1. 問題設定と方法
本稿は、19世紀後半から20世紀の交響曲作品において「音楽的主体」がいかなる存在様式として仮定されているかを、調性構造の計量分析を通じて検討するものである。ここでいう「主体」とは作曲家の心理や表現意図を指すものではなく、音楽的時間の組織、形式の成立条件、力学的進行の様態のうちに暗黙裡に前提される存在論的な位置づけとして理解される。本稿の理論的枠組みと問題設定は、別稿「交響曲的思考における音楽的主体の存在様式についての覚書」(以下、覚書)において詳細に展開されており、本稿はその計量的照合・検証・拡張として位置づけられる。理論的背景の詳細については覚書を参照されたい。
理論的参照枠として本稿が用いるのは自由エネルギー原理(FEP)であるが、それは説明理論としてではなく、主体モデルを抽象化した反照的装置として機能する。FEPが前提とするマルコフ・ブランケット(内部/外部境界)の有無、生成モデルの安定性、予測誤差最小化の様態は、音楽における主体の成立条件を照らし出す概念的枠組みとして用いられる。
FEP的主体は便宜上二型に区別できる。動物型主体(standard active inference)は明確な境界を持ち、中枢化された内部モデルによって世界を不確実性として表象し、行為によって予測誤差を低減する。植物型主体(non-strategic inference)は境界を持ちながらも環境操作を前提とせず、応答は行為ではなく形態の変化として現れ、誤差は解消されるのではなく成長様式に吸収される。この二型の区別は、後述するシベリウス的主体の位置づけにとって不可欠な補助概念として機能する。
分析対象は8名の作曲家(Haydn、Mozart、Brahms、Bruckner、Mahler、Sibelius、Shostakovich、Pettersson)の主要交響曲楽章計45点である。MIDIデータから抽出した9変数(Avg_r、Avg_Step、SD_r、Step_Rate_100、PC_Density、Tonal_Focus、Spatial_Dispersion、Harmonic_Coverage、Texture_Volatility)に対して主成分分析を行い、得られた2主成分スコアを分析の基盤とする。
PC1(調性凝集度軸) は正方向に高いAvg_r・低いステップ量・低いPC密度(古典的調性中心性)を、負方向に低いAvg_r・高いステップ量・高いPC密度(調性的分散・複雑性)を対応させる。FEP的文脈ではPC1の高さは生成モデルの予測精度と対応し、その低下は予測誤差の増大と生成モデルの再構成圧力の上昇を意味する。
PC2(空間的分散軸) は主としてSpatial_Dispersion(ローディング+0.71)と音高跳躍の大きさ・頻度(Avg_Step、Step_Rate_100、いずれも+0.34〜0.35)によって正方向が規定され、Tonal_Focus(−0.65)とHarmonic_Coverage(−0.55)によって負方向が規定される。この軸の解釈には後述するように注意が必要であり、PC2の正値は単一の原因によるものではなく、「空間的拡張」と「跳躍頻度の増大」という機制的に異なる二経路が存在する。
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| 図1:PCA散布図——作曲家別作品分布(PC1 vs. PC2)。楕円は固有値分解による主軸方向+75パーセンタイルスケーリング。★は重心。矢印は時系列順。 |
2. 参照点:古典的生成モデルとその安定形
2.1 規範的生成モデルの極:Haydn・Mozart
PC1平均値はHaydn +3.27、Mozart +3.51と全作曲家中最高値を示し、PC2はいずれも −2.64〜−2.76と突出して低い。PC2の強い負値はTonal_Focusの最大化とHarmonic_Coverageの高さを意味する。これはFEP的に「精度加重された予測誤差の最小化が最も効率的に達成された状態」として読める。古典的調性文法という階層的生成モデルが安定して機能し、予測誤差が構造化された形で処理される。両者はPCA空間において「規範的生成モデルの極点」として機能し、他の全作曲家の位置づけの参照軸を提供する。
2.2 主体が問題化されない安定形:Brahms
PC1平均 +0.66(範囲 −0.47〜+1.57)、PC2平均 +0.10。Brahmsにおいて主体は形式の内部に安定的に位置づけられており、その成立や崩壊自体が問題化されることはない。強固な形式意識、歴史的様式の内在化、動機労作の厳密な因果性は、FEP的「健全な動物型主体」として安定的に機能する状態に対応する。
