルックナーは、この五つが同じ方向に変化しない典型例である。
13.結論――持続する世界の内部で変容する主体
本稿で確認されたブルックナーの特徴は、単純な「強い調性」でも「弱い調性」でもない。むしろ、比較的安定した中心性とf5系PC集合組織が持続する一方、創作年代の進行に伴って原点から特定方向へ運動を集中させる力学が著しく弱くなるという、複数層の非同期的な変化にある。これは局所点群の異方性/等方性を測るAnisotropy_Ratioとは別の次元である。
特に、交響曲番号とRbar_full_方向集中度の相関がr = −0.862と強いことは、ブルックナーの創作史を考えるうえで重要である。中心性との相関はr = −0.430に留まるため、後期化を中心喪失として単純化するより、原点から特定方向へ運動を集中させる力学の変容として捉える方がデータに適合する。なお、これはAnisotropy_Ratioによる局所点群形状の変化とは別の現象である。
DFTはこの解釈をさらに限定する。8楽章中6楽章でf5がDominant Modeであり、Sym.9でもf5が維持される。したがって、ブルックナーではPC集合生成原理の全面的転換よりも、持続する生成原理とその時間的・方向的作動の変容が重要である。
ここから、本稿ではブルックナーの音楽的主体を「前主体的/浸透的主体」として暫定的に特徴づける。これは、主体が音楽空間を外部から統御するというより、持続する音楽的力学の内部に浸透し、その力学とともに自己を形成する存在様式である。
このブルックナー像は、マーラーの「裂開する主体」、ペッテションの「損傷した主体」と対照をなす。三者は「調性が強い/弱い」という単純な尺度上に並ぶのではなく、生成原理、中心性、放射方向への集中、局所点群形状、時間的作動のどの層が変容するかによって異なる主体様式を示す。
その意味で、ブルックナー篇は、五度圏重心分析とPC集合DFTを単なる作曲家別特徴量分析にとどめず、交響曲的思考における音楽的主体の存在様式へ接続するための第三のケースとして位置づけられる。
11.4 ブルックナーにおける分析軸の役割分担
ここまでの結果を、ブルックナーの調性力学を読むための役割分担として整理すると、次のようになる。
この整理によって、ブルックナーの特徴は「調性が強い/弱い」という一軸的な問題ではなく、中心性、放射方向への集中、局所点群形状、滞在構造、PC集合の周期構造、そして時間的作動が異なる速度・方向で変化することとして記述できる。特に、Rbar_fullの年代的低下とf5の持続が同時に成立することが、ブルックナーの「前主体的/浸透的主体」を支える中心的な構造である。
(2026.10.16 noteにて公開)
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