アラン・ペッテションの交響曲について、これまでの分析から一つの特徴的な問題が浮かび上がっていました。それは、第9番から第10番にかけて、作品の調性的・構造的な振る舞いが大きく変化しているように見えることです。最初の分析では、これを作品の時系列上に現れる相転移ないしカタストロフィーとして捉える可能性を考えました。しかし、ここには当然、一つの大きな問題があります。一つの分析指標に大きな変化が現れただけで、そこに「音楽の相転移」を認めることは妥当なのでしょうか。
今回、五度圏重心分析を拡張し、さらにピッチクラス集合のDFT分析を加えたことで、この問題に対して以前より強い答えを出せるようになりました。結論を先に言えば、第9番から第10番にかけての変化は、一つの指標だけが示した偶然的な変化ではありません。位置、運動、滞在、状態遷移、そしてピッチクラス集合の周波数構造という、異なる分析軸が、それぞれ独立にこの時期の変化を捉えています。
1.最初に見えていた「9番→10番」の変化
ペッテションの旧指標分析では、作品を制作年代順に並べると、ある時期を境に作品群の位置関係が変化することが確認されていました。特に第9番から第10番へ移るところには、それ以前の作品の延長だけでは説明しにくい変化が現れます。ここで重要なのは、「第10番から晩年の作風になった」という単純な話ではありません。むしろ、それ以前に成立していた音楽的な状態空間そのものが変化するように見えます。
これを旧指標の結果分析の際に、カタストロフィー理論の言葉を借りて考えることにしました。ここで言うカタストロフィーは、一般的な意味での「突然の破壊」という意味ではありません。ルネ・トムの「カタストロフィー理論」を念頭に、あるパラメータが少しずつ変化しているにもかかわらず、システムの状態がある点で大きく変わることを指します。つまり、連続的な変化の中に、不連続な状態変化が現れるという考え方です。
音楽の時間について適用すると、作曲家の作品が年々少しずつ変化していくのではなく、ある時期に、それまでとは異なる「音楽の成立の仕方」へ移ることがあるのではないか、ということになります。ペッテションの第9番→第10番という変化は、その候補でした。
2.新しい指標で見ると何が変わったのか
今回、新しく導入した指標では、単に「重心がどこにあるか」だけではなく、
どの方向への動きが集中しているか
どの状態に長く滞在するか
状態への回帰がどの程度起こるか
いくつの主要な状態が形成されるか
重心軌道が一点にまとまるのか、複数方向へ広がるのか
三和音的な構造への依存度
五度圏中心付近に現れるピッチクラス集合
などを調べることができるようになりました。そしてこの分析をペッテションに適用すると、興味深いことが起こったのです。旧分析で確認されていた第9番→第10番の変化が、別の指標によっても同じ時期に現れます。これは非常に重要です。もし旧指標だけが変化していたなら、「ある特定の統計量がペッテションの後期作品で変化した」としか言えません。しかし、新指標でも状態構造の変化が確認されるなら、より一般的に、音楽の時間構造そのものが変わったという解釈が可能になる可能性が高まります。
3.「どこにいるか」から「どう存在するか」へ
旧指標は主として音楽が五度圏上のどこに位置しているか、その空間をどの程度動くかを測っていました。新指標では、そこに時間的な構造が加わりました。例えば、二つの作品が平均的には同じ場所にあったとしても、
一方はその場所を通過しているだけ
もう一方はその周辺に長く滞在している
なら、両者の音楽的な状態は大きく異なります。さらに、
同じ領域に何度も戻る
複数の状態を行き来する
一つの状態へ収束する
状態そのものが分散する
といった違いもあります。ペッテションの9番→10番の変化は、この「状態のあり方」のレベルでも捉えることができます。
したがって今回見えてきたのは、「第10番は第9番より調性的に複雑だ/単純だ」というような単純な比較ではありません。より本質的には音楽が状態を形成し、維持し、変化させる仕組みそのものが変わっているということです。
4.そしてDFTが別の角度から同じ変化を捉えた
さらに今回、ピッチクラス集合をDFT(離散フーリエ変換)によって分析しました。これは五度圏上の重心とは別の発想です。重心分析では、ピッチクラス集合を「空間上の位置」として見ます。一方DFTでは、ピッチクラス集合が持つ周期的・対称的な構造を周波数成分として捉えることができます。