4作品という標本の制約から軌跡の記述には留保が必要だが、全作品が −0.5〜+1.6 の比較的狭い範囲に収まり、生成モデルの基盤的安定性は数値的に支持される。本分析における役割は、FEP的脱構築が問題化される以前の位相の計量的参照点である——すなわち主体の「問題化されない形」の計量的指標として機能する。
3. 三項図式の計量的照合
3.1 前主体的力学系:Bruckner
PC1平均 +1.43(範囲 0.44〜2.59)、PC2平均 +0.77。後期作品(Sym7〜9)でPC2が +0.98〜+1.40 へ緩やかに上昇する。この上昇の機制を生データで確認すると、主としてSpatial_Dispersionの漸進的増大(Sym0: 0.292 → Sym7: 0.343)とTonal_Focusの低下(Sym7: 0.185 → Sym9: 0.070)によって駆動されており、Avg_Stepは47〜53程度(全体平均 47.4)に留まる。
この数値的特徴は、クルト的ブルックナー解釈——「解決を志向するシステム」ではなく「緊張を保ち続ける場」——と整合する。PC1が正値域に安定して留まりながらも、PC2のSpatial_Dispersion主導の上昇が「空間的拡張」として展開するという構造は、予測誤差の「解消」ではなく「持続的な場の維持」として機能する力学系の計量的指標として読める。
テイラーの「多孔質的自己(porous self)」——内面と外界の境界が弱く、外部的な力が通過していく場——という記述と対応する数値的特徴は、まさにPC1が比較的高い(生成モデルの基盤は保たれている)にもかかわらず、マルコフ・ブランケット的な「閉じた境界」を示す変数(高いTonal_Focus)が後期に向けて低下していくという軌跡に見出すことができる。音楽は「語る」のではなく「鳴り続ける」——この記述はPC1正値の持続とPC2のSpatial_Dispersion的拡張という組み合わせとして計量的に対応している。
3.2 裂開する動物型FEP主体:Mahler
PC1平均 +0.49、範囲 −2.27〜+3.56(幅5.83)は全作曲家中最大。この極端な散布範囲自体が、覚書が記述する「主体は明確に成立しているが、声・引用・アイロニーによって絶えず分裂し、過剰化する」というMahler的主体の不安定性を最も直接的に反映する計量的事実である。
時系列的に追うと以下の軌跡が確認できる。初期群(Sym1〜4): PC1 +1.58〜+3.56、PC2 −0.56〜+0.96。高い調性凝集度を維持しながらPC2が作品ごとに揺れる。覚書が「境界が声に外在化」された段階として記述する初期様式の、器楽的テクスチャへの着地。中期(Sym5〜7): PC1 −0.55〜+0.14、PC2 +0.50〜+1.14 へと降下・上昇。純器楽による「緩衝された自己(buffered self)」確立の試みが、PC1の漸次低下として現れる。
Sym8の数値(PC1 +0.57、PC2 −0.60) は特に注目を要する。中期の低迷から一転してPC1が正値へ回復し、PC2は全Mahler作品中最低値を示す。これは声楽・合唱という外部的アンカーによる生成モデルの一時的安定化として読めるが、Tonal_Focusへの回帰という形で現れることは、覚書が指摘する「声の再導入(但し初期とは機能が異なる)」——初期において声は境界を外在化するものだったが、Sym8では生成モデル全体の較正装置として機能する——という区別と計量的に整合する。
後期(Sym9〜10): PC1 −0.19〜−2.27、PC2 +1.24〜+1.43。調性的凝集度の失墜と音高空間の拡散が併進し、Sym10-1(PC1 −2.27)で生成モデルの最終的崩壊に至る。覚書の「後期:過剰化・破綻」という記述は、この数値的軌跡の中で最も精確に計量的支持を得る。
3.3 環境内在的・植物型主体:Sibelius
PC1平均 +0.56、範囲 −2.08〜+2.95(幅5.03)はMahlerに次ぐ広さを示すが、その軌跡の「質」が根本的に異なる。Sym3-1(PC1 +2.95)→ Sym2-1b(−0.40)という逆行、Sym6-1(+2.94)という高PC1への回帰、そしてTapiola(−2.08)への最終降下は、一方向的崩壊ではなく非線形的・非目的論的な展開を示す。これは覚書が「動機が発展せず、形式があたかも環境圧で決まるかのような独特の論理」と記述する様態と対応する。
特に注目すべきはSym6-1のPC2(−3.17)であり、これは全45作品中の最低値である。生データを確認すると、Tonal_Focus 0.321、Harmonic_Coverage 0.731に加えて、Avg_Step 32.2という値が確認できる——これは全45作品中の最低水準である。すなわちSym6-1においては、音高の跳躍が最も少なく(Avg_Step最低)、音高集合の充実度は高く保ちながら(Harmonic_Coverage高)、それを一点に収斂させる(Tonal_Focus)という三重の構造が重なっている。「大きく跳び回らない」うえに「音高空間に広く分布する」うえにさらに「調性焦点に収斂する」——この逆説的な組み合わせは、PC2が極端に負方向にあることの質的内実を精確に示している。
この数値的特異性は、Sym6第1楽章がドリア旋法を基盤とし、パレストリーナ的対位法の研究成果を反映した様式であるという音楽史的事実と対応する。音高の集合的充実度(Harmonic_Coverage)を保ちながら、跳躍を最小化し(Avg_Step最低)、一点に収斂させる(Tonal_Focus)——これは「古典的調性に回帰した」のでも「調性崩壊に向かった」のでもなく、調性体系以前の対位法的音高組織への「純化」として理解される。古典派の規範点(Haydn・MozartのPC2 −2.6〜−2.8)をさらに超える純化が企図されていると見ることもできる。
この純化がTapiolaへの最終降下の前段階として位置づけられることは、覚書が記述する「主体が誤差を解消すべき問題としてではなく、音楽的形態の変化として吸収し、持続させる」という植物型主体の様態と整合する。Sibeliusの主体はFEP的動物型主体の「量的縮小形」ではなく、戦略的行為や最適化を前提としない、構造的に異なる主体性の型である——この覚書の核心的主張は、Sym6-1の数値的特異性によって支持される。
4. 外部化された主体の計量的検討:Shostakovich
4.1 PC2正値の二経路:BrucknerとShostakovichの質的差異
Shostakovichの計量的位置づけはPC2平均 +2.80と全作曲家中突出して高い正値を示す点で際立っている。PC2の正値という表面的特徴ではBrucknerと類似するが、その機制は根本的に異なる。
PC2の正方向に寄与する変数はSpatial_Dispersion(+0.71)と音高跳躍の大きさ・頻度(Avg_Step、Step_Rate_100、各+0.34〜0.35)の二系統である。以下の数値がその差を明示する。
Brucknerのpc2上昇はSpatial_Dispersionの漸進的拡張によって駆動され、Avg_Stepは中程度に留まる。これに対してShostakovichの高PC2は音高跳躍の大きさと頻度の際立った高さによって主として規定されており、さらに決定的なのはHarmonic_Coverageの著しい低さ(0.386 vs Bruckner 0.633)である。すなわちShostakovichは「大きく飛び回るが、使用する音高集合は狭い」という逆説的な構造を持つ。Brucknerの「空間的拡張」とは機制を異にする。
4.2 「外部化された主体」の計量的痕跡と覚書の拡張的解釈
覚書はShostakovichを「形式内部で生成・変容する主体」とは異なる次元に属するものとして位置づけ、本稿の枠組みの「適用限界を示す対照例」と規定した。しかし今回の計量的分析の結果は、この規定を単純に確認するのみならず、覚書の拡張的改訂の可能性を示唆している。
音楽の表面的動作(大きな跳躍)と内的構造(使用音高の限定)の乖離は、覚書が指摘する「古い形式を『空の器』として再利用する」姿勢と計量的に対応する。形式の外皮は保持されながら、その内部を満たすべき調和的・機能的論理が希薄化されている——PC2が高いにもかかわらずHarmonic_Coverageが低いという逆説がこれを示す。
この観点から見ると、Shostakovichの主体は覚書の三項図式における「外部条件によって規定された主体」として、枠組みの内部に——傍証的にではあるが——位置づけることができる可能性がある。「形式内部の主体生成」ではなく「外部条件によって強制された形式借用」という様態が、PC2機制の質的差異として計量的な裏付けを得ているからである。ただしMIDIデータがSym9とSym10の2作品に限られる現状では、この解釈はあくまでも示唆に留まらざるをえない。標本の増加が見込める場合には、覚書の三項図式をShostakovichを含む形で拡張的に改訂することの可能性が、本分析によって開かれたと考える。
5. 損傷した主体の持続:Pettersson
PC1平均 −2.81(範囲 −5.35〜−0.07)、全作曲家中唯一、平均値が明確な負値域に位置する。Sym10(PC1 −5.04)・Sym11(−5.35)は全45作品中の最極値を占め、生成モデルの分解が最も進行した状態を示す。