したがって、重心分析とDFTは同じものを別の方法で測っているわけではありません。一方は五度圏上の位置・運動・滞在構造を見ています。もう一方はピッチクラス集合そのものに含まれる周期的な構造を見ています。それにもかかわらず、ペッテションでは第9番から第10番にかけて、両者が同じ時期の変化を示すことがわかったのです。
5.「一つの指標の変化」では説明しにくい
データ分析では、一つの指標に異常値が出ることは珍しくありません。
例えば、
MIDIの入力ミス
小節境界のずれ
特定作品の特殊な編成
作品長の違い
特定の和声技法
などによって、ある指標だけが大きく動くことがあります。だからこそ、今回の結果では分析方法の独立性が重要になります。五度圏重心分析とDFTは、そもそも違う情報を抽出しています。
さらに五度圏重心分析の中でも、
位置
方向
滞在
回帰
状態数
軌道形状
という異なる側面を見ています。それらが同じ時期を指し示すなら、「何か一つの統計量が変わった」という説明だけでは不十分になります。むしろ、作品群の音楽的状態空間そのものが、この時期に再編されたという仮説の方が自然になります。
6.それでは「カタストロフィー」は本当に起きたのか
ここで最初の問いに戻りましょう。第9番から第10番にかけて、本当にカタストロフィーが起きたのでしょうか。厳密には、今回のデータだけから数学的な意味でのカタストロフィーを証明したわけではありません。これは重要な留保です。
カタストロフィー理論を厳密に適用するには、例えば制御パラメータや状態変数を明確に定義し、その分岐構造をモデル化する必要があります。今回、そこまでのモデル化を行っているわけではありません。したがって、現段階で最も正確な言い方は、
ペッテションの第9番から第10番にかけて、カタストロフィー的な状態遷移を示唆する複数の独立した特徴が確認された
ということです。「カタストロフィーが証明された」のではありません。しかし、「単なる作曲年代上の連続的な変化ではない可能性がある」という根拠は、以前よりはるかに強くなったと考えます。
7.「早すぎる晩年」というペッテション
ここから、ペッテションの作曲家像そのものが問題になります。今回の対象は第6〜第16交響曲であり、作風が確立したとされる中期から後期の作品群です。この範囲についても、単純に「初期・中期・後期」という一般的な区分だけでは、今回確認された変化を十分に捉えられません。
特に第9番から第10番にかけての変化は、通常の意味での「晩年様式」の形成というより、時間そのものの感じ方が変わったような変化として捉えた方がよい可能性があります。
これを以前の研究では、「premature lateness(早すぎる晩年)」という考え方と結びつけてきました。これは、単純に「第10番以降が老年期の音楽だから」という意味ではありません。むしろ、
作品史全体の初期に起きた変化という意味ではなく、中期から後期に至る作品群の内部で、第10番という比較的早い段階に、晩年性を思わせる時間構造が現れる
という問題です。第9番→第10番の変化を相転移として見るなら、この「早すぎる晩年」という特徴も別の角度から理解できます。
8.しかし、これは「二段階のペッテション」ではない
ここにはもう一つ注意が必要です。第9番を境に、今回の対象作品を第6〜8番の作品群/第9番以降の作品群の二つに分けてしまうと、対象が中期から後期に限られていることを見失い、今回の分析が示しているものを単純化しすぎます。
重要なのは、第9番までと第10番以降が完全に別世界になることではありません。むしろ、それまでの音楽的状態が蓄積し、その状態空間の中で変化が進み、あるところで別の組織化の仕方へ移ると考える方が適切です。
つまり、初期と後期という作風史上の二分法を立てるのではなく、一つの音楽的主体が、その存在様式を変化させたと考えることができます。
9.「壊れた主体」という比喩を超えて
ペッテションの音楽を「傷ついた主体」と呼ぶことには、一定の説明力があります。しかし、それを単なる心理的な比喩として使うだけでは、今回のデータ分析とは接続しにくい。今回の分析から考えられるのは、もっと構造的な意味での「損傷」です。
すなわち、音楽が自分自身を安定して維持するための状態構造が変化します。状態を形成しますが、しかし、その状態を以前と同じようには維持できません。そこで別の状態へ移る。その移行が、以前の構造を単純に回復するものではありません。
このような状態遷移を繰り返すとき、主体は「以前と同じ主体」として存在し続けることが難しくなります。ここでいう「傷」は、感情の内容ではなく、自己を維持するための音楽的な組織化の仕方そのものに生じた変化として考えることができます。
10.FEPから見ると何が見えてくるのか
この点で、自由エネルギー原理(FEP)との接続が生じうるように思われます。FEPをここで単なる比喩として使うのではなく、あるシステムが環境の中で自己の状態を維持するための理論的枠組みとして考えてみましょう。
通常、ある主体は環境の変化に対して、自分の内部状態を維持しようとします。しかし、環境との関係が変わったり、内部の予測・調整の仕組みが変化したりすれば、それまで安定していた状態が維持できなくなることがあります。そのとき、以前の状態から別の安定状態へ移行する可能性があります。
ペッテションの第9番→第10番の変化を、このような「推論・自己維持のレジームの変化」として考えることはできます。ここでも、「音楽がFEPを実行している」と言っているわけではありません。FEPを、主体が環境との関係の中で、どのように自己の状態を維持し、また維持できなくなったときに別の状態へ移るのかを考えるための理論的な枠組みとして使っています。
11.ペッテションは「損傷した主体」なのか
この問いに対する今回の答えは、以前より少し明確になりました。ペッテションを単純に「暗い音楽」「悲劇的な音楽」と呼ぶことでは、今回のデータが示す変化は説明できません。重要なのは、音楽の状態空間そのものが変化することです。
その意味で、ペッテションの主体を仮に「損傷した主体」と呼ぶことには一定の意味があります。ただし、それは「病んだ人間の心理が音楽に表現された」という意味ではありません。むしろ、自己を維持する音楽的システムが、状態遷移を経ながら、それでもなお自己の連続性を保とうとするという存在様式を指します。
そして、その極端な局面が、第9番から第10番にかけて現れます。
12.カタストロフィーは「終わり」ではない
もう一つ重要なのは、カタストロフィーを「破壊」と同一視しないことです。状態が変わるということは、必ずしも音楽が終わることを意味しません。むしろペッテションの場合、状態が変わった後にも作品は続いていきます。第10番が存在し、第11番が存在します。つまり、元の状態が維持できなくなった後にも、音楽的主体は別の仕方で存在し続ける。
ここに「相転移」という考え方の面白さがあります。主体が消滅するのではありません。その存在の仕方が変わります。ペッテションを単純に「後期になって壊れた」と説明するのは不十分なのです。
13.今回の分析で最も重要だったこと
ペッテションについて、今回もっとも重要なのは異なる分析方法が同じ変化を示したことにあります。五度圏重心分析は、音楽の位置と運動を見ます。新指標は、そこに滞在・回帰・状態形成という時間構造を加えます。DFTは、ピッチクラス集合の周期的構造を見ます。
これらは同じ分析ではありません。それにもかかわらず、第9番から第10番にかけての変化が複数の方法で確認されました。この一致によって初めて、ペッテションには、作品の時系列上のある地点で、音楽の組織化の仕方そのものが変わる可能性があると強く言えるようになったと考えます。
14.「音楽的主体」は、同じままではいられない
ここから、ペッテションの分析は、この連載全体の問題へ戻ってきます。音楽的主体とは、固定された「作曲家の個性」ではありません。それは、作品の中で時間を持ち、環境との関係を持ち、状態を形成し、変化していきます。ブルックナーでは、主体と環境との境界そのものが曖昧でした。ペッテションでは、主体が自分自身を維持するための組織化が大きく変化します。つまり、主体とは、最初から完成されたものではなく、音楽の時間の中で成立し続けなければならないものなのではないか。
この問いは、次のシベリウスでさらに別の形を取ります。シベリウスでは、主体は環境に対抗するのではなく、むしろ環境との相互作用の中から生成してくるように見えるからです。もしそうなら、音楽的主体は「環境から独立した自己」ではなく、環境との関係の仕方そのものとして捉え直す必要があります。
ペッテションの第9番→第10番の変化は、その関係の仕方が変わる瞬間を、データの上で捉えられる可能性を示しています。
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