時系列的軌跡——初期群(Sym6〜8): PC1 −0.07〜−0.99、PC2 +0.10〜+1.21。転換期(Sym9): PC1 −1.73、PC2 +1.17。崩壊極(Sym10〜11): PC1 −5.04〜−5.35、PC2 −1.80〜−1.88。後期群(Sym12〜16): PC1 −2.43〜−4.42、PC2 −0.06〜−0.42——は、覚書が記述する「損傷したまま持続する主体」の様態と精密に対応する。
後期群のPC2が −0.4〜0 近辺で安定している点は特に示唆的である。正方向(Spatial_Dispersion、跳躍頻度)でも負方向(Tonal_Focus)でもない「中性化」——空間的方向性の喪失——は、覚書が記述する「予測誤差の最小化が創発的展開の原理というより生存のための最低限の自己保存へと縮減されている」状態と対応する。崩壊極(Sym10〜11)のPC2が −1.8 前後という深い負値を示すことも、崩壊過程において空間的収縮が同時に進行したことを示しており、「崩壊を遅らせるための最後の防壁」としての境界機能が計量的に確認できる。
さらに後期作品群が崩壊極の数値(PC1 −5前後)には戻らず、−3〜−4台に留まるという事実は、覚書が「弁証法的運動や形式的再統合へと回収されず、慢性的な損傷と持続のうちに固定化された事例」と記述したことを計量的に支持する。Petterssonはマーラー的な弁証法的崩壊の「次」に来る位相——崩壊後の慢性的持続——を示す事例として、PCA空間上で孤立した位置を占める。
6. 総括:PCA空間における主体の存在様式の地図
以上の分析を総括すると、8名の作曲家はPCA空間上に「調性崩壊の一方向的進行」ではない複数次元からなる布置を形成する。その全体像は以下の表として示される。
本稿の中心的論点は三点に集約される。
第一に、覚書が提示した三項図式(Bruckner:多孔質的前主体、Mahler:裂開する動物型主体、Sibelius:植物型環境内在的主体)は、計量分析によって高い精度で支持される。各作曲家の数値的特徴は、それぞれの主体様態の記述と体系的に対応しており、この対応は単なる偶然の一致ではなく理論的に予測可能な構造を持つ。
第二に、BrucknerとShostakovichがいずれもPC2の正値を示しながら、その機制が根本的に異なるという計量的発見は、覚書の理論的区別の妥当性を補強する。前者はSpatial_Dispersionの緩進的拡張、後者は音高跳躍頻度の突出とHarmonic_Coverageの希薄化という異なる経路によって同様の数値を生ずる——この差異こそが「多孔質的力学系」と「外部化された主体」という存在様式の質的差異の計量的痕跡として読み得る。
第三に、Sibelius Sym6-1の三重の数値的特異性——Avg_Step最低・Harmonic_Coverage高・Tonal_Focus収斂——は、パレストリーナ的対位法への遡行という音楽史的文脈と接続することで、「弱い主体」でも「低エージェンシーの主体」でもない植物型主体の「純化戦略」として読むことができ、戦略的行為原理とは構造的に異なる主体性の型という覚書の核心的記述に数値的根拠を与える。この計量的発見は、Shostakovichに関する拡張的解釈の示唆とともに、覚書の理論的枠組みを計量的分析との往還によってさらに精緻化できる可能性を示している。
付録A:使用指標の定義
各指標は小節頭の和音をサンプリングし、鳴っているピッチクラス数3以上の和音について、12のピッチクラスを単位円上に等間隔(五度圏順に30度ずつ)に配置した五度圏へのピッチクラスセット重心として算出している。
補助指標(PCA非採用):Winding_Rate_100(五度圏上の正味回転速度)およびTerz_Ratio(三度進行比率)は算出したが、PCA入力には含めず補助的指標として扱う。
付録B:主成分負荷(PCAローディング)
PC1・PC2それぞれの正方向の意味は以下の通りである。PC1正方向:高いAvg_r・低いステップ量・低いPC_Density(古典的調性中心性)。PC2正方向:高いSpatial_Dispersion・高いAvg_Step・Step_Rate_100(広域的音高空間利用と高跳躍頻度)。PC2負方向:高いTonal_Focus・低いHarmonic_Coverage(局所的調性焦点化)。
付録C:作品別主成分得点一覧
付録D:作品別全指標計算結果


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